主への塗油

「ある女の人が、非常に高価な香油の入った小さな壺を持って、みもとにやって来た。そして、食卓に着いておられたイエスの頭に香油を注いだ。」マタイ26:7

マタイの前章で、主は、人々の前で、最後の喩えを説かれます。賢い花嫁と愚かな花嫁の喩え、タラントの喩え、六つの仁愛の喩えです。賢い乙女の喩えは愛を、忠実なタラントの教えは真理を、そして仁愛の業を象徴し、これらは主の教えのほとんどを網羅しています。しかし、一つ大事なものが抜けているように思います。

これらの教えを説かれた後、主はベタニアに行かれます。ベタニアはエルサレムから約3キロ、オリーブ山の麓にある町で、らい病人のシモンがいました。

すると一人の女性がやってきて、食卓におられた主の頭に、香油を注ぎます。
その瞬間、油のふくよかな香りが周り一帯に広がり、素晴らしい香りがあたりを包みます。
聖書で、油を注ぐとは、ヤコブが石に油を注ぎ(創28:18)、祭司や幕屋にある用具に油が注がれ、サムエルがサウルとダビデに油を注いで王としたように、聖別し、聖なる物、人であることを認める行為です。また「キリスト」の原語は、油を注がれた者を意味します。

油や脂肪分は、一時、健康に悪いというイメージがありましたが、オリーブ油や人の身体で合成できないリノ-ル油が、動脈硬化や血栓を防ぐため、現代では良い油は積極的に取るよう推奨されています。しかし、例えばオリーブオイルを取るには、元の実を痛めないよう手で収穫します。それは、収穫した時から酸化と発酵が始まるため、酸化を防ぐためです。これらは手間がかかる作業で、良い油はコストもかかります。ゲッセマネの園のゲッセマネとは、油絞りを意味しますエキストラ・バージンオイルはさらに手間がかかります。この女性が持ってきた油も、大変高価な油でした。

その香油は石膏のつぼに入った、たいへん高価な香油であったため、この女性の行為は、大きな議論を呼び起こします。
「何のために、こんな無駄なことをするのか。この香油なら高く売れて、貧しい人たちに施しができたのに。」(26:9,10)

主は、悪い行いを遠ざけ、善い行いをせよと教えられています。直前にも「あなたがたは、わたしが空腹であったとき、わたしに食べる物を与え、わたしが渇いていたとき、わたしに飲ませ、」(25:35)と教えられました。貧しい人達に食べさせ、飲ませ、着るものを与える、そのためにはお金が必要です。ただではできません。主に高価な油を注ぐことは、無駄で余計なことではないか?と言われれば、たしかに迷うかもしれません。

礼拝についても、同じような議論が可能です。毎週礼拝をする時間があれば、御言葉を読み、教義を学び、あるいは貧しい人々への炊き出しや、小さな親切運動など、奉仕に努めた方がいいのでは?礼拝に出て、説教を聞くのは、無駄な時間ではないか?また、教義をすべて学んでから、行ったほうが間違いない、あるいは、自分はすべて教義を読みつくしたので、礼拝など必要ないとする方もいらっしゃいます。

しかし油を注がれた主は、おっしゃいます。
「なぜこの人を困らせるのですか。わたしに良いことをしてくれました。貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいます。しかし、わたしはいつも一緒にいるわけではありません。」(26:10.11)

貧しい人とは、霊的には何が真で、何が善であるかを知らない人のことです(AE238他)。必ずしも、物理的に貧しい人のことだけではありません。
さらに「私はいつも一緒にいるわけではありません。」とおっしゃいましたが、マタイの最後の教えは、「見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」(マタイ28:20)です。主は栄化の後は、主は常に私たちと一緒におられます。

主は栄化され、いつもおられるはずですが、何故わたしたちはその存在を感じないのでしょうか?主からの流入を感じたいと願う方もいますが、それは、主からの流入をあまり実感してないからかもしれません。また、自分から主に助けを求めても助けてくれないという経験があるので、主はおられないと口にしてしまうかもしれません。

「わたしがいつも一緒にいるわけではない」とは、私たちの感覚が衰え、鈍くなり、そこに自分だけの都合だけを考えるようになったので、私たちが主の存在を感じなくなったことを語っておられます。事実、感覚のするどい、太古の教会の人々は、主から直接に認識を得ていたそうです。さらに、真実は、主が一瞬でも居られず、生命を与え、守っていただかなければ、私たちはたちまち自分のことだけしか考えないようになり、本当の生命が何かわからなくなります。

「そして貧しい人々はいつも私たちと一緒にいる」とは、私たちには本物の善と真理の知識がないということです。実は私たちには善と真理の知識の最重要部分を忘れています。それは善と真理はすべて主お一人から来ることです。冒頭の三つの教えで、何か大切なものが欠けていると感じたのは、主ご自身の存在でした。

知識としては知ってはいるかもしれませんが、心の底からそう信じていません。自分は、十戒を知っている、聖書の出エジプト記に書いてあるではないか?と言いますが、何故十戒が与えられたのか、それは法律とどう違うのか?どこまで深く守っているのか?何故、神殿の最も聖なる所に聖なるアークが置かれ、その中に十戒が納められたか?これらを心から納得して知らなければ、本物の善と真理の知識が身についたとはいえません。
自分のどこかが納得してないからです。十戒が主ご自身であるということを実感するまで、守り切れていないからです。そして、教えの根本に、主が居られなければ、私たちが善と知識を知らない「貧しい」人自身に他なりません。

油を注いでくれた女性は、行いによって、主が天地の神であり、救い主であることを示してくれました。頭に油を注ぐことによって示しました。油を頭に注ぐとは、栄化の意味を持っています(AE 659:19)。主はもはや私たちのような人間ではなく、主の存在自体のすべてを、聖別しなければならないことを述べています。

「この女が、この香油をわたしのからだに注いだのは、わたしの埋葬の用意をしてくれたのです。」(26:12)なくなった方に油を塗るという習慣は古代からあり、匂いを消すためのものであったかもしれません。しかしヤコブが石柱に油を塗ったように、真理からはじめ、それを神的なものまで高めることも意味します。主は元から神的存在でした。そして神的存在に栄化されます。但し今度は、私たち人間が、同じ道を通れば、再生を通して天的なものにされる、ということを象徴します(AC4882)。女性が主に油を注ぐのは、主の埋葬の準備ではなく、主が私たちをより成長させ、天界的なものまで高めることを意味しています。
そのため主は続いて、おっしゃいます。
「世界中どこでも、この福音が宣べ伝えられるところでは、この人がしたことも、この人の記念として語られます。」(26:13)

この女性の行いは、この女性のための記念ではありません。主が私たちを復活させ、天使とさえすることを記念しています。主の福音が、私たちを再生されるという記念です。洗礼は水で行われ、私たちに知識を与えそれを私たちが行って真理とします。私たちは教会に入る時にその徴として洗礼を受けます。再生されることを忘れてはならないと記念することが洗礼です。

しかし、主はご自身が復活するとともに、私たちが再生して天使となるまで高めようとされています。私たちが再生するなら、私たちも、この主の業は、まさに真実であったと述べ伝え、告白します。主ご自身はまさに紛れもない神で、私たちに新しい生命を与えてくれた、と心から歓んで大きな声で宣言します。洗礼の水の真理ではなく、再生の善の油です。私たちは真理ではなく、愛の善によって再生します。主からの愛の善が私たちの心に根付き、実行し開ければ私たちは再生できません。主からの愛によって善い事を歓んで行わないうちは、再生できません。

こうして、主は三つの天界の喩えに加えて、ご自身の塗油による聖別と栄化で、教えを締めくくられます。

しかし、残念なことに、主の弟子の一人のユダは、主と弟子達の会計を預かり、金銭に心を奪われていました。そしてまた、物事の目先の筋道に囚われ、この女性の行いは、主の貧しい人に施せという、今までの教えと矛盾していると考え、自分の考えを押し通そうとします。主の否定です。
祭司長のところに行って、主を裏切り引き渡すという約束をしてしまいます。
「人の子を裏切るその人はわざわいです。」(26:24)と、神的真理そのものである主を否定して、裏切り、敵である祭司長に銀貨三十枚で売り渡してしまいます。

銀貨三十枚とは、出エジプト記に出てくる、奴隷を傷つけた時に支払われる金額です(出エ21:32)。ユダにとって矛盾していると考えた神的真理は、もはや奴隷と同じ価値しかなくなっていました。ユダは主を、「主」ではなく、このときから先生、(ラビ)としか呼んでいません(26:25,49)。教えの中心である、主ご自身を、ただの人間として考えると、もはや再生はできなくなります。そのため、「そういう人は生まれなかったほうがよかったのです。」(26:24)と言われます。主を人間と考えている間は、私たちは新しい生命を与えられ、再生できません。新しい生命自体を否定しているからです。愛の善の源である主を否定すると、愛の善を主から受け入れることができません。自分の愛、自己愛に向かってゆきます。

しかし、聖書に出てくる女性が主に油を注いだ行いは違います。主を救世主として認め、ただの人間ではないことを表す行為でした。この行為は、ペテロや他の弟子達の信仰とは異なります。ペテロは、信仰をしつこいほど口にし続けますが、主が捕らえられてしまった後は、遠くから主を見て、鶏が三度鳴くまで、主を否定し続けます。ペテロは、鶏が鳴いて、朝がくるまでは、揺らぎつづける信仰を意味します。主が捕らえられた後、四散してちりぢりになって隠れてしまった弟子達もそうです。私たちの信仰も揺らぎ続けているかもしれません。主に油を注いだ行い、主を神として認めた行為は、その後も大切なものとして記念しなければなりません。

なぜなら、本当に善い行いは、主お一人から発しているからです。主を天地の神、救世主、あがない主として心から認めなければ、信仰と仁愛、善行は、すべて無駄になってしまいます。その源を否定するからです。主がすべての教えの中心であり、すべての源であることを私たちはいつも、心に抱かねばなりません。主に油を注ぎ続けなければなりません。主が愛の源であり、私たちは主の愛から善を行うことを知らねばなりません。
私たちは、礼拝に参加して、主の前に身を低くして、賛美することで、主は生命と愛の源であることを確認しつづけます。

「世界中どこでも、この福音が宣べ伝えられるところでは、この人がしたことも、この人の記念として語られます。」(26:13)アーメン。

創世記(新改訳)
28:16 ヤコブは眠りから覚めて、言った。「まことに【主】はこの場所におられる。それなのに、私はそれを知らなかった。」
28:17 彼は恐れて言った。「この場所は、なんと恐れ多いところだろう。ここは神の家にほかならない。ここは天の門だ。」
28:18 翌朝早く、ヤコブは自分が枕にした石を取り、それを立てて石の柱とし、柱の頭に油を注いだ。
28:19 そしてその場所の名をベテルと呼んだ。その町の名は、もともとはルズであった。
28:20 ヤコブは誓願を立てた。「神が私とともにおられて、私が行くこの旅路を守り、食べるパンと着る衣を下さり、
28:21 無事に父の家に帰らせてくださるなら、【主】は私の神となり、
28:22 石の柱として立てたこの石は神の家となります。私は、すべてあなたが私に下さる物の十分の一を必ずあなたに献げます。」

マタイ福音書 新改訳
26:6 さて、イエスがベタニアで、ツァラアトに冒された人シモンの家におられると、
26:7 ある女の人が、非常に高価な香油の入った小さな壺を持って、みもとにやって来た。そして、食卓に着いておられたイエスの頭に香油を注いだ。
26:8 弟子たちはこれを見て、憤慨して言った。「何のために、こんな無駄なことをするのか。
26:9 この香油なら高く売れて、貧しい人たちに施しができたのに。」
26:10 イエスはこれを知って彼らに言われた。「なぜこの人を困らせるのですか。わたしに良いことをしてくれました。
26:11 貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいます。しかし、わたしはいつも一緒にいるわけではありません。
26:12 この人はこの香油をわたしのからだに注いで、わたしを埋葬する備えをしてくれたのです。
26:13 まことに、あなたがたに言います。世界中どこでも、この福音が宣べ伝えられるところでは、この人がしたことも、この人の記念として語られます。」
26:14 そのとき、十二人の一人で、イスカリオテのユダという者が、祭司長たちのところへ行って、
26:15 こう言った。「私に何をくれますか。この私が、彼をあなたがたに引き渡しましょう。」すると、彼らは銀貨三十枚を彼に支払った。
26:16 そのときから、ユダはイエスを引き渡す機会を狙っていた。

天界の秘義4582. アルカナ訳

「その上に油を注いだ」とは、愛に属する〈神の善〉を意味します。「油」が愛に属する神の善を指すためです(882,3728節)。「石柱を建て、その上で灌祭をささげ、その上に油を注いだ」とは、その内的意味では、末端部における真理から出発したプロセスを浮き彫りにします。つまりより内部になる真理と善に向かい、ついには愛の善にいたる過程です。
「石柱」とは、末端的秩序における真理を意味します(4580節)。「灌祭」とは、より内部にある真理と善です(4581節)。「油」は愛に属する善です。このようにして、主の人間性は、神化への進展のプロセスを踏まれました。このようにして、人の場合も、主が再生を通して、天的にしてくださいます。

創世記33章 エサウとの再会

創世記33章 エサウとの再会
ヤコブは自ら彼らの先に立って進んだ。彼は兄に近づくまで、七回地にひれ伏した。
エサウは迎えに走って来て、彼を抱きしめ、首に抱きついて口づけし、二人は泣いた。創33:3,4

ヤコブはカナンに戻り、仲違いをした双子の兄エサウと会うため使者を送ります。すると、兄の返事は400人を引き連れてやってくるということでした。ヤコブは非常に怖れて、自分の家族や家畜を、整えて、分割して準備します。ヨルダン川の支流ヤボクの渡しの前で、一晩中ある人と、格闘して祝福を求め、イスラエルという名をもらいます。

本章は、その後のヤコブとエサウの再会と和解を取り扱っています。文字の意味だけを捕らえると、仲違いした兄弟の再会の感動と和解の素晴らしさがにじみ出ています。しかし、聖書の文字面だけではなく、より深い意味を捉えた天界の教義は、全ての人間が歩むより深い霊的成長の過程について説いています。すなわち、善と真理の結合、再生の始まりです。

ヤコブはパダン・アラムに行き、あしかけ20年かけて真理の知識を集めます。それはレアとラケル、二人の女奴隷の子が生んだ11人の男子として、カナンに連れて帰ります。男子は御言葉では真理を表すからです。そこでは11種類の真理が産まれる、すなわち真理を認識しました。それは信仰・仁愛・相互愛などの外からでもわかる情愛から認識した真理と、一見ではわからない深い心、内的情愛から発した真理、さらに直接・間接の情愛ではなく、それらの真理に役立つ、肯定的態度・永遠の幸福といったやや補助的な真理群です。

しかしこれら真理は、図書館の本棚・書庫にある本のように、並べているだけでは、役に立ちません。借りて読んでくれるのを待っています。例えば、「仁愛」という真理を考えて見ます。「仁愛」について書いた本は、おそらくこの図書館のどこか、探せばあると思われます。しかし「仁愛」と題した本もあり、「チャリティ」という題の本も「仁慈」「カリタス」という名もあります。また「真理と善」と題する本のどこか一章に、より詳しく書かれているかもしれません。本を探し、手に取る前から、題名から、隣人に善くすることだと漠然とわかります。

しかし「仁愛」が何を意味するのか、どんな行為なのか、対象は困った人であれば誰でもいいのか、個別の詳細はわかりません。ただ、この図書館の中のどこかに詳しく書かれている本、あるいは項目だけがあることが推測できます。これが記憶にあるだけ、本棚のどこかにあることだけわかっている状態です。まだ実際に使用していないので、記憶「知」や事実「知」、科学「知」などといわれる知識でしかありません。

仁愛は、人に優しい心を抱くことだと漠然と考え、さらに学んでみようとして、本を一冊手に取ります読んでみます。すると怠惰な人に財産を与えても、消費して快楽にふけるだけで本当の仁愛ではないとわかります。さらに学ぶと、困っている人、誰にでもよくすることが必ずしも正しくないこともわかります。貸出を受けながら家に持ち帰ってゆっくり読んでいると、隣人は人だけではないのではという思いもわき上がってきます。真理を実行するレベルになると、やっと本来の用語、真理に近くなってきます。これが真理の善と呼ばれるもので、この章でのヤコブを表しています(AC4337)。
真理の善であるヤコブは、神的善であるヤコブと結ばれようとしています。本を一読したが、まだ疑いを抱いている段階です。しかし真理の善は、その善が本物かとうか、神的善と結ばれる価値があるかどうか、前章から厳しい試練を受けています。ヤボクの渡しで格闘したエピソードは、この試練を意味します。試練に勝利し、神的な天的・霊的な状態であると宣言されます。「イスラエル」という名はこの状態を意味します。

真理の善の実行は、本当に仁愛だけの純粋な想いからなのか、実は人に良く思われるため、あるいは仁愛の行為を行って、利得を得るという欲が隠れているかもしれません。エサウという神的善は真理の善と結びつこうとして400人の善の象徴と共に、怒濤のように、圧倒的な流入が押し寄せてきます。しかし、これら不純の思いがあると結合できません。とりあえず仁愛なるものを、行ってみますが、本人が真剣かどうかわかりません。まだ覚悟ができていません。

自分のうちに不純なものがないか、整理して並べます。エサウという神的善の前にヤコブは真理を並べて整理します。そしてエサウがやってきてチェックして、使えるかどうかを選択します。不純な動機が混ざった「真理」や偽真理があれば、厳しく指摘されることになります、あなたはこれが仁愛といったが、「本当にそうか?」「永遠の生に役に立つの?」「不純だ!」などと、拒否されます。先の喩えでいえば、様々な仁愛をトライしはじめます。しかし頭の中でやらなければ、いけないと努力を繰り返します。

もしエサウに、大切だ、役に立つという証明ができなければ、ヤコブの誓いや、やってきたことは無駄になります。厳しい検閲と検査を受ける時は、自分の選択が正しいかどうか不安が募ります。試練の時です。そしてこの検査が終わると、ヤコブはエサウと結ばれることになります。
いよいよエサウの登場です。

ヤコブは七回礼拝し (33:3) 、エサウは彼を迎えに走って来て、彼を抱き、首に抱きついてキスし、ふたりは泣いた。(33:4)
ここに再生の秘密が隠されています。ヤコブの礼拝とエサウの走り寄り、抱擁・キスがないと、私たちに再生はありません。常日頃から歓んで仁愛を楽しんで行えません。

まず、ヤコブを表す真理が七回礼拝するとは、全面的服従を意味します。
 「ヤコブ自身は、彼らの先に立って進んだ。彼は、兄に近づくまで、七回も地に伏しておじぎをした。」(33:3)これは善に対する真理の全面的服従です。そして、なぜ礼拝が必要か、がここにあります。
礼拝は、神様が栄光を求めているためではありません。学校の先生に身を低くすることは、指導を受け入れるため必要なことです。神様と教師に、栄光や権威を与えるためではありません。しかし、教師や牧師は、自分に栄光と権威があると思うなら、教える側の傲慢・高慢という別の問題を生みます。

礼拝は、卑下と服従です。自分を低くして、善に服従します。真理ではなく、再生という役立ちの善を優先します。これに反して、真理の研究・学習を優先するなら、人間の再生という神様の愛、目的を無駄にすることになります。真理の研究や学習は、再生という本来の目的を離れ、偽りが付着しやすく、傲慢や異端という方向に向いてゆきます。人間の高ぶりが生まれるないよう、聖書の至るところで警告されています。指導を受け入れる側が、傲慢であれば、霊的成長はありません。受け入れようとするものが、高ぶると、受け入れができません。指導する側が高ぶると、その教えは滅びます。

それは、卑下の状態にあるとき、人は、自分にある悪と偽りに背を向けるようになるからです。傲慢という悪と自分の高慢という偽りを取り除くことによって、神は、善と真理を流入させることができます。(AC4347) まず自分の内にある悪を徹底して避けなければなりません。日頃の、定期的な自己点検が不可欠です。

