ヨセフの出世

「さあ、私はおまえにエジプト全土を支配させよう。」(創41:41)

ヤコブの息子ヨセフは、兄弟達に売られ、エジプトの侍従長に買われます。そこで働きを認められ、主人の妻に濡れ衣を着せられ獄につながれてしまいます。その後ファラオの献酌官長と、料理官長の二人がヨセフと同じ獄につながれます。二人は不思議な夢を見て、ヨセフに相談し、ヨセフは二人の夢を解き明かします。その後二人は獄から解放されます。ヨセフの夢明かしが当たり、献酌官長は元の職務に戻りますが、調理官長は吊されてしまいます。

ファラオは自然界を支配するエジプトの王です。ファラオの献酌官長と、料理官長によって自然的なものに仕える二種類の感覚的部分が意味されます。感覚的部分うち献酌官長で表現される知的な部分と、吊された料理官長で表現されている意志的部分です。知的な部分は、再生に当たって生かされることが可能ですが、意志的部分については再生不可能だというのが、主が予見されたことでした。

しかし人間は、意志と知性の両方によって一人の人間です。その一方だけが生き返っても、生命とはいえません。私達が密かに期待を寄せる主人公のヨセフは、獄につながれたままです。ヨセフが何らかの働きをしなければ、人間は再生できません。新しい生命を受けることができません。このままでは人間・人類は滅びてしまいます。主は再生の最初の段階の自己改革といわれる部分の備えをなさいます。すなわち、再生が始まるにつれ、善と真理が不足することを予見され、再生が進歩しても不足が起こらないよう、人間には知られず、密かにその備えをなさいます。

「それから二年後、ファラオは夢を見た。見ると、彼はナイル川のほとりに立っていた。」(創 41:1)
ファラオが見た夢は、不可解で不吉でした。ナイル川から、7頭の肉づきの良い雌牛が上がってくると、続けて上がってきた痩せた醜い雌牛に食べられてしまいます。

それだけではありません、ファラオは次の夢をみます。七つの穂が実ると、その後、東風に吹かれて焼けしなびた七つの穂に食べられてしまいます。

朝になって、ファラオは心が騒ぎ、人を遣わして、エジプトのすべての呪法師とすべての知恵のある者たちを呼び寄せた。ファラオは彼らに夢のことを話したが、解き明かすことのできる者はいなかった。(41:8)
そこで、献酌官長は、獄の中で夢を解き明かしてくれたヨセフのことを思いだし、獄につながれているヨセフを呼び出すようファラオに進言します。

監獄から呼び出されたヨセフは、ファラオの見た夢を解き明かします。エジプトの豊作と飢饉を預言し、続いてその対策、豊作時の備蓄をも進言してエジプトを救おうとします。

ヨセフの見事な解き明かしと対策に感動したファラオは、こう言います。
「おまえのように、さとくて知恵のある者は、ほかにはいない。おまえが私の家を治めるがよい。私の民はみな、おまえの命令に従うであろう。私がまさっているのは王位だけだ。」(41:39-40)
「さあ、私はおまえにエジプト全土を支配させよう。」(41:41)

ファラオはヨセフに、自分の指輪、亜麻布の衣服、金の首飾を与え、自分の第二の車に乗せます。
そして、「ヨセフにツァフェナテ・パネアハという名を与え」さらに祭司の娘を妻として与え、「ヨセフはエジプトの地を監督するようにな」ります。このとき「ヨセフは三十歳であった。」といいます。

ヨセフは奴隷から、囚人となりますが、いまやエジプト全土を実質的に治める支配者に出世します。
奴隷・囚人から第二の支配者への出世、一夜にして驚くべき出世です。緊急時に予想したとはいえ、世界の歴史で一夜にしてこのような出世をした例は聞いたことがありません。主は人間の再生が停止してしまうことを予見され、ご自身が私達それぞれに働きかける備えをなさいます。

ヨセフは、この世におられた時の主イエス・キリストを表します。
エジプトの王ファラオに仕えるようになったとき、ヨセフは三十歳であった。(41:46)
ルカ書には、「イエスは、働きを始められたとき、およそ三十歳で、ヨセフの子と考えられていた。」(ルカ 3:23)とあります。
これは単なる偶然ではありません。「三十」には主が人に蓄積される善と真理が満ちていっぱいになる、という意味があります(AC5335)。この「三十」が、主が用意されたこと、すなわち本人が知らない間の「善と真理の蓄積」でした。

ヨセフは、ツァフェナテ・パネアハZaphenath Paneah(41:45)という名を与えられます。このヘブライ語の意味は、「隠された物事の啓示者、起こる事の開示者」(AC5331)です。ファラオにとっての啓示者であるとともに、当時、神の御心を知るひとり子としてこの世に来られた主イエスのことを表しています(同上)。主はこの世に居られた時、御言葉の内意を次々と正しく明かして、私達に神の真の心を説かれました。

ファラオはヨセフを「神の霊が宿っているこのような人が、ほかに見つかるだろうか。」(創41:38)と驚きます。ヨセフへの抜群の評価によって、自然的なものであるエジプト王ファラオが全面的に服従して、エジプト全土を救うことになります。まさに救世主です。ファラオ自体も以前のような状態ではなくなっています。ファラオが以前のままでは、このような気づきは不可能でした。ファラオにも新しい状態が始まっています。

ヨセフの霊的な意味は、「合理的なものから出る、霊的なものの天的なもの」です。言葉にすると抽象的な形容が重なり、わかりにくくなりますが、これを仮に、分解して並べると少しわかりやすくなります。
まず「天的なもの」が中心の第一に来ます。天的なものはアブラハムがそうであったように、神性そのものです。しかし、神的なものは無限であるため、人間には理解できません。これを私達に伝えるため次の工夫が必要です。

これを囲むように第二に来るのが「霊的なもの」です。神的なものから出ている霊的な価値が、この中にあります。しかし私達は自然的な存在であるため、霊的な価値を理解できません。霊的なものを知るためには、合理性と直接の刺激が必要です。それがイサクで表される主の合理性と、自然界へいる私達への流入です。

「すべてに勝って神を愛しなさい」それと同じように「自分と同じくらいに隣人を愛しなさい」と霊的に教えられても、「神」「隣人」「愛する」をそれぞれ定義して、重ねてゆくとぼんやりとわかってくる程度です。しかし、曖昧にしかわかりません。

「神」を何にも勝って愛せと言われています。しかし、人は自分の一番、愛する者を神と呼びます。「神」が何かわからなければ、神を愛せと言われても、自分が愛するものを愛するだけで、人は再生するどころかどんどん自己愛の世界に埋没してしまいます。
「隣人」を愛すると称して、隣にいる人を皆、愛そうとします。たとえ隣にいる者が犯罪者や侵略者であっても、気にしません。その人が自分は犯罪者や侵略者でないと言えば、分別なしに愛し、そして時に自分の都合に合わせて愛します。侵略者や犯罪者は、自分こそが正しいと偽りを振りまき、私達も情報に踊らされて、何が隣人か、何が正しいかわからなくなります。

主がこの世にお越しになったときは、正しいことが曲げられ、神的なものがわからなくなった状態で、神と人間が交流不可能な状態であったと言われています。しかし表現を変えて、現代の今の状態を考察すると、あまり進歩がないように見えます。相変わらず平和や解放という偽りの仮面をかぶって、殺人や略奪、姦淫を繰り返しています。会社や家庭でも、自分達の利益や存在継続という偽りのもと、パワハラ・セクハラ・弱い者いじめ・見切りが続いています。何が正しいことで、善い事かわからなくなっています。
昔学んで、豊かになったはずの善と真理が、悪霊が吹き込む偽りのせいで役立たない状態になっています。乱れた理解を正すためには、悪を避ける人間の努力と、主からの流入の両方が必要です。

まずは、悪は何かを知り、これを徹底的に断つことが必要です。十戒や聖書で命じられた悪を断たなければ、善と真理が追放されたようになっています。私達の内に深くしまわれ、忘れている御言葉の真理を思いだして行います。すると主が内的道を通って、乱れた秩序を回復されます。幼時に蓄えられた真理も、思春期になって、世の偽りや遺伝悪の刺激によって秩序が乱されますが、この秩序を主とともに回復します(AC5280)。

思春期以降、老年から人生の最後に至り、そして死後も永遠に至るまで、この秩序の回復を重ね、一つ一つの真理を善と結び合わせてゆきます。知識にすぎない真理を、行い、そして実現させ、歓びが生まれて善となるまで結びつけてゆきます。そこには偽りがあると主からの流入が阻害されます。偽りと悪は自分の利得や名誉などは偽りと結びついて善と真理の結婚の邪魔をするだけです。純粋に真理を歓び。善を行う態度が必要です。

