マナセとエフライム

マナセとエフライム

ヨセフは、父が右手をエフライムの頭に置いたのを見て、それは間違っていると思い、父の手を取って、それをエフライムの頭からマナセの頭へ移そうとした。創48:17

ヨセフは父が病気と聞き、二人の息子、マナセとエフライムを父ヤコブのもとに連れて行きます。ヨセフの目的は、余命わずかの父に、自分の二人の子を一目見せたいという親ごころ、子ごころからだったかもしれません。しかし、ヨセフの子は、ヤコブの子としての祝福を受けます。
「私がエジプトに来る前に、エジプトの地で生まれたあなたのふたりの子は、私の子となる。」(48:5)。

日本でも相続税対策で、実の孫を、自分の養子にすることがあります。聖書のマナセとエフライムも、のちにイスラエルの十二部族に数えられ、それぞれイスラエルに土地を譲り受けることになります。エジプトで一族を引き受けてくれた論功行賞もあったのでしょうか。

しかし、ヨセフの子が、イスラエルの子とされたことには、別の意味があります。
天界の教えによるみ言葉の内意によれば、イスラエルは霊的な人とされています。そして、ヨセフの内的意味は天的な人です。そのため、ヨセフの子であるマナセとエフライムは、本来天的な人となるはずですが、イスラエルの子とされたため、霊的な人の内に含まれることになります。

天界の教えが示すみ言葉の内意によれば、マナセは教会の意志を意味し、エフライムは教会の知性を意味します。双方ともヨセフが意味する内的な人から生まれています。(AC6222) 
マナセとエフライムは、私たちが持ちうる、新しい知性と、新しい意志を意味しています(AC5354)。

これは、ヨハネ福音書で、ユダヤ教の議員であるニコデモに、主が語られた言葉にもあります。
「人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。・・・、人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国に入ることができません。」(3:3,5)と言われたことです(AC5354)。

水と霊によって生まれるとは、み言葉の真理と、それに従った生活を意味します(AE 721:2)。み言葉の真理を受け、それに従った生活をすれば、新しい知性と、新しい意志を受け、人は新しく生まれ変わることができる、という主の教えです。
み言葉の真理を受けるには、どうすればいいのでしょうか?新しい知性とするためには、ただみ言葉を読めばいいのでしょうか?新しく生まれる教会の知性と意志とは何でしょうか?

ほとんどの人は、何が善か悪かを知りません。十戒に反することが悪である、あるいは国の法律に反するとき、罰せられると応えるくらいです。悪が何かは、その反対である善とは何かを知ることによってわかります。

「隣人に対する純粋な思いやりを抱くことが善です」(AC5354)。その善に反することが、悪となります。隣人に対して、心から思いやりをもつなら、隣人を傷つけ、隣人の善い行いを評価せず、隣人の行いと名誉を自分のものとして盗むことを、心から恐れるからです。
そして誰が隣人であるかも大切です。物理的に隣にいる人が隣人ではなく、心に善を持っている人、そしてその善自体が隣人です。究極の隣人は主おひとりです。主おひとりが善をなさるからです。

そのためその源は、常に主おひとりから、絶えず天界を通して私たちに流入しています。
しかし、悪と偽りは絶えずその流入を拒み、邪魔します。悪と偽りは、意識して拒まないと、新しい善と真理は流入しません。私たちからは善を行えないので、主からの流入を、純真で無垢な心で受け取ることが新しい意志であり、それを知ることが新しい知性です。

しかし偽りは、実に巧にやってきます。例えば、最近また問題となっているカルト組織の場合も、巧みな装いで、姿を隠して、甘い誘いで誘導します。最終的な目的は、人や組織、国家などへの支配権の確立などですが、表立っては別の装いをします。

学生時代の友人の話ですが、甘い誘いに誘われてその集団に入り、一年もたつと、見事に洗脳されていました。ごくごく真面目な田舎の青年でしたが、どうしてそうなったかはわかりません。
その狙いは、構成員の心の支配です。財産含めて徹底的に奴隷として働かされます。巧みに誘導し、徐々に脅しと恐怖を植え付け、将来を支配して奴隷にします。「天界と地獄」や「結婚愛」など、天界の教えの一部も研究し、都合のいい部分だけ切り取り、その教えさえ利用します。長期的戦略に長けています。新教会組織でさえ、十分、注意しなければ、単なる危惧にとどまりません。この偽りと悪から、無垢を守る必要があります。神様はすべてご存じなので、主に祈り、頼ればいいのでしょうか?

「羊の囲いに門から入らないで、ほかの所を乗り越えて来る者は、盗人で強盗です。」(ヨハネ10:1)という主のみ言葉があります。私たちは、主のみ言葉を通して無垢な人を導きいれる、「門から入る者」でなければなりません。乗り越えてくる盗人や強盗であってはなりません。新教会でいえば、主イエスだけが信仰の対象です、そのみ言葉、新旧両聖書と天界の教えである著作だけを私たちの信仰のよりどころとします。

ただし、天界の教えによれば、「み言葉の文字上の意味は、性質上、人が適用するためどんな見解も支えることができる、という事実は、膨大な数の異端が教会に存在し、そして今もなお残っているということから明らかに示されます。」(AC6222-2)

しかし、教会の知性は、
「み言葉を読み、勤勉に記述を他の記述と突き合わせ、そうすることによって何を信じるべきか、何を行うべきかを理解した時に存在します。・・・そして、真理を知りたいと欲する人にのみ与えられ、それは評判や栄光ではなく、生き方と奉仕のため与えられます。」(AC6222-3)
さらに、「事実上の証拠と哲学的推論が述べるから真理であるというのではなく、みことばの霊的意味が述べるから、真理だと判断」(AC6222-3)します。

