注目

主への全面服従

「あなたさまは私たちを生かしてくださいました。私たちは、あなたのお恵みをいただいてパロの奴隷となりましょう。」47:25

ヨセフは支配権を得たエジプトに、父ヤコブと兄弟一族を呼び寄せ、ファラオからその中央のゴシェンの地に、住まわせる許可を求めます。

これは内的・天的なものであるヨセフが支配権を得たエジプトの下で、全ての人間を再生させようとすることを計画しています。カナンからエジプトには、この世から霊界にかけて、数多くの人間がいて、カナンの人間は、エジプトに行かなくしては滅びてしまうし、エジプトの人間だけでも、飢餓で滅びることを見通しておらたからです。カナンの教会と、エジプトの力を合流し、全人類を再生に導くことが主のご配慮であったと思われます。

なぜならこの世でだけでの再生は、簡単ではなく、霊界に移ってからも主による再生は継続しなければならないことを見通されたからです。主がこの世に来られて、ご自身を栄化され、そのあと多くの人間を再生させてゆくことが描かれているように思えます。

最初は、カナンから飢餓を逃れてきたヤコブです。ヤコブはその子と一族をエジプトにひきつれてきてやってきています。
ヤコブとその子の一族は、「羊を飼う者」としてファラオに紹介され、最良の地、ゴシェンに住むことを求め、許可されます。「羊を飼う者」とは、善に導く真理を意味します(AC6074)。

彼らの生まれは、パダン・アラムからカナンです。生まれてから古い知識を得ていますが、その知識によって再生させることは簡単ではありません。カナンから離れた地で新しい知識を求め、その知識を実行して自分のものとして再生させます。また同時にエジプトの中央で、この知識を滅ぼさず、全人類にも新しい形で残してゆかねばなりません。

しかし、真理だけでは、生命がないので、生きてゆけません。エジプトの地で、ただの知識に、善という生命を吹き込み、新しい真理とする必要があります。
天界の教えは、こう述べます。
「真理は、知識の中に善が入るまでは生命はありません。・・隣人愛は信仰・知識を活性化し、生かします(A6077)」。
そうしなければ、知識は忘れられ、消えてしまいます。彼らの知識は、大切な知識でしたが、誰もが知っているような知識と経験で、新しいものがありません。刺激がありません。刺激がない知識は、人にとっては古びた本と一緒で、再び新しくされるまで興味をひきません。記憶の中の端に追いやられてしまいます。例えば出版の努力だけでは、人類を生かす力とはなりません。これを活性させる力が必要です。

ヨセフは、ゴシェンの地に、カナンから来た一族を、ファラオに求めて、住まわそうとします。
ゴシェンの地は、天的なものであるヨセフが支配する最良の地で、内的・天的なものから流入があり、その流入を受け入れることで、霊的に再生してゆきます。

ゴシェンはエジプトの中央の地とされています。中央にあるものは、周辺にあるものより注目を浴びやすく、常に意識に入ってきます。ゴシェンの地を要求するとは、注目を浴びるポジションを要求すること、誰もが注目する時間帯に、放送枠を求めるようなものです。

記憶にある知識を中心に据え、常に注目を集めて、活性化させます。活性化して、実行することで流入を呼び起こして生命を受けます。ゴシェンにある「牧草」の善と真理に、注目を集めることで、生命の糧とします。

父である霊的善や、その真理そして、幼いこどもで意味される「無垢」を、ここで養い、滅ぼさないようにします。

「わたしは門です。だれでも、わたしを通って入るなら、救われます。また安らかに出入りし、牧草を見つけます。」(ヨハネ10:9)

主を認め、主のみから生命を求める者は、この真理から生命を得ることになります(AC6078)。み言葉から主を訪ね、主の愛を見出す者には、霊的善と真理が与えられます。
また、幼い子供で表される無垢の善の流入があれば、教会の真理は永らえます。

「彼らにエジプトの地で最も良い地、ラメセスの地を所有として与えた。またヨセフは父や兄弟たちや父の全家族、幼い子どもに至るまで、食物を与えて養った。(47:11,12)」 

次に、従来からこの地にいるエジプト人が描かれています。彼らにも次々と生命の糧である善と真理が不足し、自分の持っている様々なものを食物に替えて、生きてゆかなければなりません。
この食物は、常に与えられ続けなければ、生きてゆけません。それはこの世でも霊界でも同じことです。再生中の者にも、この主からの流入がなければ霊的生命は消えてしまい、再生を続けることができません。そのため天界の教えは、天使的天界と呼ばれる、やや高い霊界においてさえ、霊的生命を求めていることをこう表現しています。

「天使的天界においてさえ、真理と善、そしてこれらに関する知識に対する欲求があります」(AC6110-2)。

エジプト人が最初に、かき集めたものは、エジプトとカナンの地に残るすべての銀です。
銀は真理と、適用可能な知識(AC6115)を意味します。真理と知識は、一般的な全体と何らかの関連性を持たなければ、消え去ってしまいます(AC6116-2)。なんらかの関連性の元に、整理しなければなりません。そして、すべてを関連させる最大のものは、主ご自身です。

これはヨハネ福音書では、こう表現されています。
「すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。」(ヨハネ1:3)
主ご自身に対する知識と、主に対する継続した注視がなければ、すべては跡形もなく、消え去ってしまいます。知識が無数にあっても、その中心となる真理がないなら、意味がありません。

「エジプトの地とカナンの地に銀が尽きたとき」(47:15)、エジプト人がみなヨセフのところに来ます。主に対する継続した注意を抱けなくなったとき、興味が薄れてしまった時かもしれません。
愛の善そして信仰の真理が、薄れてしまった時、私たちは霊的な死を迎え始めます。
たとえ新教会であっても、愛の善と信仰の真理が薄まれば、死を迎えます。

ヨセフは言います。「あなたがたの家畜をよこしなさい。銀が尽きたのなら、家畜と引き替えに与えよう。」(47:16) そして、「ヨセフは馬、羊の群れ、牛の群れ、およびろばと引き替えに、食物を彼らに与えた。」(47:17)

馬は知性を意味します。知性は、物事が悪か善かを判断するため、主がすべての人に与えられたものです(AC6125)。 そして家畜の群れと集団は(日本語訳では羊と牛の群れと訳されています)、真理の内的・外的善を意味し(AC6126)、ロバは役立つ物を意味します(AC6127)。

これらは、流入によって霊的生命が維持されることが意味されます。流入が少なくなり、知性が保てなくなり、内外の善やこれに役立つ様々なものが減少してゆくと、たとえ霊界であろうとも、霊的生命は維持できません。

エジプトと呼ばれる自然的なものに、次々と霊的生命の減少が起こり始めます。知識と知識による流入がなくなってゆきます。霊的生命も危機を迎えます。一度肉体の生命を失った者さえ、霊的生命の「危機」を迎えることになります。
「次の年」で表される、段階では、体と畑地を除いて食料を贖うものはありません。
身体は善の受容体を、畑地は真理の受容体を意味します(AC6135)。

「食物と引き替えに私たちと私たちの農地とを買い取ってください。私たちは農地といっしょにパロの奴隷となりましょう。」(47:19)

もはや何も売るものがなくなりました。すべてを投げうって、生命の糧となる「種」を得るしかありません。

すべてを投げうつこと、これは、「全面服従」を意味します(AC6138)。
よく新興宗教、怪しげな宗教が、全面的に教祖に服従を要求し、財産も行動もすべて出せと求めますが、本当の教えは、そうではありません。
天界の生活を阻害する、自己愛・我を追い払え、目に入らないところまで、追放せよということです。

飢えたエジプト人は、自分の自由の代わりに、全面服従を申し出ます。霊的生命を絶やさないためには、他に道はなくなっています。霊界にも試練があり、その時、すべて自分のものはないことを確認するまで試練は続きます。
すべてを投げうつまで再生が許されないのは、主が植え付けられた善と真理(残りのもの)と、悪が混じらないようにするためです(AC6156)。

「自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世でそのいのちを憎む者はそれを保って永遠のいのちに至るのです。」(ヨハネ12:25)
ヨハネ福音書の上掲の句で意味される、生命をかける選択の時がやってきました。
試練の最終段階では、自分のものすべてをあきらめ、主に屈服するしかありません。この全面服従に至らない限り、生命は得られません。試練の最後に起こる全面服従です。自我を片すみに追いやり、天界の我を得ます。
ただしこれはこの世ではなく、おもに来世で再生中のものに対して起こります。そのためこの試練にある人をこの世で目撃することは、稀です。

ヨセフは民を、エジプトの領土の端から端まで町々に移動させます(47:21)が、祭司たちの土地は買い取りません。
一般のエジプト人とは異なり、「祭司たちには、ファラオからの給与があり、ファラオが与える給与によって生活していたからである。そのため、自分たちの土地を売」(47:22) りません、とされています。

祭司は特別の存在であるから、土地を売らなくてもよいのでしょうか?
み言葉では、王が主の神的真理を意味し、祭司は主の神的善を意味しています。
そのため、祭司が土地を売らないでよいとは、自分で善を獲得していることを意味します。
しかし、実はそうではありません。人が自分の力で善を獲得することなどないからです。天界の教えはつぎのように警告しています。

「誰も教会の善、愛の善と思いやりの善を自分のものとしてはならない、なぜならそれは主おひとりのものであるから」(AC6148-11)

これを表すため、ヨセフは祭司たちの土地を買い取りませんでした。それは祭司たちのものではなく、彼らは雇人にしかすぎないからです。

以上の過程を経ることで、エジプト人が、自分のものと思っていたものすべてが、そうではないことが明らかにされます。エジプトの全土は、身と心に至るまで、ヨセフ、天的なものの支配下に入り、自然的なものと、天的なものとの結合が進みます。この試練は、地上の生命の元で進まなければ、必ず霊界で行われます。私たちの「我」が斥けられ、天界的我が植え付けるまで行われます。エジプトの民はヨセフにこう感謝します。

「あなたさまは私たちを生かしてくださいました。私たちは、あなたのお恵みをいただいてパロの奴隷となりましょう。」47:25 アーメン

【新改訳2017】
創世記
47:13 飢饉が非常に激しかったので、全地で食物がなくなり、エジプトの地もカナンの地も飢饉によって衰え果てた。
47:14 ヨセフは、エジプトの地とカナンの地にあった銀をすべて集めた。それは人々が穀物に対して払ったものである。ヨセフはその銀をファラオの家に納めた。
47:15 エジプトの地とカナンの地に銀が尽きたとき、エジプト人はみなヨセフのところに来て言った。「私たちに食物を下さい。銀が尽きたからといって、どうして私たちがあなた様の前で死んでよいでしょうか。」
47:16 ヨセフは言った。「おまえたちの家畜を差し出しなさい。銀が尽きたのなら、家畜と引き替えに与えよう。」
47:17 人々がヨセフのところに家畜を引いて来たので、ヨセフは、馬、羊の群れ、牛の群れ、ろばと引き替えに、彼らに食物を与えた。こうして彼はその年、すべての家畜と引き替えに、彼らに食物を分け与えた。
47:18 やがてその年も終わり、次の年にも人々はヨセフのところに来て言った。「私たちはあなた様に何も隠しません。銀も尽き、家畜の群れもあなた様のものになったので、自分のからだと土地のほかには、あなた様の前に何も残っておりません。
47:19 どうして私たちが、土地と一緒にあなた様の前で死んでよいでしょうか。食物と引き替えに、私たちと私たちの土地を買い取ってください。私たちは土地と一緒にファラオの奴隷となります。どうか種を下さい。そうすれば私たちは生き延び、死なずにすみます。土地も荒れないでしょう。」
47:20 それでヨセフは、エジプトのすべての土地をファラオのために買い取った。エジプト人に飢饉が厳しかったので、人々がみな、自分の畑地を売ったからである。こうしてその土地は、ファラオのものとなった。
47:21 また民については、エジプトの領土の端から端に至るどこででも、彼らを町々に移動させた。
47:22 しかし、祭司たちの土地だけは買い取らなかった。祭司たちにはファラオからの給与があり、ファラオが与える給与によって生活していたからである。そのため、自分たちの土地を売らなかった。
47:23 ヨセフは民に言った。「見よ。私は今、おまえたちとおまえたちの土地を買い取って、ファラオのものとした。さあ、ここに、おまえたちのための種がある。これをその土地に蒔きなさい。
47:24 収穫の時になったら、その五分の一はファラオに納め、五分の四は自分のものとしなさい。畑の種にするため、自分の食糧にするため、家の者のため、また扶養すべき者たちの食糧のために、そうしなさい。」
47:25 すると彼らは言った。「あなた様は私たちを生かしてくださいました。私たちは、あなた様のご好意を受けて、ファラオの奴隷となりましょう。」
47:26 ヨセフは、エジプトの土地について、五分の一はファラオのものとしなければならないという、一つの掟を定めた。それは今日にまで及んでいる。ただし、祭司の土地だけはファラオのものとならなかった。

ヨハネ福音書
10:9 わたしは門です。だれでも、わたしを通って入るなら、救われます。また安らかに出入りし、牧草を見つけます。

12:25 自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世でそのいのちを憎む者はそれを保って永遠のいのちに至るのです。
12:26 わたしに仕えるというのなら、その人はわたしについて来なさい。わたしがいる所に、わたしに仕える者もいるべきです。もしわたしに仕えるなら、父はその人に報いてくださいます。

天界の秘義6109.
「ききんが非常に激しかったので、全地に食物がなく」とは、善がもはや見えなかった、を意味します。
これは食糧の意味が6106で扱われているように、愛と思いやりの善であることから明らかです。
そして、全地にない、の意味が、もはや見えないことから明らかです。
以下に続く主題は、内的で天的なものが、一般全体のもとで自然的なものすべての内に、秩序をもたらしてゆくかを描いています。すなわち、単なる知識を教会の真理に結び、それら真理を通して霊的善に結び、そしてこの善を通して内的な天的なものに結び、目的を達成します。
しかし、単なる知識に、一般全体のもとで秩序をもたらすには、善が荒廃し、真理がなくなる段階を経て、そして養育の段階を経なければなりません。この前後の段階が、これから続く内的意味で扱われています。これらのことはこの世で生きている間は、多くの理由で稀にしか起こりません。しかし、他生では、再生中の者に起こります。この世では起こらないため、それまで誰も聞いたことがない深淵な秘密として、それらが現れたとしても、驚くべきことではありません。

イナゴと闇


【主】はモーセに仰せられた。「パロのところに行け。わたしは彼とその家臣たちを強情にした。それは、わたしがわたしのこれらのしるしを彼らの中に、行うためであ」る(出エ10:1)

現代でも、侵略と偽情報による国民の支配という状況が起こり、その国の宗教指導者も支援します。
これが進めば、偽りが霊的教会を支配する可能性が強くなります。霊的なものを自由に考え、自由から行うという価値を奪い、事実を隠し、恐怖で支配します。しかし有史以来の歴史を紐解けば、為政者の都合、宗教的権威者の都合で真実を変え、覆い隠す事例は少なくありません。中世のキリスト教国による支配や、新興宗教の勃興など、国や時を問わず見られ、今にはじまったことではありません。

何が偽りで、何が真理であるか、いつの時代も、宗教的真理については、私たちそれぞれが、その愛と能力に応じて問われ続け判断してゆくことになります。古代に説かれた聖書も、その内意を知り、現実に適用しなければ、全く縁もゆかりもない国と民族の伝説に終わってしまいます。自己愛の強い民族は、聖書に自分の栄光しか読み取れません。

聖書が聖なる書、神の言葉としての価値を持つには、神からのメッセージ、神の言葉であると受け入れなければなりません。次に、それを主からの啓示による相応の知識によって、霊的意義を読み取らなければなりません。そして、自分たちの現実に当てはめ、活用して生命としなければなりません。そうすれば、聖書のどの部分であれ、そこに神的なものを感じ取ることができます。それを真理として受け入れ、相応の知識によって、生きる指針に変換するなら、それは信仰と呼ばれます。参考となる資料や読み物、哲学として考えるなら、それは信仰を産まず、雑談のネタで終わってしまいます。雑談のネタにしかならなければ、それは暗闇と同じです。

神的なものは時空、時と場所を超えて存在します。ある国のある地方、ある集団だけに適用可能な考えや事象は、神的なものとはいえません。その偽りは、内容に応じて、次善の策、次善以降の代替策として、神の許しによって存在するだけです。自分の生命としないなら、すぐに消えて闇となってしまいます。自分の生き方と比較して、何も照らし出ません。

出エジプト記の文字上の表現、主が、モーセとアロンに命じて、エジプトに与えた十一もの厄災は、イスラエルの民を奴隷として、解放しようとしないエジプトへの罰と理解されています。
しかし天地の神である主イエスを、愛によって理解しようと努めれば、可能な限り人と霊を救おうとしている姿が見えてきます。人や霊は常に、地獄を選んで、自ら地獄に行こうとする性向と遺伝をもって生まれついています。他方で、主なる神は、常にそれを救おうとされています。

エジプトで行われた禍は、私たちの負の段階の指標、神様から見てどのレベルにいるのかを表します。私たちは何かの奴隷になっていることを教え、それがどの段階であるかを教え、可能な限り地獄から引き戻し天界へと引き上げようとされます。これが主の御心であり、宗教の本来の役目です。人と主のつながりを戻すことが、宗教の語源です。

出エジプト記の前章、第九章では、疫病、腫物、雹・炎の災いが起こされました。偽りは、十章ではさらに悪い段階に進みます。前章では、霊的状態を天使たちに知らせるために、モーセとアロンは、かまどのすすを取り、天にまき散らすことを命じられ(9:10)ました。天使たちには、それを見て、その人が悪の火で燃えていることを知ります。しかし、当の本人はまだ自分が悪にいることに気づきません。冷たい真理となってしまった雹と、欲念を表す火は、畑の作物で意味される教会の善と真理を滅ぼします。しかし、主が私たちがいつか再生するために隠し、備えられた新教会の用語でいう「残りのもの」は滅ばずに残っています。
「しかし小麦とスペルト小麦は打ち倒されなかった。これらは実るのを隠されていたからである(9:32)」

人と霊がさらに悪い段階に進むと、第九と第十の厄災が起こると警告されます。いなごと、闇です。
それはファラオの心が頑なになっていたからと表現されます。これは文字通りの解釈、主がファラオの心を強情にしたからではありません。前章では、天使に明らかになりましたが、人と霊は、自分の偽りと悪を認めようとしないため、頑なになる性向を持っています。そして、真理と善の知覚を持たなず、地獄の近くにいる者は、自分を正当化さえしようとします。(AC7680参照)内意は、この状態を描いています。エジプト王ファラオとは、洗脳する者であると同時に、洗脳されてしまった私たち自身です。洗脳が進めば、自分が被害者なのか、加害者なのかさえわからなくなります。

