悪を行う者はみな、光を憎み、その行いが明るみに出されることを恐れて、光の方に来ない。ヨハネ3:20

パリサイ人のニコデモというユダヤの教師が、夜に主を訪れます、
彼は主の行った奇跡を見て、神的なものを感じましたが、自分の立場を考えたのか、夜、密かに主を訪れました。
主はニコデモを通じて、ユダヤ教会へ光をあてるメッセージとともに、わたしたちにも重要な教えを説かれます。
この言葉で、夜の状態であったユダヤ教会の指導者を、光の方、真理へと導きます。
「人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」(3:3)

神の国と、新しく生まれ変わるという二つです。ニコデモが特に驚いたのが、「新しく生まれ変わる」という教えでした。私たちの宗教的概念としても、「再生」という言葉があります。しかし、再生ということを、どの程度知り、どの程度、真剣に再生を求めるかは、人によってそれぞれ異なります。

再生を知るためには、今、私たちがどういう状態にあるのか、そして神の国とはどういうところか、そして再生して神の国に入るためには、どうしなければならないのでしょうか?この三つを学ばなければなりません。

今、私たちはどういう状態にあるのでしょうか?
自分は、犯罪者ではないし、会社などの共同体や、隣近所、学校の同級生達と比べると、キリスト教に興味をもって、時々教えに耳を傾け、聖書も読んでいる、まあまあの状態かな?そして、ふと思いつく、「あの人」よりはましと考える人が多いかもしれません。このままこの世を去り、霊界に行けば、そこでさらに教えられるとも聞いているし、まあ、なんとかなるだろう・・・。

これに対しては、「そうだといいですね」としか言いようがありません。人が人の内心まで判断することは、許されていないからです。
例えば、世界を戦争に巻き込んだ悪人達や、人の悪口しか言わず、悪意を周りにふりまく人の外面の悪は判断できます。犠牲者も証言してくれます。しかし、他人には厳しいが、自分には甘いという人の傾向を知っておかなければなりません。人には、自分の悪や偽りには目を閉じる傾向があります。本人自身は、言い訳を集めて、自分は悪人ではないと言い張ることさえできます。但し、被害者のほうは、本人よりもよくその意識を心に留め続けています。

さらに問題なのが、人の内心の中にあって決して外には出ないが、自由になると一挙に燃え上がる悪です。
霊界では自分の思いは隠せません。そして、世の法律や、人の目など、束縛する物は何一つありません。欲しいと思う想いはすべて口に出ます。異性でも、支配する部下でも、権威でも、思いは周りに伝わります。
もし、それがすべて手に入るなら、まさに「天国」です。但し、霊界には他の霊も大勢いて、同じ好みの霊が同じ所に集まります。過去に死んだ霊も集まります。同じような愛を持つ霊の中で、一定の自由が与えられます。その一定の自由の中で、自分が何をするか想像することができますか?・・・・・

歯止めがなければ、「自由」の中、一番愛するものの中に突入してゆきます。自分を含め、それを阻むものが全く無いからです。進むところは、自分と同じような好みを持つ霊がいて、同じ対象に集まります。何の遠慮も、拘束もありません。そして求める対象が限られていれば、おそらく奪い合いになります。他の霊への思いやりなどなく、自分の求めるものにしか興味がないからです。そして手にいれるための争いが始まります。歯止めがないので、手に入れるために熾烈な争いが始まります。

しかし、もし他への思いやりがあるなら、神の御国である天界を見ることができます。同じような天使のような霊が集まるからです。

「肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です。」(3:6)ともおっしゃっています。 
私たちが生まれた時は「肉」の身体でした。しかし、ここで「肉」とおっしゃっているのは「肉体」という意味だけではありません。「肉」とは「自分自身のもの」を意味します(AC 8409:3)。
自分自身のもの、自分自身が求めるものにしか興味がないのであれば、その人や霊は、「肉」と言われます。ここで言われている、「霊」ではありません。自分自身にしか興味がないなら、奪い合いになって、「神の国に入ることができません」(3:5) 。
自分だけが救われて、天界に入りたいと願うなら、それも変わりありません。自分自身の救いだけにしか興味がなく、もし天界の門があれば、自分だけが入りたいと願います。他が入るのを許そうとしなければ他を押しのけて入ることになります。人から救いを奪います。

自分の興味の対象が自分自身だけなのか、どうか、これは自分にしかわかりません。また、自分にもわからない場合もあります。しかし、歓びを生む物が自分の愛するものであり、自分が何に歓ぶかを注意して見続けていると、気づくときがあります。

悪が許されるのは、自分の悪に気づくためです。自分がその悪に歓ぶなら、自分は悪を愛しています。
例えば。身近な話題で、戦争があったとします。
攻撃側であっても、防御側であっても、誰かが傷つき、命を奪われるのを歓ぶなら、それはやはり殺し傷つけるという悪を愛していることになります。
私も、侵略した側に大きな損害が出たことに歓ぶ自分に気づきました。自分も正義の味方の仮面をかぶり、悪を愛しています。自分が「肉」に留まる存在であるかどうか、自分で見極めなければなりません。悪が許されているのは、自分の悪に気づくためだからです。

「水と御霊によって生まれなければ、神の国に入ることが出来ません」(3:5)。
「水」は御言葉から得た信仰の真理を、「霊」とはこの真理に従って生きることで、「生まれる」とは再生することです(AC10388)。
「信仰の真理」は人を殺してはならない、人から奪ってはならないなど、人が行ってはならないことを教えます。また「父と母を尊べ」、あるいは「何事でも、自分にしてもらいたいことは、ほかの人にもそのようにしなさい。」(マタイ7:12)と、行わなければならないことも教えます。

「霊」はこの真理に従って生きることです。人を殺すのを歓ぶなら、まだ「霊」によって生まれていません。知っていて行わないなら、それも真理を尊ばないということで、同じです。自分がしてもらいたくないことを、他の人にも常に行わなければ、「水と霊によって生まれる」ことになります。

私たちは、思っているよりはるかに肉の影響が強く、なかなか水と霊によって生まれかわれるまで、進めません。
例えば、自分に不利なことを行う人には、その人が痛い目に遭ったり、罰されたりすることをどこか心の奥底で望んでいます。また戦争で、侵略側が、厳しく罰されることを望みます。昔、我が国が侵略側であったことを忘れています。侵略側にも無理やり徴兵され、どこに派遣されるかもわからず、欺されて死んでいった人のいることを昔の教訓から学んだはずが、すべて忘れています。
これでは自分が霊によって生まれるどころではありません。自分の心の暗闇の深さがわかりました。

絶望的な状況の中で、聖書をひもとき、主からのメッセージを受け取ります。
「人にはできないことが、神にはできるのです。」(ルカ18:27) 「見よ。わたしは、すべての肉なる者の神、【主】である。わたしにとってできないことが一つでもあろうか。」(エレミヤ32:27)
「神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。」(3:17)