新しい意志は、隣人に善を行うことに、見返りや自分のためという視点がなければ、歓びを生みだします。その歓びは、自分が源ではなく、主が源です(AC5354-2)。もし自分自身に歓びの源があると感じるなら、それは偽りです。

新教会の経験が長く、基本的な知識はあるはずですが、老年になって主イエスを捨て、他の道に切り替わる人がいます。
肉体的な感覚に頼り、教会の知性によって導かれず、「み言葉を読み、勤勉に記述を他の記述と突き合わせ、そうすることによって何を信じるべきか、何を行うべきかを理解」(AC6222-3)しなかったため、自然的な言葉と感覚に欺かれてしまいます。自然的な感覚が生み出す錯覚と、み言葉、内意の探求を忘れて安易に感覚的歓びを求めます。すなわち、歓びの源を、主と隣人に求めず、自分自身に求めています。

新しい意志に生まれ変わるプロセスは一瞬ではなく、一生かけて行われ、死後も続きます。またそのプロセスは天使の知恵に属し、天使でさえも全貌をつかめません(AC5354-3)。

そのため、自分に新しい意志の誕生と、そこへの善の流入が自覚できないと考えて、あせる必要はありません。
人は、自然的に生まれ、そして主の力によって時間をかけて霊的になってゆきます。主からの流入と歓びが、直ちに起こらなくても、まず自分の内に存在し、善の流入を阻んでいる悪と偽りを確認しまければなりません。悪と偽りさえなくなれば、主は歓んで善と真理を与えられます。

安易な救いへの誘いは誘惑の一つです。理性的な能力を捨て、自然的な感覚に従った時点で、偽りと、それに続く悪に惑わされ、天界への道を見失います。み言葉という、私たちの唯一の道標を捨ててはなりません。み言葉を学ぶことは、手間がかかりますが、自然的な私たちを霊的にする唯一の手段です。
「内的なもの以外に道はありません。(AC6222-6)」

イスラエルは、マナセとエフライムを、自分の子として祝福します。ヨセフの子として祝福したのではありません。
祝福には様々な意味がこめられますが、この場合、「祝福するとは、これからおこることを預言する」(AC6254)ことです。

イスラエルは、霊的な人であるため、「善を知覚できないので、真理によって善に導きいれますが、再生されるまで、善の知覚はありません。」(AC6256)
そのため、「イスラエルは老齢のために目がかすんでいて、見ることができなかった。」(48:10)と表現されています。

イスラエルは、ヨセフの祝福の後、マナセとエフライムを自分の子として祝福しようとします。ただしヨセフの目からはその順番が、誤っています。ヨセフの第一子であるマナセを第二の位置におき、第二子のエフライムを第一の位置にして祝福しようとします。この祝福の順番は、世的には長子権の確認の意味がありますが、霊的には何を優先するかを表します。しかし、老齢のためイスラエルは目がかすんでいます。

霊的教会であるイスラエルは、教会の知性であるエフライムを優先し、教会の意志を後にすることを宣言します。親であるヨハネにとっては、この過ちは致命的です。天的な人であるヨセフにとって、教会の第一は教会の意志にあるからです。教会の知性は第二であることが本来あるべき姿です。また天的教会であるなら、教会の意志が第一とならねばなりません。

ヨセフが祝福しようとする父親の手をつかんで、それを阻止しようとしますが、霊的な人であるイスラエルは、あえて拒みます。しかし、天的な人であるヨセフからの流入によって、霊的な人であるイスラエルは、本来あるべき順番を理解していました。(AC6294)

父は拒んで言った。「分かっている。わが子よ。私には分かっている。彼もまた、一つの民となり、また大いなる者となるであろう。しかし、弟は彼よりも大きくなり、その子孫は国々に満ちるほどになるであろう。」(48:19)

教会で、第二としなければならない真理を第一とし、弟であるエフライムが、兄のマナセよりも大きくならなければならない理由を天界の教えは、こう説明します。
「人間の意志は、絶えず堕落しており、もはや正常な部分は全く残っていないまで、悪が完全に支配してしまいます。人が滅びない様に、主は予見され、人の知性部分が再生するようにされました。・・これが天的な人がわずかになるが、霊的な人が多くなり、天的な人よりも多くなる」AC6296[2]ことによって意味されています。

新教会の教義を知識として蓄えても、それを実際に役立てる人は決して多くありません。ジェネラルチャーチの米の本部でも、信者は減少し、老齢化しています。何年もかけて築き上げた新教会教育も、卒業後に新教会員として残り続ける人は少なくなっているといいます。教師に状況を聞くなら、学位の取得や卒業後の進路のため学び、すなわち世のために学び、真理自体のために学ぶ学生が少なくなっているからと思われます。通り一遍の知識、記憶知にとどまる活用しない知識では役に立ちません。新教会の学びは、一生続きます。み言葉への真理探究をやめるなら、私たちの再生も止まってしまいます。記憶知の探究ではなく、生きて新しい生命を得るための探究は一生かかっても終わらず、来世にまで続きます。

イスラエルが、エフライムの祝福を先にしたことが、これを表しています。
霊的な人を祝福し、エフライムである知性によって再生する人が多いと主は予見されました。しかしそれとともに、マナセが意味する意志の再生も主が決して忘れてはおられないことに注目してください。すなわち、私たちは、知性を再生させるだけではなく、意志も再生して天的になれる可能性を持つことを意味します。天的になれば、善を知覚でき、偽りと悪は近寄ることさえできません。