卑下によって善の流入が可能になると、エサウはヤコブを「抱き」、そして「首をかかえ」、そして「キス」します(33:4)。
「抱く」ことで第一段階の愛の結びつきが起こります(AC4351)。そして「首をかかえ」てのキスは第二段階の愛の結びつきです(AC4352)。
首は内部と外部をつないでいるため、愛は外部から内部に流入し、第二段階の結びつきとなります。
冒頭の喩えで言うと、仁愛の実行なしには食物がないように感じて、痩せ飢えるほどになります。図書館の本はもはや内容をマスターしてしまったので、図書館に返却します。

結びつける力が愛です。善の中にある愛です。そのためエサウが抱き、キスします。この愛の力は、人のものではありません。人の愛を讃える風潮がありますが、これはせいぜい外面的な愛だけです。本当の愛の力、結合させる力は主のみがお持ちです。主以外に愛の源はありません(AC4352)。

真理と善は、結婚前の男女のように、別の存在です。異なる存在を結合するためには、強力な力が必要です。
原子の中の、陽子と中性子は、特に陽子同士は同じプラスとプラスで、近づくと排斥しあいます。排斥しあう陽子と陽子が、結合を続けるためには、大きな力が必要です。排斥しあう磁石をくっつけておくのに、ずっとかなりの力を出し続けてなければなりません。陽子や中性子を結合させるために核力が働いています。
現代では私たち人間は核分裂を原子力として利用しています。しかし、太陽自体が核分裂よりはる合によって凄まじい熱と光を発しているように、本来その力の源は、人間にはありません。人間以外のものです。結合する力は強く、同じく愛の力も強力です。

この愛の力がないと、あらゆる結合はなくなります。愛のない信仰の真理は、生命のない虚しい言葉にしか過ぎません。人間が頭の中の思考で産み出す「真理」は、使わないでいると、生命がないまま役に立たず善を生み出しません。善を生み出す信仰が欠ければ、空虚な概念の集まりで、そこには偽りが寄ってきます。信仰とは、真理を実行に移す力です。思い込みを無理に信じようとすることではありません。

愛の善がないと信仰はありえません。そこには信頼と、委任がないからです。「今日はいい話を聞いた。夫婦で仲良くやって行こう」と満足しているだけでは、再生という善の役には立ちません。神への信頼と委任があってはじめて行動に結びつき、真理の善となってゆきます。そして、真理の善に、神的善の流入が必要です。神的善の流入によって生命が生まれ、再生が始まります。

霊的信頼がなければ、不安と苦悩に支配されてしまいます。偽りの説き伏せによって自己愛と世間愛が生まれ、再生とは逆の方向、天界とは逆の方向に進むことになります。これが神に向こうとしない人間の結末です(AC4352)。この信頼ができあがらないと、夫婦は諍いを繰り返すことになります。

そして「キス」によって、愛によるさらに内部の結合が生まれます。結合が、人を再生させます。自分にある様々な真理が、善と結びつくことによって、役立ち、再生に進みます(AC4353)。

受験勉強をするときのような詰め込み勉強を考えてみます。合格のために無理やり詰め込んだ知識は、すぐに忘れてしまいます。試験問題を解く時にその知識が出てくるかどうかわかりません。しかし、学問に興味を持ちはじめ、学問自体を愛するなら、より深く学ぶことができます。そして遠回りは一番の近道となります。学問に愛を持ち遠回りをするようですが、それが合格の近道です。そうするともはや参考書や教科書は不要で、研究は進み、大学で研究し始め、論文を書き、教え始めることができます。

そして二人は泣きます。これは喜びの結果です。歓びが自分のものになると、周りとわかち始め合わずにはいれません。
ヤコブとエサウは和解し、一番遅い者のペースに合わせて、さらにゆっくりと結合してゆきます、すなわち再生に向けて進みます。「子どもたちは弱く、乳を飲ませている羊や牛は私が世話をしています。一日でも、ひどく追い立てると、この群れは全部、死んでしまいま」わないためです。歓びと愛を大切にして歩むことができます。

エサウは、ヤコブへの善の注入という役割が終わり、エサウの役目は終了します。
「エサウは、その日、セイルへ帰って行った。」(33:16) アーメン。


創世記 (新改訳)
33:3 ヤコブは自ら彼らの先に立って進んだ。彼は兄に近づくまで、七回地にひれ伏した。
33:4 エサウは迎えに走って来て、彼を抱きしめ、首に抱きついて口づけし、二人は泣いた。
33:5 エサウは目を上げ、女たちや子どもたちを見て、「この人たちは、あなたの何なのか」と尋ねた。ヤコブは、「神があなた様のしもべに恵んでくださった子どもたちです」と答えた。
33:6 すると、女奴隷とその子どもたちが進み出て、ひれ伏した。
33:7 次に、レアも、その子どもたちと進み出て、ひれ伏した。最後に、ヨセフとラケルが進み出て、ひれ伏した。
33:8 するとエサウは、「私が出会ったあの一群すべては、いったい何のためのものか」と尋ねた。ヤコブは「あなた様のご好意を得るためのものです」と答えた。
33:9 エサウは、「私には十分ある。弟よ、あなたのものは、あなたのものにしておきなさい」と言った。
33:10 ヤコブは答えた。「いいえ。もしお気に召すなら、どうか私の手から贈り物をお受け取りください。私は兄上のお顔を見て、神の御顔を見ているようです。兄上は私を喜んでくださいましたから。
33:11 どうか、兄上のために持参した、この祝いの品をお受け取りください。神が私を恵んでくださったので、私はすべてのものを持っていますから。」ヤコブがしきりに勧めたので、エサウは受け取った。
33:12 エサウが、「さあ、旅を続けて行こう。私があなたのすぐ前を行くから」と言うと、
33:13 ヤコブは彼に言った。「あなた様もご存じのように、子どもたちは弱く、乳を飲ませている羊や牛は私が世話をしています。一日でも、ひどく追い立てると、この群れはすべて死んでしまいます。
33:14 あなた様は、しもべより先にお進みください。私は、前を行く家畜や子どもたちの歩みに合わせて、ゆっくり旅を続け、あなた様のもと、セイルへ参ります。」
33:15 それで、エサウは言った。「では、私と一緒にいる者の何人かを、あなたのもとに残しておくことにしよう。」ヤコブは言った。「とんでもないことです。私はご主人様のご好意を十分に受けております。」
33:16 エサウは、その日、セイルへ帰って行った。

マタイ福音書
25:35 あなたがたは、わたしが空腹であったとき、わたしに食べる物を与え、わたしが渇いていたとき、わたしに飲ませ、わたしが旅人であったとき、わたしに宿を貸し、
25:36 わたしが裸のとき、わたしに着る物を与え、わたしが病気をしたとき、わたしを見舞い、わたしが牢にいたとき、わたしをたずねてくれたからです。』
25:40 ・・・『まことに、あなたがたに言います。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、それも最も小さい者たちの一人にしたことは、わたしにしたのです。』


天界の秘義4353(アルカナ訳)
② 以上の説明で、明らかになったことは、次のとおりです。再生は、善が諸真理と結ばれることで成立しますが、その結合は、内部に向かって次第に進展していきます。つまり諸真理は、内部にむかって、継続的に、善と結ばれていきます。再生の目的は、内部人間が外部人間と結ばれること、合理性が自然性と結ばれることです。人はこれによって霊的になっていきます。
両者の結合がなければ、再生はありません。つまり善が、自然性の中にある諸真理と結ばれるまでは、結合は成立しません。自然性は、一つの場になります。そして自然性の中にあるものは、相応関係にあります。自然性の再生にあたって、善が諸真理と結ばれる過程が、内的でしかも段階的になるのは、そのためです。しかも霊的なものが最初に結ばれるのは、自然性の中の内奥部にあるものです。そして、その内奥部にあるものをとおして、より外部にあるものと結ばれていきます。
真理が〈真理の善 veri bonum〉にならない限り、つまり意志と行為を伴う真理にならない限り、人の内部は、本人の外部と結ばれるようにはなりません(4337節)。そうなって、初めて結ばれるようになります。なぜなら、主が内的人間をとおして、人に流入を注がれる場合、内部人間にある善を通して、行われるからです。内部人間にある善は、外部人間にある善と結ばれるわけで、善が直接、真理と結ばれるわけではありません。

天の御国に関する三つの喩え(最後の喩え)

M25 天の御国に関する三つの喩え(最後の喩え)

ですから、あなたがたも用心していなさい。人の子は思いがけない時に来るのです。(マタ24:44)

主がエルサレムに入城され、既存の宗教勢力の偽善を叱責され、今後の預言をされます。荒らす忌まわしいものが聖なる所に立つのを、目を覚まして見張るように警告されます。
マタイ25章では、地上における最後のたとえによって、天の御国の喩えを締めくくられます。

天の御国に関する三つの喩えです。賢明な乙女と愚かな乙女の喩え、タラントの喩え、そして人の子が栄光の位に就いたときに分離される羊と山羊の喩えです。

乙女の教えは、灯(ともしび)とそれをともす油について話されています。
御言葉の油は、愛の善を意味します。そして灯(ともしび)は真理を意味しています。
真理は愛という燃料がなければ灯すことができません。愛によって真理は灯されます。
また、愛を他人に分けると、他人の歓びを奪ってしまいます。霊界では許されないことです。そのため天国と地獄が分断されています。地獄の歓びが天に伝わり、天の歓びが地獄に伝わると、それぞれが大変な苦しみを受けるからです。

「十人の乙女」とは、教会にいるすべての人を指します。花婿と花嫁に喩えられているのは、善と真理が結びつく天界の結婚が意味されているからです。天界の結婚は、善と真理が結びつく時です。
油を持っておらず、あわてて油を求めたり、買いに出て行ったりした乙女は、真理を持っていながら、愛と仁愛の善が無かった者のことを言っています。婚礼の祝宴の時に戸は閉められ、主に「知らない」とまで言われてしまいます。真理を用意したのに、全く愛を用意しなかった者は、まさに愚かと評価されてしまいます。(AC4638)

学ぶことだけに注力して、一生をかけて真理の知識を蓄積し、理解したとしても、愛と仁愛を養わなければ、まったく「愚か」そのものと評価されてしまいます。油である愛と仁愛を集めるための真理であるからです。この世でなければ、愛を養うことができません。この世はそれぞれの愛を育てる場です。

油の準備、愛の準備ができていないなら、戸が閉まる前、審判される前に愛を蓄えます。
なぜなら、心や隣人や、主に対する愛と思いやりは、一朝一夕にしては用意できるものではないからです。油の原料となるオリーブを考えて見ましょう。オリーブの木を種から、木を育て、実を実らせ、実を集めて絞ります。人が不幸な目に遭った時の憐れむ心、人を赦す心、困った人や不幸な人を見て助けたいという心、主と共に働きたいという心、これらを一つ一つ、一粒一粒積み重ね、絞って集めたものが灯を点す油となります。日々これらを実践した結果が油となります。そしてこれは主からいただくものです。売ったり買ったりすることはできません。

主はマタイ24章でされた警告をもう一度なさいます。
だから、目をさましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないからです。(25:13)
十人の乙女が、賢明な乙女と愚かな乙女に分けられる喩えは、愛についての喩えで、この世の人生で最も大切な愛・仁愛を備えておきなさいとの警告です。

次はタラントの喩えです。
主人は「おのおのその能力に応じて」(25:15)しもべ達に財産であるタラントを渡します。渡されたしもべ達は、それぞれの能力を発揮して、財産を殖やしますが、一タラントしか渡されなかったしもべは、殖やさずに、一タラントのまま返します。一タラントを殖やさなかったしもべは、主人は「蒔かない所から刈り取り、散らさない所から集めるひどい方だ」(25:24)と自分の怠慢の言い訳をし、主人の非難さえします。

このタラントとは、主に貨幣について使われる重量を量る単位で、かなり大きな額を取引するときに用いられていました。「ここでのタラントは、御言葉からの真理と善の知識を意味し」、「商売をする、儲ける、銀行に預ける、とは霊的生命や知性によって獲得する」ことを意味し、「地中に隠す」とは「自然的人間の知識のみに」しまいこんでおくことを意味します(AE193-10)。

五タラントと二タラントを預かった僕は、「能力に応じて」その知識を活用して成果をあげました。御言葉から学んだことを人生の場でさっそく行います。
しかし、一タラントを預かり、地中にしまい込んで隠した僕は、御言葉からの真理と善の知識を、生活に適用せず、記憶の中にしまっていました。彼は「悪い怠け者」、「役に立たない僕」と評価され、「外の暗やみに追い出しなさい。そこで泣いて歯ぎしり」します。これは地獄に追いやられることです。財産を隠しただけなのに、そこまでする必要はない?とも思われるかもしれませんが、彼は主人を非難さえしているので、イザヤ書に出てくる「遊女の報酬」と同じく、主に「ささげられ、それはたくわえられず、積み立てられない」(23:18)と、せっかく主が与えられた善と真理の知識を、全く再生の役に立たず、無駄にしてしまうことを意味します。天界には入れません。
タラントの喩えは、真理の知識の活用についての喩えです。

最後に羊と山羊の喩えです。これは「人の子が、その栄光を帯びて、すべての御使いたちを伴って来るとき、人の子はその栄光の位に着」(25:31)いて、すべての国民を選別し、「羊を自分の右に、山羊を左に置きます」(25:33) 。人の子、神的真理の導きに従順で、主の戒め、十戒に従って生きる者は右にされます。正しく生きるのではなく、ただ知識があれば救われると信じる者は左により分けられます。

右にいる者に 「世の初めから、あなたがたのために備えられた御国を継」(25:34)がせ、その左にいる者たちに「悪魔とその使いたちのために用意された永遠の火に入れ」(25:41)と裁きます。

左右の選別は、主の右側にいる者は、右手すなわち主の力によって生きようとする者、左にいる者は自分で生きようと考える者です。神的秩序を正として生きる者と、そうで無い者ですTCR510)。自分の力と考えだけで生きようとする者のことです。

その規準は、具体的には六つの仁愛があるかないかです。
「仁愛とは、内なる情愛で、隣人に善をしたいと心から湧き上がる望みにいるか、自分の生の歓びにいるかが規準で、その望みには、報われるという考えは含まれません(AC8033)。
何らかの報いを念頭に置いて、その欲を燃やして行ってきた者は、左側の山羊に分類され、地獄の自己愛の火の中に入ります。彼らには、自分の欲望を燃やすために行動してきたからです。
しかし、心から隣人に善いことをしたいという気持ちを育み、主から善いことを行った者は右の羊に分類され、天界に入ります。天界と地獄とは、それぞれ、そういう所だからです。

賢い乙女達のように心に愛を蓄え、忠実な僕のように真理を実行に移し、この愛と真理が行為に結びつき、役立ちとなります。天界的結婚の成立です。これが仁愛と仁愛の業です。実行するかどうかで、心の中の愛または欲望は絶えず実現を待っています。せっかくの仁愛も実現しなければ役立ちません。

具体的な仁愛の行いが記されています。
飢えた者に食べ物を与え、渇いた者に飲ませ、旅人に宿を貸し、裸の者を着せ、病気の者を見舞い、牢にいる者を訪ねます。(25:35,36)
この行為を自然的に実行するだけではなく、霊的に行なえば仁愛の行いとなります。
霊的とは、行為の源を主におくことで、自然的とは源を自分の都合や欲望、そして世のならわしと決まりに置くことです。

霊的に飢えた者とは、純粋な想いに導かれて善いことをしたいと願う者です(AC4956)。給料が安くても、心から人のために働くよう納得させたり、一見雑事に見える仕事でも、人に役立ちたいという情愛を伴うようになったりすれば、仁愛の業となります。街角で貧しい人に無償で温かい食事を与えたとしても、内心で名声や善い評価など、なんらかの報いを願ったり、相手をさげすんだりするなら、それは山羊の業です。

真理の情愛に導かれたいと望む者が霊的に渇いた者です(AC4956)。彼らに、真理が書いてあるから読め、と本を渡すだけでは導くことになりません。人にもよりますが、原書に近いような分厚い本を渡され、真理の情愛に満ちて真理に導かれるようになるでしょうか?本屋さんと図書館とネットは、存在するだけで、霊的渇きを潤せる仁愛の業でしょうか?受ける人に応じて役立ちは変わります。
霊的渇きがなくらなければ、役立ちとはいえません。単なる自己満足に終わる、山羊の業です。

教わりたいと望む者が旅人です(同上)。私達が互いに相手の望みを知らなければ、私達はそれぞれ旅人で、赤の他人にしかすぎません。また単に相手の欲しい物を販売する店やサイトを教えることも、自分勝手な欲望の充足の手伝いにしか過ぎないかもしれません。主の望まれていることを教えることが主の望まれている霊的な仁愛の業です。霊界の規則の内容を教え、そこがどんなところか、正しく、詳しく知るようになり、生活を改めれるようになれば、それは羊の業です。

霊的に自分の内には、善と真理が全くないと認める者が裸の者です(同上)。
私達は怒り、不満を溜め、心はいつも揺れ動いています。自分の内には、怒りや、不満、不安で、自分は否定的なものの塊と考える人には、適切な衣、真理を着せます。
着せる真理とは、赦しや、満足や、安定、自己肯定感です。主がいかに私達を赦されているかを教え、同じように自分も他人も赦すよう薦め、物質的にはもうすでに満ち足りていることを教え、心を安定させ、自己肯定感という着物を着せます。教えるには根気が必要です。

霊的に病んだ人とは、自分には悪しかないと認める人です(同上)。単なる精神病だけではありません。他人への軽蔑、憎悪、常に世間や自分に怒り続け、自己を中心に考え、赦しを拒み、主に導かれることを拒みます。
そんな人は、自分の内側は悪で満ちていると認め、助けを求めています。しかし、十戒のそれぞれを学び守る努力をすることが、癒しのはじめです。そこから時間をかけて、悪を一つ一つ拒めば、主が愛を注ぎこみ、霊的な病から癒やされます。霊的な病の治療法は、悪を断つ、断悪を行うことです。

霊的な囚人とは、自分の中には偽りしかないと認める人のことです(同上)。
イスラエルの民がエジプトに囚われたように、私達は偽りの世界に閉じ込められ抜け出せなくなります。そこは真っ暗な監獄で、希望の光はまったくありません。
様々な監獄があります。自分の理想が高すぎて、その理想がまったく適わないと監獄の囚人になってしまいます。プライドが高すぎても同じです。絶望とプライドは死のコンビです。身近な人にもこんな牢獄の囚人になっている人はいます。
そして鬱病などの精神病も、霊的な囚れとなる可能性があります。しかし、精神科に見て貰え、と冷たく言うだけでは、たとえそれが正しくても、相手は軽蔑されているとしか考えない場合があります。相手の状態を見極め、必ず主の力を借りて温かく助言することが、羊か山羊の見極めになります。

以上が羊と山羊を区別する、六種類の仁愛の業の概要です。
天の御国の喩えとは、天界的結婚の実現です。
主の変容(17章)を見た、ペテロとヤコブとヨハネが象徴した、信仰と仁愛と仁愛の業が揃って、天界的結婚である善と真理の結婚で可能となります。
賢い乙女の喩えは愛を(ヤコブ)、忠実なタラントの教えは真理を(ペテロ)、そして羊の教えは仁愛の業(ヨハネ)を象徴します。主が変貌してお見せになった天界を、改めてここでお説きになられます。私達が主の教えに従って、天界的結婚を実行することができれば、私達は三人の弟子達が目撃した、主の栄光を実際に目にすることができます。

「人の子は、その栄光を帯びてすべての御使いたちを伴って来るとき、その栄光の座に着きます。」(25:31)アーメン。 
イザヤ (新改訳)
23:18. その儲け、遊女の報酬は、【主】にささげられ、それはたくわえられず、積み立てられない。その儲けは、【主】の前に住む者たちが、飽きるほど食べ、上等の着物を着るためのものとなるからだ。
「古代のものを覆う」ものとなる。(AC6917:3, AE61:11)