人は改良・改善されるためには、少なくとも自分が悪と偽りにいることを知らなければなりません。自分が真理と善の内にいると信じていても、それは自分だけの真理と善であり、隣人にとっては悪と偽りであるかもしれません。自分のいる状態を、自分ではなく、神や隣人の立場から見ることが第一歩です。

「それは、わたしがわたしのこれらのしるしを彼らの中に、行うためであり、・・・・わたしが彼らの中で行ったしるしを、あなたが息子や孫に語って聞かせるためであり、わたしが【主】であることを、あなたがたが知るためである。」(10:1,2)

自分が悪と偽りの中にあるのを自覚させるため、主は「彼らの中でしるしを」行います。しるしに続いて、自分が悪と偽りの中にいる原因を教えられます。
『いつまでわたしの前に身を低くすることを拒むのか。』とは、私たちがあえて謙虚さを拒んでいることを教えます。

謙虚とは、自分自身が悪そのものであることを認め、神的な善と無限に比べれば、自分は何もないに等しい、この二つを認めることです(AC7640)。
自分は素晴らしい、よくやれている、と考えているなら、この二つを認めることができません。実は私たちは、自己愛であふれる傾向をもって生まれているからです。
何らかの術や才能や働きで、自分を人より優れていると考え、他人に仕えることではなく、名誉を望むのであれば、それは卓越と名誉という利得を求め働いていることになります。
そして自分が悪にいることを知らず、頑なな態度を改めないなら、
「雹の害を免れて、あなたがたに残されているものを食い尽くし、野に生えているあなたがたの木をみな食い尽くす」(10:5)ことになります。イナゴがやってきて作物を無くしてしまう、という警告が実現します。

イナゴの内的意味は、究極的な偽りです(AC7643)。
人が主からすべての善が来ないと考えるなら、それは自分の善と真理を顧みて、功績を誇ることになります。そこから、
あらゆるものを支配し、人に属するものをすべて所有したいという欲望が生まれ、自分自身に好意を示さない者を軽蔑し、嫌悪し、復讐し、残虐さが生まれます。そして信仰と仁愛に関するすべてを軽蔑し、主から背きます。(同上)
自分を振り返り、自分の善と真理を受け入れようとしない者を、軽蔑し、嫌悪し、復讐し、残虐に扱っていないか、考えます。
もし、自分に力があると考えているなら、唯一の救い主である、神である主を認めることができません。頑なに自分の力を求めます。もっと自分に力があれば、全ては良くなるはずだとしか考えます。

偽りにいる者は、自分を正当化しようとします。しかし、偽りであっても、主はそれを真っ向から否定されません。全否定されません。少しでも善い方向に撓められます。各地・各国固有の宗教が生まれ、特有の霊性があるような気になるのは、そのためです。しかしそれは、妄想にしかすぎません (AC6780)。真理を真理とし、偽りを偽りとする知覚は、天地唯一の神を源として考えなければ得ることはできません。善と真理の源は、主お一人であるからです。

モーセは東風を吹かせて、イナゴを呼びます。
【主】は終日終夜その地の上に東風を吹かせた。朝になると東風がいなごの大群を運んで来た。(10:13)
「地の草木も、雹を免れた木の実も、ことごとく食い尽くした。エジプト全土にわたって、緑色は木にも野の草にも少しも残らなかった。」(10:15)
東風は破壊の手段を意味します。本来、「東」は愛と仁愛の善を意味します。しかし地獄の住人にとっては、辛辣で厳しい罰と感じます。神的善が地獄に流入すると、地獄の住人には耐えられないほどの苦しみとなります。そして顔を背けようとします。
主から顔を背け、神的流入を拒むなら、主が蓄えた残りのものは、すべて無駄になり、再生の役に立たなくなります。慈悲による「撓め」さえ受け入れなければ、教会の善と真理は、すべて無駄となって失われてしまいます。すると自分に隠れている悪が顔を見せ始めます。

その偽りはこの世にいる限り、自分の奥深く隠れていますが、来世では知っていた信仰の真理の荒廃に会うと、深く隠れている偽りが表れ、自らを明かします。(AC7689)

しかしまだ究極的な偽りに囚われていますが、究極的な悪ではありません。究極的な悪は、詩編では、毛虫によって表されます (AC7643-4)。
ファラオはイナゴを主に去らせるよう、モーセに請い願います。しかし、緑色は少しも残っていません。緑色は真理に関する感受性を意味します(AC7691)。真理への感受性は失われてしまいます。

イナゴによってわずかに残っていたもの、真理に対する感受性さえなくなってしまします。
なぜなら他生では入った悪と偽りのそれぞれの状態によって、その悪はその状態に属するすべてある地獄と結ばれます。完全に荒廃する前に、連続して多くの地獄と結合されてゆきます。(AC7704)

偽りと悪は結びついているため、自分だけを見続けると、偽りがすべてを覆い始め、悪がやってきて、第十の禍が起こります。
モーセが天に向けて手を差し伸ばしたとき、エジプト全土は三日間真っ暗やみとなった。(10:22)
闇はみ言葉では偽りについて言われますが、「真っ暗闇」は悪についても言われます(AC7711)。
偽りによって悪が見えなくなると、自分の悪も見えないと思い、悪を自由に行います。

悪を行うにつれ、地獄との結びつきは強くなってゆきます。
地獄にいる者は悪から起こる偽りに浸されるほど、真理を嫌がります。そして嫌がるほど、真であることを聞くことさえ拒みます。(AC7738)
人はますます頑なになってゆき、神的真理であるモーセの顔さえ、見たくないと嫌うようになります。
自分の力で行っていることは、悪と偽りであり、自分の力で行っていると考えるなら、次第に神を嫌い、本当の善と真理から目を背け、自分が善と思い、真理と考えることしか、目を向けなくなります。これは単に高齢、のための思い込みだけではありません。分離の時が近づいてきたしるしです。

本人があえて救いを拒み、それを受け入れようとしないなら、本人の愛を受け入れないことになります。それは、すべてを慈しむ主の御心ではありません。また拒む者たちを別の集団として、隔離しなければ、ともにいる善い心根が残っている者も悩まされ続けます。分離は神の永遠の裁きではなく、善と悪を分ける時が近づいたしるしです。

モーセが表す神的真理は、何度も行ってきた警告を、今後はあきらめ、神的真理による苦悩を与えないことを伝えます。
「結構です。私はもう二度とあなたの顔を見ません。」(10:29)

アーメン。


出エジプト記
10:1 【主】はモーセに仰せられた。「パロのところに行け。わたしは彼とその家臣たちを強情にした。それは、わたしがわたしのこれらのしるしを彼らの中に、行うためであり、
10:2 わたしがエジプトに対して力を働かせたあのことを、また、わたしが彼らの中で行ったしるしを、あなたが息子や孫に語って聞かせるためであり、わたしが【主】であることを、あなたがたが知るためである。」
10:3 モーセとアロンはパロのところに行って、彼に言った。「ヘブル人の神、【主】はこう仰せられます。『いつまでわたしの前に身を低くすることを拒むのか。わたしの民を行かせ、彼らをわたしに仕えさせよ。
10:4 もし、あなたが、わたしの民を行かせることを拒むなら、見よ、わたしはあす、いなごをあなたの領土に送る。
10:5 いなごが地の面をおおい、地は見えなくなる。また、雹の害を免れて、あなたがたに残されているものを食い尽くし、野に生えているあなたがたの木をみな食い尽くす。
10:6 またあなたの家とすべての家臣の家、および全エジプトの家に満ちる。このようなことは、あなたの先祖たちも、そのまた先祖たちも、彼らが地上にあった日からきょうに至るまで、かつて見たことのないものであろう。』」こうして彼は身を返してパロのもとを去った。
10:7 家臣たちはパロに言った。「いつまでこの者は私たちを陥れるのですか。この男たちを行かせ、彼らの神、【主】に仕えさせてください。エジプトが滅びるのが、まだおわかりにならないのですか。」
10:8 モーセとアロンはパロのところに連れ戻された。パロは彼らに言った。「行け。おまえたちの神、【主】に仕えよ。だが、いったいだれが行くのか。」
・・
10:12 【主】はモーセに仰せられた。「あなたの手をエジプトの地の上に差し伸ばせ。いなごの大群がエジプトの地を襲い、その国のあらゆる草木、雹の残したすべてのものを食い尽くすようにせよ。」
10:13 モーセはエジプトの地の上に杖を差し伸ばした。【主】は終日終夜その地の上に東風を吹かせた。朝になると東風がいなごの大群を運んで来た。
10:14 いなごの大群はエジプト全土を襲い、エジプト全域にとどまった。実におびただしく、こんないなごの大群は、前にもなかったし、このあとにもないであろう。
10:15 それらは全地の面をおおったので、地は暗くなった。それらは、地の草木も、雹を免れた木の実も、ことごとく食い尽くした。エジプト全土にわたって、緑色は木にも野の草にも少しも残らなかった。
10:16 パロは急いでモーセとアロンを呼び出して言った。「私は、おまえたちの神、【主】とおまえたちに対して罪を犯した。
10:17 どうか今、もう一度だけ、私の罪を赦してくれ。おまえたちの神、【主】に願って、主が私から、ただこの死を取り除くようにしてくれ。」
10:18 彼はパロのところから出て、【主】に祈った。
10:19 すると、【主】はきわめて強い西の風に変えられた。風はいなごを吹き上げ、葦の海に追いやった。エジプト全域に、一匹のいなごも残らなかった。
10:20 しかし【主】がパロの心をかたくなにされたので、彼はイスラエル人を行かせなかった。


黙示録
9:3 その煙の中から、いなごが地上に出て来た。彼らには、地のさそりの持つような力が与えられた。
9:4 そして彼らは、地の草やすべての青草や、すべての木には害を加えないで、ただ、額に神の印を押されていない人間にだけ害を加えるように言い渡された。
9:5 しかし、人間を殺すことは許されず、ただ五か月の間苦しめることだけが許された。その与えた苦痛は、さそりが人を刺したときのような苦痛であった。

天界の秘義7680(部分)
地獄にいる者は、自分の悪と偽りを正当化することが可能ですが、それは知覚ではありません。知覚は真理を真であり、善を善とし、悪は悪、偽りは偽りとみることです。しかし真理を偽りと見、善を悪とすること、その逆は知覚ではありません。知覚ではなく、妄想です。妄想は知覚のように見え、その中にいる人は感覚や悪の願望に助力する思考類によって悪と偽りを正当化します。

新しい皮袋

 『あなたの罪は赦された』と言うのと、『起きて歩け』と言うのと、どちらがやさしいか。ルカ5:23

主は荒野で試練に遭われた後、ご自分の故郷で教えを始めますが、受け入れられず、殺されようとさえされます。主を通常の人と考える、認識が、いかに危険なものであるか、そしてこれを吹き込むため、悪霊があの手この手で、惑わしにやってくることを教えられています。主が天地の創造主であり、人となって私たちの目の前に現れたことを深く認識することが、主への最も大切な認識です。知的にも、霊的にも、これを受け入れる努力を続けてゆくことが大切です。

ルカ福音書第五章は、舟による弟子たちの召命、らい病者、中風病人の清め、取税人との食事、そして花婿の断食・新しい皮袋の教え、とテーマが続きます。
み言葉を深く考察してゆくなら、これらは、一つのテーマとしてまとまりを持ち、主の神的な姿をより深く認識しなければならないことに気づきます。

背景はガリラヤ湖です。ここではゲネサレ湖と呼ばれています。二艘の小舟がつながれています。その内一艘はシモンの舟で、夜通し漁をしましたが、何ひとつ取れませんでした。主はその舟に乗りこまれ、船から教えを説かれます。

み言葉の内意では、「舟」はみ言葉からの教義を意味します。(AE514:20)
「シモン」は夜通し漁をしても何も取れません。しかし、主イエスがお乗りになって教えを説かれると、二艘とも魚で一杯になりました。これは、そこに主がいらっしゃらなければ、教義をどれだけ学んでも、何も得るものがないことを意味します。一生懸命網を洗って、準備しても、魚は捕れません。主は教えられます。「深みに漕ぎ出して、網をおろして魚をとりなさい」(5:4)を実行します。

天界の教えをいくら表面的に学んでも、それを現実に役に立てるには、主の導きがなければ何も得ることがありません。話だけを聞いても、得ることは多くはありません。「シモン」という名は、「聞く」を意味しますが、聞くだけでは、好奇心を満足させると、何も効果が表れず、すぐに飽きてしまいます。

自分のやり方を通すだけでは、いくら網を洗おうとも、効果がないと気づかねばなりません。そして謙虚になって主から生き方を学ぼうとします。主の命令に従って「深みに漕ぎ出します」。これは、現実の深みに進んで、その教えを適用するという姿勢です。実行してみようという心構えです。この気持ちがあれば、得る真理は、網が破れるほどになります。そして知的なものと、情愛の両方を満足して、二艘の舟は生きた真理であふれかえります。文字だけの記憶知ではなく、役立つ真理です。

「夜通し働きましたが、何一つとれませんでした。」(5:5)と、自分の力だけを信じて、暗闇の中、一生懸命働いていましたが、主の神的存在に気づいたシモンは、自分を深く卑下します。
「私のような者から離れてください。私は、罪深い人間ですから」と言います。自分は罪深い存在である、主は本当に神的な方であるという深い卑下が、人をよみがえらせます。(AR56)

しかし、「聞く」を意味するシモンだけでは、網を引き上げることができません。「別の舟にいた仲間の者たちに合図をして、助けに来てくれるように頼む」ことが大切です。「シモンの仲間であったゼベダイの子ヤコブやヨハネも同じ」く、主に従わなければなりません。
シモン・ペテロは主の信仰を、ヤコブは思慮深さ、そしてヨハネは思慮深い行いを意味します(HH526)。

主に聞くだけでは足りません。それは聞くだけで終わる信仰です。深い思慮と、それを元にした働きがなければ、真理を得て、役立ちに変えることはできません。
彼らは、舟を陸に着けると、何もかも捨てて、イエスに従った。(5:11)
「何もかも」とあるように、弟子達は、彼らの生業の元となる舟も網も捨てて、主に従いました。
魚が全く捕れない舟や網、真理を得ることのできない教義を捨てて、主に従います。
そして主の神的存在に気づき、深い卑下によって、真理を得て、「これから後、あなたは人間をとる」(5:10)、人間すなわち善を得ることができます。

主は、その後ガリラヤの町々で、らい病や中風の病人を癒し、取税人を導き共に食事をします。
最初にらい病の患者に会います。らい病は皮膚の感染病ですが、霊的な「らい病」は、偽りによって汚されてしまうことです。らい病は、表面の皮膚を醜く変えます。偽りによって欺かれると、霊的な善い行いはできなくなります。
主を見た、霊的らい病患者は、ひれ伏してお願いします。主の神的存在を、主の過去の行いから知っていました。
「主よ。お心一つで、私をきよくしていただけます。」(5:12)

主への信頼と卑下が病人を救います。イエスは手を伸ばして、彼にさわり、「わたしの心だ。きよくなれ」と言われた。(5:13)
ここで病人は、主が伸ばされた手に触れて癒されます。しかし、私たちが実際は主に出会って、肉体が触れて、癒されることはありません。神は霊であるからです。霊的な接触を考えるしかありません。霊的な接触とは何でしょうか?天界の教えに尋ねます。

「人のにおける主の存在は、添え触れることよって起こります。接触による結びつきです。これは人が主を愛するほど近く完全になってゆきます、すなわち、主の命令を行うことです(AR55)。」

主とより近くなり、結ばれるためには、主の戒めを忠実に守り、行うことでしか可能となりません。主の存在を感じたいなら、天地の神である主が、戒めを命じておられ、その主の命令を、主が語られたこととして忠実に守ることです。霊の世界では、認識によって霊が近くに現れます。教会の教義がいうからではなく、天地唯一の神である方が命じられたから、従います。
するとらい病人を汚していた偽りはたちまち消え、癒されます。それぞれの教会の教えや、法律がいうからではなく、天地の神である主がおっしゃるから従います。この気づきが新しい生命を産みます。

そして「モーセが命じたように、あなたのきよめの供え物をしなさい。」(5:14)と、感謝を捧げます。感謝は、偽りを消す力、人を癒す力が、主から来ていることを認め、行いで確認することです。確認して生命のものとします。

その後、主は中風の病人を癒されます。中風は、脳血管の障害により脳の機能が失われる病気です 。脳梗塞などの 血管の障害は、血管がつまったり、破れたりして起こります。 脳の機能が一時的にでも失われると、手足の麻痺や言語障害、視野・視力の障害などさまざまな症状がでます。
では、霊的な中風とは何でしょうか?霊的な中風は、意志による自由な選択ができなくなる時です。心がなんらかの原因で衰弱して、弱り、鬱状態となり、自由に動けなくなる霊的病です。

中風になったこれらの病人は、自分の意志で動けなくなります。そのため、ルカ書の中風の病人は、男たちによって運ばれますが、大勢の人がいて主に近づけません。男たちは屋上から屋根の瓦を剥がし、寝床を主イエスの前につり下ろします。(5:19)

寝床は教義を意味します(AE163)。屋上は人の最高の状態、すなわち善を意味します(AC2454)。別のみ言葉では屋上にいる者は家の中の物を持ち出そうとして下に降りてはならない(マタイ24:17)と警告されています。すでに善の状態にいるからです。しかし、衰弱して鬱の状態にいる者は、判断する力が失われています。友人たちは病人を下ろすため、瓦を剥がします。

預言者エゼキエルの目の前に置かれたエルサレムの町が彫られた粘土板は、悪からの偽りを意味します(AE 805:5)。イスラエルの教義が偽りとなっていることに気づかせるためでした。同じように、病人を下ろすために剥がした瓦は、善を遠ざけてしまう偽りを意味します。偽りを一枚一枚剥がして、病人を主の前に下ろします。すると主が前に現れます。すると、主は「友よ。あなたの罪は赦されました」(5:20)とおっしゃいます。

これは、「人の子、主が地上で罪を赦す権威を持っていることを、あなたがたに悟らせるため」でした。中風の人に、「あなたに命じる。起きなさい。寝床をたたんで、家に帰りなさい」と(5:24)おっしゃいます。
寝床をたたむ、あるいは別の訳で、「担ぎ上げる」とは、「一つ一つ教えに取り組み、日々行いなさい」と聞こえます。
み言葉から真理を学び、その真理に応じて生きてゆくことが正しい救いの信仰です。(AE815-4)
学んだ真理に従って生きることが正しい信仰ですが、天界の教えは、その信仰に従った生活をした分だけ、私たちは赦され(NJHD165)ることを教えます。