「彼もまた一つの民となり、また大いなる者となるであろう。しかし弟は彼よりも大きくなり、その子孫は国々を満たすほど多くなるであろう。」(48:19)
アーメン。

【新改訳】
創世記
48:8 イスラエルはヨセフの息子たちに気づいて言った。「この者たちはだれか。」
48:9 ヨセフは父に答えた。「神がここで私に授けてくださった息子たちです。」すると、父は「私のところに連れて来なさい。彼らを祝福しよう」と言った。
48:10 イスラエルは老齢のために目がかすんでいて、見ることができなかった。それで、ヨセフが彼らを父のところに近寄らせると、父は彼らに口づけして抱き寄せた。
48:11 イスラエルはヨセフに言った。「おまえの顔が見られるとは思わなかったのに、今こうして神は、おまえの子孫も私に見させてくださった。」
48:12 ヨセフはヤコブの膝から彼らを引き寄せて、顔を地に付けて伏し拝んだ。
48:13 それからヨセフは二人を、右手でエフライムをイスラエルの左手側に、左手でマナセをイスラエルの右手側に引き寄せた。そして二人を彼に近寄らせた。
48:14 ところがイスラエルは、右手を伸ばして弟であるエフライムの頭に置き、左手をマナセの頭に置いた。マナセが長子なのに、彼は手を交差させたのである。
48:15 彼はヨセフを祝福して言った。「私の先祖アブラハムとイサクが、その御前に歩んだ神よ。今日のこの日まで、ずっと私の羊飼いであられた神よ。
48:16 すべてのわざわいから私を贖われた御使いが、この子どもたちを祝福してくださいますように。私の名が先祖アブラハムとイサクの名とともに、彼らのうちに受け継がれますように。また、彼らが地のただ中で豊かに増えますように。」
48:17 ヨセフは、父が右手をエフライムの頭に置いたのを見て、それは間違っていると思い、父の手を取って、それをエフライムの頭からマナセの頭へ移そうとした。
48:18 ヨセフは父に言った。「父上、そうではありません。こちらが長子なのですから、右の手を、こちらの頭に置いてください。」
48:19 しかし、父は拒んで言った。「分かっている。わが子よ。私には分かっている。彼もまた、一つの民となり、また大いなる者となるであろう。しかし、弟は彼よりも大きくなり、その子孫は国々に満ちるほどになるであろう。」
48:20 彼はその日、彼らを祝福して言った。「おまえたちによって、イスラエルは祝福のことばを述べる。『神がおまえをエフライムやマナセのようになさるように』と。」こうして彼はエフライムをマナセの先にした。
48:21 イスラエルはヨセフに言った。「私は間もなく死ぬだろう。しかし、神はおまえたちとともにおられ、おまえたちを先祖の地に帰してくださる。
48:22 私は、兄弟たちではなくおまえに、私が剣と弓でアモリ人の手から取った、あのシェケムを与えよう。」

ヨハネ福音書
3:3 イエスは答えて言われた。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」
3:4 ニコデモは言った。「人は、老年になっていて、どのようにして生まれることができるのですか。もう一度、母の胎に入って生まれることができましょうか。」
3:5 イエスは答えられた。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国に入ることができません。
3:6 肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です。

天界の秘義6222
[3]
彼らが受け入れないのは、教会の持つ見解を共有していないからです。その見解は、み言葉を読み、勤勉に記述を他の記述と突き合わせ、そうすることによって何を信じるべきか、何を行うべきかを理解した時に存在します。そのような見解は、主から光を受けた時にのみ与えられ、キリスト教世界では「啓蒙された人」と呼ばれます。その啓蒙は、真理を知りたいと欲する人にのみ与えられ、それは評判や栄光ではなく、生き方と奉仕のため与えられます。
[4]
しかし、教会の知性と呼ばれるこの理解は、単に事実知に基づくよりも、さらに内的な理解に基づいています、なぜなら事実上の証拠と哲学的推論が述べるから真理であるというのではなく、みことばの霊的意味が述べるから、そう判断するからです。
例えば、教会の知性を持つ者は、すべての個々の部分で、み言葉は主への愛と隣人への愛が教会の本質的な性質であることを教えると、明確に知覚します。さらに死後、人の生命は続き、その生命はその人の愛から起こると。さらに、思いやりから離れた信仰は、信仰ではなく、主への愛の善と隣人への思いやりに結びつかなければ、信仰は永遠の生命に全く貢献しない、そのため、霊的生命が存在するために信仰と思いやりはともに結びつかなければならない。啓蒙された人々は、これらの事柄が全く真であるときわめて明確にわかります;しかしそうでない人は、そうであることが全く分かりません。

[5] 教会の事柄を理解する人は、その教会の意見あるいは教えを広く実証し、他の人がそれは真であると納得させ、多くの異端を論破する法を知っている者と考えられています。しかし、これは教会の知性が意味するものではありません、なぜなら意見を実証するのは、知性の特性ではなく、感覚的レベルでの心の能力であり、それは非常に悪い人にも存在することがあるからです。;たしかにどんな信念ももたず、実際の偽りに染みわたった人もその能力を持つことができます。この種の人々には、どんな考えでも実証することは何よりも簡単で、単純な人々を納得させます。しかし、各種意見を実証する前に、
教会の知性は、それが真であるかないかを見て知覚することに携わり、実証するのはその後のみです。

[6] これら知性がエフライムによって表されます。なぜならマナセによって表される教会の善は、思いやりによって生まれる善であり、それは主が教会員に信仰の真理によって植え付けます。なぜならこれらの真理が思いやりによってうまれる善とともになり、知性に流入して光を与え、知性と意志が一つの心を構成することを可能にするからです。これらの真理、知性と意志は、内的なものから生まれたことはこれまで述べ示したことで明らかです。なぜなら善と真理へのすべての情愛は、啓蒙を通した情愛から流入し、他の源はありません。そうして、内的なもの以外からは生まれないからです。すなわち、主から、内的なものを通してきます。

ラザロのよみがえり

イエスは彼女に言われた。「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです。(ヨハネ11:25)

