あなたがたは心を騒がしてはなりません。

あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。(ヨハネ14:1)

先日、英国女王の国葬がありました。リズ・トラス英国首相が聖書を朗読する場面があり、全世界の人が耳を傾けました。そこで読んだのは、ヨハネ福音書の14章の1節から9節でした。私たちのヨハネ福音書の学びも、ちょうど本日は14章です。ここで主は何を教えられたのかを学びます。

あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。(14:1)
私たちは主の働かれた奇跡による信仰から始まり、みことばから真理を学んで、それを従って生きる、救いの信仰に移ります(AE815)。

神を信じることは、最初は奇跡によって好奇心を惹かれ、その後この世に降臨された方が、その方ご自身であると確信し、心の内に動かない真理とすることで、救いの信仰となります。
主イエスはこの世に降誕された主エホバご自身であることは、福音書で何度も繰り返し表現されています。決してただの人間ではありません。主と父とは一つと、明らかに記されています。栄化が進むにつれ、主と父とは相互に深く結ばれてゆきます。

主の神的人間性は、新約聖書を読んで、イメージすることができても、父なるエホバは、私たちには決して理解することのできない存在です。無限の存在であり、有限な私たちには無限の存在は把握することができないからです。主イエスについては、直接のみ言葉に、親しく接して、静かに考えることで、私たちの内側で主の神的人間をイメージすることができるようになります。平安や寛容、謙虚など無数の性質が語ってくれるイメージは、私たちの心に入って、平安となります。

主は引き続きおっしゃいます。「 わたしの父の家には住む所がたくさんあります。」(14:2)
父の家とは天界のことです。天界は平安の中にあります。決してあわただしい現代社会のようなところではありません。そして、誰にでも自分にあったものが見つかる、無数の社会に分かれています。それは私たちが善と真理によって別れていて、たとえ宇宙とそこに住む人間がどれほどいようとも、主の教えに従って生きるという条件さえ満たすなら、自分の善と真理に会った社会に入ることができます。

天界は巨大人の形をとり、大きさも無限で、「数」によって限界を刻むような窮屈なところではありません。宇宙が無限であるように、天界の広がりも想像すらできないほど広がっています。
天界の社会自体も無数にあり、私たちのそれぞれが、ぴったりなじむような社会があり、そこで永遠に生きていける社会が必ず見つかります。私たちのそれぞれを天界に迎え入れるために、主はそれぞれに見合う方法を用意されていらっしゃいます。主のおられるところに、私たちもいるべく、私たちの知らない方法で「あなたがたをわたしのもとにお迎えになられます。」

地上におられた主は、さらに続けて教えられます。「わたしの行く道はあなたがたも知っています。」14:4
主の進まれる道とは、主がこの言葉の後、主が栄化されてゆかれる道です。主はご自身を栄化されたように、人を再生されるからです。人が自分の力で再生するわけではありません。人が自分の力で再生すると考えているうちは、決して再生は進みません。私たちが主の導きによって進んでいるうちに、そのはるか遠くの延長線上に、主の道がみえてきます。それは聖書の中で見つけることができます。
主がお進みになる道とは、主がご自身を栄化させた道でああう。私たちの再生のときは、
「主は人の知性部分に信仰となる真理を、人の意志に愛に関する善を植え付け、それを結びつけ」(AC10067-7)ます。

この結びつきは、天界的結婚と呼ばれます。それは、主ご自身のお住まいとなる天界です。父の家は、主がお住まいになる、主ご自身のものです。私たち自身のものは、ひとかけらありません。私たち自身のものは、悪にすぎないからです。悪が残っている限り、主の家に迎えられることはありません。

これが人が、自らの力で再生することができない理由です。私たちが、自分のうちに、主のお力によって、主のお住まいを設けることができた時、すなわち自分のものを捨てきる、試練の後、私たちは天界に迎え入れられることができます。
これが
「わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです。」(14:3)で意味されることです。トラス首相は、この内意を知らず朗読したかもしれませんが、朗読を聞いた天使たちは、内意だけを理解します。

聖書の中の人物、トマスも同じように、この内意を知りませんでした。そのため、「主よ。どこへいらっしゃるのか、私たちにはわかりません。どうして、その道が私たちにわかりましょう。」としか応えようがありません。

しかし主は、「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」(14:6)と教えられます。主が通られる栄化の道に、私たちが導かれることこそ、真理であり生命です。ほかに道はありません。
「そしてそれが結びついた時、信仰している真理は、愛の善を生命とし、愛の善は信仰の真理からの生命を、その性質とします。この結合は、善の方法によって相互的になされ、天界的結婚と呼ばれ、これが人にある天界です。」(AC1006:7) 
ここで、天界への道が見え始めます。

日本では聖書協力隊というボランティアが、街角にみ言葉の一部の鉄板を貼っています。その中の「道・真理・命」はこの句からとられ、その内意は、天界の教えによってはじめてわかります。

