「さあ、私はおまえにエジプト全土を支配させよう。」(創41:41)
ヤコブの息子ヨセフは、兄弟達に売られ、エジプトの侍従長に買われます。そこで働きを認められ、主人の妻に濡れ衣を着せられ獄につながれてしまいます。その後ファラオの献酌官長と、料理官長の二人がヨセフと同じ獄につながれます。二人は不思議な夢を見て、ヨセフに相談し、ヨセフは二人の夢を解き明かします。その後二人は獄から解放されます。ヨセフの夢明かしが当たり、献酌官長は元の職務に戻りますが、調理官長は吊されてしまいます。
ファラオは自然界を支配するエジプトの王です。ファラオの献酌官長と、料理官長によって自然的なものに仕える二種類の感覚的部分が意味されます。感覚的部分うち献酌官長で表現される知的な部分と、吊された料理官長で表現されている意志的部分です。知的な部分は、再生に当たって生かされることが可能ですが、意志的部分については再生不可能だというのが、主が予見されたことでした。
しかし人間は、意志と知性の両方によって一人の人間です。その一方だけが生き返っても、生命とはいえません。私達が密かに期待を寄せる主人公のヨセフは、獄につながれたままです。ヨセフが何らかの働きをしなければ、人間は再生できません。新しい生命を受けることができません。このままでは人間・人類は滅びてしまいます。主は再生の最初の段階の自己改革といわれる部分の備えをなさいます。すなわち、再生が始まるにつれ、善と真理が不足することを予見され、再生が進歩しても不足が起こらないよう、人間には知られず、密かにその備えをなさいます。
「それから二年後、ファラオは夢を見た。見ると、彼はナイル川のほとりに立っていた。」(創 41:1)
ファラオが見た夢は、不可解で不吉でした。ナイル川から、7頭の肉づきの良い雌牛が上がってくると、続けて上がってきた痩せた醜い雌牛に食べられてしまいます。
それだけではありません、ファラオは次の夢をみます。七つの穂が実ると、その後、東風に吹かれて焼けしなびた七つの穂に食べられてしまいます。
朝になって、ファラオは心が騒ぎ、人を遣わして、エジプトのすべての呪法師とすべての知恵のある者たちを呼び寄せた。ファラオは彼らに夢のことを話したが、解き明かすことのできる者はいなかった。(41:8)
そこで、献酌官長は、獄の中で夢を解き明かしてくれたヨセフのことを思いだし、獄につながれているヨセフを呼び出すようファラオに進言します。
監獄から呼び出されたヨセフは、ファラオの見た夢を解き明かします。エジプトの豊作と飢饉を預言し、続いてその対策、豊作時の備蓄をも進言してエジプトを救おうとします。
ヨセフの見事な解き明かしと対策に感動したファラオは、こう言います。
「おまえのように、さとくて知恵のある者は、ほかにはいない。おまえが私の家を治めるがよい。私の民はみな、おまえの命令に従うであろう。私がまさっているのは王位だけだ。」(41:39-40)
「さあ、私はおまえにエジプト全土を支配させよう。」(41:41)
ファラオはヨセフに、自分の指輪、亜麻布の衣服、金の首飾を与え、自分の第二の車に乗せます。
そして、「ヨセフにツァフェナテ・パネアハという名を与え」さらに祭司の娘を妻として与え、「ヨセフはエジプトの地を監督するようにな」ります。このとき「ヨセフは三十歳であった。」といいます。
ヨセフは奴隷から、囚人となりますが、いまやエジプト全土を実質的に治める支配者に出世します。
奴隷・囚人から第二の支配者への出世、一夜にして驚くべき出世です。緊急時に予想したとはいえ、世界の歴史で一夜にしてこのような出世をした例は聞いたことがありません。主は人間の再生が停止してしまうことを予見され、ご自身が私達それぞれに働きかける備えをなさいます。
ヨセフは、この世におられた時の主イエス・キリストを表します。
エジプトの王ファラオに仕えるようになったとき、ヨセフは三十歳であった。(41:46)
ルカ書には、「イエスは、働きを始められたとき、およそ三十歳で、ヨセフの子と考えられていた。」(ルカ 3:23)とあります。
これは単なる偶然ではありません。「三十」には主が人に蓄積される善と真理が満ちていっぱいになる、という意味があります(AC5335)。この「三十」が、主が用意されたこと、すなわち本人が知らない間の「善と真理の蓄積」でした。