『あなたの罪は赦された』と言うのと、『起きて歩け』と言うのと、どちらがやさしいか、(5:23)と主は問われます。
偽りを取り除き、起きて、歩いた分だけ、罪は赦されることになります。主のみが、罪を赦す権威をお持ちです。行ってしまった罪は自分の眼からそれて周辺に行くだけで、罪は離れません。罪となる行為を拒むことと、主が罪を赦されたことを認識して、感謝することが、真の罪の赦しです。中風の病人は、主の行いに驚き、感謝します。そして神をあがめながら自分の家に帰ってゆきます。彼は新しい気づきと、認識によって生きてゆきます。

その後、主はレビという名の取税人を導かれます。
当時の取税人は、ローマ帝国のために税を取り立てる、独立した生計を持つ徴税請負人で、自分の生活資金もそこに加えられていたため、恣意的になりかつローマの権威をたてにして、住民から嫌われていました。主に声を掛けられた取税人のレビは、「何もかも捨て、立ち上がってイエスに従」(5:28)い、自分の家でイエスのために大きな宴会を催します。主に出会い、過去のいきさつや悪い行いを捨てて、新しい生活を行うことは大切ですが、自分が人から盗もうとした罪は消えません。自分の生命にある悪は一挙には消えません。

その大宴会の中に、パリサイ人やその派の律法学者たちも、ふるまいに与ったはずですが、彼らは「取税人や罪人どもといっしょに飲み食いするのですか。」(5:30)と不満をこぼします。取税人だけではなく、自分たちも罪人であることに気が付きいていないのです。

「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招いて、悔い改めさせるために来たのです。」(5:31,32)
パリサイ人たちが、他人を非難する、自分の罪に気づいたどうかは記されていません。
病人たちの癒しを含めて、主は罪人を悔い改めさすために、この世に来られました。
自分の力で真理が取れると考えたシモンたち、偽りを自分で除ききれないらい病人、自分では何もすることができなくなっている中風の病人、そして人から盗んでいた、あるいは人を非難し、自分だけは正しいと考えている罪人たちです。

罪を取り除くためには、まず自分の行っていることが罪であることを認めなければなりません。
自分は祈って、自分なりに正しい生活をしている、だから赦されているはずだ、と考えるのは誤りです。
個々、具体的に自分の罪を認めたうえで、主に助けを求めて祈ります。そして、主からいただく新しい生命によって、新しい生命を自分のものしなければなりません。その新しい生命とは、主の戒めに従った状態の生命です。

「古いものは良い」と考え、新しいぶどう酒を求めない(5:39)なら、人は自分の犯している罪に気づけません。
そして古い生命のままでは、新しい生命を得て、それを維持することはできません。
自分の行いへの気づきを得るべく、常に新しいぶどう酒と新しい皮袋を求めます。この新しい新鮮な気づきが、私たちに新しい生命を与えます。
「新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れなければなりません。」(5:38) アーメン

エゼキエル書
4:1 人の子よ。一枚の粘土板を取り、それをあなたの前に置き、その上にエルサレムの町を彫りつけよ。
4:2 それから、それを包囲し、それに向かって塁を築き、塹壕を掘り、陣営を設け、その回りに城壁くずしを配置せよ。
4:3 また、一枚の鉄の平なべを取り、それをあなたと町との間に鉄の壁として立て、あなたの顔をしっかりとこの町に向けよ。この町を包囲し、これを攻め囲め。これがイスラエルの家のしるしだ。
4:4 あなたは左わきを下にして横たわり、イスラエルの家の咎を自分の身の上に置け。あなたがそこに横たわっている日数だけ彼らの咎を負え。
4:5 わたしは彼らの咎の年数を日数にして三百九十日とする。その間、あなたはイスラエルの家の咎を負わなければならない。
4:6 あなたがその日数を終えたら、次にまた、あなたの右わきを下にして横たわり、ユダの家の咎を四十日間、負わなければならない。わたしは、あなたのために一年に対して一日とした。
4:7 それから、あなたは顔を、包囲されているエルサレムのほうにしっかりと向け、腕をまくり、これに向かって預言せよ。
4:8 見よ。わたしはあなたになわをかけ、あなたの包囲の期間が終わるまで寝返りができないようにする。

ルカ福音書
5:36 イエスはまた一つのたとえを彼らに話された。「だれも、新しい着物から布切れを引き裂いて、古い着物に継ぎをするようなことはしません。そんなことをすれば、その新しい着物を裂くことになるし、また新しいのを引き裂いた継ぎ切れも、古い物には合わないのです。
5:37 また、だれも新しいぶどう酒を古い皮袋に入れるようなことはしません。そんなことをすれば、新しいぶどう酒は皮袋を張り裂き、ぶどう酒は流れ出て、皮袋もだめになってしまいます。
5:38 新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れなければなりません。
5:39 また、だれでも古いぶどう酒を飲んでから、新しい物を望みはしません。『古い物は良い』と言うのです。」

新しいエルサレムの天界の教え165.
口先だけの悔い改めは、生命のためのものではなく、悔い改めではありません。罪は口頭での悔い改めではなくならず、生命の上で悔い改めなければなりません。罪は常に主から赦されています、なぜなら主は慈しみそのものであるからです。しかし罪はいかに赦されたと思っても、人にまとわりつきます。そして真の信仰の戒めによる生命とならなければ取り除かれません。それらによって生きてゆくに応じて、罪は取り除かれます。そして罪が取り除かれるの応じて、罪は赦されます。

聖霊

わたしが父のもとから遣わす助け主、すなわち、父から出る真理の御霊が来るとき、その方がわたしについて証ししてくださいます。(ヨハネ15:26)

ヨハネ福音書の前章(15)で、主はぶどうの木のように、主につながり続け、互いに愛し合えと戒められました。そして、主が父のもとから助け主を遣わすこととおっしゃいます。この助け主とは、真理の御霊と呼ばれ、また聖霊とも呼ばれます。(14:26, 20:22)

聖霊について、新教会ではきわめて慎重に教えます。神を父・子・聖霊と分割して、三人の神がいるような偽りを、抱かせないためです。聖霊についての正しい理解は、神である主を理解し、そこから私たちを救われるのはどのようになさっているかを考えるうえで、きわめて大切です。誤って考えれば、父・子・聖霊の複数の神がおられる、という大きな偽りとなる可能性をはらむからです。

マタイ書に、「聖霊に逆らう者は、この世でも次に世でも赦されない」(マタイ 12:31, 32)という恐ろしい主の言葉があります。まずこの意味を理解して、怖れを取り除きます。
「人の子に逆らうことばを口にする者」は、まだ人の生命に書き込まれていない、真理の神的なもの に逆らうことを意味します。これは本人のものとはなっていないため、赦される罪です。(AC9818:27)
まだ自分のものとしていない真理は、納得するまで考えることが大切であり、深く考えることは許されています。

自分にも、他人にも、不必要に怖れさせることは、別の罪となることがあります。子供に対して、あるいは、他人に、「悪魔だ」とか「悪霊の影響だ」と言って苦しませるなら、み言葉の乱用です。み言葉を使うときには、特に相手に思いやりを抱いて知恵をもって使います。

しかし自分の中で、生命に書き込んでしまった「真理の神的なもの」を、一度納得したうえ、拒めば、それは冒涜として働きます。真偽がまざり、真理が役立たなくなるからです。真偽が混ざり合うと、人の内部は破壊されてしまいまい、取返しが付かなくなります。そのため自分の信条としていったん受け入れたものを、自分で拒むのは冒涜となります(同上)。

新教会の人間が、主イエスを捨て、別の信仰に走る例を何件か見たことがあります。その人達の行く末が心配です。その人が真剣に取り組めば取り組むほど、深く自分の生命に書き込まれてしまうからです。その人は、永遠に真偽を悩み、真理によって救われる手段が奪われてしまいます。

赦されない罪とは、主がお赦しにならないのではなく、取返しがつかなくなることを表現しています。主は常にお赦しになりますが、その人自身の否定が、自分を裁きます。

聖霊について、天界の教えにある項目の順番(TCR139-)で、学びます。
(i) 聖霊は神的真理です。そして神の力でもあり、働きです。それはお一人の神、主なる神、救い主の三位一体の神から発します。
ヨハネ福音書には、こういわれています。
しかし、わたしは真実を言います。わたしが去って行くことは、あなたがたの益になるのです。去って行かなければ、あなたがたのところに助け主はおいでになりません。でも、行けば、わたしはあなたがたのところに助け主を遣わします。(16:7 )

ここで三位一体を振り返ります。
ヨハネの第一章に「 初めにことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。」(1:1)
とあります。「初め」以前から、愛である神が存在されています。時空を超える存在です。
世界創造は「ことば」によって始まります。世界創造の初めは、ことばによって行われます。
「ことば」は神的真理を意味します。神的真理は「すべての人を照らすそのまことの光」(1:9)でした。そして「ことばは人となって、私たちの間に住まわれ」(1:14)ます。永遠から神とともにあって、じっくりと考え、世界を創造されてきた神的真理が、私たちと連絡が取れなくなったので、地上に人間として降誕されます。イエスの母マリアは、聖霊の働きによって包まれ、イエスを身ごもり、この世に降誕します。

主イエスは、人間と同じように成長され、学びます。肉体の母マリアから由来する遺伝悪に刺激された悪霊・悪魔からの無数の試練に打ち勝ち、旧約聖書の預言が、次々と現実化されてゆきます。30歳となってからは、地上で伝道を開始されます(ルカ:23)。
地上での数年の伝道の後、
「わたしは、わたしを遣わされた方のもとに行こうとしています。」(16:5)と、最後の試練である十字架の試練を受ける時が来た頃を知らせます。ご自身が持っていた人間マリア由来の遺伝悪をすべて脱ぎ捨て、父なる神と結合して、ご自身と神を栄化なされようとしています。
しかし、弟子たちに「行けば、わたしはあなたがたのところに助け主を遣わす」(16:7)と聖霊を遣わすことを約束されます。神的真理としてお生まれになった主イエスが、この世を去り、私たちから見えなくなりますが、聖霊を遣わすことで私たちとつながります。

聖霊とは神的真理です。神的真理とは、主ご自身です。聖書のみ言葉は、ご自身のことを教えます。主は、み言葉です。(TCR139)
聖書のみ言葉の一言一言に、神的愛と神的真理の結婚、すなわち人類を救いたいという愛と、これを表現して伝えたいという真理があり、愛と真理は相互からの強力に求めあっています。み言葉を読むと、そこにはこの結婚があります。しかし私たちの力だけでは、それに気づきません。

主は地上におられた時に、私たち人間に対する神的愛から語られましたが、それは、その場だけではなく、永遠に向けて役立つ真理が含まれています。主のみ言葉には、時と場所を超えて、私たちの改良と再生に役立つ真理が含まれます。その源には、人類すべてを救うという神的愛がこめられています。

神的愛を源とする神的真理から、力と働きが発しています。宇宙を創造し、天上におられたときは、天使の形を借りて地上に遣わし、そして地上に神的真理として降誕され、姿を現します。

父である神的愛と、子である神的真理、そしてそこから発する聖霊は、人間の魂と体と、言動と同じです。
人間の魂と体と言動が、まとまって一人の人格となるように、神的愛である父なる神と、イエスと名つけられた神的真理と、父と子が一体となって発する聖霊は、それぞれ一人の神のことを述べています。人間の魂と体と言動と同じです。

聖霊の正体は、栄化されて父と一体となった主イエスから発する、神的真理の働きです。私たちに神と主のことを知らせ、導こうとする働きです。
その聖霊の力と働きは、真のキリスト教の次の項目で説明されます。
(ii) 聖霊によって意味される、神的力と働きは、一般的には改良と再生であり、それは新しくし、気づきを与え、聖と、義に導きます。そして悪から清め、罪を赦し、最終的に救いをもたらします。

ヨハネ福音書には「 その方が来ると、罪について、義について、さばきについて、世の誤りを明らかになさいます。」(16:8)とあります。
み言葉を読むことで、私たちは、父と一体化された主イエスに接することができます。主の神性を信じるなら、そこから発している聖霊が、力と働きであることを、はっきりと認識できます。いまや聖霊は主によって遣わされるからです。私たちそれぞれが足りないものをご存じで、それを個別に導かれます。
主が父なる神と一体となられたことを信じ、主が神となられたことを心から理解しなければ、聖霊のたすけ、インスピレーションは得られません。私たちの内心についてご存じで、それに合わせて導いていることを信じて、その導きに従わなければ、改良と再生は進みません。

もちろん、改良と再生は、聖霊の力によって自動的に進むのではないことは、私たちは経験から知っています。
地獄と悪霊は、自分の方向に導こうとして、あらゆる手段で邪魔するからです。そして天使は、善い方向へと導きます。しかし、選択するのは私たちです。主はわたしたちの思考と判断、そして自由を大切に守られているからです。自由に意図し、合理的に識別する力は、本来的に与えられていて、この能力が私たちを人間とします(神の摂理98)。この能力がなければ、私たちは再生できません。

主を信じ、その導きを受け入れようとする者を、主は聖霊によって導きます。
聖霊による力を受けるためには条件があります。
「これらの強力な効果を生み出すためには、主を信じ受け入れるよう自分を調整しなければならない(真のキリスト教143)」という条件です。

主の神性を認めず、主からの神的真理を拒み続ければ、主は働くことができません。主を受け入れることができ、自分を聖霊の働きに合うよう調整しようとするなら、エゼキエル書にいう、「新しい心」と、「新しい霊」(36:26,27)が与えれれます。それは、善いことを求める新しい心と、真理を理解することができる知性、霊です。救いの道を歩む者に神が魂を与えるとは、善を行い、真理を信じる力を与えることです。(真のキリスト教143)。

エゼキエル書には「あなたがたが行ったすべての背きを、あなたがたの中から放り出せ。このようにして、新しい心と新しい霊を得よ。」(18:31)とあります。エゼキエル書で言われたことを、私たちは粛々と行います。背きとは主の神性を認めず、十戒から始まり、互いに愛し合うという最後の戒めに従わないことです。

(iii) 聖霊を遣わすことによって意味される、神的力と活動は、教職者に啓蒙と教えという特別の形をとります。
教職者としての按手を受けることで、教職者は人を天界と主のもとに導こうとする、任務に対する強い意欲を持ちます。任務として、人を導こうとする者には、インスピレーションと導きが与えられます。
新しく按手を受ける人が、真摯に任務を果たそうと努力するなら、必ず聖霊による不思議な導きを感じることになります。

(iv) 主はご自身を信じる者に、これらの恵みを与えます。
主イエスの神性を信じるなら、聖霊による導きがあります。
父であるエホバだけを信じる者や、別の救世主、宗教を信じる者には、聖霊の力はきません。改良と再生は進まなくなります。
「罪についてというのは、彼らがわたしを信じないからです。」(16:9 ) 
主の神性を信じない者は、主が天上から見て、地上で長い間かけて用意されたものを無駄にします。改良と再生の仕組みが無駄になります。主がおつくりになった秩序を乱し、教えられた戒めを無駄にするなら、導くことができません。

栄化の後、主は乱れた霊界をさばき、秩序を取り戻されます。誰が乱しているか、よくご存じですからです。私たちそれぞれの性質を深くご存じであり、秩序を乱す原因をご存じです。
「さばきについてとは、この世を支配する者がさばかれたからです。」(16:11)
秩序を乱す者は、自分が作った性質への裁きを受け、恵みを受けることができません。

(v) 主は父から、ご自身のため働きます。その逆はありません。
ヨハネ福音書には 「その日には、あなたがたはわたしの名によって求めます。あなたがたに代わってわたしが父に願う、と言うのではありません。」16:26

主イエスが主導権を持って、父なる神から聖霊を与えます。この概念は今まで明かされなかった秘密であると天使は語ります。(真のキリスト教153)

聖霊は父なる神から発します。しかし、主導権を持って、導いているのは、主イエスです。主から聖霊が発しているのではありません。主は人間を体験し、誰よりも深く私たちをご存じであるからです。私たちをご存じである主は、主のご性質を知って、その性質によって求める者には、父である神はすべてお与えになります。私たちがみ言葉で学ぶ、主のお持ちの性質、寛容や平和、他人への思いやりなどから求めるなら、応えられますが。しかし、相手に対する冷酷、厳しさ、憎悪から求めるなら、何も与えられません。

「今まで、あなたがたは、わたしの名によって何も求めたことがありません。求めなさい。そうすれば受けます。あなたがたの喜びが満ちあふれるようになるためです。」16:24

(vi) 人の霊はその心であり、そこから心に合ったものが出てきます。
教義は、それぞれの教義から求めるなら、その教義の立案者が考えるものしか得ることができません(真のキリスト教154)。新教会の集まりを行っても、主のみ名ではなく、立案者が考えた範囲でしか得ることができません。もし会員間の親交だけを考えているなら、それ以上の導きは得られないことになります。

「女は子を産むとき、苦しみます。自分の時が来たからです。しかし、子を産んでしまうと、一人の人が世に生まれた喜びのために、その激しい痛みをもう覚えていません。」(16:21 )
私たちの中にある悪と偽りを捨て、「あなたがたが行ったすべての背きを、あなたがたの中から放り出」すためには、苦しみと試練がやってきます。簡単なことではありません。持っている悪と偽りは自分の生命そのものであるからです。
しかし主は最後にもう一度、私たちを励まされます。主ご自身が、「世への愛」の試練をすべて克服されて、恐れることなく、最後の試練に向かわれるように。

「これらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を得るためです。世にあっては苦難があります。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝ちました。」(16:33)

エゼキエル書
18:31 あなたがたが行ったすべての背きを、あなたがたの中から放り出せ。このようにして、新しい心と新しい霊を得よ。イスラエルの家よ、なぜ、あなたがたは死のうとするのか。

36:26 あなたがたに新しい心を与え、あなたがたのうちに新しい霊を与える。わたしはあなたがたのからだから石の心を取り除き、あなたがたに肉の心を与える。
36:27 わたしの霊をあなたがたのうちに授けて、わたしの掟に従って歩み、わたしの定めを守り行うようにする。