死者を蘇らせたという業は、世界の様々な宗教の中でも多くはありません。
しかしキリスト教では、主イエスの蘇りを含め、信仰の中心となっています。
ただ、多くの教会は、生命を肉体の生命としか考えていないので、死人が蘇ってゾンビになったという、不気味な話となっています。

主は新約聖書で、ヤイロの娘(マルコ5:41-43 ルカ8:41-56等)、ナインのやもめの一人息子(ルカ7:11-16)など、蘇りの奇跡を起こされましたが、有名なものが、ラザロの蘇りの話(ヨハネ11)です。ラザロが墓から出てきて、手足を長い布、そして顔も布切れで包まれている姿は、強烈な印象を与えます。旧約聖書でも、主を表している、エリシャの骨に触れることで、なくなった人が蘇ります(列王記Ⅱ13:21)。

ラザロのエピソードは、死人をよみがえらせる話だけではありません。人間の生命とは何か、そして教会の生命の蘇りがテーマとなっています。

「いのち」とは何でしょうか、天界の教えに問います。私たちは、人間自体には生命はなく、神からの生命を受ける器であると教えられています。善は自分からは行えないというのが新教会の教えです。
そして、
神からくる生命とは、「善を意志し、真理を信じること」と教えられています(AC7494)。

本来生命のない器である人間に、神が与える生命が、善を意志し、真理を信じることであるなら、納得できます。これが、新教会の教義の出発点であり、心から納得でき到達点でもあるからです。

そして、生命と反対の死とは、悪を行うことであり、偽りを信じることです。悪を行う者、偽りを信じる者には、生命はなく、死者であるとされています。

ヨハネ11章のラザロの蘇りを、ラザロが表しているものの死と復活という脈絡で振り返ります。
まずラザロはどういう人物として描かれているのでしょうか?
ラザロは、ルカ書の中でこう喩えられています。「金持ちの家の門前にラザロという全身おできの貧しい人が寝ていて、金持ちの食卓から落ちる物で腹を満たしたいと思っていた。犬もやって来ては、彼のおできをなめていた」(ルカ16:19,20)
み言葉を持たない異邦人でありながら、み言葉を持つユダヤ人に嫌われています。真理を知らないことから、偽りにいたため、おできができていたと表現されています(TCR215-3)。
しかし、ラザロは、主に愛され(ヨハネ11:5)、友と呼ばれ(ヨハネ11:11)、食卓をともにします(〃12:2)。これらは、善を求めていたことを意味します。

ラザロで表される異邦人は、み言葉を持たず、わずかな真理で生きていますが、主からの真理と善で生きたいと求めています。善を求めるものが教会です。真理を求めたり、教義自体を求めたりするのは、まだ教会ではありません。
善を求めることが教会です。主が愛されるのは善を求める教会です。主おひとりが善であり、真理です。ラザロとはみ言葉を持たないが、善を求める異邦人の教会です。

そこに、使いがいきなりやってきます。「主よ。ご覧ください。あなたが愛しておられる者が病気です。」(11:3) 主に使いを送ったのは、ラザロの兄弟であるマルタとマリアです。マルタとマリアは、前後して次の12章で説明されています。給仕をして仕えるマリアは、真理への情愛です。教会で真理に仕えるため、真理への情愛とされ、いつも忙しく働きます。そして善への情愛は、主ご自身を愛し、涙を流していとおしんだマリアで表されます。

二人の使いは、ラザロが病にかかって死にそうであると告げます。これは、異邦人の教会が真理の不足したため、善がなくなり、悪と偽りに心が傾き始めたことを意味します。ラザロの兄弟のマルタとマリアは、善への情愛と真理への情愛を振り絞って、主に助けを求めます。

イエスは、神の栄光と神の子が栄光を受けるため、「ラザロが病んでいることを聞かれたときも、そのおられた所になお二日とどまられ」(11:6)たといいます。これは、ラザロ教会の偽りと悪が結合し、悪が現れるまで、主は待っておられたことを意味します。悪は現れなければ、取り除くことができないからです。

「昼間は十二時間あるでしょう。だれでも、昼間歩けば、つまずくことはありません。この世の光を見ているからです。しかし、夜歩けば、つまずきます。光がその人のうちにないからです。」(11:9,10)
真理と善が残っている間、すなわち昼の間は、まだかろうじて教会は残っています。そして悪と偽りが完全に現れる夜になると、つまずき始めます。悪と偽りに気づいて、取り除くことができないためです。

そして、主はラザロ教会の終焉を宣言されます。 
イエスはそのとき、はっきりと彼らに言われた。「ラザロは死んだのです。」(11:14)
デドモと呼ばれるトマスがいました。主が十字架で亡くなり、蘇ったときも指を手と脇腹に入れて確かめなければ信じないという(20:25)弟子です。「主とともに死のう」と言い出します。彼は蘇りを信じてなかったので、自然的な意味でしか考えることができません。

主がラザロのところにいらっしゃったとき、生命の善は滅び、悪と偽りが結ばれてしまっています。これが墓に入れられて四日経ったことで示されます。数字の、二と四は、善と真理、この場合は悪と偽りが結ばれることを意味する数字です。

真理への情愛を意味するマルタは、ラザロ教会の死滅を惜しみ、主を迎えに走ります。一方、善への情愛を意味するマリアは家で座っています(11:20)。善が滅びてしまったため、善への情愛は、動けなくなっています。

イエスはマルタ、真理への情愛におっしゃいます。「あなたの兄弟はよみがえります。」(11:23)
真理の情愛を意味するマルタは、異邦人の教会であるラザロが蘇ると聞いて喜びます。
私達はまず、真理への情愛を呼び起こし、主のみ言葉を伝えなければなりません。