マタイ (新改訳)
25:1 そこで、天の御国は、それぞれともしびを持って花婿を迎えに出る、十人の娘にたとえることができます。
25:2 そのうちの五人は愚かで、五人は賢かった。
25:3 愚かな娘たちは、ともしびは持っていたが、油を持って来ていなかった。
25:4 賢い娘たちは自分のともしびと一緒に、入れ物に油を入れて持っていた。
25:5 花婿が来るのが遅くなったので、娘たちはみな眠くなり寝入ってしまった。
・・・
25:10 そこで娘たちが買いに行くと、その間に花婿が来た。用意ができていた娘たちは彼と一緒に婚礼の祝宴に入り、戸が閉じられた。
25:11 その後で残りの娘たちも来て、『ご主人様、ご主人様、開けてください』と言った。
25:12 しかし、主人は答えた。『まことに、あなたがたに言います。私はあなたがたを知りません。』
25:13 ですから、目を覚ましていなさい。その日、その時をあなたがたは知らないのですから。

25:14 天の御国は、旅に出るにあたり、自分のしもべたちを呼んで財産を預ける人のようです。
25:15 彼はそれぞれその能力に応じて、一人には五タラント、一人には二タラント、もう一人には一タラントを渡して旅に出かけた。するとすぐに、
25:16 五タラント預かった者は出て行って、それで商売をし、ほかに五タラントをもうけた。
25:17 同じように、二タラント預かった者もほかに二タラントをもうけた。
25:18 一方、一タラント預かった者は出て行って地面に穴を掘り、主人の金を隠した。
・・・・
25:28 だから、そのタラントを彼から取り上げて、十タラント持っている者に与えよ。
25:29 だれでも持っている者は与えられてもっと豊かになり、持っていない者は持っている物までも取り上げられるのだ。
25:30 この役に立たないしもべは外の暗闇に追い出せ。そこで泣いて歯ぎしりするのだ。』
25:31 人の子は、その栄光を帯びてすべての御使いたちを伴って来るとき、その栄光の座に着きます。
25:32 そして、すべての国の人々が御前に集められます。人の子は、羊飼いが羊をやぎからより分けるように彼らをより分け、
25:33 羊を自分の右に、やぎを左に置きます。
25:34 それから王は右にいる者たちに言います。『さあ、わたしの父に祝福された人たち。世界の基が据えられたときから、あなたがたのために備えられていた御国を受け継ぎなさい。
25:35 あなたがたはわたしが空腹であったときに食べ物を与え、渇いていたときに飲ませ、旅人であったときに宿を貸し、
25:36 わたしが裸のときに服を着せ、病気をしたときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからです。』
・・・
25:45 すると、王は彼らに答えます。『まことに、おまえたちに言う。おまえたちがこの最も小さい者たちの一人にしなかったのは、わたしにしなかったのだ。』
25:46 こうして、この者たちは永遠の刑罰に入り、正しい人たちは永遠のいのちに入るのです。」

天界の秘義(アルカナ訳)

  1. 「天界のみ国は、十人の乙女たちに似ている」とは、古い教会の終末であり、新しい教会の始まりを意味します。教会とは、地上における主のみ国です。「十人の乙女」とは、善と真理のうちにいる人、および悪と偽りの中にいる人を含め、教会にいるすべての人を指します。「十」とは、内的意味では残果 reliquiae です。また十全であり、全体です。「乙女」とは、教会の中にいる人々です。それは〈みことば〉の他の箇所にもある通りです。
    ② 「自分の灯火を手にして」とは、天的なものを含む霊的なもの、諸善を含む諸真理、換言すれば、隣人への仁愛を含む信仰であり、主への愛を含む仁愛です。「油」は愛の善を指し、それについては、後述します。「油のない灯火」とは、善を含んでいない諸真理のことです。
    ③ 「花婿を迎えに行く」とは、それらを受け入れることです。「その中の五人は賢く、五人は愚かであった」とは、一部は、善を含む諸真理のうちにいる人々であり、一部は、善を含まない諸真理のうちにいる人々を指します。前者は「賢い者たち」であり、後者は「愚かな者たち」です。「五」の内的意味は、何人かという意味で、ここでは、かれらの一部という意味です。
    「愚かな者たちは、灯火を持っていたが、油を持っていかなかった」とは、自分の諸真理の中に仁愛の善をもっていなかったという意味です。「油」とは、その内的意味では、仁愛と愛の善を指します。「賢い者たちは、自分の灯火といっしょに、容器の中に油を持っていった」とは、自分の諸真理の中に、仁愛と愛の善をもっていたことを指します。「容器」とは、信仰の教義事項を指します。

イスラエル

その人は言った。「あなたの名は、もうヤコブとは呼ばれない。イスラエルだ。あなたが神と、また人と戦って、勝ったからだ。」創32:28

叔父のラバンと協定を結び、ラバンから完全に離れたヤコブは、ついにヨルダン川の前に到着し、カナンの地を前にしています。そこで思い出したのが、長子権と祝福を計略で奪い、復讐を誓った双子の兄エサウのことです。エサウの怒りを避けるため、ヤコブは20年間もカナンを離れていたことになります。

そこで、カナンの地に着く前に、セイルの地、エドムの野にいるエサウに使者を送ります。今まで自分はラバンの下にいて、家畜や奴隷を多く持っていて、エサウに好意を得たいと、メッセージを伝えます。するとエサウは使いを返し、四百人を引き連れて迎えたいと伝えます。

これを聞いたヤコブは「非常に恐れ、不安になりました」(32:7)。20年の月日はたったものの、兄が昔の恨みを覚えて、復讐しようと思っているかもしれないからです。この後、ヤコブは全員が一挙に襲われないよう、自分の陣営を分けて、進みます。自分以外はヤボクの渡しを渡り、順にカナンの地に入ります。しかし、自身は最後尾に位置し、残ってます。するとそこに「ある人」が現れ、ヤコブと格闘します。格闘は朝まで続きます。朝になったので、「ある人」は去ろうとしますが、ヤコブは「ある人」に祝福をせがみ、「イスラエル」という名を得ます。

天界の教えは、この話は、自然性の中での状態が逆転し、第二位であった「善」が第一位となり、一位であった「真理」が第二位なったことを意味すると教えます。状態の逆転です。そして同時にそれは試練の中での闘いであったと教えます (AC4232)。

この章は次の句で始まります。
「神の使いたちが彼に現れた。ヤコブは彼らを見たとき、「ここは神の陣営だ」と言って、その場所の名をマハナイムと呼んだ。」
神の使いとは、神的流入のことが意味されます。「神の陣営」と言われたものとは、天界のことで、マハナイムとは原語で二つの陣営を意味し、主の御国の天的なものと霊的なものの二つの天界が意味されています (AC4237) 。これは主が天界を通して照らしを与えられたことを意味します。人に神からの流入を邪魔する悪と偽りがなくなり、主が善しとされれば、そこに神的流入が生まれます。この神的流入は自然性の内に状態の変化をもたらします。この場合は、善と真理の順位の逆転をもたらし、本来あるべき順位を産み出します。この本質的な状態の変化を生み出せるのは、神である主のみです。またこの神的流入による天界からの照らしによって、人の再生の状態が明らかになり、知ることができます。人間では見えないものを、霊的天界と天的天界の光を通して明らかにし、同時に状態を整える、神的な啓示と力です。神的流入が、出発点です。

ヤコブは兄のエサウに使者を使わしますが、兄はセイルという地のエドムの野にいることになっています。しかし、以前の御言葉では一箇所(創14:6、25:3)を除き、以前にはセイルやエドムという地名は出てきません。エサウがセイルの地に住んでいることも、初めての言及です。そのため地名や人名によって、エサウの性格を定義するためのものと考えられます。
セイルの地は「天的な自然的な善」を意味し (AC4249)、教会の外にあります。地図でみればカナンの外、南のほうにその名が記されています。エドムの野にいるとは、「善の面からみた主の神的自然性」を意味します。いずれも善を意味します。すなわち、エサウは善を表象します。

ヤコブが善を意味する兄のエサウに使いを出すことは、善が真理を意味するヤコブより高い存在であることを認めることを意味します(AC4242)。使者への伝言の内容は、ヤコブを僕として、エサウを主人とすることで、真理が善に対して卑下しています。謙虚になっていることがわかります。この卑下と謙虚が、神的流入を受ける側の準備です。

神の使いである神的流入があることで、従来考えていた順位の逆転が生まれます。それまで人は真理が最高だと思い、善を真理の下に置いていますが、その状態は再生のかなり前の段階です。
真理・真理と喧伝し、実質的な役立ちのことや、人に与える柔らかさ、永遠の生の歓びや、優しさを与える「善」を二の次にしている状態は、よくて再生のきわめて初期の段階、あるいは、まだ教会を意味するヨルダン川を渡っていない段階ともいえます。いちじくの葉も、善という実がならなければ、葉は枯れてしまうように、善という実を結ばなければ、樹木の葉や木は無駄になります。ヤコブがエサウと再会する本章は、真理を上位にして善を下位に定める段階を「逆転」し、真理を下にして、善を上位として迎え入れるための備えの段階です。

一般に、真理は何の媒介なしには、善に植え付けられません。目の前にぶら下がった餌のようなものが必要です。美味しい、あるいは自分の利得になるといった餌が必要です。これが、ラバンが意味する仲介的な善でした。この善には、自分の快楽や利得といった、不要なもの、純粋ではないものが混ざっています。しかし人が情愛を込めて真理を学び、情愛の籠もった真理に従って生きようとするなら、その真理は善と等価となり、善に従って生きることになります (AC4243)。純粋な真理は、不純なものを取り除き、善と真理を同じ価値にします。その準備として、真理は、善の前にへりくだり、自らを卑下しなければなりません(AC4245)。へりくだらなければ、善でない、雑多で余分なものが見えてきません。

エサウの回答は「あなたを迎えに四百人を引き連れてやって来られます。」(32:6)
これは善が真理に継続して流入し、善専用に役立たせることです(AC4247)。この凄まじい善の流入は、純粋な真理でなければ耐えれません。中に不純物があれば、耐えられません。
「先ず、最初に、信仰の諸真理があって、聴覚や視覚を通して浸透し、記憶に蓄積されます。
そこから徐々に思考に向かって上昇し、やがて意志に浸透し、意志の中に入ると、そこから思考力を通して、行動に進みます。
行動にいたらないとき、行動への推進力 conatus をもった状態を保ちます。
推進力自体は、内部的な行動です。なぜなら能力があるときは、その度に外部的行動にもなるからです。」(AC4247)
実現するまで、善が相手の善を同化しようとする強烈な力が働き、邪魔する不純物は取り除かれます。(同)

人の思考は、実は本人のものではなく、天使と悪魔の持つ思考の混合体です。そこに絶えず主が善を流入し続けると、対立する偽りや悪は追い出されざるをえません。
そこでヤコブは「非常に恐れ、不安になりました」(32:7)この怖れと不安は、試練の始めです(AC4249)。
四百人の四は試練も表しています。

自分にある真理と善を整え、配備して、善の流入に備えます。ヤコブが自分の陣営を二つに分けることによって示されます(AC4250)。
真理が第一になれば、真理自らの力では純粋な真理であるかどうかわかりません。それが本当に役に立つものかどうか、善の立場から判断できないからです。必ず何らかの偽りが混入してしまいます(AC4256)。

善の立場から見れば、この偽りに気づくようになり、偽りを取り除こうとしますが、善と偽りが固く結びつき、離れられなくなっています。これが、試練が厳しくなる理由です。人が正しいと思っていたことが、実は偽りと結びつき分離できない状態になっているからです。無理にそれを切り離そうとすれば、その人の生命自体が切り刻まれてしまいます。
何か善いことだとして確信して、実行し、これからも実行しようとしていた中に、自分勝手な欲が混ざっていると知ると、自分が考えていた善い事すべてが、悪と偽りに見え出します。すると人は、絶望に至ります。しかし試練・誘惑の価値は、試練の終了の後にわかります。
「恐れと悩みのあと、試練・誘惑に入っていきます。 試練・誘惑こそ、 それを取り除くための神的手段です。」(AC4256)

試練なしには、人の霊的成長はありえません。試練がないのは、基礎となる良心がまだできあがっていないからです。良心がないうち、すなわち善と悪、真と偽の知識がなく、そしてそれを自分のものとしてゆかない限り、試練には入れません。しかし自分の中に悪と偽りが混ざっています。これを整理して分類し、切り離さなければ天界には入れません。

ヤコブは自分の持ち物を、グループに分け、距離を置き、順にヤボクの渡しを渡らせます。教会であり、天界でもあるカナンの地に入ってゆきます。秩序付けと導入の開始です。この秩序付けと導入がなければ、カナンの地には入れません(AC4266)。次々と群れを秩序づけ、そして善に服従させます(AC4268)。秩序づけられ、善に服従したら、天界に入ることができます。

先に行く家畜と財産のグループが純粋な真理と結びつけば、次は家族で表されるより本人に近いものの順番です。ヤコブが結ばれた妻と奴隷女性、内なる情愛と外なる情愛、それに附属するものが、善に服従し、天界に入ります。そして十一人の息子、すなわち十一の真理が善に結ばれていて、余計なものがないことが確認され、天界に入ります。

二人の妻と女奴隷、そして十一人の子がカナンに入った後、「ヤコブはひとりだけ、あとに残」(32:24)ります。最後に残ったヤコブとは、彼が「獲得した真理の善」です。最初の試練は真理についてでしたが、情愛を込めて獲得した真理は、「善」と等価となっています。すなわち、愛に近いものです。最後に残った愛が試されます。そこに不純なものがあれば、徹底的に暴かれ、地獄に攻撃されます。

地獄は人の愛を攻撃するため、人に仁愛がなければ、試練はありません(AC4274)。試練が訪れるなら、その人には仁愛があるという証拠となります。その人が霊的に成長し、真理ではなく、善が主導するようになって初めてその愛を試すため、熾烈な試練がやってきます。地獄の攻撃を受けます。霊的試練があるなら、その人は霊的に成長していることになります。試練がないのは、まだまだ霊的成長が必要であるということです。

主ご自身の場合、地獄だけではなく、全天界によって主の愛が試されました(AC4295-2)。主の最後の愛は、全人類を救いたい、全人類に永遠の生命を与え、ご自分と同じ幸福を与えたい、という主の愛自体が、全天界を敵に回して試されるという事態になりました。

いかに苛烈な試練であったか、想像さえできません。私達人間を遥かに上回る知恵を持つ天使が、無数になって、本気で主お一人に挑んだのです。十字架上で肉体を極限まで痛めつけられている主に、際限もなく全宇宙に至る大きな事から、細かいことからまでつついて、苛烈な攻撃を浴びせました。しかし、その全てに勝利され、全てを秩序づけることで、主は天界と地獄、そして私たち人類の永遠の生命を贖い、お救いになられました。すべての攻撃を、赦して受け流し、役立ちによって撓めます。

ヤコブは夜が明けるまで「ある人」と格闘します。この「ある人」とは、よく絵画で描かれているような天使ではありません。逆に試練に遭わせる者とは地獄の悪魔しかいません。試練にあって、天使は人を守り、地獄は攻撃します。
主の最後の試練は、全天使が悪魔の側について攻撃しました。

夜が明けるとは、試練に勝利することを意味します。
試練に勝利することで、ヤコブが表す人はもはや自然的ではなく、神的な天的・霊的な状態であると宣言されます。(AC4286) この神的な天的・霊的な状態が「イスラエル」とよばれます。イスラエルが勝った神と人とは、真理と善が意味されます。主が真理と善の面で絶えず勝利されたことが意味されます(AC4287)。

「あなたの名は、もうヤコブとは呼ばれない。イスラエルだ。あなたが神と、また人と戦って、勝ったからだ。」創32:28
アーメン

創世記 (新改訳)
32:24 ヤコブが一人だけ後に残ると、ある人が夜明けまで彼と格闘した。
32:25 その人はヤコブに勝てないのを見てとって、彼のももの関節を打った。ヤコブのももの関節は、その人と格闘しているうちに外れた。
32:26 すると、その人は言った。「わたしを去らせよ。夜が明けるから。」ヤコブは言った。「私はあなたを去らせません。私を祝福してくださらなければ。」
32:27 その人は言った。「あなたの名は何というのか。」彼は言った。「ヤコブです。」
32:28 その人は言った。「あなたの名は、もうヤコブとは呼ばれない。イスラエルだ。あなたが神と、また人と戦って、勝ったからだ。」
32:29 ヤコブは願って言った。「どうか、あなたの名を教えてください。」すると、その人は「いったい、なぜ、わたしの名を尋ねるのか」と言って、その場で彼を祝福した。
32:30 そこでヤコブは、その場所の名をペヌエルと呼んだ。「私は顔と顔を合わせて神を見たのに、私のいのちは救われた」という意味である。
32:31 彼がペヌエルを通り過ぎたころ、太陽は彼の上に昇ったが、彼はそのもものために足を引きずっていた。
32:32 こういうわけで、イスラエルの人々は今日まで、ももの関節の上の、腰の筋を食べない。ヤコブが、ももの関節、腰の筋を打たれたからである。

マタイ
21:18 翌朝、イエスは都に帰る途中、空腹を覚えられた。
21:19 道ばたにいちじくの木が見えたので、近づいて行かれたが、葉のほかは何もないのに気づかれた。それで、イエスはその木に「おまえの実は、もういつまでも、ならないように」と言われた。すると、たちまちいちじくの木は枯れた。

天界の秘義4256(アルカナ訳)
② その理由は次の通りです。真理が第一の座を占めていたとは、真理がみずからの視野を支配していたことで、そのため偽りが混入します。真理はみずからの力では、真理かどうかを見通すことができないからです。真理を見通すことができるには、善に根ざさねばなりません。したがって善が接近してくると、恐れをいだきます。
また善のうちにいる人は、善からの光で偽りが浮き彫りにされると、みな恐れを抱き始めます。偽りを恐れ、それを根絶したいと思いますが、密着しているためできません。ただ主による神的手段によるしかありません。そのため再生するはずの人は、恐れと悩みのあと、試練・誘惑に入っていきます。試練・誘惑こそ、それを取り除くための神的手段です。
人が再生にあたって、霊的試練・誘惑を経過する事実には、最高の秘義的根拠があります。その根拠は、人には決して見えてきません。なぜなら、人の感知できるスフィアを越えているからです。万事は、あたかも良心をゆり動かし、切り裂き、拷問にかけるかのようです。

最新説教

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Matthew 24 「目をさましていなさい。」

それゆえ、預言者ダニエルによって語られたあの『荒らす忌まわしいもの』が聖なる所に立っているのを見たら──読者はよく理解せよ(マタイ24:15)

ダニエル書に「荒らす忌まわしいもの」の表現は三箇所出てきます(9:27.11:31.12:11)。しかし具体的に何を意味しているかは書かれていません。歴史的には、シリア王(アンティオコス4世エピファネス)がエルサレム神殿にゼウス像を設けた時(BC168)、あるいはローマ軍が神殿を破壊(AD70)したとき、と考えられています。

天界の教えは、ヤコブの子孫による表象的教会の終わりと、次のキリスト教会の始まりが意味されていると教えます(AC4333)。この世の終末ではなく、教会自体の審判の時です。教会が善と真理を教えるところという本来の意味があるかどうか、天使ではなく、主ご自身が審判し、旧い教会が終わり、新しい教会が必要と判断されたときです。天界の教えには、これに引き続き、キリスト教会の終わりと新教会の始まりが、黙示録に第四の審判として描かれています。

しかし内的には、「荒らす忌まわしいもの」とは、主が承認されず、主への愛がなく、信仰もなくなったときのことと述べています。同時に隣人への仁愛も、そして善と真であることへの信仰も無くなります(AC3652)。心がこのような状態になったときが、「荒廃」です。「荒野」です。私達も教会が終わりの時を迎えてないか、自分と、自分の教会に絶えず注意を払わなければなりません。「目をさましていな」ければなりません。(24:42)
マタイ福音書の警告は、教会の終焉の判断で、主のみが行われますが、同じように禁じられている隣人の霊的判断以外なら、私達自身への教会が続いているかどうか、絶えず「目を覚ましている」ことが主のご命令です。

