カナの婚礼と宮清め

カナの婚礼と宮清め

それから三日目に、ガリラヤのカナで婚礼があり、そこにイエスの母がいた。(ヨハネ2:1)

主が、受洗後三日目に行ったカナの婚礼での奇蹟は、水をワインに変えた奇蹟として有名です。
しかし、教会外の人にとっては、蛇口をひねるとオレンジジュースが出て来る、都市伝説の一種かもしれません。旧教会の人にとっては、ヨハネ福音書のみに記載されている、主イエスの最初の奇蹟です。その他の福音書で伝道の末期として記されている宮清めが続き、歴史的な時系列からは疑問が提示されています。私たちは、時や場所を離れて霊的に解釈する必要があります。

四福音書と天界の教義の著作(さらに旧約の各書)は、それぞれ、ある目的を目指した主の御言葉です。
四福音書マタイ・ルカ・マルコ・ヨハネの人物像は、スウェーデンボリと異なり、明確には伝わっていません。マタイが徴税人、ルカが医者、マルコは人物像が不明で以前は軽んじられていましたが、最新の研究では最も旧い書とされています。ヨハネは福音書とともに黙示録の作者ではないかと言われています。
ヨハネ福音書は、著者ヨハネの思慮深く、知的な性格をお使いになり、主のさらに深い御心を学ぶことができます。その御心は、御言葉の内意により詳しく学ぶことができます。

婚礼があったカナの地はガリラヤ地方にあり、主のお生まれになったナザレの北10数キロで、最初の弟子達がいたと思われるガリラヤ湖沿岸からも20km位と思われます。ガリラヤ地方はエルサレムから離れているという点で異邦人の地とされています。異邦人は御言葉を持たず、あるいは知らないので、異邦人と呼ばれていました。そして、私たち日本人もキリスト教圏から離れていて、御言葉は本屋や図書館にあるだけです。そして御言葉が物理的に存在しても、自分の真理として生きていなければ、異邦人と同じです。

主イエスが地上に来られた当時、エルサレムを中心とした主エホバの教えは、完全にねじ曲げられ、その結果、誰も受け入れなくなりました。そこで主は異邦人の地から伝道を始められます。そして、本来の教えが偽りとなると、主は必ず異邦人の中に教会を移されます(AC9526-5)。地上に人類が生き残るためです。私たちが、悪ではなく、善への情愛を持っている限り、主は善の源となる真理を与え続け、善を産み出し、人類の存続を図られます。

カナで婚礼があったとは、異邦人の地で教会が始まることを意味します。なぜなら善と真理の結婚は、教会を意味するからです。真理は、神から与えられた生き方のあるべき姿を、人が知的、そしてその通り生きようとして受け入れることです。その生き方の源は主から、御言葉として与えられます。真理を与えられ、その人なりの理解に応じて実行することで、隣人への役立ちとなります。これが、真理が善となることで、善と真理が深く結ばれる状態が、教会です。御言葉である神的真理の実現が教会です。カナの教会には、「女の方」としか呼ばれないイエスの母もいたと記されています。女性も教会を意味しますが、教会の真理への情愛を意味します。

イエスも弟子たちもその婚礼に招かれています。主イエスは肉体を纏われた、神ご自身、神的真理であることはヨハネの最初の章で明らかにされています。弟子達は、神の真理を行おうとする者です(AC10683-6)。

母はワインがなくなったと主に言います。宴会で酒が足りなくなると、宴会の世話役か、給仕に言いますが、母は招かれていたはずの客の一人である、イエスに言います。多少、習慣の差はあるでしょうが、純粋にワインのことが述べているのではないと、わかります。ワインは内的真理を意味します。
教会の真理の情愛を表す「母」から、内的真理が足りていない、と神的真理に言われたのであれば、よくわかります。どう生きてゆけばよいかという真理が、足りない、不十分だという、教会としての切実な欲求です。教会に主から真理を十分あたえられなければ、教会とは真理と善が結ばれるところで、真理が足りないと、寂しい地、荒野になってしまいます。

しかし、主イエスの回答は、「あなたと私は何の関係があるのか?私の時は来ていない」でした。私の時とは、神的真理が受け入れられる時のことで、たとえ神的真理を開いても現状の教会では受け入れられないとおっしゃいます。そこで主は石の「水甕に水を満たしなさい。」と命じます。
水は外的教会の真理、ユダヤ教会の真理を意味します。水甕は六つあり、この六は全てを表します(AR610-2)。外的教会の真理、罪の清めの真理、犠牲や貢ぎ物で罪を清めるという真理を全て出せと求められます。手伝いの者が六つの水甕を縁までいっぱいに満たします。すると、水で意味される外的真理は、宴会の世話役である、真理の知識にいる者が味見すると、ワインが意味する内的真理となっています。

主は、以前のユダヤ教会がただの儀礼にねじ曲げてしまった外的真理を、内的真理としてすべて開き、隣人愛と神への愛の正しい姿に戻されます。地上での生涯をかけた言動で、見かけは罪の清めに見えた
外的真理の真の意味の基本を証されます。

弟子達は、この奇蹟を見て、イエスを信じたといいます。
カナの婚礼の後、主イエスは母・兄弟・弟子達とガリラヤ湖の北端にあるカペナウムに短い滞在をされました。カペナウムは主が驚くほどの信仰を示す百人隊長もいました(マタイ8:5)。しかし、その後、「主から教会の真理と善を教わりながら、それを拒み否定した者」(AE653-9)を象徴することになってしまった町です。
一度真理を教わりながら否定するなら、否定した者は、真理と偽りが混じり合い、冒瀆することになります。人を救うための真理を否定して、冒瀆すれば、死んだ後も永遠に救われないという悲惨な運命が待っています。冒瀆をふせぐために、カペナウムには長い間滞在することができません。

その後、主は過越の祭に合わせてエルサレムに上られます。そこで後に「宮清め」と呼ばれる業をなさいます。
宮の中で「売り買いする者」や、両替人が座っているのを見て、これを鞭で追い払われます。
両替人の机は、教会の真理から自分の利得とする者のことです。鳩を売る者の椅子とは、神聖なる善から自分の利得とする者です (AE840;4) 。教会の善と真理を、本来の再生という目的ではなく、自分を利する目的に使うなら、真理と善の冒瀆となる可能性が出てきます。

主は、内的真理を明かすにあたって、これら真理の冒瀆を最も怖れていました。本人が永遠に救われなくなる危険があるためです。ヨハネ福音書が他の福音書と違い、内的真理の開示であるカナの婚礼の奇蹟を最初に記し、その直後に、宮清めを配置したのは、主の御心です。

私たちには、さらにより内的な真理が、第二の再臨である天界の教えによって明かされています。
これを、行わず、知識のままにしておくこと、あるいは、この知識を自分の利得とすると、さらに冒瀆の危険性が高まります。主がより内的なヨハネ福音書の始めで、示されておかれたかったことは、この警告でした。

主が神殿での商売人を追い出すと、ユダヤ人達は、この行為を行う権利・権威があるのか「しるし」を見せよと迫ります。神であるご自身の、魂を収める肉体が「神殿」です。その肉体を壊してみよ、三日で建てると、ご自分の蘇りを預言されます。

しかし、神殿の商人の追放に、このときユダヤ人達が抱いた疑問、そして弟子達も、「いくらなんでも、やり過ぎではないか?」と考えたかもしれません。現代の私たちも同じで、宗教だからと言って、普通に商売をしている人達を追い出していいのだろうか?神社のおみくじやお札売り場を荒らせば、警察沙汰になってしまうと、自分の社会での立場を考えます。当時の弟子達が「あなたの家を思う熱心がわたしを食い尽くす」という御言葉を思い出したのと同じく、熱心故のやりすぎではないか程度だったかもしれません。

しかし彼らが言った「しるしを見せよ」は、「不思議なもの、あるいは天からの声」などの証明を意味していました。しかし、それらの証明を求めることは、救うというより、むしろ地獄に落とされます。
なぜなら、彼らは一度、意志を扇動され、知性を丸め込まれ (AE706-2)て、認め、信じますが、その後、自分の生活に戻ると、否定します。自分の生命と正反対のものは、よほど深く印象が無いと、心のそこで受付ません。大切な教えは、概ね三度繰り返されます。そして認めた後に、それを否定することは、冒瀆であり、地獄での冒瀆者の運命は、最悪です (AE706-8) 。