ラザロが意味する異邦人の教会の善が、蘇ると宣言されます。悪と偽りが結びついてしまって滅びた異邦人の教会の善が蘇ると宣言されます。そして、主は教会の蘇りを宣言されます。

「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。」
(11:25,)
生命とは、「善を意志し、真理を信じること」(AC7494)でした。
主を認めることが霊的生命のすべてです。最初であり、教会の最も本質的なことです。主を信じなければ、天界から信仰の真理も、愛の善も受けとることができません。(AC 10083:6)
なぜなら、主おひとりが善そのものであり、真理そのものであるからです。主を信じることが、教会の第一です。

「また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。このことを信じますか。」(11:25,26)

主イエスが真理への情愛を意味するマルタに、「主が蘇りであり、いのちである」という真理をお告げになります。そしてマルタは、主を信じると答えます。
彼女はイエスに言った。「はい、主よ。私は、あなたが世に来られる神の子キリストであると信じております。」(11:27)
主を信じると答えたため、真理の情愛は、活気づき、生き返ります。

主は、その後、善への情愛を意味するマリアをお呼びになります。真理への情愛を意味するマルタを通じて、マリアをお呼びになったことに注目してください。「先生がお見えになり、あなたを呼んでおられます。」(11:28)とささやきます。主を愛していたマリアが、なかなか登場しないのは、善が滅びかけて、善への情愛が現れないためです。私達はまず、真理への情愛を呼び起こし、主のみ言葉を伝えなければなりません。

「イエスはまだ村に入らず、マルタが出迎えた場所におられ(11:30)」ました。善への情愛であるマリアが、家から出てくるまで、主はお近かづきになることができませんでした。それは、善の情愛が、動かされて、活動し始めるのを待っておられたからです。善の情愛は、信仰に応じて、自ら動きださねば、生命を持てません。

天界の教えは、続きます。
主は同時に、主を信じる者は、戒めに従って生きなければならないと教えられます、その生活が信仰に入ることであるからです。(AC 10083:6)
善への情愛によって動き、主に従わなければ、異邦人の善である教会は蘇りません。

そして、マリアはイエスがおられるところに来た。そしてイエスを見ると、足もとにひれ伏して言った。「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。」(11:32)

善の教会の蘇りには、善の情愛を意味するマリアが、主を迎え足元にひれ伏す、「卑下」が必要です。
私たちは、善が何に対しての善か、卑下によって明らかにします。教会の礼拝に卑下と賛美が求められるのも、この理由からです。自分が偉いと思っているなら、本物の善である主を迎え入れることができません。卑下がなければ自分を讃えることになります。最高の善である主を迎え入れるためには、卑下という動作が必要不可欠です。主のためではありません。私たち自身のためです。

イエスは、彼女が泣き、一緒に来たユダヤ人たちも泣いているのをご覧になった。そして、霊に憤りを覚え、心を騒がせて、「彼をどこに置きましたか」と言われた。彼らはイエスに「主よ、来てご覧ください」と言った。イエスは涙を流された。(11:33-35)

教会の善が蘇るためには、主の慈悲が必要です。私たちには不可能で、主ご自身にしかできない業です。あわれみと同時に、ラザロの状態を確かめるために、葬った場所を問われます。

ユダヤ人たちのうちのある者たちは、「見えない人の目を開けたこの方も、ラザロが死なないようにすることはできなかったのか」と言った。
真理の蘇りであれば、盲人の目を開けたように、目を開けるのは、本人の偽りを、取り除くだけです。しかし、善の蘇りは簡単ではありません。悪と偽りが、本人の悪と固く結びついているためです。

まず墓の洞穴をふさいでいる石、悪と偽りを取り除かなければなりません。悪と偽りを表す石がとりのぞかれると、イエスは大声で叫ばれた、「ラザロよ、出て来なさい。」(11:43)

すると、死んでいた人が、手と足を長い布で巻かれたまま出て来た。彼の顔は布で包まれていた(11:44)。
悪と偽りを取り除き、主のお力によって善が動き始めます。善の教会は、蘇ります。しかし長い布と顔の布に偽りが、残っています。最後に蘇った善から、偽りを取り除くよう、主は命じられます。

イエスは彼らに言われた。「ほどいてやって、帰らせなさい。」(11:44)。アーメン。

【新改訳】
Ⅱ列王記
13:20 こうして、エリシャは死んで葬られた。モアブの略奪隊は、年が改まるたびにこの国に侵入していた。
13:21 人々が、一人の人を葬ろうとしていたちょうどそのとき、略奪隊を見たので、その人をエリシャの墓に投げ入れて去って行った。その人がエリシャの骨に触れるやいなや、その人は生き返り、自分の足で立ち上がった。

