悪を行う者はみな、光を憎み、その行いが明るみに出されることを恐れて、光の方に来ない。ヨハネ3:20
パリサイ人のニコデモというユダヤの教師が、夜に主を訪れます、
彼は主の行った奇跡を見て、神的なものを感じましたが、自分の立場を考えたのか、夜、密かに主を訪れました。
主はニコデモを通じて、ユダヤ教会へ光をあてるメッセージとともに、わたしたちにも重要な教えを説かれます。
この言葉で、夜の状態であったユダヤ教会の指導者を、光の方、真理へと導きます。
「人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」(3:3)
神の国と、新しく生まれ変わるという二つです。ニコデモが特に驚いたのが、「新しく生まれ変わる」という教えでした。私たちの宗教的概念としても、「再生」という言葉があります。しかし、再生ということを、どの程度知り、どの程度、真剣に再生を求めるかは、人によってそれぞれ異なります。
再生を知るためには、今、私たちがどういう状態にあるのか、そして神の国とはどういうところか、そして再生して神の国に入るためには、どうしなければならないのでしょうか?この三つを学ばなければなりません。
今、私たちはどういう状態にあるのでしょうか?
自分は、犯罪者ではないし、会社などの共同体や、隣近所、学校の同級生達と比べると、キリスト教に興味をもって、時々教えに耳を傾け、聖書も読んでいる、まあまあの状態かな?そして、ふと思いつく、「あの人」よりはましと考える人が多いかもしれません。このままこの世を去り、霊界に行けば、そこでさらに教えられるとも聞いているし、まあ、なんとかなるだろう・・・。
これに対しては、「そうだといいですね」としか言いようがありません。人が人の内心まで判断することは、許されていないからです。
例えば、世界を戦争に巻き込んだ悪人達や、人の悪口しか言わず、悪意を周りにふりまく人の外面の悪は判断できます。犠牲者も証言してくれます。しかし、他人には厳しいが、自分には甘いという人の傾向を知っておかなければなりません。人には、自分の悪や偽りには目を閉じる傾向があります。本人自身は、言い訳を集めて、自分は悪人ではないと言い張ることさえできます。但し、被害者のほうは、本人よりもよくその意識を心に留め続けています。
さらに問題なのが、人の内心の中にあって決して外には出ないが、自由になると一挙に燃え上がる悪です。
霊界では自分の思いは隠せません。そして、世の法律や、人の目など、束縛する物は何一つありません。欲しいと思う想いはすべて口に出ます。異性でも、支配する部下でも、権威でも、思いは周りに伝わります。
もし、それがすべて手に入るなら、まさに「天国」です。但し、霊界には他の霊も大勢いて、同じ好みの霊が同じ所に集まります。過去に死んだ霊も集まります。同じような愛を持つ霊の中で、一定の自由が与えられます。その一定の自由の中で、自分が何をするか想像することができますか?・・・・・
歯止めがなければ、「自由」の中、一番愛するものの中に突入してゆきます。自分を含め、それを阻むものが全く無いからです。進むところは、自分と同じような好みを持つ霊がいて、同じ対象に集まります。何の遠慮も、拘束もありません。そして求める対象が限られていれば、おそらく奪い合いになります。他の霊への思いやりなどなく、自分の求めるものにしか興味がないからです。そして手にいれるための争いが始まります。歯止めがないので、手に入れるために熾烈な争いが始まります。
しかし、もし他への思いやりがあるなら、神の御国である天界を見ることができます。同じような天使のような霊が集まるからです。
「肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です。」(3:6)ともおっしゃっています。
私たちが生まれた時は「肉」の身体でした。しかし、ここで「肉」とおっしゃっているのは「肉体」という意味だけではありません。「肉」とは「自分自身のもの」を意味します(AC 8409:3)。
自分自身のもの、自分自身が求めるものにしか興味がないのであれば、その人や霊は、「肉」と言われます。ここで言われている、「霊」ではありません。自分自身にしか興味がないなら、奪い合いになって、「神の国に入ることができません」(3:5) 。
自分だけが救われて、天界に入りたいと願うなら、それも変わりありません。自分自身の救いだけにしか興味がなく、もし天界の門があれば、自分だけが入りたいと願います。他が入るのを許そうとしなければ他を押しのけて入ることになります。人から救いを奪います。
自分の興味の対象が自分自身だけなのか、どうか、これは自分にしかわかりません。また、自分にもわからない場合もあります。しかし、歓びを生む物が自分の愛するものであり、自分が何に歓ぶかを注意して見続けていると、気づくときがあります。
