主への全面服従

「あなたさまは私たちを生かしてくださいました。私たちは、あなたのお恵みをいただいてパロの奴隷となりましょう。」47:25

ヨセフは支配権を得たエジプトに、父ヤコブと兄弟一族を呼び寄せ、ファラオからその中央のゴシェンの地に、住まわせる許可を求めます。

これは内的・天的なものであるヨセフが支配権を得たエジプトの下で、全ての人間を再生させようとすることを計画しています。カナンからエジプトには、この世から霊界にかけて、数多くの人間がいて、カナンの人間は、エジプトに行かなくしては滅びてしまうし、エジプトの人間だけでも、飢餓で滅びることを見通しておらたからです。カナンの教会と、エジプトの力を合流し、全人類を再生に導くことが主のご配慮であったと思われます。

なぜならこの世でだけでの再生は、簡単ではなく、霊界に移ってからも主による再生は継続しなければならないことを見通されたからです。主がこの世に来られて、ご自身を栄化され、そのあと多くの人間を再生させてゆくことが描かれているように思えます。

最初は、カナンから飢餓を逃れてきたヤコブです。ヤコブはその子と一族をエジプトにひきつれてきてやってきています。
ヤコブとその子の一族は、「羊を飼う者」としてファラオに紹介され、最良の地、ゴシェンに住むことを求め、許可されます。「羊を飼う者」とは、善に導く真理を意味します(AC6074)。

彼らの生まれは、パダン・アラムからカナンです。生まれてから古い知識を得ていますが、その知識によって再生させることは簡単ではありません。カナンから離れた地で新しい知識を求め、その知識を実行して自分のものとして再生させます。また同時にエジプトの中央で、この知識を滅ぼさず、全人類にも新しい形で残してゆかねばなりません。

しかし、真理だけでは、生命がないので、生きてゆけません。エジプトの地で、ただの知識に、善という生命を吹き込み、新しい真理とする必要があります。
天界の教えは、こう述べます。
「真理は、知識の中に善が入るまでは生命はありません。・・隣人愛は信仰・知識を活性化し、生かします(A6077)」。
そうしなければ、知識は忘れられ、消えてしまいます。彼らの知識は、大切な知識でしたが、誰もが知っているような知識と経験で、新しいものがありません。刺激がありません。刺激がない知識は、人にとっては古びた本と一緒で、再び新しくされるまで興味をひきません。記憶の中の端に追いやられてしまいます。例えば出版の努力だけでは、人類を生かす力とはなりません。これを活性させる力が必要です。

ヨセフは、ゴシェンの地に、カナンから来た一族を、ファラオに求めて、住まわそうとします。
ゴシェンの地は、天的なものであるヨセフが支配する最良の地で、内的・天的なものから流入があり、その流入を受け入れることで、霊的に再生してゆきます。

ゴシェンはエジプトの中央の地とされています。中央にあるものは、周辺にあるものより注目を浴びやすく、常に意識に入ってきます。ゴシェンの地を要求するとは、注目を浴びるポジションを要求すること、誰もが注目する時間帯に、放送枠を求めるようなものです。

記憶にある知識を中心に据え、常に注目を集めて、活性化させます。活性化して、実行することで流入を呼び起こして生命を受けます。ゴシェンにある「牧草」の善と真理に、注目を集めることで、生命の糧とします。

父である霊的善や、その真理そして、幼いこどもで意味される「無垢」を、ここで養い、滅ぼさないようにします。

「わたしは門です。だれでも、わたしを通って入るなら、救われます。また安らかに出入りし、牧草を見つけます。」(ヨハネ10:9)

主を認め、主のみから生命を求める者は、この真理から生命を得ることになります(AC6078)。み言葉から主を訪ね、主の愛を見出す者には、霊的善と真理が与えられます。
また、幼い子供で表される無垢の善の流入があれば、教会の真理は永らえます。

「彼らにエジプトの地で最も良い地、ラメセスの地を所有として与えた。またヨセフは父や兄弟たちや父の全家族、幼い子どもに至るまで、食物を与えて養った。(47:11,12)」 

次に、従来からこの地にいるエジプト人が描かれています。彼らにも次々と生命の糧である善と真理が不足し、自分の持っている様々なものを食物に替えて、生きてゆかなければなりません。
この食物は、常に与えられ続けなければ、生きてゆけません。それはこの世でも霊界でも同じことです。再生中の者にも、この主からの流入がなければ霊的生命は消えてしまい、再生を続けることができません。そのため天界の教えは、天使的天界と呼ばれる、やや高い霊界においてさえ、霊的生命を求めていることをこう表現しています。

「天使的天界においてさえ、真理と善、そしてこれらに関する知識に対する欲求があります」(AC6110-2)。

エジプト人が最初に、かき集めたものは、エジプトとカナンの地に残るすべての銀です。
銀は真理と、適用可能な知識(AC6115)を意味します。真理と知識は、一般的な全体と何らかの関連性を持たなければ、消え去ってしまいます(AC6116-2)。なんらかの関連性の元に、整理しなければなりません。そして、すべてを関連させる最大のものは、主ご自身です。