主が宮清めを行われた「家を思う熱心」は、霊的な熱であり、真理への愛であり、偽りへの嫌悪です(AE216)。自分は真理を受け入れたと、偽ることも、冒瀆となるので怖れておられ慎重です。

これは私たちを救おうとする強い愛です。そのため、主は私たちの内側を常に見ていらっしゃいます。誰にもお任せにならず、ご自身から見て、私たちの真実の姿を知り、あらゆる手段で、私たちが救済不可能に陥らず、正しい道を歩むことを見守っておられます。「主が、過越の祭りの祝いの間、エルサレムにおられたとき、多くの人々が、イエスの行われたしるしを見て、御名を信じた。」(2:23)としても、そのままにしておかれません。一番弟子であったペテロでさえ、後で裏切るからです。人は、学び行います、と口にしたことを、自分に都合のいい理由をつけて簡単に翻します。

しかし主は、私たちの長い人生すべての、一瞬一瞬、そしてその最小単位に至るまで支え続けられます(AC59-2)。これが永遠の神が、人間の形をとられて、私たちの生き方をご覧になった理由です。

「しかし、イエスは、ご自身を彼らにお任せにならなかった。なぜなら、イエスはすべての人を知っておられたからであり、また、イエスはご自身で、人のうちにあるものを知っておられたので、人についてだれの証言も必要とされなかったからである。」(ヨハネ2:24,25)
アーメン。


【新改訳】
詩編
69:5 神よ。あなたは私の愚かしさをご存じです。私の数々の罪過は、あなたに隠されてはいません。
69:6 万軍の神、主よ。あなたを待ち望む者たちが、私のために恥を見ないようにしてください。イスラエルの神よ。あなたを慕い求める者たちが、私のために卑しめられないようにしてください。
69:7 私は、あなたのためにそしりを負い、侮辱が私の顔をおおっていますから。
69:8 私は自分の兄弟からは、のけ者にされ、私の母の子らにはよそ者となりました。
69:9 それは、あなたの家を思う熱心が私を食い尽くし、あなたをそしる人々のそしりが、私に降りかかったからです。
69:10 私が、断食して、わが身を泣き悲しむと、それが私へのそしりとなりました。
69:11 私が荒布を自分の着物とすると、私は彼らの物笑いの種となりました。
69:12 門にすわる者たちは私のうわさ話をしています。私は酔いどれの歌になりました。
69:13 しかし【主】よ。この私は、あなたに祈ります。神よ。みこころの時に。あなたの豊かな恵みにより、御救いのまことをもって、私に答えてください。
69:14 私を泥沼から救い出し、私が沈まないようにしてください。

ヨハネ福音書
2:1 それから三日目に、ガリラヤのカナで婚礼があり、そこにイエスの母がいた。
2:2 イエスも弟子たちも、その婚礼に招かれていた。
2:3 ぶどう酒がなくなると、母はイエスに向かって「ぶどう酒がありません」と言った。
2:4 すると、イエスは母に言われた。「女の方、あなたはわたしと何の関係がありますか。わたしの時はまだ来ていません。」
2:5 母は給仕の者たちに言った。「あの方が言われることは、何でもしてください。」
2:6 そこには、ユダヤ人のきよめのしきたりによって、石の水がめが六つ置いてあった。それぞれ、二あるいは三メトレテス入りのものであった。
2:7 イエスは給仕の者たちに言われた。「水がめを水でいっぱいにしなさい。」彼らは水がめを縁までいっぱいにした。
2:8 イエスは彼らに言われた。「さあ、それを汲んで、宴会の世話役のところに持って行きなさい。」彼らは持って行った。
2:9 宴会の世話役は、すでにぶどう酒になっていたその水を味見した。汲んだ給仕の者たちはそれがどこから来たのかを知っていたが、世話役は知らなかった。それで、花婿を呼んで、
2:10 こう言った。「みな、初めに良いぶどう酒を出して、酔いが回ったころに悪いのを出すものだが、あなたは良いぶどう酒を今まで取っておきました。」
2:11 イエスはこれを最初のしるしとしてガリラヤのカナで行い、ご自分の栄光を現された。それで、弟子たちはイエスを信じた。
2:12 その後イエスは、母と弟たち、そして弟子たちとともにカペナウムに下って行き、長い日数ではなかったが、そこに滞在された。
2:13 さて、ユダヤ人の過越の祭りが近づき、イエスはエルサレムに上られた。
2:14 そして、宮の中で、牛や羊や鳩を売っている者たちと、座って両替をしている者たちを見て、
2:15 細縄でむちを作って、羊も牛もみな宮から追い出し、両替人の金を散らして、その台を倒し、
2:16 鳩を売っている者たちに言われた。「それをここから持って行け。わたしの父の家を商売の家にしてはならない。」
2:17 弟子たちは、「あなたの家を思う熱心が私を食い尽くす」と書いてあるのを思い起こした。
2:18 すると、ユダヤ人たちがイエスに対して言った。「こんなことをするからには、どんなしるしを見せてくれるのか。」
2:19 イエスは彼らに答えられた。「この神殿を壊してみなさい。わたしは、三日でそれをよみがえらせる。」

AE706
8
心の中で深く嘆息して、こう言われた。「なぜ、今の時代はしるしを求めるのか。まことに、あなたがたに告げます。今の時代には、しるしは絶対に与えられません。」
ここでの「しるし」は、主が、預言者の預言から期待されたメシアであり、神の息子であることを、
彼らがはっきりと知り、認め、信じるための証明を意味することは明らかです。そしてこれが明らかに啓示され、天から告げられたら、かくして知性を丸め込まれたなら、彼らは認め信じます、しかし後で拒みます。そして認め信じた後の拒絶は、冒瀆であり、冒涜者の地獄での運命は、すべての中で最悪です。

参考 AE376-29
この奇蹟について;ここ、そして御言葉のあらゆるところで、「婚礼」は教会を意味します;「ガラリヤのカナにて」は異邦人の間にて;「水」は外的教会の真理、ユダヤ教会の文字上の意味から;そして「ワイン」は内的教会の真理、キリスト教会の真理を;そのため、主が「水をワインにした」とは、外的教会の真理を、その中に隠された内的なものを開くことによって内的教会の真理とすることを意味します。
「ユダヤ人の清めのしきたりによって備えられた、石の六個の水甕」は、御言葉の中の真理のすべてと、ユダヤ教会とその礼拝のすべてを意味します;これらは主からの、主の内の神的なものの表象と意味のすべてです。こういう理由から、「ユダヤ人の清めのしきたりによって備えられた、石の六個の水甕」がありました。数字の六はすべてを表し、真理についていわれています;「石」は真理で、「ユダヤ人の清めのしきたり」は罪からの清めを意味します;そのためユダヤ教会のすべてが意味されます。それは、その教会は、罪からの清めがすべてと見なし、誰も罪から清められる限り、彼は教会となります。「宴会の世話役」は真理の知識にいる者を意味し:彼が花婿に言った「だれでも初めに良いぶどう酒を出し、人々が十分飲んだころになると、悪いのを出すものだが、あなたは良いぶどう酒をよくも今まで取っておきました。」は、教会のすべては、最初は善から真理にいるが、善のない真理に堕落し、そして今、教会の終わりに、善からの真理、あるいは純粋な真理が主から与えられれます。

Gen35ベニヤミンの誕生

神はヤコブに仰せられた。「立って、ベテルに上り、そこに住みなさい。そしてそこに、あなたが兄エサウから逃れたとき、あなたに現れた神のために祭壇を築きなさい。」35:1

ヤコブは、仲違いした双子の兄エサウと二十年ぶりに再会し、感動的な再会をしました。
ただし、ヤコブは、一方的に低姿勢に出ました。兄エサウに近づくまで七回、地に伏しておじぎします。すると兄エサウはヤコブを迎えに走り、抱いて、さらに首に抱きつき、口づけをし、二人は泣きました。

二人の兄弟は、愛によって仲直りを終えます。愛によって結びつきます。
「あなたは、しもべよりずっと先に進んで行ってください。私は、私の前に行く家畜や子どもたちの歩みに合わせて、ゆっくり旅を続け、あなたのところ、セイルへまいります。」(33:14)
お互いの旅に、気遣いが見せ合いながら、別れがやってきます。