地上に居られた時の主は、「合理的なものから出る、霊的なものの天的なもの」としか表現できません。なぜなら、主は常に「父」に祈り、その御心を行おうとされました。しかし、その「父」は主の「魂」でした。そして主は常に隠された霊的意味を開示され、捧げ物や犠牲などが、物ではなく、「思いやり」や愛での霊的価値であることを明かされました。しかも、喩えによって大筋から離れないよう霊的に支えられます。さらに本人の状態が進めば「天界の教え」という再臨によって、合理的な教えをより鮮明になさいます。天界の教えの表現にあるとおり「合理的なものから出る、霊的なものの天的なもの」以外の「表現は用いることができません」。

天界の教えは、私達に再生の道を教えます。悪を拒み、善を行い、神を信じよと。
この三つだけでも真心こめて真剣に行えば、私達は再生の道を歩めるはずです。しかし行ってなければそうではありません。常に何かの偏りを思い込み、全体のバランスが崩れ、調和がとれなくなっています。その偏りはそれぞれが都合のいい部分に起こり、最後には全体が崩壊してしまいます。偏りを起こすのはいつも自己愛と世間愛です。この調和の回復には、私達と主の力の両方が必要です。私達が働かなければ、自己愛と世間愛が働き、主からの流入は起こりません。私達が自己愛と世間愛に気づき、これを除く努力を行うと、主は流入によって助けてくださいます。

ヨセフはファラオの命によって、エジプト全土を支配します。このエジプト全土とは、知識とそれによって生きる自然的な本人の両方を意味します(AC5316)。外的な真理である知識と内的な真理です。
そして「知識は、知性によって受け入れられ見いだされるまでは、真理として人の内に安んじることができません。それは人が固く抱きしめないからです。人がそれに従って生きない限り、真理はその人に安んじません。なぜなら人の生命のものとならない限り、何もその人のものとはならないからです。そのためこれらの真理が人の生命を形作り、人の真の自分は、その真理によって覆われます。」(AC5276)

私達は、ヨセフがエジプト全土を支配したように、善に結ばれた真理を、一つ一つ自分の生命として自分自身を蓄えてゆかねばなりません。私達が真理を善と結び合わせる努力をします。善を真理と結び合わせてゆきます。知識として貯めておくことなど論外です。知識は使わなければ忘れ去られてしまいます。幼い時に純真に学んだ知識も、成長するにつれて忘れ去られてしまえば、知識が多くあっても、必ず「飢餓」がやってきます。この飢餓が進む状態は、私達が成長し善と真理が不足してきた状態なのです。

学んだ知識を行い、自分の中で消化して人に役立て、そこから歓びを得て、初めて自分を構成する真理となってゆきます。役立ちという善と結びつくことで、私達を構成する真理となってゆきます。私達の自然的な分野は、「ヨセフ」によって支配され、調整されなければなりません。主によって蓄えられた真理を呼び起こしてて、調和を取り戻す努力をするなら、栄化されたヨセフである主から流入が豊にあり、天界の形である巨大人の形が、私達の中で整えられてゆきます。ヨセフの支配が私達の再生の始まりの状態です。

ファラオはさらにヨセフに言った。「さあ、私はおまえにエジプト全土を支配させよう。」(創41:41)
アーメン

創世記(新改訳)
41:1 それから二年後、ファラオは夢を見た。見ると、彼はナイル川のほとりに立っていた。
41:2 すると、ナイル川から、つやつやした、肉づきの良い雌牛が七頭、上がって来て、葦の中で草をはんだ。
41:3 するとまた、その後を追って、醜く痩せ細った別の雌牛が七頭、ナイル川から上がって来て、その川岸にいた雌牛のそばに立った。
41:4 そして、醜く痩せ細った雌牛が、つやつやした、よく肥えた七頭の雌牛を食い尽くしてしまった。そのとき、ファラオは目が覚めた。
41:5 彼はまた眠り、再び夢を見た。見ると、一本の茎に、よく実った七つの良い穂が出て来た。
41:6 すると、その後を追って、しなびた、東風に焼けた七つの穂が出て来た。
41:7 そして、しなびた穂が、よく実った七つの穂を吞み込んでしまった。そのとき、ファラオは目が覚めた。それは夢だった。
41:8 朝になって、ファラオは心が騒ぎ、人を遣わして、エジプトのすべての呪法師とすべての知恵のある者たちを呼び寄せた。ファラオは彼らに夢のことを話したが、解き明かすことのできる者はいなかった。
・・
41:25 ヨセフはファラオに言った。「ファラオの夢は一つです。神が、なさろうとしていることをファラオにお告げになったのです。・・・
41:37 このことは、ファラオとすべての家臣たちの心にかなった。
41:38 そこで、ファラオは家臣たちに言った。「神の霊が宿っているこのような人が、ほかに見つかるだろうか。」
41:39 ファラオはヨセフに言った。「神がこれらすべてのことをおまえに知らされたからには、おまえのように、さとくて知恵のある者は、ほかにはいない。
41:40 おまえが私の家を治めるがよい。私の民はみな、おまえの命令に従うであろう。私がまさっているのは王位だけだ。」
41:41 ファラオはさらにヨセフに言った。「さあ、私はおまえにエジプト全土を支配させよう。」
41:42 そこで、ファラオは自分の指輪を指から外してヨセフの指にはめ、亜麻布の衣服を着せ、その首に金の首飾りを掛けた。
41:43 そして、自分の第二の車に彼を乗せた。人々は彼の前で「ひざまずけ」と叫んだ。こうしてファラオは彼にエジプト全土を支配させた。
41:44 ファラオはヨセフに言った。「私はファラオだ。しかし、おまえの許しなくしては、エジプトの国中で、だれも何もすることができない。」
41:45 ファラオはヨセフにツァフェナテ・パネアハという名を与え、オンの祭司ポティ・フェラの娘アセナテを彼の妻として与えた。こうしてヨセフはエジプトの地を監督するようになった。

ヨハネ福音書
3:3 イエスは答えられた。「まことに、まことに、あなたに言います。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」
3:4 ニコデモはイエスに言った。「人は、老いていながら、どうやって生まれることができますか。もう一度、母の胎に入って生まれることなどできるでしょうか。」
3:5 イエスは答えられた。「まことに、まことに、あなたに言います。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国に入ることはできません。
3:6 肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です。
3:7 あなたがたは新しく生まれなければならない、とわたしが言ったことを不思議に思ってはなりません。
3:8 風は思いのままに吹きます。その音を聞いても、それがどこから来てどこへ行くのか分かりません。御霊によって生まれた者もみな、それと同じです。」

天界の秘義5307. 「神の霊が宿っているこのような人が、ほかに見つかるだろうか。」とは、真理の流入を意味し、その真理は、内側からの善を含んでいるため、霊的なものの天的なものを含めることになります。これは「人」の意味が真理であり(3134, 3309, 3459参照)、「神の霊」の意味が、内から善を受ける、すなわち神的なものからを意味することから明らかです。神の霊とは、神的なものから発し、そのため完全な善です。なぜなら神的なものとは完全な善であるからです。ここから発するものは、善を含んだ真理であるため、この真理は、御言葉では「神の霊」を意味します。確かに、霊が出ずに、善を含んだ真理が出て、それは聖なる真理です。この真理は善を含み、「ヨセフ」によって表される、霊的なものの天的なものです。

[2] 教会の中で、「ヨセフ」の霊的意味は主であることはよく知られ、そのため主は天的なヨセフと呼ばれています。しかし主がヨセフによってどの面を表しているのか誰も知りません。主は、アブラハム、そしてイサクによって、さらにヤコブによって表されます。しかし、モーセやエリアやアロン、そしてダビデ、さらに御言葉のその他の多くの人によっても表されます。しかしそのそれぞれは、他の人から別の方法で表されています。アブラハムは神性そのものを、イサクは神的合理性を、ヤコブは神的自然性を、モーセは御言葉と法と歴史的部分を、エリアは預言的部分を、アロンは祭司を、ダビデは王を意味します。しかし、ヨセフが何を意味するかについては、3969, 4286, 4585, 4592, 4594, 4669, 4723, 4727, 4963, 5249を参照してください。
ヨセフは、合理的なものから出る、霊的なものの天的なもの、意味します。他の表現は用いることができません。なぜなら天的なものは、神的なものからの善を受け、霊的なものはその善から出る真理を受け、それは主の神的人間からくる善の真理を構成しています。これは主が世に居られた時の主でした。しかし、主はご自身を栄化されると、それを超えて蘇られ、その人間さえも完全に神的善、あるいはエホバとされました。

