カナの婚礼と宮清め
それから三日目に、ガリラヤのカナで婚礼があり、そこにイエスの母がいた。(ヨハネ2:1)
主が、受洗後三日目に行ったカナの婚礼での奇蹟は、水をワインに変えた奇蹟として有名です。
しかし、教会外の人にとっては、蛇口をひねるとオレンジジュースが出て来る、都市伝説の一種かもしれません。旧教会の人にとっては、ヨハネ福音書のみに記載されている、主イエスの最初の奇蹟です。その他の福音書で伝道の末期として記されている宮清めが続き、歴史的な時系列からは疑問が提示されています。私たちは、時や場所を離れて霊的に解釈する必要があります。
四福音書と天界の教義の著作(さらに旧約の各書)は、それぞれ、ある目的を目指した主の御言葉です。
四福音書マタイ・ルカ・マルコ・ヨハネの人物像は、スウェーデンボリと異なり、明確には伝わっていません。マタイが徴税人、ルカが医者、マルコは人物像が不明で以前は軽んじられていましたが、最新の研究では最も旧い書とされています。ヨハネは福音書とともに黙示録の作者ではないかと言われています。
ヨハネ福音書は、著者ヨハネの思慮深く、知的な性格をお使いになり、主のさらに深い御心を学ぶことができます。その御心は、御言葉の内意により詳しく学ぶことができます。
婚礼があったカナの地はガリラヤ地方にあり、主のお生まれになったナザレの北10数キロで、最初の弟子達がいたと思われるガリラヤ湖沿岸からも20km位と思われます。ガリラヤ地方はエルサレムから離れているという点で異邦人の地とされています。異邦人は御言葉を持たず、あるいは知らないので、異邦人と呼ばれていました。そして、私たち日本人もキリスト教圏から離れていて、御言葉は本屋や図書館にあるだけです。そして御言葉が物理的に存在しても、自分の真理として生きていなければ、異邦人と同じです。
主イエスが地上に来られた当時、エルサレムを中心とした主エホバの教えは、完全にねじ曲げられ、その結果、誰も受け入れなくなりました。そこで主は異邦人の地から伝道を始められます。そして、本来の教えが偽りとなると、主は必ず異邦人の中に教会を移されます(AC9526-5)。地上に人類が生き残るためです。私たちが、悪ではなく、善への情愛を持っている限り、主は善の源となる真理を与え続け、善を産み出し、人類の存続を図られます。
カナで婚礼があったとは、異邦人の地で教会が始まることを意味します。なぜなら善と真理の結婚は、教会を意味するからです。真理は、神から与えられた生き方のあるべき姿を、人が知的、そしてその通り生きようとして受け入れることです。その生き方の源は主から、御言葉として与えられます。真理を与えられ、その人なりの理解に応じて実行することで、隣人への役立ちとなります。これが、真理が善となることで、善と真理が深く結ばれる状態が、教会です。御言葉である神的真理の実現が教会です。カナの教会には、「女の方」としか呼ばれないイエスの母もいたと記されています。女性も教会を意味しますが、教会の真理への情愛を意味します。
イエスも弟子たちもその婚礼に招かれています。主イエスは肉体を纏われた、神ご自身、神的真理であることはヨハネの最初の章で明らかにされています。弟子達は、神の真理を行おうとする者です(AC10683-6)。
母はワインがなくなったと主に言います。宴会で酒が足りなくなると、宴会の世話役か、給仕に言いますが、母は招かれていたはずの客の一人である、イエスに言います。多少、習慣の差はあるでしょうが、純粋にワインのことが述べているのではないと、わかります。ワインは内的真理を意味します。
教会の真理の情愛を表す「母」から、内的真理が足りていない、と神的真理に言われたのであれば、よくわかります。どう生きてゆけばよいかという真理が、足りない、不十分だという、教会としての切実な欲求です。教会に主から真理を十分あたえられなければ、教会とは真理と善が結ばれるところで、真理が足りないと、寂しい地、荒野になってしまいます。
