新しい皮袋

 『あなたの罪は赦された』と言うのと、『起きて歩け』と言うのと、どちらがやさしいか。ルカ5:23

主は荒野で試練に遭われた後、ご自分の故郷で教えを始めますが、受け入れられず、殺されようとさえされます。主を通常の人と考える、認識が、いかに危険なものであるか、そしてこれを吹き込むため、悪霊があの手この手で、惑わしにやってくることを教えられています。主が天地の創造主であり、人となって私たちの目の前に現れたことを深く認識することが、主への最も大切な認識です。知的にも、霊的にも、これを受け入れる努力を続けてゆくことが大切です。

ルカ福音書第五章は、舟による弟子たちの召命、らい病者、中風病人の清め、取税人との食事、そして花婿の断食・新しい皮袋の教え、とテーマが続きます。
み言葉を深く考察してゆくなら、これらは、一つのテーマとしてまとまりを持ち、主の神的な姿をより深く認識しなければならないことに気づきます。

背景はガリラヤ湖です。ここではゲネサレ湖と呼ばれています。二艘の小舟がつながれています。その内一艘はシモンの舟で、夜通し漁をしましたが、何ひとつ取れませんでした。主はその舟に乗りこまれ、船から教えを説かれます。

み言葉の内意では、「舟」はみ言葉からの教義を意味します。(AE514:20)
「シモン」は夜通し漁をしても何も取れません。しかし、主イエスがお乗りになって教えを説かれると、二艘とも魚で一杯になりました。これは、そこに主がいらっしゃらなければ、教義をどれだけ学んでも、何も得るものがないことを意味します。一生懸命網を洗って、準備しても、魚は捕れません。主は教えられます。「深みに漕ぎ出して、網をおろして魚をとりなさい」(5:4)を実行します。

天界の教えをいくら表面的に学んでも、それを現実に役に立てるには、主の導きがなければ何も得ることがありません。話だけを聞いても、得ることは多くはありません。「シモン」という名は、「聞く」を意味しますが、聞くだけでは、好奇心を満足させると、何も効果が表れず、すぐに飽きてしまいます。

自分のやり方を通すだけでは、いくら網を洗おうとも、効果がないと気づかねばなりません。そして謙虚になって主から生き方を学ぼうとします。主の命令に従って「深みに漕ぎ出します」。これは、現実の深みに進んで、その教えを適用するという姿勢です。実行してみようという心構えです。この気持ちがあれば、得る真理は、網が破れるほどになります。そして知的なものと、情愛の両方を満足して、二艘の舟は生きた真理であふれかえります。文字だけの記憶知ではなく、役立つ真理です。

「夜通し働きましたが、何一つとれませんでした。」(5:5)と、自分の力だけを信じて、暗闇の中、一生懸命働いていましたが、主の神的存在に気づいたシモンは、自分を深く卑下します。
「私のような者から離れてください。私は、罪深い人間ですから」と言います。自分は罪深い存在である、主は本当に神的な方であるという深い卑下が、人をよみがえらせます。(AR56)

しかし、「聞く」を意味するシモンだけでは、網を引き上げることができません。「別の舟にいた仲間の者たちに合図をして、助けに来てくれるように頼む」ことが大切です。「シモンの仲間であったゼベダイの子ヤコブやヨハネも同じ」く、主に従わなければなりません。
シモン・ペテロは主の信仰を、ヤコブは思慮深さ、そしてヨハネは思慮深い行いを意味します(HH526)。

主に聞くだけでは足りません。それは聞くだけで終わる信仰です。深い思慮と、それを元にした働きがなければ、真理を得て、役立ちに変えることはできません。
彼らは、舟を陸に着けると、何もかも捨てて、イエスに従った。(5:11)
「何もかも」とあるように、弟子達は、彼らの生業の元となる舟も網も捨てて、主に従いました。
魚が全く捕れない舟や網、真理を得ることのできない教義を捨てて、主に従います。
そして主の神的存在に気づき、深い卑下によって、真理を得て、「これから後、あなたは人間をとる」(5:10)、人間すなわち善を得ることができます。

主は、その後ガリラヤの町々で、らい病や中風の病人を癒し、取税人を導き共に食事をします。
最初にらい病の患者に会います。らい病は皮膚の感染病ですが、霊的な「らい病」は、偽りによって汚されてしまうことです。らい病は、表面の皮膚を醜く変えます。偽りによって欺かれると、霊的な善い行いはできなくなります。
主を見た、霊的らい病患者は、ひれ伏してお願いします。主の神的存在を、主の過去の行いから知っていました。
「主よ。お心一つで、私をきよくしていただけます。」(5:12)