悪が許されるのは、自分の悪に気づくためです。自分がその悪に歓ぶなら、自分は悪を愛しています。
例えば。身近な話題で、戦争があったとします。
攻撃側であっても、防御側であっても、誰かが傷つき、命を奪われるのを歓ぶなら、それはやはり殺し傷つけるという悪を愛していることになります。
私も、侵略した側に大きな損害が出たことに歓ぶ自分に気づきました。自分も正義の味方の仮面をかぶり、悪を愛しています。自分が「肉」に留まる存在であるかどうか、自分で見極めなければなりません。悪が許されているのは、自分の悪に気づくためだからです。
「水と御霊によって生まれなければ、神の国に入ることが出来ません」(3:5)。
「水」は御言葉から得た信仰の真理を、「霊」とはこの真理に従って生きることで、「生まれる」とは再生することです(AC10388)。
「信仰の真理」は人を殺してはならない、人から奪ってはならないなど、人が行ってはならないことを教えます。また「父と母を尊べ」、あるいは「何事でも、自分にしてもらいたいことは、ほかの人にもそのようにしなさい。」(マタイ7:12)と、行わなければならないことも教えます。
「霊」はこの真理に従って生きることです。人を殺すのを歓ぶなら、まだ「霊」によって生まれていません。知っていて行わないなら、それも真理を尊ばないということで、同じです。自分がしてもらいたくないことを、他の人にも常に行わなければ、「水と霊によって生まれる」ことになります。
私たちは、思っているよりはるかに肉の影響が強く、なかなか水と霊によって生まれかわれるまで、進めません。
例えば、自分に不利なことを行う人には、その人が痛い目に遭ったり、罰されたりすることをどこか心の奥底で望んでいます。また戦争で、侵略側が、厳しく罰されることを望みます。昔、我が国が侵略側であったことを忘れています。侵略側にも無理やり徴兵され、どこに派遣されるかもわからず、欺されて死んでいった人のいることを昔の教訓から学んだはずが、すべて忘れています。
これでは自分が霊によって生まれるどころではありません。自分の心の暗闇の深さがわかりました。
絶望的な状況の中で、聖書をひもとき、主からのメッセージを受け取ります。
「人にはできないことが、神にはできるのです。」(ルカ18:27) 「見よ。わたしは、すべての肉なる者の神、【主】である。わたしにとってできないことが一つでもあろうか。」(エレミヤ32:27)
「神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。」(3:17)
これは私たちへの純粋な主の慈悲です。再生は私達の自分の力でできるものではありません。「自分の再生はどの程度進んでいるか?」と口にする方がいらっしゃいますが、それは大きく誤っています。これは自分を点検したことがない方の言葉です。点検すればするほど、自分の闇がまだまだ深いということしかわかりません。天界の教えにも、自分が再生する、とは書いていません。「再生される」と受動態で書かれています。
「風は思いのままに吹きます。その音を聞いても、それがどこから来てどこへ行くのか分かりません。御霊によって生まれた者もみな、それと同じです。」(3:8)
私たちは、自分の力では無く、主によって救われることを信じて、御言葉から学んだ真理を行い続けるしかありません。
「御子を信じる者はさばかれない。信じない者は神のひとり子の御名を信じなかったので、すでにさばかれている。」(3:18)
頭の中で、信じるだけでは、信じたとは言えません。真理を行い続けることだけによって、信じていると認められます。得た真理を行いながら、私たちに新しい自我が誕生するのを待つしかありません。
私たちの旧い自我、肉の自我が、主のお力によって遠ざけられ、死んでしまう状態となってはじめて、主から新しい「霊」を頂きます。天界的自我です。「水」は私達が御言葉から汲み上げて、学びます。何が悪で避けなければならないか、そして何が善であり行わなければならないか、光のほうに向かい進みます。
光とは、神人となられ、私達の本当の状態を私達よりも、よくご存じの方、主イエス・キリストです。慈悲を与えていただく、主イエス・キリストです。スウェーデンボリィが、自分でも確認して告白しているように、決してスウェーデンボリィではありません。
「悪を行う者はみな、光を憎み、その行いが明るみに出されることを恐れて、光の方に来ない。」
学びや学習に囚われて、行き先を誤ってはなりません。光はただお一人からしか発しません。
真理は、自分で行いますがこれは見かけであり、外観です。真理は実は、主が行われています。
真理を行っているのは、主であることを明らかに知るためには、自分のほうではなく、光のほうに向かいます。
「しかし、真理を行う者は、その行いが神にあってなされたことが明らかになるように、光の方に来る。」(3:21)