しかし、主イエスの回答は、「あなたと私は何の関係があるのか?私の時は来ていない」でした。私の時とは、神的真理が受け入れられる時のことで、たとえ神的真理を開いても現状の教会では受け入れられないとおっしゃいます。そこで主は石の「水甕に水を満たしなさい。」と命じます。
水は外的教会の真理、ユダヤ教会の真理を意味します。水甕は六つあり、この六は全てを表します(AR610-2)。外的教会の真理、罪の清めの真理、犠牲や貢ぎ物で罪を清めるという真理を全て出せと求められます。手伝いの者が六つの水甕を縁までいっぱいに満たします。すると、水で意味される外的真理は、宴会の世話役である、真理の知識にいる者が味見すると、ワインが意味する内的真理となっています。
主は、以前のユダヤ教会がただの儀礼にねじ曲げてしまった外的真理を、内的真理としてすべて開き、隣人愛と神への愛の正しい姿に戻されます。地上での生涯をかけた言動で、見かけは罪の清めに見えた
外的真理の真の意味の基本を証されます。
弟子達は、この奇蹟を見て、イエスを信じたといいます。
カナの婚礼の後、主イエスは母・兄弟・弟子達とガリラヤ湖の北端にあるカペナウムに短い滞在をされました。カペナウムは主が驚くほどの信仰を示す百人隊長もいました(マタイ8:5)。しかし、その後、「主から教会の真理と善を教わりながら、それを拒み否定した者」(AE653-9)を象徴することになってしまった町です。
一度真理を教わりながら否定するなら、否定した者は、真理と偽りが混じり合い、冒瀆することになります。人を救うための真理を否定して、冒瀆すれば、死んだ後も永遠に救われないという悲惨な運命が待っています。冒瀆をふせぐために、カペナウムには長い間滞在することができません。
その後、主は過越の祭に合わせてエルサレムに上られます。そこで後に「宮清め」と呼ばれる業をなさいます。
宮の中で「売り買いする者」や、両替人が座っているのを見て、これを鞭で追い払われます。
両替人の机は、教会の真理から自分の利得とする者のことです。鳩を売る者の椅子とは、神聖なる善から自分の利得とする者です (AE840;4) 。教会の善と真理を、本来の再生という目的ではなく、自分を利する目的に使うなら、真理と善の冒瀆となる可能性が出てきます。
主は、内的真理を明かすにあたって、これら真理の冒瀆を最も怖れていました。本人が永遠に救われなくなる危険があるためです。ヨハネ福音書が他の福音書と違い、内的真理の開示であるカナの婚礼の奇蹟を最初に記し、その直後に、宮清めを配置したのは、主の御心です。
私たちには、さらにより内的な真理が、第二の再臨である天界の教えによって明かされています。
これを、行わず、知識のままにしておくこと、あるいは、この知識を自分の利得とすると、さらに冒瀆の危険性が高まります。主がより内的なヨハネ福音書の始めで、示されておかれたかったことは、この警告でした。
主が神殿での商売人を追い出すと、ユダヤ人達は、この行為を行う権利・権威があるのか「しるし」を見せよと迫ります。神であるご自身の、魂を収める肉体が「神殿」です。その肉体を壊してみよ、三日で建てると、ご自分の蘇りを預言されます。
しかし、神殿の商人の追放に、このときユダヤ人達が抱いた疑問、そして弟子達も、「いくらなんでも、やり過ぎではないか?」と考えたかもしれません。現代の私たちも同じで、宗教だからと言って、普通に商売をしている人達を追い出していいのだろうか?神社のおみくじやお札売り場を荒らせば、警察沙汰になってしまうと、自分の社会での立場を考えます。当時の弟子達が「あなたの家を思う熱心がわたしを食い尽くす」という御言葉を思い出したのと同じく、熱心故のやりすぎではないか程度だったかもしれません。