これは私たちへの純粋な主の慈悲です。再生は私達の自分の力でできるものではありません。「自分の再生はどの程度進んでいるか?」と口にする方がいらっしゃいますが、それは大きく誤っています。これは自分を点検したことがない方の言葉です。点検すればするほど、自分の闇がまだまだ深いということしかわかりません。天界の教えにも、自分が再生する、とは書いていません。「再生される」と受動態で書かれています。

「風は思いのままに吹きます。その音を聞いても、それがどこから来てどこへ行くのか分かりません。御霊によって生まれた者もみな、それと同じです。」(3:8)
私たちは、自分の力では無く、主によって救われることを信じて、御言葉から学んだ真理を行い続けるしかありません。

「御子を信じる者はさばかれない。信じない者は神のひとり子の御名を信じなかったので、すでにさばかれている。」(3:18)
頭の中で、信じるだけでは、信じたとは言えません。真理を行い続けることだけによって、信じていると認められます。得た真理を行いながら、私たちに新しい自我が誕生するのを待つしかありません。

私たちの旧い自我、肉の自我が、主のお力によって遠ざけられ、死んでしまう状態となってはじめて、主から新しい「霊」を頂きます。天界的自我です。「水」は私達が御言葉から汲み上げて、学びます。何が悪で避けなければならないか、そして何が善であり行わなければならないか、光のほうに向かい進みます。

光とは、神人となられ、私達の本当の状態を私達よりも、よくご存じの方、主イエス・キリストです。慈悲を与えていただく、主イエス・キリストです。スウェーデンボリィが、自分でも確認して告白しているように、決してスウェーデンボリィではありません。
「悪を行う者はみな、光を憎み、その行いが明るみに出されることを恐れて、光の方に来ない。」

学びや学習に囚われて、行き先を誤ってはなりません。光はただお一人からしか発しません。
真理は、自分で行いますがこれは見かけであり、外観です。真理は実は、主が行われています。
真理を行っているのは、主であることを明らかに知るためには、自分のほうではなく、光のほうに向かいます。
「しかし、真理を行う者は、その行いが神にあってなされたことが明らかになるように、光の方に来る。」(3:21)
アーメン。

エレミヤ書
32:17 「ああ、神、主よ。まことに、あなたは大きな力と、伸ばした御腕とをもって天と地を造られました。あなたには何一つできないことはありません。
32:18 あなたは、恵みを千代にまで施し、先祖の咎をその後の子らのふところに報いる方、偉大な力強い神、その名は万軍の【主】です。
32:19 おもんぱかりは大きく、みわざは力があり、御目は人の子のすべての道に開いており、人それぞれの生き方にしたがい、行いの結ぶ実にしたがって、すべてに報いをされます。
・・・・
32:24 ご覧ください。この町を攻め取ろうとして、塁が築かれました。この町は、剣とききんと疫病のために、攻めているカルデヤ人の手に渡されようとしています。あなたの告げられた事は成就しました。ご覧のとおりです。
32:25 神、主よ。あなたはこの町がカルデヤ人の手に渡されようとしているのに、私に、『銀を払ってあの畑を買い、証人を立てよ』と仰せられます。」
32:26 エレミヤに次のような【主】のことばがあった。
32:27 「見よ。わたしは、すべての肉なる者の神、【主】である。わたしにとってできないことが一つでもあろうか。」

ヨハネ福音書
3:1 さて、パリサイ人の一人で、ニコデモという名の人がいた。ユダヤ人の議員であった。
3:2 この人が、夜、イエスのもとに来て言った。「先生。私たちは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神がともにおられなければ、あなたがなさっているこのようなしるしは、だれも行うことができません。」
3:3 イエスは答えられた。「まことに、まことに、あなたに言います。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」
3:4 ニコデモはイエスに言った。「人は、老いていながら、どうやって生まれることができますか。もう一度、母の胎に入って生まれることなどできるでしょうか。」
3:5 イエスは答えられた。「まことに、まことに、あなたに言います。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国に入ることはできません。
3:6 肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です。
3:7 あなたがたは新しく生まれなければならない、とわたしが言ったことを不思議に思ってはなりません。
3:8 風は思いのままに吹きます。その音を聞いても、それがどこから来てどこへ行くのか分かりません。御霊によって生まれた者もみな、それと同じです。」
3:9 ニコデモは答えた。「どうして、そのようなことがあり得るでしょうか。」
3:10 イエスは答えられた。「あなたはイスラエルの教師なのに、そのことが分からないのですか。
3:11 まことに、まことに、あなたに言います。わたしたちは知っていることを話し、見たことを証ししているのに、あなたがたはわたしたちの証しを受け入れません。
3:12 わたしはあなたがたに地上のことを話しましたが、あなたがたは信じません。それなら、天上のことを話して、どうして信じるでしょうか。
3:13 だれも天に上った者はいません。しかし、天から下って来た者、人の子は別です。
3:14 モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子も上げられなければなりません。
3:15 それは、信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つためです。」
3:16 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。
3:17 神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。
3:18 御子を信じる者はさばかれない。信じない者はすでにさばかれている。神のひとり子の名を信じなかったからである。
3:19 そのさばきとは、光が世に来ているのに、自分の行いが悪いために、人々が光よりも闇を愛したことである。
3:20 悪を行う者はみな、光を憎み、その行いが明るみに出されることを恐れて、光の方に来ない。
3:21 しかし、真理を行う者は、その行いが神にあってなされたことが明らかになるように、光の方に来る。

天界の秘義10388.

これはヨハネ福音書にある主の教えです、

「人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国に入ることができません。」ヨハネ 3:5.
「水」の霊的意味は、御言葉からとった信仰の真理です、「霊」はそれを守る生活で。「これらに生まれる」とは、再生されることです。

ヨセフの誘惑

ヨセフの誘惑
主人はヨセフの手に全財産を任せ、自分が食べる食物のこと以外は、何も気を使わなかった。しかもヨセフは体格も良く、顔だちも美しかった。(創39:6)

兄弟達に自分が君臨する夢を見たことを語ったため、嫉妬した兄弟達は、ヨセフを穴の中に落とし殺そうとします。しかし、一部の兄弟が反対したため命は助かります。その後、ミデヤン人の商人に救われ、イシュマエル人に売られて、エジプトに連れて行かれます。エジプトでは、ファラオの廷臣のポティファルに買い取られ、ポティファルの家の管理を任されるまでに出世します。ところが、ポティファルの妻からの誘惑を断ったため、ぬれ絹を着せられ、ヨセフは王の監獄にいれられてしまいます。波瀾万丈の生涯が続きます。