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Bわかりやすいか 1わかりにくい・・・5よくわかる
C新しい視点か  1 旧い視点・・・・・5斬新で新しい視点

説教テーマ(自由記述)

新約聖書(マタイ各章・黙示録7つの教会・ヨハネ各章~)と旧約聖書(創世記~)をで交互に題材を求め、各個人の内にできる教会の成長に会わせ、網羅できるように進めています。
特に学びたい部分があればご連絡ください。
(                              )

イースターの意味

イースターの朝と夕

さて、週の初めの日、朝早くまだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓にやって来て、墓から石が取りのけられているのを見た。ヨハネ20:1

主の蘇りの朝、それは驚きと、新しい希望に満ちた時です。
その朝、マグダラのマリアは、主を葬った墓の石が取り除かれているのを発見して弟子に知らせます。報告を受けた、ヨハネとペテロは走って墓に行きます。しかし、墓の中には主の身体を巻いていた亜麻布が残っているだけでした。

主にお会いできなくて悲しんでいたマグダラのマリアは、墓の中をのぞき込んだとき白い衣を着た二人の御使いを見ます。御使い二人と話しますが、主の居場所はわかりません。うしろを振り向くとイエスが立たれています。しかしマリアにはそれが主であるとわかりません。園の管理人と考えています。
「マリア」と主が呼ばれると、振り向いてそれが主であるとわかり、「ラボニ・先生」と呼びかけ、初めて主を認識します。

マリアは主の足に香油を塗り、髪の毛で足をぬぐった(12:3)女性です。優しさと愛に溢れながら、主の足下に座って、謙虚にひたすら御言葉を聞き(ルカ10:39)、十字架での最期まで主を慕い続けます。マリアによって、善への情愛が表されています。

イースターの朝、マリアは、復活した主イエスに会います。いや、会ったはずですが、なかなか主に会えたという実感がありません。マリアと会った主はいろいろと形を変えられます。それはマリアの受容の程度に応じます。最初は、二人の天使でしたが、次は園の管理人と考えます。そして、三番目は「ラボニ・先生」です。最後に「先生」であるイエスと会えたはずですが、「触ってはいけない」と言われてしまいます。

マリアの受容の変化に注意してみましょう。
最初の二人の天使です。主の身体のあった頭と、足のところにいた天使は、主から発する神的真理の最初から最後までを意味しています(AE687:18)。天使によって神的真理が意味され、その最初から最後のすべてが表わされてるのは、すなわち主ご自身全体です。しかし神的真理の全体はマリアにはわかりません。マリアは「どこに置いたのか、私にはわからないのです。」(20:13)と応えます。マリアがわからないのは、主のご遺体の行方ではなく、神的真理の全体像でした。しかし、次に出てくるのが「園の管理人」(20:15)と思った人です。

園の管理人は、種を集め、土地を耕し、種をまき、育ててゆきます。しかし、実際に種を根付かせ、発芽させ、花をつけ、実をならせるのは、主の御業です (AE1154[2] ) 。主のみわざはマリアにも、もちろん私達にもわかっていません。
毎日、劇場のように全世界に主の御業を見ておきながら、主の摂理を知らずに、自然の力、あるいは人間の力としか考えないからです。生命とは肉体の生命だけであると考え、そしてその生命の源がどこから来ているか、知らずに生活しています。さらに、その生命を、本来あるべき方向ではなく、自分の好きな方向に濫用しています。そのため、主に出会いながらも、ただの「園の管理人」としか考えません。憐れに想われた主は、声をかけられ御姿を明かします。

イエスは彼女に言われた。「マリア。」彼女は振り向いて、ヘブル語で「ラボニ」、すなわち「先生」とイエスに言った。(20:16)

弟子達は「先生」とは呼びません。マリアが応えた「先生」という返事は、主を神的善ではなく、神的真理として考えている結果といわれています。
「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。」(1:14)とあるように、主はみことば、神的真理としてお生まれになりました。そして最期の試練によって栄化され神的善とむすばれたはずです。しかし、マリアの意識の中では、まだ栄化されていません。全能の神となっていません。そこで、主はマリアだけではなく、弟子や、信仰の真理にいる者のところに行って伝えなさいと命じられます。
天界の教えによれば、「主」という呼びかけは善について、そして「先生」は真理について呼ばれます(AC2921:6)。

「わたしはまだ父のもとに上っていないのです。わたしの兄弟たちのところに行って、『わたしは、わたしの父であり、あなたがたの父である方、わたしの神であり、あなたがたの神である方のもとに上る』と伝えなさい。」(20:17)

このとき、マリアは、主に「わたしにすがりついていてはいけません」と諭されます。マリアの意識の中で栄化されていないため、兄弟たち、すなわち弟子たちのところに行って、栄化されたことを伝え、全能の神となることを彼らによって教えられることをお求めになります。

「『あなたがたの神である方のもとに上る』と伝えなさい。」とは、神的真理が、神的善と一体となって栄化されることです。神的真理と神的善が結びついて一体となることは、善への情愛だけでは理解は難しく、理解できません。信仰の真理を少しずつ教えられ学んでいる弟子達によって、初めて理解が可能となります。

善と真理がどう違うのか?神的真理と神的善が結びつくとは、どういうことなのか、抽象的な概念はなかなか理解できません。
しかし例えば、隣人への善は、教えられ、行いながら考えると、誰が隣人で、何が善なのか、はじめて理解することができます。学ぶだけでは誤解や偽りが残り、主の教えを理解することは簡単ではありません。行い、善にしてゆく過程で、真理に含まれている偽りが取り除かれてゆきます。そして、すべて隣にいる人が隣人ではなく、それぞれの人が持っている善自体が隣人であることに気づきます。

私達も、主の蘇りは、肉体の蘇りなのか、霊の蘇りなのか、そして私達自身にも蘇りがあるのかどうか、はっきりとはわかりません。人に教えるよう遣わされたとしても、確信をもって人に言えません。確信をもって人に伝えるためには、しっかりした教えにそって理解し、行って確かめなければ、曖昧なままです。

マリアが来て「私は主を見ました」と報告し、そして上られて神と一体となると告げられたことを弟子達に伝えます。イースター、主の蘇りの日の夕方、弟子達の真ん中に主が現れ、大きな進展があります。

弟子達は、旧い宗教勢力への怖れから、「戸に鍵がかけられてい」ます。真理を知り、伝えることができません。私達も、旧い宗教に囲まれ、主の再臨を堂々と告げることができません。真理を説けば、社会的評価を失う怖れがあるので、戸を閉めて小さいグループで話し合います。

すると、イエスが来て彼らの真ん中に立ち、こう言われます。「平安があなたがたにあるように。」(20:19)

平安とは神性と神的人間の結合で、主が語られた「神のもとに上る」ことが意味されます。平安の内的意味は、主ご自身のことです。主は天界であり永遠の生命です。そして主との結びつきによって起こる天界の歓びです。(AE365:11)
蘇った主と会い、「平安」を祈られた時、弟子達にとってどんなに素晴らしい歓びの瞬間であったことでしょうか!弟子達の中に立って「手と脇腹を彼らに示された」ことは、主は単なる霊ではないことを物語ります。また、焼いた魚と蜂蜜(KJV)を召し上がった(ルカ24:42)ことも単なる霊ではない証しです。

しかし、鍵のかけられた戸を通り抜けて、弟子達の前にあらわれことは、私たちのような肉体でもありません。天界の教えは、神の右の座に着いて、神的全能を得られたと教えます。「主の人間的実体と本質は、神的実体あるいは本質のようであった」(主の教義 35:10,11) と記します。
主イエスは、人間的実体とともに神的実体をお持ちになった特別な存在となられました。墓には何も残してゆかれません。すべて天に上げられます。
私達は、肉体を地上に残し、霊として霊界で生きてゆきます。そして知性は受容の程度に応じます。しかし、主の身体はその両方を今もお持ちです。自然的感覚もあるため、私達と交流することができます。

神的全能をお持ちになった主から、再び、「平安があるように」そして「父がわたしを遣わされたように、わたしもあなたがたを遣わします。」と告げられます。
息を吹きかけ、「聖霊を受けなさい。あなたがたがだれかの罪を赦すなら、その人の罪は赦されます。赦さずに残すなら、そのまま残ります。」(20:22,23)

