マナセとエフライム

マナセとエフライム

ヨセフは、父が右手をエフライムの頭に置いたのを見て、それは間違っていると思い、父の手を取って、それをエフライムの頭からマナセの頭へ移そうとした。創48:17

ヨセフは父が病気と聞き、二人の息子、マナセとエフライムを父ヤコブのもとに連れて行きます。ヨセフの目的は、余命わずかの父に、自分の二人の子を一目見せたいという親ごころ、子ごころからだったかもしれません。しかし、ヨセフの子は、ヤコブの子としての祝福を受けます。
「私がエジプトに来る前に、エジプトの地で生まれたあなたのふたりの子は、私の子となる。」(48:5)。

日本でも相続税対策で、実の孫を、自分の養子にすることがあります。聖書のマナセとエフライムも、のちにイスラエルの十二部族に数えられ、それぞれイスラエルに土地を譲り受けることになります。エジプトで一族を引き受けてくれた論功行賞もあったのでしょうか。

しかし、ヨセフの子が、イスラエルの子とされたことには、別の意味があります。
天界の教えによるみ言葉の内意によれば、イスラエルは霊的な人とされています。そして、ヨセフの内的意味は天的な人です。そのため、ヨセフの子であるマナセとエフライムは、本来天的な人となるはずですが、イスラエルの子とされたため、霊的な人の内に含まれることになります。

天界の教えが示すみ言葉の内意によれば、マナセは教会の意志を意味し、エフライムは教会の知性を意味します。双方ともヨセフが意味する内的な人から生まれています。(AC6222) 
マナセとエフライムは、私たちが持ちうる、新しい知性と、新しい意志を意味しています(AC5354)。

これは、ヨハネ福音書で、ユダヤ教の議員であるニコデモに、主が語られた言葉にもあります。
「人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。・・・、人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国に入ることができません。」(3:3,5)と言われたことです(AC5354)。

水と霊によって生まれるとは、み言葉の真理と、それに従った生活を意味します(AE 721:2)。み言葉の真理を受け、それに従った生活をすれば、新しい知性と、新しい意志を受け、人は新しく生まれ変わることができる、という主の教えです。
み言葉の真理を受けるには、どうすればいいのでしょうか?新しい知性とするためには、ただみ言葉を読めばいいのでしょうか?新しく生まれる教会の知性と意志とは何でしょうか?

ほとんどの人は、何が善か悪かを知りません。十戒に反することが悪である、あるいは国の法律に反するとき、罰せられると応えるくらいです。悪が何かは、その反対である善とは何かを知ることによってわかります。

「隣人に対する純粋な思いやりを抱くことが善です」(AC5354)。その善に反することが、悪となります。隣人に対して、心から思いやりをもつなら、隣人を傷つけ、隣人の善い行いを評価せず、隣人の行いと名誉を自分のものとして盗むことを、心から恐れるからです。
そして誰が隣人であるかも大切です。物理的に隣にいる人が隣人ではなく、心に善を持っている人、そしてその善自体が隣人です。究極の隣人は主おひとりです。主おひとりが善をなさるからです。

そのためその源は、常に主おひとりから、絶えず天界を通して私たちに流入しています。
しかし、悪と偽りは絶えずその流入を拒み、邪魔します。悪と偽りは、意識して拒まないと、新しい善と真理は流入しません。私たちからは善を行えないので、主からの流入を、純真で無垢な心で受け取ることが新しい意志であり、それを知ることが新しい知性です。

しかし偽りは、実に巧にやってきます。例えば、最近また問題となっているカルト組織の場合も、巧みな装いで、姿を隠して、甘い誘いで誘導します。最終的な目的は、人や組織、国家などへの支配権の確立などですが、表立っては別の装いをします。

学生時代の友人の話ですが、甘い誘いに誘われてその集団に入り、一年もたつと、見事に洗脳されていました。ごくごく真面目な田舎の青年でしたが、どうしてそうなったかはわかりません。
その狙いは、構成員の心の支配です。財産含めて徹底的に奴隷として働かされます。巧みに誘導し、徐々に脅しと恐怖を植え付け、将来を支配して奴隷にします。「天界と地獄」や「結婚愛」など、天界の教えの一部も研究し、都合のいい部分だけ切り取り、その教えさえ利用します。長期的戦略に長けています。新教会組織でさえ、十分、注意しなければ、単なる危惧にとどまりません。この偽りと悪から、無垢を守る必要があります。神様はすべてご存じなので、主に祈り、頼ればいいのでしょうか?