主への信頼と卑下が病人を救います。イエスは手を伸ばして、彼にさわり、「わたしの心だ。きよくなれ」と言われた。(5:13)
ここで病人は、主が伸ばされた手に触れて癒されます。しかし、私たちが実際は主に出会って、肉体が触れて、癒されることはありません。神は霊であるからです。霊的な接触を考えるしかありません。霊的な接触とは何でしょうか?天界の教えに尋ねます。

「人のにおける主の存在は、添え触れることよって起こります。接触による結びつきです。これは人が主を愛するほど近く完全になってゆきます、すなわち、主の命令を行うことです(AR55)。」

主とより近くなり、結ばれるためには、主の戒めを忠実に守り、行うことでしか可能となりません。主の存在を感じたいなら、天地の神である主が、戒めを命じておられ、その主の命令を、主が語られたこととして忠実に守ることです。霊の世界では、認識によって霊が近くに現れます。教会の教義がいうからではなく、天地唯一の神である方が命じられたから、従います。
するとらい病人を汚していた偽りはたちまち消え、癒されます。それぞれの教会の教えや、法律がいうからではなく、天地の神である主がおっしゃるから従います。この気づきが新しい生命を産みます。

そして「モーセが命じたように、あなたのきよめの供え物をしなさい。」(5:14)と、感謝を捧げます。感謝は、偽りを消す力、人を癒す力が、主から来ていることを認め、行いで確認することです。確認して生命のものとします。

その後、主は中風の病人を癒されます。中風は、脳血管の障害により脳の機能が失われる病気です 。脳梗塞などの 血管の障害は、血管がつまったり、破れたりして起こります。 脳の機能が一時的にでも失われると、手足の麻痺や言語障害、視野・視力の障害などさまざまな症状がでます。
では、霊的な中風とは何でしょうか?霊的な中風は、意志による自由な選択ができなくなる時です。心がなんらかの原因で衰弱して、弱り、鬱状態となり、自由に動けなくなる霊的病です。

中風になったこれらの病人は、自分の意志で動けなくなります。そのため、ルカ書の中風の病人は、男たちによって運ばれますが、大勢の人がいて主に近づけません。男たちは屋上から屋根の瓦を剥がし、寝床を主イエスの前につり下ろします。(5:19)

寝床は教義を意味します(AE163)。屋上は人の最高の状態、すなわち善を意味します(AC2454)。別のみ言葉では屋上にいる者は家の中の物を持ち出そうとして下に降りてはならない(マタイ24:17)と警告されています。すでに善の状態にいるからです。しかし、衰弱して鬱の状態にいる者は、判断する力が失われています。友人たちは病人を下ろすため、瓦を剥がします。

預言者エゼキエルの目の前に置かれたエルサレムの町が彫られた粘土板は、悪からの偽りを意味します(AE 805:5)。イスラエルの教義が偽りとなっていることに気づかせるためでした。同じように、病人を下ろすために剥がした瓦は、善を遠ざけてしまう偽りを意味します。偽りを一枚一枚剥がして、病人を主の前に下ろします。すると主が前に現れます。すると、主は「友よ。あなたの罪は赦されました」(5:20)とおっしゃいます。

これは、「人の子、主が地上で罪を赦す権威を持っていることを、あなたがたに悟らせるため」でした。中風の人に、「あなたに命じる。起きなさい。寝床をたたんで、家に帰りなさい」と(5:24)おっしゃいます。
寝床をたたむ、あるいは別の訳で、「担ぎ上げる」とは、「一つ一つ教えに取り組み、日々行いなさい」と聞こえます。
み言葉から真理を学び、その真理に応じて生きてゆくことが正しい救いの信仰です。(AE815-4)
学んだ真理に従って生きることが正しい信仰ですが、天界の教えは、その信仰に従った生活をした分だけ、私たちは赦され(NJHD165)ることを教えます。

『あなたの罪は赦された』と言うのと、『起きて歩け』と言うのと、どちらがやさしいか、(5:23)と主は問われます。
偽りを取り除き、起きて、歩いた分だけ、罪は赦されることになります。主のみが、罪を赦す権威をお持ちです。行ってしまった罪は自分の眼からそれて周辺に行くだけで、罪は離れません。罪となる行為を拒むことと、主が罪を赦されたことを認識して、感謝することが、真の罪の赦しです。中風の病人は、主の行いに驚き、感謝します。そして神をあがめながら自分の家に帰ってゆきます。彼は新しい気づきと、認識によって生きてゆきます。