クリスマスの中に主の意味と感謝が残っているかも、その判断の一つです。日本のクリスマスでは、イエス・キリストの降誕を祝うのではなく、誕生日を祝う、あるいはサンタクロースを待ち望む、恋人と過ごす夜というとんでもない誤解がまん延しています。また祝う必要も無いものだとさえ言う人もいらっしゃいます。礼拝も祝会への参加も自分の勝手だ、すなわち自由だと!主への礼拝は十戒での義務のはずです。
そうすると、これらの誤解は、感染症のまん延以上に忌まわしいと考えられるかもしれません。

また最も新しいと言われる新教会でも、祭壇の前に立ち、公然と、あるいは隠れて、隣人を根拠なく非難する人も出てきて、荒らす忌まわしいもののように振る舞います。そこには隣人への愛、尊敬などみえません。残念ながら、日本でも海外でも、そういう事態は繰り返されています。マタイ24章には、新教会の誕生の預言だけではなく、そのような場合の警告と対処方法が描かれています。

「荒らす忌まわしいもの」が聖なるとことに立つのを見たら、ユダヤに居る人は山へ、屋上にいる者は家の中のものを持ち出すため下に降りるな、畑にいる者は着物を取りに戻るな、と三種類の警告がされています。

ユダヤにいる者は山に向かえは、天的な状態にいる人は、愛を忘れず愛だけを頼りにしなさい(AC795:4)、ということですが、天的状態にいる人は極めて少ないと思われます。

屋上にいるとは、善にいる者を意味する、霊的な状態です。それらの者は、下に戻るな、すなわち、前の状態に戻るな(AC 10184:2)ということを警告されてます。霊的な成長においては、非常に高い霊性を持ち、善を持ち霊的状態に至った人は、その前の合理的状態や、自然的な状態に戻るべきではないとされています。霊的に成長し、高い霊性に至れたのに、自然的な状態から判断することは進歩ではなく、退歩です。周りを自然的な状態や人、さらに低い悪と偽りの状態に巻き込まれてもなりません。そんな状態との接触を避け、高い霊性を保ち続けます。

畑にいる人とは、真理の情愛の内にある人(AC3653)のことです。着物を取りに戻るな、とは自分で造り上げた真理らしきものにこだわっていてはなりません。自分勝手に真理を組み立て、真理に似たものを造り上げて、こだわるなら、それは都合の良いときだけ利用する偶像のようです。与えられてる真理だけに忠実に従い、生きてゆきます。

「だがその日、哀れなのは身重の女と乳飲み子を持つ女です。ただ、あなたがたの逃げるのが、冬や安息日にならぬよう祈りなさい。」
身重の女とは天的善を妊娠している状態で、乳飲み子を持つとは無垢を持つことです。
冬の状態とは、愛と無垢から離れることであり、さらに安息日に逃げるとは、宗教的に熱い状態となることです。両方共に愛と無垢の状態から離れることです。外見だけ礼拝を行い、熱く見せる状態は、自己愛だけが燃えあがった状態で、本物の愛と無垢ではありません(AC3755)。

真の愛と無垢は、私達が目指すべきものです。愛と無垢が少なくなれば、偽りと悪が強くなり、私達の内の教会は危機を迎えます。愛と無垢がなくなれば、当然主と隣人への愛もなくなります。
そして、愛と無垢の減少は、内だけではなく外の試練も招きます。
「いまだかつて無かったような苦難がある」とは、内外の試練に見舞われることを言います(AC 1846:5)。

これは「にせキリスト、にせ預言者たちが現れて、できれば選民をも惑わそうとして、」ますます混乱を深めます。
「にせキリスト、にせ預言者たち」とは神的ではない真理、あるいは偽りを教える者のこと(AC3010)をいいます。真理に偽りを混ぜ込んで教え込むなら、人は簡単に欺かれてしまいます。その偽りとは、自分勝手な解釈も含まれます。

愛と無垢が失われ、さらに偽りが混ざることで真理が奪われると「死体のある所には、はげたかが集まります。」
人が遺伝悪を自分のものとして同化して、悪い雰囲気を身につけるようになると、それまで近づくことを許されなかった悪霊は、力を注ぎ支配することができるようになります(AC1667:4)。悪霊に支配されるようになると悪のスフィアを身に纏います。すると、そこから自力で抜け出すことは難しくなります。敏感な人、特に善人には一目瞭然でこのスフィアを嗅ぎ取ることが可能な人がおられますが、自分自身が悪霊に染まってしまうと、気づくことさえできません。真剣な自己点検が必要になります。

苦難の後、「太陽は暗くなり、月は光を放たず、星は天から落ち、天の万象は揺り動かされます。」愛と信仰と真理はすべて失われ、絶望に追い込まれるとこがあります。真理に出会ったと信じ、従ってきた新教会にも、偽りとデマと偽基督・偽預言者がそれぞれ勝手な解釈で惑わせようとします。デマが広がり、あっという間に何も信じる事ができなくなり、疑心暗鬼に囲まれ、人も集まらなくなります。教会の最後の瞬間です。

しかし主が私達を見捨てることはありません。
 「そのとき、人の子のしるしが天に現れます。すると、地上のあらゆる種族は、悲しみながら、人の子が大能と輝かしい栄光を帯びて天の雲に乗って来るのを見るのです。」(24:30)

人の子のしるしが天に現れるとは、もちろん主が天に現れるというわけではありません。「人の子」とは神的真理のことです。天の雲とは、聖書の字義、文字上の意味のことです。洗礼の水などのように、よく水で真理が意味されますが、その水が蒸発して雲になります。そして太陽の光が直接人に入って、目を盲目にするよりも、人の視力に合わせて光を見せるように、人の理解に応じて、主の愛と知恵を伝えます。

栄光とは、御言葉の霊的意味です。私達が聖書を読んで、文字上の意味を学んでも、実は霊的意味がそこに溢れているはずですが、人の理解の力に応じて調整されて与えられます。旧教会の人で、聖書の文字を超えて霊的意義があると知ると、拒否反応を示す人がいます。

それは、主がまだ与えられていないので受け取ることができないからです。あるいは知って行おうとしないので、その人達が冒瀆しないためです。主がお与えにならないものを、私達が与えるのは、十戒の霊的意義で禁じられています。主の真理を盗み、人から霊的生命を奪うからです。霊的知識が十分であるように見えても、上辺だけの知識だけなら、意味がありません。そのような人が真剣に内的意義を求めようとするまで、私達は慎重に努めます。霊的知識が与えられ、実行する人は、主の力を見ることになります。知識だけを伝えるのではなく、親が子の手本となるよう、行動で示して教えます。主の栄光と力を「悲しみながら」見るのではなく、自分が手本になって伝えます。

しかし、時は、「人の子が戸口まで近づいていると知りなさい。」(24:23)「ただし、その日、その時がいつであるかは、だれも知りません。天の御使いたちも子も知りません。ただ父だけが知っておられます。」(24:36)
主の審判は、主が永遠の時と父である無限の愛から判断され、行われます。天使でさえ、その内容と時を知ることはありません。主はその人や教会が立ち直るよう、無限の愛と慈悲から、扉が開かれるのをお待ちになっておられます。悪と偽りを避けることをお待ちになっておられます。
そのため、私達が外の基準だけではなく、内心の基準から判断することは、禁じられています。内心に立ち入って判断すれば、その人の霊的生命を奪ってしまう可能性があるからです。

しかし人の心は外に現れます。「いちじくの木から、たとえを学びなさい。枝が柔らかになって、葉が出て来ると、夏の近いことがわかります。」(24:32)内部を判断しなくても、外部から見ることはできます。
そして結果的に「畑にふたりいると、ひとりは取られ、ひとりは残されます。ふたりの女が臼をひいていると、ひとりは取られ、ひとりは残されます。」(24:40,41)
畑は信仰の教義の真贋双方のことで(AC 368)、「臼をひく」とは、御言葉から真理を選んで善に役立てるか、あるいは悪に役立てるか(AC 9995:8,AE555:11)です。それぞれの愛の行方は、私達に任されています。無花果の木が実をつけるかどうかの責任は、私達それぞれにあります。

「だから、目をさましていなさい。あなたがたは、自分の主がいつ来られるか、知らないからです。・・・だから、あなたがたも用心していなさい。なぜなら、人の子は、思いがけない時に来るのですから。」(24:42,44)
私たちの行動は、最後は私たちに任されています。主はできるだけ私達の自由を奪わず、教え導かれようとはされますが、私達の持つ愛をコントロールして意のままにしようとはお考えになってはいません。チャンスを与え、最後の瞬間まで導こうとはされますが、私達が偽りと悪を選んでも私達を切り捨てたりはしません。善であれ、悪であれ、永遠に最低の生命は与え続けられます。生命とは知り、考え、それを愛し行うことです。

全人類を愛されるため、隣人から殺し、奪い、盗み続ける者は、別のグループに分けられます。相互に愛し、仕えたい、役立ちたいと願う者を同じグループとされます。そして、その愛に応じて、詳しく分けて行かれます。主を愛するか、憎むかによって大きな二つに分けられて、さらに愛に応じた分類をされてゆかれます。どちらを選ぶか、それは私達ですが、私達は家の主人ではありません。主人は主ご自身です。

家とは、私達の心です。「食事時には彼らに食事をきちんと与えるような忠実な賢いしもべ」(24:45)となるか、「仲間を打ちたたき、酒飲みたちと飲んだり食べたりし始めている」(24:49)僕となるか、どうかは、私達にまかされていますが、主は時が来ると、必ず帰って来られます。私達は家を預かり、管理する僕にしか過ぎません。管理が悪く、欲望のままに生きてゆくと、帰って来た主人に、厳しく罰されます。しかし、主の御心に従った管理をするなら、主人の「全財産を任せるようになります。」(24:47)主人が帰って来たときに、そのようにしているのを見られるしもべは幸いです。24:46

私達はいつも目を覚まして、自分の状態を見守っていなければなりません。
見守るべきは私達自身の心と教会です。
「目をさましていなさい。あなたがたは、自分の主がいつ来られるか、知らないからです。」24:42
アーメン

(新改訳聖書)
ダニエル
12:9 彼は言った。「ダニエルよ、行け。このことばは終わりの時まで秘められ、封じられているからだ。
12:10 多くの者は身を清めて白くし、そうして錬られる。悪しき者どもは悪を行い、悪しき者どものだれも理解することがない。しかし、賢明な者たちは理解する。
12:11 常供のささげ物が取り払われ、荒らす忌まわしいものが据えられる時から、千二百九十日がある。
12:12 幸いなことよ。忍んで待ち、千三百三十五日に達する者は。
12:13 あなたは終わりまで歩み、休みに入れ。あなたは時の終わりに、あなたの割り当ての地に立つ。」

マタイ福音書
24:30 そのとき、人の子のしるしが天に現れます。そのとき、地のすべての部族は胸をたたいて悲しみ、人の子が天の雲のうちに、偉大な力と栄光とともに来るのを見るのです。
24:31 人の子は大きなラッパの響きとともに御使いたちを遣わします。すると御使いたちは、天の果てから果てまで四方から、人の子が選んだ者たちを集めます。
24:32 いちじくの木から教訓を学びなさい。枝が柔らかになって葉が出て来ると、夏が近いことが分かります。
24:33 同じように、これらのことをすべて見たら、あなたがたは人の子が戸口まで近づいていることを知りなさい。
24:34 まことに、あなたがたに言います。これらのことがすべて起こるまでは、この時代が過ぎ去ることは決してありません。
24:35 天地は消え去ります。しかし、わたしのことばは決して消え去ることがありません。
24:36 ただし、その日、その時がいつなのかは、だれも知りません。天の御使いたちも子も知りません。ただ父だけが知っておられます。
24:37 人の子の到来はノアの日と同じように実現するのです。
24:38 洪水前の日々にはノアが箱舟に入るその日まで、人々は食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしていました。
24:39 洪水が来て、すべての人をさらってしまうまで、彼らには分かりませんでした。人の子の到来もそのように実現するのです。
24:40 そのとき、男が二人畑にいると一人は取られ、一人は残されます。
24:41 女が二人臼をひいていると一人は取られ、一人は残されます。
24:42 ですから、目を覚ましていなさい。あなたがたの主が来られるのがいつの日なのか、あなたがたは知らないのですから。
24:43 次のことは知っておきなさい。泥棒が夜の何時に来るかを知っていたら、家の主人は目を覚ましているでしょうし、自分の家に穴を開けられることはないでしょう。
24:44 ですから、あなたがたも用心していなさい。人の子は思いがけない時に来るのです。
24:45 ですから、主人によってその家のしもべたちの上に任命され、食事時に彼らに食事を与える、忠実で賢いしもべとはいったいだれでしょう。
24:46 主人が帰って来たときに、そのようにしているのを見てもらえるしもべは幸いです。
24:47 まことに、あなたがたに言います。主人はその人に自分の全財産を任せるようになります。
24:48 しかし彼が悪いしもべで、『主人の帰りは遅くなる』と心の中で思い、
24:49 仲間のしもべたちをたたき始め、酒飲みたちと食べたり飲んだりしているなら、
24:50 そのしもべの主人は、予期していない日、思いがけない時に帰って来て、
24:51 彼を厳しく罰し、偽善者たちと同じ報いを与えます。しもべはそこで泣いて歯ぎしりするのです。

天界の秘義 アルカナ訳

  1. 「その日には、妊娠した女と乳飲み子をもつ女は、わざわいである」とは、主への〈愛の善〉と〈純真無垢の善〉が染みとおっている人々を指します。「わざわいである」とは、永遠の断罪を受ける危険があることを示す定式です。「妊娠している」とは、天的愛の善をはらんでいることであり、「乳を飲ませる」とは、これもまた純真無垢の状態を指します。「その日」とは、当時の教会にある状態です。
    ② 「あなた方の逃げるのが、冬あるいは安息日にならないよう祈りなさい」とは、以上の状態から遠ざかることを指します。あまりに寒い状態とか、あまりに暑い状態で、あわてて事が運ばれないようにとの意味です。「逃げる」とは、〈愛および純真無垢の善〉の状態から遠ざかることで、前述のとおりです。「冬に逃げる」とは、あまりにも寒い状態にあり、それから遠ざかることです。冬とは、〈愛および純真無垢の善〉に敵対するときのことで、これは自己愛から導き出されます。「安息日に逃げる」とは、あまりにも暑い状態にあって、〈愛および純真無垢の善〉から遠ざかることです。「暑さ」は、内部に自己愛と世間愛がある場合の外部的聖性を指します。
    ③ 「その時、世の初めから現在まで、かつてなく、これからもないほど大きな患難が起る」とは、善と真理の面での教会の倒錯と荒廃が最高度になることで、冒涜を指します。なぜなら、聖なるものを冒涜することは、永遠の死をもたらすからです。それは悪であっても、それ以外の状態より、遥かに重大な死です。冒涜される善と真理が内的なものであればあるほど、それだけ重大な死になります。その内的なものとは、キリスト教会で啓示され、知られたもので、これが冒涜されます。「その時、世の初めから現在まで、かつてなく、これからもないほど大きな患難が起る」とは、そのことです。
    ④ 「その日々が縮められないなら、救われる肉はいない。しかし選ばれた人々のため、その日々は縮められる」とは、善と真理の〈いのち〉にある人が救われるようになるまで、教会出身の人々、準内部の善と真理に依存する人々が、準外部のほうに遠ざけられるという意味です。「日々が縮められる」とは、遠ざけられた状態を意味し、「救われる肉はない」とは、そうでなければ、だれも救われないという意味です。「選ばれた人々」とは、善と真理の〈いのち〉のうちにある人々を指します。

ラバンからの別離
ヤコブがラバンの態度を見ると、はたして、それは彼に対して以前のようではなかった。31:2兄の復讐を怖れて、カナンから来たヤコブは、母レベカの兄妹であるラバンの娘、レアとラケルを妻とします。さらに二人の女奴隷から、計十一人の息子と一人の娘を得ました。そこで、「ラケルがヨセフを産んで後、ヤコブはラバンに言った。「私を去らせ、私の故郷の地へ帰らせてください。(30:25)と願います。

しかし叔父のラバンは、さらに言った。「あなたの望む報酬を申し出てくれ。私はそれを払おう。」(30:28)
という名目で、ヤコブを働かせます。
これに対して、ヤコブは計略を持って望み、自分の群れを増やしてゆきます。
「それで、この人は大いに富み、多くの群れと、男女の奴隷、およびらくだと、ろばとを持つように」なりました(30:43)。

ラバンの息子達は、ヤコブの群れが増えたのを妬み、「ヤコブはわれわれの父の物をみな取った。父の物でこのすべての富をものにしたのだ」と言っているのを聞きました。(31:1)
冒頭の句のように、ヤコブはラバンの態度にも変化が生まれたのに気づきます。もはやラバンは叔父ではなく、「アラム人のラバン」(31:20)と、一族ではなく、ただの他人のようになっています。

ヤコブは叔父のラバンのために、「この二十年間、あなたの家で過ごしました。十四年間はあなたのふたりの娘たちのために、六年間はあなたの群れのために、あなたに仕えてきました。」(31:41)。
しかし、ラバンは、もはや叔父ではなく、今や単に財産に嫉妬し、恨む、ただの「アラム人」となりました。

「彼の子たち、妻たちをらくだに乗せ、また、すべての家畜と、彼が得たすべての財産、彼がパダン・アラムで自分自身のものとした家畜を追って、カナンの地にいる父イサクのところへ(31:18)向かいます。
「アラム人」である「ラバンにないしょにして、自分の逃げるのを彼に知らせず(31:20)、逃避行が始まります。

ここで内的意味上扱うテーマは、「ヤコブとその妻たち」が表象する〈善と真理〉が「ヤコブ」の示す善から、分離され(AC4061)、イサクが表象する神的合理性と結ばれることです(AC4108)。
親しかった肉親や友人の一方あるいはそれぞれが成長し、また相手を利用するだけの関係になり、嫉妬が芽生えたりして、もはや以前のような関係を維持することができなくなることはよく見かけます。

霊界においては、霊の集団の中で起こり、ある霊の変化が、まわりの霊のグループと一致しなくなれば、そのグループにはいられなくなります。人・霊の変化は霊の社会の変化に他なりません(AC4067)。
不一致があればそこには分離が起こります。それはマイナスの場合だけではなく、再生の進歩という場合にも起こります。再生中の霊あるいは人には、善霊と中間霊と悪霊がいます。彼らを通して純粋な善と真理に導入されるためです。人が成長し、再生するためには必ず通らなければなりません。

善霊との別離は、自分の歓びの赴くまま、それぞれが気づかないうちに起こります。善霊はその導きは主によるものと考えているからです。
悪霊は善くないものを、反面教師として提供します。しかし悪いことを拒絶し続けると、お互いに不愉快が募り、自由の内に分離されるようになります。
そして善霊と悪霊の中間にいる中間霊では、歓びと不愉快が生まれ、楽しみと不愉快さが交互にやってきます。霊達の快・不快が明らかになってくるまでになると、自由のうちに別離が産まれます。
一致・不一致の基準は、霊達の目的・愛であり、これが明確になるまで分離は起こりません。いずれも自由のうちに起こるようになるまで留められます(AC4110参照)。

その基準は「役立ち」・目標にあります。役立ちが終わると、分離の時期がやってきます。この役立ちは御言葉では「毛を刈る」ことで表現されます。ヤコブが出発したのは「ラバンは自分の羊の毛を刈るために出ていた」(31:19)時でした。自分のいる社会の役立ちが、自分の目的に合致しなくなれば、分離の時です。

ヤコブと共にカナンへ向けて逃避したラケルは、父の所有のテラフィムを盗み出し(31:19)ます。
テラフィムとは古代で禁じられていた偶像です。しかし、試練の後に来る慰めが「エホビ」によって表現されたり、十戒の箱や天界の入り口にいる「ケルビム」が守りの摂理を表すように、「テラフィム」は真理の一部をも意味します。ラケルの盗みも偶像の所有も外観だけ考えると、それぞれ禁じられていた事柄ですが、この「盗み」は、ラバンとヤコブの分離に描かれたもので、盗みや偶像がテーマではありません。

