聖霊

わたしが父のもとから遣わす助け主、すなわち、父から出る真理の御霊が来るとき、その方がわたしについて証ししてくださいます。(ヨハネ15:26)

ヨハネ福音書の前章(15)で、主はぶどうの木のように、主につながり続け、互いに愛し合えと戒められました。そして、主が父のもとから助け主を遣わすこととおっしゃいます。この助け主とは、真理の御霊と呼ばれ、また聖霊とも呼ばれます。(14:26, 20:22)

聖霊について、新教会ではきわめて慎重に教えます。神を父・子・聖霊と分割して、三人の神がいるような偽りを、抱かせないためです。聖霊についての正しい理解は、神である主を理解し、そこから私たちを救われるのはどのようになさっているかを考えるうえで、きわめて大切です。誤って考えれば、父・子・聖霊の複数の神がおられる、という大きな偽りとなる可能性をはらむからです。

マタイ書に、「聖霊に逆らう者は、この世でも次に世でも赦されない」(マタイ 12:31, 32)という恐ろしい主の言葉があります。まずこの意味を理解して、怖れを取り除きます。
「人の子に逆らうことばを口にする者」は、まだ人の生命に書き込まれていない、真理の神的なもの に逆らうことを意味します。これは本人のものとはなっていないため、赦される罪です。(AC9818:27)
まだ自分のものとしていない真理は、納得するまで考えることが大切であり、深く考えることは許されています。

自分にも、他人にも、不必要に怖れさせることは、別の罪となることがあります。子供に対して、あるいは、他人に、「悪魔だ」とか「悪霊の影響だ」と言って苦しませるなら、み言葉の乱用です。み言葉を使うときには、特に相手に思いやりを抱いて知恵をもって使います。

しかし自分の中で、生命に書き込んでしまった「真理の神的なもの」を、一度納得したうえ、拒めば、それは冒涜として働きます。真偽がまざり、真理が役立たなくなるからです。真偽が混ざり合うと、人の内部は破壊されてしまいまい、取返しが付かなくなります。そのため自分の信条としていったん受け入れたものを、自分で拒むのは冒涜となります(同上)。

新教会の人間が、主イエスを捨て、別の信仰に走る例を何件か見たことがあります。その人達の行く末が心配です。その人が真剣に取り組めば取り組むほど、深く自分の生命に書き込まれてしまうからです。その人は、永遠に真偽を悩み、真理によって救われる手段が奪われてしまいます。

赦されない罪とは、主がお赦しにならないのではなく、取返しがつかなくなることを表現しています。主は常にお赦しになりますが、その人自身の否定が、自分を裁きます。

聖霊について、天界の教えにある項目の順番(TCR139-)で、学びます。
(i) 聖霊は神的真理です。そして神の力でもあり、働きです。それはお一人の神、主なる神、救い主の三位一体の神から発します。
ヨハネ福音書には、こういわれています。
しかし、わたしは真実を言います。わたしが去って行くことは、あなたがたの益になるのです。去って行かなければ、あなたがたのところに助け主はおいでになりません。でも、行けば、わたしはあなたがたのところに助け主を遣わします。(16:7 )

ここで三位一体を振り返ります。
ヨハネの第一章に「 初めにことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。」(1:1)
とあります。「初め」以前から、愛である神が存在されています。時空を超える存在です。
世界創造は「ことば」によって始まります。世界創造の初めは、ことばによって行われます。
「ことば」は神的真理を意味します。神的真理は「すべての人を照らすそのまことの光」(1:9)でした。そして「ことばは人となって、私たちの間に住まわれ」(1:14)ます。永遠から神とともにあって、じっくりと考え、世界を創造されてきた神的真理が、私たちと連絡が取れなくなったので、地上に人間として降誕されます。イエスの母マリアは、聖霊の働きによって包まれ、イエスを身ごもり、この世に降誕します。