主から息を吹きかけられると、神的真理を認識し、信仰の生命を受けるようになります(AC 9818:15)。聖霊とは霊的意味では真理のことで、人の生命はそこからきます。それは知性のことです。(AE 183:6)
聖霊を与えられると、知性から真理を認識できます。聖霊、すなわち神的霊感を受けなければ、信仰は知識のままで本当に理解できません。生きたものとなりません。信仰の生命を受けることができません。主の聖霊を受け、主の知恵から罪を考えて生きたものとします。人間の恣意的な知性ではありません。

弟子の一人のトマスは「私は、その手に釘の跡を見て、釘の跡に指を入れ、その脇腹に手を入れてみなければ、決して信じません」(20:25)と、否定します。トマスのように感覚的真理に留まると、主のお姿を見て、主を信じることができません。
主は憐れみ、トマスの前に現れ、見て触って信じなさいと促されます。
「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしの脇腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」(20:27)
主が人間であると同時に、神的な存在であることを感覚的にも確認します。

「私の主、私の神よ。」(20:28)
トマスは信じます。先にマグダラのマリアが「先生」と言ったのとは異なります。神的真理と神的善が結びつき、栄化されたことを認めました(AC2921:6)。
「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ないで信じる人たちは幸いです。」(20:29)

見て信じるのは、奇蹟を見て主の力を信じるのと同じです。奇蹟など感覚的に訴える信仰は、理性を麻痺させ、強制するからです。強制された信仰は、さらに刺激の強いものに出会えば、忘れてしまいます。しかし自由の内におかれて、人が理性的に考えた上で、自分で選択するなら、その選択は自分のものとなります。理性を使って考えた信仰は、その人のものです。(AC 7290:2)

質問と回答だけを記した問答は、たしかに信仰のきっかけにはなります。しかしそのとき、何故?どうして?と深く考えれば、理性的思考として残ります。その思考は、一生残り、様々な経験で役に立ちます。
「見ないで信じる人たちは幸いです。」とは、人間のそんな傾向についておしゃっています。

イースターの祝いは、主の復活の祝いです。しかし二千年前に主が復活されたと祝うだけなら、新たな刺激が出るとすぐ忘れ去って、信じない者となってしまいます。主の復活を深く考えることは、私達自身の復活を考えることです。どうすれば、何を信じて行えば、復活し、永遠の生命を得られるのか?永遠の生命とは何か?深く考え、新しい生命を知性で自分のものとすることがイースターの真の意味です。

マリアは、最初に主の蘇りに出会う光栄にあずかります。しかしマリアの理解は、主はまだ栄化された存在となってないので、「触ってはいけない。すがりついていてはいけない」と警告されます。マリアが聞くだけでなければ、ただ触るだけ、すがりつくだけでなく、主の傷も含めた真のお姿を見ることができたかもしれません。栄化された主のみ心に触れることができたかもしれません。

復活し、栄化された主は、万能の力をお持ちで、神の右の座につかれています。真理は善と結ばれなくてはなりません。私達の学ぶ真理も、行って善としなければなりません。知識ではなく、隣人に役立たねせなければなりません。隠れている弟子たちの元に行って、神的善となった主と会い、そこから聖霊をいただかなければ、主の本質である愛が見えません。信仰の真理を理解する力を、主ご自身に求め、理解して実行します。私達自身が復活の道、再生の道を進んでゆきます。

主イエスが、天地唯一の神となられたことを信じて、その主が与えられる真理を、主によって理解して実行するなら、私達はイエスの名によって再生し、永遠の生命を得ることになります。

これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるためであり、また信じて、イエスの名によっていのちを得るためである。(20:31) アーメン

詩編 <ダビデによる。賛歌。>
110:1 【主】は私の主に言われた。「あなたはわたしの右の座に着いていなさい。わたしがあなたの敵をあなたの足台とするまで。」
110:2 【主】はあなたの力の杖をシオンから伸ばされる。「あなたの敵のただ中で治めよ」と。
110:3 あなたの民はあなたの戦いの日に喜んで仕える。聖なる威光をまとって夜明け前から。あなたの若さは朝露のようだ。
110:4 【主】は誓われた。思い直されることはない。「あなたはメルキゼデクの例に倣いとこしえに祭司である。」
110:5 あなたの右におられる主は御怒りの日に王たちを打ち砕かれる。
110:6 国々をさばき屍で満たし広い地を治める首領を打ち砕かれる。
110:7 主は道の傍らで流れから水を飲まれる。こうしてその頭を高く上げられる。

ヨハネ福音書
20:1 さて、週の初めの日、朝早くまだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓にやって来て、墓から石が取りのけられているのを見た。
・・・
20:19 その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちがいたところでは、ユダヤ人を恐れて戸に鍵がかけられていた。すると、イエスが来て彼らの真ん中に立ち、こう言われた。「平安があなたがたにあるように。」
20:20 こう言って、イエスは手と脇腹を彼らに示された。弟子たちは主を見て喜んだ。
20:21 イエスは再び彼らに言われた。「平安があなたがたにあるように。父がわたしを遣わされたように、わたしもあなたがたを遣わします。」
20:22 こう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。
20:23 あなたがたがだれかの罪を赦すなら、その人の罪は赦されます。赦さずに残すなら、そのまま残ります。」
20:24 十二弟子の一人で、デドモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。
20:25 そこで、ほかの弟子たちは彼に「私たちは主を見た」と言った。しかし、トマスは彼らに「私は、その手に釘の跡を見て、釘の跡に指を入れ、その脇腹に手を入れてみなければ、決して信じません」と言った。
20:26 八日後、弟子たちは再び家の中におり、トマスも彼らと一緒にいた。戸には鍵がかけられていたが、イエスがやって来て、彼らの真ん中に立ち、「平安があなたがたにあるように」と言われた。
20:27 それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしの脇腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」
20:28 トマスはイエスに答えた。「私の主、私の神よ。」
20:29 イエスは彼に言われた。「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ないで信じる人たちは幸いです。」
20:30 イエスは弟子たちの前で、ほかにも多くのしるしを行われたが、それらはこの書には書かれていない。
20:31 これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるためであり、また信じて、イエスの名によっていのちを得るためである。

黙示録解説(AE) 419
[5]
ヨハネ福音書に
イエスは弟子達におっしゃった。「平安があなたがたにあるように。父がわたしを遣わされたように、わたしもあなたがたを遣わします。」こう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。」 (20:21, 22)
主が「息を吹きかけ、彼らに聖霊を受けなさい」とおっしゃったことは、エホバが「アダムの鼻にいのちの息を吹き込まれた」のと同じで、すなわち霊的生命を与えられたことです。なぜなら、聖霊は主から発する神的真理を意味し、ここから霊的生命が来ます。彼らが主から神的真理を教えなければならないことは、「父がわたしを遣わされたように、わたしもあなたがたを遣わします。」によって意味されます。なぜなら主がこの世にいらっしゃったときは、神的真理それ自体で、受胎のときから主の内にあった神的善から教えられました。この神性は主がここでそして他の箇所で「父」と呼ばれるものです、なぜなら、この世から出られたとき主は神的真理を内にある神的善と一つになるよう結ばれ、その時以来、神的真理は主から発していたので、「父がわたしを遣わされたように、わたしもあなたがたを遣わします。」とおしゃいます。呼吸の息が霊的生命を意味するのは相応から来ているためです(天界の秘義3883-3896参照)。霊界のすべての性質が、その単なる呼吸から来ていることは知られています。天界の呼吸の生命の内にいる者は、天使の間にいます。しかしその呼吸の内にいない者は、もし天界に来るなら、そこで息をすることが出来ず、窒息したように苦痛にあえぎます(天界の秘義1119, 3887, 3889, 3892, 3893参照)。この語の相応から、「インスピレーション・霊感」という語は来ており、預言者は「霊感を与えられる」そして御言葉は、「神的霊感を与えられたもの」と言われます。

パームサンデー

パームサンデー

なつめ椰子の枝を持って迎えに出て行き、こう叫んだ。「ホサナ。祝福あれ、主の御名によって来られる方に。イスラエルの王に。」(ヨハネ 12:13)

本日はパームサンデー、主のエルサレム入城の日です。これは主の復活の日、イースターのちょうど一週間前の日に設定されています。この週は過越の祭りの期間でもあり、当時は多くの人がエルサレムを訪れていました。
主がロバに乗って、エルサレムの門をくぐられ、多くの人が棕櫚の葉の枝を持って、大声で「ホサナ」と叫びます。まさに王の入城の光景です。