ヨハネ福音書

16:7 しかし、わたしは真実を言います。わたしが去って行くことは、あなたがたの益になるのです。去って行かなければ、あなたがたのところに助け主はおいでになりません。でも、行けば、わたしはあなたがたのところに助け主を遣わします。
16:8 その方が来ると、罪について、義について、さばきについて、世の誤りを明らかになさいます。
16:9 罪についてというのは、彼らがわたしを信じないからです。
16:10 義についてとは、わたしが父のもとに行き、あなたがたがもはやわたしを見なくなるからです。
16:11 さばきについてとは、この世を支配する者がさばかれたからです。
16:12 あなたがたに話すことはまだたくさんありますが、今あなたがたはそれに耐えられません。
16:13 しかし、その方、すなわち真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導いてくださいます。御霊は自分から語るのではなく、聞いたことをすべて語り、これから起こることをあなたがたに伝えてくださいます。
16:14 御霊はわたしの栄光を現されます。わたしのものを受けて、あなたがたに伝えてくださるのです。
16:15 父が持っておられるものはすべて、わたしのものです。ですからわたしは、御霊がわたしのものを受けて、あなたがたに伝えると言ったのです。
16:16 しばらくすると、あなたがたはもうわたしを見なくなりますが、またしばらくすると、わたしを見ます。」

16:25 わたしはこれらのことを、あなたがたにたとえで話しました。もはやたとえで話すのではなく、はっきりと父について伝える時が来ます。
16:26 その日には、あなたがたはわたしの名によって求めます。あなたがたに代わってわたしが父に願う、と言うのではありません。
16:27 父ご自身があなたがたを愛しておられるのです。あなたがたがわたしを愛し、わたしが神のもとから出て来たことを信じたからです。
16:28 わたしは父のもとから出て、世に来ましたが、再び世を去って、父のもとに行きます。」
16:29 弟子たちは言った。「本当に、今あなたははっきりとお話しくださり、何もたとえでは語られません。
16:30 あなたがすべてをご存じであり、だれかがあなたにお尋ねする必要もないことが、今、分かりました。ですから私たちは、あなたが神から来られたことを信じます。」
16:31 イエスは彼らに答えられた。「あなたがたは今、信じているのですか。
16:32 見なさい。その時が来ます。いや、すでに来ています。あなたがたはそれぞれ散らされて自分のところに帰り、わたしを一人残します。しかし、父がわたしとともにおられるので、わたしは一人ではありません。
16:33 これらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を得るためです。世にあっては苦難があります。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝ちました。」

TCR138
救い主である主について、正しい考えを育ててきた聖職にあるすべての者は、霊界に入って、通常、死後三日目に、最初に神的三一について教わります。特に聖霊は、別れて存在する神ではないことです。
み言葉は、神的働きは、おひとりの全能の神から発するという句を使います。彼らは特に聖霊について教わります、なぜなら死後、神的なものに刺激されたと信じこんだ狂信者は、自分が聖霊であると信じてしまうからです。世にある間、聖霊は彼らを通して話すと信じる教会員が多数います。彼らはマタイの主の言葉、彼らの中で刺激している聖霊に反することは赦されない罪だと、人を脅します(マタイ 12:31-32)。
すべてを教わった後、聖霊は別の神であるという信念を捨てた者は、神の一体について教わります。
その一体とは、神と主は(アタナシウス信条がいうように)、三人の人格に分かれていないことです。その代わり、神的三位は、救い主である主の内に、魂と体、そして発して人間に与える力として存在します。
そして、彼らは新しい天界の信仰を受け入れる準備をします。準備が終わると、彼らのために天界にある同じ信仰をもつ共同体の道が開かれます。彼らは仲間の内に住む場所を与えられます。そこは永遠の至福の内に住むところです。

創造主である神と、贖い主である主を学んだので、聖霊についても学ばねばなりません。これは他と同じように、何点かに分けて説明します。

(i) 聖霊は神的真理です。そして神の力でもあり、働きです。それはお一人の神、主なる神、救い主の三位一体の神から発します。
(ii) 聖霊によって意味される、神的力と働きは、一般的には改良と再生であり、それは新しくし、気づきを与え、聖と、義に導きます。そして悪から清め、罪を赦し、最終的に救いをもたらします。
(iii) 聖霊を遣わすことによって意味される、神的力と活動は、教職者に啓蒙と教えという特別の形をとります。
(iv) 主はご自身を信じる者に、これらの恵みを与えます。
(v) 主は父から、ご自身のため働きます。その逆はありません。
(vi) 人の霊はその心であり、そこから心にあったものが出てきます。

天界の秘義 9818:27
「人はどんな罪も冒とくも赦していただけますが、御霊に対する冒とくは赦されません。また、人の子に逆らうことばを口にする者でも赦されます。しかし、聖霊に逆らうことを言う者は、この世でも次に来る世でも赦されません。」 (マタイ 12:31, 32);
「人の子に逆らうことばを口にする者」は、まだ人の生命に書き込まれていない、真理の神的なもの に逆らうことを意味します。 (「人の子」が神的真理を意味するについて 9807参照);
しかし「聖霊に逆らうことを言う」とは、人の生命に植え込まれ、書き込まれた神的真理に反すること、特に主ご自身に関する神的真理に反することを言います。
これに逆らうとは、すなわち、一度認めた後、拒むことは冒涜であるからです。そして冒涜は、人の内部をすべて破壊するような性質です;ここから、この罪は赦されないと言われます。
(冒涜については以下を参照 3398, 3898, 4289, 4601, 6348, 6959, 6963, 6971, 8394, 8882, 9298.)

真のキリスト教142. 2.
一般的に、聖霊によって意味される神的行為と強い結果は、改良と再生させる行為です。
この改良と再生の成果に基づき、神的行為と強い結果は、新しくし、生命を与え、清め、義とする行為を含みます。これらの結果の順に応じて、神的行為と強い結果は、悪から清め、罪を赦し、最終的に私たちを救います。
これらは主を信じ、主を迎え内に留めるよう自らを変え、順応しようとする人達に、次々と強い結果を生み出します。神的真理はこれらの力を持ちます。キリスト教徒の間において、み言葉はこれらの結果を生み出すのは、み言葉が唯一主に行き、主が来られることのできる手段であるからです。
先に言ったように、主は完全な神的真理です。そのためすべては主から発します。
これを理解するため重要なのは、神的真理が善と結ばれていることを意味し、信仰が善意と結ばれているのと同じです。信仰とは真理であり、善意とは善です。

神的真理が善と結ばれる、すなわち、信仰が善意と結ばれることで、改良し再生させます。
そして私たちを新しくし、生命を与え、聖とし、義とします。そして成長と前進のレベルによって、悪から清めます(悪からの清めは、罪の赦しと同じです)。

これらの主の行為のすべては、一つ一つ説明できませんが、それぞれ、み言葉からの支えによる解析と、理性による説明が必要です。これらについてより知りたい読者は、この書の他の該当部分の説明を順に参照してください。善意(仁愛)[392-462]、信仰 [336-391]、自由選択 [463-508]、悔い改め [509-570]そして改良と再生 [571-625]です。

主がいつも私たちの個々それぞれに、救いの過程を実行されていることを知るのは重要です。
それらは天界への階段です。主はそれぞれをお救いになりたいとお望みです。その目的はすべての人を救うことです。目的を達したいと望む者は、成し遂げる手段を求めます。主の降誕、人類の贖い、十字架上の苦難は、私たちの救いのためのものです(マタイ 18:11; ルカ 19:10)。
人々の救いは主の永遠の目的であるため、並べられ挙げられた強い力は、主の中間的な目的であり、私たちの救済が主の最終目的です。

あなたがたは心を騒がしてはなりません。

あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。(ヨハネ14:1)

先日、英国女王の国葬がありました。リズ・トラス英国首相が聖書を朗読する場面があり、全世界の人が耳を傾けました。そこで読んだのは、ヨハネ福音書の14章の1節から9節でした。私たちのヨハネ福音書の学びも、ちょうど本日は14章です。ここで主は何を教えられたのかを学びます。

あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。(14:1)
私たちは主の働かれた奇跡による信仰から始まり、みことばから真理を学んで、それを従って生きる、救いの信仰に移ります(AE815)。

神を信じることは、最初は奇跡によって好奇心を惹かれ、その後この世に降臨された方が、その方ご自身であると確信し、心の内に動かない真理とすることで、救いの信仰となります。
主イエスはこの世に降誕された主エホバご自身であることは、福音書で何度も繰り返し表現されています。決してただの人間ではありません。主と父とは一つと、明らかに記されています。栄化が進むにつれ、主と父とは相互に深く結ばれてゆきます。

主の神的人間性は、新約聖書を読んで、イメージすることができても、父なるエホバは、私たちには決して理解することのできない存在です。無限の存在であり、有限な私たちには無限の存在は把握することができないからです。主イエスについては、直接のみ言葉に、親しく接して、静かに考えることで、私たちの内側で主の神的人間をイメージすることができるようになります。平安や寛容、謙虚など無数の性質が語ってくれるイメージは、私たちの心に入って、平安となります。

主は引き続きおっしゃいます。「 わたしの父の家には住む所がたくさんあります。」(14:2)
父の家とは天界のことです。天界は平安の中にあります。決してあわただしい現代社会のようなところではありません。そして、誰にでも自分にあったものが見つかる、無数の社会に分かれています。それは私たちが善と真理によって別れていて、たとえ宇宙とそこに住む人間がどれほどいようとも、主の教えに従って生きるという条件さえ満たすなら、自分の善と真理に会った社会に入ることができます。

天界は巨大人の形をとり、大きさも無限で、「数」によって限界を刻むような窮屈なところではありません。宇宙が無限であるように、天界の広がりも想像すらできないほど広がっています。
天界の社会自体も無数にあり、私たちのそれぞれが、ぴったりなじむような社会があり、そこで永遠に生きていける社会が必ず見つかります。私たちのそれぞれを天界に迎え入れるために、主はそれぞれに見合う方法を用意されていらっしゃいます。主のおられるところに、私たちもいるべく、私たちの知らない方法で「あなたがたをわたしのもとにお迎えになられます。」

地上におられた主は、さらに続けて教えられます。「わたしの行く道はあなたがたも知っています。」14:4
主の進まれる道とは、主がこの言葉の後、主が栄化されてゆかれる道です。主はご自身を栄化されたように、人を再生されるからです。人が自分の力で再生するわけではありません。人が自分の力で再生すると考えているうちは、決して再生は進みません。私たちが主の導きによって進んでいるうちに、そのはるか遠くの延長線上に、主の道がみえてきます。それは聖書の中で見つけることができます。
主がお進みになる道とは、主がご自身を栄化させた道でああう。私たちの再生のときは、
「主は人の知性部分に信仰となる真理を、人の意志に愛に関する善を植え付け、それを結びつけ」(AC10067-7)ます。

この結びつきは、天界的結婚と呼ばれます。それは、主ご自身のお住まいとなる天界です。父の家は、主がお住まいになる、主ご自身のものです。私たち自身のものは、ひとかけらありません。私たち自身のものは、悪にすぎないからです。悪が残っている限り、主の家に迎えられることはありません。

これが人が、自らの力で再生することができない理由です。私たちが、自分のうちに、主のお力によって、主のお住まいを設けることができた時、すなわち自分のものを捨てきる、試練の後、私たちは天界に迎え入れられることができます。
これが
「わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです。」(14:3)で意味されることです。トラス首相は、この内意を知らず朗読したかもしれませんが、朗読を聞いた天使たちは、内意だけを理解します。

聖書の中の人物、トマスも同じように、この内意を知りませんでした。そのため、「主よ。どこへいらっしゃるのか、私たちにはわかりません。どうして、その道が私たちにわかりましょう。」としか応えようがありません。

しかし主は、「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」(14:6)と教えられます。主が通られる栄化の道に、私たちが導かれることこそ、真理であり生命です。ほかに道はありません。
「そしてそれが結びついた時、信仰している真理は、愛の善を生命とし、愛の善は信仰の真理からの生命を、その性質とします。この結合は、善の方法によって相互的になされ、天界的結婚と呼ばれ、これが人にある天界です。」(AC1006:7) 
ここで、天界への道が見え始めます。

日本では聖書協力隊というボランティアが、街角にみ言葉の一部の鉄板を貼っています。その中の「道・真理・命」はこの句からとられ、その内意は、天界の教えによってはじめてわかります。

信仰の真理は、学ぶだけはなく、行わないと真理とはなりません。単なる知識のままです。そしてそれは愛の善から出ていなければなりません。私たちの内に、信仰の真理と愛の善を結び付けて、天界とすることができるのは、主おひとりです。人にできる業ではありません。信仰の知識は学んで知識とすることができます。そしてその知己を実行することで、人の内に信仰の真理とすることは可能に見えますが、実はそうではありません。人が自ら行っていると考えるのではなく、主から行っていると認識することで、初めて信仰の真理となります。

ましてや、愛の善に関しては、人から行うことは不可能です。「愛、愛が大切だ」と口で述べることは簡単です。しかしその人の口にするという業には、口にした時点で、もはやなんらかの悪が混じっています。愛の善は人がなしうる業ではありません。

そして信仰の真理と、愛の善を結び付ける天界的結婚は、さらに、さらに、人には不可能です。私たちにできるのは、主の道に導かれることだけです。導かれる際に邪魔する悪を、自分から追い出す協力をします。それも、謙虚になって主の導きを受け入れることだけです。

弟子のピリポが、父を見せてくれと主に言います。しかし主は自らのみ言葉で、「わたしを見た者は、父を見たのです。」(14:9)と、ご自分は父と同じ存在であり、父は主の魂であることを教えられます。主を見たことで、その魂を見ることができると教えられます。しれは人がじぶんの魂を見ることができないように、その行い、わざを見るしかないからです。

「わたしが父におり、父がわたしにおられるとわたしが言うのを信じなさい。さもなければ、わざによって信じなさい。」(14:11)主の行われた「わざ」は、ヨハネ福音書の中では、初めは奇跡のわざです。しかしそのわざのひとつひとつを、父に帰せられました。行っているのは魂である父であり、私たちにとっても、自分からはできないことを教えるためです。
「わたしは、父から出た多くの良いわざを、あなたがたに示しました。そのうちのどのわざのために、わたしを石打ちにしようとするのですか。」(10:32)
主の行われたすべての行いの中には、悪いわざはありません。たとえ、敵であっても、見つけることはできません。「わざ」は、主は常に父に帰せられています。これに比べれば、わたしたちの行いは、常に悪いわざです。どんなに善いことを行っても、その動機には必ず「自分のため」という動機が含まれているからです。本質的にも、見かけ上も、善いものを自分に帰そうとするからです。

純粋に愛の善から善い行いをすることだけが、善い業です。そしてその言動は、信仰の真理で教えらえた真理に合致していなくてはなりません。愛の善と、信仰の真理が結婚することが天界であり、私たちの目指す場所であり、境地です。私たちは果たしてこの境地に至ることができるのでしょうか?
私たちだけではほとんど不可能のように思えます。

しかし、主は助け主を送ると約束されました。「もうひとりの助け主」(14:16)とおっしゃっています。世のキリスト教会は、父と子のほかに第三の聖霊がいると考えています。しかし父と子が、私たちで言えば私たち自身の魂と体であるように、聖霊とは主のはたらき、わざです。父子聖霊と三つの人格に分割することは間違っています。

主は真理そのものです。そのため主から出るものすべては真理となります。そして発出した真理は助け主、真理の御霊、聖霊と呼ばれています(TCR 139:3)。
主がこの世におられた間は、ご自身が真理でしたが、この世を去りご自身を栄化され、父と一緒になられた後、主から発する働きが聖霊と呼ばれます。この働きは現にありますが、教えられて納得しなければ、私たちは受け入れることができません。

「その方は、真理の御霊です。世はその方を受け入れることができません。世はその方を見もせず、知りもしないからです。しかし、あなたがたはその方を知っています。その方はあなたがたとともに住み、あなたがたのうちにおられるからです。」(14:17)

世が心で聖霊を受け入れることができないのは、世の外的なことで教えがあいまいになってしまうからです。・・しかし天界にいるものには内的なことがらは明らかに見えます(AC 9278:6)。

世に住んでいる私たちも、静かに心の中に思いを致し、み言葉を思い出すなら、「父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。」(14:26)

主はおっしゃいます。
「わたしはあなたがたに平安を残します。わたしの平安を与えます。わたしは、世が与えるのと同じようには与えません。あなたがたは心を騒がせてはなりません。ひるんではなりません。」(14:27 )
私たちは主が心に与えられる平安によって、世に立ち向かいます。ひるまず、心を騒がせずに、主の全能を信頼することができるなら、その時は迷うことはありません。

もし、私たちが真理を持ちながらも、内的な善と真理を失い、内的なものを見失うなら、孤児、迷い子のようになります。しかし、それでも善を求めるなら、私たちは主から見放されることはありません。孤児とは、「真理を持つが、まだ善を持たない者ですが、善に対する渇望がある者」(AC9199)のことです。
善を求め続けること、そうすることで教会は継続し、その中で私たちは主に再び会えることになります。

 「わたしは、あなたがたを捨てて孤児にはしません。わたしは、あなたがたのところに戻って来るのです。」(14:18)
アーメン。

出エジプト記 
29:21 あなたが、祭壇の上にある血とそそぎの油を取って、アロンとその装束、および、彼とともにいる彼の子らとその装束とに振りかけると、彼とその装束、および、彼とともにいる彼の子らとその装束とは聖なるものとなる。

ヨハネ福音書
14:1 「あなたがたは心を騒がせてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。
14:2 わたしの父の家には住む所がたくさんあります。そうでなかったら、あなたがたのために場所を用意しに行く、と言ったでしょうか。
14:3 わたしが行って、あなたがたに場所を用意したら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしがいるところに、あなたがたもいるようにするためです。
14:4 わたしがどこに行くのか、その道をあなたがたは知っています。」
14:5 トマスはイエスに言った。「主よ、どこへ行かれるのか、私たちには分かりません。どうしたら、その道を知ることができるでしょうか。」
14:6 イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません。
14:7 あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになります。今から父を知るのです。いや、すでにあなたがたは父を見たのです。」
14:8 ピリポはイエスに言った。「主よ、私たちに父を見せてください。そうすれば満足します。」
14:9 イエスは彼に言われた。「ピリポ、こんなに長い間、あなたがたと一緒にいるのに、わたしを知らないのですか。わたしを見た人は、父を見たのです。どうしてあなたは、『私たちに父を見せてください』と言うのですか。
14:10 わたしが父のうちにいて、父がわたしのうちにおられることを、信じていないのですか。わたしがあなたがたに言うことばは、自分から話しているのではありません。わたしのうちにおられる父が、ご自分のわざを行っておられるのです。
14:11 わたしが父のうちにいて、父がわたしのうちにおられると、わたしが言うのを信じなさい。信じられないのなら、わざのゆえに信じなさい。
14:12 まことに、まことに、あなたがたに言います。わたしを信じる者は、わたしが行うわざを行い、さらに大きなわざを行います。わたしが父のもとに行くからです。
14:13 またわたしは、あなたがたがわたしの名によって求めることは、何でもそれをしてあげます。父が子によって栄光をお受けになるためです。
14:14 あなたがたが、わたしの名によって何かをわたしに求めるなら、わたしがそれをしてあげます。
14:15 もしわたしを愛しているなら、あなたがたはわたしの戒めを守るはずです。
14:16 そしてわたしが父にお願いすると、父はもう一人の助け主をお与えくださり、その助け主がいつまでも、あなたがたとともにいるようにしてくださいます。
14:17 この方は真理の御霊です。世はこの方を見ることも知ることもないので、受け入れることができません。あなたがたは、この方を知っています。この方はあなたがたとともにおられ、また、あなたがたのうちにおられるようになるのです。
14:18 わたしは、あなたがたを捨てて孤児にはしません。あなたがたのところに戻って来ます。