主イエスは、人間と同じように成長され、学びます。肉体の母マリアから由来する遺伝悪に刺激された悪霊・悪魔からの無数の試練に打ち勝ち、旧約聖書の預言が、次々と現実化されてゆきます。30歳となってからは、地上で伝道を開始されます(ルカ:23)。
地上での数年の伝道の後、
「わたしは、わたしを遣わされた方のもとに行こうとしています。」(16:5)と、最後の試練である十字架の試練を受ける時が来た頃を知らせます。ご自身が持っていた人間マリア由来の遺伝悪をすべて脱ぎ捨て、父なる神と結合して、ご自身と神を栄化なされようとしています。
しかし、弟子たちに「行けば、わたしはあなたがたのところに助け主を遣わす」(16:7)と聖霊を遣わすことを約束されます。神的真理としてお生まれになった主イエスが、この世を去り、私たちから見えなくなりますが、聖霊を遣わすことで私たちとつながります。

聖霊とは神的真理です。神的真理とは、主ご自身です。聖書のみ言葉は、ご自身のことを教えます。主は、み言葉です。(TCR139)
聖書のみ言葉の一言一言に、神的愛と神的真理の結婚、すなわち人類を救いたいという愛と、これを表現して伝えたいという真理があり、愛と真理は相互からの強力に求めあっています。み言葉を読むと、そこにはこの結婚があります。しかし私たちの力だけでは、それに気づきません。

主は地上におられた時に、私たち人間に対する神的愛から語られましたが、それは、その場だけではなく、永遠に向けて役立つ真理が含まれています。主のみ言葉には、時と場所を超えて、私たちの改良と再生に役立つ真理が含まれます。その源には、人類すべてを救うという神的愛がこめられています。

神的愛を源とする神的真理から、力と働きが発しています。宇宙を創造し、天上におられたときは、天使の形を借りて地上に遣わし、そして地上に神的真理として降誕され、姿を現します。

父である神的愛と、子である神的真理、そしてそこから発する聖霊は、人間の魂と体と、言動と同じです。
人間の魂と体と言動が、まとまって一人の人格となるように、神的愛である父なる神と、イエスと名つけられた神的真理と、父と子が一体となって発する聖霊は、それぞれ一人の神のことを述べています。人間の魂と体と言動と同じです。

聖霊の正体は、栄化されて父と一体となった主イエスから発する、神的真理の働きです。私たちに神と主のことを知らせ、導こうとする働きです。
その聖霊の力と働きは、真のキリスト教の次の項目で説明されます。
(ii) 聖霊によって意味される、神的力と働きは、一般的には改良と再生であり、それは新しくし、気づきを与え、聖と、義に導きます。そして悪から清め、罪を赦し、最終的に救いをもたらします。

ヨハネ福音書には「 その方が来ると、罪について、義について、さばきについて、世の誤りを明らかになさいます。」(16:8)とあります。
み言葉を読むことで、私たちは、父と一体化された主イエスに接することができます。主の神性を信じるなら、そこから発している聖霊が、力と働きであることを、はっきりと認識できます。いまや聖霊は主によって遣わされるからです。私たちそれぞれが足りないものをご存じで、それを個別に導かれます。
主が父なる神と一体となられたことを信じ、主が神となられたことを心から理解しなければ、聖霊のたすけ、インスピレーションは得られません。私たちの内心についてご存じで、それに合わせて導いていることを信じて、その導きに従わなければ、改良と再生は進みません。

もちろん、改良と再生は、聖霊の力によって自動的に進むのではないことは、私たちは経験から知っています。
地獄と悪霊は、自分の方向に導こうとして、あらゆる手段で邪魔するからです。そして天使は、善い方向へと導きます。しかし、選択するのは私たちです。主はわたしたちの思考と判断、そして自由を大切に守られているからです。自由に意図し、合理的に識別する力は、本来的に与えられていて、この能力が私たちを人間とします(神の摂理98)。この能力がなければ、私たちは再生できません。

主を信じ、その導きを受け入れようとする者を、主は聖霊によって導きます。
聖霊による力を受けるためには条件があります。
「これらの強力な効果を生み出すためには、主を信じ受け入れるよう自分を調整しなければならない(真のキリスト教143)」という条件です。

主の神性を認めず、主からの神的真理を拒み続ければ、主は働くことができません。主を受け入れることができ、自分を聖霊の働きに合うよう調整しようとするなら、エゼキエル書にいう、「新しい心」と、「新しい霊」(36:26,27)が与えれれます。それは、善いことを求める新しい心と、真理を理解することができる知性、霊です。救いの道を歩む者に神が魂を与えるとは、善を行い、真理を信じる力を与えることです。(真のキリスト教143)。