しかし、神が述べられた御言葉の深い意味は、この文字上とは全く異なる深い内容で、私たちにも関係してきます。文字の上では、一民族の族長達の栄枯盛衰の物語ですが、その内意は、主イエス・キリストのご自身の栄化の過程と、同時に私たちの再生の道のりが描かれています。そのため、人類すべて、その永遠の生、すべてに影響します。
主人公のヨセフは、主の神的人間を表現しています。正確に言えば、合理的なものから生まれた霊的なものの天的な存在 (AC4286)(caeleste spiritualis exrationali, the celestial of the spiritual from the rational)で、自然的なものである私たちを、天界の霊的・天的存在、そして創造主である神に、仲介するものです。

ごくごく簡単に言えば、神的なものと自然的な人間を仲介することによって、人間と神の交流を促進し、人間の再生を図ります。そのため、主が人間としてお生まれになり、ご自身を神的なものに栄化なされました。これがなければ、人類は一人として神と結ばれること無く、滅んでいました。

聖書の創世記39章で、ヨセフは、エジプト王の臣下の家と畑の管理をすべてまかされます。そして「体格も良く、顔だちも美し」(創39:6)く、ヨセフの人生は兄弟たちから受けた不遇から、エジプトでの栄達へと順風満帆のように見えます。
私たちも、遺伝悪や悪い社会習慣から離れて、畑で表される教会の真理に従って、人間の生命の全てを、役立ちという目的に向けて生活すれば、家で表される人間の生命のすべては善い方向に向かって進みはじめます。
逆に、盲目的・本能的に善いと思う方向に向かうなら、バランスを崩してしまい、全体の舵取りはうまく出来なくなります。しかし、理性を働かせ、役立ちの目的・内容をよく考えます。そうすることで、公平と正義、そして霊的真理と善の原理に従えうようになれば、ヨセフが家を管理したように、人生はうまく管理できます(AC4988)。
ヨセフは、この管理を段階的に進めて(AC4977,4979,4992,4999,5003)、自然の中での内面の支配を強めてゆきます。内面の善が外面まで影響するようになれば、美しい天使の姿のように、霊界では、善の美しさが輝き始め、来世の姿形も美しくなります(AC4985)。

このヨセフの容姿の美しさに惹かれたのか、ポティファルの妻は何度も「結合」を迫ります。ポティファルの妻は「霊的でない自然的真理」を意味します (AC4989) 。例えば、霊的でない自然的真理の言うことを聞けば、どんな友人であっても友人である限り、仲良くしなければならない、とされてしまいます。もし、その友人が邪悪であっても、親切にしないと許されません。この自然的な定義を一律にあてはめられるなら、合理的なものから生まれた存在であるヨセフは、不合理な規準に「納得できない!」と嫌悪感を抱きます。加えてこの人妻には、自然的善という夫がすでにいて、ヨセフはその配下にいます。

「あなたがご主人の奥さまだからです。どうして、そのような大きな悪事をして、私は神に罪を犯すことができましょうか。」(39:9)夫のいる妻とは結合ではなく、分離を目指さなければなりません。そうでなければ、不合理な規準の中で、合理的なものから生まれた存在は、生きて行けません。

このヨセフのセリフの中に「悪」と「罪」という単語が出てくることに注目します。これは霊的な善は、霊的でない自然的真理とは、両立できないので、結ばれてはならないことを意味します。そしてそこに存在する悪は、善から分離しなければなりません。
一般に「善」は主への愛と隣人への愛であり、結合する力と傾向があります。そして「悪」は自己愛と世間愛であり、悪同士は常に分離する傾向を持ちます(AC4997等)。悪と悪は結ばれているように見えますが、それはある短期的・利己的な目的が一致する限りにおいてです。自己愛と自己愛どうしは、嫌悪と憎悪が働き、自分以外とは結ばれることはありません。

教会でも同じ事が起こります。教会の内外で結合する愛がなくなれば、分離と消滅が生まれます(AC5002)。日本と世界の新教会、そして世界のキリスト教会の動向を見れば、これは一目瞭然です。主の平和を説くはずの教会が、ある国の教会のように、主への愛と隣人愛を超える別の価値を上にもって、戦乱が生まれます。もし、教会の内や、教会同士の間に、分離の傾向があれば、必ずそこには何らかの悪があり、罪があるはずです。
それは教会の自己点検の時です。

ヨセフを誘惑しようとした自然的真理の、霊的でない部分は、
「私が声をあげて叫んだので、私のそばに上着を残して外へ逃げました。」(39:18)
不倫という悪を行おうとしたポティファルの妻は、拒まれたため、ヨセフに反感を抱き、最も外側の真理を切り離し証拠とします(AC5028)。これが残された上着です。そうなると、霊的真理に反感を抱き、拒絶し、仁愛の善から撤退します(AC5034)。相手に仁愛の善がなければ、それは別離の時です。

天界の教義では、隣人に対する善、貧しい人、やもめ、孤児を例として取り上げます。貧しい人であれば、親切にしなければならないという最も外側の真理を一律に適用しようとします。その実質が悪であっても関係ありません。そして内的真理を説き、実質を考えようとする霊的人間を笑いものにします(AC5028)。

偽りと反感によって、ヨセフの主人であるポティファルは、ヨセフを監獄に入れます(39:20)。創世記にもイサクの献納から、ヤコブのヤボクの渡しでの試練、エサウとの再会、そしてヨセフの人生等、数々の試練が描かれています。これは、主イエスが、この世でお受けになった無数の試練を物語るだけではありません。私たちも霊的成長の度に、必ず試練を受けることを描いています。

試練は「人が実際に再生の過程に入っている間、進展してゆきます、なぜなら誰も試練を受けない限り再生することが出来ないからです。」(AC5036) 霊的に成長する限り、試練は避けられません。

主の祈りのなかに、「私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください。」(マタイ6:13)という句があります。しかし私たちは試練に遭わなければ、霊的成長がありません。主は試練をもたらさず、常にお守りになっています。私たちを試練に遭わせるのは、私たちの周りにいる悪霊、奈落の霊です。悪霊たちが、私たちの中にある偽りの思考、過去の悪業を刺激して思い起こさせることで起こります。私たちが祈るは、試練の中で主のみ力による守りを求めるためです。

最も外側の真理が退き、自分を守るものがなくなった時に試練が訪れます。試練の例をあげます。「人が霊的になると、裕福な教会等に献金を捧げることが聖なる業ではないと考え始めます。しかし霊的になる前はそれが聖なる業と考えて、そうしていました。すると悪霊達は新しい考えは偽りであり、以前は、聖と考え、行っていたはずだと責めてきます」(AC5036-5)。
これは、昔一般的であった考え方と、新しい考え方の矛盾をついた情愛に関する問題ですが、現在ではより深く人の情愛の矛盾を突いてきます。
例えば、人が死後三日目に生き返るなら、三日に至る前に、心臓や脳を移植したり、遺体を焼却したりすると、それは殺人ではないか?
遺伝子操作による治療や人間のクローン作成は、神の領域を荒らす業ではないか?現代の科学でも解決できない問題を、人間が勝手気ままに行って善いのか?まだ解決できていない新たな問題が累積しています。人間の良心の葛藤は次々と生まれてゆきます。