しかし彼らが言った「しるしを見せよ」は、「不思議なもの、あるいは天からの声」などの証明を意味していました。しかし、それらの証明を求めることは、救うというより、むしろ地獄に落とされます。
なぜなら、彼らは一度、意志を扇動され、知性を丸め込まれ (AE706-2)て、認め、信じますが、その後、自分の生活に戻ると、否定します。自分の生命と正反対のものは、よほど深く印象が無いと、心のそこで受付ません。大切な教えは、概ね三度繰り返されます。そして認めた後に、それを否定することは、冒瀆であり、地獄での冒瀆者の運命は、最悪です (AE706-8) 。
主が宮清めを行われた「家を思う熱心」は、霊的な熱であり、真理への愛であり、偽りへの嫌悪です(AE216)。自分は真理を受け入れたと、偽ることも、冒瀆となるので怖れておられ慎重です。
これは私たちを救おうとする強い愛です。そのため、主は私たちの内側を常に見ていらっしゃいます。誰にもお任せにならず、ご自身から見て、私たちの真実の姿を知り、あらゆる手段で、私たちが救済不可能に陥らず、正しい道を歩むことを見守っておられます。「主が、過越の祭りの祝いの間、エルサレムにおられたとき、多くの人々が、イエスの行われたしるしを見て、御名を信じた。」(2:23)としても、そのままにしておかれません。一番弟子であったペテロでさえ、後で裏切るからです。人は、学び行います、と口にしたことを、自分に都合のいい理由をつけて簡単に翻します。
しかし主は、私たちの長い人生すべての、一瞬一瞬、そしてその最小単位に至るまで支え続けられます(AC59-2)。これが永遠の神が、人間の形をとられて、私たちの生き方をご覧になった理由です。
「しかし、イエスは、ご自身を彼らにお任せにならなかった。なぜなら、イエスはすべての人を知っておられたからであり、また、イエスはご自身で、人のうちにあるものを知っておられたので、人についてだれの証言も必要とされなかったからである。」(ヨハネ2:24,25)
アーメン。
【新改訳】
詩編
69:5 神よ。あなたは私の愚かしさをご存じです。私の数々の罪過は、あなたに隠されてはいません。
69:6 万軍の神、主よ。あなたを待ち望む者たちが、私のために恥を見ないようにしてください。イスラエルの神よ。あなたを慕い求める者たちが、私のために卑しめられないようにしてください。
69:7 私は、あなたのためにそしりを負い、侮辱が私の顔をおおっていますから。
69:8 私は自分の兄弟からは、のけ者にされ、私の母の子らにはよそ者となりました。
69:9 それは、あなたの家を思う熱心が私を食い尽くし、あなたをそしる人々のそしりが、私に降りかかったからです。
69:10 私が、断食して、わが身を泣き悲しむと、それが私へのそしりとなりました。
69:11 私が荒布を自分の着物とすると、私は彼らの物笑いの種となりました。
69:12 門にすわる者たちは私のうわさ話をしています。私は酔いどれの歌になりました。
69:13 しかし【主】よ。この私は、あなたに祈ります。神よ。みこころの時に。あなたの豊かな恵みにより、御救いのまことをもって、私に答えてください。
69:14 私を泥沼から救い出し、私が沈まないようにしてください。
ヨハネ福音書
2:1 それから三日目に、ガリラヤのカナで婚礼があり、そこにイエスの母がいた。
2:2 イエスも弟子たちも、その婚礼に招かれていた。
2:3 ぶどう酒がなくなると、母はイエスに向かって「ぶどう酒がありません」と言った。
2:4 すると、イエスは母に言われた。「女の方、あなたはわたしと何の関係がありますか。わたしの時はまだ来ていません。」
2:5 母は給仕の者たちに言った。「あの方が言われることは、何でもしてください。」
2:6 そこには、ユダヤ人のきよめのしきたりによって、石の水がめが六つ置いてあった。それぞれ、二あるいは三メトレテス入りのものであった。