事実、ラケルがこの真理の一部を盗み出したことを、ヤコブは知りませんでした。テラフィムはラバンにとっては大切なものでした。自分の力によって得た真理と考えていたものなので、神に夢で「あなたはヤコブと、事の善悪を論じないように気をつけよ。」(31:24)と警告を受けたにもかかわらず、逃げたヤコブを七日間追跡します。

ギルアデの山地でヤコブに追いつきます。ヤコブ側は、そこで天幕を張ります。追いついたラバン側も張りますが、日本語の聖書が「天幕を」張った、と余計?に「天幕」を付け加えていますが、原語やkingJames聖書では「天幕」を入れず、「張った」とだけ記されています。天幕が愛の聖なるものを意味するためです(AC4128)。あえてラバン側には「天幕」という言葉が除かれ、「張る」とだけ記されています。ラバン側には愛の聖性がないというが示唆されています。

ラバンは、ヤコブの天幕、レアの天幕、二人の召使いの天幕の天幕を探し、テラフィム、自分のものと考えている真理を探します。しかし、見つかりません。そしてラケルの天幕を探しますが、ラケルはテラフィムをらくだの鞍の下に入れ、その上に座り、自分には「女の常」のことがあるので立てないとごまかします。
らくだは、記憶知を示し、「女の常」は、御言葉の内意では不潔を意味します。ラバンが大切と考えていた真理は、美しくない記憶の中に埋もれ、発見できません。そしてこの後、このテラフィムが御言葉の中で問題とされることはなくなります。自分のものと思っていた真理は、存在しません。

そしてもちろんヤコブも、ラケルがテラフィムを盗みだしたことを知りません(31:32)。
「中間的善の中にいる霊たちの社会は、天使たちの社会の中にいるとき、あたかも、天使たちの諸真理と諸善が、自分たちのもののように見え、しかもそうとしか思いません。ところが分離されると、それが自分たちのものではないことが分かります。したがって、自分たちの社会にともにいた人々から引き離されたと知ると、不平を言います。」(AC4151-2)

真理と善、そして悪と偽りはすべて流入してきます。私たちの教義でも、善と真理は主のものであり、悪と偽りは地獄の悪魔のものであることが、真のキリスト教(3-2)で、そうであることを信じなければならないとされています。新教会の教義の、まさに中心事項の一つです。

しかしこの教義を知識としては知ってはいるが、心から信じる人は少数です。新教会では口を酸っぱくするほど繰り返し、信条として唱え、知識としては行き渡っています。行き渡っているはずです。
マルコ福音書にも、主は同じ事を、「外側から人に入って、人を汚すことのできる物は何もありません。人から出て来るものが、人を汚すものなのです。」(7:15)と指摘されます。

すると、悪や偽りは自分のものではないなら、自分が何をしても過失はないはずだ、と主張する人が出てきます。
「しかし、自分から出た考えだと信じ、自分から欲するものと信じることによって、それを自分のものとして同化吸収するわけで、もし事実どおりに信じていたら、悪や偽りを同化しなかっただろう」(AC4151-6)悪や偽りを、考え、行ったことが、私たちの思考と、行動として、私たち自身のものとされます。
そのため、私たちは常に偽りと悪は、頭に思い浮かべ、かすめたとしても、それは地獄の悪魔の思考と認識し、避けます。偽りの思考がかすめても、実行に移せば、間違いなくそれは自分のものをなってしまいます。

同じように真理と善を語り行ったなら、それを自分が語り、行ったと認めるなら、主のものを「盗む」ことになってしまいます。悪を行うな、善を行え、といいますが、善を自分が行ったと認めた瞬間に「盗み」という十戒で禁じられた悪を行うことになります。善は主のものとして、私たちが行わなければなりません。悪は主に対する罪として避けなければなりません。意識の中に「主」を思い浮かべ、常に主に立ち返ることが、私たちと主を結びつけます。

この中心教義を知る人は多くいますが、信じて、心身で実行する人は少ないのには理由があります。
「なぜなら、エゴのうちに留まりたいと願うからです。そのエゴを愛する結果、すべてが流入によると示されると、不安にかられ、エゴのうちに生きられるよう、この上なく切望し、もし万一それが取り去られれば、生きることもできなくなります。」(AC4151-7)
エゴと呼ばれる「我」を捨てきれないと教えます。悪はしないというつもりが、「我」あるいはエゴは捨てきれないということが原因となっています。自己愛と世間愛は、地獄の中心です。この「我」・エゴ・プロプリウムこそ私たちが乗り越えなければならないものです。周りの人、特に悪を行ってはならない、断悪修善を唱える人も、エゴ・我を乗り越えることができない人が数多くいます。自分は新教会の中心的な人物と考える人も、そうです。わかっていながら、「自分のスタイル」を押し通します。「自分のちょっとしたこだわり」を優先させます。そのため、新教会はこのエゴによって犯され、絶えず攻撃され続けます。

しかしこのスタイル・こだわりと名を変えるものはすべて、エゴであり我であり、地獄の悪魔から出るものです。年の初めにあたり、この我、エゴを自分の敵と認め、闘う覚悟を固めましょう。

御言葉によって私たちはラバンである傍系的な善と区別されます。常に御言葉にもどり、主の神人生とともに、地獄と闘うなら、自分からではなく、主から、主と共に闘うことができます。ヤコブが父イサクの怖れる方にかけて誓い、山で犠牲を捧げたように、「愛の善」を信じ、これを得るべく闘います。

 「そうしてヤコブは山でいけにえをささげた。」(31:54)アーメン


創世記 (新改訳)
31:17 そこでヤコブは立って、彼の子たち、妻たちをらくだに乗せ、
31:18 また、すべての家畜と、彼が得たすべての財産、彼がパダン・アラムで自分のものとした家畜を連れて、カナンの地にいる父イサクのところへ向かった。
31:19 そのとき、ラバンは自分の羊の毛を刈りに出ていた。ラケルは、父が所有しているテラフィムを盗み出した。
31:20 ヤコブはアラム人ラバンを欺いて、自分が逃げるのを彼に知られないようにした。
31:21 彼は自分のものをすべて持って逃げた。彼は立ち去ってあの大河を渡り、ギルアデの山地の方へ向かった。
31:22 三日目に、ヤコブが逃げたことがラバンに知らされた。
31:23 ラバンは身内の者たちを率いて、七日の道のりを追って行き、ギルアデの山地でヤコブに追いついた。
31:24 神は夜、夢でアラム人ラバンに現れて仰せられた。「あなたは気をつけて、ヤコブと事の善悪を論じないようにしなさい。」
31:25 ラバンはヤコブに追いついた。そのとき、ヤコブは山地に天幕を張っていたが、ラバンもギルアデの山地に身内の者たちと天幕を張った。
・・・・
31:34 ところが、ラケルはすでにテラフィムを取って、それらをらくだの鞍の中に入れ、その上に座っていたので、ラバンが天幕を隅々まで調べても見つからなかった。
31:35 ラケルは父に言った。「父上、どうか怒らないでください。私はあなたの前で立ち上がることができません。女の常のことがあるからです。」彼は捜したが、テラフィムは見つからなかった。
31:36 するとヤコブは怒って、ラバンをとがめた。ヤコブはラバンに向かって言った。「私にどんな背きがあり、どんな罪があるというのですか。私をここまで追いつめるとは。
31:37 あなたは私の物を一つ残らず調べて、何か一つでも、あなたの家の物を見つけましたか。もしあったなら、それを私の一族と、あなたの一族の前に置いて、彼らに私たち二人の間をさばかせましょう。
31:38 私があなたと一緒にいた二十年間、あなたの雌羊も雌やぎも流産したことはなく、また私はあなたの群れの雄羊も食べませんでした。
31:39 野獣にかみ裂かれたものは、あなたのもとへ持って行かずに、私が負担しました。それなのに、あなたは昼盗まれたものや夜盗まれたものについてまでも、私に責任を負わせました。
31:40 私は昼は暑さに、夜は寒さに悩まされて、眠ることもできませんでした。
31:41 私はこの二十年間、あなたの家で過ごし、十四年間はあなたの二人の娘たちのために、六年間はあなたの群れのために、あなたに仕えてきました。しかも、あなたは何度も私の報酬を変えました。
31:42 もし、私の父祖の神、アブラハムの神、イサクの恐れる方が私についておられなかったなら、あなたはきっと何も持たせずに私を去らせたことでしょう。神は私の苦しみとこの手の労苦を顧みられ、昨夜さばきをなさったのです。」
・・・
マルコによる福音書

7:14 イエスは再び群衆を呼び寄せて言われた。「みな、わたしの言うことを聞いて、悟るようになりなさい。
7:15 外側から人に入って、人を汚すことのできる物は何もありません。人から出て来るものが、人を汚すものなのです。」
7:17 イエスが群衆を離れて、家に入られると、弟子たちは、このたとえについて尋ねた。
7:18 イエスは言われた。「あなたがたまで、そんなにわからないのですか。外側から人に入って来る物は人を汚すことができない、ということがわからないのですか。
7:19 そのような物は、人の心には、入らないで、腹に入り、そして、かわやに出されてしまうのです。」イエスは、このように、すべての食物をきよいとされた。
7:20 また言われた。「人から出るもの、これが、人を汚すのです。
7:21 内側から、すなわち、人の心から出て来るものは、悪い考え、不品行、盗み、殺人、
7:22 姦淫、貪欲、よこしま、欺き、好色、ねたみ、そしり、高ぶり、愚かさであり、
7:23 これらの悪はみな、内側から出て、人を汚すのです。」

天界の秘義4145 アルカナ訳
② 再生される人は、一人残らず、まず中間的善の中に置かれますが、それは純粋な善と真理の導入という役割を果たすためで、その役割を果たしたあと、切り離され、直接流入の善に導きいれられます。そのようにして、再生される人は、段階的に完成されていきます。
例えば、再生される人は、考える善にしても、行う善にしても、自分自身の力によるもので、それなりに報われるはずだと、最初は信じます。善は他から注がれるものである事実を知らず、みずからそれを行ったための報いではないことも知らず、たとえ知ったとしても、理解できません。またそう信じていなければ、決して善を行えません。
善を行うときの情愛面でも、善や功績についての認識面でも、最初はこうして始まります。善を行うさいの情愛に導きいれられると、その時、今までとは違ったことを考え、信じはじめます。すなわち善は主からの流入によることです。それと同時に、エゴから行う善によっては、手柄になるものは何もないことです。また善を欲し行う際の情愛にひたるとき、功績をまったく拒否するだけでなく、嫌悪し、善に根ざす善によって感化されるようになります。このような状態にあって、初めて直接流入の善があります。

③ 例えば、結婚愛の場合がそうです。先行する善、開始導入のさいの善といえば、美しさであり、習慣の一致であり、一方が他方にたいして外面的に適応することであり、両者の対等関係であったり、願わしい条件であったりします。
このような善は、結婚愛の最初の中間善です。そのあと、魂が結ばれるときがきます。一方が他方と同じような意志をもちます。相手がよろこぶことをすることで、〈よろこび〉を感じとります。この状態は第二の状態ですが、以前の状態が残っていても、それを目標にすることはありません。
やがて、天的善と霊的真理の一致のときが来ます。それは一方が他方と、同じように信じ、一方も他方が感化されると同じ善で、感化されることです。この状態になると、双方とも同時に、善と真理との天的結婚のうちにいることになります。
それが結婚愛です。結婚愛とは、それに他なりません。つまり主は、二人の情愛にたいし、一つの情愛にたいするような流入を注がれます。これこそ直接流入の善です。間接的流入であった以前のものは、直接の流入を導入するための媒介的役割を果たしたことになります。

ぶどう園の労働

しかし、先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になります。19:30

本章はぶどう園の労働の喩えから始まります。
文字上の話は、ぶどう園の所有者が、朝早く労務者と一日一デナリの報酬を約束して、労務者を雇います。そして御言葉の原語で、第三時・第六時・第九時、そして第十一時に市場に出かけ、労務者を雇います。そして一日が終了し、後から来た者から始め、最初から働いていた者すべて労務者全員に同じ一デナリを支払います。特に最後のものは一時間しか働きませんが、同じ一デナリの賃金を支払います。もし、時給契約であれば、不公平になります。

最初に来た者は文句を付けます、『最後に来たこの者たちが働いたのは、一時間だけです。それなのにあなたは、一日の労苦と焼けるような暑さを辛抱した私たちと、同じように扱いました。』
一日中働いた者と、最後の一時間だけ働いた者が、同じように扱われています。
最初に「一日一デナリの約束」(20:2)して、日給の契約であったため、朝から働いた者は「もっと多くもらえるだろうと思ったが、彼らが受け取ったのも一デナリずつであった。」(20:10)

主がこのぶどう園の労働の喩えで指摘された事は、「もっと多くもらえるだろう」という思いに対する評価です。自分は自分の力で働き、成果もあったはずだことがおかしいという指摘です。

天界の教えによれば、ぶどう園とは、霊的教会のことを意味します。(AC1069:5)
そして、霊的教会の主要な教えは、内に主が存在する仁愛で、この仁愛によって主は人と結ばれ、仁愛によってのみあらゆる善を働かれます。ヨハネ福音書にもある「ぶどうの木」の喩えでみごとに教えられえいます。
「わたしにとどまりなさい。わたしもあなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木にとどまっていなければ、自分では実を結ぶことができないのと同じように、あなたがたもわたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。」(15:4)

朝早くから働き、自分は、もっと多くもらえる、と考えていた者は、「報酬」という概念を強く持っています。時給と考えています。私たちも、教会の為に多く働けば、天界では善い報いが待っている、あるいは天界に入ることができると、考えています。よく天界の教義を学びさえすれば、天界に行ける・・・とも。

しかし天界の教義はそうではないことを教えます。
「信仰の生命は服従から戒めを行うことにある。しかし仁愛の生命は愛から戒めを行うことにある」(AC 9193)
同じ「戒めを守る」にあたっても、服従からか、あるいは愛からかという二種類があります。
服従とは、自分の意志ではなく、自分以外の者の意志を行うことです。人の意志を行うことは、簡単ではありません。自分の意志を犠牲にしなければならないからです。自分の意志を抑えて、報酬をもらうために耐えなければなりません。これが「一日の労苦と焼けるような暑さを辛抱」(20:12)することによって意味されます。焼けるような暑さとは、報酬を求める欲望です。労苦とは悪と偽りに対する戦い(AC10360)です。

もちろん、ぶどう園に行かず、「何もしないで立っている」ことも選択できます。しかし、怠惰であるなら、地獄か荒野に投げ入れられ、全てを欠如する惨めな生を送ります(D.Wis9-4)。

天界に入りたいという報酬のために働くなら、自分から悪と偽りと闘うことになります。そしてその闘いに勝利するのは簡単ではありません。労苦が伴います。自分の力で闘うからです。自分一人で地獄全体と闘うことになります。勝利はきわめて難しいのは一目瞭然です。
しかし、愛から戒めを守るなら、戒めを労苦とは感じません。自分の愛することを行うからです。労働ではないので、勝利も難しくはありません。

労働を始めた時を、それぞれ、検討してみます。御言葉の原語では、第三時・第六時・第九時、そして第十一時です。これをこの世の生活時間に変換・翻訳してしまうと、主の意図されたことがくみ取れなくなりますので、原語に従います。

三は聖なる状態を意味します。そしてその倍数の六と九も同じ意味を持ちます。
終わりの時刻は第十一時に一時間を加え、第十二時となります。十二は完全を意味します。
第三時・第六時・第九時は聖なる状態、そして労苦の終了時刻である、第十二時に完全になったことが意味されます。信仰による服従から、完全に愛によって闘う聖なる状態を得たことになります。(AE194)

問題はやや中途半端で、かつ多く働いた労働者から、一時間しか働いてないと批判された十一時からの労務者です。
「十一はまだ完全ではない状態ですが、親切な子供や、幼児のように受け入れられる状態を意味します。」(AE194)
彼らは前の章や前々章で主が受け入れなさいとおっしゃった幼児のような状態、すなわち無垢で純真な状態のことが述べられてます。彼らは素直に主の戒めを受け入れるために、天界に入りやすいことは、今までの教えから明らかです。適正な評価です。

自分から戒めを守り、その褒美として自分は天界に入ることができる考えている人々は、自分の功績を、自分の働きの結果として考えます。戒めを守ることができて主と結ばれ、天界に入ることができると考えます。しかし私たちの本来の目的は、つらい労働のとして、信仰の真理を行うことではなく、愛から仁愛を行うことです。私たちの持つ「愛」が矯正され、撓められ、天界の天使達と同じようにならなければ、天界に入ることはできません。私たちそれぞれが持つ愛が、私たちの本質であるからです。本質が同じでないもので、同じ共同体を維持することはできません。

自分の働きにこだわるなら、あるいは自分が教会に対してこれだけ働いたと主張し、自分は天界に相応しいと考えるなら、それは誤っています。私たちは、ぶどう園に入り、主と結ばれて実を結ぶことを、すなわち、ぶどう園で働くことを勧められますが、暑い太陽に照らされ、労働を続けることは簡単ではありません。
愛により働き、完成を意味する、十二時まで働く者は少なく、最初から労苦して、働く者はつらい労働が待っています。途中でくじけて労働をあきらめるかもしれません。あるいは、招待されても、最終的に選ばれる者は多くはありません。そのため、前章から続いたのと同じ御言葉に一句加わり、締めくくられます。

「このように、後の者が先になり、先の者が後になります。招待される者は多いが、選ばれる者は少ないのです。」(20:16)

ぶどう園の喩えの後も、御言葉は続きます。まだ主の教えは終わってないからです。
主が十字架の苦難に遭い、蘇らなければならないことを十二弟子達に告げなければなりません。信仰の善と真理の全てを表す、十二弟子達はまだ心の底から信じていませんが、主の最後の苦難と蘇りは、善と真理の中核であり、これがなければ、人類は救済されません。しかし、これだけではありません。

十二弟子の中で、主の山上の変容を見た者は、ペテロとヤコブとヨハネです。この三人は自分への特別の扱いを望む傾向があります。あるいは、仮説や信念を検証する際にそれを支持する情報ばかりを集め、反証する情報を無視または集めようとしない傾向、が続きます。これは確証バイアスと呼ばれ、確証バイアスという偽りが働き続けます。

ペテロは、主の十字架の苦難の預言を否定し、「あなたはペテロです。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます。」を自分のことだと思います。ペテロの言葉「ご覧ください。私たちは、何もかも捨てて、あなたに従ってまいりました。私たちは何がいただけるでしょうか。」(19:27)これも、自分は働きに値する特別の報償を受け取る資格があると考えています。ぶどう園で朝から働いていると考えています。自分が働くおかげで、大きな成果が得られると考えています。

ペテロとヤコブとヨハネの三人が表す事柄、信仰と仁愛と、その行い、これらすべてが、主から来ることに気づいて居ません。自分の力だと誤解しています。ペテロに引き続き、ヤコブとヨハネも同じ過ちをしています。

ヤコブとヨハネの母は、自分の二人の息子は主の御国で、主の王座の左右に座るよう主に願い出ます(20:21)。この二人は、主を受け入れようとしないサマリヤ人の町に「主よ。私たちが天から火を呼び下して、彼らを焼き滅ぼしましょうか。」(9:54)と不遜な言葉を吐き、主にたしなめられます。自分たちは特別であるという気持が抜けないからです。

主はこれら傾向が現れると、強烈に退けられます。ペテロには「退けサタン」とおっしゃりペテロを否定します。二人の母による王座の左右の座を求めも否定し、さらなる教えを加えられます。

「あなたがたの間では、そうであってはなりません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、皆に仕える者になりなさい。あなたがたの間で先頭に立ちたいと思う者は、皆のしもべになりなさい。
人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また多くの人のための贖いの代価として、自分のいのちを与えるために来たのと、同じようにしなさい。」(20:26-28)