その後、主はレビという名の取税人を導かれます。
当時の取税人は、ローマ帝国のために税を取り立てる、独立した生計を持つ徴税請負人で、自分の生活資金もそこに加えられていたため、恣意的になりかつローマの権威をたてにして、住民から嫌われていました。主に声を掛けられた取税人のレビは、「何もかも捨て、立ち上がってイエスに従」(5:28)い、自分の家でイエスのために大きな宴会を催します。主に出会い、過去のいきさつや悪い行いを捨てて、新しい生活を行うことは大切ですが、自分が人から盗もうとした罪は消えません。自分の生命にある悪は一挙には消えません。

その大宴会の中に、パリサイ人やその派の律法学者たちも、ふるまいに与ったはずですが、彼らは「取税人や罪人どもといっしょに飲み食いするのですか。」(5:30)と不満をこぼします。取税人だけではなく、自分たちも罪人であることに気が付きいていないのです。

「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招いて、悔い改めさせるために来たのです。」(5:31,32)
パリサイ人たちが、他人を非難する、自分の罪に気づいたどうかは記されていません。
病人たちの癒しを含めて、主は罪人を悔い改めさすために、この世に来られました。
自分の力で真理が取れると考えたシモンたち、偽りを自分で除ききれないらい病人、自分では何もすることができなくなっている中風の病人、そして人から盗んでいた、あるいは人を非難し、自分だけは正しいと考えている罪人たちです。

罪を取り除くためには、まず自分の行っていることが罪であることを認めなければなりません。
自分は祈って、自分なりに正しい生活をしている、だから赦されているはずだ、と考えるのは誤りです。
個々、具体的に自分の罪を認めたうえで、主に助けを求めて祈ります。そして、主からいただく新しい生命によって、新しい生命を自分のものしなければなりません。その新しい生命とは、主の戒めに従った状態の生命です。

「古いものは良い」と考え、新しいぶどう酒を求めない(5:39)なら、人は自分の犯している罪に気づけません。
そして古い生命のままでは、新しい生命を得て、それを維持することはできません。
自分の行いへの気づきを得るべく、常に新しいぶどう酒と新しい皮袋を求めます。この新しい新鮮な気づきが、私たちに新しい生命を与えます。
「新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れなければなりません。」(5:38) アーメン

エゼキエル書
4:1 人の子よ。一枚の粘土板を取り、それをあなたの前に置き、その上にエルサレムの町を彫りつけよ。
4:2 それから、それを包囲し、それに向かって塁を築き、塹壕を掘り、陣営を設け、その回りに城壁くずしを配置せよ。
4:3 また、一枚の鉄の平なべを取り、それをあなたと町との間に鉄の壁として立て、あなたの顔をしっかりとこの町に向けよ。この町を包囲し、これを攻め囲め。これがイスラエルの家のしるしだ。
4:4 あなたは左わきを下にして横たわり、イスラエルの家の咎を自分の身の上に置け。あなたがそこに横たわっている日数だけ彼らの咎を負え。
4:5 わたしは彼らの咎の年数を日数にして三百九十日とする。その間、あなたはイスラエルの家の咎を負わなければならない。
4:6 あなたがその日数を終えたら、次にまた、あなたの右わきを下にして横たわり、ユダの家の咎を四十日間、負わなければならない。わたしは、あなたのために一年に対して一日とした。
4:7 それから、あなたは顔を、包囲されているエルサレムのほうにしっかりと向け、腕をまくり、これに向かって預言せよ。
4:8 見よ。わたしはあなたになわをかけ、あなたの包囲の期間が終わるまで寝返りができないようにする。

ルカ福音書
5:36 イエスはまた一つのたとえを彼らに話された。「だれも、新しい着物から布切れを引き裂いて、古い着物に継ぎをするようなことはしません。そんなことをすれば、その新しい着物を裂くことになるし、また新しいのを引き裂いた継ぎ切れも、古い物には合わないのです。
5:37 また、だれも新しいぶどう酒を古い皮袋に入れるようなことはしません。そんなことをすれば、新しいぶどう酒は皮袋を張り裂き、ぶどう酒は流れ出て、皮袋もだめになってしまいます。
5:38 新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れなければなりません。
5:39 また、だれでも古いぶどう酒を飲んでから、新しい物を望みはしません。『古い物は良い』と言うのです。」

新しいエルサレムの天界の教え165.
口先だけの悔い改めは、生命のためのものではなく、悔い改めではありません。罪は口頭での悔い改めではなくならず、生命の上で悔い改めなければなりません。罪は常に主から赦されています、なぜなら主は慈しみそのものであるからです。しかし罪はいかに赦されたと思っても、人にまとわりつきます。そして真の信仰の戒めによる生命とならなければ取り除かれません。それらによって生きてゆくに応じて、罪は取り除かれます。そして罪が取り除かれるの応じて、罪は赦されます。

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