天界の教えによると、真理の善であるヤコブは、神的善の象徴であるエサウから、善でないものが混ざり込んでないかのチェックを受け、純粋である部分に、善の流入を受けます。すると真理と善の結婚が始まります。すなわち、主からの善の流入によって試練の後、真理と善の結婚によって再生が始まります。しかし、真理が善に追いつけない部分は、猶予を受けます。これがエサウとヤコブの仲直りの意味することでした。

次の34章の、ヤコブの娘ディナと土地の族長シェケムの関係、さらにディナの兄シメオンとレビの残忍な復讐劇は、ユダヤ民族の個別の事情が主題です。しかし、主イエスが克服された遺伝悪に関係します。
35章はベテルへの旅と、リベカの乳母デボラの死、ヤコブの最後の息子のベニヤミンの誕生と、出産した母ラケルの死、そしてイサクの死で終わります。冒頭にある、ベテルへの旅は、約束の地、天界を象徴するカナンへの旅が進むことで、より内面に向けて進むことが意味されます。

主イエスの内面の旅は、私たちの再生の道筋を示します。聖書のアブラハムから始まり、イサク、ヤコブと続く主人公、すなわち主イエスを表す象徴の変遷は、すべて主がこの地上で、ご自身の人間を栄化させ、神的なもとする過程を描いています。しかし、それと同時に、これは主が、私たちを再生させてゆくための道筋を描く旅でもあります。天界の教えは、再生の最初の段階、そしてさらに深い段階へ進む者は、ごくごくわずかであると述べます。そして私たちの再生は、主の生涯に比べれば、進歩は早くありません。日々、当面出くわす問題に囚われ続けます。

しかし、主のお導きによって、いつか通る道筋を知ってその備えを行い、希望を抱き続けることは主の御心に適います。日本にはまだ、この道筋を大まかに描いたものはなく、天界の秘義の書籍を学ぶに当たって、自分がどこにいるか、何を学んでいるか迷い始める方がでないためでもあります。

ベテルへの旅の継続によって、娘ディナの問題が一段落し、さらに内面への旅への継続が再開されます。ディナの扱いと、シメオンとレビの復讐は、主イエスのご自分の肉体上の母の遺伝悪を、克服しなければならない問題として、当時の主ご自身に現れたはずです。
私たちも、それぞれの民族として遺伝悪の問題に気づき、克服するよう、注意喚起されておられます。

ヤコブはベテルに向かう前に、持っている異国の神と、耳輪を、シェケムの近くにある樫の木の下に生めて隠すよう一族に語ります。ここで、以前、ラケルが持ち出したテラフィムと、追いかけてきたラバンの問題が思い起こされますが、そのテラフィムもこの異国の神として、樫の木の下に埋められます。
内的真理への情愛が表すラケルが、ひっそりと持ち出したテラフィムも、イスラエル民族の奥底に潜む真理は、エサウの示す善に合致しないものとして、樫の木の下に埋められ、視野から忘れ去られてしまいます。

私たちが持ち続けている、真理と考えているもの、そして現代の私たち自身にも、民族や、自然的な偽りが過去から積み重なり、溜まり続けています。テレビを見ると、占いがシラッと流れ、今日の調子はどうかな?と心を引かれます。もし、より大きな人生の問題に悩むなら、悪と偽りによってさらに深く心を引かれ、神の摂理から心をそらしてしまうかもしれません。カレンダーの休日も、神道に由来するものがほとんどです。天皇の誕生日は休日となっているため、皇室の今後はどうなるか、男子が皇統を継ぐのが正しいかと、霊的成長や宗教的問題から外れたものにとらわれてしまいます。また、戦争の危機や、気象変動、さらにウイルス・疫病の蔓延の情報が、毎日流れます。すると、世界は破滅に向かっていると誤解して、中には破滅的な行動に加わる人も現れます。
しかし他方で、主は天界の教えを通して神の摂理を説かれます。目先の変化する情報に囚われず、隣人や神へ悪を行わず、隣人の幸いを求め、主の導きに従うことが大切と、私たちの本来あるべき視野を元の方向に向け、天界にむかっているという希望と安心を与えられます。

私たちの考え方や、思考の片隅に、こびりついて天界への道を妨げているものすべては、ヤコブが命じたように、使われない記憶の下に移してゆかねばなりません。目指す「ベテル」は、内面が広がる自然的分野、自然的なもの内にある、「神的なもの」です(4547,4539)。私たちはこの神的なものに向けて「立っ」て進むことが必要です。日々の生活の中にあっても、神的なものに心を向ける必要があります。そのためには、地上の問題に縛られず、天界との交流が継続しなければなりません。御言葉によって天使達と同じ意味を捉えることで、真理だけではなく、善への情愛も同じ方向に向けます。真理を求め行うことで善を生み出すことで、天界との交流が生まれます。この交流は教会によってもたらされます(AC4545参照)。逆に言えば、御言葉を通じて天界との交流を生まなければ、それは教会とはいえません。地上の天界が教会であるからです。

私たちは「立ち上がり」、心をベテルに向けて進みます。そのため、偽りが何か、純粋な真理、そして善とは何か、隣人愛とは何か、常に心を向けます。それが私たちの向かう神、主イエスの示す方向であるからです。余計なもの。偽りは曲がりくねった根の「樫の木」の下に捨ててゆきます。そして、「身を清め、着物を着替え」、天界の真理を生きてゆきます。知ることではなく、真理を生き抜きます。
再生しない者は、自分の気に食わないこと、愛さないことを捨てます、再生中の者は、信仰の善と仁愛に合わないことを捨ててゆきます(AC4551:2)。これが仁愛を行う事で、善と真理を結んでゆくことです。

仁愛の道を進む内に不思議なことが起こります。
 「彼らが旅立つと、神からの恐怖が回りの町々に下ったので、彼らはヤコブの子らのあとを追わなかった。」(35:5)
その一つ目は、身を清め、着物を着替えたため、周りに充満していた偽りの中に、恐怖が起こります。神が守っておられるからです(AC4555)。以前心配していた偽りは、私たちに近づかなくなり、例え来たとしても、影響がなくなります。神である主イエスに近づき、その神的真理の力を頂くことがだんだんと増えてきます。そうしてさらに進むなら、「リベカのうばデボラは死に、ベテルの下手にある樫の木の下に葬られ」(35:8)ます。
主ご自身の遺伝悪は、主のご自身のお力で永遠に消し去られます。それは前34章で予見されたように、民族に深く根付く、根拠のない優越感と身勝手な残酷性に気づいておられたからです。

しかし、私たちの遺伝悪は、簡単にはなくなりません。遺伝悪と、気づかないからです。社会の中で生きていると、あるいは悪を気づき会おうとする人達の集まりに入ると、突然、自分の悪が見え始めることがあります。社会の多様性の中で鍛えられ、教会の様々なプログラムに参加することなどで、まず自分の遺伝悪を知ります。
他人の遺伝悪は簡単に目につきますが、自分自身の遺伝悪は、自分で気づかなければなりません。そして悔い改めの教えに従い、これを主に祈って遠ざけなければ、取り去って永遠に取り去り、「アロン・バクテ」すなわち「樫の嘆き」の下に追いやり捨て去ることはできません。教会が用意するこの種類のプログラムに参加すること、御言葉の内意に学ぶことは、その気づきの始めとなります。社会の中では、悪や偽りがあっても、それがその社会では正しいとされる可能性があります。自然性の外的側面は、肉体的感覚と世の価値に従った感覚でしかない、感覚的規準に基づくからです(AC4570)。
私たちは、主が与える判断基準に従い、御言葉に学び、実行してゆきます。その規準に基づいて気づかない悪は、避けることも、除くこともできません。

主を意味するヤコブは、遺伝悪と闘い、勝利したことで、神シャッダイから祝福されます。シャッダイは試練の後に来る慰めを意味する神です(AC4572)。
「わたしは全能の神シャッダイである。生めよ。ふえよ。一つの国民、諸国の民のつどいが、あなたから出て、王たちがあなたの腰から出る。」(35:11)

「諸国の民の集い」と呼ばれる祝福は、ヤコブが初めて与えられるものです。父親のイサクは子孫(26:24)、祖父のアブラハムは多くの国民の父(17:5,6)と祝福の中にも細かな差があります。アブラハムが祝福された「国民」とは善のことを意味しますが(AC1259)、ヤコブは「国民」に「諸国民の集い」が加えられています。この後者の諸国民の集いとは、「善からの真理」を意味します(AC4574)。

