ぶどう園の労働

しかし、先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になります。19:30

本章はぶどう園の労働の喩えから始まります。
文字上の話は、ぶどう園の所有者が、朝早く労務者と一日一デナリの報酬を約束して、労務者を雇います。そして御言葉の原語で、第三時・第六時・第九時、そして第十一時に市場に出かけ、労務者を雇います。そして一日が終了し、後から来た者から始め、最初から働いていた者すべて労務者全員に同じ一デナリを支払います。特に最後のものは一時間しか働きませんが、同じ一デナリの賃金を支払います。もし、時給契約であれば、不公平になります。

最初に来た者は文句を付けます、『最後に来たこの者たちが働いたのは、一時間だけです。それなのにあなたは、一日の労苦と焼けるような暑さを辛抱した私たちと、同じように扱いました。』
一日中働いた者と、最後の一時間だけ働いた者が、同じように扱われています。
最初に「一日一デナリの約束」(20:2)して、日給の契約であったため、朝から働いた者は「もっと多くもらえるだろうと思ったが、彼らが受け取ったのも一デナリずつであった。」(20:10)

主がこのぶどう園の労働の喩えで指摘された事は、「もっと多くもらえるだろう」という思いに対する評価です。自分は自分の力で働き、成果もあったはずだことがおかしいという指摘です。

天界の教えによれば、ぶどう園とは、霊的教会のことを意味します。(AC1069:5)
そして、霊的教会の主要な教えは、内に主が存在する仁愛で、この仁愛によって主は人と結ばれ、仁愛によってのみあらゆる善を働かれます。ヨハネ福音書にもある「ぶどうの木」の喩えでみごとに教えられえいます。
「わたしにとどまりなさい。わたしもあなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木にとどまっていなければ、自分では実を結ぶことができないのと同じように、あなたがたもわたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。」(15:4)

朝早くから働き、自分は、もっと多くもらえる、と考えていた者は、「報酬」という概念を強く持っています。時給と考えています。私たちも、教会の為に多く働けば、天界では善い報いが待っている、あるいは天界に入ることができると、考えています。よく天界の教義を学びさえすれば、天界に行ける・・・とも。

しかし天界の教義はそうではないことを教えます。
「信仰の生命は服従から戒めを行うことにある。しかし仁愛の生命は愛から戒めを行うことにある」(AC 9193)
同じ「戒めを守る」にあたっても、服従からか、あるいは愛からかという二種類があります。
服従とは、自分の意志ではなく、自分以外の者の意志を行うことです。人の意志を行うことは、簡単ではありません。自分の意志を犠牲にしなければならないからです。自分の意志を抑えて、報酬をもらうために耐えなければなりません。これが「一日の労苦と焼けるような暑さを辛抱」(20:12)することによって意味されます。焼けるような暑さとは、報酬を求める欲望です。労苦とは悪と偽りに対する戦い(AC10360)です。

もちろん、ぶどう園に行かず、「何もしないで立っている」ことも選択できます。しかし、怠惰であるなら、地獄か荒野に投げ入れられ、全てを欠如する惨めな生を送ります(D.Wis9-4)。

天界に入りたいという報酬のために働くなら、自分から悪と偽りと闘うことになります。そしてその闘いに勝利するのは簡単ではありません。労苦が伴います。自分の力で闘うからです。自分一人で地獄全体と闘うことになります。勝利はきわめて難しいのは一目瞭然です。
しかし、愛から戒めを守るなら、戒めを労苦とは感じません。自分の愛することを行うからです。労働ではないので、勝利も難しくはありません。

労働を始めた時を、それぞれ、検討してみます。御言葉の原語では、第三時・第六時・第九時、そして第十一時です。これをこの世の生活時間に変換・翻訳してしまうと、主の意図されたことがくみ取れなくなりますので、原語に従います。

三は聖なる状態を意味します。そしてその倍数の六と九も同じ意味を持ちます。
終わりの時刻は第十一時に一時間を加え、第十二時となります。十二は完全を意味します。
第三時・第六時・第九時は聖なる状態、そして労苦の終了時刻である、第十二時に完全になったことが意味されます。信仰による服従から、完全に愛によって闘う聖なる状態を得たことになります。(AE194)

