荒野の女

女は荒野に逃げた。黙示録12:6

黙示録で示されている、この「女」とは、ある特定の女性のことではありません。黙示録12章の冒頭には、
「一人の女が太陽をまとい、月を足の下にし、頭に十二の星の冠をかぶっていた。」(黙示録12:1)と言われています。
ここでの「女」は、
「真理への霊的情愛です。ここから教会が教会とされます。したがってその情愛に関する教会も意味されます。」(AE 707)
すなわち、教会のことを指しています。その教会の源となるのは真理への情愛であるとされています。

私たちの持つ「教会」のイメージに修正が必要です。
立派な建物、荘厳な礼拝堂、牧師、信徒の組織、宣教のためのパンフレットなど、外面的な要素を全て捨象し、直接、本質に迫ります。霊界にもこれらの外面的要素はあるとスウェーデンボリィは記録してはいますが、より本質的には真理への情愛が教会の源となります。この情愛によって教会が誕生します。
そこに富への欲望や、他人を支配したいという欲望、自分の名誉欲などが混じるなら、その純粋さは急激に減少して、さらに欲念の割合が高まるなら、教会の名にすら値しなくなります。真理への情愛ではなく、人の欲念が勝るからです。

ギリシア語で教会員などを表すエクセレシアeccelesiaも、私たちが思うものとは全く別の意味から生まれています。
エクセレシアeccelesia の意味は、「呼びかけられた」あるいは、「共に集った」です。ギリシアでは政治集会や戦いへの呼びかけの集会があり、人が集められたようです。私たちの場合は礼拝や学びのために、人々に呼びかけ、それに応じた人が集まります。
これも言葉の意味からすれば、建物である必要は全くありません。牧師か誰か他の人が呼びかけて、その呼びかけに応えて人々が集まればエクセレシアが成立します。
先に引用した「真理への情愛」という目的を加えると、「真理」に魅せられ、呼びかけに応えた人たちが集まることになります。

教会の意味を、さらに天界の教えに訊ねると、
「生き方が教会を構成します。生き方へ適用の場合を除いて、教義が教会を構成するのではありません。」(天界の秘義8152)
私たちの真理に従った生き様がそのまま教会となります。私たちそれぞれの生き様です。生き方です。
教会は教義からくる(AE730)といいますが、ここでは教義や教義を記した本よりも生き方が強調されています。ましてや建物や制度、組織でもありません。真理に従った「生き方」、「いのち」と呼ばれるものです。

「太陽をまとう女」とは、主に対する愛にいる者たちと、そして隣人への愛にいる者達の教会を意味します。(黙示録解説AE705, 707)
主に対する愛、隣人への愛を心に抱き、それを実現する真理を求めて生きようとする者達が呼びかけられて集まり、行動を起こし、志を新たにする集まりが教会です。これが本来の教会の趣旨です。私たちの理想の姿でもあります。

しかし、黙示録12章では状況は異なります。
そこには異形の赤い龍がいるからです。
東洋で龍といえば、お寺などにある見慣れた伝説の生き物を連想しますが、みことばの龍は異なります。
「自己愛と単に自然的そして感覚的で多少ともみことばの知識とそこからの教義や教えを持ち、生き方ではなく、知識によって救われると考えている者」が意味されます。(黙示録解説714)
龍の影響を受けるなら、何も行動することなく、知っているだけ、学ぶだけでいい、それで救われるという、自分に都合のいい考え方にそまってしまいます。

新教会教義を知る人でも、読むだけ、学ぶだけという考えをすべて払拭できてはいません。善に向けて行動しなければ、新教会の教え、女が身籠った我が子は、自分愛と自然的、感覚的な考えに染まってしまうのが、私たちに遺伝悪の強烈さです。新教会教義は、龍に食われてしまいます。子を守るために、身重の女性は力もなく身を守りそこから遁げるしかありません。産みの苦しみに耐えて、子を産むと、ひとまず子を安全な天に預け、出産で弱り果てた女は身を隠すしかありません。そこで女のために、準備されていたのが荒野です。

もっとましな場所を備えてくれなかったかと思うかもしれませんが、残念ながらシェルターは仮住まいでしかありません。災害のシェルターでも、難民キャンプでも、当面の危機を避け、最低限の生活できる所でしかありません。

みことばであらわされる荒野とは、どんな意味があるところでしょうか?
天界の教えから引用すれば、
(1) 荒廃してしまった教会、あるいはあらゆるみことばの真理が偽りとされた教会。例えば、主が世に来られた時のユダヤ人たちの中にあったもの。

(2) みことばが与えられていないので、真理が全くない教会。例えば主がお越しになったときの正直な異邦人のうちにあったもの.