AC10067
[7]しかしこれは、主によって再生途上の人の中にある、善と真理の相互的な結合をみるほうがより良く理解できます、なぜなら、すでに言ったように、主はご自身の人間を栄化させたように人を再生させるからです(10057)。主が人を再生させるとき、主は人の知性部分に信仰となる真理を、人の意志に愛に関する善を植え付け、それを結びつけます。そしてそれが結びついた時、信仰している真理は、愛の善を生命とし、愛の善は信仰の真理からの生命を、その性質とします。この結合は、善の方法によって相互的になされ、天界的結婚と呼ばれ、これが人にある天界です。
この天界の中で、主はご自身のものとお住まいになります、なぜならあらゆる愛の善は主からきており、善と真理の結びつきのすべても主のものであるからです。主は人自身のものの内には住まうことはできません、なぜならそれは悪であるからです。

AC9199.
「あるいは孤児」は真理を持つが、まだ善を持たない者ですが、善に対する渇望がある者をいいます。これは孤児の意味から明らかで、真理を持ち、善を求める者の意味です。このような人々が孤児によって意味されるのは、両親が奪われた息子は、つまり、内的な善と真理を奪われたのが孤児であるからです。なぜなら、みことばで「父」は内的善を意味し、「母」はその善に結びついた真理を意味しますが(5581)、「息子」は彼らから奪われた真理を意味するからです。「息子」が真理を意味することは 489, 491, 533, 1147, 2813, 3373, 6583を参照してください。孤児によって娘ではなく、息子が意味されるのは、次の(出エ22章)24節から明らかで、あなたの息子は孤児となる、とあります。息子が孤児となるのは、善を求める者は主が父の代わりになることが、ダビデの次の言葉で表されます。

「みなしごの父、やもめのさばき人は聖なる住まいにおられる神。」 詩編68:5

マナセとエフライム

マナセとエフライム

ヨセフは、父が右手をエフライムの頭に置いたのを見て、それは間違っていると思い、父の手を取って、それをエフライムの頭からマナセの頭へ移そうとした。創48:17

ヨセフは父が病気と聞き、二人の息子、マナセとエフライムを父ヤコブのもとに連れて行きます。ヨセフの目的は、余命わずかの父に、自分の二人の子を一目見せたいという親ごころ、子ごころからだったかもしれません。しかし、ヨセフの子は、ヤコブの子としての祝福を受けます。
「私がエジプトに来る前に、エジプトの地で生まれたあなたのふたりの子は、私の子となる。」(48:5)。

日本でも相続税対策で、実の孫を、自分の養子にすることがあります。聖書のマナセとエフライムも、のちにイスラエルの十二部族に数えられ、それぞれイスラエルに土地を譲り受けることになります。エジプトで一族を引き受けてくれた論功行賞もあったのでしょうか。

しかし、ヨセフの子が、イスラエルの子とされたことには、別の意味があります。
天界の教えによるみ言葉の内意によれば、イスラエルは霊的な人とされています。そして、ヨセフの内的意味は天的な人です。そのため、ヨセフの子であるマナセとエフライムは、本来天的な人となるはずですが、イスラエルの子とされたため、霊的な人の内に含まれることになります。

天界の教えが示すみ言葉の内意によれば、マナセは教会の意志を意味し、エフライムは教会の知性を意味します。双方ともヨセフが意味する内的な人から生まれています。(AC6222) 
マナセとエフライムは、私たちが持ちうる、新しい知性と、新しい意志を意味しています(AC5354)。

これは、ヨハネ福音書で、ユダヤ教の議員であるニコデモに、主が語られた言葉にもあります。
「人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。・・・、人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国に入ることができません。」(3:3,5)と言われたことです(AC5354)。

水と霊によって生まれるとは、み言葉の真理と、それに従った生活を意味します(AE 721:2)。み言葉の真理を受け、それに従った生活をすれば、新しい知性と、新しい意志を受け、人は新しく生まれ変わることができる、という主の教えです。
み言葉の真理を受けるには、どうすればいいのでしょうか?新しい知性とするためには、ただみ言葉を読めばいいのでしょうか?新しく生まれる教会の知性と意志とは何でしょうか?

ほとんどの人は、何が善か悪かを知りません。十戒に反することが悪である、あるいは国の法律に反するとき、罰せられると応えるくらいです。悪が何かは、その反対である善とは何かを知ることによってわかります。

「隣人に対する純粋な思いやりを抱くことが善です」(AC5354)。その善に反することが、悪となります。隣人に対して、心から思いやりをもつなら、隣人を傷つけ、隣人の善い行いを評価せず、隣人の行いと名誉を自分のものとして盗むことを、心から恐れるからです。
そして誰が隣人であるかも大切です。物理的に隣にいる人が隣人ではなく、心に善を持っている人、そしてその善自体が隣人です。究極の隣人は主おひとりです。主おひとりが善をなさるからです。

そのためその源は、常に主おひとりから、絶えず天界を通して私たちに流入しています。
しかし、悪と偽りは絶えずその流入を拒み、邪魔します。悪と偽りは、意識して拒まないと、新しい善と真理は流入しません。私たちからは善を行えないので、主からの流入を、純真で無垢な心で受け取ることが新しい意志であり、それを知ることが新しい知性です。

しかし偽りは、実に巧にやってきます。例えば、最近また問題となっているカルト組織の場合も、巧みな装いで、姿を隠して、甘い誘いで誘導します。最終的な目的は、人や組織、国家などへの支配権の確立などですが、表立っては別の装いをします。

学生時代の友人の話ですが、甘い誘いに誘われてその集団に入り、一年もたつと、見事に洗脳されていました。ごくごく真面目な田舎の青年でしたが、どうしてそうなったかはわかりません。
その狙いは、構成員の心の支配です。財産含めて徹底的に奴隷として働かされます。巧みに誘導し、徐々に脅しと恐怖を植え付け、将来を支配して奴隷にします。「天界と地獄」や「結婚愛」など、天界の教えの一部も研究し、都合のいい部分だけ切り取り、その教えさえ利用します。長期的戦略に長けています。新教会組織でさえ、十分、注意しなければ、単なる危惧にとどまりません。この偽りと悪から、無垢を守る必要があります。神様はすべてご存じなので、主に祈り、頼ればいいのでしょうか?

「羊の囲いに門から入らないで、ほかの所を乗り越えて来る者は、盗人で強盗です。」(ヨハネ10:1)という主のみ言葉があります。私たちは、主のみ言葉を通して無垢な人を導きいれる、「門から入る者」でなければなりません。乗り越えてくる盗人や強盗であってはなりません。新教会でいえば、主イエスだけが信仰の対象です、そのみ言葉、新旧両聖書と天界の教えである著作だけを私たちの信仰のよりどころとします。

ただし、天界の教えによれば、「み言葉の文字上の意味は、性質上、人が適用するためどんな見解も支えることができる、という事実は、膨大な数の異端が教会に存在し、そして今もなお残っているということから明らかに示されます。」(AC6222-2)

しかし、教会の知性は、
「み言葉を読み、勤勉に記述を他の記述と突き合わせ、そうすることによって何を信じるべきか、何を行うべきかを理解した時に存在します。・・・そして、真理を知りたいと欲する人にのみ与えられ、それは評判や栄光ではなく、生き方と奉仕のため与えられます。」(AC6222-3)
さらに、「事実上の証拠と哲学的推論が述べるから真理であるというのではなく、みことばの霊的意味が述べるから、真理だと判断」(AC6222-3)します。

新しい意志は、隣人に善を行うことに、見返りや自分のためという視点がなければ、歓びを生みだします。その歓びは、自分が源ではなく、主が源です(AC5354-2)。もし自分自身に歓びの源があると感じるなら、それは偽りです。

新教会の経験が長く、基本的な知識はあるはずですが、老年になって主イエスを捨て、他の道に切り替わる人がいます。
肉体的な感覚に頼り、教会の知性によって導かれず、「み言葉を読み、勤勉に記述を他の記述と突き合わせ、そうすることによって何を信じるべきか、何を行うべきかを理解」(AC6222-3)しなかったため、自然的な言葉と感覚に欺かれてしまいます。自然的な感覚が生み出す錯覚と、み言葉、内意の探求を忘れて安易に感覚的歓びを求めます。すなわち、歓びの源を、主と隣人に求めず、自分自身に求めています。

新しい意志に生まれ変わるプロセスは一瞬ではなく、一生かけて行われ、死後も続きます。またそのプロセスは天使の知恵に属し、天使でさえも全貌をつかめません(AC5354-3)。

そのため、自分に新しい意志の誕生と、そこへの善の流入が自覚できないと考えて、あせる必要はありません。
人は、自然的に生まれ、そして主の力によって時間をかけて霊的になってゆきます。主からの流入と歓びが、直ちに起こらなくても、まず自分の内に存在し、善の流入を阻んでいる悪と偽りを確認しまければなりません。悪と偽りさえなくなれば、主は歓んで善と真理を与えられます。

安易な救いへの誘いは誘惑の一つです。理性的な能力を捨て、自然的な感覚に従った時点で、偽りと、それに続く悪に惑わされ、天界への道を見失います。み言葉という、私たちの唯一の道標を捨ててはなりません。み言葉を学ぶことは、手間がかかりますが、自然的な私たちを霊的にする唯一の手段です。
「内的なもの以外に道はありません。(AC6222-6)」

イスラエルは、マナセとエフライムを、自分の子として祝福します。ヨセフの子として祝福したのではありません。
祝福には様々な意味がこめられますが、この場合、「祝福するとは、これからおこることを預言する」(AC6254)ことです。

イスラエルは、霊的な人であるため、「善を知覚できないので、真理によって善に導きいれますが、再生されるまで、善の知覚はありません。」(AC6256)
そのため、「イスラエルは老齢のために目がかすんでいて、見ることができなかった。」(48:10)と表現されています。

イスラエルは、ヨセフの祝福の後、マナセとエフライムを自分の子として祝福しようとします。ただしヨセフの目からはその順番が、誤っています。ヨセフの第一子であるマナセを第二の位置におき、第二子のエフライムを第一の位置にして祝福しようとします。この祝福の順番は、世的には長子権の確認の意味がありますが、霊的には何を優先するかを表します。しかし、老齢のためイスラエルは目がかすんでいます。

霊的教会であるイスラエルは、教会の知性であるエフライムを優先し、教会の意志を後にすることを宣言します。親であるヨハネにとっては、この過ちは致命的です。天的な人であるヨセフにとって、教会の第一は教会の意志にあるからです。教会の知性は第二であることが本来あるべき姿です。また天的教会であるなら、教会の意志が第一とならねばなりません。

ヨセフが祝福しようとする父親の手をつかんで、それを阻止しようとしますが、霊的な人であるイスラエルは、あえて拒みます。しかし、天的な人であるヨセフからの流入によって、霊的な人であるイスラエルは、本来あるべき順番を理解していました。(AC6294)

父は拒んで言った。「分かっている。わが子よ。私には分かっている。彼もまた、一つの民となり、また大いなる者となるであろう。しかし、弟は彼よりも大きくなり、その子孫は国々に満ちるほどになるであろう。」(48:19)

教会で、第二としなければならない真理を第一とし、弟であるエフライムが、兄のマナセよりも大きくならなければならない理由を天界の教えは、こう説明します。
「人間の意志は、絶えず堕落しており、もはや正常な部分は全く残っていないまで、悪が完全に支配してしまいます。人が滅びない様に、主は予見され、人の知性部分が再生するようにされました。・・これが天的な人がわずかになるが、霊的な人が多くなり、天的な人よりも多くなる」AC6296[2]ことによって意味されています。

新教会の教義を知識として蓄えても、それを実際に役立てる人は決して多くありません。ジェネラルチャーチの米の本部でも、信者は減少し、老齢化しています。何年もかけて築き上げた新教会教育も、卒業後に新教会員として残り続ける人は少なくなっているといいます。教師に状況を聞くなら、学位の取得や卒業後の進路のため学び、すなわち世のために学び、真理自体のために学ぶ学生が少なくなっているからと思われます。通り一遍の知識、記憶知にとどまる活用しない知識では役に立ちません。新教会の学びは、一生続きます。み言葉への真理探究をやめるなら、私たちの再生も止まってしまいます。記憶知の探究ではなく、生きて新しい生命を得るための探究は一生かかっても終わらず、来世にまで続きます。

イスラエルが、エフライムの祝福を先にしたことが、これを表しています。
霊的な人を祝福し、エフライムである知性によって再生する人が多いと主は予見されました。しかしそれとともに、マナセが意味する意志の再生も主が決して忘れてはおられないことに注目してください。すなわち、私たちは、知性を再生させるだけではなく、意志も再生して天的になれる可能性を持つことを意味します。天的になれば、善を知覚でき、偽りと悪は近寄ることさえできません。

「彼もまた一つの民となり、また大いなる者となるであろう。しかし弟は彼よりも大きくなり、その子孫は国々を満たすほど多くなるであろう。」(48:19)
アーメン。

【新改訳】
創世記
48:8 イスラエルはヨセフの息子たちに気づいて言った。「この者たちはだれか。」
48:9 ヨセフは父に答えた。「神がここで私に授けてくださった息子たちです。」すると、父は「私のところに連れて来なさい。彼らを祝福しよう」と言った。
48:10 イスラエルは老齢のために目がかすんでいて、見ることができなかった。それで、ヨセフが彼らを父のところに近寄らせると、父は彼らに口づけして抱き寄せた。
48:11 イスラエルはヨセフに言った。「おまえの顔が見られるとは思わなかったのに、今こうして神は、おまえの子孫も私に見させてくださった。」
48:12 ヨセフはヤコブの膝から彼らを引き寄せて、顔を地に付けて伏し拝んだ。
48:13 それからヨセフは二人を、右手でエフライムをイスラエルの左手側に、左手でマナセをイスラエルの右手側に引き寄せた。そして二人を彼に近寄らせた。
48:14 ところがイスラエルは、右手を伸ばして弟であるエフライムの頭に置き、左手をマナセの頭に置いた。マナセが長子なのに、彼は手を交差させたのである。
48:15 彼はヨセフを祝福して言った。「私の先祖アブラハムとイサクが、その御前に歩んだ神よ。今日のこの日まで、ずっと私の羊飼いであられた神よ。
48:16 すべてのわざわいから私を贖われた御使いが、この子どもたちを祝福してくださいますように。私の名が先祖アブラハムとイサクの名とともに、彼らのうちに受け継がれますように。また、彼らが地のただ中で豊かに増えますように。」
48:17 ヨセフは、父が右手をエフライムの頭に置いたのを見て、それは間違っていると思い、父の手を取って、それをエフライムの頭からマナセの頭へ移そうとした。
48:18 ヨセフは父に言った。「父上、そうではありません。こちらが長子なのですから、右の手を、こちらの頭に置いてください。」
48:19 しかし、父は拒んで言った。「分かっている。わが子よ。私には分かっている。彼もまた、一つの民となり、また大いなる者となるであろう。しかし、弟は彼よりも大きくなり、その子孫は国々に満ちるほどになるであろう。」
48:20 彼はその日、彼らを祝福して言った。「おまえたちによって、イスラエルは祝福のことばを述べる。『神がおまえをエフライムやマナセのようになさるように』と。」こうして彼はエフライムをマナセの先にした。
48:21 イスラエルはヨセフに言った。「私は間もなく死ぬだろう。しかし、神はおまえたちとともにおられ、おまえたちを先祖の地に帰してくださる。
48:22 私は、兄弟たちではなくおまえに、私が剣と弓でアモリ人の手から取った、あのシェケムを与えよう。」

ヨハネ福音書
3:3 イエスは答えて言われた。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」
3:4 ニコデモは言った。「人は、老年になっていて、どのようにして生まれることができるのですか。もう一度、母の胎に入って生まれることができましょうか。」
3:5 イエスは答えられた。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国に入ることができません。
3:6 肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です。

天界の秘義6222
[3]
彼らが受け入れないのは、教会の持つ見解を共有していないからです。その見解は、み言葉を読み、勤勉に記述を他の記述と突き合わせ、そうすることによって何を信じるべきか、何を行うべきかを理解した時に存在します。そのような見解は、主から光を受けた時にのみ与えられ、キリスト教世界では「啓蒙された人」と呼ばれます。その啓蒙は、真理を知りたいと欲する人にのみ与えられ、それは評判や栄光ではなく、生き方と奉仕のため与えられます。
[4]
しかし、教会の知性と呼ばれるこの理解は、単に事実知に基づくよりも、さらに内的な理解に基づいています、なぜなら事実上の証拠と哲学的推論が述べるから真理であるというのではなく、みことばの霊的意味が述べるから、そう判断するからです。
例えば、教会の知性を持つ者は、すべての個々の部分で、み言葉は主への愛と隣人への愛が教会の本質的な性質であることを教えると、明確に知覚します。さらに死後、人の生命は続き、その生命はその人の愛から起こると。さらに、思いやりから離れた信仰は、信仰ではなく、主への愛の善と隣人への思いやりに結びつかなければ、信仰は永遠の生命に全く貢献しない、そのため、霊的生命が存在するために信仰と思いやりはともに結びつかなければならない。啓蒙された人々は、これらの事柄が全く真であるときわめて明確にわかります;しかしそうでない人は、そうであることが全く分かりません。

[5] 教会の事柄を理解する人は、その教会の意見あるいは教えを広く実証し、他の人がそれは真であると納得させ、多くの異端を論破する法を知っている者と考えられています。しかし、これは教会の知性が意味するものではありません、なぜなら意見を実証するのは、知性の特性ではなく、感覚的レベルでの心の能力であり、それは非常に悪い人にも存在することがあるからです。;たしかにどんな信念ももたず、実際の偽りに染みわたった人もその能力を持つことができます。この種の人々には、どんな考えでも実証することは何よりも簡単で、単純な人々を納得させます。しかし、各種意見を実証する前に、
教会の知性は、それが真であるかないかを見て知覚することに携わり、実証するのはその後のみです。