ホサナという語は、元はヘブル語で、「お救いください」を意味します。詩編118:25 で「ああ【主】よどうか救ってください」とあります。
当時の群衆は、救世主の出現を待ちに待っていました。その救世主が登場し、エルサレムで多くの民に迎えられるシーンは悦ばしく、主の地上の生涯のうちでも晴れがましい光景です。

人々は、主をどんな気持ちで迎えたのでしょうか?
ここにいる人達の多くは、ラザロの死からの蘇りを聞いて集まってきた人達と言われています。(12:17,18)

ラザロは、主に香油を塗り、髪の毛でその足をぬぐったマリアと、その姉妹のマルタの兄弟です(11:2)。
主はラザロを愛され(11:1-3, 5, 36)、主の友人であり(11:11)、主と同じ食卓についていました(12:2)。
しかし、金持ちの門前に「全身おできの貧しい人が寝ていて、金持ちの食卓から落ちる物で腹を満たしたいと思っていた。犬もやって来ては、彼のおできをなめていた。」(ルカ16:20-21)とも表現されています。
実在の人というより、何かが表象されています。ルカ書の表現を、天界の教えから読み解けば、「真理が豊富な教会からわずかな真理を学んではいるものの、信仰の純粋な真理にはおらず、教会の外にいて、善にいる者」(AC 9231:3)のことを言っています。

主を歓迎する人たちを、ラザロの表象から推測すれば、わずかな真理で善い生活を送っており、自らも蘇りたい、再生したいと望んでいる人たちのことが意味されています。彼らは霊的情愛の起源から真理を求めています。(AE 137:2)

しかし、そこには同じようにパリサイ人もいます(12:19)。彼らは、内心では主を否定し、足を引っ張りたいと願っている偽善的な人達です。彼らが主を迎えたとしても、内心は害を与えたいため機会をうかがっているに他なりません。

そして別の集団がいます。ギリシア人達です。「祭りのとき礼拝のために上って来た人々の中に、ギリシア人が幾人かいた。」(12:20)とあります。
彼らは、ユダヤ人ではなく、いわゆる異邦人と呼ばれています。ギリシア人は、ガリラヤ出身のピリポと、そこからアンデレを頼って、主に会いたいと願い出ます。
アンデレは天界の教えによれば、「信仰の従順」を意味します(AE821-3 )。そしてギリシア人たち異邦人は知的に優れています。アンデレが仲介したことから、知的な真理には、従順に従おうとする人達です。
本来はこのエルサレムにはおらず、他の地で生活していた人々、異邦人です。

アンデレがギリシア人達を主の前に連れてくると、驚くべきことが起こりました。
主イエスは彼らに答えて言われ「人の子が栄光を受けるその時が来た。」(12:23)と、切り出されたのです。ギリシア人たちは、ラザロの蘇りについて聞きたいと思っていたのでしょう。彼らにとっては寝耳に水のような話です。

しかし、主はこれからご自身が凄惨な試練に会うことを知って、その預言が始まります。たしかに、エルサレムで、主はパリサイ人やユダヤ教会の指導者の憎悪を受けています。隠れた憎しみと殺人の想いが、彼らから噴き出て、それを浴びせかけられています。直接、浴びせかけられた者にはよくわかる殺意と憎悪です。

この殺意と憎悪の渦巻く中、主は敢えてこの試練を進んで受けられようとされています。
天界の教えにも、「この種を入れないパンの祭り、あるいは過越が定められたのは、まさにこの試練を記念していたためで、この祭りにあって主は再び蘇られます」(AC 10655:3)と教えています。この祭り自体が、主の最後の試練のために定められていたのです。

ご自身も『父よ。この時からわたしをお救いください』と言おうか。いや。このためにこそ、わたしはこの時に至った (12:27) と、これから起こる試練のまさに最中であることを主は明らかにご存じでした。

教義を意味するエルサレムで、ギリシア人で表される異邦人が、内的真理である主を求めてきたことが、この試練の始まりです。主が世に来られた目的は、異邦人達の中に新しい教会を設立し、すべての人を救うことでした。異邦人の中への新しい教会の設立は、異邦人へのご自身の試練と、栄化の「宣言」から始まったことになります。

とすれば、エルサレム入城は、王の歓迎の行事だけではなく、主の試練の始まりであると同時に、私達も試練を経て、同じように再生しなければならないことを告げる教えの始まりです。

しかし異邦人は、奇蹟を起こした主に会いたいという、知的興味に未だ留まっています。彼らには内的真理を説き、知的興味だけではなく、自分から行動することが重要だと明らかにされます。

「自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世でそのいのちを憎む者はそれを保って永遠のいのちに至るのです。わたしに仕えるというのなら、その人はわたしについて来なさい。わたしがいる所に、わたしに仕える者もいるべきです。」(12:25,26)

これはギリシア人達や当時の人達や弟子たちだけではなく、自分の内に教会を持っていない、あるいは、真理を実行しようとせず教会を持っていない異邦人である、私達への言葉です。私達が新しい生命を得るために何をすべきかを教えられています。その言葉の内意は、実に強烈です。天界の教えから学びます。

主は「人が祝福され、幸福になるために、完全服従を望まれ」(AC 6138:2)ます。
完全服従です。完全服従と言われると、「ちょっと私には会わない、無理かな?」と多くの人の腰が退けてしまいます。何十年か前、米のネット論議に参加したことがあり、この「完全服従」という言葉が出てきて、多くのキリスト教徒、それも新教会の方々が拒否反応をしている様子を数多く見ました。当時は、そういう段階の人が多いのだと驚いたものです。

自分のものを捨て、主に従わなければならないと聞くと、現代の全体主義国家や、金と権力だけが目当ての偽宗教を連想します。そのため拒否反応を示したのかもしれません。しかし主は、パリサイ人達のように嘘をつかれない、真実な方です。私達もそれが真実の教えであることを、何年も学び知っています。信仰とは、心の中でそれは真理だと確信し行うことです。心で確信したのに、行わなければ、信仰とはいえません。単なる知識です。主は、異邦人である私達に、信じて行え、覚悟して着いてこい、と強くお奨めになっています。

主はご自身が、天地の神である存在のはずですが、当時の宗教的権威から心身とも徹底的に否定されるという十字架の試練に入ります。天界の教えの表現によれば、天使を含めて、誰一人として主を助けようとする者はいませんでした。逆に反対側にまわります。そして一人で凄惨な試練を闘われます。

主が試練を通られたのと同じように、私達も自己愛である、自分の生命を捨てよと、行動を促されます。
「主の後を追い、主に従う」とは、自分自身を否定することです。自分を否定するとは、自分ではなく主によって導かれることです。そして悪を断ち、それは罪であるから顔を背けることが、自分を否定し、主によって導かれることです。(AE 864:5)

私達も日々の生活の中で、自分は正しく、もっと尊重されるべきだ、と考えることがよくあります。もっと自分が活躍する場があっていいはずだ、自分の栄光は正当な報酬だという思いが心をよぎります。
しかしこれは地獄からの声に他なりません。自分自身には優しい声です。ここで主を見上げ、それは悪と気づき、その悪を罪として顔を背けるなら、地獄の声ではない別の声が聞こえてきます。

「わたしは栄光をすでに現したし、またもう一度栄光を現そう。」(12:28)
主が「父よ。御名の栄光を現してください。」と祈った時に聞こえる天から声です。
私達がここで自分の悪を避けるなら、私達にも天の声が聞こえます。

主はおっしゃいます。
「この声が聞こえたのは、わたしのためではなく、あなたがたのためです。
今、この世に対するさばきが行われ、今、この世を支配する者が追い出されます。わたしが地上から上げられるとき、わたしはすべての人を自分のもとに引き寄せます。」(12:30-32)

私達が、地獄からの声、悪魔のささやきを拒むことができたなら、それがこの世に対する裁きとなります。この世を支配している者は、私達の内から追い出されます。私達には天界の教え、新教会の教えがあるはずです。そしてそれは、内的真理の教えです。これが私達の内にあって堅く根付いている限り、私達にも内的な天の声、良心の声が聞こえてきます。

内的真理が私達の内にあり、その声が聞こえている内に、主の純粋な真理を行わなければなりません。
「あなたがたは光があるうちに歩きなさい。闇の中を歩く者は、自分がどこに行くのか分かりません。自分に光があるうちに、光の子どもとなれるように、光を信じなさい。」(12:35,36)
光があるうちに歩けとは、真理に従って生きてゆけということです。真理を行えということです。学んだ真理を行わなければ、光の子にはなれません。