ヨセフは、ツァフェナテ・パネアハZaphenath Paneah(41:45)という名を与えられます。このヘブライ語の意味は、「隠された物事の啓示者、起こる事の開示者」(AC5331)です。ファラオにとっての啓示者であるとともに、当時、神の御心を知るひとり子としてこの世に来られた主イエスのことを表しています(同上)。主はこの世に居られた時、御言葉の内意を次々と正しく明かして、私達に神の真の心を説かれました。
ファラオはヨセフを「神の霊が宿っているこのような人が、ほかに見つかるだろうか。」(創41:38)と驚きます。ヨセフへの抜群の評価によって、自然的なものであるエジプト王ファラオが全面的に服従して、エジプト全土を救うことになります。まさに救世主です。ファラオ自体も以前のような状態ではなくなっています。ファラオが以前のままでは、このような気づきは不可能でした。ファラオにも新しい状態が始まっています。
ヨセフの霊的な意味は、「合理的なものから出る、霊的なものの天的なもの」です。言葉にすると抽象的な形容が重なり、わかりにくくなりますが、これを仮に、分解して並べると少しわかりやすくなります。
まず「天的なもの」が中心の第一に来ます。天的なものはアブラハムがそうであったように、神性そのものです。しかし、神的なものは無限であるため、人間には理解できません。これを私達に伝えるため次の工夫が必要です。
これを囲むように第二に来るのが「霊的なもの」です。神的なものから出ている霊的な価値が、この中にあります。しかし私達は自然的な存在であるため、霊的な価値を理解できません。霊的なものを知るためには、合理性と直接の刺激が必要です。それがイサクで表される主の合理性と、自然界へいる私達への流入です。
「すべてに勝って神を愛しなさい」それと同じように「自分と同じくらいに隣人を愛しなさい」と霊的に教えられても、「神」「隣人」「愛する」をそれぞれ定義して、重ねてゆくとぼんやりとわかってくる程度です。しかし、曖昧にしかわかりません。
「神」を何にも勝って愛せと言われています。しかし、人は自分の一番、愛する者を神と呼びます。「神」が何かわからなければ、神を愛せと言われても、自分が愛するものを愛するだけで、人は再生するどころかどんどん自己愛の世界に埋没してしまいます。
「隣人」を愛すると称して、隣にいる人を皆、愛そうとします。たとえ隣にいる者が犯罪者や侵略者であっても、気にしません。その人が自分は犯罪者や侵略者でないと言えば、分別なしに愛し、そして時に自分の都合に合わせて愛します。侵略者や犯罪者は、自分こそが正しいと偽りを振りまき、私達も情報に踊らされて、何が隣人か、何が正しいかわからなくなります。
主がこの世にお越しになったときは、正しいことが曲げられ、神的なものがわからなくなった状態で、神と人間が交流不可能な状態であったと言われています。しかし表現を変えて、現代の今の状態を考察すると、あまり進歩がないように見えます。相変わらず平和や解放という偽りの仮面をかぶって、殺人や略奪、姦淫を繰り返しています。会社や家庭でも、自分達の利益や存在継続という偽りのもと、パワハラ・セクハラ・弱い者いじめ・見切りが続いています。何が正しいことで、善い事かわからなくなっています。
昔学んで、豊かになったはずの善と真理が、悪霊が吹き込む偽りのせいで役立たない状態になっています。乱れた理解を正すためには、悪を避ける人間の努力と、主からの流入の両方が必要です。
まずは、悪は何かを知り、これを徹底的に断つことが必要です。十戒や聖書で命じられた悪を断たなければ、善と真理が追放されたようになっています。私達の内に深くしまわれ、忘れている御言葉の真理を思いだして行います。すると主が内的道を通って、乱れた秩序を回復されます。幼時に蓄えられた真理も、思春期になって、世の偽りや遺伝悪の刺激によって秩序が乱されますが、この秩序を主とともに回復します(AC5280)。
思春期以降、老年から人生の最後に至り、そして死後も永遠に至るまで、この秩序の回復を重ね、一つ一つの真理を善と結び合わせてゆきます。知識にすぎない真理を、行い、そして実現させ、歓びが生まれて善となるまで結びつけてゆきます。そこには偽りがあると主からの流入が阻害されます。偽りと悪は自分の利得や名誉などは偽りと結びついて善と真理の結婚の邪魔をするだけです。純粋に真理を歓び。善を行う態度が必要です。