「羊の囲いに門から入らないで、ほかの所を乗り越えて来る者は、盗人で強盗です。」(ヨハネ10:1)という主のみ言葉があります。私たちは、主のみ言葉を通して無垢な人を導きいれる、「門から入る者」でなければなりません。乗り越えてくる盗人や強盗であってはなりません。新教会でいえば、主イエスだけが信仰の対象です、そのみ言葉、新旧両聖書と天界の教えである著作だけを私たちの信仰のよりどころとします。

ただし、天界の教えによれば、「み言葉の文字上の意味は、性質上、人が適用するためどんな見解も支えることができる、という事実は、膨大な数の異端が教会に存在し、そして今もなお残っているということから明らかに示されます。」(AC6222-2)

しかし、教会の知性は、
「み言葉を読み、勤勉に記述を他の記述と突き合わせ、そうすることによって何を信じるべきか、何を行うべきかを理解した時に存在します。・・・そして、真理を知りたいと欲する人にのみ与えられ、それは評判や栄光ではなく、生き方と奉仕のため与えられます。」(AC6222-3)
さらに、「事実上の証拠と哲学的推論が述べるから真理であるというのではなく、みことばの霊的意味が述べるから、真理だと判断」(AC6222-3)します。

新しい意志は、隣人に善を行うことに、見返りや自分のためという視点がなければ、歓びを生みだします。その歓びは、自分が源ではなく、主が源です(AC5354-2)。もし自分自身に歓びの源があると感じるなら、それは偽りです。

新教会の経験が長く、基本的な知識はあるはずですが、老年になって主イエスを捨て、他の道に切り替わる人がいます。
肉体的な感覚に頼り、教会の知性によって導かれず、「み言葉を読み、勤勉に記述を他の記述と突き合わせ、そうすることによって何を信じるべきか、何を行うべきかを理解」(AC6222-3)しなかったため、自然的な言葉と感覚に欺かれてしまいます。自然的な感覚が生み出す錯覚と、み言葉、内意の探求を忘れて安易に感覚的歓びを求めます。すなわち、歓びの源を、主と隣人に求めず、自分自身に求めています。

新しい意志に生まれ変わるプロセスは一瞬ではなく、一生かけて行われ、死後も続きます。またそのプロセスは天使の知恵に属し、天使でさえも全貌をつかめません(AC5354-3)。

そのため、自分に新しい意志の誕生と、そこへの善の流入が自覚できないと考えて、あせる必要はありません。
人は、自然的に生まれ、そして主の力によって時間をかけて霊的になってゆきます。主からの流入と歓びが、直ちに起こらなくても、まず自分の内に存在し、善の流入を阻んでいる悪と偽りを確認しまければなりません。悪と偽りさえなくなれば、主は歓んで善と真理を与えられます。

安易な救いへの誘いは誘惑の一つです。理性的な能力を捨て、自然的な感覚に従った時点で、偽りと、それに続く悪に惑わされ、天界への道を見失います。み言葉という、私たちの唯一の道標を捨ててはなりません。み言葉を学ぶことは、手間がかかりますが、自然的な私たちを霊的にする唯一の手段です。
「内的なもの以外に道はありません。(AC6222-6)」

イスラエルは、マナセとエフライムを、自分の子として祝福します。ヨセフの子として祝福したのではありません。
祝福には様々な意味がこめられますが、この場合、「祝福するとは、これからおこることを預言する」(AC6254)ことです。

イスラエルは、霊的な人であるため、「善を知覚できないので、真理によって善に導きいれますが、再生されるまで、善の知覚はありません。」(AC6256)
そのため、「イスラエルは老齢のために目がかすんでいて、見ることができなかった。」(48:10)と表現されています。

イスラエルは、ヨセフの祝福の後、マナセとエフライムを自分の子として祝福しようとします。ただしヨセフの目からはその順番が、誤っています。ヨセフの第一子であるマナセを第二の位置におき、第二子のエフライムを第一の位置にして祝福しようとします。この祝福の順番は、世的には長子権の確認の意味がありますが、霊的には何を優先するかを表します。しかし、老齢のためイスラエルは目がかすんでいます。