[6] これら知性がエフライムによって表されます。なぜならマナセによって表される教会の善は、思いやりによって生まれる善であり、それは主が教会員に信仰の真理によって植え付けます。なぜならこれらの真理が思いやりによってうまれる善とともになり、知性に流入して光を与え、知性と意志が一つの心を構成することを可能にするからです。これらの真理、知性と意志は、内的なものから生まれたことはこれまで述べ示したことで明らかです。なぜなら善と真理へのすべての情愛は、啓蒙を通した情愛から流入し、他の源はありません。そうして、内的なもの以外からは生まれないからです。すなわち、主から、内的なものを通してきます。

ラザロのよみがえり

イエスは彼女に言われた。「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです。(ヨハネ11:25)

死者を蘇らせたという業は、世界の様々な宗教の中でも多くはありません。
しかしキリスト教では、主イエスの蘇りを含め、信仰の中心となっています。
ただ、多くの教会は、生命を肉体の生命としか考えていないので、死人が蘇ってゾンビになったという、不気味な話となっています。

主は新約聖書で、ヤイロの娘(マルコ5:41-43 ルカ8:41-56等)、ナインのやもめの一人息子(ルカ7:11-16)など、蘇りの奇跡を起こされましたが、有名なものが、ラザロの蘇りの話(ヨハネ11)です。ラザロが墓から出てきて、手足を長い布、そして顔も布切れで包まれている姿は、強烈な印象を与えます。旧約聖書でも、主を表している、エリシャの骨に触れることで、なくなった人が蘇ります(列王記Ⅱ13:21)。

ラザロのエピソードは、死人をよみがえらせる話だけではありません。人間の生命とは何か、そして教会の生命の蘇りがテーマとなっています。

「いのち」とは何でしょうか、天界の教えに問います。私たちは、人間自体には生命はなく、神からの生命を受ける器であると教えられています。善は自分からは行えないというのが新教会の教えです。
そして、
神からくる生命とは、「善を意志し、真理を信じること」と教えられています(AC7494)。

本来生命のない器である人間に、神が与える生命が、善を意志し、真理を信じることであるなら、納得できます。これが、新教会の教義の出発点であり、心から納得でき到達点でもあるからです。

そして、生命と反対の死とは、悪を行うことであり、偽りを信じることです。悪を行う者、偽りを信じる者には、生命はなく、死者であるとされています。

ヨハネ11章のラザロの蘇りを、ラザロが表しているものの死と復活という脈絡で振り返ります。
まずラザロはどういう人物として描かれているのでしょうか?
ラザロは、ルカ書の中でこう喩えられています。「金持ちの家の門前にラザロという全身おできの貧しい人が寝ていて、金持ちの食卓から落ちる物で腹を満たしたいと思っていた。犬もやって来ては、彼のおできをなめていた」(ルカ16:19,20)
み言葉を持たない異邦人でありながら、み言葉を持つユダヤ人に嫌われています。真理を知らないことから、偽りにいたため、おできができていたと表現されています(TCR215-3)。
しかし、ラザロは、主に愛され(ヨハネ11:5)、友と呼ばれ(ヨハネ11:11)、食卓をともにします(〃12:2)。これらは、善を求めていたことを意味します。

ラザロで表される異邦人は、み言葉を持たず、わずかな真理で生きていますが、主からの真理と善で生きたいと求めています。善を求めるものが教会です。真理を求めたり、教義自体を求めたりするのは、まだ教会ではありません。
善を求めることが教会です。主が愛されるのは善を求める教会です。主おひとりが善であり、真理です。ラザロとはみ言葉を持たないが、善を求める異邦人の教会です。

そこに、使いがいきなりやってきます。「主よ。ご覧ください。あなたが愛しておられる者が病気です。」(11:3) 主に使いを送ったのは、ラザロの兄弟であるマルタとマリアです。マルタとマリアは、前後して次の12章で説明されています。給仕をして仕えるマリアは、真理への情愛です。教会で真理に仕えるため、真理への情愛とされ、いつも忙しく働きます。そして善への情愛は、主ご自身を愛し、涙を流していとおしんだマリアで表されます。

二人の使いは、ラザロが病にかかって死にそうであると告げます。これは、異邦人の教会が真理の不足したため、善がなくなり、悪と偽りに心が傾き始めたことを意味します。ラザロの兄弟のマルタとマリアは、善への情愛と真理への情愛を振り絞って、主に助けを求めます。

イエスは、神の栄光と神の子が栄光を受けるため、「ラザロが病んでいることを聞かれたときも、そのおられた所になお二日とどまられ」(11:6)たといいます。これは、ラザロ教会の偽りと悪が結合し、悪が現れるまで、主は待っておられたことを意味します。悪は現れなければ、取り除くことができないからです。

「昼間は十二時間あるでしょう。だれでも、昼間歩けば、つまずくことはありません。この世の光を見ているからです。しかし、夜歩けば、つまずきます。光がその人のうちにないからです。」(11:9,10)
真理と善が残っている間、すなわち昼の間は、まだかろうじて教会は残っています。そして悪と偽りが完全に現れる夜になると、つまずき始めます。悪と偽りに気づいて、取り除くことができないためです。

そして、主はラザロ教会の終焉を宣言されます。 
イエスはそのとき、はっきりと彼らに言われた。「ラザロは死んだのです。」(11:14)
デドモと呼ばれるトマスがいました。主が十字架で亡くなり、蘇ったときも指を手と脇腹に入れて確かめなければ信じないという(20:25)弟子です。「主とともに死のう」と言い出します。彼は蘇りを信じてなかったので、自然的な意味でしか考えることができません。

主がラザロのところにいらっしゃったとき、生命の善は滅び、悪と偽りが結ばれてしまっています。これが墓に入れられて四日経ったことで示されます。数字の、二と四は、善と真理、この場合は悪と偽りが結ばれることを意味する数字です。

真理への情愛を意味するマルタは、ラザロ教会の死滅を惜しみ、主を迎えに走ります。一方、善への情愛を意味するマリアは家で座っています(11:20)。善が滅びてしまったため、善への情愛は、動けなくなっています。

イエスはマルタ、真理への情愛におっしゃいます。「あなたの兄弟はよみがえります。」(11:23)
真理の情愛を意味するマルタは、異邦人の教会であるラザロが蘇ると聞いて喜びます。
私達はまず、真理への情愛を呼び起こし、主のみ言葉を伝えなければなりません。

ラザロが意味する異邦人の教会の善が、蘇ると宣言されます。悪と偽りが結びついてしまって滅びた異邦人の教会の善が蘇ると宣言されます。そして、主は教会の蘇りを宣言されます。

「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。」
(11:25,)
生命とは、「善を意志し、真理を信じること」(AC7494)でした。
主を認めることが霊的生命のすべてです。最初であり、教会の最も本質的なことです。主を信じなければ、天界から信仰の真理も、愛の善も受けとることができません。(AC 10083:6)
なぜなら、主おひとりが善そのものであり、真理そのものであるからです。主を信じることが、教会の第一です。

「また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。このことを信じますか。」(11:25,26)

主イエスが真理への情愛を意味するマルタに、「主が蘇りであり、いのちである」という真理をお告げになります。そしてマルタは、主を信じると答えます。
彼女はイエスに言った。「はい、主よ。私は、あなたが世に来られる神の子キリストであると信じております。」(11:27)
主を信じると答えたため、真理の情愛は、活気づき、生き返ります。

主は、その後、善への情愛を意味するマリアをお呼びになります。真理への情愛を意味するマルタを通じて、マリアをお呼びになったことに注目してください。「先生がお見えになり、あなたを呼んでおられます。」(11:28)とささやきます。主を愛していたマリアが、なかなか登場しないのは、善が滅びかけて、善への情愛が現れないためです。私達はまず、真理への情愛を呼び起こし、主のみ言葉を伝えなければなりません。

「イエスはまだ村に入らず、マルタが出迎えた場所におられ(11:30)」ました。善への情愛であるマリアが、家から出てくるまで、主はお近かづきになることができませんでした。それは、善の情愛が、動かされて、活動し始めるのを待っておられたからです。善の情愛は、信仰に応じて、自ら動きださねば、生命を持てません。

天界の教えは、続きます。
主は同時に、主を信じる者は、戒めに従って生きなければならないと教えられます、その生活が信仰に入ることであるからです。(AC 10083:6)
善への情愛によって動き、主に従わなければ、異邦人の善である教会は蘇りません。

そして、マリアはイエスがおられるところに来た。そしてイエスを見ると、足もとにひれ伏して言った。「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。」(11:32)

善の教会の蘇りには、善の情愛を意味するマリアが、主を迎え足元にひれ伏す、「卑下」が必要です。
私たちは、善が何に対しての善か、卑下によって明らかにします。教会の礼拝に卑下と賛美が求められるのも、この理由からです。自分が偉いと思っているなら、本物の善である主を迎え入れることができません。卑下がなければ自分を讃えることになります。最高の善である主を迎え入れるためには、卑下という動作が必要不可欠です。主のためではありません。私たち自身のためです。

イエスは、彼女が泣き、一緒に来たユダヤ人たちも泣いているのをご覧になった。そして、霊に憤りを覚え、心を騒がせて、「彼をどこに置きましたか」と言われた。彼らはイエスに「主よ、来てご覧ください」と言った。イエスは涙を流された。(11:33-35)

教会の善が蘇るためには、主の慈悲が必要です。私たちには不可能で、主ご自身にしかできない業です。あわれみと同時に、ラザロの状態を確かめるために、葬った場所を問われます。

ユダヤ人たちのうちのある者たちは、「見えない人の目を開けたこの方も、ラザロが死なないようにすることはできなかったのか」と言った。
真理の蘇りであれば、盲人の目を開けたように、目を開けるのは、本人の偽りを、取り除くだけです。しかし、善の蘇りは簡単ではありません。悪と偽りが、本人の悪と固く結びついているためです。

まず墓の洞穴をふさいでいる石、悪と偽りを取り除かなければなりません。悪と偽りを表す石がとりのぞかれると、イエスは大声で叫ばれた、「ラザロよ、出て来なさい。」(11:43)

すると、死んでいた人が、手と足を長い布で巻かれたまま出て来た。彼の顔は布で包まれていた(11:44)。
悪と偽りを取り除き、主のお力によって善が動き始めます。善の教会は、蘇ります。しかし長い布と顔の布に偽りが、残っています。最後に蘇った善から、偽りを取り除くよう、主は命じられます。

イエスは彼らに言われた。「ほどいてやって、帰らせなさい。」(11:44)。アーメン。

【新改訳】
Ⅱ列王記
13:20 こうして、エリシャは死んで葬られた。モアブの略奪隊は、年が改まるたびにこの国に侵入していた。
13:21 人々が、一人の人を葬ろうとしていたちょうどそのとき、略奪隊を見たので、その人をエリシャの墓に投げ入れて去って行った。その人がエリシャの骨に触れるやいなや、その人は生き返り、自分の足で立ち上がった。

ヨハネ福音書
11:20 マルタは、イエスが来られたと聞いて、出迎えに行った。マリアは家で座っていた。
11:21 マルタはイエスに言った。「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。
11:22 しかし、あなたが神にお求めになることは何でも、神があなたにお与えになることを、私は今でも知っています。」
11:23 イエスは彼女に言われた。「あなたの兄弟はよみがえります。」
11:24 マルタはイエスに言った。「終わりの日のよみがえりの時に、私の兄弟がよみがえることは知っています。」
11:25 イエスは彼女に言われた。「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです。
11:26 また、生きていてわたしを信じる者はみな、永遠に決して死ぬことがありません。あなたは、このことを信じますか。」
11:27 彼女はイエスに言った。「はい、主よ。私は、あなたが世に来られる神の子キリストであると信じております。」
11:28 マルタはこう言ってから、帰って行って姉妹のマリアを呼び、そっと伝えた。「先生がお見えになり、あなたを呼んでおられます。」
11:29 マリアはそれを聞くと、すぐに立ち上がって、イエスのところに行った。
11:30 イエスはまだ村に入らず、マルタが出迎えた場所におられた。
11:31 マリアとともに家にいて、彼女を慰めていたユダヤ人たちは、マリアが急いで立ち上がって出て行くのを見て、墓に泣きに行くのだろうと思い、ついて行った。
11:32 マリアはイエスがおられるところに来た。そしてイエスを見ると、足もとにひれ伏して言った。「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。」
11:33 イエスは、彼女が泣き、一緒に来たユダヤ人たちも泣いているのをご覧になった。そして、霊に憤りを覚え、心を騒がせて、
11:34 「彼をどこに置きましたか」と言われた。彼らはイエスに「主よ、来てご覧ください」と言った。
11:35 イエスは涙を流された。
11:36 ユダヤ人たちは言った。「ご覧なさい。どんなにラザロを愛しておられたことか。」
11:37 しかし、彼らのうちのある者たちは、「見えない人の目を開けたこの方も、ラザロが死なないようにすることはできなかったのか」と言った。
11:38 イエスは再び心のうちに憤りを覚えながら、墓に来られた。墓は洞穴で、石が置かれてふさがれていた。
11:39 イエスは言われた。「その石を取りのけなさい。」死んだラザロの姉妹マルタは言った。「主よ、もう臭くなっています。四日になりますから。」
11:40 イエスは彼女に言われた。「信じるなら神の栄光を見る、とあなたに言ったではありませんか。」
11:41 そこで、彼らは石を取りのけた。イエスは目を上げて言われた。「父よ、わたしの願いを聞いてくださったことを感謝します。
11:42 あなたはいつでもわたしの願いを聞いてくださると、わたしは知っておりましたが、周りにいる人たちのために、こう申し上げました。あなたがわたしを遣わされたことを、彼らが信じるようになるために。」
11:43 そう言ってから、イエスは大声で叫ばれた。「ラザロよ、出て来なさい。」
11:44 すると、死んでいた人が、手と足を長い布で巻かれたまま出て来た。彼の顔は布で包まれていた。イエスは彼らに言われた。「ほどいてやって、帰らせなさい。」

天界の秘義7494.
そのため、愛の善と信仰の真理を捻じ曲げ、あるいは消し、否定した者は、生命を持つことができません。なぜなら神的なものからくる生命は、善を意志し、真理を信じることであるからです。
しかし、善を意志せず、悪を求める者、あるいは真理ではなく偽りを信じる者は、生命に反することになります。この正反対の生命は、地獄であり、「死」そして「死人」と呼ばれます。
愛と信仰が「生命」そして「永遠の生命」と呼ばれ、内にそれらを宿す人は、「生きている人」と呼ばれ、生命に反した者は、「死」そして「永遠の死」として、死者と呼ばれたのは、み言葉の多くの文章から明らかです。

羊たちの門

そこで、再びイエスは言われた。「まことに、まことに、あなたがたに言います。わたしは羊たちの門です。(ヨハネ10:7)

主は、羊たちの門であると述べられます。

羊たちといえば、大人しく飼い主に聞き従う群衆のことのように聞こえます。羊は、概ね大人しくしていますが、すべてが常に穏やかというわけではありません。羊には大人しいものもいれば、暴れるものもいます。
しかし、天界の教えは、
「羊は、仁愛の善にいる者を意味し、そのため抽象的な意味で「羊」は仁愛の善を意味」 (AE1154)すると教えます。
羊それぞれの個性に注目するのではなく、羊が「仁愛の善」すなわち、隣人を思いやる心から生まれる善を行う人あるいは、その性格自体を意味します。
もちろん、善を行わない人、みせかけだけの善を行う人、悪を行う人は、羊ではありません。
羊が、門の囲いの中にいるかどうかは、どのように区別されているのでしょうか?

主の声を聞き分け、従う人たちです。「わたしの羊たちはわたしの声を聞き分けます。わたしもその羊たちを知っており、彼らはわたしについて来ます。」(10:27)
もちろんこれは、主の肉声を聞き分けるということではありません。さらに、よく街中にいる「主の声を聞いた」と主張する人のことでもありません。声とは、肉声や霊の声ではなく、主の神的真理のことであり、すなわち、み言葉のことです (AC9926:3) 。
この神的真理は、仁愛の善にいる者に流入し、知性を与え、善にいるのに応じて知恵を与えます(AE 261:2)。み言葉を大切にし、深く学び、それを神からの言葉として、理解し守る人々に、この世の生活でいかに戒めを守り、隣人に役立てるか、という知恵が与えられます。闇雲(やみくも)に神の声を聴いたと騒ぎ立てるのではなく、深く思慮した上で守る人のことです。

羊の門には様々な人がやってきます。中には、人に善かれと思って主の前に立ち、決して害意や悪意を持たず、様々な真理を述べたり、善いことを行ったりする人が含まれています。牧師や聖職者と呼ばれる人も、その内の一人である可能性が高いと思われます。

しかし、主はおっしゃいます。「わたしの前に来た者たちはみな、盗人であり強盗です。」(10:8 )
聖職者も含めて、全員が盗人となります。

もし世で、私たちが、同じようなことを言えば、来た人すべてを全否定しているように聞こえます。
これは何かの間違いでしょうか?それとも何か深い意味があるのでしょうか?
しかし、ここで盗人・強盗とおしゃっているのは、間違いではありません。

天界の教えによれば、
「すべての霊的善、すなわち信仰と思いやりのすべては、主おひとりから来ており、人からは全くきていません。そのため「盗み」によって、主に属するものを人に帰することが意味されます。これを行う人は「盗人と強盗」と呼ばれ(AC8906)」ることになるからです。

十戒には「盗むなかれ」という戒めがあります。人のものを盗んだら、法律では犯罪者とされ、日常生活で盗み癖のある人や、生活に困った人ならともかく、一見、簡単な戒めのように感じます。
しかし、善いことを話し、行ったつもりでも、それは自分から行ったものではないと意識することは、簡単ではありません。手柄を誇りたいのは、私たちの持って生まれた本性でもあり、社会では自分の功績を誇るよう推奨する風潮まであるからです。

そして、人はついつい善いことは自分が語り、行ったものとして、自分の功績とするので、これを拒まねばなりません。これは、真のキリスト教の冒頭の新教会の信条(TCR 3)にも明記され、特に守らなければならない戒めです。私たちが意識して善と真理のすべてを主に帰さないなら、残念ながら、私たちは盗人・強盗となってしまいます。

主はご自身のことを、羊たちの門(10:7)、門(10:9)、良い牧者(10:11)と形容されています。

「門」は真理、善、あるいは主に導入し、囲いに入場させるものを意味します。「門」は真理そのもの、善そのもの、主ご自身です、なぜなら真理は善に導き、善は主に導くからです。(AC 2356:2)