問題はやや中途半端で、かつ多く働いた労働者から、一時間しか働いてないと批判された十一時からの労務者です。
「十一はまだ完全ではない状態ですが、親切な子供や、幼児のように受け入れられる状態を意味します。」(AE194)
彼らは前の章や前々章で主が受け入れなさいとおっしゃった幼児のような状態、すなわち無垢で純真な状態のことが述べられてます。彼らは素直に主の戒めを受け入れるために、天界に入りやすいことは、今までの教えから明らかです。適正な評価です。

自分から戒めを守り、その褒美として自分は天界に入ることができる考えている人々は、自分の功績を、自分の働きの結果として考えます。戒めを守ることができて主と結ばれ、天界に入ることができると考えます。しかし私たちの本来の目的は、つらい労働のとして、信仰の真理を行うことではなく、愛から仁愛を行うことです。私たちの持つ「愛」が矯正され、撓められ、天界の天使達と同じようにならなければ、天界に入ることはできません。私たちそれぞれが持つ愛が、私たちの本質であるからです。本質が同じでないもので、同じ共同体を維持することはできません。

自分の働きにこだわるなら、あるいは自分が教会に対してこれだけ働いたと主張し、自分は天界に相応しいと考えるなら、それは誤っています。私たちは、ぶどう園に入り、主と結ばれて実を結ぶことを、すなわち、ぶどう園で働くことを勧められますが、暑い太陽に照らされ、労働を続けることは簡単ではありません。
愛により働き、完成を意味する、十二時まで働く者は少なく、最初から労苦して、働く者はつらい労働が待っています。途中でくじけて労働をあきらめるかもしれません。あるいは、招待されても、最終的に選ばれる者は多くはありません。そのため、前章から続いたのと同じ御言葉に一句加わり、締めくくられます。

「このように、後の者が先になり、先の者が後になります。招待される者は多いが、選ばれる者は少ないのです。」(20:16)

ぶどう園の喩えの後も、御言葉は続きます。まだ主の教えは終わってないからです。
主が十字架の苦難に遭い、蘇らなければならないことを十二弟子達に告げなければなりません。信仰の善と真理の全てを表す、十二弟子達はまだ心の底から信じていませんが、主の最後の苦難と蘇りは、善と真理の中核であり、これがなければ、人類は救済されません。しかし、これだけではありません。

十二弟子の中で、主の山上の変容を見た者は、ペテロとヤコブとヨハネです。この三人は自分への特別の扱いを望む傾向があります。あるいは、仮説や信念を検証する際にそれを支持する情報ばかりを集め、反証する情報を無視または集めようとしない傾向、が続きます。これは確証バイアスと呼ばれ、確証バイアスという偽りが働き続けます。

ペテロは、主の十字架の苦難の預言を否定し、「あなたはペテロです。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます。」を自分のことだと思います。ペテロの言葉「ご覧ください。私たちは、何もかも捨てて、あなたに従ってまいりました。私たちは何がいただけるでしょうか。」(19:27)これも、自分は働きに値する特別の報償を受け取る資格があると考えています。ぶどう園で朝から働いていると考えています。自分が働くおかげで、大きな成果が得られると考えています。

ペテロとヤコブとヨハネの三人が表す事柄、信仰と仁愛と、その行い、これらすべてが、主から来ることに気づいて居ません。自分の力だと誤解しています。ペテロに引き続き、ヤコブとヨハネも同じ過ちをしています。

ヤコブとヨハネの母は、自分の二人の息子は主の御国で、主の王座の左右に座るよう主に願い出ます(20:21)。この二人は、主を受け入れようとしないサマリヤ人の町に「主よ。私たちが天から火を呼び下して、彼らを焼き滅ぼしましょうか。」(9:54)と不遜な言葉を吐き、主にたしなめられます。自分たちは特別であるという気持が抜けないからです。