ヨハネ福音書
11:20 マルタは、イエスが来られたと聞いて、出迎えに行った。マリアは家で座っていた。
11:21 マルタはイエスに言った。「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。
11:22 しかし、あなたが神にお求めになることは何でも、神があなたにお与えになることを、私は今でも知っています。」
11:23 イエスは彼女に言われた。「あなたの兄弟はよみがえります。」
11:24 マルタはイエスに言った。「終わりの日のよみがえりの時に、私の兄弟がよみがえることは知っています。」
11:25 イエスは彼女に言われた。「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです。
11:26 また、生きていてわたしを信じる者はみな、永遠に決して死ぬことがありません。あなたは、このことを信じますか。」
11:27 彼女はイエスに言った。「はい、主よ。私は、あなたが世に来られる神の子キリストであると信じております。」
11:28 マルタはこう言ってから、帰って行って姉妹のマリアを呼び、そっと伝えた。「先生がお見えになり、あなたを呼んでおられます。」
11:29 マリアはそれを聞くと、すぐに立ち上がって、イエスのところに行った。
11:30 イエスはまだ村に入らず、マルタが出迎えた場所におられた。
11:31 マリアとともに家にいて、彼女を慰めていたユダヤ人たちは、マリアが急いで立ち上がって出て行くのを見て、墓に泣きに行くのだろうと思い、ついて行った。
11:32 マリアはイエスがおられるところに来た。そしてイエスを見ると、足もとにひれ伏して言った。「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。」
11:33 イエスは、彼女が泣き、一緒に来たユダヤ人たちも泣いているのをご覧になった。そして、霊に憤りを覚え、心を騒がせて、
11:34 「彼をどこに置きましたか」と言われた。彼らはイエスに「主よ、来てご覧ください」と言った。
11:35 イエスは涙を流された。
11:36 ユダヤ人たちは言った。「ご覧なさい。どんなにラザロを愛しておられたことか。」
11:37 しかし、彼らのうちのある者たちは、「見えない人の目を開けたこの方も、ラザロが死なないようにすることはできなかったのか」と言った。
11:38 イエスは再び心のうちに憤りを覚えながら、墓に来られた。墓は洞穴で、石が置かれてふさがれていた。
11:39 イエスは言われた。「その石を取りのけなさい。」死んだラザロの姉妹マルタは言った。「主よ、もう臭くなっています。四日になりますから。」
11:40 イエスは彼女に言われた。「信じるなら神の栄光を見る、とあなたに言ったではありませんか。」
11:41 そこで、彼らは石を取りのけた。イエスは目を上げて言われた。「父よ、わたしの願いを聞いてくださったことを感謝します。
11:42 あなたはいつでもわたしの願いを聞いてくださると、わたしは知っておりましたが、周りにいる人たちのために、こう申し上げました。あなたがわたしを遣わされたことを、彼らが信じるようになるために。」
11:43 そう言ってから、イエスは大声で叫ばれた。「ラザロよ、出て来なさい。」
11:44 すると、死んでいた人が、手と足を長い布で巻かれたまま出て来た。彼の顔は布で包まれていた。イエスは彼らに言われた。「ほどいてやって、帰らせなさい。」

天界の秘義7494.
そのため、愛の善と信仰の真理を捻じ曲げ、あるいは消し、否定した者は、生命を持つことができません。なぜなら神的なものからくる生命は、善を意志し、真理を信じることであるからです。
しかし、善を意志せず、悪を求める者、あるいは真理ではなく偽りを信じる者は、生命に反することになります。この正反対の生命は、地獄であり、「死」そして「死人」と呼ばれます。
愛と信仰が「生命」そして「永遠の生命」と呼ばれ、内にそれらを宿す人は、「生きている人」と呼ばれ、生命に反した者は、「死」そして「永遠の死」として、死者と呼ばれたのは、み言葉の多くの文章から明らかです。

主への全面服従

「あなたさまは私たちを生かしてくださいました。私たちは、あなたのお恵みをいただいてパロの奴隷となりましょう。」47:25

ヨセフは支配権を得たエジプトに、父ヤコブと兄弟一族を呼び寄せ、ファラオからその中央のゴシェンの地に、住まわせる許可を求めます。

これは内的・天的なものであるヨセフが支配権を得たエジプトの下で、全ての人間を再生させようとすることを計画しています。カナンからエジプトには、この世から霊界にかけて、数多くの人間がいて、カナンの人間は、エジプトに行かなくしては滅びてしまうし、エジプトの人間だけでも、飢餓で滅びることを見通しておらたからです。カナンの教会と、エジプトの力を合流し、全人類を再生に導くことが主のご配慮であったと思われます。

なぜならこの世でだけでの再生は、簡単ではなく、霊界に移ってからも主による再生は継続しなければならないことを見通されたからです。主がこの世に来られて、ご自身を栄化され、そのあと多くの人間を再生させてゆくことが描かれているように思えます。

最初は、カナンから飢餓を逃れてきたヤコブです。ヤコブはその子と一族をエジプトにひきつれてきてやってきています。
ヤコブとその子の一族は、「羊を飼う者」としてファラオに紹介され、最良の地、ゴシェンに住むことを求め、許可されます。「羊を飼う者」とは、善に導く真理を意味します(AC6074)。

彼らの生まれは、パダン・アラムからカナンです。生まれてから古い知識を得ていますが、その知識によって再生させることは簡単ではありません。カナンから離れた地で新しい知識を求め、その知識を実行して自分のものとして再生させます。また同時にエジプトの中央で、この知識を滅ぼさず、全人類にも新しい形で残してゆかねばなりません。

しかし、真理だけでは、生命がないので、生きてゆけません。エジプトの地で、ただの知識に、善という生命を吹き込み、新しい真理とする必要があります。
天界の教えは、こう述べます。
「真理は、知識の中に善が入るまでは生命はありません。・・隣人愛は信仰・知識を活性化し、生かします(A6077)」。
そうしなければ、知識は忘れられ、消えてしまいます。彼らの知識は、大切な知識でしたが、誰もが知っているような知識と経験で、新しいものがありません。刺激がありません。刺激がない知識は、人にとっては古びた本と一緒で、再び新しくされるまで興味をひきません。記憶の中の端に追いやられてしまいます。例えば出版の努力だけでは、人類を生かす力とはなりません。これを活性させる力が必要です。

ヨセフは、ゴシェンの地に、カナンから来た一族を、ファラオに求めて、住まわそうとします。
ゴシェンの地は、天的なものであるヨセフが支配する最良の地で、内的・天的なものから流入があり、その流入を受け入れることで、霊的に再生してゆきます。

ゴシェンはエジプトの中央の地とされています。中央にあるものは、周辺にあるものより注目を浴びやすく、常に意識に入ってきます。ゴシェンの地を要求するとは、注目を浴びるポジションを要求すること、誰もが注目する時間帯に、放送枠を求めるようなものです。