人は知性と意志が一つの心を形成するように作られています。例えば、礼儀正しさと誠実さは同時に働いてはじめて一個の心になります。礼儀作法は素晴らしいが、心は不誠実な人。心は誠実だが、礼儀作法は未熟な人。これらの一方だけが働くのは、この世では可能かもしれませんが、霊界では許されません。霊界での秩序を目指すなら、私たちは誠実で、かつ礼儀正しくあらねばなりません。

一見、道徳的・社会的な面に見えますが、礼儀正しくという真理から、誠実という善に進みます。さらに、隣人に誠実にありたいと思う心から、より詳しく礼儀正しさが生まれます。霊的にも善と真理の一致が求められますが、善と真理の結婚は、自然界にいる私たちには見えません。しかし、この自然界で生きている間に、道徳的な善と真理の一致に努めることで、同時に生きている霊の世界で私たちは成長します。見かけだけの誠実は、霊界に移ってから、外面が取り払われ、その人は不誠実そのものとなってしまいます。見かけだけではなく、誠実さから礼儀正しくあるよう努めます。その場限りの不誠実は、日々の行いで悪として拒みます。また他方で、礼儀正しさも求めます。誠実さの表現が礼儀正しさであるからです。これは霊界での生活の基本であり、私たちも地上にいるうちから、この一致に努めれば、目には見えませんが、霊界で成長してゆきます。

現れた主に、ヤコブが今後はイスラエルと名乗れと、頂いた祝福は、主からの頂く善のすべてであり、個別には善と真理の結合を意味 (AC4567)します。自然的ではなく、霊的に生きてゆけという進歩の証しです。目には見えませんが、進歩した本人と、天使たちにはわかります。

そして、これを地上に現したものが、ベテルでヤコブが行ったことです。後に、主ご自身がこの世で定められた聖餐です。
 ヤコブは、神が彼に語られたその場所に柱、すなわち、石の柱を立て、その上に注ぎのぶどう酒を注ぎ、またその上に油をそそいだ。(35:14)
当時は、灌祭(かんさい)と呼ばれるぶどう酒の注ぎであり、これは真理の善を意味します。そして素祭と言われる、油の注ぎとともに、現在はワインとパンの聖餐式となっています。聖餐式も真理と善の結婚を意味します(AC4581)。善と真理の結婚を意味する聖餐式にあっては、偽りは赦されません。偽りを抱えたまま霊界に進めば、偽りと善との結婚となり、再生不可能という厳しい結果が待っているからです。

ベテルへ行く道で、持っていた自然的偽りを清め、リベカの乳母である遺伝悪を葬ると、自然的局面であるベテルで、主が再び現れ祝福され、善と真理の結合が進んでゆきます。そして自然的なものを意味するベテルから、さらに内面を意味する部分、ベツレヘムで生まれるのが、ヤコブの最後の子であるベニヤミンです。母のラケルのお産の苦しみと死に表されるような厳しい試練を乗り越えれば、全く新しい状態が誕生します。ベニヤミンあるいは主が後にお生まれになるベツレヘムは、「天的なものの霊的なもの」を意味します(AC4584)。

先に産まれたヨセフと同じように、ベニヤミンも、天的なものと霊的なもの中間的なものを意味し、教会に属する霊的真理を意味します。後にベニヤミンの息子達は、エルサレムを受け継ぐこととなります。エルサレムは霊的教会を表し、その教義を意味します。
教会の霊的真理が誕生したことで、教会の真理のすべて、十二人の息子が揃いました。母のラケルはこの子をわたしの苦痛と嘆きの子と呼んで、試練の激しさを物語りますが、父はベニヤミン、すなわち「右手の息子」と呼んで、全能の力の誕生を表現します。

パダン・アラムでの11人の息子の誕生から始まり、ベツレヘムで全能の力を意味するベニヤミンの誕生で、教会の真理のすべてを表す12人の息子がすべて誕生しました。その全能の力で私たちを天界に導く手段のすべてが備えられたことになります。ベツレヘムの次に向かう先は、イサクの表す合理性です。主の魂の成長はさらに進み、私たちを新しい状態へと導く手段も揃います。

「彼女が死に臨み、そのたましいが離れ去ろうとするとき、彼女はその子の名をベン・オニと呼んだ。しかし、その子の父はベニヤミンと名づけた。(35:18)アーメン

創世記(新改訳)
35:1 神はヤコブに仰せられた。「立って、ベテルに上り、そこに住みなさい。そしてそこに、あなたが兄エサウから逃れたとき、あなたに現れた神のために祭壇を築きなさい。」
35:2 それで、ヤコブは自分の家族と、自分と一緒にいるすべての者に言った。「あなたがたの中にある異国の神々を取り除き、身をきよめ、衣を着替えなさい。
35:3 私たちは立って、ベテルに上って行こう。私はそこに、苦難の日に私に答え、私が歩んだ道でともにいてくださった神に、祭壇を築こう。」
35:4 彼らは、手にしていたすべての異国の神々と、耳につけていた耳輪をヤコブに渡した。ヤコブはそれらを、シェケムの近くにある樫の木の下に埋めた。
35:5 彼らが旅立つと、神からの恐怖が周りの町々に下ったので、だれもヤコブの息子たちの後を追わなかった。
35:6 ヤコブは、カナンの地にあるルズ、すなわちベテルに来た。彼とともにいた人たちもみな一緒であった。
35:7 彼はそこに祭壇を築き、その場所をエル・ベテルと呼んだ。それは、彼が兄から逃れたとき、神がそこで彼に現れたからである。
35:8 リベカの乳母デボラが死に、ベテルの下手にある樫の木の下に葬られた。それで、その木の名はアロン・バクテと呼ばれた。
35:9 ヤコブがパダン・アラムから帰って来たとき、神は再び彼に現れ、彼を祝福された。
35:10 神は彼に仰せられた。「あなたの名はヤコブである。しかし、あなたの名は、もうヤコブとは呼ばれない。イスラエルが、あなたの名となるからだ。」こうして神は彼の名をイスラエルと呼ばれた。
35:11 神はまた、彼に仰せられた。「わたしは全能の神である。生めよ。増えよ。一つの国民が、国民の群れが、あなたから出る。王たちがあなたの腰から生まれ出る。
35:12 わたしは、アブラハムとイサクに与えた地を、あなたに与える。あなたの後の子孫にも、その地を与えよう。」
35:13 神は彼に語ったその場所で、彼を離れて上って行かれた。
35:14 ヤコブは、神が自分に語られた場所に、柱を、石の柱を立て、その上に注ぎのぶどう酒を注ぎ、さらにその上に油を注いだ。
35:15 ヤコブは、神が自分と語られたその場所をベテルと名づけた。
35:16 彼らはベテルから旅立った。エフラテに着くまでまだかなりの道のりがあるところで、ラケルは出産したが、難産であった。
35:17 彼女が大変な難産で苦しんでいたとき、助産婦は彼女に、「恐れることはありません。今度も男のお子さんです」と告げた。
35:18 彼女が死に臨み、たましいが離れ去ろうとしたとき、その子の名をベン・オニと呼んだ。しかし、その子の父はベニヤミンと名づけた。
35:19 こうしてラケルは死んだ。彼女はエフラテ、すなわちベツレヘムへの道で葬られた。

ヨハネ福音書
17:9 わたしは彼らのためにお願いします。世のためにではなく、あなたがわたしに下さった人たちのためにお願いします。彼らはあなたのものですから。
17:10 わたしのものはすべてあなたのもの、あなたのものはわたしのものです。わたしは彼らによって栄光を受けました。
17:21 父よ。あなたがわたしのうちにおられ、わたしがあなたのうちにいるように、すべての人を一つにしてください。彼らもわたしたちのうちにいるようにしてください。あなたがわたしを遣わされたことを、世が信じるようになるためです。
17:22 またわたしは、あなたが下さった栄光を彼らに与えました。わたしたちが一つであるように、彼らも一つになるためです。
17:23 わたしは彼らのうちにいて、あなたはわたしのうちにおられます。彼らが完全に一つになるためです。また、あなたがわたしを遣わされたことと、わたしを愛されたように彼らも愛されたことを、世が知るためです。