アーメン。
エレミヤ書
32:17 「ああ、神、主よ。まことに、あなたは大きな力と、伸ばした御腕とをもって天と地を造られました。あなたには何一つできないことはありません。
32:18 あなたは、恵みを千代にまで施し、先祖の咎をその後の子らのふところに報いる方、偉大な力強い神、その名は万軍の【主】です。
32:19 おもんぱかりは大きく、みわざは力があり、御目は人の子のすべての道に開いており、人それぞれの生き方にしたがい、行いの結ぶ実にしたがって、すべてに報いをされます。
・・・・
32:24 ご覧ください。この町を攻め取ろうとして、塁が築かれました。この町は、剣とききんと疫病のために、攻めているカルデヤ人の手に渡されようとしています。あなたの告げられた事は成就しました。ご覧のとおりです。
32:25 神、主よ。あなたはこの町がカルデヤ人の手に渡されようとしているのに、私に、『銀を払ってあの畑を買い、証人を立てよ』と仰せられます。」
32:26 エレミヤに次のような【主】のことばがあった。
32:27 「見よ。わたしは、すべての肉なる者の神、【主】である。わたしにとってできないことが一つでもあろうか。」
ヨハネ福音書
3:1 さて、パリサイ人の一人で、ニコデモという名の人がいた。ユダヤ人の議員であった。
3:2 この人が、夜、イエスのもとに来て言った。「先生。私たちは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神がともにおられなければ、あなたがなさっているこのようなしるしは、だれも行うことができません。」
3:3 イエスは答えられた。「まことに、まことに、あなたに言います。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」
3:4 ニコデモはイエスに言った。「人は、老いていながら、どうやって生まれることができますか。もう一度、母の胎に入って生まれることなどできるでしょうか。」
3:5 イエスは答えられた。「まことに、まことに、あなたに言います。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国に入ることはできません。
3:6 肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です。
3:7 あなたがたは新しく生まれなければならない、とわたしが言ったことを不思議に思ってはなりません。
3:8 風は思いのままに吹きます。その音を聞いても、それがどこから来てどこへ行くのか分かりません。御霊によって生まれた者もみな、それと同じです。」
3:9 ニコデモは答えた。「どうして、そのようなことがあり得るでしょうか。」
3:10 イエスは答えられた。「あなたはイスラエルの教師なのに、そのことが分からないのですか。
3:11 まことに、まことに、あなたに言います。わたしたちは知っていることを話し、見たことを証ししているのに、あなたがたはわたしたちの証しを受け入れません。
3:12 わたしはあなたがたに地上のことを話しましたが、あなたがたは信じません。それなら、天上のことを話して、どうして信じるでしょうか。
3:13 だれも天に上った者はいません。しかし、天から下って来た者、人の子は別です。
3:14 モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子も上げられなければなりません。
3:15 それは、信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つためです。」
3:16 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。
3:17 神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。
3:18 御子を信じる者はさばかれない。信じない者はすでにさばかれている。神のひとり子の名を信じなかったからである。
3:19 そのさばきとは、光が世に来ているのに、自分の行いが悪いために、人々が光よりも闇を愛したことである。
3:20 悪を行う者はみな、光を憎み、その行いが明るみに出されることを恐れて、光の方に来ない。
3:21 しかし、真理を行う者は、その行いが神にあってなされたことが明らかになるように、光の方に来る。
天界の秘義10388.
これはヨハネ福音書にある主の教えです、
「人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国に入ることができません。」ヨハネ 3:5.
「水」の霊的意味は、御言葉からとった信仰の真理です、「霊」はそれを守る生活で。「これらに生まれる」とは、再生されることです。