2:7 イエスは給仕の者たちに言われた。「水がめを水でいっぱいにしなさい。」彼らは水がめを縁までいっぱいにした。
2:8 イエスは彼らに言われた。「さあ、それを汲んで、宴会の世話役のところに持って行きなさい。」彼らは持って行った。
2:9 宴会の世話役は、すでにぶどう酒になっていたその水を味見した。汲んだ給仕の者たちはそれがどこから来たのかを知っていたが、世話役は知らなかった。それで、花婿を呼んで、
2:10 こう言った。「みな、初めに良いぶどう酒を出して、酔いが回ったころに悪いのを出すものだが、あなたは良いぶどう酒を今まで取っておきました。」
2:11 イエスはこれを最初のしるしとしてガリラヤのカナで行い、ご自分の栄光を現された。それで、弟子たちはイエスを信じた。
2:12 その後イエスは、母と弟たち、そして弟子たちとともにカペナウムに下って行き、長い日数ではなかったが、そこに滞在された。
2:13 さて、ユダヤ人の過越の祭りが近づき、イエスはエルサレムに上られた。
2:14 そして、宮の中で、牛や羊や鳩を売っている者たちと、座って両替をしている者たちを見て、
2:15 細縄でむちを作って、羊も牛もみな宮から追い出し、両替人の金を散らして、その台を倒し、
2:16 鳩を売っている者たちに言われた。「それをここから持って行け。わたしの父の家を商売の家にしてはならない。」
2:17 弟子たちは、「あなたの家を思う熱心が私を食い尽くす」と書いてあるのを思い起こした。
2:18 すると、ユダヤ人たちがイエスに対して言った。「こんなことをするからには、どんなしるしを見せてくれるのか。」
2:19 イエスは彼らに答えられた。「この神殿を壊してみなさい。わたしは、三日でそれをよみがえらせる。」
AE706
8
心の中で深く嘆息して、こう言われた。「なぜ、今の時代はしるしを求めるのか。まことに、あなたがたに告げます。今の時代には、しるしは絶対に与えられません。」
ここでの「しるし」は、主が、預言者の預言から期待されたメシアであり、神の息子であることを、
彼らがはっきりと知り、認め、信じるための証明を意味することは明らかです。そしてこれが明らかに啓示され、天から告げられたら、かくして知性を丸め込まれたなら、彼らは認め信じます、しかし後で拒みます。そして認め信じた後の拒絶は、冒瀆であり、冒涜者の地獄での運命は、すべての中で最悪です。
参考 AE376-29
この奇蹟について;ここ、そして御言葉のあらゆるところで、「婚礼」は教会を意味します;「ガラリヤのカナにて」は異邦人の間にて;「水」は外的教会の真理、ユダヤ教会の文字上の意味から;そして「ワイン」は内的教会の真理、キリスト教会の真理を;そのため、主が「水をワインにした」とは、外的教会の真理を、その中に隠された内的なものを開くことによって内的教会の真理とすることを意味します。
「ユダヤ人の清めのしきたりによって備えられた、石の六個の水甕」は、御言葉の中の真理のすべてと、ユダヤ教会とその礼拝のすべてを意味します;これらは主からの、主の内の神的なものの表象と意味のすべてです。こういう理由から、「ユダヤ人の清めのしきたりによって備えられた、石の六個の水甕」がありました。数字の六はすべてを表し、真理についていわれています;「石」は真理で、「ユダヤ人の清めのしきたり」は罪からの清めを意味します;そのためユダヤ教会のすべてが意味されます。それは、その教会は、罪からの清めがすべてと見なし、誰も罪から清められる限り、彼は教会となります。「宴会の世話役」は真理の知識にいる者を意味し:彼が花婿に言った「だれでも初めに良いぶどう酒を出し、人々が十分飲んだころになると、悪いのを出すものだが、あなたは良いぶどう酒をよくも今まで取っておきました。」は、教会のすべては、最初は善から真理にいるが、善のない真理に堕落し、そして今、教会の終わりに、善からの真理、あるいは純粋な真理が主から与えられれます。