信仰の真理は、学ぶだけはなく、行わないと真理とはなりません。単なる知識のままです。そしてそれは愛の善から出ていなければなりません。私たちの内に、信仰の真理と愛の善を結び付けて、天界とすることができるのは、主おひとりです。人にできる業ではありません。信仰の知識は学んで知識とすることができます。そしてその知己を実行することで、人の内に信仰の真理とすることは可能に見えますが、実はそうではありません。人が自ら行っていると考えるのではなく、主から行っていると認識することで、初めて信仰の真理となります。

ましてや、愛の善に関しては、人から行うことは不可能です。「愛、愛が大切だ」と口で述べることは簡単です。しかしその人の口にするという業には、口にした時点で、もはやなんらかの悪が混じっています。愛の善は人がなしうる業ではありません。

そして信仰の真理と、愛の善を結び付ける天界的結婚は、さらに、さらに、人には不可能です。私たちにできるのは、主の道に導かれることだけです。導かれる際に邪魔する悪を、自分から追い出す協力をします。それも、謙虚になって主の導きを受け入れることだけです。

弟子のピリポが、父を見せてくれと主に言います。しかし主は自らのみ言葉で、「わたしを見た者は、父を見たのです。」(14:9)と、ご自分は父と同じ存在であり、父は主の魂であることを教えられます。主を見たことで、その魂を見ることができると教えられます。しれは人がじぶんの魂を見ることができないように、その行い、わざを見るしかないからです。

「わたしが父におり、父がわたしにおられるとわたしが言うのを信じなさい。さもなければ、わざによって信じなさい。」(14:11)主の行われた「わざ」は、ヨハネ福音書の中では、初めは奇跡のわざです。しかしそのわざのひとつひとつを、父に帰せられました。行っているのは魂である父であり、私たちにとっても、自分からはできないことを教えるためです。
「わたしは、父から出た多くの良いわざを、あなたがたに示しました。そのうちのどのわざのために、わたしを石打ちにしようとするのですか。」(10:32)
主の行われたすべての行いの中には、悪いわざはありません。たとえ、敵であっても、見つけることはできません。「わざ」は、主は常に父に帰せられています。これに比べれば、わたしたちの行いは、常に悪いわざです。どんなに善いことを行っても、その動機には必ず「自分のため」という動機が含まれているからです。本質的にも、見かけ上も、善いものを自分に帰そうとするからです。

純粋に愛の善から善い行いをすることだけが、善い業です。そしてその言動は、信仰の真理で教えらえた真理に合致していなくてはなりません。愛の善と、信仰の真理が結婚することが天界であり、私たちの目指す場所であり、境地です。私たちは果たしてこの境地に至ることができるのでしょうか?
私たちだけではほとんど不可能のように思えます。

しかし、主は助け主を送ると約束されました。「もうひとりの助け主」(14:16)とおっしゃっています。世のキリスト教会は、父と子のほかに第三の聖霊がいると考えています。しかし父と子が、私たちで言えば私たち自身の魂と体であるように、聖霊とは主のはたらき、わざです。父子聖霊と三つの人格に分割することは間違っています。

主は真理そのものです。そのため主から出るものすべては真理となります。そして発出した真理は助け主、真理の御霊、聖霊と呼ばれています(TCR 139:3)。
主がこの世におられた間は、ご自身が真理でしたが、この世を去りご自身を栄化され、父と一緒になられた後、主から発する働きが聖霊と呼ばれます。この働きは現にありますが、教えられて納得しなければ、私たちは受け入れることができません。

「その方は、真理の御霊です。世はその方を受け入れることができません。世はその方を見もせず、知りもしないからです。しかし、あなたがたはその方を知っています。その方はあなたがたとともに住み、あなたがたのうちにおられるからです。」(14:17)

世が心で聖霊を受け入れることができないのは、世の外的なことで教えがあいまいになってしまうからです。・・しかし天界にいるものには内的なことがらは明らかに見えます(AC 9278:6)。

世に住んでいる私たちも、静かに心の中に思いを致し、み言葉を思い出すなら、「父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。」(14:26)

主はおっしゃいます。
「わたしはあなたがたに平安を残します。わたしの平安を与えます。わたしは、世が与えるのと同じようには与えません。あなたがたは心を騒がせてはなりません。ひるんではなりません。」(14:27 )
私たちは主が心に与えられる平安によって、世に立ち向かいます。ひるまず、心を騒がせずに、主の全能を信頼することができるなら、その時は迷うことはありません。

もし、私たちが真理を持ちながらも、内的な善と真理を失い、内的なものを見失うなら、孤児、迷い子のようになります。しかし、それでも善を求めるなら、私たちは主から見放されることはありません。孤児とは、「真理を持つが、まだ善を持たない者ですが、善に対する渇望がある者」(AC9199)のことです。
善を求め続けること、そうすることで教会は継続し、その中で私たちは主に再び会えることになります。