しかし、光の子になれなければ、主は姿を隠されてしまいます。
「これらのことを話すと、立ち去って彼らから身を隠された。イエスがこれほど多くのしるしを彼らの目の前で行われたのに、彼らはイエスを信じなかった。」(12:37)

私達から神的真理は消えてしまいます。私達がこれほど多くの神的真理を学んでいても、行わなければ、主は立ち去り、身を隠されてしまいます。
それは私達が、「神からの栄誉よりも、人からの栄誉を愛する」(12:43)ためです。

実に的確なご指摘です。心静かに自分を反省して点検すると、「神からの栄誉」を気に掛けず、いつも「人からの栄誉」を愛して生きていることに気づきます。

しかし主は、私達への慈しみから、再び姿を現され、叫ばれます。
イエスは大きな声でこう言われた。「わたしを信じる者は、わたしではなく、わたしを遣わされた方を信じるのです。」(12:44)

主は「世をさばくためではなく、世を救うため」(12:47)に世にお越しになりました。
しかし、主が天地の神ご自身であることを学びながら、その主の命令を聞かなければ、主の御言葉自体が私達を裁きます。主の命令を神の命令と知りながら拒んだことを裁きます。(12:48)

私達は、この輝かしい日、パームサンデー、が私達自身の裁きの日の始めとならないようにしなければなりません。主は天地の神であり、すべての生命は主からきており、主のみがすべてを支配されています。私達はこれを心に確信し、その御言葉を行います。悪を主に対する罪として拒みます。これが真の主のエルサレム入城です。私達のエルサレムの中で、主は真の王となられます。

「ホサナ(お救いください)。祝福あれ、主の御名によって来られる方に。イスラエルの王に。」(ヨハネ 12:13)アーメン。

【新改訳2017】
出エジプト記
34:18 あなたは種なしパンの祭りを守らなければならない。アビブの月の定められた時に七日間、わたしが命じた種なしパンを食べる。あなたはアビブの月にエジプトを出たからである。
詩編
118:14 【主】は私の力またほめ歌。主は私の救いとなられた。
118:15 喜びと救いの声は正しい者の幕屋の内にある。【主】の右の手は力ある働きをする。
118:16 【主】の右の手は高く上げられ【主】の右の手は力ある働きをする。
118:17 私は死ぬことなくかえって生きて【主】のみわざを語り告げよう。
118:18 【主】は私を厳しく懲らしめられた。しかし私を死に渡されはしなかった。
118:19 義の門よ私のために開け。私はそこから入り【主】に感謝しよう。
118:20 これこそ【主】の門。正しい者たちはここから入る。
118:21 私はあなたに感謝します。あなたが私に答え私の救いとなられたからです。
118:22 家を建てる者たちが捨てた石それが要の石となった。
118:23 これは【主】がなさったこと。私たちの目には不思議なことだ。
118:24 これは【主】が設けられた日。この日を楽しみ喜ぼう。
118:25 ああ【主】よどうか救ってください。ああ【主】よどうか栄えさせてください。
118:26 祝福あれ【主】の御名によって来られる方に。私たちは【主】の家からあなたがたを祝福する。
118:27 【主】こそ神。主は私たちに光を与えられた。枝をもって祭りの行列を組め。祭壇の角のところまで。
118:28 あなたは私の神。私はあなたに感謝します。あなたは私の神。私はあなたをあがめます。
118:29 【主】に感謝せよ。主はまことにいつくしみ深い。その恵みはとこしえまで。

ヨハネ福音書
12:12 その翌日、祭りに来ていた大勢の群衆は、イエスがエルサレムに来られると聞いて、
12:13 なつめ椰子の枝を持って迎えに出て行き、こう叫んだ。「ホサナ。祝福あれ、主の御名によって来られる方に。イスラエルの王に。」
12:14 イエスはろばの子を見つけて、それに乗られた。次のように書かれているとおりである。
12:15 「恐れるな、娘シオン。見よ、あなたの王が来られる。ろばの子に乗って。」
12:16 これらのことは、初め弟子たちには分からなかった。しかし、イエスが栄光を受けられた後、これがイエスについて書かれていたことで、それを人々がイエスに行ったのだと、彼らは思い起こした。
12:17 さて、イエスがラザロを墓から呼び出して、死人の中からよみがえらせたときにイエスと一緒にいた群衆は、そのことを証しし続けていた。
12:18 群衆がイエスを出迎えたのは、イエスがこのしるしを行われたことを聞いたからであった。
12:19 それで、パリサイ人たちは互いに言った。「見てみなさい。何一つうまくいっていない。見なさい。世はこぞってあの人の後について行ってしまった。」
12:20 さて、祭りで礼拝のために上って来た人々の中に、ギリシア人が何人かいた。
12:21 この人たちは、ガリラヤのベツサイダ出身のピリポのところに来て、「お願いします。イエスにお目にかかりたいのです」と頼んだ。
12:22 ピリポは行ってアンデレに話し、アンデレとピリポは行って、イエスに話した。
12:23 すると、イエスは彼らに答えられた。「人の子が栄光を受ける時が来ました。
12:24 まことに、まことに、あなたがたに言います。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままです。しかし、死ぬなら、豊かな実を結びます。
12:25 自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世で自分のいのちを憎む者は、それを保って永遠のいのちに至ります。
12:26 わたしに仕えるというのなら、その人はわたしについて来なさい。わたしがいるところに、わたしに仕える者もいることになります。わたしに仕えるなら、父はその人を重んじてくださいます。」
12:27 「今わたしの心は騒いでいる。何と言おうか。『父よ、この時からわたしをお救いください』と言おうか。いや、このためにこそ、わたしはこの時に至ったのだ。
12:28 父よ、御名の栄光を現してください。」すると、天から声が聞こえた。「わたしはすでに栄光を現した。わたしは再び栄光を現そう。」
・・・
12:43 彼らは、神からの栄誉よりも、人からの栄誉を愛したのである。
12:44 イエスは大きな声でこう言われた。「わたしを信じる者は、わたしではなく、わたしを遣わされた方を信じるのです。
12:45 また、わたしを見る者は、わたしを遣わされた方を見るのです。
12:46 わたしは光として世に来ました。わたしを信じる者が、だれも闇の中にとどまることのないようにするためです。
12:47 だれか、わたしのことばを聞いてそれを守らない者がいても、わたしはその人をさばきません。わたしが来たのは世をさばくためではなく、世を救うためだからです。
12:48 わたしを拒み、わたしのことばを受け入れない者には、その人をさばくものがあります。わたしが話したことば、それが、終わりの日にその人をさばきます。
12:49 わたしは自分から話したのではなく、わたしを遣わされた父ご自身が、言うべきこと、話すべきことを、わたしにお命じになったのだからです。
12:50 わたしは、父の命令が永遠のいのちであることを知っています。ですから、わたしが話していることは、父がわたしに言われたとおりを、そのまま話しているのです。」

黙示録解説864
[5]福音書に、
「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、そしてわたしについて来なさい。」
(マタイ 16:24; マルコ8:34; ルカ 9:23)とあります。

「主の後をついてゆき、主に従う」とは結局、自分自身を否定することです;そして自分自身を否定するとは、自分ではなく主によって導かれることです;そして自分を否定するとは、悪を断ち、悪を罪として顔を背けることで、悪から顔を背けたとき、主から導かれることになります。なぜならそのとき彼は主の命令を、自分からではなく、主から行うからです。「主に従う」とは他でも同じ意味を持ちます。
(マタイ19:21, 28; マルコ 2:14, 15; 3:7, 8; 10:21, 28, 29; ルカ 18:22, 28; ヨハネ 12:26; 13:36, 37; 21:19-22).