主はこれら傾向が現れると、強烈に退けられます。ペテロには「退けサタン」とおっしゃりペテロを否定します。二人の母による王座の左右の座を求めも否定し、さらなる教えを加えられます。

「あなたがたの間では、そうであってはなりません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、皆に仕える者になりなさい。あなたがたの間で先頭に立ちたいと思う者は、皆のしもべになりなさい。
人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また多くの人のための贖いの代価として、自分のいのちを与えるために来たのと、同じようにしなさい。」(20:26-28)

これは、単に教会の為に働くための心構えの教えではありません。
天の御国のぶどう園で働く者の特別な報償が否定されたように、「自分は特別だ」と考えている弟子達にも主と同じようにしなさいという戒めを与えられます。自分は特別だという意識への警告です。

日本の新教会では、著作を翻訳することに、役立ちの歓びだけではなく、権威と権力を求めるような傾向を見ます。そして、天界の教義を学ぶことによって優越感を持つ人もいます。自分は人よりも、真理を知っているという優越感です。しかし翻訳作業も、真理の学びも、そしてそれを教えようとする側も、主の戒めを守らないなら、意味がないことを知りません。ぶどう園に招かれはしたが、まだ働いていないことを知らなければなりません。皆の僕になっていないからです。自分は招かれていると考えています。なかなか確証バイアスから離れることができず、物事の本質が見えません。本章の最後で、主はこれを戒められます。

エリコを出てエルサレムに向かう道ばたで座っていた二人の盲人は、「主よ、ダビデの子よ。私たちをあわれんでください」(20:31)と叫びます。
この二人の盲人は、実は私たちのことです。単なる盲人を癒やす、という奇蹟のエピソードではありません。
二人の盲人の二は、善と真理がまだ結びついていないことを意味します。
彼らが座っているのは、エリコからエルサレムへの道ばたでした。エリコはヨルダン川を渡った場所にあります。ヨルダン川で主が洗礼をお受けになったように、私たちも教会への導入は済んでいます。新教会の洗礼で、主が天地のただ一人の天地の神であることを認めています。
しかし、二人の盲人と同じように、私たちはまだ目が開いていません。バイアスが働き、物事が見えません。どうすれば、天界のぶどう園で働くことができるか、理解していません。まだ市場で遊んでいるだけですが、それさえ気づいていません。エレミヤが言ったように、「なぜ、悪者の道は栄え、裏切りを働く者が、みな安らかなのですか。」という不公平に気を取られているだけです。
信仰の真理を得ても、それで闘っていません。喩え闘ったとしても、その闘いは遅々として進みません。

もし、私たちの主への信仰が本物なら、私たちが助けを求めるのは、スウェーデンボルクでも、牧師でも、翻訳者でも、教会での先輩たちでもありません。天地の唯一の神、主イエス・キリストに叫んで求めなければなりません。私たちは物事が見えてないことを認め、主のお力で開いていただきます。
私たちは心から主イエスに、「私たちをあわれんでください」と乞い求めます。
すると主は私たちに聞かれます。「わたしに何をしてほしいのですか。」

私たちは、自分の信仰の目がまだ開いていないこと、自分のぶどう園での闘いが進んでいないことを認めます。そして天地の神である主イエスに「主よ、目を開けていただきたいのです。」と心から願います。すると奇蹟が起こります。

「イエスは深くあわれんで、彼らの目に触れられた。すると、すぐに彼らは見えるようになり、イエスについて行った。」(20:34) アーメン

エレミヤ12:1 【主】よ。私があなたと論じても、あなたのほうが正しいのです。それでも、さばきについて、一つのことを私はあなたにお聞きしたいのです。なぜ、悪者の道は栄え、裏切りを働く者が、みな安らかなのですか。
・・・
12:14 「【主】はこう仰せられる。わたしが、わたしの民イスラエルに継がせた相続地を侵す悪い隣国の民について。見よ、わたしは彼らをその土地から引き抜き、ユダの家も彼らの中から引き抜く。
12:15 しかし、彼らを引き抜いて後、わたしは再び彼らをあわれみ、彼らをそれぞれ、彼らの相続地、彼らの国に帰らせよう。
12:16 彼らが、かつて、わたしの民にバアルによって誓うことを教えたように、もし彼らがわたしの民の道をよく学び、わたしの名によって、『【主】は生きておられる』と誓うなら、彼らは、わたしの民のうちに建てられよう。
12:17 しかし、彼らが聞かなければ、わたしはその国を根こぎにして滅ぼしてしまう。──【主】の御告げ──」