そして、導かれる門の中は、天界であり教会です(AE 208:2)。
私たちが、求めるものは、永遠の幸福を与える天界です。決して狭い囲いの中ではありません。
天界は主に守られ、善自体、そして真理自体であるため、悪や偽りが近づけません。悪や偽りが近づいても、そこで目指すものが、根底から異なっているため、天界の大気の中で生きてゆくことができません。窒息したように苦しんでしまいます。
そして、教会は地上の天界です。少なくとも、天界を目指しています。天界を目指さないのは教会ではありません。書籍の出版・普及だけにこだわるのは、教会とはいえません。

天界は何かというと、簡単にいえば、主への愛と、隣人への愛にいるものが集まるところです。
自分自身と同じ程度に、隣人を愛し、あるいは自分以上に主を愛する霊・人が集まるところです。そして天界自体は、神の似姿・像として創造されているため、人間の形となっています。

すなわち、羊の囲いと門のたとえは、天界を描いた、たとえの一つです。
そしてその最も重要なものは、主ご自身が描かれているということです。これが門であり、良い牧者です。

主は、真理そのもの、善そのものです。しかし善も真理も、存在そのものである「父」のままでは私たちも、天使も見ることはできません。私たちがイメージできるもの、見える存在でなければなりません。私たちは自然的存在であるからです。
そこで主は、「門」として、善と真理を実行し、どのようなことを行えば、天界に行けるのか、この世に生まれ、教えられます。
「だれでも、わたしを通って入るなら救われます。また出たり入ったりして、牧草を見つけます。」(10:9) 

天界の教えによれば、
「出たり入ったり」とは愛と信仰の善に入ることを意味し、人生のあらゆる局面において主に導かれることを意味します。すなわち、主からそして愛と信仰から、自由のうちに善であることを考え、意志します。(AC9927:4)
牧草とは、霊的生命を支えるもので、記憶知に含まれる真理を意味します(AC6078)。

み言葉から、真理を見つけ出し、それを自由から実行に移します。この自由が私たちの選択となり、私たちの愛を育ててゆきます。一方的な命令ではなく、自由から主の教えを選択して実行します。あれはしてはならない、これはしてもよい、と雁字搦め(がんじがらめ)の中で生きてゆくのではありません。
み言葉を読み、そこから人生をどう生きてゆけばよいかを学び、み言葉の教えを主の教えと考え、喜んで従うかどうかです。

もし、自分の思いを捨て、喜んで主の導きに従ってゆくなら、真理と善によって自分の行動を作り直してゆくことになります。自分で深く考えなければなりません。考えて選ぶなら、主に導かれることになります。

主が来られたのは、私たちが善と真理によって自分を作り替え、「いのちを得るため、それも豊かに得るためです」(10:10)。
主の導きに従うのは、新しい生命、善と真理によって自分自身の生命を作り直すことです。これを行う度に、私たちの生命は新しく生まれてゆきます。

しかし、良い牧者でない雇いの牧者がいます。肉体のいのち(AE 750:4)をかける良い牧者と違い、雇い人は、世のなかの利得のために働いています(AC8002:5)。自分の名誉や、世の聞こえを求めて、導いています。そのため狼が来ると逃げてしまいます。
「牧者でない雇い人は、羊たちが自分のものではないので、狼が来るのを見ると、置き去りにして逃げてしまいます。それで、狼は羊たちを奪ったり散らしたりします」(10:12)
狼とは、捕まえようとするものです(AC6441)。狼は、すべての事柄、み言葉の内意も含めて、自分を偉大に見せよう、利がある方向に解釈します。それはみ言葉の冒涜です。(SE4550)

狼は、自分の利得のためだけに、行動し、み言葉を解釈するので、同じ自分の利得だけを目的にしている雇人も、利得がなければ逃げてしまいます。天界という目的を見失えば、羊はばらばらになってしまいます。日本の新教会、そして世のキリスト教会、どんな集団であっても、自分の利得を求めるなら、狼に会って逃げるように、ばらばらになってしまいます。ばらばらになるのは、出版や教会員の社交など二次的な目的にこだわりすぎて、天界という第一の目的を見失うからです。

「わたしにはまた、この囲いに属さないほかの羊たちがいます。それらも、わたしは導かなければなりません。その羊たちはわたしの声に聞き従います。そして、一つの群れ、一人の牧者となるのです。」
(10:16)
この囲いに属さない羊とは、ばらばらになってしまっても、一つの群れに戻るから大丈夫だというのではありません。エゼキエル書にも描かれていますが、天的王国のことです。

「ユダ」は霊的意味では主の天的王国を意味し、「イスラエルの息子」は主の霊的王国を意味します。
; 「ヨセフ」と「エフライム」そして「イスラエルの散った種族は一つに集められる」とは、これらの王国の下にあり、天的でも霊的でもなく、自然的でした。しかしそれぞれの宗教に従って善い生活を送っています。・・・
これらは主が来られるまでは、天界ではなく、主がご自身を栄化された後、天界に入れられます。その時まで神から発するものは彼らに届きませんでした。(AE433)

私たちの霊的天界は、主がご自身を栄化して、父と一つになられた時に、はじめて天界となりました。
主の御業なくしては、私たちは天界に進むことはできません。主の御業は、私たちの想像をはるかに超えるものです。それは、主の御業を信じてついてくる者のために、新しい天界をおつくりになるというものでした。天界を創造する、これは神である主ご自身にしかできません。

しかし(わたしが、わたしの父のみわざを)、行っているのなら、たとえわたしが信じられなくても、わたしのわざを信じなさい。それは、父がわたしにおられ、わたしも父にいることを、あなたがたが知り、また深く理解するようになるためです。」(10:38 )

残念なことに当時のユダヤ人は、主を理解せず、主を石で打とうとします。それらの者たちのもとから一時的に逃げられます。
しかし、主はご自身の身体の生命を失うことを恐れず、信じる者を救おうとする主のみ言葉と業は、ヨルダン川の向こうの異邦人の心を深く打ちます。そして、異邦人のもとで、善い生活を行い、主を受け入れた者たちのために新しい天界を創造されます。

「多くの人々がイエスのところに来た。彼らは「ヨハネは何もしるしを行わなかったが、この方についてヨハネが話したことはすべて真実であった」と言った そして、その地で多くの人々がイエスを信じた。(10:41,42) アーメン 

【新改訳】
エゼキエル書
37:15 次のような【主】のことばが私にあった。
37:16 「人の子よ。あなたは一本の杖を取り、その上に『ユダと、それにつくイスラエルの人々のために』と書き記せ。もう一本の杖を取り、その上に『エフライムの杖、ヨセフと、それにつくイスラエルの全家のために』と書き記せ。
37:17 その両方をつなぎ、一本の杖とし、あなたの手の中で一つとなるようにせよ。
・・・
37:21 彼らに告げよ。『【神】である主はこう言われる。見よ。わたしはイスラエルの子らを、彼らが行っていた国々の間から取り、四方から集めて彼らの地に導いて行く。
37:22 わたしが彼らを、その地、イスラエルの山々で一つの国とするとき、一人の王が彼ら全体の王となる。彼らは再び二つの国となることはなく、決して再び二つの王国に分かれることはない。

ヨハネ福音書
10:1 「まことに、まことに、あなたがたに言います。羊たちの囲いに、門から入らず、ほかのところを乗り越えて来る者は、盗人であり強盗です。
10:2 しかし、門から入るのは羊たちの牧者です。
10:3 門番は牧者のために門を開き、羊たちはその声を聞き分けます。牧者は自分の羊たちを、それぞれ名を呼んで連れ出します。
10:4 羊たちをみな外に出すと、牧者はその先頭に立って行き、羊たちはついて行きます。彼の声を知っているからです。
10:5 しかし、ほかの人には決してついて行かず、逃げて行きます。ほかの人たちの声は知らないからです。」
10:6 イエスはこの比喩を彼らに話されたが、彼らは、イエスが話されたことが何のことなのか、分からなかった。
10:7 そこで、再びイエスは言われた。「まことに、まことに、あなたがたに言います。わたしは羊たちの門です。
10:8 わたしの前に来た者たちはみな、盗人であり強盗です。羊たちは彼らの言うことを聞きませんでした。
10:9 わたしは門です。だれでも、わたしを通って入るなら救われます。また出たり入ったりして、牧草を見つけます。
10:10 盗人が来るのは、盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするためにほかなりません。わたしが来たのは、羊たちがいのちを得るため、それも豊かに得るためです。
10:11 わたしは良い牧者です。良い牧者は羊たちのためにいのちを捨てます。
10:12 牧者でない雇い人は、羊たちが自分のものではないので、狼が来るのを見ると、置き去りにして逃げてしまいます。それで、狼は羊たちを奪ったり散らしたりします。
10:13 彼は雇い人で、羊たちのことを心にかけていないからです。
10:14 わたしは良い牧者です。わたしはわたしのものを知っており、わたしのものは、わたしを知っています。
10:15 ちょうど、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じです。また、わたしは羊たちのために自分のいのちを捨てます。
10:16 わたしにはまた、この囲いに属さないほかの羊たちがいます。それらも、わたしは導かなければなりません。その羊たちはわたしの声に聞き従います。そして、一つの群れ、一人の牧者となるのです。
10:17 わたしが再びいのちを得るために自分のいのちを捨てるからこそ、父はわたしを愛してくださいます。
10:18 だれも、わたしからいのちを取りません。わたしが自分からいのちを捨てるのです。わたしには、それを捨てる権威があり、再び得る権威があります。わたしはこの命令を、わたしの父から受けたのです。」

黙示録解説208:2
(ヨハネ10:1-3, 7, 9).
「門を通って入る」とは明らかに主を通して入ることです、なぜなら「私は羊の門である」と言われているからです。主を通して入るとは、多くの節にあるように、主に近づき、主を認め、主を信じ、主を愛することです。そうして人は天界にはいります。他に道はありません。そのため主はおっしゃいます、「私を通して入る者は救われます」、「ほかの所を乗り越えて来る者は、盗人で強盗です。」

ゴシェン

イスラエルは、彼に属するものすべてと一緒に旅立った。46:1

イスラエルの息子の一人であり、エジプトの支配者となったヨセフは、飢餓に襲われていた父とその一族を、カナンから呼び寄せることに成功します。エジプトへの移住は、カナンに残って飢えに苦しむよりは、何倍もましだと考えるかもしれませんが、未来を予見することができたヨセフには、飢餓はこれからも続き、カナン自体が滅びてしまうことを予見できました。それを見越して、あえてとった行動です。そうでなければ、何年も住んできた先祖伝来の地を離れることなどできなかったことでしょう。

ヨセフは、主イエスを表象します。主イエスが、旧くなって善と真理の知識さえ乏しくなった教会に、いかに生命を吹き込み、生き返らせるかを描いています。
そしてこの46章は、内的・天的なものであるヨセフと、自然的なものからの霊的善を意味するイスラエルの結合を描いています(AC5994)。

「神は、夜の幻の中でイスラエルに、『ヤコブよ、ヤコブよ』と言って呼ばれた。」(46:2)
イスラエルの名は、ここではヤコブに変わります。イスラエルは自然的なものの内的なもの、ヤコブは自然的なものの外的なものを意味します。同じ人物でも、表象する事柄によって、呼び名が異なります。
夜の幻の中、真理の認識がおぼろげとなって、呼び名も外的なものへの呼びかけです。ヤコブの内に隠れる結合への不安、大規模な移住への不安が読み取れます。
そして外的なものを表象する、その子・孫の名が続きます。ルベンとその子、シメオンとその子、レビとその子、ユダとその子・・・と十二人の子と子孫の名が続きます。自然的・外的なものの真理が意味されます。

ただし、ヨセフがエジプトで作った子、マナセとエフライムは、エジプトの新しい地で、すでに新しく生まれています。この二人を除くヤコブの一族は、パダン・アラムの地で生まれています。これらの生まれた地の違いは、それら旧い信仰のすべては、新しい地エジプトの善と真理の知識によって生まれ変わらなければならないことを示唆しています。
そして、エジプトで生まれたマナセは新しい意志、エフライムは新しい知性が意味されます。(AC6025)

カナンで育ったはずの教会の善と真理の知識は、整理して秩序立て、新しい生命を与えられ、生まれ変わらねばなりません。教会の善と真理は、世の移り変わりと人間の遺伝悪の累積に応じて、役に立たなくなり、善と真理が不足してきます。主が地上にお越しになった時のユダヤ教会がその典型ですが、それだけにはとどまりません。そのような場合に、主は何をされるかを知り、私たちも自分の中身を整理して新しい生命を受ける必要があります。

日本の宗教界も、目先を変え様々な方向に私たちを導きます。それは新教会といえ同じです。
しかし主は何を基準とすべきか、道しるべを与えられています。

「さて、ヤコブはユダを先にヨセフのところに遣わしてゴシェンへの道を示させた。それから彼らはゴシェンの地に行った。」(46:28)

ゴシェンの地名がどのあたりを意味するかはあまり明確ではありません。天界の教えには、
「ゴシェンはエジプトの地の最良の広がりで、記憶知である自然の内の最良部分で、真中あるいは中央です。なぜなら善自体がそこにあり、太陽のように、周辺にある真理に光を発するからです。」(AC5910)とあり、真理を照らす善を意味しています。偏らず、善から諸真理を判断・活かします。
その結果、善は天界のように美しい並びを表します。

「最高の善は中央に存在し、それはすなわち中心で、最奥部分です。その周りはすべての方角に他の段階の善があり、天界の模様に従い、善の段階に従って中央に近いほうから遠く周辺へと、位置づけされています。これは再生された人に、どのように異なる段階の善が、配列されているかを示します。」(AC6028)。
何が善であり悪であるか、重要性によって、矛盾なく並びます。何が大切で、何が大切でないか、天界の基準に従った調和で配列されるのが「ゴシェンの地」です。

ユダが先駆けとして送られたのも、ユダは自然的善を意味し、ヨセフが表す内的善とは、直接の交流が行われるためです。(AC6027)

自然的善と内的善が交流しながら、善の結合と配列が始まります。ゴシェンの地で、父イスラエルとヨセフは再会を果たし、「父に会うなり、父の首に抱きつき、首にすがって泣き続けた。」(46:29)
この章に中心となる、内的・天的なものであるヨセフと、自然からの霊的善を意味するイスラエルの結合がなされます。

今まで抽象的に善であると自然的に考えられていたものが、内的・天的な根拠を与えられ、天界的生命を得ます。抽象的に考えられていた霊的善に、天界的・内的な善から流入が起こります。そして、結合は相互的なものであるため、霊的善はそれを受け入れます。

この善の地を新しい住まいとして定め、エジプトすなわち記憶知全体にも、受け入れさせねばなりません。全体的記憶知一般であるファラオが、私たちが是とする善を受け入れなければ、私たちはエジプトには住めなくなり、将来的に飢餓が予見されるカナンに戻る危険性さえ出てきます。

しかし私たちとファラオの間は、実は双方向ではありません。双方向の関係ではないので、イスラエルとヨセフのように結合できません。結合や交流はどのようにして起こるのでしょうか?天界の教えは、さまざまな交流は「流入」によって起こるといいます。そのため、流入の性質を知らなければなりません。

自然的なものは何も感知することができません。自然的なものだけでは、悟りなどのあらゆる知的な認識は不可能です。自然的なものの世界だけにいるなら、交流することすらできません。私たちの世界、国と国、教会と他の教会、社会と社会、集団同士、他人との付き合いが、いかに難しいかを考えれば、その難しさがわかります。
なぜなら、あらゆる認識は内的なものから外的なものへ流入によって起こるからです。(AC6040)
同じ次元にいて、認識した、あるいは悟ったといっても、それは状況が変化すると、すぐに意見を変えてしまいます。つねに変化する主観でしかありません。自然界にいて、物事を観測しても絶対的な評価とはいえません。観測する側も変化するからです。
宇宙や微小な世界を観測しても、常に新しい発見があり、なかなか定まりません。同じ平面、同じ次元で見ようとするからかもしれません。科学が、すべてを一元的に説明する理論を探っても、難しい壁に当たってしまうのは、そのせいかもしれません。

流入は、いわば因果のようなものであり、「物事は常に前にあるものからやってきます。(AC6040)」
物事が起こる原因は、前の世界にあり、その前の世界は、段階が異なるので、後の世界の中では決して把握することができません。物事の存在は、常に前の段階をたどってゆかねば本質はわかりません。
それ自体からは何も存在しませんが、前にあるものから起こります、そしてついに、すべては「最初」、すなわち「存在とそれを存在させるもの(Esse&Existere)」に帰着します。そこからすべてが存在します。(同上)

そしてこの「存在と存在させるもの」とつながることができれば、本物の生命を得ることができます。永遠にこのつながりを十分に得るためには、形どうしが似たような形にならなければなりません。配列が同じようにならなければなりません。人間と、爬虫類のように遺伝子が離れてしまうと、交流や結合は難しくなります。

人間は神の形の似姿・像として創造されています。その形の配列が、天界の形であり、天界の形は、「巨大人」の形、人間の形です。私たちが、主を愛し、主が全人類を愛して、すべてのものを与えようとされているため、それを受け取るためには、主と同じような形をとるようにしなければなりません。霊界では、その形を見て、明らかな形で認識できるといいます。

しかし霊界にいない私たちは、主と同じような形、人間の形が具体的にどうなっているかをイメージして確認することはできません。記憶知的による感覚的な印象によって確認することは、幻想による確認に結びつきやすく、地獄の影響、私たちの内にある自己愛の影響によって、異端や怪しげな宗教は、荒れ果てた地に雑草がすぐ繁殖するように、いくら取り除いてもすぐ生えて当たりを埋め尽くします。
この世では、より確固たるものによる必要があります。

天界の教えは、教会の真理と、記憶知の結びつきはみ言葉によって確認しなければならないと教えます。
(AC6047) 天界の教義自体が、み言葉の句について一つ一つ確認していて、単なる読者にとっては、煩わしい感があると思います。しかし、この確認は、天界の教えの源が、み言葉にあることを教えています。

真理への情愛を持って、み言葉によって真理を確認しなければ、私たちは簡単に、偽りによって騙されてしまいます。しかし、これがたった一つの天界とのつながりを確認する方法です(AC6047)。もし人が真理への情愛を本当に持つならば、この手間を惜しんではなりません。人がそう言ったからではなく、それぞれがこの確認を行う必要があります。新教会でこの作業を行っている人が、ごくわずかです。それは真理への情愛が不足しているからです(AC6047)。簡単な入門書だけでは、真理への情愛を継続することはできません。これが、新教会からの離脱者の増加の要因の一つです。