  1. 「一民族、諸民族の集団があなたから出」‘Gens et coetus gentium erit a te’とは、善を意味し、善の神的〈かたち〉を意味します。その根拠は次の通りです。
    「民族」とは、教会の善を意味します(1259,1260,1362,1416,1849節)。また「諸民族の集団」とは、善由来の諸真理、換言すれば、善の〈かたち〉を意味します。主をテーマとした最高の意味では、神の善に由来する神的諸真理を意味します。すなわち、神の善の〈かたち〉です。
    ② 善の〈かたち〉とは何か、これについてまず述べ、それに引き続き、「諸民族の集団」が、意味上、善の〈かたち〉であることに触れます。
    善に由来する諸真理を、善の〈かたち〉と言います。なぜなら善に由来する諸真理は、形成された善以外の何ものでもないからです。諸真理について、それ以外の考え方をしたり、まして善から真理を切り離したりする人は、真理とは何か理解していません。
    諸真理は、一見、善から切り離されているように見え、そのものとして per se 〈かたち〉でしかないようです。しかしそれは、善の中にいない人々にとって、そう見えるだけです。つまり考えたり、話したりすることが、欲したり、実行したりすることとは、別ものであると思う人々です。
    人は、理性 intellectus と意志 voluntas が一つの精神を構成するように造られています。しかも理性が意志と行動をともにするときこそ、一つの精神を構成します。すなわち意志をもって、それに動かされ、実行するのが目的で、考えたり、話したりするときです。そのとき、本人の理性は、本人の意志の〈かたち〉になっています。
    真理が語られるとき、理知的なもの intellectualia になります。なぜなら真理とは、理性固有のものだからです。それにたいし、善と呼ばれるものは、意志に属するものです。なぜなら善は、意志固有のものだからです。したがって、理知的なもの intellectuale は、そのものとして見た場合、形成された意志的なもの voluntarium formatum になります。

③ しかし、〈かたち〉という言葉は、人文学としての哲学 philosophia humana からの匂いがあります。そのため、例をあげて説明することにすれば、諸真理が善の〈かたち〉であることが明らかになります。
社会的・道徳的生活の中では、誠実 honestum と、礼儀作法 decorum が存在します。誠実とは、社会生活にかんして、人にたいして心から幸福を願う思いです。それにたいし礼儀作法とは、言語や態度によって、その誠実さを証明することです。したがって、礼儀作法は、それ自身として見た場合、誠実さの〈かたち〉以外の何ものでもありません。誠実こそ礼儀作法の源です。
したがって誠実さが、礼儀作法を通して、または礼儀作法によって、すなわち言語や態度を通して働くとき、礼儀にかなう個々の事柄の中で、誠実さが現れます。何でも言語を通して発話され、態度を通して示されれば、そこに誠実さが現れてくるものです。それが〈かたち〉でありイメージで、その〈かたち〉やイメージを通して、誠実さが輝きを放ちます。それは本質とその〈かたち〉、いわば本質的なもの essentiale と、その外面的形 formale が一体となって働く結果です。
しかしだれかが、誠実と礼儀作法とを分離するとどうでしょう。すなわち仲間にたいして悪意をもちながら、上手に話す場合です。あるいは、相手を攻撃するため、上手に身を処するときです。そのようなとき、誠実さにあるような〈かたち〉を礼儀作法を通して、どれほど示そうと努めても、言語や態度には、何らの誠実さもありません。むしろそこには不誠実さがあります。鋭敏な人は、それを不誠実と命名します。そこには物まねや、欺瞞や、下心があります。

④ 以上から、諸真理と諸善との関係が分かってきます。霊的生活上での真理は、社会生活上での礼儀作法のようであり、霊的生活上での善は、社会生活上での正直さのようです。それで真理が、善の〈かたち〉であるときと、真理が善から切り離されるときの違いが明らかです。つまり真理が善由来ではない場合、ある種の悪に由来することになります。悪の〈かたち〉でありながらも、善の〈かたち〉であるかのように、人をあざむきます。
「諸民族の集団」とは、善の〈かたち〉です。これは前述したように、「民族」には善という意味があり、民族の集団、すなわち会衆 congregatio は、民族の集まりであって、前述のように、〈かたち〉であり、真理です。
また諸真理が浮き彫りにされ、しかも民族は善を指しますから、「一民族がヤコブから出る」と言われるだけでなく、「諸民族の集団」が出ると言われています。そうでなければ、どちらか一方で十分だったはずです。
さらに、〈みことば〉で、「集団」、「会衆」、「大勢の人」と言えば、諸真理を話題にします。「大勢 multitudo」、あるいは「増える multiplicari」については、43,55,913,983,2846,2847節を参照してください。

主への塗油

「ある女の人が、非常に高価な香油の入った小さな壺を持って、みもとにやって来た。そして、食卓に着いておられたイエスの頭に香油を注いだ。」マタイ26:7

マタイの前章で、主は、人々の前で、最後の喩えを説かれます。賢い花嫁と愚かな花嫁の喩え、タラントの喩え、六つの仁愛の喩えです。賢い乙女の喩えは愛を、忠実なタラントの教えは真理を、そして仁愛の業を象徴し、これらは主の教えのほとんどを網羅しています。しかし、一つ大事なものが抜けているように思います。

これらの教えを説かれた後、主はベタニアに行かれます。ベタニアはエルサレムから約3キロ、オリーブ山の麓にある町で、らい病人のシモンがいました。

すると一人の女性がやってきて、食卓におられた主の頭に、香油を注ぎます。
その瞬間、油のふくよかな香りが周り一帯に広がり、素晴らしい香りがあたりを包みます。
聖書で、油を注ぐとは、ヤコブが石に油を注ぎ(創28:18)、祭司や幕屋にある用具に油が注がれ、サムエルがサウルとダビデに油を注いで王としたように、聖別し、聖なる物、人であることを認める行為です。また「キリスト」の原語は、油を注がれた者を意味します。

油や脂肪分は、一時、健康に悪いというイメージがありましたが、オリーブ油や人の身体で合成できないリノ-ル油が、動脈硬化や血栓を防ぐため、現代では良い油は積極的に取るよう推奨されています。しかし、例えばオリーブオイルを取るには、元の実を痛めないよう手で収穫します。それは、収穫した時から酸化と発酵が始まるため、酸化を防ぐためです。これらは手間がかかる作業で、良い油はコストもかかります。ゲッセマネの園のゲッセマネとは、油絞りを意味しますエキストラ・バージンオイルはさらに手間がかかります。この女性が持ってきた油も、大変高価な油でした。

その香油は石膏のつぼに入った、たいへん高価な香油であったため、この女性の行為は、大きな議論を呼び起こします。
「何のために、こんな無駄なことをするのか。この香油なら高く売れて、貧しい人たちに施しができたのに。」(26:9,10)

主は、悪い行いを遠ざけ、善い行いをせよと教えられています。直前にも「あなたがたは、わたしが空腹であったとき、わたしに食べる物を与え、わたしが渇いていたとき、わたしに飲ませ、」(25:35)と教えられました。貧しい人達に食べさせ、飲ませ、着るものを与える、そのためにはお金が必要です。ただではできません。主に高価な油を注ぐことは、無駄で余計なことではないか?と言われれば、たしかに迷うかもしれません。

礼拝についても、同じような議論が可能です。毎週礼拝をする時間があれば、御言葉を読み、教義を学び、あるいは貧しい人々への炊き出しや、小さな親切運動など、奉仕に努めた方がいいのでは?礼拝に出て、説教を聞くのは、無駄な時間ではないか?また、教義をすべて学んでから、行ったほうが間違いない、あるいは、自分はすべて教義を読みつくしたので、礼拝など必要ないとする方もいらっしゃいます。

しかし油を注がれた主は、おっしゃいます。
「なぜこの人を困らせるのですか。わたしに良いことをしてくれました。貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいます。しかし、わたしはいつも一緒にいるわけではありません。」(26:10.11)

貧しい人とは、霊的には何が真で、何が善であるかを知らない人のことです(AE238他)。必ずしも、物理的に貧しい人のことだけではありません。
さらに「私はいつも一緒にいるわけではありません。」とおっしゃいましたが、マタイの最後の教えは、「見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」(マタイ28:20)です。主は栄化の後は、主は常に私たちと一緒におられます。