記憶にある知識を中心に据え、常に注目を集めて、活性化させます。活性化して、実行することで流入を呼び起こして生命を受けます。ゴシェンにある「牧草」の善と真理に、注目を集めることで、生命の糧とします。

父である霊的善や、その真理そして、幼いこどもで意味される「無垢」を、ここで養い、滅ぼさないようにします。

「わたしは門です。だれでも、わたしを通って入るなら、救われます。また安らかに出入りし、牧草を見つけます。」(ヨハネ10:9)

主を認め、主のみから生命を求める者は、この真理から生命を得ることになります(AC6078)。み言葉から主を訪ね、主の愛を見出す者には、霊的善と真理が与えられます。
また、幼い子供で表される無垢の善の流入があれば、教会の真理は永らえます。

「彼らにエジプトの地で最も良い地、ラメセスの地を所有として与えた。またヨセフは父や兄弟たちや父の全家族、幼い子どもに至るまで、食物を与えて養った。(47:11,12)」 

次に、従来からこの地にいるエジプト人が描かれています。彼らにも次々と生命の糧である善と真理が不足し、自分の持っている様々なものを食物に替えて、生きてゆかなければなりません。
この食物は、常に与えられ続けなければ、生きてゆけません。それはこの世でも霊界でも同じことです。再生中の者にも、この主からの流入がなければ霊的生命は消えてしまい、再生を続けることができません。そのため天界の教えは、天使的天界と呼ばれる、やや高い霊界においてさえ、霊的生命を求めていることをこう表現しています。

「天使的天界においてさえ、真理と善、そしてこれらに関する知識に対する欲求があります」(AC6110-2)。

エジプト人が最初に、かき集めたものは、エジプトとカナンの地に残るすべての銀です。
銀は真理と、適用可能な知識(AC6115)を意味します。真理と知識は、一般的な全体と何らかの関連性を持たなければ、消え去ってしまいます(AC6116-2)。なんらかの関連性の元に、整理しなければなりません。そして、すべてを関連させる最大のものは、主ご自身です。

これはヨハネ福音書では、こう表現されています。
「すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。」(ヨハネ1:3)
主ご自身に対する知識と、主に対する継続した注視がなければ、すべては跡形もなく、消え去ってしまいます。知識が無数にあっても、その中心となる真理がないなら、意味がありません。

「エジプトの地とカナンの地に銀が尽きたとき」(47:15)、エジプト人がみなヨセフのところに来ます。主に対する継続した注意を抱けなくなったとき、興味が薄れてしまった時かもしれません。
愛の善そして信仰の真理が、薄れてしまった時、私たちは霊的な死を迎え始めます。
たとえ新教会であっても、愛の善と信仰の真理が薄まれば、死を迎えます。

ヨセフは言います。「あなたがたの家畜をよこしなさい。銀が尽きたのなら、家畜と引き替えに与えよう。」(47:16) そして、「ヨセフは馬、羊の群れ、牛の群れ、およびろばと引き替えに、食物を彼らに与えた。」(47:17)

馬は知性を意味します。知性は、物事が悪か善かを判断するため、主がすべての人に与えられたものです(AC6125)。 そして家畜の群れと集団は(日本語訳では羊と牛の群れと訳されています)、真理の内的・外的善を意味し(AC6126)、ロバは役立つ物を意味します(AC6127)。

これらは、流入によって霊的生命が維持されることが意味されます。流入が少なくなり、知性が保てなくなり、内外の善やこれに役立つ様々なものが減少してゆくと、たとえ霊界であろうとも、霊的生命は維持できません。

エジプトと呼ばれる自然的なものに、次々と霊的生命の減少が起こり始めます。知識と知識による流入がなくなってゆきます。霊的生命も危機を迎えます。一度肉体の生命を失った者さえ、霊的生命の「危機」を迎えることになります。
「次の年」で表される、段階では、体と畑地を除いて食料を贖うものはありません。
身体は善の受容体を、畑地は真理の受容体を意味します(AC6135)。

「食物と引き替えに私たちと私たちの農地とを買い取ってください。私たちは農地といっしょにパロの奴隷となりましょう。」(47:19)

もはや何も売るものがなくなりました。すべてを投げうって、生命の糧となる「種」を得るしかありません。

すべてを投げうつこと、これは、「全面服従」を意味します(AC6138)。
よく新興宗教、怪しげな宗教が、全面的に教祖に服従を要求し、財産も行動もすべて出せと求めますが、本当の教えは、そうではありません。
天界の生活を阻害する、自己愛・我を追い払え、目に入らないところまで、追放せよということです。

飢えたエジプト人は、自分の自由の代わりに、全面服従を申し出ます。霊的生命を絶やさないためには、他に道はなくなっています。霊界にも試練があり、その時、すべて自分のものはないことを確認するまで試練は続きます。
すべてを投げうつまで再生が許されないのは、主が植え付けられた善と真理(残りのもの)と、悪が混じらないようにするためです(AC6156)。

「自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世でそのいのちを憎む者はそれを保って永遠のいのちに至るのです。」(ヨハネ12:25)
ヨハネ福音書の上掲の句で意味される、生命をかける選択の時がやってきました。
試練の最終段階では、自分のものすべてをあきらめ、主に屈服するしかありません。この全面服従に至らない限り、生命は得られません。試練の最後に起こる全面服従です。自我を片すみに追いやり、天界の我を得ます。
ただしこれはこの世ではなく、おもに来世で再生中のものに対して起こります。そのためこの試練にある人をこの世で目撃することは、稀です。

ヨセフは民を、エジプトの領土の端から端まで町々に移動させます(47:21)が、祭司たちの土地は買い取りません。
一般のエジプト人とは異なり、「祭司たちには、ファラオからの給与があり、ファラオが与える給与によって生活していたからである。そのため、自分たちの土地を売」(47:22) りません、とされています。