これは、単に教会の為に働くための心構えの教えではありません。
天の御国のぶどう園で働く者の特別な報償が否定されたように、「自分は特別だ」と考えている弟子達にも主と同じようにしなさいという戒めを与えられます。自分は特別だという意識への警告です。

日本の新教会では、著作を翻訳することに、役立ちの歓びだけではなく、権威と権力を求めるような傾向を見ます。そして、天界の教義を学ぶことによって優越感を持つ人もいます。自分は人よりも、真理を知っているという優越感です。しかし翻訳作業も、真理の学びも、そしてそれを教えようとする側も、主の戒めを守らないなら、意味がないことを知りません。ぶどう園に招かれはしたが、まだ働いていないことを知らなければなりません。皆の僕になっていないからです。自分は招かれていると考えています。なかなか確証バイアスから離れることができず、物事の本質が見えません。本章の最後で、主はこれを戒められます。

エリコを出てエルサレムに向かう道ばたで座っていた二人の盲人は、「主よ、ダビデの子よ。私たちをあわれんでください」(20:31)と叫びます。
この二人の盲人は、実は私たちのことです。単なる盲人を癒やす、という奇蹟のエピソードではありません。
二人の盲人の二は、善と真理がまだ結びついていないことを意味します。
彼らが座っているのは、エリコからエルサレムへの道ばたでした。エリコはヨルダン川を渡った場所にあります。ヨルダン川で主が洗礼をお受けになったように、私たちも教会への導入は済んでいます。新教会の洗礼で、主が天地のただ一人の天地の神であることを認めています。
しかし、二人の盲人と同じように、私たちはまだ目が開いていません。バイアスが働き、物事が見えません。どうすれば、天界のぶどう園で働くことができるか、理解していません。まだ市場で遊んでいるだけですが、それさえ気づいていません。エレミヤが言ったように、「なぜ、悪者の道は栄え、裏切りを働く者が、みな安らかなのですか。」という不公平に気を取られているだけです。
信仰の真理を得ても、それで闘っていません。喩え闘ったとしても、その闘いは遅々として進みません。

もし、私たちの主への信仰が本物なら、私たちが助けを求めるのは、スウェーデンボルクでも、牧師でも、翻訳者でも、教会での先輩たちでもありません。天地の唯一の神、主イエス・キリストに叫んで求めなければなりません。私たちは物事が見えてないことを認め、主のお力で開いていただきます。
私たちは心から主イエスに、「私たちをあわれんでください」と乞い求めます。
すると主は私たちに聞かれます。「わたしに何をしてほしいのですか。」

私たちは、自分の信仰の目がまだ開いていないこと、自分のぶどう園での闘いが進んでいないことを認めます。そして天地の神である主イエスに「主よ、目を開けていただきたいのです。」と心から願います。すると奇蹟が起こります。

「イエスは深くあわれんで、彼らの目に触れられた。すると、すぐに彼らは見えるようになり、イエスについて行った。」(20:34) アーメン

エレミヤ12:1 【主】よ。私があなたと論じても、あなたのほうが正しいのです。それでも、さばきについて、一つのことを私はあなたにお聞きしたいのです。なぜ、悪者の道は栄え、裏切りを働く者が、みな安らかなのですか。
・・・
12:14 「【主】はこう仰せられる。わたしが、わたしの民イスラエルに継がせた相続地を侵す悪い隣国の民について。見よ、わたしは彼らをその土地から引き抜き、ユダの家も彼らの中から引き抜く。
12:15 しかし、彼らを引き抜いて後、わたしは再び彼らをあわれみ、彼らをそれぞれ、彼らの相続地、彼らの国に帰らせよう。
12:16 彼らが、かつて、わたしの民にバアルによって誓うことを教えたように、もし彼らがわたしの民の道をよく学び、わたしの名によって、『【主】は生きておられる』と誓うなら、彼らは、わたしの民のうちに建てられよう。
12:17 しかし、彼らが聞かなければ、わたしはその国を根こぎにして滅ぼしてしまう。──【主】の御告げ──」

マタイ福音書(新改訳)
20:1 天の御国は、自分のぶどう園で働く者を雇うために朝早く出かけた、家の主人のようなものです。
20:2 彼は労働者たちと一日一デナリの約束をすると、彼らをぶどう園に送った。
20:3 彼はまた、九(三)時(以下括弧内は原語:原語により解釈)ごろ出て行き、別の人たちが市場で何もしないで立っているのを見た。
20:4 そこで、その人たちに言った。『あなたがたもぶどう園に行きなさい。相当の賃金を払うから。』
20:5 彼らは出かけて行った。主人はまた十二(六)時ごろと三(九)時ごろにも出て行って同じようにした。
20:6 また、五(十一)時ごろ出て行き、別の人たちが立っているのを見つけた。そこで、彼らに言った。『なぜ一日中何もしないでここに立っているのですか。』
20:7 彼らは言った。『だれも雇ってくれないからです。』主人は言った。『あなたがたもぶどう園に行きなさい。』
20:8 夕方になったので、ぶどう園の主人は監督に言った。『労働者たちを呼んで、最後に来た者たちから始めて、最初に来た者たちにまで賃金を払ってやりなさい。』
20:9 そこで、五時ごろに雇われた者たちが来て、それぞれ一デナリずつ受け取った。
20:10 最初の者たちが来て、もっと多くもらえるだろうと思ったが、彼らが受け取ったのも一デナリずつであった。
20:11 彼らはそれを受け取ると、主人に不満をもらした。
20:12 『最後に来たこの者たちが働いたのは、一時間だけです。それなのにあなたは、一日の労苦と焼けるような暑さを辛抱した私たちと、同じように扱いました。』
20:13 しかし、主人はその一人に答えた。『友よ、私はあなたに不当なことはしていません。あなたは私と、一デナリで同意したではありませんか。
20:14 あなたの分を取って帰りなさい。私はこの最後の人にも、あなたと同じだけ与えたいのです。
20:15 自分のもので自分のしたいことをしてはいけませんか。それとも、私が気前がいいので、あなたはねたんでいるのですか。』
20:16 このように、後の者が先になり、先の者が後になります。(招待される者は多いが、選ばれる者は少ないのです。KJV等では付加)」

AE194.
[2] 「時」とは 状態を意味します・・
家の所有者はぶどう園の労働者を、第三時、第六時、第九時、第十一時から働く者を雇い、同じ賃金を受け取った。(マタイ 20:1-16).
これらの「時」は、この世では時を意味しますが、天界では生命の状態を意味します、なぜなら天界では時間はなく、測れる時間もなく、世のように日々や時間に分割できないからです。従って、これら時間の代わりに、天使たちは生命の状態、死、老、成人、若人、あるいは子、そして等しく霊的生命を自ら得た状態を認識します。「ぶどう園での労働」は自らによって御言葉から真理と善を得て生命の役立ちに適用します。:第三、第六、第九時は生命の状態を意味します、なぜなら、御言葉のあらゆる数字は、意味を持ち、これらの数値は同じような意味を持っています。(御言葉のぶどう園は霊的教会を、人にあっては霊的生命を意味しますAC 9139, 3220。三は完全な状態を、あるいは最後まで完了した状態を2788, 4495, 7715, 8347, 9825:同じように六と九も。)
しかし、十一はまだ完全ではない状態ですが、親切な子供や、幼児のように受け入れられる状態を意味します。すべて働いた十二時は、真理と善が完全です577, 2089, 2129, 2130, 3272, 3858, 3913.)・・・

主の変容

「すると、弟子たちの目の前でその御姿が変わった。顔は太陽のように輝き、衣は光のように白くなった。」17:2

「主の変容」と呼ばれる、有名な場面です。同じような表現がイザヤ書にもあります。
「【主】がその民の傷を包み、その打たれた傷をいやされる日に、月の光は日の光のようになり、日の光は七倍になって、七つの日の光のようになる。」(30:26)。
主の変容が何を意味するのか?マタイ17章を学びます。

前章で、サタンが、ペテロの口を借りて言います。「そんなことが、あなたに起こるはずはありません。」
そんなこととは、「エルサレムに行って、・・多くの苦しみを受け、殺され、そして三日目によみがえらなければならない」という最後の試練です。旧約聖書以来、何度も預言されてきた、この悲惨な状態、愛する人々によって無残な目に遭う最後の試練を、主が受け入れることができるかどうか?それが、主に与えられた試練でした。

主はこの試練を、ペテロに向かって「下がれ。サタン。あなたはわたしの邪魔をするものだ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」と退け、勝利します。ご自分の過酷な使命を受け入れます。すると、御姿の変容が起こりるという出来事が起こります。

「それから六日たって、イエスはペテロとヤコブとその兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。」(17:1)
この「六日」は、十戒の中にある労苦の六日です。「六日間、働いて、あなたのすべての仕事をしなければならない。」(出エ20:9)と、試練の労苦を意味します。主は自分が「多くの苦しみを受け、殺される」という預言を受け入れ、北へ進んできた道を引き返し、エルサレムに向け南下することになります。
神的真理・御言葉の実現の旅の始まりです。

ピリポ・カイザリヤ地方(16:13)で登る高い山といえば、ヘルモン山を連想しますが、具体的な山の名は記されていません。この山は「霊的に高い状態」を物語ります。主は試練の克服によって極めて高い状態に進まれることが預言されます。三人の弟子達の前で、主の御顔が太陽のように輝き、衣は光のように白くなります。
霊的に見れば、太陽で示される「神的愛」と、光のような白い衣で示される「神的知恵」を、三人の弟子が目撃します。しかも情景は、「モーセとエリヤが現れてイエスと話し合って」います。モーセもエリヤも伝説の預言者たちですが、とうの昔に亡くなっています。弟子達三人は「ひれ伏して非常にこわが」ります。

三人の弟子達は、優秀であったから高い山に連れて行かれたのではありません。ペテロとヤコブとヨハネが、それぞれ、大切な事柄を表象するからでした。表象する事柄とは、それぞれ信仰と仁愛、仁愛の業です(AE820)。主は。信仰と仁愛と仁愛の善を通して、人々を霊的に高い状態に導こうとされます。

ペテロは、イエスを含めた三人を礼拝するために「、私が、ここに三つの幕屋を造ります。」と言いますが、それは正しくはありません。三人は、同じ御言葉の部分・部分を示すからです。モーセは御言葉の歴史的部分を、そしてエリヤは預言的部分を意味し、主は当時進行中の新約聖書を意味するからです。
ペテロの認識を否定するように、光輝く雲が、この三人を包み、「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。彼の言うことを聞きなさい」と声がします。

「わたしの愛する子」とは、主イエスご本人に他なりません。主はご自分の過酷な運命を受け入れます。「神のことばを聞いて行う人たち」を主は愛されます。
弟子達がひれ伏し、イエスが手を触れ、目を上げると、そこには「ただイエスおひとりだけでした。」。これは三つの御言葉のすべてはイエスお一人のことについて書かれていることを表します。なぜなら、モーセで表される歴史部分も、エリヤで表される預言者の書の部分も、内意はすべて主お一人の愛と知恵について書かれているからです。御言葉すべては、ある一つの目的のため、人類の救済のために与えられたことが、弟子達が目撃した主の変容によって示されます。

天界の教えは、主は、「神的真理、御言葉」自体であると述べます。(AE594:2)
弟子達は、マタイ16章以前で、主の数々の教えと、病と身障者を癒やす奇蹟、、食で大勢を養う奇蹟を目撃しています。また、ペテロの口を借りて、主が「生ける神の子キリスト」(16:16)であることを告白しています。その後のペテロの口を借りた試練の後、この17章では、主が「神的真理、御言葉」そのものであることを、高い山での変容によってお示しになりました。

輝く雲からの声は、愛する子が、主イエスであることを示した後、「彼の言うことを聞きなさい」と命じます。「聞く」とは単に声を聞くことではなく、「従いなさい」という(AC3869) という命令です。

この超自然的な事象から発した「命令」を、弟子達は、どう受け取ったでしょうか?おとなしく聞き従ったでしょうか?
「弟子たちは、この声を聞くと、ひれ伏して非常にこわがった。」(17:6)とあります。
御言葉で「怖がる」、とは不信仰を意味します(AR891)。弟子達はまだ、主が神的真理そのものであることが信じられず怖れるだけでした。信じられない奇蹟に、腰が抜けて立つこともできません。

主は、三人の弟子に「起きなさい。こわがることはない」と手を触れ、立ち上がる力を与えられます。
高い霊的状態から醒め、現実に戻り立ち向かうには、何らかの力が必要です。主の変容と励ましは、私たちが現実の試練と向き合い闘うためのエネルギーとなります。

山を下りながら、弟子達は山頂で目撃したはずのエリヤのことを主に訊ねることで、霊的に高い状態からゆっくりと現世に戻ってゆきます。「律法学者たちが、まずエリヤが来るはずだと言っているのは、どうしてでしょうか。」と弟子が問うと、「エリヤはもうすでに来たのです。ところが彼らはエリヤを認めようとせず、彼に対して好き勝手なことをしたのです。」
弟子達ははっと気づきます。やってきたエリヤとは、昔の伝説的預言者のことではなく、洗礼者ヨハネのことでした。主ご自身もヨハネのことを「実はこの人こそ、きたるべきエリヤなのです。」(11:14) とおっしゃっています。
洗礼者ヨハネの教えは、「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」(3:2)でした。しかし、洗礼者ヨハネは、ヘロデ王に殺されます。(14:10)

洗礼者ヨハネがエリヤであることを気づかなかったのは、弟子達の悔い改めが不十分で、霊的進歩が不十分であったせいです。それは山から地上へと舞台が変わり、群衆の中に帰って来た時にはっきりします。

群衆の中に来たとき、ある人がてんかん持ちの息子のことで主の「御前にひざまずいて」助けを求めます。
「主よ。私の息子をあわれんでください。・・・その子をお弟子たちのところに連れて来たのですが、直すことができませんでした。」(17:15,16) 

イエスは答えて言われた。「ああ、不信仰な、曲がった今の世だ。いつまであなたがたといっしょにいなければならないのでしょう。」(17:17) 弟子達の霊的状態が低い状態に停滞していて、人々の救済ができないことを嘆きます。「あなたがたの信仰が薄いからです。まことに、あなたがたに告げます。もし、からし種ほどの信仰があったら、この山に、『ここからあそこに移れ』と言えば移るのです。どんなことでも、あなたがたにできないことはありません。

天界の教えは、これを解説します。
「ここでの信仰は、主からの信仰を意味し・・・主から信仰にある者は、主の王国と自分の救済以外何も望みません」(AE 815:10)。

「自分達の力による信仰」ではありません。「主からの信仰」が求められています。
弟子達は自分には力があるという思い込みに囚われ、自分の力で悪魔を祓い、人を助けることができると信じていました。しかし彼らの信仰は、「霊的本質のない、単なる知識か、思い込み」にしか過ぎません (TCR339)。そのため、主は「不信仰な、曲がったとおっしゃいます。主は、てんかん持ちの息子を救うためには、「祈りと断食」が必要だとおっしゃいます。

天界の教えである真のキリスト教にも、「信仰だけでは善行はできません。仁愛だけでもできません。善行は、仁愛と信仰がともになって生まれます。」(TCR377) とあります。
主が山につれて行かれた、ペテロとヤコブとヨハネは、この信仰と仁愛と善行を意味しました。
私たちは、「信仰」というと、「自分の力で信じること」と考えるかもしれません。自分には信仰の力があり、それを選択しさえすれば、すぐに信仰できると考えます。しかしこの力も実は主から来ています。私たちの力ではありません。自分たちが考え信じているというのは、「外観」だけです。この外観がなければ私たちは救われません。信仰も愛も善行も、自分から来て自分から行っていると思うのは、実はそうではありません。すべて善で真であることは主お一人から来ています。

自分には力がないことと認め、主に向かい、主からの神的真理の力を受け入れます。
これが「祈り」です。
そして「断食」とは、地獄から流れ込む悪と偽りを断固として拒み、主の王国への役立ちだけを願うことです。
祈りと断食の力を使えば、仁愛の実現を拒んでいる「自己愛」という大きな山が崩れて、主の王国への働きができるようになります。私たちに主の王国の働きができないのは、心のどこかで自分のため、自分の名誉や利得のために働こうとしている部分があり、それが隠れた動機となっているからです。

この後、主は神的真理が、無残な目に遭うことを預言されます(AC 9807:10)。神的真理を軽んじているのは実は、私たちや弟子達であったことがわかります。
「人の子は、いまに人々の手に渡されます。そして彼らに殺されるが、三日目によみがえります。」
前章では主ご自身が試練に遭うことを預言されましたが、主が、神的真理であることをお示しになったため、ここでは神的真理自体への扱いも含むことになります。神的真理を軽んじそう考えていないのは、実は弟子達であり、主の王国のために働きのできない私たちです。

主の一行は、ガリラヤ湖畔のカペナウムに戻ります。ガリラヤ湖は、私たちの日常生活の場を意味します。
私たちは国や地方公共団体へ税金を納め、教会活動の促進のため献金をします。カペナウムにも教会への役立ちである納入金を集金する人が待っていました。彼らは律法で命じられたことを実現するため、集金しています。

「シモン。どう思いますか。世の王たちはだれから税や貢を取り立てますか。自分の子どもたちからですか、それとも異邦人(日本語訳:ほかの人たち)からですか。」

ここで、「異邦人たち」は、外部にだけ信仰を置いた人たちを表象しました。かれらは「すべての人のしもべ」であって、教会での低い役立ちを提供します。(AC1097)
しかし低い役立ちであっても、律法で定められ命じられた役立ちです。「彼らが法を破らないよう、湖に行って釣りをして、最初に釣れた魚を取りなさい。その口をあけるとスタテル一枚が見つかるから、それを取って、わたしとあなたとの分として納めなさい。」
ペテロが湖で魚を捕り、口から硬貨一枚を見つけ与えたことは、仕える最も低い自然的なもののことを意味します。なぜなら、魚は自然的なものを意味するからです。(AC 6394)
私たちも、日常の自然的な状況にあっては、国へ税金を納め、教会への献金を行わなければならないことが意味されます。それは主の働きと力を認め、感謝する自然的手段であるからです。

この章は、最も高い状態での栄光、主の変容の目撃に導かれました。そしてその状態から主の力で「立ち上がって進み」、私たちの日常にまで降りてきます。信仰は、愛・仁愛を伴わなければ、善行に結びつくことができないこと、さらに自然的な義務も果たすべきことを、主はこの章で教えられます。

私たちも、主の神的真理を学び知った後は、それを実行しなければなりません。主の働きを行い、同時に地上で与えられた義務も果たしてゆかねばなりません。神的真理は、怖れて崇めるばかりでいれば、「不信仰」となり、何も産み出しません。信仰と仁愛と伴うことで、善行を産み出します。
主は励まされます。「起きなさい。こわがることはない」(17:7) アーメン。


イザヤ
30:19 ああ、シオンの民、エルサレムに住む者。もうあなたは泣くことはない。あなたの叫び声に応じて、主は必ずあなたに恵み、それを聞かれるとすぐ、あなたに答えてくださる。
30:20 たとい主があなたがたに、乏しいパンとわずかな水とを賜っても、あなたの教師はもう隠れることなく、あなたの目はあなたの教師を見続けよう。
30:21 あなたが右に行くにも左に行くにも、あなたの耳はうしろから「これが道だ。これに歩め」と言うことばを聞く。
30:22 あなたは、銀をかぶせた刻んだ像と、金をかぶせた鋳物の像を汚し、汚れた物としてそれをまき散らし、これに「出て行け」と言うであろう。
30:23 主は、あなたが畑に蒔く種に雨を降らせ、その土地の産する食物は豊かで滋養がある。その日、あなたの家畜の群れは、広々とした牧場で草をはみ、
30:24 畑を耕す牛やろばは、シャベルや熊手でふるい分けられた味の良いまぐさを食べる。
30:25 大いなる虐殺の日、やぐらの倒れる日に、すべての高い山、すべてのそびえる丘の上にも、水の流れる運河ができる。
30:26 【主】がその民の傷を包み、その打たれた傷をいやされる日に、月の光は日の光のようになり、日の光は七倍になって、七つの日の光のようになる。