エゼキエル書には「あなたがたが行ったすべての背きを、あなたがたの中から放り出せ。このようにして、新しい心と新しい霊を得よ。」(18:31)とあります。エゼキエル書で言われたことを、私たちは粛々と行います。背きとは主の神性を認めず、十戒から始まり、互いに愛し合うという最後の戒めに従わないことです。

(iii) 聖霊を遣わすことによって意味される、神的力と活動は、教職者に啓蒙と教えという特別の形をとります。
教職者としての按手を受けることで、教職者は人を天界と主のもとに導こうとする、任務に対する強い意欲を持ちます。任務として、人を導こうとする者には、インスピレーションと導きが与えられます。
新しく按手を受ける人が、真摯に任務を果たそうと努力するなら、必ず聖霊による不思議な導きを感じることになります。

(iv) 主はご自身を信じる者に、これらの恵みを与えます。
主イエスの神性を信じるなら、聖霊による導きがあります。
父であるエホバだけを信じる者や、別の救世主、宗教を信じる者には、聖霊の力はきません。改良と再生は進まなくなります。
「罪についてというのは、彼らがわたしを信じないからです。」(16:9 ) 
主の神性を信じない者は、主が天上から見て、地上で長い間かけて用意されたものを無駄にします。改良と再生の仕組みが無駄になります。主がおつくりになった秩序を乱し、教えられた戒めを無駄にするなら、導くことができません。

栄化の後、主は乱れた霊界をさばき、秩序を取り戻されます。誰が乱しているか、よくご存じですからです。私たちそれぞれの性質を深くご存じであり、秩序を乱す原因をご存じです。
「さばきについてとは、この世を支配する者がさばかれたからです。」(16:11)
秩序を乱す者は、自分が作った性質への裁きを受け、恵みを受けることができません。

(v) 主は父から、ご自身のため働きます。その逆はありません。
ヨハネ福音書には 「その日には、あなたがたはわたしの名によって求めます。あなたがたに代わってわたしが父に願う、と言うのではありません。」16:26

主イエスが主導権を持って、父なる神から聖霊を与えます。この概念は今まで明かされなかった秘密であると天使は語ります。(真のキリスト教153)

聖霊は父なる神から発します。しかし、主導権を持って、導いているのは、主イエスです。主から聖霊が発しているのではありません。主は人間を体験し、誰よりも深く私たちをご存じであるからです。私たちをご存じである主は、主のご性質を知って、その性質によって求める者には、父である神はすべてお与えになります。私たちがみ言葉で学ぶ、主のお持ちの性質、寛容や平和、他人への思いやりなどから求めるなら、応えられますが。しかし、相手に対する冷酷、厳しさ、憎悪から求めるなら、何も与えられません。

「今まで、あなたがたは、わたしの名によって何も求めたことがありません。求めなさい。そうすれば受けます。あなたがたの喜びが満ちあふれるようになるためです。」16:24

(vi) 人の霊はその心であり、そこから心に合ったものが出てきます。
教義は、それぞれの教義から求めるなら、その教義の立案者が考えるものしか得ることができません(真のキリスト教154)。新教会の集まりを行っても、主のみ名ではなく、立案者が考えた範囲でしか得ることができません。もし会員間の親交だけを考えているなら、それ以上の導きは得られないことになります。

「女は子を産むとき、苦しみます。自分の時が来たからです。しかし、子を産んでしまうと、一人の人が世に生まれた喜びのために、その激しい痛みをもう覚えていません。」(16:21 )
私たちの中にある悪と偽りを捨て、「あなたがたが行ったすべての背きを、あなたがたの中から放り出」すためには、苦しみと試練がやってきます。簡単なことではありません。持っている悪と偽りは自分の生命そのものであるからです。
しかし主は最後にもう一度、私たちを励まされます。主ご自身が、「世への愛」の試練をすべて克服されて、恐れることなく、最後の試練に向かわれるように。

「これらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を得るためです。世にあっては苦難があります。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝ちました。」(16:33)