悪霊達は、情愛を責めます。過去の悪と偽りを責め、矛盾を責め、良心の呵責を産み出します。
そのため、真理を学んで情愛を育てたことが全く無く、良心を持たない人には、試練は起こりません。悪霊たちが責める面がないからです。

「しかし、【主】はヨセフとともにおられ、彼に恵みを施し、監獄の長の心にかなうようにされた。」(39:21)
神の慈しみは、罠にはまった者へ向けられる神的愛に他なりません、試練にある者への愛です (A
C5041) 。試練にいる者が、疑問の状態と絶望にあるとき、そこから目をあげると、主から真理が流入し、思考を治めます。その真理とは、御言葉から学び本人が確認したものです。その真理自体を流入させるのではなく、真理の情愛を高めます(AC5044)。「監獄の長」とは、支配する真理です。

私たちが試練にあると、主がその試練から直接お救いになるわけではありません。財産や家族を失ったとしても、主が奇蹟の力によって財産や家族をお戻しになるわけではありません。戦争にあっても、戦争を主が直接止め、主が直接現れ、平和を与えるのでもありません。もしあるとした、それは摂理の法則という別の法に従います。決して試練の中ではありません。試練では、その試練の内容に合った御言葉に神の力を吹き入れ、御言葉の真理を心に根づかせます。

例えば、御言葉によって、この世の財産よりもより価値のある財産があることに気づきます。家族の肉体の死は、肉体だけの死で、魂は蘇り、生きています。戦争は間違いなく悪であり、悪は避けなければなりません。しかし、家族や国を守るための戦いは悪ではありませんが、闘いの中で残忍や冷酷が起これば、悪として避けなければならない。これらの真理を学んだ時の御言葉が思い起こされ、自分のうちに真理が深く根付くことになります。

神的なものは、情愛だけに流入します。真理が人の心に深く根付くためには、私たちの力だけでは足りません。強い思い込みをしても役に立ちません。厳しい現実に出会うと、主の力をすぐに疑い始めます。そして神的なものによって根付いた真理には、主の御力が働き、主の善から光が輝き出します。そこに私たちの力は全くありません。

私たちの内で、試練に遭う人はわずかか、ほとんどいないことが天界の教義の中で示されてます。しかし、私たちが霊的に成長するためには、試練は欠かせません。私たちの内にある学んだ真理が、自分の力によって記憶しているだけの、あやふやな内容として留まるからです。情愛の中で真理が力を持つためには、神的な力が必要です。もしも試練が起こり、その中で勝利するなら、主の力が御言葉から学んだ真理に流入し情愛が強まったおかげです。私たちの力ではないことが嫌というほどわかります。

ヨセフが監獄の中で、力を持てたように、試練の中で、主の神的人間が私たちの内で力を持つことができますように。「私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください。」(マタイ6:13)
アーメン。

(新旧約聖書は新改訳)
創世記
39:1 一方、ヨセフはエジプトへ連れて行かれた。ファラオの廷臣で侍従長のポティファルという一人のエジプト人が、ヨセフを連れ下ったイシュマエル人の手からヨセフを買い取った。
39:2 【主】がヨセフとともにおられたので、彼は成功する者となり、そのエジプト人の主人の家に住んだ。
39:3 彼の主人は、【主】が彼とともにおられ、【主】が彼のすることすべてを彼に成功させてくださるのを見た。
39:4 それでヨセフは主人の好意を得て、彼のそば近くで仕えることになった。主人は彼にその家を管理させ、自分の全財産を彼に委ねた。
39:5 主人が彼にその家と全財産を管理させたときから、【主】はヨセフのゆえに、このエジプト人の家を祝福された。それで、【主】の祝福が、家や野にある全財産の上にあった。
39:6 主人はヨセフの手に全財産を任せ、自分が食べる食物のこと以外は、何も気を使わなかった。しかもヨセフは体格も良く、顔だちも美しかった。
39:7 これらのことの後、主人の妻はヨセフに目をつけて、「一緒に寝ましょう」と言った。
39:8 しかし彼は拒んで、主人の妻に言った。「ご覧ください。ご主人は、家の中のことは何でも私に任せ、心配せずに全財産を私に委ねられました。
39:9 ご主人は、この家の中で私より大きな権威をふるおうとはせず、私がするどんなことも妨げておられません。ただし、あなたのことは別です。あなたがご主人の奥様だからです。どうして、そのような大きな悪事をして、神に対して罪を犯すことができるでしょうか。」
・・・
39:20 ヨセフの主人は彼を捕らえ、王の囚人が監禁されている監獄に彼を入れた。こうして彼は監獄に置かれた。
39:21 しかし、【主】はヨセフとともにおられ、彼に恵みを施し、監獄の長の心にかなうようにされた。
39:22 監獄の長は、その監獄にいるすべての囚人をヨセフの手に委ねた。ヨセフは、そこで行われるすべてのことを管理するようになった。
39:23 監獄の長は、ヨセフの手に委ねたことには何も干渉しなかった。それは、【主】が彼とともにおられ、彼が何をしても、【主】がそれを成功させてくださったからである。

ヨハネ福音書
10:17 わたしが再びいのちを得るために自分のいのちを捨てるからこそ、父はわたしを愛してくださいます。
10:18 だれも、わたしからいのちを取りません。わたしが自分からいのちを捨てるのです。わたしには、それを捨てる権威があり、再び得る権威があります。わたしはこの命令を、わたしの父から受けたのです。」

天界の秘義5036
[2] 試練自体に関しては、人が実際に再生の過程に入っている間、進展してゆきます、なぜなら誰も試練を受けない限り再生することが出来ないからです。そして彼の周りに居る悪霊が、試練を起こす手段となります。試練の中では、自分が持っている悪の状態の中に入れられます、すなわち、その人を支配する本質的自我です。ひとたびこの悪の状態に入ると、悪霊、奈落の霊が彼を取り囲み、彼が内的に天使達によって守られていると気付けば、悪霊たちは、彼が抱いていた偽りの思考や、犯した悪い業を思い起こさせます。しかし天使達は内側から守ります。この闘いが、人が試練として経験するものです、しかしこの経験はあまりにも漠然としているので、不安感としてしか感じません。

剣を取る者はみな剣で滅びます。

剣を取る者はみな剣で滅びます。

「わたしが来たのは地に平和をもたらすためだと思ってはなりません。わたしは、平和をもたらすために来たのではなく、剣をもたらすために来たのです。」(マタイ10:34)

世界には戦乱と疫病がまん延し、物価上昇で経済も不安的になりつつあります。
私たちが謳歌していたはずの日本の平和は、今や姿を消してしまいつつあるようにさえ思えます。
戦乱の国から、小さい国にも匹敵する人口が、逃げ出しています。良い関係と信じていた国々、人々の間にも、ちょっとした行き違いから、あっという間に敵意が生まれます。