地上に居られた時の主は、「合理的なものから出る、霊的なものの天的なもの」としか表現できません。なぜなら、主は常に「父」に祈り、その御心を行おうとされました。しかし、その「父」は主の「魂」でした。そして主は常に隠された霊的意味を開示され、捧げ物や犠牲などが、物ではなく、「思いやり」や愛での霊的価値であることを明かされました。しかも、喩えによって大筋から離れないよう霊的に支えられます。さらに本人の状態が進めば「天界の教え」という再臨によって、合理的な教えをより鮮明になさいます。天界の教えの表現にあるとおり「合理的なものから出る、霊的なものの天的なもの」以外の「表現は用いることができません」。
天界の教えは、私達に再生の道を教えます。悪を拒み、善を行い、神を信じよと。
この三つだけでも真心こめて真剣に行えば、私達は再生の道を歩めるはずです。しかし行ってなければそうではありません。常に何かの偏りを思い込み、全体のバランスが崩れ、調和がとれなくなっています。その偏りはそれぞれが都合のいい部分に起こり、最後には全体が崩壊してしまいます。偏りを起こすのはいつも自己愛と世間愛です。この調和の回復には、私達と主の力の両方が必要です。私達が働かなければ、自己愛と世間愛が働き、主からの流入は起こりません。私達が自己愛と世間愛に気づき、これを除く努力を行うと、主は流入によって助けてくださいます。
ヨセフはファラオの命によって、エジプト全土を支配します。このエジプト全土とは、知識とそれによって生きる自然的な本人の両方を意味します(AC5316)。外的な真理である知識と内的な真理です。
そして「知識は、知性によって受け入れられ見いだされるまでは、真理として人の内に安んじることができません。それは人が固く抱きしめないからです。人がそれに従って生きない限り、真理はその人に安んじません。なぜなら人の生命のものとならない限り、何もその人のものとはならないからです。そのためこれらの真理が人の生命を形作り、人の真の自分は、その真理によって覆われます。」(AC5276)
私達は、ヨセフがエジプト全土を支配したように、善に結ばれた真理を、一つ一つ自分の生命として自分自身を蓄えてゆかねばなりません。私達が真理を善と結び合わせる努力をします。善を真理と結び合わせてゆきます。知識として貯めておくことなど論外です。知識は使わなければ忘れ去られてしまいます。幼い時に純真に学んだ知識も、成長するにつれて忘れ去られてしまえば、知識が多くあっても、必ず「飢餓」がやってきます。この飢餓が進む状態は、私達が成長し善と真理が不足してきた状態なのです。
学んだ知識を行い、自分の中で消化して人に役立て、そこから歓びを得て、初めて自分を構成する真理となってゆきます。役立ちという善と結びつくことで、私達を構成する真理となってゆきます。私達の自然的な分野は、「ヨセフ」によって支配され、調整されなければなりません。主によって蓄えられた真理を呼び起こしてて、調和を取り戻す努力をするなら、栄化されたヨセフである主から流入が豊にあり、天界の形である巨大人の形が、私達の中で整えられてゆきます。ヨセフの支配が私達の再生の始まりの状態です。
ファラオはさらにヨセフに言った。「さあ、私はおまえにエジプト全土を支配させよう。」(創41:41)
アーメン
創世記(新改訳)
41:1 それから二年後、ファラオは夢を見た。見ると、彼はナイル川のほとりに立っていた。
41:2 すると、ナイル川から、つやつやした、肉づきの良い雌牛が七頭、上がって来て、葦の中で草をはんだ。
41:3 するとまた、その後を追って、醜く痩せ細った別の雌牛が七頭、ナイル川から上がって来て、その川岸にいた雌牛のそばに立った。
41:4 そして、醜く痩せ細った雌牛が、つやつやした、よく肥えた七頭の雌牛を食い尽くしてしまった。そのとき、ファラオは目が覚めた。
41:5 彼はまた眠り、再び夢を見た。見ると、一本の茎に、よく実った七つの良い穂が出て来た。
41:6 すると、その後を追って、しなびた、東風に焼けた七つの穂が出て来た。
41:7 そして、しなびた穂が、よく実った七つの穂を吞み込んでしまった。そのとき、ファラオは目が覚めた。それは夢だった。
41:8 朝になって、ファラオは心が騒ぎ、人を遣わして、エジプトのすべての呪法師とすべての知恵のある者たちを呼び寄せた。ファラオは彼らに夢のことを話したが、解き明かすことのできる者はいなかった。
・・
41:25 ヨセフはファラオに言った。「ファラオの夢は一つです。神が、なさろうとしていることをファラオにお告げになったのです。・・・
41:37 このことは、ファラオとすべての家臣たちの心にかなった。
41:38 そこで、ファラオは家臣たちに言った。「神の霊が宿っているこのような人が、ほかに見つかるだろうか。」