霊的教会であるイスラエルは、教会の知性であるエフライムを優先し、教会の意志を後にすることを宣言します。親であるヨハネにとっては、この過ちは致命的です。天的な人であるヨセフにとって、教会の第一は教会の意志にあるからです。教会の知性は第二であることが本来あるべき姿です。また天的教会であるなら、教会の意志が第一とならねばなりません。

ヨセフが祝福しようとする父親の手をつかんで、それを阻止しようとしますが、霊的な人であるイスラエルは、あえて拒みます。しかし、天的な人であるヨセフからの流入によって、霊的な人であるイスラエルは、本来あるべき順番を理解していました。(AC6294)

父は拒んで言った。「分かっている。わが子よ。私には分かっている。彼もまた、一つの民となり、また大いなる者となるであろう。しかし、弟は彼よりも大きくなり、その子孫は国々に満ちるほどになるであろう。」(48:19)

教会で、第二としなければならない真理を第一とし、弟であるエフライムが、兄のマナセよりも大きくならなければならない理由を天界の教えは、こう説明します。
「人間の意志は、絶えず堕落しており、もはや正常な部分は全く残っていないまで、悪が完全に支配してしまいます。人が滅びない様に、主は予見され、人の知性部分が再生するようにされました。・・これが天的な人がわずかになるが、霊的な人が多くなり、天的な人よりも多くなる」AC6296[2]ことによって意味されています。

新教会の教義を知識として蓄えても、それを実際に役立てる人は決して多くありません。ジェネラルチャーチの米の本部でも、信者は減少し、老齢化しています。何年もかけて築き上げた新教会教育も、卒業後に新教会員として残り続ける人は少なくなっているといいます。教師に状況を聞くなら、学位の取得や卒業後の進路のため学び、すなわち世のために学び、真理自体のために学ぶ学生が少なくなっているからと思われます。通り一遍の知識、記憶知にとどまる活用しない知識では役に立ちません。新教会の学びは、一生続きます。み言葉への真理探究をやめるなら、私たちの再生も止まってしまいます。記憶知の探究ではなく、生きて新しい生命を得るための探究は一生かかっても終わらず、来世にまで続きます。

イスラエルが、エフライムの祝福を先にしたことが、これを表しています。
霊的な人を祝福し、エフライムである知性によって再生する人が多いと主は予見されました。しかしそれとともに、マナセが意味する意志の再生も主が決して忘れてはおられないことに注目してください。すなわち、私たちは、知性を再生させるだけではなく、意志も再生して天的になれる可能性を持つことを意味します。天的になれば、善を知覚でき、偽りと悪は近寄ることさえできません。

「彼もまた一つの民となり、また大いなる者となるであろう。しかし弟は彼よりも大きくなり、その子孫は国々を満たすほど多くなるであろう。」(48:19)
アーメン。

【新改訳】
創世記
48:8 イスラエルはヨセフの息子たちに気づいて言った。「この者たちはだれか。」
48:9 ヨセフは父に答えた。「神がここで私に授けてくださった息子たちです。」すると、父は「私のところに連れて来なさい。彼らを祝福しよう」と言った。
48:10 イスラエルは老齢のために目がかすんでいて、見ることができなかった。それで、ヨセフが彼らを父のところに近寄らせると、父は彼らに口づけして抱き寄せた。
48:11 イスラエルはヨセフに言った。「おまえの顔が見られるとは思わなかったのに、今こうして神は、おまえの子孫も私に見させてくださった。」
48:12 ヨセフはヤコブの膝から彼らを引き寄せて、顔を地に付けて伏し拝んだ。
48:13 それからヨセフは二人を、右手でエフライムをイスラエルの左手側に、左手でマナセをイスラエルの右手側に引き寄せた。そして二人を彼に近寄らせた。
48:14 ところがイスラエルは、右手を伸ばして弟であるエフライムの頭に置き、左手をマナセの頭に置いた。マナセが長子なのに、彼は手を交差させたのである。
48:15 彼はヨセフを祝福して言った。「私の先祖アブラハムとイサクが、その御前に歩んだ神よ。今日のこの日まで、ずっと私の羊飼いであられた神よ。
48:16 すべてのわざわいから私を贖われた御使いが、この子どもたちを祝福してくださいますように。私の名が先祖アブラハムとイサクの名とともに、彼らのうちに受け継がれますように。また、彼らが地のただ中で豊かに増えますように。」
48:17 ヨセフは、父が右手をエフライムの頭に置いたのを見て、それは間違っていると思い、父の手を取って、それをエフライムの頭からマナセの頭へ移そうとした。
48:18 ヨセフは父に言った。「父上、そうではありません。こちらが長子なのですから、右の手を、こちらの頭に置いてください。」
48:19 しかし、父は拒んで言った。「分かっている。わが子よ。私には分かっている。彼もまた、一つの民となり、また大いなる者となるであろう。しかし、弟は彼よりも大きくなり、その子孫は国々に満ちるほどになるであろう。」
48:20 彼はその日、彼らを祝福して言った。「おまえたちによって、イスラエルは祝福のことばを述べる。『神がおまえをエフライムやマナセのようになさるように』と。」こうして彼はエフライムをマナセの先にした。
48:21 イスラエルはヨセフに言った。「私は間もなく死ぬだろう。しかし、神はおまえたちとともにおられ、おまえたちを先祖の地に帰してくださる。
48:22 私は、兄弟たちではなくおまえに、私が剣と弓でアモリ人の手から取った、あのシェケムを与えよう。」