マタイ福音書(新改訳)
20:1 天の御国は、自分のぶどう園で働く者を雇うために朝早く出かけた、家の主人のようなものです。
20:2 彼は労働者たちと一日一デナリの約束をすると、彼らをぶどう園に送った。
20:3 彼はまた、九(三)時(以下括弧内は原語:原語により解釈)ごろ出て行き、別の人たちが市場で何もしないで立っているのを見た。
20:4 そこで、その人たちに言った。『あなたがたもぶどう園に行きなさい。相当の賃金を払うから。』
20:5 彼らは出かけて行った。主人はまた十二(六)時ごろと三(九)時ごろにも出て行って同じようにした。
20:6 また、五(十一)時ごろ出て行き、別の人たちが立っているのを見つけた。そこで、彼らに言った。『なぜ一日中何もしないでここに立っているのですか。』
20:7 彼らは言った。『だれも雇ってくれないからです。』主人は言った。『あなたがたもぶどう園に行きなさい。』
20:8 夕方になったので、ぶどう園の主人は監督に言った。『労働者たちを呼んで、最後に来た者たちから始めて、最初に来た者たちにまで賃金を払ってやりなさい。』
20:9 そこで、五時ごろに雇われた者たちが来て、それぞれ一デナリずつ受け取った。
20:10 最初の者たちが来て、もっと多くもらえるだろうと思ったが、彼らが受け取ったのも一デナリずつであった。
20:11 彼らはそれを受け取ると、主人に不満をもらした。
20:12 『最後に来たこの者たちが働いたのは、一時間だけです。それなのにあなたは、一日の労苦と焼けるような暑さを辛抱した私たちと、同じように扱いました。』
20:13 しかし、主人はその一人に答えた。『友よ、私はあなたに不当なことはしていません。あなたは私と、一デナリで同意したではありませんか。
20:14 あなたの分を取って帰りなさい。私はこの最後の人にも、あなたと同じだけ与えたいのです。
20:15 自分のもので自分のしたいことをしてはいけませんか。それとも、私が気前がいいので、あなたはねたんでいるのですか。』
20:16 このように、後の者が先になり、先の者が後になります。(招待される者は多いが、選ばれる者は少ないのです。KJV等では付加)」

AE194.
[2] 「時」とは 状態を意味します・・
家の所有者はぶどう園の労働者を、第三時、第六時、第九時、第十一時から働く者を雇い、同じ賃金を受け取った。(マタイ 20:1-16).
これらの「時」は、この世では時を意味しますが、天界では生命の状態を意味します、なぜなら天界では時間はなく、測れる時間もなく、世のように日々や時間に分割できないからです。従って、これら時間の代わりに、天使たちは生命の状態、死、老、成人、若人、あるいは子、そして等しく霊的生命を自ら得た状態を認識します。「ぶどう園での労働」は自らによって御言葉から真理と善を得て生命の役立ちに適用します。:第三、第六、第九時は生命の状態を意味します、なぜなら、御言葉のあらゆる数字は、意味を持ち、これらの数値は同じような意味を持っています。(御言葉のぶどう園は霊的教会を、人にあっては霊的生命を意味しますAC 9139, 3220。三は完全な状態を、あるいは最後まで完了した状態を2788, 4495, 7715, 8347, 9825:同じように六と九も。)
しかし、十一はまだ完全ではない状態ですが、親切な子供や、幼児のように受け入れられる状態を意味します。すべて働いた十二時は、真理と善が完全です577, 2089, 2129, 2130, 3272, 3858, 3913.)・・・