主は栄化され、いつもおられるはずですが、何故わたしたちはその存在を感じないのでしょうか?主からの流入を感じたいと願う方もいますが、それは、主からの流入をあまり実感してないからかもしれません。また、自分から主に助けを求めても助けてくれないという経験があるので、主はおられないと口にしてしまうかもしれません。

「わたしがいつも一緒にいるわけではない」とは、私たちの感覚が衰え、鈍くなり、そこに自分だけの都合だけを考えるようになったので、私たちが主の存在を感じなくなったことを語っておられます。事実、感覚のするどい、太古の教会の人々は、主から直接に認識を得ていたそうです。さらに、真実は、主が一瞬でも居られず、生命を与え、守っていただかなければ、私たちはたちまち自分のことだけしか考えないようになり、本当の生命が何かわからなくなります。

「そして貧しい人々はいつも私たちと一緒にいる」とは、私たちには本物の善と真理の知識がないということです。実は私たちには善と真理の知識の最重要部分を忘れています。それは善と真理はすべて主お一人から来ることです。冒頭の三つの教えで、何か大切なものが欠けていると感じたのは、主ご自身の存在でした。

知識としては知ってはいるかもしれませんが、心の底からそう信じていません。自分は、十戒を知っている、聖書の出エジプト記に書いてあるではないか?と言いますが、何故十戒が与えられたのか、それは法律とどう違うのか?どこまで深く守っているのか?何故、神殿の最も聖なる所に聖なるアークが置かれ、その中に十戒が納められたか?これらを心から納得して知らなければ、本物の善と真理の知識が身についたとはいえません。
自分のどこかが納得してないからです。十戒が主ご自身であるということを実感するまで、守り切れていないからです。そして、教えの根本に、主が居られなければ、私たちが善と知識を知らない「貧しい」人自身に他なりません。

油を注いでくれた女性は、行いによって、主が天地の神であり、救い主であることを示してくれました。頭に油を注ぐことによって示しました。油を頭に注ぐとは、栄化の意味を持っています(AE 659:19)。主はもはや私たちのような人間ではなく、主の存在自体のすべてを、聖別しなければならないことを述べています。

「この女が、この香油をわたしのからだに注いだのは、わたしの埋葬の用意をしてくれたのです。」(26:12)なくなった方に油を塗るという習慣は古代からあり、匂いを消すためのものであったかもしれません。しかしヤコブが石柱に油を塗ったように、真理からはじめ、それを神的なものまで高めることも意味します。主は元から神的存在でした。そして神的存在に栄化されます。但し今度は、私たち人間が、同じ道を通れば、再生を通して天的なものにされる、ということを象徴します(AC4882)。女性が主に油を注ぐのは、主の埋葬の準備ではなく、主が私たちをより成長させ、天界的なものまで高めることを意味しています。
そのため主は続いて、おっしゃいます。
「世界中どこでも、この福音が宣べ伝えられるところでは、この人がしたことも、この人の記念として語られます。」(26:13)

この女性の行いは、この女性のための記念ではありません。主が私たちを復活させ、天使とさえすることを記念しています。主の福音が、私たちを再生されるという記念です。洗礼は水で行われ、私たちに知識を与えそれを私たちが行って真理とします。私たちは教会に入る時にその徴として洗礼を受けます。再生されることを忘れてはならないと記念することが洗礼です。

しかし、主はご自身が復活するとともに、私たちが再生して天使となるまで高めようとされています。私たちが再生するなら、私たちも、この主の業は、まさに真実であったと述べ伝え、告白します。主ご自身はまさに紛れもない神で、私たちに新しい生命を与えてくれた、と心から歓んで大きな声で宣言します。洗礼の水の真理ではなく、再生の善の油です。私たちは真理ではなく、愛の善によって再生します。主からの愛の善が私たちの心に根付き、実行し開ければ私たちは再生できません。主からの愛によって善い事を歓んで行わないうちは、再生できません。

こうして、主は三つの天界の喩えに加えて、ご自身の塗油による聖別と栄化で、教えを締めくくられます。

しかし、残念なことに、主の弟子の一人のユダは、主と弟子達の会計を預かり、金銭に心を奪われていました。そしてまた、物事の目先の筋道に囚われ、この女性の行いは、主の貧しい人に施せという、今までの教えと矛盾していると考え、自分の考えを押し通そうとします。主の否定です。
祭司長のところに行って、主を裏切り引き渡すという約束をしてしまいます。
「人の子を裏切るその人はわざわいです。」(26:24)と、神的真理そのものである主を否定して、裏切り、敵である祭司長に銀貨三十枚で売り渡してしまいます。

銀貨三十枚とは、出エジプト記に出てくる、奴隷を傷つけた時に支払われる金額です(出エ21:32)。ユダにとって矛盾していると考えた神的真理は、もはや奴隷と同じ価値しかなくなっていました。ユダは主を、「主」ではなく、このときから先生、(ラビ)としか呼んでいません(26:25,49)。教えの中心である、主ご自身を、ただの人間として考えると、もはや再生はできなくなります。そのため、「そういう人は生まれなかったほうがよかったのです。」(26:24)と言われます。主を人間と考えている間は、私たちは新しい生命を与えられ、再生できません。新しい生命自体を否定しているからです。愛の善の源である主を否定すると、愛の善を主から受け入れることができません。自分の愛、自己愛に向かってゆきます。

しかし、聖書に出てくる女性が主に油を注いだ行いは違います。主を救世主として認め、ただの人間ではないことを表す行為でした。この行為は、ペテロや他の弟子達の信仰とは異なります。ペテロは、信仰をしつこいほど口にし続けますが、主が捕らえられてしまった後は、遠くから主を見て、鶏が三度鳴くまで、主を否定し続けます。ペテロは、鶏が鳴いて、朝がくるまでは、揺らぎつづける信仰を意味します。主が捕らえられた後、四散してちりぢりになって隠れてしまった弟子達もそうです。私たちの信仰も揺らぎ続けているかもしれません。主に油を注いだ行い、主を神として認めた行為は、その後も大切なものとして記念しなければなりません。

なぜなら、本当に善い行いは、主お一人から発しているからです。主を天地の神、救世主、あがない主として心から認めなければ、信仰と仁愛、善行は、すべて無駄になってしまいます。その源を否定するからです。主がすべての教えの中心であり、すべての源であることを私たちはいつも、心に抱かねばなりません。主に油を注ぎ続けなければなりません。主が愛の源であり、私たちは主の愛から善を行うことを知らねばなりません。
私たちは、礼拝に参加して、主の前に身を低くして、賛美することで、主は生命と愛の源であることを確認しつづけます。

「世界中どこでも、この福音が宣べ伝えられるところでは、この人がしたことも、この人の記念として語られます。」(26:13)アーメン。

創世記(新改訳)
28:16 ヤコブは眠りから覚めて、言った。「まことに【主】はこの場所におられる。それなのに、私はそれを知らなかった。」
28:17 彼は恐れて言った。「この場所は、なんと恐れ多いところだろう。ここは神の家にほかならない。ここは天の門だ。」
28:18 翌朝早く、ヤコブは自分が枕にした石を取り、それを立てて石の柱とし、柱の頭に油を注いだ。
28:19 そしてその場所の名をベテルと呼んだ。その町の名は、もともとはルズであった。
28:20 ヤコブは誓願を立てた。「神が私とともにおられて、私が行くこの旅路を守り、食べるパンと着る衣を下さり、
28:21 無事に父の家に帰らせてくださるなら、【主】は私の神となり、
28:22 石の柱として立てたこの石は神の家となります。私は、すべてあなたが私に下さる物の十分の一を必ずあなたに献げます。」

マタイ福音書 新改訳
26:6 さて、イエスがベタニアで、ツァラアトに冒された人シモンの家におられると、
26:7 ある女の人が、非常に高価な香油の入った小さな壺を持って、みもとにやって来た。そして、食卓に着いておられたイエスの頭に香油を注いだ。
26:8 弟子たちはこれを見て、憤慨して言った。「何のために、こんな無駄なことをするのか。
26:9 この香油なら高く売れて、貧しい人たちに施しができたのに。」
26:10 イエスはこれを知って彼らに言われた。「なぜこの人を困らせるのですか。わたしに良いことをしてくれました。
26:11 貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいます。しかし、わたしはいつも一緒にいるわけではありません。
26:12 この人はこの香油をわたしのからだに注いで、わたしを埋葬する備えをしてくれたのです。
26:13 まことに、あなたがたに言います。世界中どこでも、この福音が宣べ伝えられるところでは、この人がしたことも、この人の記念として語られます。」
26:14 そのとき、十二人の一人で、イスカリオテのユダという者が、祭司長たちのところへ行って、
26:15 こう言った。「私に何をくれますか。この私が、彼をあなたがたに引き渡しましょう。」すると、彼らは銀貨三十枚を彼に支払った。
26:16 そのときから、ユダはイエスを引き渡す機会を狙っていた。

