イナゴと闇


【主】はモーセに仰せられた。「パロのところに行け。わたしは彼とその家臣たちを強情にした。それは、わたしがわたしのこれらのしるしを彼らの中に、行うためであ」る(出エ10:1)

現代でも、侵略と偽情報による国民の支配という状況が起こり、その国の宗教指導者も支援します。
これが進めば、偽りが霊的教会を支配する可能性が強くなります。霊的なものを自由に考え、自由から行うという価値を奪い、事実を隠し、恐怖で支配します。しかし有史以来の歴史を紐解けば、為政者の都合、宗教的権威者の都合で真実を変え、覆い隠す事例は少なくありません。中世のキリスト教国による支配や、新興宗教の勃興など、国や時を問わず見られ、今にはじまったことではありません。

何が偽りで、何が真理であるか、いつの時代も、宗教的真理については、私たちそれぞれが、その愛と能力に応じて問われ続け判断してゆくことになります。古代に説かれた聖書も、その内意を知り、現実に適用しなければ、全く縁もゆかりもない国と民族の伝説に終わってしまいます。自己愛の強い民族は、聖書に自分の栄光しか読み取れません。

聖書が聖なる書、神の言葉としての価値を持つには、神からのメッセージ、神の言葉であると受け入れなければなりません。次に、それを主からの啓示による相応の知識によって、霊的意義を読み取らなければなりません。そして、自分たちの現実に当てはめ、活用して生命としなければなりません。そうすれば、聖書のどの部分であれ、そこに神的なものを感じ取ることができます。それを真理として受け入れ、相応の知識によって、生きる指針に変換するなら、それは信仰と呼ばれます。参考となる資料や読み物、哲学として考えるなら、それは信仰を産まず、雑談のネタで終わってしまいます。雑談のネタにしかならなければ、それは暗闇と同じです。

神的なものは時空、時と場所を超えて存在します。ある国のある地方、ある集団だけに適用可能な考えや事象は、神的なものとはいえません。その偽りは、内容に応じて、次善の策、次善以降の代替策として、神の許しによって存在するだけです。自分の生命としないなら、すぐに消えて闇となってしまいます。自分の生き方と比較して、何も照らし出ません。

出エジプト記の文字上の表現、主が、モーセとアロンに命じて、エジプトに与えた十一もの厄災は、イスラエルの民を奴隷として、解放しようとしないエジプトへの罰と理解されています。
しかし天地の神である主イエスを、愛によって理解しようと努めれば、可能な限り人と霊を救おうとしている姿が見えてきます。人や霊は常に、地獄を選んで、自ら地獄に行こうとする性向と遺伝をもって生まれついています。他方で、主なる神は、常にそれを救おうとされています。

エジプトで行われた禍は、私たちの負の段階の指標、神様から見てどのレベルにいるのかを表します。私たちは何かの奴隷になっていることを教え、それがどの段階であるかを教え、可能な限り地獄から引き戻し天界へと引き上げようとされます。これが主の御心であり、宗教の本来の役目です。人と主のつながりを戻すことが、宗教の語源です。

出エジプト記の前章、第九章では、疫病、腫物、雹・炎の災いが起こされました。偽りは、十章ではさらに悪い段階に進みます。前章では、霊的状態を天使たちに知らせるために、モーセとアロンは、かまどのすすを取り、天にまき散らすことを命じられ(9:10)ました。天使たちには、それを見て、その人が悪の火で燃えていることを知ります。しかし、当の本人はまだ自分が悪にいることに気づきません。冷たい真理となってしまった雹と、欲念を表す火は、畑の作物で意味される教会の善と真理を滅ぼします。しかし、主が私たちがいつか再生するために隠し、備えられた新教会の用語でいう「残りのもの」は滅ばずに残っています。
「しかし小麦とスペルト小麦は打ち倒されなかった。これらは実るのを隠されていたからである(9:32)」

人と霊がさらに悪い段階に進むと、第九と第十の厄災が起こると警告されます。いなごと、闇です。
それはファラオの心が頑なになっていたからと表現されます。これは文字通りの解釈、主がファラオの心を強情にしたからではありません。前章では、天使に明らかになりましたが、人と霊は、自分の偽りと悪を認めようとしないため、頑なになる性向を持っています。そして、真理と善の知覚を持たなず、地獄の近くにいる者は、自分を正当化さえしようとします。(AC7680参照)内意は、この状態を描いています。エジプト王ファラオとは、洗脳する者であると同時に、洗脳されてしまった私たち自身です。洗脳が進めば、自分が被害者なのか、加害者なのかさえわからなくなります。

人は改良・改善されるためには、少なくとも自分が悪と偽りにいることを知らなければなりません。自分が真理と善の内にいると信じていても、それは自分だけの真理と善であり、隣人にとっては悪と偽りであるかもしれません。自分のいる状態を、自分ではなく、神や隣人の立場から見ることが第一歩です。

「それは、わたしがわたしのこれらのしるしを彼らの中に、行うためであり、・・・・わたしが彼らの中で行ったしるしを、あなたが息子や孫に語って聞かせるためであり、わたしが【主】であることを、あなたがたが知るためである。」(10:1,2)