エゼキエル書
18:31 あなたがたが行ったすべての背きを、あなたがたの中から放り出せ。このようにして、新しい心と新しい霊を得よ。イスラエルの家よ、なぜ、あなたがたは死のうとするのか。

36:26 あなたがたに新しい心を与え、あなたがたのうちに新しい霊を与える。わたしはあなたがたのからだから石の心を取り除き、あなたがたに肉の心を与える。
36:27 わたしの霊をあなたがたのうちに授けて、わたしの掟に従って歩み、わたしの定めを守り行うようにする。

ヨハネ福音書

16:7 しかし、わたしは真実を言います。わたしが去って行くことは、あなたがたの益になるのです。去って行かなければ、あなたがたのところに助け主はおいでになりません。でも、行けば、わたしはあなたがたのところに助け主を遣わします。
16:8 その方が来ると、罪について、義について、さばきについて、世の誤りを明らかになさいます。
16:9 罪についてというのは、彼らがわたしを信じないからです。
16:10 義についてとは、わたしが父のもとに行き、あなたがたがもはやわたしを見なくなるからです。
16:11 さばきについてとは、この世を支配する者がさばかれたからです。
16:12 あなたがたに話すことはまだたくさんありますが、今あなたがたはそれに耐えられません。
16:13 しかし、その方、すなわち真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導いてくださいます。御霊は自分から語るのではなく、聞いたことをすべて語り、これから起こることをあなたがたに伝えてくださいます。
16:14 御霊はわたしの栄光を現されます。わたしのものを受けて、あなたがたに伝えてくださるのです。
16:15 父が持っておられるものはすべて、わたしのものです。ですからわたしは、御霊がわたしのものを受けて、あなたがたに伝えると言ったのです。
16:16 しばらくすると、あなたがたはもうわたしを見なくなりますが、またしばらくすると、わたしを見ます。」

16:25 わたしはこれらのことを、あなたがたにたとえで話しました。もはやたとえで話すのではなく、はっきりと父について伝える時が来ます。
16:26 その日には、あなたがたはわたしの名によって求めます。あなたがたに代わってわたしが父に願う、と言うのではありません。
16:27 父ご自身があなたがたを愛しておられるのです。あなたがたがわたしを愛し、わたしが神のもとから出て来たことを信じたからです。
16:28 わたしは父のもとから出て、世に来ましたが、再び世を去って、父のもとに行きます。」
16:29 弟子たちは言った。「本当に、今あなたははっきりとお話しくださり、何もたとえでは語られません。
16:30 あなたがすべてをご存じであり、だれかがあなたにお尋ねする必要もないことが、今、分かりました。ですから私たちは、あなたが神から来られたことを信じます。」
16:31 イエスは彼らに答えられた。「あなたがたは今、信じているのですか。
16:32 見なさい。その時が来ます。いや、すでに来ています。あなたがたはそれぞれ散らされて自分のところに帰り、わたしを一人残します。しかし、父がわたしとともにおられるので、わたしは一人ではありません。
16:33 これらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を得るためです。世にあっては苦難があります。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝ちました。」

TCR138
救い主である主について、正しい考えを育ててきた聖職にあるすべての者は、霊界に入って、通常、死後三日目に、最初に神的三一について教わります。特に聖霊は、別れて存在する神ではないことです。
み言葉は、神的働きは、おひとりの全能の神から発するという句を使います。彼らは特に聖霊について教わります、なぜなら死後、神的なものに刺激されたと信じこんだ狂信者は、自分が聖霊であると信じてしまうからです。世にある間、聖霊は彼らを通して話すと信じる教会員が多数います。彼らはマタイの主の言葉、彼らの中で刺激している聖霊に反することは赦されない罪だと、人を脅します(マタイ 12:31-32)。
すべてを教わった後、聖霊は別の神であるという信念を捨てた者は、神の一体について教わります。
その一体とは、神と主は(アタナシウス信条がいうように)、三人の人格に分かれていないことです。その代わり、神的三位は、救い主である主の内に、魂と体、そして発して人間に与える力として存在します。
そして、彼らは新しい天界の信仰を受け入れる準備をします。準備が終わると、彼らのために天界にある同じ信仰をもつ共同体の道が開かれます。彼らは仲間の内に住む場所を与えられます。そこは永遠の至福の内に住むところです。