 「わたしは、あなたがたを捨てて孤児にはしません。わたしは、あなたがたのところに戻って来るのです。」(14:18)
アーメン。

出エジプト記 
29:21 あなたが、祭壇の上にある血とそそぎの油を取って、アロンとその装束、および、彼とともにいる彼の子らとその装束とに振りかけると、彼とその装束、および、彼とともにいる彼の子らとその装束とは聖なるものとなる。

ヨハネ福音書
14:1 「あなたがたは心を騒がせてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。
14:2 わたしの父の家には住む所がたくさんあります。そうでなかったら、あなたがたのために場所を用意しに行く、と言ったでしょうか。
14:3 わたしが行って、あなたがたに場所を用意したら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしがいるところに、あなたがたもいるようにするためです。
14:4 わたしがどこに行くのか、その道をあなたがたは知っています。」
14:5 トマスはイエスに言った。「主よ、どこへ行かれるのか、私たちには分かりません。どうしたら、その道を知ることができるでしょうか。」
14:6 イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません。
14:7 あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになります。今から父を知るのです。いや、すでにあなたがたは父を見たのです。」
14:8 ピリポはイエスに言った。「主よ、私たちに父を見せてください。そうすれば満足します。」
14:9 イエスは彼に言われた。「ピリポ、こんなに長い間、あなたがたと一緒にいるのに、わたしを知らないのですか。わたしを見た人は、父を見たのです。どうしてあなたは、『私たちに父を見せてください』と言うのですか。
14:10 わたしが父のうちにいて、父がわたしのうちにおられることを、信じていないのですか。わたしがあなたがたに言うことばは、自分から話しているのではありません。わたしのうちにおられる父が、ご自分のわざを行っておられるのです。
14:11 わたしが父のうちにいて、父がわたしのうちにおられると、わたしが言うのを信じなさい。信じられないのなら、わざのゆえに信じなさい。
14:12 まことに、まことに、あなたがたに言います。わたしを信じる者は、わたしが行うわざを行い、さらに大きなわざを行います。わたしが父のもとに行くからです。
14:13 またわたしは、あなたがたがわたしの名によって求めることは、何でもそれをしてあげます。父が子によって栄光をお受けになるためです。
14:14 あなたがたが、わたしの名によって何かをわたしに求めるなら、わたしがそれをしてあげます。
14:15 もしわたしを愛しているなら、あなたがたはわたしの戒めを守るはずです。
14:16 そしてわたしが父にお願いすると、父はもう一人の助け主をお与えくださり、その助け主がいつまでも、あなたがたとともにいるようにしてくださいます。
14:17 この方は真理の御霊です。世はこの方を見ることも知ることもないので、受け入れることができません。あなたがたは、この方を知っています。この方はあなたがたとともにおられ、また、あなたがたのうちにおられるようになるのです。
14:18 わたしは、あなたがたを捨てて孤児にはしません。あなたがたのところに戻って来ます。

AC10067
[7]しかしこれは、主によって再生途上の人の中にある、善と真理の相互的な結合をみるほうがより良く理解できます、なぜなら、すでに言ったように、主はご自身の人間を栄化させたように人を再生させるからです(10057)。主が人を再生させるとき、主は人の知性部分に信仰となる真理を、人の意志に愛に関する善を植え付け、それを結びつけます。そしてそれが結びついた時、信仰している真理は、愛の善を生命とし、愛の善は信仰の真理からの生命を、その性質とします。この結合は、善の方法によって相互的になされ、天界的結婚と呼ばれ、これが人にある天界です。
この天界の中で、主はご自身のものとお住まいになります、なぜならあらゆる愛の善は主からきており、善と真理の結びつきのすべても主のものであるからです。主は人自身のものの内には住まうことはできません、なぜならそれは悪であるからです。

AC9199.
「あるいは孤児」は真理を持つが、まだ善を持たない者ですが、善に対する渇望がある者をいいます。これは孤児の意味から明らかで、真理を持ち、善を求める者の意味です。このような人々が孤児によって意味されるのは、両親が奪われた息子は、つまり、内的な善と真理を奪われたのが孤児であるからです。なぜなら、みことばで「父」は内的善を意味し、「母」はその善に結びついた真理を意味しますが(5581)、「息子」は彼らから奪われた真理を意味するからです。「息子」が真理を意味することは 489, 491, 533, 1147, 2813, 3373, 6583を参照してください。孤児によって娘ではなく、息子が意味されるのは、次の(出エ22章)24節から明らかで、あなたの息子は孤児となる、とあります。息子が孤児となるのは、善を求める者は主が父の代わりになることが、ダビデの次の言葉で表されます。

「みなしごの父、やもめのさばき人は聖なる住まいにおられる神。」 詩編68:5