天界の秘義4582. アルカナ訳

「その上に油を注いだ」とは、愛に属する〈神の善〉を意味します。「油」が愛に属する神の善を指すためです(882,3728節)。「石柱を建て、その上で灌祭をささげ、その上に油を注いだ」とは、その内的意味では、末端部における真理から出発したプロセスを浮き彫りにします。つまりより内部になる真理と善に向かい、ついには愛の善にいたる過程です。
「石柱」とは、末端的秩序における真理を意味します(4580節)。「灌祭」とは、より内部にある真理と善です(4581節)。「油」は愛に属する善です。このようにして、主の人間性は、神化への進展のプロセスを踏まれました。このようにして、人の場合も、主が再生を通して、天的にしてくださいます。

創世記33章 エサウとの再会

創世記33章 エサウとの再会
ヤコブは自ら彼らの先に立って進んだ。彼は兄に近づくまで、七回地にひれ伏した。
エサウは迎えに走って来て、彼を抱きしめ、首に抱きついて口づけし、二人は泣いた。創33:3,4

ヤコブはカナンに戻り、仲違いをした双子の兄エサウと会うため使者を送ります。すると、兄の返事は400人を引き連れてやってくるということでした。ヤコブは非常に怖れて、自分の家族や家畜を、整えて、分割して準備します。ヨルダン川の支流ヤボクの渡しの前で、一晩中ある人と、格闘して祝福を求め、イスラエルという名をもらいます。

本章は、その後のヤコブとエサウの再会と和解を取り扱っています。文字の意味だけを捕らえると、仲違いした兄弟の再会の感動と和解の素晴らしさがにじみ出ています。しかし、聖書の文字面だけではなく、より深い意味を捉えた天界の教義は、全ての人間が歩むより深い霊的成長の過程について説いています。すなわち、善と真理の結合、再生の始まりです。

ヤコブはパダン・アラムに行き、あしかけ20年かけて真理の知識を集めます。それはレアとラケル、二人の女奴隷の子が生んだ11人の男子として、カナンに連れて帰ります。男子は御言葉では真理を表すからです。そこでは11種類の真理が産まれる、すなわち真理を認識しました。それは信仰・仁愛・相互愛などの外からでもわかる情愛から認識した真理と、一見ではわからない深い心、内的情愛から発した真理、さらに直接・間接の情愛ではなく、それらの真理に役立つ、肯定的態度・永遠の幸福といったやや補助的な真理群です。

しかしこれら真理は、図書館の本棚・書庫にある本のように、並べているだけでは、役に立ちません。借りて読んでくれるのを待っています。例えば、「仁愛」という真理を考えて見ます。「仁愛」について書いた本は、おそらくこの図書館のどこか、探せばあると思われます。しかし「仁愛」と題した本もあり、「チャリティ」という題の本も「仁慈」「カリタス」という名もあります。また「真理と善」と題する本のどこか一章に、より詳しく書かれているかもしれません。本を探し、手に取る前から、題名から、隣人に善くすることだと漠然とわかります。

しかし「仁愛」が何を意味するのか、どんな行為なのか、対象は困った人であれば誰でもいいのか、個別の詳細はわかりません。ただ、この図書館の中のどこかに詳しく書かれている本、あるいは項目だけがあることが推測できます。これが記憶にあるだけ、本棚のどこかにあることだけわかっている状態です。まだ実際に使用していないので、記憶「知」や事実「知」、科学「知」などといわれる知識でしかありません。

仁愛は、人に優しい心を抱くことだと漠然と考え、さらに学んでみようとして、本を一冊手に取ります読んでみます。すると怠惰な人に財産を与えても、消費して快楽にふけるだけで本当の仁愛ではないとわかります。さらに学ぶと、困っている人、誰にでもよくすることが必ずしも正しくないこともわかります。貸出を受けながら家に持ち帰ってゆっくり読んでいると、隣人は人だけではないのではという思いもわき上がってきます。真理を実行するレベルになると、やっと本来の用語、真理に近くなってきます。これが真理の善と呼ばれるもので、この章でのヤコブを表しています(AC4337)。
真理の善であるヤコブは、神的善であるヤコブと結ばれようとしています。本を一読したが、まだ疑いを抱いている段階です。しかし真理の善は、その善が本物かとうか、神的善と結ばれる価値があるかどうか、前章から厳しい試練を受けています。ヤボクの渡しで格闘したエピソードは、この試練を意味します。試練に勝利し、神的な天的・霊的な状態であると宣言されます。「イスラエル」という名はこの状態を意味します。

真理の善の実行は、本当に仁愛だけの純粋な想いからなのか、実は人に良く思われるため、あるいは仁愛の行為を行って、利得を得るという欲が隠れているかもしれません。エサウという神的善は真理の善と結びつこうとして400人の善の象徴と共に、怒濤のように、圧倒的な流入が押し寄せてきます。しかし、これら不純の思いがあると結合できません。とりあえず仁愛なるものを、行ってみますが、本人が真剣かどうかわかりません。まだ覚悟ができていません。

自分のうちに不純なものがないか、整理して並べます。エサウという神的善の前にヤコブは真理を並べて整理します。そしてエサウがやってきてチェックして、使えるかどうかを選択します。不純な動機が混ざった「真理」や偽真理があれば、厳しく指摘されることになります、あなたはこれが仁愛といったが、「本当にそうか?」「永遠の生に役に立つの?」「不純だ!」などと、拒否されます。先の喩えでいえば、様々な仁愛をトライしはじめます。しかし頭の中でやらなければ、いけないと努力を繰り返します。

もしエサウに、大切だ、役に立つという証明ができなければ、ヤコブの誓いや、やってきたことは無駄になります。厳しい検閲と検査を受ける時は、自分の選択が正しいかどうか不安が募ります。試練の時です。そしてこの検査が終わると、ヤコブはエサウと結ばれることになります。
いよいよエサウの登場です。

ヤコブは七回礼拝し (33:3) 、エサウは彼を迎えに走って来て、彼を抱き、首に抱きついてキスし、ふたりは泣いた。(33:4)
ここに再生の秘密が隠されています。ヤコブの礼拝とエサウの走り寄り、抱擁・キスがないと、私たちに再生はありません。常日頃から歓んで仁愛を楽しんで行えません。

まず、ヤコブを表す真理が七回礼拝するとは、全面的服従を意味します。
 「ヤコブ自身は、彼らの先に立って進んだ。彼は、兄に近づくまで、七回も地に伏しておじぎをした。」(33:3)これは善に対する真理の全面的服従です。そして、なぜ礼拝が必要か、がここにあります。
礼拝は、神様が栄光を求めているためではありません。学校の先生に身を低くすることは、指導を受け入れるため必要なことです。神様と教師に、栄光や権威を与えるためではありません。しかし、教師や牧師は、自分に栄光と権威があると思うなら、教える側の傲慢・高慢という別の問題を生みます。

礼拝は、卑下と服従です。自分を低くして、善に服従します。真理ではなく、再生という役立ちの善を優先します。これに反して、真理の研究・学習を優先するなら、人間の再生という神様の愛、目的を無駄にすることになります。真理の研究や学習は、再生という本来の目的を離れ、偽りが付着しやすく、傲慢や異端という方向に向いてゆきます。人間の高ぶりが生まれるないよう、聖書の至るところで警告されています。指導を受け入れる側が、傲慢であれば、霊的成長はありません。受け入れようとするものが、高ぶると、受け入れができません。指導する側が高ぶると、その教えは滅びます。

それは、卑下の状態にあるとき、人は、自分にある悪と偽りに背を向けるようになるからです。傲慢という悪と自分の高慢という偽りを取り除くことによって、神は、善と真理を流入させることができます。(AC4347) まず自分の内にある悪を徹底して避けなければなりません。日頃の、定期的な自己点検が不可欠です。