マタイ
17:1 それから六日たって、イエスは、ペテロとヤコブとその兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に導いて行かれた。
17:2 そして彼らの目の前で、御姿が変わり、御顔は太陽のように輝き、御衣は光のように白くなった。
17:3 しかも、モーセとエリヤが現れてイエスと話し合っているではないか。
17:4 すると、ペテロが口出ししてイエスに言った。「先生。私たちがここにいることは、すばらしいことです。もし、およろしければ、私が、ここに三つの幕屋を造ります。あなたのために一つ、モーセのために一つ、エリヤのために一つ。」
17:5 彼がまだ話している間に、見よ、光り輝く雲がその人々を包み、そして、雲の中から、「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。彼の言うことを聞きなさい」という声がした。
17:6 弟子たちは、この声を聞くと、ひれ伏して非常にこわがった。
17:7 すると、イエスが来られて、彼らに手を触れ、「起きなさい。こわがることはない」と言われた。
17:8 それで、彼らが目を上げて見ると、だれもいなくて、ただイエスおひとりだけであった。
17:9 彼らが山を降りるとき、イエスは彼らに、「人の子が死人の中からよみがえるときまでは、いま見た幻をだれにも話してはならない」と命じられた。・・・

17:22 彼らがガリラヤに集まっていたとき、イエスは彼らに言われた。「人の子は、いまに人々の手に渡されます。
17:23 そして彼らに殺されるが、三日目によみがえります。」すると、彼らは非常に悲しんだ。
17:24 また、彼らがカペナウムに来たとき、宮の納入金を集める人たちが、ペテロのところに来て言った。「あなたがたの先生は、宮の納入金を納めないのですか。」
17:25 彼は「納めます」と言って、家に入ると、先にイエスのほうからこう言い出された。「シモン。どう思いますか。世の王たちはだれから税や貢を取り立てますか。自分の子どもたちからですか、それともほかの人たちからですか。」
17:26 ペテロが「ほかの人たちからです」と言うと、イエスは言われた。「では、子どもたちにはその義務がないのです。
17:27 しかし、彼らにつまずきを与えないために、湖に行って釣りをして、最初に釣れた魚を取りなさい。その口をあけるとスタテル一枚が見つかるから、それを取って、わたしとあなたとの分として納めなさい。」

AE594:2
この主の変容は、主が、神的真理、すなわち御言葉を表したことを意味します。主は世に居られた時、その人間性を神的真理とされ、そして世から出られる時、その人間性を受胎から主の内にあった神性自体と結合することによって、神的善となさいました。
従って、主が変容する際に見られた個々の事象は、主の神的善からの神的真理の発出が意味されます。主の内にあった神的愛の神的善と、そこから主の人間性のうちにある神的真理からは「その御顔は太陽のように輝く」と表されます。というのは、顔を通して、「顔」が内面を表すからです。そして「太陽」は神的愛を意味するからです(参考 401, 412)。神的真理は光始めた「衣」によって表されます、御言葉の「衣」は真理を意味し、「主の衣」は神的真理(64, 271, 395) を表します。なぜこれらが「光」として現れたかは、神的真理は天使的天界では光を生み出すので、御言葉の「光」によって意味されるからです(HH 126-140)。
神的真理である御言葉で表されたため、「モーセとエリヤ」が現れ、主と話したとされます。「モーセとエリヤ」は御言葉を表します。「モーセ」は歴史的御言葉を、「エリヤ」は預言的御言葉を表します。文字上の御言葉は、「雲が彼らをおおい、彼らはその中に入った」ことによって表されます。御言葉で弟子達は教会を表し、当時、そしてその後、文字上の御言葉から唯一真理にいて、上掲前出のように、究極の神的真理による啓示と回答がなされ、この真理は御言葉の文字上の真理であったため、「これはわたしの愛する子。わたしはこれを喜ぶ。彼の言うことを聞け」という声が聞こえました。これは主が神的真理であり、御言葉であることを意味します。

イエスの宣教活動[百科マルチメディア]

ゲラルからベエルシバへ

 

「この国にまたききんがあった。それでイサクはゲラルのペリシテ人の王アビメレクのところへ行った。」(26:1)

アブラハムの息子イサクは、父の故郷から姪にあたるリベカを妻として迎え、双子の男の子、エサウとヤコブを得ます。しかし、父の時代にあったような飢饉に遭い、食糧を求めてゲラルの地に移動したところ、主からある命令が下ります。その命令は、「エジプトへは下ってはならない。」(26:2)というものでした。

飢饉に遭うとは、御言葉では、信仰の知識が少なくなったことを意味します。エジプトはこの「知識」に恵まれた地でしたが、そこには行ってはならず、エルサレムの西にある海辺の町、ゲラルに留まれという命令です。

ゲラルとはペリシテ人の王アビメレクの支配する地で、そこに滞在せよとの命令を受けます。

創世記26章は、このペリシテ人の地中心にして井戸の話が続きます。井戸は、泉と同じように、「御言葉」を意味し、そこでは真理を意味する水を得ることができます。私たちの生活に水が不可欠であるように、真理がなければ、生きていくための指針を失い、生きてゆくことが難しくなります。アブラハムの時代にもあり、イサクの時代にも再びやってきた飢饉とは、霊的な糧である善と真理が不足することです。主イエス・キリストの幼少時代の状態を物語っています。

アブラハム以前は、霊的な糧である善と真理は、当時の人間の持つ能力で得ていました。しかし、時代が進むにつれ、人間はその能力を失います。それでも以前の人間が残してくれた知識で、霊的な糧を得て命をつないでいましたが、その知識も失われてしまいます。そこで、神である主が人間として生まれ、一般の人間が持つような力を進化させて、神的なものにまで高めることで、再びこの世と天界をつなぎ、霊的な人間が絶滅しないよう計画されました。その計画の一環が、アブラハムとその妻サラの子イサクの誕生です。

イサクは合理性を意味します。合理性とは、霊的な糧である善と真理がどこにあり、どのようなものであるかを教えてくれる能力で、その力は私たちが持っているものではなく、主から来ます。アブラハム以前は、別の力が与えられ、そこから善と知識を得ていました。この以前の能力は、自然世界の森羅万象のすべてから善と真理を探し出す力でしたが、イサクが表す合理性は、直接、善と真理を探し当てる力ではありません。

善の衣である真理、その外観を認識する力でした。残念なことに、当初の超人的な力は、もはやその欠片も残っていないほど、人間は堕落していたのです。そのため、主が人間としてこの世に生まれ、無数の試練を味わい、克服してゆくことで、神的なものまでにつなげる道を開拓されました。この道を通らなければ、私たち人間は一人として救われません。肉体の死の直前に、神様にお願いしても、あるいはある特別な「自称」神様達と取引しても、全く意味がありません。公平に自分の一生をかけて同じ道を通ります。

創世記26章は、この真理の外観が三種類あることを示します。程度によって三種類に分かれ、それは、高い・低い・より低いです。

高い真理の外観とは、天使が見てわかる外観です。逆に天使でなければわかりません。この外観は、時間や場所が状態として表されています。少なくとも私たちが生きている間は、時間や場所の外観を基準に物事を考え、話さざるをえないため、天使の話を理解することは、極めて難しくなります。空間の高低や、遠近、時間の永遠などのすべてを、相手に応じて一瞬にして、状態に変換して考えることがスタートラインとなるため(AC3404参照)です。

エジプトに南下を禁じられ、学んだゲラルを支配していたペリシテ王のアビメレクは、合理的概念によってできている教義(AC3393)を意味します。

柔らかに言えば、本の知識だけに学ぶのではなく、「自分で考えて、そこから知識を引き出しなさい、そして教義と照らし合わせてつじつまが合っているかどうか確認しなさい」ということと思われます。

ゲラルの人々がイサクに妻のリベカのことを尋ねた。「すると彼は、「あれは私の妻です」と言うのを恐れて、「あれは私の妹です」と答えた。リベカが美しかったので、リベカのことでこの土地の人々が自分を殺しはしないかと思ったからである。」(26:7)

同じやりとりが、アブラハムとその妻サラが、エジプトとゲラルを訪れた時にもありました。

イサクは主の合理性にある「神的善」を意味します(AC3387)。リベカはその妻ですので、主の合理性に結ばれた「神的真理」となります。しかし、リベカが「神的真理」であることを理解させることができなかったので、妹であると答えます。合理的真理とは、理解に応じた真理です (AC3386)。

主が最初得られた神的真理は、人間の理解をはるかに上回ります。私たちは説明して理解するのに、時間や場所の概念が不可欠です。これがないとどんなことを言っているのか、想像すらつきません。

そこで私たちの理解の程度に合わせて、教義を説くことを主はお考えになりました。新約聖書で、「喩え」で説かれたことは、これを意味します。

ここで、リベカが神的真理であると答えると、教義は合理的な能力を超えるため、神的善を受け入れず、イサクを、いわば殺すことになります。

「諸真理は、善の流入を可能にするという目的のために、存在します。

善は、器がなく、受け皿がなければ、行くべき所がありません。善にとっての相応しい状態が存在しないわけです。したがって、諸真理が存在しないところ、つまり受け皿がないところには、合理的善もないし、人間的善もなく、結局は、人にとっての霊的〈いのち〉もありえません。」(AC3387)

人に心から善かれと思って行ったことが、受け入れられなかったときの失望感も器がない状態と、少し似ているかもしれません。善の流入する器である真理がないときと同じように、その善はなくなってしまいます。

「ペリシテ人の王アビメレクが窓から見おろしていると、なんと、イサクがその妻のリベカを愛撫しているのが見え」(26:8)、リベカは妹ではなく、妻であることを知ります。

アビメレクが意味する「教義」を信奉する人の再生が進むと、真理の中に神性があるかどうかが見えてくるようになります。しかし、「神的真理が、再生すれば合理的真理となる」のは矛盾すると考えます。

 そこでアビメレクはすべての民に命じて言った。「この人と、この人の妻に触れる者は、必ず殺される。」(26:11)

これは、神的真理と神的善は開かれてならない、信仰によってでさえ近づくべきではないこと、冒涜によって、永遠の断罪を受ける危険にあります。・・善と真理の中に入り、それを承認し、そこから情愛を持つなら、それは永遠の断罪の危険を持ちます(AC3402)。

一度信じあるいは何らかの感情を持った後、あるいは真理を承認した後、そこから引き返しその中で生きてゆかないなら冒瀆となってしまいます。特にペリシテ人の場合、「認識の知識」だけで満足して、生活に活かさないので、きわめて深刻で、主は厳しく警告されています。しかし、真理は実行の過程でわかることがほとんどです。

理解できない真理は、善が流れ込まないので、意味がありません。そこで、主は神的真理自体をこの世で説くことをお控えになり、この世の人々の合理的能力の進化を待ち、その能力の進化に合わせようとなさいます。この世では高い真理は、誰にも理解できない!と。

以上が高い真理の外観に関して言われたもので、次に、やや低い真理の外観の話を説こうとお考えになります。

「それでペリシテ人は、イサクの父アブラハムの時代に、父のしもべたちが掘ったすべての井戸に土を満たしてこれをふさいだ。」(26:15)

ペリシテ人で意味される認識の知識優先の態度は、神性が宿る知識に理解することも、耐えることもできないので、それを塵芥で埋めて消し去ってしまいます。この塵芥とは自己愛と利得です(AC3413)。

「自己愛と利得への愛は、神よりの真理がわずかでも近づくのに我慢できません。むしろ真理を知り、その真理を熱情まがいの思いで宣べ伝えることで、栄誉を獲得し、誇り高ぶる可能性があります。・・あらゆる真理の泉としての〈みことば〉そのものは、このような地上的な愛で、邪魔されていきます。」(AC3413)

ペリシテ的態度は、別の方向に向かっていきます。

「イサクはそこを去って、ゲラルの谷間に天幕を張り、そこに住んだ。」(26:17)

主は、人々の資質に合わせて、諸真理を調整されます。弟子達に教えの表現を調整して受け入れやすいようにされます。ゲラルの低い谷間で天幕を張られたのは、この調整を意味します。

自分たちの偉大とか優越しか考えない弟子達に、「天界の喜びとは、偉大さや優越の喜びでなく、謙遜と、他人に仕える情愛の喜びであること、また偉大になることでなく、最小のものになることを望むこと」そして、「主に依存すればするほど、それだけ自力では何もできず、むしろ最小であると信じるようになる」ことを教えられます。

こうして、古代人のもとにあった真理でペリシテ人が塵と芥で埋めていったものを、主が開いてゆかれます(AC3418)。

仁愛とは、見返りを求めず隣人に仕えることであり、その隣人とは、普遍的にはすべての人を愛しながら、個々人では判別して愛してゆくこと。・・・

また仁愛とは自分のことを全く考えず、利己心を捨てること、善自体が隣人であること、最高の意味では主が隣人であること。・・・

新約聖書には、これらの教えが豊富に説かれています。仁愛の普遍的種類を示し、古代の真理を復活なさいます。

これが「イサクは、彼の父アブラハムの時代に掘ってあった井戸を、再び掘った。それらはペリシテ人がアブラハムの死後、ふさいでいたものである。イサクは、父がそれらにつけていた名と同じ名をそれらにつけた。」(26:18)で示されています。

低い種類の外観を持つ真理、より低いものを、私たちのレベルに合わせて、再び新しくされてゆきます。

旧約聖書で説かれた象徴的な知識は、主の口によって、よりわかりやすく、私たちの日々の生活に役立てるように調整されてゆきます。

しかし、知識だけにこだわり続け、自分の生活のもの、生命のものとしないペリシテ的態度は、徐々に人を硬く、変質させてしまいます。彼らは、主への愛と隣人への愛、そのものについて、口では肯定しながらも、心では否定し、反感さえ持つことが霊界で示されます。

加えて彼らは、事実さえ歪曲させて解釈するようになるといいます。

「生命の善の中におらず、教義事項にだけ留まっていれば、内部が閉ざされ、主から真理の光が注ぎ込まれず、事実を事実として、感じとることができなくなります。」(3427-4)

教義だけに集中してしまい、生活に役立てないなら、新約聖書に現れて主を否定しようとするパリサイ人や聖書学者と、さらに現代の新教会に関係する様々な人達も、同じように、真理の光が届かなくなります。

生活の中で主を見上げ、戒めを守る体験を重ねて、日々新鮮な本物の生命に気づかなければ、私たちにも真理の光が遮られてしまいます。頭が硬くなってしまわないよう、日々御言葉に触れ、そこから新たな生命をくみ出さなければなりません。日々新たな発見を続けます。立ち止まると、頭も心も硬くなってしまいます。

ゲラルの羊飼いとイサクの羊飼いは、互いに井戸を発見して名をつけてゆきます。ゲラルの羊飼いが本来の意味、内的意味を否定したものが、争いを意味する「エセク」(26:20)と、さらに争いが激しく反論のあったことを意味する「シテナ」(26:21)、さらに字義通りの意味であるため、争いがなかった「レホボテ」(26:22)です。

すべての人に、正しく教えることは簡単ではありません。必す争いや反論が生まれます。

誓いの場所である、ベエルシェバで、主が再びイサクに現れ祝福され、祭壇を築き、ここでも井戸を堀ります。

「人は、その神人性を通して救われます。人が精神の目で、主の神人性を直視して礼拝し、こうして神性に近づくことができるよう、主が人間性を神性に一致合体なさいました。しかしもし、この一体化が行われなかったら、救いはなかったでしょう。人が父と言われる神性そのものに結ばれるには、子である神人性を通さなくてはなりません。これは主を通してなされます。」(AC3441)

これは明らかに、主が最後の十字架上の試練を耐えて、栄化された後の話が旧約聖書で描かれています。

しかし、旧約聖書であろうと新約聖書であろうと、さらに新教会であろうと、教義は変わりません。

それは一つだけ、「隣人への仁愛と、主への愛を説く」教義です。世界の言葉は数多くあり、表現はその言語に応じて変化しますが、教義はただ一つです。

御言葉のすべてには主が存在されていますが、教義はこの仁愛の教義ただ一つです。信仰や教義のための教義などありません。

私たちは洗礼の場での誓いを思い出して御言葉に向かい、生活の場で活かすことを心がけるなら、いつも新鮮な気持、聖霊による啓示があたえられます。

この一つの教義を戒めにすると二つの戒めとなりますが、同じことを言っています。

「『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』

これがたいせつな第一の戒めです。

『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』という第二の戒めも、それと同じようにたいせつです。

律法全体と預言者とが、この二つの戒めにかかっているのです。」

「あなたの神である主」とは、栄化されて天地唯一、宇宙唯一の神となられた、イエス・キリストお一人です。

アーメン

創世記 新改訳

26:1 さて、アブラハムの時代にあった先の飢饉とは別に、この国にまた飢饉が起こった。それでイサクは、ゲラルのペリシテ人の王アビメレクのもとへ行った。

26:2 【主】はイサクに現れて言われた。「エジプトへは下ってはならない。わたしがあなたに告げる地に住みなさい。

26:3 あなたはこの地に寄留しなさい。・・・

26:6 こうしてイサクはゲラルに住んでいたが、

26:7 その土地の人々が彼の妻のことを尋ねた。すると彼は「あれは私の妹です」と答えた。この土地の人々がリベカのことで自分を殺しはしないかと思って、「私の妻です」と言うのを恐れたのであった。彼女が美しかったからである。

26:8 イサクは長くそこに滞在していた。ある日のこと、ペリシテ人の王アビメレクが窓から見下ろしていると、なんと、イサクがその妻リベカを愛撫しているのが見えた。

26:9 アビメレクは、イサクを呼び寄せて言った。「本当のところ、あの女はあなたの妻ではないか。なぜ、あなたは『あれは私の妹です』と言ったのか。」イサクは「彼女のことで殺されはしないかと思ったからです」と答えた。

26:10 アビメレクは言った。「何ということをしてくれたのか。もう少しで、民の一人があなたの妻と寝て、あなたはわれわれに罪責をもたらすところだった。」

26:11 そこでアビメレクは、すべての民に命じて言った。「この人と、この人の妻に触れる者は、必ず殺される。」

・・

26:15 それでペリシテ人は、イサクの父アブラハムの時代に父のしもべたちが掘った井戸を、すべてふさいで土で満たした。

26:16 アビメレクはイサクに言った。「さあ、われわれのところから出て行ってほしい。われわれより、はるかに強くなったから。」

26:17 イサクはそこを去り、ゲラルの谷間に天幕を張って、そこに住んだ。

ルカ福音書 新改訳

22:24 また、彼らの間には、この中でだれが一番偉いだろうかという論議も起こった。

22:25 すると、イエスは彼らに言われた。「異邦人の王たちは人々を支配し、また人々の上に権威を持つ者は守護者と呼ばれています。

22:26 だが、あなたがたは、それではいけません。あなたがたの間で一番偉い人は一番年の若い者のようになりなさい。また、治める人は仕える人のようでありなさい。

22:27 食卓に着く人と給仕する者と、どちらが偉いでしょう。むろん、食卓に着く人でしょう。しかしわたしは、あなたがたのうちにあって給仕する者のようにしています。

22:28 けれども、あなたがたこそ、わたしのさまざまの試練の時にも、わたしについて来てくれた人たちです。

22:29 わたしの父がわたしに王権を与えてくださったように、わたしもあなたがたに王権を与えます。

22:30 それであなたがたは、わたしの国でわたしの食卓に着いて食事をし、王座に着いて、イスラエルの十二の部族をさばくのです。

22:31 シモン、シモン。見なさい。サタンが、あなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って聞き届けられました。

22:32 しかし、わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。だからあなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。

天界の秘義3454 アルカナ訳

内的意味の中軸は、〈みことば〉の聖性そのもの、主の神人性、それから主への愛・隣人への愛です。以上の三つは、内的意味の中軸であるとともに、〈みことば〉の聖性です。また以上の三つは、〈みことば〉に由来するあらゆる教義事項の内部にある聖なるものであり、あらゆる信心の内部にある聖なるものです。なぜなら、主のみ国そのものは、以上の中に存在するからです。