41:39 ファラオはヨセフに言った。「神がこれらすべてのことをおまえに知らされたからには、おまえのように、さとくて知恵のある者は、ほかにはいない。
41:40 おまえが私の家を治めるがよい。私の民はみな、おまえの命令に従うであろう。私がまさっているのは王位だけだ。」
41:41 ファラオはさらにヨセフに言った。「さあ、私はおまえにエジプト全土を支配させよう。」
41:42 そこで、ファラオは自分の指輪を指から外してヨセフの指にはめ、亜麻布の衣服を着せ、その首に金の首飾りを掛けた。
41:43 そして、自分の第二の車に彼を乗せた。人々は彼の前で「ひざまずけ」と叫んだ。こうしてファラオは彼にエジプト全土を支配させた。
41:44 ファラオはヨセフに言った。「私はファラオだ。しかし、おまえの許しなくしては、エジプトの国中で、だれも何もすることができない。」
41:45 ファラオはヨセフにツァフェナテ・パネアハという名を与え、オンの祭司ポティ・フェラの娘アセナテを彼の妻として与えた。こうしてヨセフはエジプトの地を監督するようになった。
ヨハネ福音書
3:3 イエスは答えられた。「まことに、まことに、あなたに言います。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」
3:4 ニコデモはイエスに言った。「人は、老いていながら、どうやって生まれることができますか。もう一度、母の胎に入って生まれることなどできるでしょうか。」
3:5 イエスは答えられた。「まことに、まことに、あなたに言います。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国に入ることはできません。
3:6 肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です。
3:7 あなたがたは新しく生まれなければならない、とわたしが言ったことを不思議に思ってはなりません。
3:8 風は思いのままに吹きます。その音を聞いても、それがどこから来てどこへ行くのか分かりません。御霊によって生まれた者もみな、それと同じです。」
天界の秘義5307. 「神の霊が宿っているこのような人が、ほかに見つかるだろうか。」とは、真理の流入を意味し、その真理は、内側からの善を含んでいるため、霊的なものの天的なものを含めることになります。これは「人」の意味が真理であり(3134, 3309, 3459参照)、「神の霊」の意味が、内から善を受ける、すなわち神的なものからを意味することから明らかです。神の霊とは、神的なものから発し、そのため完全な善です。なぜなら神的なものとは完全な善であるからです。ここから発するものは、善を含んだ真理であるため、この真理は、御言葉では「神の霊」を意味します。確かに、霊が出ずに、善を含んだ真理が出て、それは聖なる真理です。この真理は善を含み、「ヨセフ」によって表される、霊的なものの天的なものです。
[2] 教会の中で、「ヨセフ」の霊的意味は主であることはよく知られ、そのため主は天的なヨセフと呼ばれています。しかし主がヨセフによってどの面を表しているのか誰も知りません。主は、アブラハム、そしてイサクによって、さらにヤコブによって表されます。しかし、モーセやエリアやアロン、そしてダビデ、さらに御言葉のその他の多くの人によっても表されます。しかしそのそれぞれは、他の人から別の方法で表されています。アブラハムは神性そのものを、イサクは神的合理性を、ヤコブは神的自然性を、モーセは御言葉と法と歴史的部分を、エリアは預言的部分を、アロンは祭司を、ダビデは王を意味します。しかし、ヨセフが何を意味するかについては、3969, 4286, 4585, 4592, 4594, 4669, 4723, 4727, 4963, 5249を参照してください。
ヨセフは、合理的なものから出る、霊的なものの天的なもの、意味します。他の表現は用いることができません。なぜなら天的なものは、神的なものからの善を受け、霊的なものはその善から出る真理を受け、それは主の神的人間からくる善の真理を構成しています。これは主が世に居られた時の主でした。しかし、主はご自身を栄化されると、それを超えて蘇られ、その人間さえも完全に神的善、あるいはエホバとされました。
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