自分が悪と偽りの中にあるのを自覚させるため、主は「彼らの中でしるしを」行います。しるしに続いて、自分が悪と偽りの中にいる原因を教えられます。
『いつまでわたしの前に身を低くすることを拒むのか。』とは、私たちがあえて謙虚さを拒んでいることを教えます。

謙虚とは、自分自身が悪そのものであることを認め、神的な善と無限に比べれば、自分は何もないに等しい、この二つを認めることです(AC7640)。
自分は素晴らしい、よくやれている、と考えているなら、この二つを認めることができません。実は私たちは、自己愛であふれる傾向をもって生まれているからです。
何らかの術や才能や働きで、自分を人より優れていると考え、他人に仕えることではなく、名誉を望むのであれば、それは卓越と名誉という利得を求め働いていることになります。
そして自分が悪にいることを知らず、頑なな態度を改めないなら、
「雹の害を免れて、あなたがたに残されているものを食い尽くし、野に生えているあなたがたの木をみな食い尽くす」(10:5)ことになります。イナゴがやってきて作物を無くしてしまう、という警告が実現します。

イナゴの内的意味は、究極的な偽りです(AC7643)。
人が主からすべての善が来ないと考えるなら、それは自分の善と真理を顧みて、功績を誇ることになります。そこから、
あらゆるものを支配し、人に属するものをすべて所有したいという欲望が生まれ、自分自身に好意を示さない者を軽蔑し、嫌悪し、復讐し、残虐さが生まれます。そして信仰と仁愛に関するすべてを軽蔑し、主から背きます。(同上)
自分を振り返り、自分の善と真理を受け入れようとしない者を、軽蔑し、嫌悪し、復讐し、残虐に扱っていないか、考えます。
もし、自分に力があると考えているなら、唯一の救い主である、神である主を認めることができません。頑なに自分の力を求めます。もっと自分に力があれば、全ては良くなるはずだとしか考えます。

偽りにいる者は、自分を正当化しようとします。しかし、偽りであっても、主はそれを真っ向から否定されません。全否定されません。少しでも善い方向に撓められます。各地・各国固有の宗教が生まれ、特有の霊性があるような気になるのは、そのためです。しかしそれは、妄想にしかすぎません (AC6780)。真理を真理とし、偽りを偽りとする知覚は、天地唯一の神を源として考えなければ得ることはできません。善と真理の源は、主お一人であるからです。

モーセは東風を吹かせて、イナゴを呼びます。
【主】は終日終夜その地の上に東風を吹かせた。朝になると東風がいなごの大群を運んで来た。(10:13)
「地の草木も、雹を免れた木の実も、ことごとく食い尽くした。エジプト全土にわたって、緑色は木にも野の草にも少しも残らなかった。」(10:15)
東風は破壊の手段を意味します。本来、「東」は愛と仁愛の善を意味します。しかし地獄の住人にとっては、辛辣で厳しい罰と感じます。神的善が地獄に流入すると、地獄の住人には耐えられないほどの苦しみとなります。そして顔を背けようとします。
主から顔を背け、神的流入を拒むなら、主が蓄えた残りのものは、すべて無駄になり、再生の役に立たなくなります。慈悲による「撓め」さえ受け入れなければ、教会の善と真理は、すべて無駄となって失われてしまいます。すると自分に隠れている悪が顔を見せ始めます。

その偽りはこの世にいる限り、自分の奥深く隠れていますが、来世では知っていた信仰の真理の荒廃に会うと、深く隠れている偽りが表れ、自らを明かします。(AC7689)

しかしまだ究極的な偽りに囚われていますが、究極的な悪ではありません。究極的な悪は、詩編では、毛虫によって表されます (AC7643-4)。
ファラオはイナゴを主に去らせるよう、モーセに請い願います。しかし、緑色は少しも残っていません。緑色は真理に関する感受性を意味します(AC7691)。真理への感受性は失われてしまいます。

イナゴによってわずかに残っていたもの、真理に対する感受性さえなくなってしまします。
なぜなら他生では入った悪と偽りのそれぞれの状態によって、その悪はその状態に属するすべてある地獄と結ばれます。完全に荒廃する前に、連続して多くの地獄と結合されてゆきます。(AC7704)

偽りと悪は結びついているため、自分だけを見続けると、偽りがすべてを覆い始め、悪がやってきて、第十の禍が起こります。
モーセが天に向けて手を差し伸ばしたとき、エジプト全土は三日間真っ暗やみとなった。(10:22)
闇はみ言葉では偽りについて言われますが、「真っ暗闇」は悪についても言われます(AC7711)。
偽りによって悪が見えなくなると、自分の悪も見えないと思い、悪を自由に行います。