創造主である神と、贖い主である主を学んだので、聖霊についても学ばねばなりません。これは他と同じように、何点かに分けて説明します。

(i) 聖霊は神的真理です。そして神の力でもあり、働きです。それはお一人の神、主なる神、救い主の三位一体の神から発します。
(ii) 聖霊によって意味される、神的力と働きは、一般的には改良と再生であり、それは新しくし、気づきを与え、聖と、義に導きます。そして悪から清め、罪を赦し、最終的に救いをもたらします。
(iii) 聖霊を遣わすことによって意味される、神的力と活動は、教職者に啓蒙と教えという特別の形をとります。
(iv) 主はご自身を信じる者に、これらの恵みを与えます。
(v) 主は父から、ご自身のため働きます。その逆はありません。
(vi) 人の霊はその心であり、そこから心にあったものが出てきます。

天界の秘義 9818:27
「人はどんな罪も冒とくも赦していただけますが、御霊に対する冒とくは赦されません。また、人の子に逆らうことばを口にする者でも赦されます。しかし、聖霊に逆らうことを言う者は、この世でも次に来る世でも赦されません。」 (マタイ 12:31, 32);
「人の子に逆らうことばを口にする者」は、まだ人の生命に書き込まれていない、真理の神的なもの に逆らうことを意味します。 (「人の子」が神的真理を意味するについて 9807参照);
しかし「聖霊に逆らうことを言う」とは、人の生命に植え込まれ、書き込まれた神的真理に反すること、特に主ご自身に関する神的真理に反することを言います。
これに逆らうとは、すなわち、一度認めた後、拒むことは冒涜であるからです。そして冒涜は、人の内部をすべて破壊するような性質です;ここから、この罪は赦されないと言われます。
(冒涜については以下を参照 3398, 3898, 4289, 4601, 6348, 6959, 6963, 6971, 8394, 8882, 9298.)

真のキリスト教142. 2.
一般的に、聖霊によって意味される神的行為と強い結果は、改良と再生させる行為です。
この改良と再生の成果に基づき、神的行為と強い結果は、新しくし、生命を与え、清め、義とする行為を含みます。これらの結果の順に応じて、神的行為と強い結果は、悪から清め、罪を赦し、最終的に私たちを救います。
これらは主を信じ、主を迎え内に留めるよう自らを変え、順応しようとする人達に、次々と強い結果を生み出します。神的真理はこれらの力を持ちます。キリスト教徒の間において、み言葉はこれらの結果を生み出すのは、み言葉が唯一主に行き、主が来られることのできる手段であるからです。
先に言ったように、主は完全な神的真理です。そのためすべては主から発します。
これを理解するため重要なのは、神的真理が善と結ばれていることを意味し、信仰が善意と結ばれているのと同じです。信仰とは真理であり、善意とは善です。

神的真理が善と結ばれる、すなわち、信仰が善意と結ばれることで、改良し再生させます。
そして私たちを新しくし、生命を与え、聖とし、義とします。そして成長と前進のレベルによって、悪から清めます(悪からの清めは、罪の赦しと同じです)。

これらの主の行為のすべては、一つ一つ説明できませんが、それぞれ、み言葉からの支えによる解析と、理性による説明が必要です。これらについてより知りたい読者は、この書の他の該当部分の説明を順に参照してください。善意(仁愛)[392-462]、信仰 [336-391]、自由選択 [463-508]、悔い改め [509-570]そして改良と再生 [571-625]です。

主がいつも私たちの個々それぞれに、救いの過程を実行されていることを知るのは重要です。
それらは天界への階段です。主はそれぞれをお救いになりたいとお望みです。その目的はすべての人を救うことです。目的を達したいと望む者は、成し遂げる手段を求めます。主の降誕、人類の贖い、十字架上の苦難は、私たちの救いのためのものです(マタイ 18:11; ルカ 19:10)。
人々の救いは主の永遠の目的であるため、並べられ挙げられた強い力は、主の中間的な目的であり、私たちの救済が主の最終目的です。