ここで、戦争についての基本的な教えを、天界の教えの書から確認します。(DP251参照)
戦争は、殺人・略奪・暴力・残虐などあらゆる恐ろしい悪と切り離すことができず、キリスト教の愛と正反対です。しかし、私たちは人を支配しようとする愛と、世界の富を全て獲得する愛に生まれついており、これは表面に出てこない限り、認めて抵抗することが出来ません。これを認め、闘うため、主の長期的見地の許しの法によって、戦争という悪が許されています。その戦争は、人類の絶滅の怖れが出るまで抑えられません。この世の戦争は、同時になんらかの霊界での出来事を反映しています。そして、勝敗や運不運など出来事すべてに神的摂理が働いています。

戦争にも侵略戦争と防衛戦争があります。侵略は悪としても、守るための戦争はどうでしょうか?
善人は守りしか気に掛けず、情熱を持ちません。攻撃は稀にしか行いません。天界と地獄と同じで、地獄の霊は攻撃し、天界の天使は守ります。自分の国と市民を侵略から守るのは、適切とされています。(DP252)

私たちが、まず確認しなければならないのは、戦争は間違いなく十戒に反する悪であることです。そこには善の欠片もありません、ただ隠れてなかなか表面に出てこないいる自分の二大悪、支配欲と所有欲を知るため大小の戦争が起こります。
大小の戦争、国と国の闘い、会社間の争い、隣室や家の住人、家族との争いが起こるとき、誠に不本意ながら、それは神が下さったチャンスと考える考え方もあります。
自分が相手を支配しようとしていないか、あるいは物欲を満足せるために行っていないか、自分の奥深く問いながら、その源泉を探ります。もし、戦争や争いを行うのに、そういう悪が隠れているのを発見したら、その悪と偽りが無くなるまで闘います。悪と偽りは地獄からきています。この闘いが神の御心です。この自己点検のために、主は不承不承ながら戦争を許されています。

ただし、国・市民の防衛は適切な闘いです。闘って家族や自分の財産を守るのは、十戒の悪には反しません。
それでも、闘いの過程で、相手を殺すことや傷つけること、奪うことに歓ぶ自分を見つけたら、その歓びは地獄からきていることに気づかなければなりません。闘いは隠れている自分の悪と偽りとの闘いです。

私たちの救いという主の大きな目的のため、やむなく戦争は起こり、人類絶滅の危機に至らない限り主はお止めになりません。そして戦争の本当の原因は、霊界にあります。霊界や教会でなんらかの闘いが起こっていることが、この世の戦争の原因とされています。自分の意見と通そうとするための支配欲が戦争の原因となっている可能性があります。

悪と真理、善と偽りの戦いがあります。これは霊的試練です。霊的試練は、人の内にある偽りと悪の破壊と除去(AC 4843:4)のために存在します。
冒頭の主の御言葉、「平和のため来たのではなく、剣をもたらすために来た」は、本来、試練のことをおっしゃっています(AC 8159:4)。戦争のイメージではありません。
この剣とは、闘うための真理(AC2799:4)です。人は試練の時、偽りの中にいて、主が開く内的真理によってのみ、偽りを追放できます(AE 131:2)。

真理は、何が悪で、偽りであるか、そしてその源が地獄から来ていて、人を破滅させてゆくことを教えます。私たちは、真理がなければ、闘う相手がわからず、対象がなくては、闘うことはできません。そして偽りが何か?これを知なければ、追放できません。試練の中にいる段階では、偽りは真理らしいものの中に混じっていて、離れません。これを離そうとしないのは、実は私たち自身です。闘いの中で、悪は偽り続けます。自分が正しいものであるかのように偽ります。そしてこの偽りは巧妙で、私たちにはわかりません。なぜなら自分自身が、自分の中にある悪を隠しておきたいからです。

この偽りを分離して追放しない限り、試練は終わりません。終わったように見えても、それは失敗です。試練の機会が再びやってくるまで試練は続きます。この試練が終わらなければ、決して天界に入ることはできません。私たちの信仰の力の強弱の問題ではありません。
私たちが天界に入るのが相応しいかどうかの判断です。この判断は、偽りが混じっている私たちには、できません。偽りを入れる、私たち自身を暴かなくてはなりません。偽りを隠している私たち自身である悪が死ななくてはなりません。試練が誰にも厳しいのはこのためです。
主は私たちが天界に入り、ご自身とともになるチャンスを根気強く、お待ちになっています。

御言葉の剣は、他の御言葉の語と同じように、善と悪、真理と偽りの両方の意味を持っています。
「剣が、カルデヤ人にも、──【主】の御告げ──バビロンの住民、その首長たち、知恵ある者たちにも下る。」(エレ50:35)
剣は偽りと闘う真理、そして、真理を荒廃させる偽り・真理と闘う偽りの、真理と偽りの二通りを意味します。
カルデヤは真理を冒瀆する者、バビロンは善を冒瀆する者(AC 5044:9)を意味します。真理と善を冒瀆するなら、救いは永遠に無くなります。
「剣が自慢する者たちにも下り、彼らは愚かになる。」(50:36)
真理を荒廃させる偽りは取り上げられ、偽りによって冒瀆できなくなります。

十二弟子のひとりであるユダがやって来た。剣や板(棒)を手にした大ぜいの群衆もいっしょであった。(26:47)ここでの剣は真理を破壊する偽りが、そして板は善を破壊する偽りを意味します。主の受難のすべては、ユダヤ人達による全ての善と真理の破壊であったことを象徴していました(AE 1145:9)。

群衆は主イエスに手を掛けて捕らえようとしますが、弟子の一人が剣を抜き、大祭司の僕の耳を切り落とします(26:51)。ヨハネ福音書と天界の教義ではペテロとされていますので、マタイ書には明示されていませんが、ペテロが剣を抜いたと進めます。ペテロは信仰の真理を意味します。そして僕の「耳」は信頼や信仰の意志を表します(AC3869)。ユダヤ人達がもはや真理を聞き、信頼するつもりが全くないことを表しています。

そのとき、イエスは彼に言われた。「剣をもとに納めなさい。剣を取る者はみな剣で滅びます。」(26:52) 
この有名な言葉は、聖書を離れて、無抵抗主義や、力に対して力で対抗するな、という様々な解釈がされています。しかし聖書の文脈と内意は異なります。文脈からいけば、「剣をもとに納める」のは、聖書の預言が実現するためでした(TCR262,マタイ26:52, 54, 56)。主の受難として、主の最後の試練の始めとして聖書の御言葉が成就して、当時のユダヤ人の信仰が全く無かったため、彼らの教会は終わったことを、私たちに伝えなければなりません。主は天地の神でいらっしゃるため、「十二軍団よりも多くの御使いを、今わたしの配下に置いて」(26:53)、やってきた祭司長、民の長老の配下を排除するのは簡単であったはずです。しかし、主が最期の試練を受け、栄化されなければ、私たちは誰一人救われません。