(3) 真理がなく、試練の状態。なぜなら試練に入れられた者は悪霊に囲まれ、悪霊は人から真理を取り去ってしまうからです。
(黙示録啓示 AR546)

はじめは異邦人だった私たちは、今はみことばを与えられたので、2は当てはまりません。天界の教えにはさらに気になる教えがあります。

「以前の教会の偽りが最初に取り去られる・・偽りが取り除かれないままで受け入れられ、植えつけられた真理は残ら」ない。(黙示録啓示 547)
持っている偽りがあれば、それをすべて取り除かなければ、新しい真理は根付かないということです。
さらに、「善にいない者にはしたがって、真理の内にいない。」(AE730)
善にいない者には、真理はない。
この2点です。

偽りがすべて除かれ、善の内にいないなら、新教会は荒野、すなわち、きわめてわずかな人の間にしか存在できない、ということです。

真理や教義を優先するのは大切なことですが、それ以前に自分の内にある偽りを取り除き、実際に善にいなければ、新教会は発展することができず、いつも龍の脅威のそばにいることとなります。

私たちの心のどこかに、偽りが残ってはいないでしょうか?自己点検が必要となります。
主は天地の唯一の神である、という第一戒に対し、金や権力や名誉を同時に崇拝するなら、二人の主人に仕える(マタ 6:24)ことになります。
今後年金で生きていけるかどうかわからない、子の教育や親の介護のためにもお金は必要で、今は主や隣人よりも、お金が大切、とすれば隣にいる龍に、子である新教会の教えが食い尽くされてしまいます。後者も大切なのですが、優先するものが異なるなら、偽りは私たちの心の内に微妙に住み着いたままです。その微妙な優先順位の差は、何かのときに出てきて大きなものとなるかもしれません。

「盗むなかれ」の第六戒も、心の底から、自分では良いことはできない、ということをいやというほど思い知らない限り、漠然と「悪いことをしないで良いことをしなければ間違いない」と生活しているなら、この漠然とした思いが、いつか行動に差をもたらすことがあります。この思いの中には、まだ自分自身から良いことをしていると、いう思いが含まれているからです。第六戒は、自分から出ることはすべて悪であり、主からでなかれば、良いことはできないことを、悟っておかなければなりません。いや、行動のたびにそうであると確認しなければ、自分に都合のいいふうに解釈してしまいます。

自己愛に染まっている私たちにとっては、簡単なことではありません。ついつい自分の都合のいいように解釈し、ながされてしまいます。

「善が少ないので、真理も根付かず、そのため日本には新教会はわずかであり、物理的な距離がそこにはあり毎日曜に招集されてもそれぞ家庭の都合もある。海外の新教会と交流しようにも、言葉の壁にも隔てられてしまう。外国語の教会紙はきても全部は読めない。私たちは孤独な荒野のなかにいるままた。日本の新教会と呼ばれるものも、権力欲の争いの中で荒れ果て、真理への情愛は純粋なまま保てない。やはり教会員が自己点検をそれぞれ寂しく行ってゆくしかないのか?」そんな結論には希望は少なく、日々の楽しさも少なく感じるかもしれません。

しかし、天界の教えの中では、「全世界に広がる主の教会」という言葉がよく出てきます。
「主の教会は全世界に広がり、そしてそれでも一つである。そのため生き方が教会を構成し、そしてそれが生き方から分離した教義 でないなら、教会は一つである。(天界の秘義1852)

最近のネット世界の広がりは急速です。5Gという、まだ見ない世界もすぐそこに来ています。
そして時と距離に縛られないのは、霊界だけではなく、今広がりつつあるネットの世界もそうです。ネット世界は危険性も含めて、きわめて霊界に似ています。ただ、私はアナログなので、そちらの世界は不得手、という方もおられるかもしれません。

「わたしは、勝利を得る者を、わたしの神の神殿の柱とする(黙3:12) とは、主から出た善からの真理を意味し、その中に彼らは住み、天界の主の教会を支えます。神殿によって教会が意味され、神の神殿によって、天界にある主の教会が意味されます。ここから明らかなのは、「柱」によって、最高の意義では神的人間の主が意味され、個別には、神的真理における主が意味されます:しかし表象的意味においては、「神殿」によって天界における主の教会と、同じように地上における主の教会が意味されます。」(AR191)