これはヨハネ福音書では、こう表現されています。
「すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。」(ヨハネ1:3)
主ご自身に対する知識と、主に対する継続した注視がなければ、すべては跡形もなく、消え去ってしまいます。知識が無数にあっても、その中心となる真理がないなら、意味がありません。

「エジプトの地とカナンの地に銀が尽きたとき」(47:15)、エジプト人がみなヨセフのところに来ます。主に対する継続した注意を抱けなくなったとき、興味が薄れてしまった時かもしれません。
愛の善そして信仰の真理が、薄れてしまった時、私たちは霊的な死を迎え始めます。
たとえ新教会であっても、愛の善と信仰の真理が薄まれば、死を迎えます。

ヨセフは言います。「あなたがたの家畜をよこしなさい。銀が尽きたのなら、家畜と引き替えに与えよう。」(47:16) そして、「ヨセフは馬、羊の群れ、牛の群れ、およびろばと引き替えに、食物を彼らに与えた。」(47:17)

馬は知性を意味します。知性は、物事が悪か善かを判断するため、主がすべての人に与えられたものです(AC6125)。 そして家畜の群れと集団は(日本語訳では羊と牛の群れと訳されています)、真理の内的・外的善を意味し(AC6126)、ロバは役立つ物を意味します(AC6127)。

これらは、流入によって霊的生命が維持されることが意味されます。流入が少なくなり、知性が保てなくなり、内外の善やこれに役立つ様々なものが減少してゆくと、たとえ霊界であろうとも、霊的生命は維持できません。

エジプトと呼ばれる自然的なものに、次々と霊的生命の減少が起こり始めます。知識と知識による流入がなくなってゆきます。霊的生命も危機を迎えます。一度肉体の生命を失った者さえ、霊的生命の「危機」を迎えることになります。
「次の年」で表される、段階では、体と畑地を除いて食料を贖うものはありません。
身体は善の受容体を、畑地は真理の受容体を意味します(AC6135)。

「食物と引き替えに私たちと私たちの農地とを買い取ってください。私たちは農地といっしょにパロの奴隷となりましょう。」(47:19)

もはや何も売るものがなくなりました。すべてを投げうって、生命の糧となる「種」を得るしかありません。

すべてを投げうつこと、これは、「全面服従」を意味します(AC6138)。
よく新興宗教、怪しげな宗教が、全面的に教祖に服従を要求し、財産も行動もすべて出せと求めますが、本当の教えは、そうではありません。
天界の生活を阻害する、自己愛・我を追い払え、目に入らないところまで、追放せよということです。

飢えたエジプト人は、自分の自由の代わりに、全面服従を申し出ます。霊的生命を絶やさないためには、他に道はなくなっています。霊界にも試練があり、その時、すべて自分のものはないことを確認するまで試練は続きます。
すべてを投げうつまで再生が許されないのは、主が植え付けられた善と真理(残りのもの)と、悪が混じらないようにするためです(AC6156)。

「自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世でそのいのちを憎む者はそれを保って永遠のいのちに至るのです。」(ヨハネ12:25)
ヨハネ福音書の上掲の句で意味される、生命をかける選択の時がやってきました。
試練の最終段階では、自分のものすべてをあきらめ、主に屈服するしかありません。この全面服従に至らない限り、生命は得られません。試練の最後に起こる全面服従です。自我を片すみに追いやり、天界の我を得ます。
ただしこれはこの世ではなく、おもに来世で再生中のものに対して起こります。そのためこの試練にある人をこの世で目撃することは、稀です。

ヨセフは民を、エジプトの領土の端から端まで町々に移動させます(47:21)が、祭司たちの土地は買い取りません。
一般のエジプト人とは異なり、「祭司たちには、ファラオからの給与があり、ファラオが与える給与によって生活していたからである。そのため、自分たちの土地を売」(47:22) りません、とされています。

祭司は特別の存在であるから、土地を売らなくてもよいのでしょうか?
み言葉では、王が主の神的真理を意味し、祭司は主の神的善を意味しています。
そのため、祭司が土地を売らないでよいとは、自分で善を獲得していることを意味します。
しかし、実はそうではありません。人が自分の力で善を獲得することなどないからです。天界の教えはつぎのように警告しています。

「誰も教会の善、愛の善と思いやりの善を自分のものとしてはならない、なぜならそれは主おひとりのものであるから」(AC6148-11)

これを表すため、ヨセフは祭司たちの土地を買い取りませんでした。それは祭司たちのものではなく、彼らは雇人にしかすぎないからです。

以上の過程を経ることで、エジプト人が、自分のものと思っていたものすべてが、そうではないことが明らかにされます。エジプトの全土は、身と心に至るまで、ヨセフ、天的なものの支配下に入り、自然的なものと、天的なものとの結合が進みます。この試練は、地上の生命の元で進まなければ、必ず霊界で行われます。私たちの「我」が斥けられ、天界的我が植え付けるまで行われます。エジプトの民はヨセフにこう感謝します。