黙示録解説137
[2]「アンテパス、私の忠実な証人」は主の神的人間を認めた嫌われた人達のことが意味され、当時アンテパスはそういう理由で虐殺されたためです。そのため「アンテパス」は、そういう理由で嫌われることが意味されます。
「ラザロ」は金持ちの門にいて、その食卓からのパンくずで養われたいと願ったように、彼らが霊的情愛から真理を求めたために主が愛された者達のことを意味します。主が「ラザロ」という名の者を愛されたのは、主が彼を死から蘇らせた(ヨハネ11:3, 5, 36)、主と食卓に共に着いたこと(〃12章)そして金持ちの食卓から落ちるパンくずによって養われたいと願う者、これによって霊的情愛から真理を求める者が、主によって「ラザロ」と呼ばれました。
ラザロがそういう理由で名付けられたため、「アンテパス」も主の神的人間を認めたため、主の御名の殉教者とされます。

そのぶどうの木には三本のつるがあった。それは、芽を出すと、すぐ花が咲き、房が熟してぶどうの実になった。(40:10)

世は桜が満開で咲き誇り、コロナで閉ざされた人の心を開き始めています。マスコミが桜の開花前線や、開花情報を告げる度に、人は今年も桜の時期がやってきたと、安堵し、雨風によって桜が散らされないか心配します。そして桜の開花とともに、万物が活動を始め、長く暗い冬の終わりと、明るく暖かい春の初めを告げてくれます。

「今年もまた桜が咲いてくれた」、とこの時期になると毎年歓び、ともに学校や会社の新年度の始まりを迎え、自然の恵みに感謝します。これが典型的な日本人の春の迎え方です。
しかし、天界の教えは、それは違うといいます。これは自然の力にすべてを帰す者の考え方だとします。ここで、それは神の御業であると、口を挟めば、お説教が始まった、気が利かない奴と評価されます。しかし、同時に、死んだ後、自分はどうなるのだろうか、天国と地獄があるなら、自分はどちらに行くのだろうかと矛盾に満ちた悩みを口にします。矛盾に満ちているのが人間だと、悟った言い方をする人もいますが、問題はそこにはありません。すべての事象を神に帰するか、あるいは自然の力に帰し、あるいは周りの人に同調してしまうかです。神を大切にしているか、世あるいは自然を大切にしているかの問題に帰着します。

神様の立場から考えれば、あらゆる人間に、見る、聞く、嗅ぐ、味わう、触るという五感を与え、全宇宙に五感の対象も無限に与え、そしてその全てが、神が居て、私達を愛していると教えているのに、何故わかろうとしないのだろうか?さらに、神ご自身がこの宇宙のはるか片隅の地球に人間として生まれ、人それぞれに、今、現在も豊かな流入を与え続けているのに、なぜそれに気づかず、拒んでしまうのだろうか?とおっしゃっているかもしれません。
そして、人は、自分は神を信じて真面目にやっているはずなのに、自分には何も与えられず不幸なんだろうかと嘆き続けます。

神様がいくら種を蒔いても、花を咲かせず、実を結ばず、荊棘(けいきょく)しか育たないなら、なんと虚しいことでしょうか。しかし、それでも主は諦めることなく、無限の慈しみを与え続けておられます。私達は、その慈しみに気づき、本来の人間の成長に戻らねばなりません。

神様が絶えず流入を与え続けていること、そしてそれを拒んでいるのは私達自身であることに気づきます。これが現状認識のための第一歩です。これを知らなければ、私達は不満を言い続けるしかありません。そしてこの現状認識を進めるための道具が、「相応」と「度」という概念です。聖書の神の御言葉は、すべてこの相応という道具によって書かれているため、この相応を知らなければ、聖書が全く理解できません。神の御言葉は、天使にも、そして同時に私達にも書かれています。

人間と天使は、「度」が違います。そして天使の間にも三つの「度」の違いがあります。「度」とは私達の尺度では、高さの次元のイメージです。神様はすべて平等に与えられますが、私達が受け取るのは、私達の理解の程度に応じます。

高い度と低い度があります。神様は高い度・次元にいらっしゃいます。神様と私達の「度」の差は、無限大です。天使の理解でさえ、はるかに超える、高い度におられます。一番低い度・次元にいる天使でさえ、私達とは、かなりの差があります。なぜなら、天使の世界には、時間と空間がないから、時間と空間の束縛を離れているからです。

私達はこの時間と空間から、多くの概念を得ていますが、天使達はこの時間と空間の概念がない世界で自由に生きているため、なかなか話が通じません。しかしこの次元の高さの差を超えて、結びつけている仕組みが、「相応」です。私達の言葉から、時間と空間を除くと、一番低い天使達の言葉に近くなります。ただし、相応は主からの啓示によらず、私達が勝手に解釈すると、魔法と言われる、偽りと悪の源になってしまいます。

本日の創世記第40章の話に帰ります。ヨセフはエジプト王の侍従長に仕えますが、侍従長の妻に濡れ衣を着せられてしまい、侍従長の監獄に入れられます。するとエジプト王の二人の臣がエジプト王に罪を犯したとして、同じ牢獄につながれます。二人の臣下とは、王に酒をつぐ献酌官長と、王の料理を作る料理官長です。これらの話は実際に起こったことですが、同時に全く違う意味を持っています。その深い意味は、さきほど離した相応の啓示によって解釈してゆきます。なぜこんな面倒なことをするのか?と思う方もいらっしゃるでしょうが、遥かに遠い次元におられる神様と、天界の天使達すべてに語るための表現は、相応しかないのです。

その相応を与えられた啓示によって解釈すれば、王に罪を犯すとは、王の作った秩序に違反したことを意味します(AC5076)。エジプト王とは、自然的な世界を支配する秩序です。

献酌官と料理官は、自然的なものに仕える感覚的部分が意味されます。二人とも王の臣下で、飲み物と食べ物に関係しているからです。人間の能力は、知的なものと、意志的なものの二つにわかれます。人間の感覚にも、知的なものと、意志的なものがあり、知的なものが献酌官として表され、意志的なものが料理官長として表されています。

献酌官は、ぶどう酒を王に注ぐ官職であり、ぶどう酒は王に仕える感覚的部分の内、飲み物に関係し、飲み物は栄養を血液として身体中に行き渡らせので、知的なものとされています。料理官は王の食事を作り、栄養を直接与えるので、意志的なものとされます(AC5094)。

献酌官と料理官の働きは、食事と飲み物の養分を自然的なものに伝える重要なもので、彼らがその職を果たさなければ、自然的な感覚は正常に働きません。自然的な感覚が正常であれば、その上の合理的なもの、さらに上の霊的なもの、そして天的なものと、より高いものに仕えることが出来ます。
献酌官と料理官が罪を犯したとは、感覚的なもののせいで、迷いや偽りが混じり込んだため。より高いものに仕えることができなくなったことが意味されます。そして獄につながれるとは、偽りにとらわれることです。どんな迷いと偽りが混じり込むのでしょうか?

天界の教えという啓示には、感覚的な偽りの例が上げられています。
太陽と星が地球を回っているように見える前時代の天動説のたとえ。次には、物質は単一な原子から出来ているというやや近代的な錯覚です。現代の科学は、原子は陽子と中性子から構成され、さらにより複雑な素粒子からできていると発見され、単一な原子などではないことがわかっています。

さらに大きな錯覚と偽りが次々と啓示されています。
肉体だけが生きていて、霊の存在を認めない考え方や、人間と動物は同じような存在であるという考え方。生命はそれぞれが持っているもので、肉体の生命が終われば、全ては終わる。結婚は単なる地上の便宜的な制度にしかすぎないという考え方。善はその人の功績である。人は信仰だけで救われる等(AC5084)、数限りなくあります。そしてその錯覚や偽りは私達の生活に、大きな問題をもたらしています。これら偽りに囚われている限り、私達は大きな牢獄にいます。

この偽りに囚われているのは、私達を偽りのうちにと留めて置きたいという地獄の勢力の影響と、私達があえてそれを知ろうとしない、という理由があります。すべてを自然の力にして、神の力と考えさせない、私達の姿勢と、それを利用しようとする勢力がいます。
私達に絶えずある主からの光である知性と知恵の流入が、これらの勢力によって阻まれるため起こります(AC5092)。これだけ豊かな証拠があるのに、私達は目を背けています。

現代でも解決できていない大きな偽りに囚われず、私達が再生できる可能性があるのかどうかが、ヨセフの夢の解釈によって、主が予見されています。ヨセフの夢の解釈という予見によれば、献酌官は、元の職に戻されることはできるが、料理官は木につるされるという結果です。この結果だけを、勘弁な書にして提供しようとする方もいらっしゃいますが、それはごく一時的な効果しか生まず。私達の囚われ自体はさらに続きます。私達は、合理的な人間とならなければなりません。相応の喩えでいえば、ヨセフを牢獄から解放しなければなりません。

主は、ヨセフの見た夢の解釈を通して、私達が再生される条件を提示されています。
まず、献酌官である私達の感覚的なもののうち知性的なものが、再生されるには、知性によって自分の感覚的な偽りを従わさなければなりません。無理やり偽りを信じ込んでしまうこと、さらに欺瞞と冒瀆は、合理性との交流を妨げます(AC5128)。自分で自分の心を欺き、自分を無理に正当化するのが自己欺瞞です。そして偽りと真理と、悪を善と混同するのが冒瀆です。素直な心を持っていたとしても、この欺瞞と冒瀆によって、自分の心と理解をねじ曲げてしまいます。合理性と交流できなくなると、感覚的にとどまり、この感覚的なものの支配があるうちは、知性によって自分を従わすことができません。