天界の形を地上、この自然界に実現しようとするためには、自然界の支配者のエジプトのファラオにその形を伝え、わたしたちの生き方を認めさせねばなりません。み言葉から確認して、私たちの生き方が主とつながっていることを確認していることを伝えなければなりません。

ヨセフは兄弟たちや父の家族に言います。
み言葉で「言う」というとき、それは流入を意味しています。天的な認識から、自然的真理や善に流入があり、認識したことが意味されます。

「もしファラオがあなたがたを呼び寄せて、『おまえたちの職業は何か』と聞いたら、こう答えてください。」(46:33,34)
ファラオで意味される自然的なもの自体が認識を持つことはできません。そのため天的善であるヨセフから流入を受けた自然的な善と真理は、ファラオに伝え、理解させなければなりません。

「この人たちは羊飼いです。家畜を飼っていたのです。」(46:32)
羊を飼う者とは「教え導く者です」。そして家畜とは、「教えられ導かれる者」を意味します(AC6044)。

自然界の中で、新しい価値、違った価値はすぐには受け入れることは容易ではありません。しかし自然界で居場所がなければ、いつかは飢えて死にます。教会は滅んでしまいます。そこで、このエジプトの中、記憶知だけですべて知識としてだけとどめておく地で、生き抜くためには、常に善と真理を教え、それを実現するよう導き続けなければなりません。善に導き続けること。これが教えるほうにも、学ぶ側にとっても必要です。そしてその根拠が、唯一の絶対者、神とつながっていることをみ言葉によって確認し、強化します。これは新しい地でも欠かせません。

『しもべどもは若いときから今まで、家畜を飼う者でございます。私たちも、また私たちの先祖も』と。
そうすれば、あなたがたはゴシェンの地に住めるでしょう。」(46:34)アーメン。

【新改訳】
創世記
46:1 イスラエルは、彼に属するものすべてと一緒に旅立った。そしてベエル・シェバに来たとき、父イサクの神にいけにえを献げた。
46:2 神は、夜の幻の中でイスラエルに「ヤコブよ、ヤコブよ」と語りかけられた。彼は答えた。「はい、ここにおります。」
46:3 すると神は仰せられた。「わたしは神、あなたの父の神である。エジプトに下ることを恐れるな。わたしはそこで、あなたを大いなる国民とする。
46:4 このわたしが、あなたとともにエジプトに下り、また、このわたしが必ずあなたを再び連れ上る。そしてヨセフが、その手であなたの目を閉じてくれるだろう。」
46:5 ヤコブはベエル・シェバを出発した。イスラエルの息子たちは、ヤコブを乗せるためにファラオが送った車に、父ヤコブと自分の子どもたちや妻たちを乗せた。
46:6 そして、家畜とカナンの地で得た財産を携えて、ヤコブとそのすべての子孫は、一緒にエジプトにやって来た。
46:7 彼は、自分の息子と孫、娘と孫娘、すなわちすべての子孫を、一緒にエジプトに連れて来た。
・・・

46:28 さて、ヤコブはユダを先にヨセフのところに遣わして、ゴシェンへの道を教えてもらった。そうして彼らは、ゴシェンの地にやって来た。
46:29 ヨセフは車を整え、父イスラエルを迎えにゴシェンへ上った。そして父に会うなり、父の首に抱きつき、首にすがって泣き続けた。
46:30 イスラエルはヨセフに言った。「もう今、私は死んでもよい。おまえがまだ生きていて、そのおまえの顔を見たのだから。」
46:31 ヨセフは兄弟たちや父の家の者たちに言った。「私はファラオのところに知らせに上って行き、申しましょう。『カナンの地にいた、私の兄弟たちと父の家の者たちが、私のところにやって来ました。
46:32 この人たちは羊飼いです。家畜を飼っていたのです。この人たちは、自分たちの羊と牛と、所有するものすべてを連れて来ました。』
46:33 もしファラオがあなたがたを呼び寄せて、『おまえたちの職業は何か』と聞いたら、
46:34 こう答えてください。『しもべどもは若いときから今まで、家畜を飼う者でございます。私たちも、また私たちの先祖も』と。そうすれば、あなたがたはゴシェンの地に住めるでしょう。羊を飼う者はみな、エジプト人に忌み嫌われているからです。」

マタイ福音書
11:25 そのとき、イエスはこう言われた。「天地の主であられる父よ、あなたをほめたたえます。あなたはこれらのことを、知恵ある者や賢い者には隠して、幼子たちに現してくださいました。
11:26 そうです、父よ、これはみこころにかなったことでした。

天界の秘義6047
[2] ここでの主題は、教会の真理と記憶知が結ばれ会うことですが、どのように結ばれるか知る必要があります。結びつきは、信仰の真理をのぞき込む記憶知から始まってはなりません。なぜなら人の記憶知は感覚的な印象、すなわち世そして無数の幻想から来るからです。信仰の真理から始まらなければなりません、すなわち次のように進まなければなりません。
一番、最初に教会の教えることを知り、それらの教えが真理であるか、み言葉から発見しなければなりません。物事が真であるかどうかは、教会の指導者がそう宣言し、信者が支持しているからではありません。もしそれがそうであるなら、どんな教会の教えや宗教であっても、人の生まれの土壌のものであり、その中に生まれついたから、真理であるということになります。すると、カトリック教徒あるいはクウェーカー教の教えが真理であるだけではなく、ユダヤ教やムハマドの教えも真理となります、なぜならそれらの教会の指導者がそう宣言し、信者も支持するからです。このすべてから、人はみ言葉を探し、そこに教会が真理を教えているかどうかを見なければならないことは明らかです。真理への情愛がその精査を動機付けしているとき、人は主から光を受け、見分けることができます。しかしながら、その啓蒙の源に気づかないので、何が真理であるかは善によって治められるほど、確信を持つことができます。
しかし、真理が彼によって見分けられるなら、教会の教えによって変化するので、彼は教会の中で騒動をもたらすことに警戒しなければなりません。

生まれつきの盲人

生まれつきの盲人

イエスは答えられた。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。この人に神のわざが現れるためです。」(9:3)

聖書に記載されている、生まれつきの盲人の目を開けた奇跡とは、物理的に目の見えない障碍者が、主の御業によってたちまち目が見えるようになったという奇跡の業です。盲人の両親も当時は手を尽くしたはずですが、盲人である本人は、座って物乞いをして生きてゆくしか道はありませんでした。

しかし、この奇跡の業が、いつどこでも、ただ主を信じれば起こるかと言われれば、残念ながら首をかしげてしまいます。医学の発展を祈るとしても、すべての障害がいつか必ず癒されると請け合うことはできません。

それではこの奇跡によって、主は現代に住む私たちに何を教えられたかったのでしょうか?
天界の教えによれば、盲人、目が見えないとは「認識の欠如」あるいは「信仰の欠如」を意味すると(AC 6990)言われています。そして、「生まれつきの」盲人とは、み言葉を持たない異教徒として生まれたため、主のことを全く知らなかった者、あるいはみ言葉以外から学んだ者のことをいいます (AE 239:19) 。

私たち日本人の大半は、残念ながらこの「生まれつきの盲人」にあたる可能性があります。み言葉のない生活環境に生まれ、主のことを存じ上げない方がほとんどであるからです。またみ言葉そのものに触れないため、思い込みだけで認識・信仰が欠如している可能性もあります。

信仰の欠如とは、よく「あなたの信仰が足りない」という意味で使われ、信仰を増すためにもっと祈りなさい、献金しなさい、神様のために働きなさいと言われることがあります。宗教がらみの問題が起こると必ず、これらの信仰が足りないからだと言われます。しかし、それは理解を伴わない「思い込み」のことであり、「信仰」ではありません。

信仰は「善く生き、正しい信念を持つ者は、主によって救われる」ために、善く生きようとする強い決心です。そのためには、「人は、主に近づき、み言葉から真理を学び、それによって生きることで信仰を得」ます(真のキリスト教336-3)。信仰が理解の領域で、隣人への思いやりを実行するのが意志の領域とするなら、理解できない信仰は、信仰ではありません。主イエスに近づかず、献金だけを要求する「似非信仰」は信仰ではありません。

そして、善いことと固く結びついているため、善いことを行おうとしない悪人は信仰をもつことができません。心の一方で、自分に有利なことだけを考える人は、求めるものが自分であり、隣人のために善くすることができないので、信仰の正反対です。彼らは十戒を、神から発した命令として守ることができません。誤った信仰や似非信仰に囚われた、パリサイ人も信仰を持つことすらできません。彼らは、イエス・キリストを神として認めず否定し、「神に栄光を帰せ」(9:24)とはいうものの、その神は愛と真の主イエスではなく、目に見えないため、自分だけに便利な神を信仰させます。目に見えない神、理解できない神であれば、どのようにでもごまかすことができます。そのため救いとなる信仰ではありません(真のキリスト教336-3)。

心に悪意や憎悪、排他心を抱く人にも、本当の信仰はできません。彼らの心には、人に思いやりを持つという気持ちがひとかけらもないので、信仰も思いやりがあったとしても、悪意や憎悪にぶつかり、「真珠が塵になるように砕け散」ります。

主はおっしゃいます。「わたしたちは、わたしを遣わされた方のわざを、昼のうちに行わなければなりません。だれも働くことができない夜が来ます。わたしが世にいる間は、わたしが世の光です。」(9:4,5)

主のこのみ言葉は、善から真理を行うことの大切さを語られたものです。そのためにはいつも善にいることができるよう、隣人への思いやりから主の業を働かなければなりません。偽りと悪から働くなら、せっかく真理を得たとしても、真理の光は深い闇に消えてしまいます。

天界の教えはこう説明します。
昼とは、善から真理を行うこと、夜とは悪から偽りを行うことです。・・
人が善の中にいないなら、すなわち、隣人への思いやりを抱かないなら、真理そのものを語ったとしても受け付けません。なぜなら人は、光は肉体と自分の関わる周りの世のことしか興味を抱かず、それを真理だと感じないからです。・・真理の光は深い闇の中に消えてしまいます(AC 6000:3 )。

主は、生来の盲人に対して、地面に唾をして、その唾で泥を作られた。そして、その泥を彼の目に塗って、「行って、シロアム(訳すと、遣わされた者)の池で洗いなさい」(9:6,7)と命じ、盲人は行って洗うと、見えるようになり、帰って行った。と言います。

主の盲人への奇跡は、目を癒すことだけではありません。彼が真理を理解できず、悪と偽りに生きていたことから立ちなおさせることです。

これは「み言葉の字義からの真理によって改心させることを意味します。真理を理解させ、み言葉の字義を意味するシロアムの池で、洗い清めることは、悪と偽りから清めることです」。(AE239[19])
み言葉から教えなければ、主からではなく、別の何かから学ぶことになり、悪と偽りから清くなることはできません。

ヨハネ福音書の中の微妙な言葉の違いから、生来の盲人の立場から、どのように改心が進んでいったかを、見てみます。
最初盲人は、座って物乞いをするしか生きる術はありませんでした。しかし、主イエスの指示に従い、
「行って洗った。すると、見えるようになり、帰って行った。」(9:7)とあくまで受け身の立場、言われたことを実行するだけです。
奇跡を目撃した人たちも、彼について懐疑的です。その人達に問われても、事実を繰り返すだけです。そして、目を癒してくれた恩人のことについて聞かれても、「知りません」(9:12)としか応えません。何の恩も感じていないようです。

主に敵対するパリサイ人のところに連れてゆかれ、事情を聴かれますが、
「あの方が私の目に泥を塗り、私が洗いました。それで今は見えるのです」(9:15)と、恩人がしてくれたことを「あの方」のおかげで、見えるようになったと伝えます。
しかし、パリサイ人にその方のことを問われると、彼は「あの方は預言者です」と答えます。(9:17)
元盲人の認識は進み、知らない人から、預言者へと変化しました。ただの人ではなく、神から言葉を預かった方と認めます。

パリサイ人は、主が安息日に働いたことで「罪びと」という難癖をつけますが、
「あの方が罪人かどうか私は知りませんが、一つのことは知っています。私は盲目であったのに、今は見えるということです。」(9:25) と行いを持って弁護します。盲目を癒してくれたことを認め、恩を感じています。偽りではなく、正しい行いであると認めます。

さらにパリサイ人が主を罪人に定めようとするのに、真っ向から反対します。
「これは驚きです。あの方がどこから来られたのか、あなたがたが知らないとは。あの方は私の目を開けてくださったのです。」(9:30)

主である「あの方」がどこから来たかは、最初のように無知ではなく、自分の持つ知識から確信しています。
「私たちは知っています。神は、罪人たちの言うことはお聞きになりませんが、神を敬い、神のみこころを行う者がいれば、その人の言うことはお聞きくださいます。・・・あの方が神から出ておられるのでなかったら、何もできなかったはずです。」(9:31-33)
主は、神から来られた方である、と堂々と敵であるパリサイ人を前に宣言します。

最初は奇跡の業によって、信じたというだけでした。しかし信仰という自分の心の中の確信が、次第に育ち初めて、不動となっています。悪と偽りに対して、立ち向かう力、善の力を得ています。
パリサイ人という悪と偽りは、「彼を外に追い出し」ます。しかし、これは逆に癒された盲人自身が、悪と偽りを自分自身から追い出したことの証です。

すると主イエスがお越しになって問われます。「あなたは人の子を信じますか。」(9:35)
ここで、彼は最も大切なことを主にお願いします。
「主よ、私が信じることができるように教えてください。その人はどなたですか。」(9:36)

本人からではなく、主から信じるという最も大切なことです。
「主は人の中にある思いやりと信仰であり、人は主の内にある思いやりと信仰である。」(真のキリスト教336-3)
思いやりと信仰の源は主です。人から信じ、信仰するのではありません。信仰と思いやりがあっても、主の力がなければ、信仰は成立しません。
私たちが、自分は信じます、と信仰表明しても、実は人が主から力を借りず信仰することは不可能です。
自分が信仰しているというのは、口先だけです。主から信仰も・仁愛もすべてが来ている、これを確信することが、本当の信仰です。この確信は、人の力ではできません。

彼は「主よ、信じます」と言って、イエスを礼拝した。(9:38)

盲人の目が物理的・医学的に開かれたこと自体が奇跡ではありません。教会の中で、自分の義務も果たすことができず異邦人として、主を認めていなかった者に、正しい信仰の認識を与えることが奇跡の業です。私たちもこの盲人のように、主に近づき、み言葉から真理を学びます。真理を生きぬき、偽りと戦いぬくことで、初めて信仰を得ることができます。

主はおっしゃいます。
「わたしはさばきのためにこの世に来ました。目の見えない者が見えるようになり、見える者が盲目となるためです。」9:39

「さばきのためにこの世にきた」とは、神的真理を啓示するためを意味し、主から賢明である者を見えるようにし、賢明であるとされる者を、自らによって賢明であるとして、盲目とするためです。(AC 9857:9)
私たちは、自分から賢明であると思いあがったり、自分の信仰が誰よりも素晴らしいと自慢したりするのはなく、主から信仰と思いやりを得ていることに気づくことで、初めて本物の認識を得ることができます。「自分は見える」と言い張れば、罪は残ります。

イエスは彼らに言われた。「もしあなたがたが盲目であったなら、あなたがたに罪はなかったでしょう。しかし、今、『私たちは見える』と言っているのですから、あなたがたの罪は残ります。」(9:41)
アーメン


4:10 モーセは【主】に言った。「ああ、わが主よ、私はことばの人ではありません。以前からそうでしたし、あなたがしもべに語られてからもそうです。私は口が重く、舌が重いのです。」
4:11 【主】は彼に言われた。「人に口をつけたのはだれか。だれが口をきけなくし、耳をふさぎ、目を開け、また閉ざすのか。それは、わたし、【主】ではないか。
4:12 今、行け。わたしがあなたの口とともにあって、あなたが語るべきことを教える。」

ヨハネ福音書
9:1 さて、イエスは通りすがりに、生まれたときから目の見えない人をご覧になった。
9:2 弟子たちはイエスに尋ねた。「先生。この人が盲目で生まれたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。両親ですか。」
9:3 イエスは答えられた。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。この人に神のわざが現れるためです。
9:4 わたしたちは、わたしを遣わされた方のわざを、昼のうちに行わなければなりません。だれも働くことができない夜が来ます。
9:5 わたしが世にいる間は、わたしが世の光です。」
9:6 イエスはこう言ってから、地面に唾をして、その唾で泥を作られた。そして、その泥を彼の目に塗って、
9:7 「行って、シロアム(訳すと、遣わされた者)の池で洗いなさい」と言われた。そこで、彼は行って洗った。すると、見えるようになり、帰って行った。

天界の秘義6990.
「目を開け、また閉ざすのか。」とは認識からの信仰を、あるいはその欠如によるための信仰の欠如を意味します。これは「見る」の意義が理解と信仰を持つことであり、(897, 2325, 2807, 3863, 3869, 4403-4411参照)、すなわち、認識の結果としての信仰です。(原語では、開いた者を意味する単語で、正確な意味で目を開いた-そして、開くのに役立つため、認識の結果として見る者を意味します。
認識の欠如の結果から信仰を欠くことが「盲人」の意味であることは、盲人は見ることができないからです。み言葉で、「盲人」が教会外に生きるため、信仰の真理を持たない異教徒を意味しますが、それでも教えられて信仰を受け入れた時は2387参照。主がお癒しになった盲人たちによって以下に意味されます。                                                                                                                                                                                                                                                                         
マタイ9:27-31; 12:22; 20:29-end; 21:14; マルコ 8:22-26; 10:46-end; ルカ 18:35-end; ヨハネ9:1-end.

「真のキリスト教」336[3]
信仰の要点を次に示します。
I  救いとなる信仰は、イエス・キリストを神であり救い主であると信じることにある。
II  信仰は、善く生き、正しい信念を持つ者は、主によって救われる、と要約できます。
III  人は、主に近づき、み言葉から真理を学び、それによって生きることで信仰を得る。
IV  真理の群は、房のように内でまとまり、信仰のレベルが上がるにつれ、完全に近づく。
V  思いやりのない信仰は、信仰ではなく、信仰のない思いやりは、思いりではなく、主がそれらに生命を与えなければ双方とも生命はない。
VI  主と思いやりと信仰は一つであり、それは人の中に生命と意志と理解があるようなものだ:もしそれらが分離すれば、真珠が塵になるように砕け散る。
VII  主は人の中にある思いやりと信仰であり、人は主の内にある思いやりと信仰である。
VIII  思いやりと信仰は、善行の中にともに存在する。
IX  真の信仰、偽の信仰と、偽善的信仰がある。
X  悪人は信仰を持てない。