「あなたさまは私たちを生かしてくださいました。私たちは、あなたのお恵みをいただいてパロの奴隷となりましょう。」47:25 アーメン

【新改訳2017】
創世記
47:13 飢饉が非常に激しかったので、全地で食物がなくなり、エジプトの地もカナンの地も飢饉によって衰え果てた。
47:14 ヨセフは、エジプトの地とカナンの地にあった銀をすべて集めた。それは人々が穀物に対して払ったものである。ヨセフはその銀をファラオの家に納めた。
47:15 エジプトの地とカナンの地に銀が尽きたとき、エジプト人はみなヨセフのところに来て言った。「私たちに食物を下さい。銀が尽きたからといって、どうして私たちがあなた様の前で死んでよいでしょうか。」
47:16 ヨセフは言った。「おまえたちの家畜を差し出しなさい。銀が尽きたのなら、家畜と引き替えに与えよう。」
47:17 人々がヨセフのところに家畜を引いて来たので、ヨセフは、馬、羊の群れ、牛の群れ、ろばと引き替えに、彼らに食物を与えた。こうして彼はその年、すべての家畜と引き替えに、彼らに食物を分け与えた。
47:18 やがてその年も終わり、次の年にも人々はヨセフのところに来て言った。「私たちはあなた様に何も隠しません。銀も尽き、家畜の群れもあなた様のものになったので、自分のからだと土地のほかには、あなた様の前に何も残っておりません。
47:19 どうして私たちが、土地と一緒にあなた様の前で死んでよいでしょうか。食物と引き替えに、私たちと私たちの土地を買い取ってください。私たちは土地と一緒にファラオの奴隷となります。どうか種を下さい。そうすれば私たちは生き延び、死なずにすみます。土地も荒れないでしょう。」
47:20 それでヨセフは、エジプトのすべての土地をファラオのために買い取った。エジプト人に飢饉が厳しかったので、人々がみな、自分の畑地を売ったからである。こうしてその土地は、ファラオのものとなった。
47:21 また民については、エジプトの領土の端から端に至るどこででも、彼らを町々に移動させた。
47:22 しかし、祭司たちの土地だけは買い取らなかった。祭司たちにはファラオからの給与があり、ファラオが与える給与によって生活していたからである。そのため、自分たちの土地を売らなかった。
47:23 ヨセフは民に言った。「見よ。私は今、おまえたちとおまえたちの土地を買い取って、ファラオのものとした。さあ、ここに、おまえたちのための種がある。これをその土地に蒔きなさい。
47:24 収穫の時になったら、その五分の一はファラオに納め、五分の四は自分のものとしなさい。畑の種にするため、自分の食糧にするため、家の者のため、また扶養すべき者たちの食糧のために、そうしなさい。」
47:25 すると彼らは言った。「あなた様は私たちを生かしてくださいました。私たちは、あなた様のご好意を受けて、ファラオの奴隷となりましょう。」
47:26 ヨセフは、エジプトの土地について、五分の一はファラオのものとしなければならないという、一つの掟を定めた。それは今日にまで及んでいる。ただし、祭司の土地だけはファラオのものとならなかった。

ヨハネ福音書
10:9 わたしは門です。だれでも、わたしを通って入るなら、救われます。また安らかに出入りし、牧草を見つけます。

12:25 自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世でそのいのちを憎む者はそれを保って永遠のいのちに至るのです。
12:26 わたしに仕えるというのなら、その人はわたしについて来なさい。わたしがいる所に、わたしに仕える者もいるべきです。もしわたしに仕えるなら、父はその人に報いてくださいます。

天界の秘義6109.
「ききんが非常に激しかったので、全地に食物がなく」とは、善がもはや見えなかった、を意味します。
これは食糧の意味が6106で扱われているように、愛と思いやりの善であることから明らかです。
そして、全地にない、の意味が、もはや見えないことから明らかです。
以下に続く主題は、内的で天的なものが、一般全体のもとで自然的なものすべての内に、秩序をもたらしてゆくかを描いています。すなわち、単なる知識を教会の真理に結び、それら真理を通して霊的善に結び、そしてこの善を通して内的な天的なものに結び、目的を達成します。
しかし、単なる知識に、一般全体のもとで秩序をもたらすには、善が荒廃し、真理がなくなる段階を経て、そして養育の段階を経なければなりません。この前後の段階が、これから続く内的意味で扱われています。これらのことはこの世で生きている間は、多くの理由で稀にしか起こりません。しかし、他生では、再生中の者に起こります。この世では起こらないため、それまで誰も聞いたことがない深淵な秘密として、それらが現れたとしても、驚くべきことではありません。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です