そして「剣を取る者はみな剣で滅びる」の内意は、「信仰の偽りを受けた者は、それにより滅びる」(AE812:2)です。
当時のユダヤ人の信仰の偽りを受けるならば、救いはなく滅びてしまう、ということを最期に警告されました。彼らは、もはや正しい信仰を受けることができない、という宣告とも言えます。弟子がユダヤ教会と同じ信仰の偽りを受けるなら、滅びてしまう。そうであってはならないと諭されました。

私たちが、剣で襲われた時に、剣をとらなければ、大切な家族や社会は守れません。無抵抗は、必ずしも、最善の策ではなく、またそれは神の絶対的な命令でもありません。
不完全なこの世の自然界では、それぞれが知恵を絞って、悪意に対抗しなければ悪意がはびこり地獄の意のままになります。
十戒の禁をもとに、与えられた現実の姿を考え抜いてベストを尽くすことが主の御心です。
何が悪で、偽りかを吟味して、分離しなければなりません。深く考えて、悪と偽りを避けなければなりません。主への愛と隣人への愛、これより他の事柄を、より大切なものと考え始めたとき、真理は偽りに変わってしまいます。この偽りにこだわり始めるなら、この世でも、戦争を起こせという、本来の主の教えとは違った結果を生み出します。偽善は暴かなければなりません。

より大切な主の御心は、私たちが、試練を乗り越え、天界の一員になることです。主への愛と、隣人への愛を、私たちそれぞれが実現することです。
闘う真理、剣は人に向けるのではなく、自分の中にある悪と偽りに向けます。
偽りで闘うなら、自分も偽りで滅びます。

そのとき、イエスは彼に言われた。「剣をもとに収めなさい。剣を取る者はみな剣で滅びます。」(26:52)
アーメン。

【新旧約聖書は新改訳】
エレミヤ書
50:35 剣が、カルデヤ人にも、──【主】の御告げ──バビロンの住民、その首長たち、知恵ある者たちにも下る。
50:36 剣が自慢する者たちにも下り、彼らは愚かになる。剣がその勇士たちにも下り、彼らはおののく。
50:37 剣がその馬と車と、そこに住む混血の民にも下り、彼らは女のようになる。剣がその財宝にも下り、それらはかすめ取られる。
50:38 その水の上には、ひでりが下り、それはかれる。ここは刻んだ像の国で、彼らは偶像の神に狂っているからだ。

マタイ福音書
26:45 それから、イエスは弟子たちのところに来て言われた。「まだ眠って休んでいるのですか。見なさい。時が来ました。人の子は罪人たちの手に渡されます。
26:46 立ちなさい。さあ、行こう。見なさい。わたしを裏切る者が近くに来ています。」
26:47 イエスがまだ話しておられるうちに、見よ、十二人の一人のユダがやって来た。祭司長たちや民の長老たちから差し向けられ、剣や棒を手にした大勢の群衆も一緒であった。
26:48 イエスを裏切ろうとしていた者は彼らと合図を決め、「私が口づけをするのが、その人だ。その人を捕まえるのだ」と言っておいた。
26:49 それで彼はすぐにイエスに近づき、「先生、こんばんは」と言って口づけした。
26:50 イエスは彼に「友よ、あなたがしようとしていることをしなさい」と言われた。そのとき人々は近寄り、イエスに手をかけて捕らえた。
26:51 すると、イエスと一緒にいた者たちの一人が、見よ、手を伸ばして剣を抜き、大祭司のしもべに切りかかり、その耳を切り落とした。
26:52 そのとき、イエスは彼に言われた。「剣をもとに収めなさい。剣を取る者はみな剣で滅びます。
26:53 それとも、わたしが父にお願いして、十二軍団よりも多くの御使いを、今すぐわたしの配下に置いていただくことが、できないと思うのですか。
26:54 しかし、それでは、こうならなければならないと書いてある聖書が、どのようにして成就するのでしょう。」
26:55 また、そのとき群衆に言われた。「まるで強盗にでも向かうように、剣や棒を持ってわたしを捕らえに来たのですか。わたしは毎日、宮で座って教えていたのに、あなたがたはわたしを捕らえませんでした。
26:56 しかし、このすべてのことが起こったのは、預言者たちの書が成就するためです。」そのとき、弟子たちはみなイエスを見捨てて逃げてしまった。

黙示録解説(AE)812
「剣で殺す者は、自分も剣で殺されなければならない。」(黙13:10)とは、偽りを他人に植え付けた者は、地獄から偽りを植え付けられることを意味します。・・・・・
[2] 主がペテロにおっしゃったことに意味が似ています。
「剣を取る者はみな剣で滅びます。」(マタイ26:52).

これはペテロに言われたことです。なぜなら彼は信仰の真理を表し、そしてまた信仰の偽りをも表したからです;そのため「剣を取る者はみな剣で滅びる。」とは「信仰の偽りを受けた者は、それにより滅びる」ことを意味します。「獣」によって意味される者は、推論によって生命から信仰を分離してしまった者で「剣で殺す者は、自分も剣で殺されなければならない。」すなわち、偽りを他人に植え付けた者は、地獄から偽りを植え付けられます、なぜなら「信仰のみ」のドグマは、全ての真理を閉ざしすべての善を拒むからです。「信仰のみ」は真理の全てを閉じます、なぜならそれは「主は十字架で私たちの罪のため苦しみ、法の責めを除き、このように私たちを贖われた」ので私たちはこれだけで贖われると主張するからです。彼らはこれだけを取り上げ、信仰そのものと呼び、救い、真理を学ぶ努力をしません。ところが真理は、どのように生きなればならないかを教え、これらの真理は多様です。「信仰のみ」はそのドグマ自体に続く善を拒み、信仰は善の行いなしに義とされます;かくして本質的な善である、神への愛の善と隣人への仁愛の善は無視されます。

創37 ヨセフの夢

創37 ヨセフの夢
ヨセフは彼らに言った。「私が見たこの夢について聞いてください。」(創37:6)

ヨセフはヤコブの十二人の息子の内の一人で、妻のラケルによって生まれた十一番目の息子です。
ヨセフは父が年寄りの時の子であったため、息子の内で誰よりも愛されて、「彩りのある服」(KJV,天界の秘義)を着せられていました。父に愛されているのを、兄弟達は「彼を憎み、彼と穏やかに話すことができ」(37:4)ませんでした。

兄弟達に憎まれている状態の中で、あるときヨセフは夢を見て、それを兄達に告げます。
「私の束が立ち上がり、しかもまっすぐに立っているのです。見ると、あなたがたの束が回りに来て、私の束におじぎをしました。」(37:7) 
兄たちは気分を害し、彼を「ますます憎むようにな」ります。

ヨセフはさらに他の夢を見ます。「太陽と月と十一の星が私を伏し拝んでいる」夢です。この話を聞き、兄達はますます気分を害し、妬みます。そして父は叱りますが、心に留めて置きました。