卑下によって善の流入が可能になると、エサウはヤコブを「抱き」、そして「首をかかえ」、そして「キス」します(33:4)。
「抱く」ことで第一段階の愛の結びつきが起こります(AC4351)。そして「首をかかえ」てのキスは第二段階の愛の結びつきです(AC4352)。
首は内部と外部をつないでいるため、愛は外部から内部に流入し、第二段階の結びつきとなります。
冒頭の喩えで言うと、仁愛の実行なしには食物がないように感じて、痩せ飢えるほどになります。図書館の本はもはや内容をマスターしてしまったので、図書館に返却します。

結びつける力が愛です。善の中にある愛です。そのためエサウが抱き、キスします。この愛の力は、人のものではありません。人の愛を讃える風潮がありますが、これはせいぜい外面的な愛だけです。本当の愛の力、結合させる力は主のみがお持ちです。主以外に愛の源はありません(AC4352)。

真理と善は、結婚前の男女のように、別の存在です。異なる存在を結合するためには、強力な力が必要です。
原子の中の、陽子と中性子は、特に陽子同士は同じプラスとプラスで、近づくと排斥しあいます。排斥しあう陽子と陽子が、結合を続けるためには、大きな力が必要です。排斥しあう磁石をくっつけておくのに、ずっとかなりの力を出し続けてなければなりません。陽子や中性子を結合させるために核力が働いています。
現代では私たち人間は核分裂を原子力として利用しています。しかし、太陽自体が核分裂よりはる合によって凄まじい熱と光を発しているように、本来その力の源は、人間にはありません。人間以外のものです。結合する力は強く、同じく愛の力も強力です。

この愛の力がないと、あらゆる結合はなくなります。愛のない信仰の真理は、生命のない虚しい言葉にしか過ぎません。人間が頭の中の思考で産み出す「真理」は、使わないでいると、生命がないまま役に立たず善を生み出しません。善を生み出す信仰が欠ければ、空虚な概念の集まりで、そこには偽りが寄ってきます。信仰とは、真理を実行に移す力です。思い込みを無理に信じようとすることではありません。

愛の善がないと信仰はありえません。そこには信頼と、委任がないからです。「今日はいい話を聞いた。夫婦で仲良くやって行こう」と満足しているだけでは、再生という善の役には立ちません。神への信頼と委任があってはじめて行動に結びつき、真理の善となってゆきます。そして、真理の善に、神的善の流入が必要です。神的善の流入によって生命が生まれ、再生が始まります。

霊的信頼がなければ、不安と苦悩に支配されてしまいます。偽りの説き伏せによって自己愛と世間愛が生まれ、再生とは逆の方向、天界とは逆の方向に進むことになります。これが神に向こうとしない人間の結末です(AC4352)。この信頼ができあがらないと、夫婦は諍いを繰り返すことになります。

そして「キス」によって、愛によるさらに内部の結合が生まれます。結合が、人を再生させます。自分にある様々な真理が、善と結びつくことによって、役立ち、再生に進みます(AC4353)。

受験勉強をするときのような詰め込み勉強を考えてみます。合格のために無理やり詰め込んだ知識は、すぐに忘れてしまいます。試験問題を解く時にその知識が出てくるかどうかわかりません。しかし、学問に興味を持ちはじめ、学問自体を愛するなら、より深く学ぶことができます。そして遠回りは一番の近道となります。学問に愛を持ち遠回りをするようですが、それが合格の近道です。そうするともはや参考書や教科書は不要で、研究は進み、大学で研究し始め、論文を書き、教え始めることができます。

そして二人は泣きます。これは喜びの結果です。歓びが自分のものになると、周りとわかち始め合わずにはいれません。
ヤコブとエサウは和解し、一番遅い者のペースに合わせて、さらにゆっくりと結合してゆきます、すなわち再生に向けて進みます。「子どもたちは弱く、乳を飲ませている羊や牛は私が世話をしています。一日でも、ひどく追い立てると、この群れは全部、死んでしまいま」わないためです。歓びと愛を大切にして歩むことができます。

エサウは、ヤコブへの善の注入という役割が終わり、エサウの役目は終了します。
「エサウは、その日、セイルへ帰って行った。」(33:16) アーメン。


創世記 (新改訳)
33:3 ヤコブは自ら彼らの先に立って進んだ。彼は兄に近づくまで、七回地にひれ伏した。
33:4 エサウは迎えに走って来て、彼を抱きしめ、首に抱きついて口づけし、二人は泣いた。
33:5 エサウは目を上げ、女たちや子どもたちを見て、「この人たちは、あなたの何なのか」と尋ねた。ヤコブは、「神があなた様のしもべに恵んでくださった子どもたちです」と答えた。
33:6 すると、女奴隷とその子どもたちが進み出て、ひれ伏した。
33:7 次に、レアも、その子どもたちと進み出て、ひれ伏した。最後に、ヨセフとラケルが進み出て、ひれ伏した。
33:8 するとエサウは、「私が出会ったあの一群すべては、いったい何のためのものか」と尋ねた。ヤコブは「あなた様のご好意を得るためのものです」と答えた。
33:9 エサウは、「私には十分ある。弟よ、あなたのものは、あなたのものにしておきなさい」と言った。
33:10 ヤコブは答えた。「いいえ。もしお気に召すなら、どうか私の手から贈り物をお受け取りください。私は兄上のお顔を見て、神の御顔を見ているようです。兄上は私を喜んでくださいましたから。
33:11 どうか、兄上のために持参した、この祝いの品をお受け取りください。神が私を恵んでくださったので、私はすべてのものを持っていますから。」ヤコブがしきりに勧めたので、エサウは受け取った。
33:12 エサウが、「さあ、旅を続けて行こう。私があなたのすぐ前を行くから」と言うと、
33:13 ヤコブは彼に言った。「あなた様もご存じのように、子どもたちは弱く、乳を飲ませている羊や牛は私が世話をしています。一日でも、ひどく追い立てると、この群れはすべて死んでしまいます。
33:14 あなた様は、しもべより先にお進みください。私は、前を行く家畜や子どもたちの歩みに合わせて、ゆっくり旅を続け、あなた様のもと、セイルへ参ります。」
33:15 それで、エサウは言った。「では、私と一緒にいる者の何人かを、あなたのもとに残しておくことにしよう。」ヤコブは言った。「とんでもないことです。私はご主人様のご好意を十分に受けております。」
33:16 エサウは、その日、セイルへ帰って行った。

マタイ福音書
25:35 あなたがたは、わたしが空腹であったとき、わたしに食べる物を与え、わたしが渇いていたとき、わたしに飲ませ、わたしが旅人であったとき、わたしに宿を貸し、
25:36 わたしが裸のとき、わたしに着る物を与え、わたしが病気をしたとき、わたしを見舞い、わたしが牢にいたとき、わたしをたずねてくれたからです。』
25:40 ・・・『まことに、あなたがたに言います。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、それも最も小さい者たちの一人にしたことは、わたしにしたのです。』


天界の秘義4353(アルカナ訳)
② 以上の説明で、明らかになったことは、次のとおりです。再生は、善が諸真理と結ばれることで成立しますが、その結合は、内部に向かって次第に進展していきます。つまり諸真理は、内部にむかって、継続的に、善と結ばれていきます。再生の目的は、内部人間が外部人間と結ばれること、合理性が自然性と結ばれることです。人はこれによって霊的になっていきます。
両者の結合がなければ、再生はありません。つまり善が、自然性の中にある諸真理と結ばれるまでは、結合は成立しません。自然性は、一つの場になります。そして自然性の中にあるものは、相応関係にあります。自然性の再生にあたって、善が諸真理と結ばれる過程が、内的でしかも段階的になるのは、そのためです。しかも霊的なものが最初に結ばれるのは、自然性の中の内奥部にあるものです。そして、その内奥部にあるものをとおして、より外部にあるものと結ばれていきます。
真理が〈真理の善 veri bonum〉にならない限り、つまり意志と行為を伴う真理にならない限り、人の内部は、本人の外部と結ばれるようにはなりません(4337節)。そうなって、初めて結ばれるようになります。なぜなら、主が内的人間をとおして、人に流入を注がれる場合、内部人間にある善を通して、行われるからです。内部人間にある善は、外部人間にある善と結ばれるわけで、善が直接、真理と結ばれるわけではありません。