ヨハネ福音書
3:3 イエスは答えて言われた。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」
3:4 ニコデモは言った。「人は、老年になっていて、どのようにして生まれることができるのですか。もう一度、母の胎に入って生まれることができましょうか。」
3:5 イエスは答えられた。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国に入ることができません。
3:6 肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です。

天界の秘義6222
[3]
彼らが受け入れないのは、教会の持つ見解を共有していないからです。その見解は、み言葉を読み、勤勉に記述を他の記述と突き合わせ、そうすることによって何を信じるべきか、何を行うべきかを理解した時に存在します。そのような見解は、主から光を受けた時にのみ与えられ、キリスト教世界では「啓蒙された人」と呼ばれます。その啓蒙は、真理を知りたいと欲する人にのみ与えられ、それは評判や栄光ではなく、生き方と奉仕のため与えられます。
[4]
しかし、教会の知性と呼ばれるこの理解は、単に事実知に基づくよりも、さらに内的な理解に基づいています、なぜなら事実上の証拠と哲学的推論が述べるから真理であるというのではなく、みことばの霊的意味が述べるから、そう判断するからです。
例えば、教会の知性を持つ者は、すべての個々の部分で、み言葉は主への愛と隣人への愛が教会の本質的な性質であることを教えると、明確に知覚します。さらに死後、人の生命は続き、その生命はその人の愛から起こると。さらに、思いやりから離れた信仰は、信仰ではなく、主への愛の善と隣人への思いやりに結びつかなければ、信仰は永遠の生命に全く貢献しない、そのため、霊的生命が存在するために信仰と思いやりはともに結びつかなければならない。啓蒙された人々は、これらの事柄が全く真であるときわめて明確にわかります;しかしそうでない人は、そうであることが全く分かりません。

[5] 教会の事柄を理解する人は、その教会の意見あるいは教えを広く実証し、他の人がそれは真であると納得させ、多くの異端を論破する法を知っている者と考えられています。しかし、これは教会の知性が意味するものではありません、なぜなら意見を実証するのは、知性の特性ではなく、感覚的レベルでの心の能力であり、それは非常に悪い人にも存在することがあるからです。;たしかにどんな信念ももたず、実際の偽りに染みわたった人もその能力を持つことができます。この種の人々には、どんな考えでも実証することは何よりも簡単で、単純な人々を納得させます。しかし、各種意見を実証する前に、
教会の知性は、それが真であるかないかを見て知覚することに携わり、実証するのはその後のみです。

[6] これら知性がエフライムによって表されます。なぜならマナセによって表される教会の善は、思いやりによって生まれる善であり、それは主が教会員に信仰の真理によって植え付けます。なぜならこれらの真理が思いやりによってうまれる善とともになり、知性に流入して光を与え、知性と意志が一つの心を構成することを可能にするからです。これらの真理、知性と意志は、内的なものから生まれたことはこれまで述べ示したことで明らかです。なぜなら善と真理へのすべての情愛は、啓蒙を通した情愛から流入し、他の源はありません。そうして、内的なもの以外からは生まれないからです。すなわち、主から、内的なものを通してきます。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です