ヨセフの先祖、アブラハムと祖父イサクには「夢を見た」という表現はありません。まわりの人物が夢を見ますが、これら本人たちには、神が天使として直接現れます。彼らは主のきわめて内的な部分、天的な部分と合理性という部分を表しているので、より直接的なやりとりが、できました。しかしヨセフの父ヤコブは、主の自然的なものを表していて、神からの距離が遠くなるため夢という表現が出てきます。

父のヤコブは、天使が天に届く梯子を上り下りする夢を見ます(創28:12)。これは天界の教えによれば、未来の予知、予見とされています(AC3698)。主が、これから何が起きるかをあらかじめ知ったことが夢として語られています。ヤコブの夢は、主が、天界に至る道と、天界から地上界に下りてくる、道と方法を予見されたことを意味します。

ヤコブは主の自然性、その外的な部分を意味します。そして試練によってより内的なものとされたのが、イスラエルです。ヤコブとイスラエルは同じ人物ですが、聖書の表現は、表す事柄によって使い分けられています。おおまかにいえば、主の自然性の、外的なものがヤコブで、内的なものがイスラエルです。

主は、ご自身の自然性を栄化されると同時に、自然的な存在である私たちが再生してゆく道を備えられました。そのために必要な真理が、ヤコブの十二人の息子によって示されています。御言葉では息子は真理を表します。十二は、全てという意味で、十二人の息子の誕生が、私たちが、再び生まれ変わるため必要な真理すべてを表しています。

十二人の息子、すなわち真理の内、六人がレアの息子、そして側女ビルハと、ジルパがそれぞれ二人ずつ息子を産みました。レアは外的真理への情愛を意味します。
もう一人の妻のラケルは内的真理への情愛を表し、その内的真理への情愛から生まれた息子がヨセフとベニヤミンです。

物語風に記された創世記は、アブラハム・イサク・ヤコブあるいはイスラエルと主人公が変わります。
この主人公は、主イエス・キリストの霊的進化を表しています。主の魂に近い天的な段階と、地上の人間と交流するために生まれた合理的な段階、そして自然的な段階です。自然的な段階は、外的な道を通って、私たちをまず知的部分から再生させる、ヤコブの物語が主流となっています。

ヤコブの双子のエサウも、主の自然的な善を意味します。エサウは、内的な道を通って、合理的善に直接来る善を象徴 (AC4641) します。創世記36章は、エサウの家系と歴史を書いたように見えますが、この家系に出てくる名称は、私たちだけではなく、天使の理解も及ばない深いものが隠されていると、天界の教義は示唆します。主のみが善の中に生まれ、その父である魂から神的善を受けられたためです。私たちは何が善か知らず、そして真理を通してしか、善を学べません。私たちは肉体的な善の感覚や、自分に都合の良い善しか知ることができません。
しかし、主の善は、人類全てを救う善です。私たちは主の善によって救われることを念頭に置いて、聖書のヨセフの物語に進みます。

ヨセフは、内的情愛を意味するラケルを母として生まれたヤコブの十一番目の息子です。主の霊的な神的人間を意味します(AC4666)。アブラハム・イサク・ヤコブに続いて、ヨセフは、主イエス・キリストを表象します。

ヨハネが見た、二つの夢は、主ご自身についての宣教、宣言です(AC4682)。主が、ご自身について、何であるか、どういう状態かを教えられます。アブラハムからヨセフに至る人物は、実在の人物で、学者から約紀元前2千年の頃に生きていたと推定されています。そして主イエスの誕生が今から約2千年前ですので、計4千年前から、主イエス・キリストのことが描かれていたことになります。私たちは、4千年前に書かれた聖書と、約2千年前にこの世に来られた主イエスの生涯の内容を、約250年前にスウェデンボリィの書いた天界の教えとして学びます。ヨセフとして表象された主が、私たちに教えたかったこととは、何でしょうか?

ヨセフの見た第一の夢は、ヨセフが畑で束ねた束が、立ち上がり、しかもまっすぐ立ち上がり、兄達が束ねた束が、お辞儀をする(37:7)という、不思議な夢です。天界の教えによれば、畑は教会を意味し,束とは教義からの教えを意味します(AC4686)。
畑から作物が育つと、実のついた穂を刈り取って、まとめて束にします。穀物はせっかく育っても、そのままにしておけば、実が落ちてしまいます。その育った穀物は、実が落ちる前に茎や穂を除き、実を加工しなければなりません。同じ教義であっても、仁愛のない信仰を説く教義は、茎と穂だけの実のない教義です。私たちの口に入れ、身体に役に立てるためには、仁愛という実のある穂を選別しなければなりません。

ヨセフが束ねた、束、すなわちヨハネの教義とは、主ご自身、そして主ご自身の人間が神的であるという教義です(AC4687)。
現代のキリスト教会の大半は、主イエスは、どういう方かは、曖昧にされています。
イエス・キリストではなく、教会が決めた「聖人」を礼拝せよ、あるいはイエス・キリストではなく、父なる神エホバを礼拝せよと、仁愛は関係なく信仰だけによって救われると、もはやキリスト教とはいえないような宗教も蔓延っています。

ヨセフが見た、もう一つの夢は、太陽と月と十一の星が、ヨセフを拝んでいる夢です。太陽と月は、霊界において見える主を表象します。主は、天的天界では太陽として、霊的天界では月として現れます。十一の星は、ヤコブの他の息子達の表す真理のことです。
しかしこの場合、太陽はヤコブを表し、自然的善を意味します、そして月は(ラケルではなく、)母のレアを表し、自然的真理を意味します。星は善と真理の認識です (AC4696)。
すべての教会と、すべての教義は、ヨセフという教義、主は神的人間であるという教義を大原則として解釈せよということを意味します。

ユダヤ教会はモーセに渡された十戒と法であり、キリスト教会はその教会の信条、すなわち信じるべき教義事項が真理とされています(AC4690)。
しかし、その前提として、主を神的人間と認めなければなりません。十戒でも、一枚目の石板に書かれた教え、第一戒の他の神を拝むなかれ、第二戒の主の御名を虚しくするな、第三戒の安息日を聖とせよ、第四の父母を敬えという戒めを忘れては、第二の石板は生きてきません。
新教会の信条でも、先に普遍的な信条が置かれています。そして個別信条の五条の、第一と第二にも主の位置づけが、記されています。

ヨセフが表す信条の第一とは、「主の人間は神的である」ということ、そして第二は「主への愛と隣人への仁愛が教会を作る」ということです(AC4723)。これがすべてを解釈する原則です。
この大原則を忘れるなら、あらゆる努力が無駄になってしまいます。万が一、主がただの普通の人間と同じ存在という意識が残るなら、困ったことになります。何かあれば、別の神を拝み始めてしまうからです。生活や仕事に追われると、主への信頼を忘れ、目先の金銭や自分の地位の安定や昇進を第一に置くようになるかもしれません。戦争が起こり、疫病が蔓延すれば、主の摂理を信じずに、世界の終わりが来そうだから何でも好きなことをやってしまおうと、結局、自分の欲望や恐怖や不安に囚われるようになるかもしれません。