しかし、合理性と交流することで、自分の感覚を従わせることができるなら、私達は感覚的な人間ではなく、合理的に正しい考え方ができるようになります。上の偽りの例でいえば、肉体だけが自分ではなく、霊として永遠に生きる自分がいる、そして結婚は神聖であり、肉欲や自分勝手な考えでそれを汚してはならない、善は自分のものではく、主の御業を私達が行う事であり、善は行っても、そこ功績はすべて主のものである。そして人は信仰だけではなく、正しい行いによって救われる。感覚的な偽りによって囚われなければ、私達は主に結びつくことができます。私達は安易な回答だけをカンニングしてのぞき見するのではなく、地道に合理的能力を養わなければなりません。主の門である、合理的能力の育成を行わず、門を通り越してやってくる盗人(ヨハネ10:1-2,8-10)になってはなりません。

主はぶどうの木、わたしたちは枝です。人が主にとどまり、主がその人にとどまっているなら、その人は多くの実を結びます。主を離れては、私達は何もすることができません。(ヨハネ15:5改)
主との結びつきを絶やさないことが、合理性獲得のための大きな要件です。

一方、料理官は、感覚的なもののうち意志的なものを意味しています。料理官の見た夢は、頭の上に三つの籠があり、鳥がやってきて籠の穴から食べ物をすべて食べてしまいます。三つの籠は、私達の心の中にあるより高い度の意志部分を意味します。食べ物は、主から流入してくる善です。三つの度のどこかで主から流入する善を受け止め、自分のものとすることができれば、主の善を私達のものとすることができます。鳥は悪からくる偽りです。悪から偽りが、主からやってくる善を、すべて食べて無くしてしまえば、私達に残される善は一つもありません。主からの善がなくなれば、再生されるのは不可能です。悪からくる偽りとは、憎しみや復讐、報復や嫉妬、さらには自己愛や世間愛の楽しさであり、主から流入してくる善を消耗させ、消滅させてしまいます。

主は私達の再生に向かう姿を予見され、意志的なものが、感覚的なものに生きていると、再生は不可能と予見されました。
しかし、もし、私達が感覚的なものを知的に克服して、合理性のもとに従わせることができるならば、
私達の内にある「度」は、正しく上の次元の「度」に相応することが可能になります。
正しい相応があれば、主からの流入を無垢の心で、受け入れることができます。

そうすれば、私達はファラオの誕生日の祝宴に呼び戻され、献酌の職務を全うすることができることになります。ファラオの誕生日の祝宴とは、私達の再生のことです。

そうして献酌官長をその献酌の役に戻したので、彼はその杯をファラオの手に献げた。(40:21)
アーメン

創世記
40:1 これらのことの後、エジプト王の献酌官と料理官が、その主君、エジプト王に対して過ちを犯した。
40:2 ファラオは、この献酌官長と料理官長の二人の廷臣に対して怒り、
40:3 彼らを侍従長の家に拘留した。それは、ヨセフが監禁されているのと同じ監獄であった。
40:4 侍従長がヨセフを彼らの付き人にしたので、ヨセフは彼らの世話をした。彼らは、しばらく拘留されていた。
40:5 さて、監獄に監禁されていた、エジプト王の献酌官と料理官は、二人とも同じ夜にそれぞれ夢を見た。その夢にはそれぞれ意味があった。
40:6 朝、ヨセフが彼らのところに来て、見ると、彼らは顔色がすぐれなかった。
40:7 それで彼は、自分の主人の家に一緒に拘留されている、このファラオの廷臣たちに「なぜ、今日、お二人は顔色がさえないのですか」と尋ねた。
40:8 二人は答えた。「私たちは夢を見たが、それを解き明かす人がいない。」ヨセフは言った。「解き明かしは、神のなさることではありませんか。さあ、私に話してください。」
40:9 献酌官長はヨセフに自分の夢を話した。「夢の中で、私の前に一本のぶどうの木があった。
40:10 そのぶどうの木には三本のつるがあった。それは、芽を出すと、すぐ花が咲き、房が熟してぶどうの実になった。
40:11 私の手にはファラオの杯があったので、私はそのぶどうを摘んで、ファラオの杯の中に搾って入れ、その杯をファラオの手に献げた。」

・・・・
40:16 料理官長は、解き明かしが良かったのを見て、ヨセフに言った。「私の夢の中では、頭の上に枝編みのかごが三つあった。
40:17 一番上のかごには、ファラオのために、ある料理官が作ったあらゆる食べ物が入っていたが、鳥が私の頭の上のかごの中から、それを食べてしまった。」
40:18 ヨセフは答えた。「その解き明かしはこうです。三つのかごとは三日のことです。
40:19 三日のうちに、ファラオはあなたを呼び出し、あなたを木につるし、鳥があなたの肉をついばむでしょう。」
40:20 三日目はファラオの誕生日であった。それで彼は、すべての家臣たちのために祝宴を催し、献酌官長と料理官長を家臣たちの中に呼び戻した。
40:21 そうして献酌官長をその献酌の役に戻したので、彼はその杯をファラオの手に献げた。
40:22 しかし、料理官長のほうは木につるした。ヨセフが彼らに解き明かしたとおりであった。
40:23 ところが、献酌官長はヨセフのことを思い出さないで、忘れてしまった。

ヨハネ福音書
15:1 わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫です。
15:2 わたしの枝で実を結ばないものはすべて、父がそれを取り除き、実を結ぶものはすべて、もっと多く実を結ぶように、刈り込みをなさいます。
15:3 あなたがたは、わたしがあなたがたに話したことばによって、すでにきよいのです。
15:4 わたしにとどまりなさい。わたしもあなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木にとどまっていなければ、自分では実を結ぶことができないのと同じように、あなたがたもわたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。
15:5 わたしはぶどうの木、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人にとどまっているなら、その人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないのです。

10:1 「まことに、まことに、あなたがたに言います。羊たちの囲いに、門から入らず、ほかのところを乗り越えて来る者は、盗人であり強盗です。
10:2 しかし、門から入るのは羊たちの牧者です。
10:8 わたしの前に来た者たちはみな、盗人であり強盗です。羊たちは彼らの言うことを聞きませんでした。
10:9 わたしは門です。だれでも、わたしを通って入るなら救われます。また出たり入ったりして、牧草を見つけます。
10:10 盗人が来るのは、盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするためにほかなりません。わたしが来たのは、羊たちがいのちを得るため、それも豊かに得るためです。

天界の秘義5116. アルカナ訳
「花が咲き」とは、再生に近い状態を指します。「花」は、実りを前にして樹木から咲き出るもので、再生前の状態を意味します。樹木が生長し実を結ぶようになることは、5115節ですでに触れたように、人の再生を表象的にあらわします。第一には、葉が茂る状態であり、第二には、花が咲く状態、すなわち再生間近の状態であり、第三には、再生の状態自身である実を結ぶ状態です。
したがって、「葉」は、理知にかんすること、すなわち信仰の諸真理を指します(885節)。これは生まれ変わり、すなわち再生の当初です。「花」は、英知にかんすること、すなわち信仰の善を意味します。これは生まれ変わり、すなわち再生直前の状態です。「実り」は、〈いのち〉にかんすること、すなわち仁愛の行いを指し、それに続いて再生した状態そのものを構成します。

② 以上は霊界からの流入で、植物界に実在します。ところが万事を神のおかげにしないで、自然のおかげにする人は、これを信じるなど全く不可能です。それにたいし、万事を神のおかげとし、自然のおかげにはしない人は、個々のものが神に由来することを見通すことができます。神由来を認めるだけでなく、個々のものが相応し、相応しているからこそ、表象的にあらわしていることを見通すことができます。
さらにはやがて、全自然宇宙が神のみ国の表象的舞台(ステージ)であることを知ります。その結果、個々の中に神が存在すること、しかも永遠と無限を表象していること、永劫(えいごう)にまで繁殖する点では永遠であり、タネが無限に増殖する点では無限であることを表象します。このような推進力 conatus は、神性のたえざる流入がなかったら、植物界の個々のものに内在するはずはありません。流入が起源になって推進力があり、推進力が起源で活力があり、活力が起源で結果が生まれます。