祭司は特別の存在であるから、土地を売らなくてもよいのでしょうか?
み言葉では、王が主の神的真理を意味し、祭司は主の神的善を意味しています。
そのため、祭司が土地を売らないでよいとは、自分で善を獲得していることを意味します。
しかし、実はそうではありません。人が自分の力で善を獲得することなどないからです。天界の教えはつぎのように警告しています。

「誰も教会の善、愛の善と思いやりの善を自分のものとしてはならない、なぜならそれは主おひとりのものであるから」(AC6148-11)

これを表すため、ヨセフは祭司たちの土地を買い取りませんでした。それは祭司たちのものではなく、彼らは雇人にしかすぎないからです。

以上の過程を経ることで、エジプト人が、自分のものと思っていたものすべてが、そうではないことが明らかにされます。エジプトの全土は、身と心に至るまで、ヨセフ、天的なものの支配下に入り、自然的なものと、天的なものとの結合が進みます。この試練は、地上の生命の元で進まなければ、必ず霊界で行われます。私たちの「我」が斥けられ、天界的我が植え付けるまで行われます。エジプトの民はヨセフにこう感謝します。

「あなたさまは私たちを生かしてくださいました。私たちは、あなたのお恵みをいただいてパロの奴隷となりましょう。」47:25 アーメン

【新改訳2017】
創世記
47:13 飢饉が非常に激しかったので、全地で食物がなくなり、エジプトの地もカナンの地も飢饉によって衰え果てた。
47:14 ヨセフは、エジプトの地とカナンの地にあった銀をすべて集めた。それは人々が穀物に対して払ったものである。ヨセフはその銀をファラオの家に納めた。
47:15 エジプトの地とカナンの地に銀が尽きたとき、エジプト人はみなヨセフのところに来て言った。「私たちに食物を下さい。銀が尽きたからといって、どうして私たちがあなた様の前で死んでよいでしょうか。」
47:16 ヨセフは言った。「おまえたちの家畜を差し出しなさい。銀が尽きたのなら、家畜と引き替えに与えよう。」
47:17 人々がヨセフのところに家畜を引いて来たので、ヨセフは、馬、羊の群れ、牛の群れ、ろばと引き替えに、彼らに食物を与えた。こうして彼はその年、すべての家畜と引き替えに、彼らに食物を分け与えた。
47:18 やがてその年も終わり、次の年にも人々はヨセフのところに来て言った。「私たちはあなた様に何も隠しません。銀も尽き、家畜の群れもあなた様のものになったので、自分のからだと土地のほかには、あなた様の前に何も残っておりません。
47:19 どうして私たちが、土地と一緒にあなた様の前で死んでよいでしょうか。食物と引き替えに、私たちと私たちの土地を買い取ってください。私たちは土地と一緒にファラオの奴隷となります。どうか種を下さい。そうすれば私たちは生き延び、死なずにすみます。土地も荒れないでしょう。」
47:20 それでヨセフは、エジプトのすべての土地をファラオのために買い取った。エジプト人に飢饉が厳しかったので、人々がみな、自分の畑地を売ったからである。こうしてその土地は、ファラオのものとなった。
47:21 また民については、エジプトの領土の端から端に至るどこででも、彼らを町々に移動させた。
47:22 しかし、祭司たちの土地だけは買い取らなかった。祭司たちにはファラオからの給与があり、ファラオが与える給与によって生活していたからである。そのため、自分たちの土地を売らなかった。
47:23 ヨセフは民に言った。「見よ。私は今、おまえたちとおまえたちの土地を買い取って、ファラオのものとした。さあ、ここに、おまえたちのための種がある。これをその土地に蒔きなさい。
47:24 収穫の時になったら、その五分の一はファラオに納め、五分の四は自分のものとしなさい。畑の種にするため、自分の食糧にするため、家の者のため、また扶養すべき者たちの食糧のために、そうしなさい。」
47:25 すると彼らは言った。「あなた様は私たちを生かしてくださいました。私たちは、あなた様のご好意を受けて、ファラオの奴隷となりましょう。」
47:26 ヨセフは、エジプトの土地について、五分の一はファラオのものとしなければならないという、一つの掟を定めた。それは今日にまで及んでいる。ただし、祭司の土地だけはファラオのものとならなかった。

ヨハネ福音書
10:9 わたしは門です。だれでも、わたしを通って入るなら、救われます。また安らかに出入りし、牧草を見つけます。

12:25 自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世でそのいのちを憎む者はそれを保って永遠のいのちに至るのです。
12:26 わたしに仕えるというのなら、その人はわたしについて来なさい。わたしがいる所に、わたしに仕える者もいるべきです。もしわたしに仕えるなら、父はその人に報いてくださいます。

天界の秘義6109.
「ききんが非常に激しかったので、全地に食物がなく」とは、善がもはや見えなかった、を意味します。
これは食糧の意味が6106で扱われているように、愛と思いやりの善であることから明らかです。
そして、全地にない、の意味が、もはや見えないことから明らかです。
以下に続く主題は、内的で天的なものが、一般全体のもとで自然的なものすべての内に、秩序をもたらしてゆくかを描いています。すなわち、単なる知識を教会の真理に結び、それら真理を通して霊的善に結び、そしてこの善を通して内的な天的なものに結び、目的を達成します。
しかし、単なる知識に、一般全体のもとで秩序をもたらすには、善が荒廃し、真理がなくなる段階を経て、そして養育の段階を経なければなりません。この前後の段階が、これから続く内的意味で扱われています。これらのことはこの世で生きている間は、多くの理由で稀にしか起こりません。しかし、他生では、再生中の者に起こります。この世では起こらないため、それまで誰も聞いたことがない深淵な秘密として、それらが現れたとしても、驚くべきことではありません。