これは黙示録の第3章でフィラデルフィアと呼ばれる教会について言われたものです。
「あなたは忍耐についてのわたしのことばを守ったので、地上に住む者たちを試みるために全世界に来ようとしている試練の時には、わたしもあなたを守る。」(3:10) とあります。

私たち、孤独で荒野にいるように見えても、実はそうではありません。天界と地上にある主の教会が私たちを支えてくれています。そして、不思議な力で、私たちが知らないうちに、私たちを守ってくれています。
霊界とむやみにつながると危険であると警告されているように、ネットにも危険はあります。顔とその人物を直接知らないし、書き込まれた言葉だけが独り歩きすることもあるからです。しかし、その危険を知った上で、これを活用することで私たちは全世界に広がる主の教会に容易につながることは可能です。

また、それができなくても、心配する必要はありません。
天にも地にも、自分を守る「主の教会」があり、それは紛れもなく、現に存在しています。ただ一つの条件さえ守るならば。
私たちは、「行い」によって、フィラデルフィアと呼ばれる教会に属することになります。それは、「主の言葉を守り、主の名を拒まない」なら、全世界に広がる主の教会とつながることになるからです。実際に善を行うことによって、必ず主とその教会からの庇護があります。

「わたしはあなたの行いを知っている。見よ。わたしは、だれも閉じることができない門を、あなたの前に開いておいた。あなたには少しばかりの力があって、わたしのことばを守り、わたしの名を否まなかったからである。」(3:8)アーメン

黙示録
12:1 また、大きなしるしが天に現れた。一人の女が太陽をまとい、月を足の下にし、頭に十二の星の冠をかぶっていた。
12:2 女は身ごもっていて、子を産む痛みと苦しみのために、叫び声をあげていた。
12:3 また、別のしるしが天に現れた。見よ、炎のように赤い大きな竜。それは、七つの頭と十本の角を持ち、その頭に七つの王冠をかぶっていた。
12:4 その尾は天の星の三分の一を引き寄せて、それらを地に投げ落とした。また竜は、子を産もうとしている女の前に立ち、産んだら、その子を食べてしまおうとしていた。
12:5 女は男の子を産んだ。この子は、鉄の杖をもってすべての国々の民を牧することになっていた。その子は神のみもとに、その御座に引き上げられた。
12:6 女は荒野に逃れた。そこには、千二百六十日の間、人々が彼女を養うようにと、神によって備えられた場所があった。

黙示録
3:7 また、フィラデルフィアにある教会の御使いに書き送れ。『聖なる方、真実な方、ダビデの鍵を持っている方、彼が開くと、だれも閉じることがなく、彼が閉じると、だれも開くことがない。その方がこう言われる──。
3:8 わたしはあなたの行いを知っている。見よ。わたしは、だれも閉じることができない門を、あなたの前に開いておいた。あなたには少しばかりの力があって、わたしのことばを守り、わたしの名を否まなかったからである。
3:9 見よ。サタンの会衆に属する者、すなわち、ユダヤ人だと自称しているが、実はそうではなく、?を言っている者たちに、わたしはこうする。見よ。彼らをあなたの足もとに来させてひれ伏させ、わたしがあなたを愛していることを知らせる。
3:10 あなたは忍耐についてのわたしのことばを守ったので、地上に住む者たちを試みるために全世界に来ようとしている試練の時には、わたしもあなたを守る。
3:11 わたしはすぐに来る。あなたは、自分の冠をだれにも奪われないように、持っているものをしっかり保ちなさい。
3:12 わたしは、勝利を得る者を、わたしの神の神殿の柱とする。彼はもはや決して外に出て行くことはない。わたしは彼の上に、わたしの神の御名と、わたしの神の都、すなわち、わたしの神のもとを出て天から下って来る新しいエルサレムの名と、わたしの新しい名とを書き記す。

黙示録啓示 547 (部分)
「主の神的摂理は、その教会は最初はごく少数の内にあり、次第により多くの者たちのうちにあるようになる。なぜなら、以前の教会の偽りが最初に取り去らなければならないから。それ以前には真理は受け入れられず、同じように、偽りが取り除かれないままで受け入れられ、植えつけられた真理は残らず、龍の追随者に追い払われてしまうからです。キリスト教会でも事情は同じで、わずかから多数へと次第に成長します。

第二の理由は、地上の教会と共に機能しなくてはならない新しい天が最初に形成されなければならないからです。したがってヨハネが新しい天界を見て、神のもとから天界を出て新しいエルサレムが降りてくることになります。黙示録21:1-2