悪を行うにつれ、地獄との結びつきは強くなってゆきます。
地獄にいる者は悪から起こる偽りに浸されるほど、真理を嫌がります。そして嫌がるほど、真であることを聞くことさえ拒みます。(AC7738)
人はますます頑なになってゆき、神的真理であるモーセの顔さえ、見たくないと嫌うようになります。
自分の力で行っていることは、悪と偽りであり、自分の力で行っていると考えるなら、次第に神を嫌い、本当の善と真理から目を背け、自分が善と思い、真理と考えることしか、目を向けなくなります。これは単に高齢、のための思い込みだけではありません。分離の時が近づいてきたしるしです。

本人があえて救いを拒み、それを受け入れようとしないなら、本人の愛を受け入れないことになります。それは、すべてを慈しむ主の御心ではありません。また拒む者たちを別の集団として、隔離しなければ、ともにいる善い心根が残っている者も悩まされ続けます。分離は神の永遠の裁きではなく、善と悪を分ける時が近づいたしるしです。

モーセが表す神的真理は、何度も行ってきた警告を、今後はあきらめ、神的真理による苦悩を与えないことを伝えます。
「結構です。私はもう二度とあなたの顔を見ません。」(10:29)

アーメン。


出エジプト記
10:1 【主】はモーセに仰せられた。「パロのところに行け。わたしは彼とその家臣たちを強情にした。それは、わたしがわたしのこれらのしるしを彼らの中に、行うためであり、
10:2 わたしがエジプトに対して力を働かせたあのことを、また、わたしが彼らの中で行ったしるしを、あなたが息子や孫に語って聞かせるためであり、わたしが【主】であることを、あなたがたが知るためである。」
10:3 モーセとアロンはパロのところに行って、彼に言った。「ヘブル人の神、【主】はこう仰せられます。『いつまでわたしの前に身を低くすることを拒むのか。わたしの民を行かせ、彼らをわたしに仕えさせよ。
10:4 もし、あなたが、わたしの民を行かせることを拒むなら、見よ、わたしはあす、いなごをあなたの領土に送る。
10:5 いなごが地の面をおおい、地は見えなくなる。また、雹の害を免れて、あなたがたに残されているものを食い尽くし、野に生えているあなたがたの木をみな食い尽くす。
10:6 またあなたの家とすべての家臣の家、および全エジプトの家に満ちる。このようなことは、あなたの先祖たちも、そのまた先祖たちも、彼らが地上にあった日からきょうに至るまで、かつて見たことのないものであろう。』」こうして彼は身を返してパロのもとを去った。
10:7 家臣たちはパロに言った。「いつまでこの者は私たちを陥れるのですか。この男たちを行かせ、彼らの神、【主】に仕えさせてください。エジプトが滅びるのが、まだおわかりにならないのですか。」
10:8 モーセとアロンはパロのところに連れ戻された。パロは彼らに言った。「行け。おまえたちの神、【主】に仕えよ。だが、いったいだれが行くのか。」
・・
10:12 【主】はモーセに仰せられた。「あなたの手をエジプトの地の上に差し伸ばせ。いなごの大群がエジプトの地を襲い、その国のあらゆる草木、雹の残したすべてのものを食い尽くすようにせよ。」
10:13 モーセはエジプトの地の上に杖を差し伸ばした。【主】は終日終夜その地の上に東風を吹かせた。朝になると東風がいなごの大群を運んで来た。
10:14 いなごの大群はエジプト全土を襲い、エジプト全域にとどまった。実におびただしく、こんないなごの大群は、前にもなかったし、このあとにもないであろう。
10:15 それらは全地の面をおおったので、地は暗くなった。それらは、地の草木も、雹を免れた木の実も、ことごとく食い尽くした。エジプト全土にわたって、緑色は木にも野の草にも少しも残らなかった。
10:16 パロは急いでモーセとアロンを呼び出して言った。「私は、おまえたちの神、【主】とおまえたちに対して罪を犯した。
10:17 どうか今、もう一度だけ、私の罪を赦してくれ。おまえたちの神、【主】に願って、主が私から、ただこの死を取り除くようにしてくれ。」
10:18 彼はパロのところから出て、【主】に祈った。
10:19 すると、【主】はきわめて強い西の風に変えられた。風はいなごを吹き上げ、葦の海に追いやった。エジプト全域に、一匹のいなごも残らなかった。
10:20 しかし【主】がパロの心をかたくなにされたので、彼はイスラエル人を行かせなかった。


黙示録
9:3 その煙の中から、いなごが地上に出て来た。彼らには、地のさそりの持つような力が与えられた。
9:4 そして彼らは、地の草やすべての青草や、すべての木には害を加えないで、ただ、額に神の印を押されていない人間にだけ害を加えるように言い渡された。
9:5 しかし、人間を殺すことは許されず、ただ五か月の間苦しめることだけが許された。その与えた苦痛は、さそりが人を刺したときのような苦痛であった。

天界の秘義7680(部分)
地獄にいる者は、自分の悪と偽りを正当化することが可能ですが、それは知覚ではありません。知覚は真理を真であり、善を善とし、悪は悪、偽りは偽りとみることです。しかし真理を偽りと見、善を悪とすること、その逆は知覚ではありません。知覚ではなく、妄想です。妄想は知覚のように見え、その中にいる人は感覚や悪の願望に助力する思考類によって悪と偽りを正当化します。