ヨセフの表す信条の第一と第二なしには、他の真理は役に立たなくなります。本当の主を知らなければ、主の神的人間から発する神的真理を受けることができなくなります。主が栄化されての後、主の神的人間から、聖霊という照らしが出て、人はこの照らしを受けて、御言葉の深い理解をしています。
この聖霊の照らしがなくなると、深い真理は理解できません。天界の教えの書を読み進んでも、理解できません。主への愛がないからです。主への愛がなければ、本当の隣人愛が理解できなくなり、隣人愛を行ったとしても、隣人への役立ちではなく、自己満足に終わる可能性が高くなってきます。

口先で告白するだけでは足りません。全地全能の神として主を見上げ、主の愛を私たちが自分の選択として、隣人への役立ちとして行うという姿勢を貫きます。この姿勢さえしっかりしていれば、主は私たちを、不安や怖れからお守りになります。
自分の生命や財産だけを守ってくださいという利己的な思いから離れなくてはなりません。利己的な思いが混ざった祈りは天界に届きません。霊的・天的な姿勢が含まれている祈り、霊的・天的な、隣人愛と主への愛の願いが中心となっていれば、祈りは必ず天に届き、その願いは聞かれます。

完全に利己的要素をなくすことができなくても、素直な心から「跪き、謙遜な心で主を救い主なる神として礼拝します。その際、主の神的本性と人間的本性との間の教義上の区別について何も考えません。聖餐式に同じ思いで参列します。 そうすれば心には、主の神人性が保たれて」ます。主を神的人間と、心から思い、考えれば、神的力から、自分の中にある自己愛と闘うことが可能となります。

しかし、ヨセフの兄達は、嫉妬のあまり、ヨセフの彩りの美しい衣服を剥ぎ取り、穴の中に投げ込みます(37:23.24)。これらの行動の内意は、主は神的人間であるという、真理の外観を剥ぎ取り、ヨセフの表している真理の最も大切な部分を無にしてしまうことです。一部の教会が、このような残虐を行ったことを表しています。しかし私たち新教会は、そうあってはなりません。

新教会の第一の真理は、「主の人間は神的である」です。この第一の真理の基に、断悪修善を行うことで、「主への愛と隣人への仁愛によって教会を作る」ことが二番目の真理です。第二の真理は、第一の真理の原則のもとに生きます。これが前提でなければ、第二の真理は弱くなります。ただの人となってしまった主の命令は聞けなくなり、ただの人を愛することは難しくなります。ただの人から愛をもらい、隣人に役立てることは簡単ではありません。

「主の人間は神的である」ということを心に焼き付け、自分の潜在意識に植え込むには、日々の生活、意識を常に繰り返すことが役に立ちます。機会があるたびに、「跪き、謙遜な心で、主を救い主なる神として礼拝する」習慣を身につけます。

するとヨセフの夢の通り、「太陽と月と十一の星が私(、ヨセフ)を伏し拝」(37:9)みます。
アーメン。


創世記
37:1 さて、ヤコブは父の寄留の地、カナンの地に住んでいた。
37:2 これはヤコブの歴史である。ヨセフは十七歳のとき、兄たちとともに羊の群れを飼っていた。彼はまだ手伝いで、父の妻ビルハの子らやジルパの子らとともにいた。ヨセフは彼らの悪いうわさを彼らの父に告げた。
37:3 イスラエルは、息子たちのだれよりもヨセフを愛していた。ヨセフが年寄り子だったからである。それで彼はヨセフに、あや織りの長服を作ってやっていた。
37:4 ヨセフの兄たちは、父が兄弟たちのだれよりも彼を愛しているのを見て、彼を憎み、穏やかに話すことができなかった。
37:5 さて、ヨセフは夢を見て、それを兄たちに告げた。すると彼らは、ますます彼を憎むようになった。
37:6 ヨセフは彼らに言った。「私が見たこの夢について聞いてください。
37:7 見ると、私たちは畑で束を作っていました。すると突然、私の束が起き上がり、まっすぐに立ちました。そしてなんと、兄さんたちの束が周りに来て、私の束を伏し拝んだのです。」
37:8 兄たちは彼に言った。「おまえが私たちを治める王になるというのか。私たちを支配するというのか。」彼らは、夢や彼のことばのことで、ますます彼を憎むようになった。
37:9 再びヨセフは別の夢を見て、それを兄たちに話した。彼は、「また夢を見ました。見ると、太陽と月と十一の星が私を伏し拝んでいました」と言った。
37:10 ヨセフが父や兄たちに話すと、父は彼を叱って言った。「いったい何なのだ、おまえの見た夢は。私や、おまえの母さん、兄さんたちが、おまえのところに進み出て、地に伏しておまえを拝むというのか。」
37:11 兄たちは彼をねたんだが、父はこのことを心にとどめていた。

マタイ
16:15 イエスは彼らに言われた。「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」
16:16 シモン・ペテロが答えた。「あなたは生ける神の子キリストです。」
16:17 すると、イエスは彼に答えられた。「バルヨナ・シモン、あなたは幸いです。このことをあなたに明らかにしたのは血肉ではなく、天におられるわたしの父です。
16:18 そこで、わたしもあなたに言います。あなたはペテロです。わたしはこの岩の上に、わたしの教会を建てます。よみの門もそれに打ち勝つことはできません。
16:19 わたしはあなたに天の御国の鍵を与えます。あなたが地上でつなぐことは天においてもつながれ、あなたが地上で解くことは天においても解かれます。」

天界の秘義4723
・・・
教会を構成する本質的なものは二つあり、これは教義上の二大要点でもあります。それは主の人間性が神化されていること、もう一つは、主への愛と隣人への仁愛が教会を構成するということです。愛や仁愛から切り離された信仰が教会を構成するのではありません。以上は〈神の真理〉の中心でもあり、「ヨセフ」がまた、それを表象します。・・・
④ 〈神の真理〉は、神性そのものから直接発出するのでなく、主の神人性のみ力で発出するものであることが、以上の簡単な説明だけでも明らかです。信仰のみの教義のために論戦し、信仰の〈いのち〉を生きようとしない人は、自分のもとで、主の神人性を消し去ります。かれらは主の人間性が純粋に人間であって、 他の人間と変わらないと信じ、そのため口先でどのように主を告白しようとも、主の神性を否定する者が多くいます。しかし信仰の〈いのち〉に生きる人は違います。かれらは跪き、謙遜な心で主を救い主なる神として礼拝します。かれらはその際、主の神的本性と人間的本性との間の教義上の区別について何も考えません。聖餐式に同じ思いで参列します。かれらの心には、主の神人性が保たれていることが分かります。