 第四番目は、〈みことば〉の個々全体、むしろ一点一画まで神的で、主がその〈みことば〉の中におられることです。

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「悪い、姦淫の時代はしるしを求めます。しかし、ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられません。」マタイ16:4

ヨナ書は旧約聖書の十二預言者と呼ばれる書の一つで、ヘブル人であるヨナが書いたと言われる四章の短い書です。
最初、ヨナが主から命じられたのは、「悪から立ち返らなければ、ニネベの町は滅びる」これをニネベの人に伝えることでした。ヨナは、預言の任務を拒み、ニネベとは全く逆の方向に舟で進みます。しかし嵐にあい、船員たちは嵐の責任はヨナにあると、荒れる海にヨナを投げ込みます。主は大きな魚を備え、ヨナは三日三晩、魚の腹にいることになります。ヨナは魚の腹の中で反省し、預言者の任務を果たすことを誓ったため、陸地に吐き出されます。その後ニネベで主の預言を告げ、ニネベの町は深く反省し、主に立ち返ります、そのためニネベは罰されませんでした。

ところがヨナは、自分の預言どおりにならなかったため、「死んだほうがましだ」と腹を立てます。最初は拒んでおきながら、きわめて身勝手な感情です。そして、ニネベの町を出て、主が自分の願いどおりに動くかを観察します。主を試すとは、信じられない仕業です。後に、マタイ書に出てくるパリサイ人やサドカイ人が印をみせよと迫るのと同じです。
観察する間、熱い日光が照りつけます。主は「トウゴマ」の葉を植え、木陰を備えられます。ヨナは熱い日光を遮った葉にはありがたく感じます。ところが、葉は虫のため一夜にして枯れてしまいました。するとヨナは葉が枯れてしまったことに、再び「死んだほうがまし」と主に文句を言います。主は、ニネベの町が立ち返って救われたことと、トウゴマの葉のどちらが大切かを問い、この書は終わります。

天界の教えは、ヨナの態度は、当時のユダヤ人を表していることを教えます。ニネベが救われたように、主はガリラヤ湖の周辺で、無数の奇蹟を働かれます。病人と身障者を救い、さらに、五つのパンで五千人を養い、七つのパンで四千人を養います。これだけ確かな証を、見聞きしたはずのパリサイ人とサドカイ人は、さらに印を見せよ、言います。これは、主を訴えるための言質をとろうとしているだけです。自分の立場を守ろうとするヨナの態度です。

「悪い、姦淫の時代」は、パリサイ人とサドカイ人を意味します。「ヨナ」は、御言葉を持つユダヤ人を意味するからです。ヨナはニネベの人が救われたことを歓ばず、自分の身を守ったトウゴマの葉が枯れたことに不平を言います。ヨナへの印とは、自分達だけの救い・都合や、繁栄しか考えない人々への警告です (AE401-36参照) 。 彼らは、すべての人間を救おうとする、主の無限の愛には全く気づかず、自分の身にふるかかる仔細なことに不平をいうだけです。

自分だけの利害を感じ、他の人の救いを歓ばないなら、「ヨナへの印」と同じ警告が与えられます。それはたとえ、「新教会」に属していると主張しても同じ事です。自分だけの救いだけを歓び、他の人々の救いに全く関心を示さないなら、霊的には同じことです。主は、パンの奇蹟を引き合いに出されますが、弟子達も気づきません。

「わたしの言ったのは、パンのことなどではないことが、どうしてあなたがたには、わからないのですか。」
主が弟子達に引き合いに出された、パンの残り分の話は、物質的なパンを産み出す奇蹟ではありません。
残ったパン籠の数字の「十二」が意味する「すべて」の教えと、「七」が意味する「聖なる」愛のことを言っています。この教えと愛は、私たちにどれくらい残っているかを問われています。これらの教えが残っていない、あるは身についていないならば、それには理由があるはずです。主はここでさらに警告されます。
「パリサイ人やサドカイ人たちのパン種」に気をつけなさい。(16:11)

パリサイ人とは、内的のもののない、外的なものだけに留まっていることです(AE746-17)。
そしてサドカイ人は、復活を信じません(マタイ22:23)。彼らのパン種とは、彼らの「偽りの教え」(AC706)のことです。
この世だけがすべてであると考え、そしてこの世の価値だけが大切であると教えれば、すべては「偽りの教え」になります。物質的な損得勘定に終始し、大切なのは自分だけと考えてしまいます。
パリサイ人とサドカイ人は「来世や霊界などない・・だからこの世で自分の欲望を満足させなければ意味が無い」と教えます。この偽りの教えは、パン種のように、どんどん膨らんで行きます。

例えば「出世がすべてだ、この世で受け入れられることがすべてた。富と栄誉はこの世からだけ来る。それ以外のこと、他人や隣人や社会のことなどかまっていれば、自分は損をするだけだ・・・・。」
パン種がパンを膨らませるように、偽りと妄想はどんどん膨らんでゆきます。

「自分は善をおこなっている、そのため回りは自分を賞賛すべきだ」・・と妄想はさらに膨らみ続けます。
主が警告されているのは、主から与えられ、自分に残っている真理と、愛を大切にしなければ、妄想は膨らみ続ける、ということです。
自分は真理を知っていると考える人ほど、自分はすべてを知っているという妄想が膨らみます。しかし、自分ではなく、隣人と主を大切にするという主の教えを実行しているなら、謙虚に自分をふり返ることができ、この妄想は止まります!やってみてください。

主と弟子達は、ガリラヤ湖周辺のマグダラから北上し、ヘルモン山の麓にある、ピリポ・カイザリヤ地方に進まれます。新約聖書で記録されている中では、ほとんど北限に近い地です。御言葉の「北」は、曖昧な状態の真理を意味します。
そこで主は、弟子たちに「人々は人の子をだれだと言っていますか。」とお尋ねになります。
弟子達は様々な預言者の名を上げ、「人はこう言っています」、と回答をします。
しかしこの回答に、主は「あなたがたは、・・・わたしをだれだと言いますか。」と重ねて問われます。

私たちがこれを問われたら、どう応えますか?・・・
人が言っている、親が言っている。高名な哲学者や、聖なる書の翻訳者・宗教者である誰々さんがこう言っている。しかし、人の言葉を借りるなら、弟子達と変わりません。
「あなたは。どう思うか」と主が問われています。あなたは、聖書に出てくるイエス・キリストは誰だと思いますか?あなたは、神とは誰だと思いますか?私たちそれぞれに、こう問われています。
自分の潜在意識の奥底に、深くあるものを探し出してください。そして、これを考え、答えを出すことは非常に大切です。来世での自分の場所が定まるからです。

新教会の洗礼で、「あなたは主イエス・キリストが、天地ただ一人の神であると認めますか?」と問われ、式文どおりに進めるなら、「はい認めます」と応えます。しかし私たちは、パリサイ人やサドカイ人のように、外面や強制から回答するのでなく、それぞれの内面の認識を回答しなければなりません。これは簡単ではなく、気分や本人のおかれる状況によっても変わります。この世で逆境にあれば変わります。そのため自分に深く問わなければなりません。

ペテロは他の弟子が黙る中で、こう応えました。「あなたは、生ける神の御子キリストです。」
新教会の洗礼は、「天地ただ一人の神」であると応えますが、ペテロは「生ける神の御子」そしてキリストであると応えます。もちろんこのときは、まだ最後の試練によって主は栄化されておられない、すなわち天地の唯一の神となられておられません。ペテロのこの時の回答は、彼の血筋からすると正しい回答です。

「バルヨナ・シモン。あなたは幸いです。このことをあなたに明らかに示したのは人間ではなく、天にいますわたしの父です。」(16:17)
バルヨナとは、ヨナの子という意味です。このヨナも、ヨナ書のヨナもギリシア語原書(正確にはアラム語)では同じ綴りです。他の聖書の訳(KJV)では、「肉と血はこれをあなたに明かさなかったが、天の父は明かした」とあります。(SE820等) これはペテロにとっては、まことに天の啓示です。当時のユダヤ人の血肉では、遺伝体質では、この認識はできません。

天の父と同じ方である主からの言葉は続きます。
「ではわたしもあなたに言います。あなたはペテロ(岩)です。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます。ハデスの門もそれには打ち勝てません。」
この岩とは、真理を意味します。ペテロという個人ではありません。少々の地殻変動などには、まったく揺るがない、岩のような真理とは、主イエスが「生ける神の御子キリスト」であることです。
主の十字架の試練後に栄化された後は、「天地ただ一人の神」であるイエス・キリストです。
この認識と告白は、すべてに先んじます。なぜなら主イエスからでなければ、誰でも悪を避け、本物の善を行うことができないからです。

一番大切なことは、何にも勝って、主イエスを愛することです。神がどなたかを知ることは、愛するための第一歩です。知らないものは愛せません。そして神とはどんなお方であるかを、漠然とした概念でとどめておいてはなりません。私たちと同じような身体を持ち、ご自分の生まれ故郷や、霊的な故郷であるエルサレムからの冷たい仕打ちを経験された方です。誰一人も助けようとはしない絶望感を味わった方、と知らなければなりません。

この認識はまさに、「天の御国」に入る鍵です。この鍵がなければ天界に入れません。主の身体は天界です。主を拒めば、当然、天界は私たちを拒みます。
これは、パリサイ人やサドカイ人に与えることのできない印です。彼らはこの認識を、拒んで受けないからです。

「何でもあなたが地上でつなぐなら、それは天においてもつながれており、あなたが地上で解くなら、それは天においても解かれています。(16:19)」 
これは特定の聖職者や人物、そして教会を意味しません。
認識は認識したものを存在させ、さらに愛で結びます。主と愛で結ばれるなら、天界にも結ばれ、地上で主を拒むなら、結びつきは解かれます。日常の多忙の中で、私たちに愛を与えてくれる存在を忘れてしまうなら、結びつきは解かれます。結びつきを思い出すなら、愛の源である主から愛をいただき、回りの隣人にその愛を分かち合うこともできます。これは概念ではありません。行えばわかります。行わなければ決してわかりません。

これは私たちのそれぞれが、行う事で強い確信にまで高めなければなりません。行動と確信ですから、人から知識として教わることはできません。そのため主は、「ご自分がキリストであることをだれにも言ってはならない」、と念を押されます。人の意見に左右されるなら、自分の信念は揺らぎます。自分の子であれ、親兄弟であれ、友人であれ、認識が育つのを温かく見守ります。

本当に純粋な真理を自分のものとするには、試練が必要です。試練を受けない内は、真理は自分のものとなりません。「私たちを試みに合わせないで、悪からお救い下さい」と主の祈りにありますが、試みに合わせるのは、自分自身の内にある悪と偽りです。主ではありません。そして主は絶えず、悪から救おうと働かれています。主の守りが一瞬でもなければ、私たちはたちまち一直線に最悪の地獄に向かいます。

試練は避けることができません。私たちの内に悪と偽りがある限り、私たちに合わない、善と真理は受け入れることができません。
そのため主は、私たちの為に試練を表す十字架をかついでついてついてくるよう、励まされます。
もし私たちが試練に臆するなら、私たちは永遠に再生できません。主の教えを否定するすべてについて、私たちは自分自身にこう言わなければなりません。
「下がれ。サタン。あなたはわたしの邪魔をするものだ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」
試練を耐え抜き、今までの自分を捨てることができれば、主からの善と真理を受け入れることができます。
 「いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者は、それを見いだす」(16:25)
アーメン。

ヨナ書
4:5 ヨナは都から出て、都の東の方に座った。そしてそこに自分で仮小屋を作り、都の中で何が起こるかを見極めようと、その陰のところに座った。
4:6 神である【主】は一本の唐胡麻を備えて、ヨナの上をおおうように生えさせ、それを彼の頭の上の陰にして、ヨナの不機嫌を直そうとされた。ヨナはこの唐胡麻を非常に喜んだ。
4:7 しかし翌日の夜明けに、神は一匹の虫を備えられた。虫がその唐胡麻をかんだので、唐胡麻は枯れた。
4:8 太陽が昇ったとき、神は焼けつくような東風を備えられた。太陽がヨナの頭に照りつけたので、彼は弱り果て、自分の死を願って言った。「私は生きているより死んだほうがましだ。」
4:9 すると神はヨナに言われた。「この唐胡麻のために、あなたは当然であるかのように怒るのか。」ヨナは言った。「私が死ぬほど怒るのは当然のことです。」
4:10 【主】は言われた。「あなたは、自分で労さず、育てもせず、一夜で生えて一夜で滅びたこの唐胡麻を惜しんでいる。
4:11 ましてわたしは、この大きな都ニネベを惜しまないでいられるだろうか。そこには、右も左も分からない十二万人以上の人間と、数多くの家畜がいるではないか。」

マタイ福音書
16:1 パリサイ人たちやサドカイ人たちが、イエスを試そうと近づいて来て、天からのしるしを見せてほしいと求めた。
16:2 イエスは彼らに答えられた。「夕方になると、あなたがたは『夕焼けだから晴れる』と言い、
16:3 朝には『朝焼けでどんよりしているから、今日は荒れ模様だ』と言います。空模様を見分けることを知っていながら、時のしるしを見分けることはできないのですか。
16:4 悪い、姦淫の時代はしるしを求めます。しかし、ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられません。」こうしてイエスは彼らを残して去って行かれた。・・・・・・・
16:13 さて、ピリポ・カイサリアの地方に行かれたとき、イエスは弟子たちに「人々は人の子をだれだと言っていますか」とお尋ねになった。
16:14 彼らは言った。「バプテスマのヨハネだと言う人たちも、エリヤだと言う人たちもいます。またほかの人たちはエレミヤだとか、預言者の一人だとか言っています。」
16:15 イエスは彼らに言われた。「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」
16:16 シモン・ペテロが答えた。「あなたは生ける神の子キリストです。」
16:17 すると、イエスは彼に答えられた。「バルヨナ・シモン、あなたは幸いです。このことをあなたに明らかにしたのは血肉ではなく、天におられるわたしの父です。
16:18 そこで、わたしもあなたに言います。あなたはペテロです。わたしはこの岩の上に、わたしの教会を建てます。よみの門もそれに打ち勝つことはできません。
16:19 わたしはあなたに天の御国の鍵を与えます。あなたが地上でつなぐことは天においてもつながれ、あなたが地上で解くことは天においても解かれます。」

AC4368 (アルカナ訳)
③ 次のような例をあげて説明します。純粋な仁愛の善のうちにいて、主がペテロに向かって言われた言葉を読むと、どうでしょう。
「わたしもあなたに言う。あなたはペテロである。わたしは、この岩の上にわたしの教会を建てる。地獄の門がそれに打ち勝つことはない。わたしは、あなたに天界の王国の鍵を授ける。あなたが地上で解くことは、諸天界でも解かれる、と」(マタイ16・15-19)。
純粋な仁愛の善に根ざして、真理の情愛のうちにいる人は、以上の言葉が何を意味しているか、教わりたいと思います。その上に「教会が建てられる」ための「岩」が、愛に属する信仰を意味し、その結果、「ペテロ」とは、そのような人だと聞きます。こうして、天界を開いたり閉じたりする鍵が、その信仰に与えられています(創世記第22章の序参照)。
そう聞いて、かれらはその真理を歓迎し、感化されます。なぜなら信仰の源は主おひとりであり、その権限は主にあるからです。ところが、純粋な仁愛の善に根ざす真理の情愛のうちにおらず、別種の善に根ざす真理への情愛のうちにいる人、しかもそれが、自己愛と世間愛に根ざしていれば、当該の真理に感化されることはありません。むしろ立腹せんばかりに悲しみます。
なぜなら祭司職にこそ、その権限があることを要求しているからです。立腹するのは、支配権が失われるからであり、悲しむのは、人々が服従しなくなるからです。

荒野の女

女は荒野に逃げた。黙示録12:6

黙示録で示されている、この「女」とは、ある特定の女性のことではありません。黙示録12章の冒頭には、
「一人の女が太陽をまとい、月を足の下にし、頭に十二の星の冠をかぶっていた。」(黙示録12:1)と言われています。
ここでの「女」は、
「真理への霊的情愛です。ここから教会が教会とされます。したがってその情愛に関する教会も意味されます。」(AE 707)
すなわち、教会のことを指しています。その教会の源となるのは真理への情愛であるとされています。

私たちの持つ「教会」のイメージに修正が必要です。
立派な建物、荘厳な礼拝堂、牧師、信徒の組織、宣教のためのパンフレットなど、外面的な要素を全て捨象し、直接、本質に迫ります。霊界にもこれらの外面的要素はあるとスウェーデンボリィは記録してはいますが、より本質的には真理への情愛が教会の源となります。この情愛によって教会が誕生します。
そこに富への欲望や、他人を支配したいという欲望、自分の名誉欲などが混じるなら、その純粋さは急激に減少して、さらに欲念の割合が高まるなら、教会の名にすら値しなくなります。真理への情愛ではなく、人の欲念が勝るからです。

ギリシア語で教会員などを表すエクセレシアeccelesiaも、私たちが思うものとは全く別の意味から生まれています。
エクセレシアeccelesia の意味は、「呼びかけられた」あるいは、「共に集った」です。ギリシアでは政治集会や戦いへの呼びかけの集会があり、人が集められたようです。私たちの場合は礼拝や学びのために、人々に呼びかけ、それに応じた人が集まります。
これも言葉の意味からすれば、建物である必要は全くありません。牧師か誰か他の人が呼びかけて、その呼びかけに応えて人々が集まればエクセレシアが成立します。
先に引用した「真理への情愛」という目的を加えると、「真理」に魅せられ、呼びかけに応えた人たちが集まることになります。

教会の意味を、さらに天界の教えに訊ねると、
「生き方が教会を構成します。生き方へ適用の場合を除いて、教義が教会を構成するのではありません。」(天界の秘義8152)
私たちの真理に従った生き様がそのまま教会となります。私たちそれぞれの生き様です。生き方です。
教会は教義からくる(AE730)といいますが、ここでは教義や教義を記した本よりも生き方が強調されています。ましてや建物や制度、組織でもありません。真理に従った「生き方」、「いのち」と呼ばれるものです。

「太陽をまとう女」とは、主に対する愛にいる者たちと、そして隣人への愛にいる者達の教会を意味します。(黙示録解説AE705, 707)
主に対する愛、隣人への愛を心に抱き、それを実現する真理を求めて生きようとする者達が呼びかけられて集まり、行動を起こし、志を新たにする集まりが教会です。これが本来の教会の趣旨です。私たちの理想の姿でもあります。

しかし、黙示録12章では状況は異なります。
そこには異形の赤い龍がいるからです。
東洋で龍といえば、お寺などにある見慣れた伝説の生き物を連想しますが、みことばの龍は異なります。
「自己愛と単に自然的そして感覚的で多少ともみことばの知識とそこからの教義や教えを持ち、生き方ではなく、知識によって救われると考えている者」が意味されます。(黙示録解説714)
龍の影響を受けるなら、何も行動することなく、知っているだけ、学ぶだけでいい、それで救われるという、自分に都合のいい考え方にそまってしまいます。

新教会教義を知る人でも、読むだけ、学ぶだけという考えをすべて払拭できてはいません。善に向けて行動しなければ、新教会の教え、女が身籠った我が子は、自分愛と自然的、感覚的な考えに染まってしまうのが、私たちに遺伝悪の強烈さです。新教会教義は、龍に食われてしまいます。子を守るために、身重の女性は力もなく身を守りそこから遁げるしかありません。産みの苦しみに耐えて、子を産むと、ひとまず子を安全な天に預け、出産で弱り果てた女は身を隠すしかありません。そこで女のために、準備されていたのが荒野です。

もっとましな場所を備えてくれなかったかと思うかもしれませんが、残念ながらシェルターは仮住まいでしかありません。災害のシェルターでも、難民キャンプでも、当面の危機を避け、最低限の生活できる所でしかありません。

みことばであらわされる荒野とは、どんな意味があるところでしょうか?
天界の教えから引用すれば、
(1) 荒廃してしまった教会、あるいはあらゆるみことばの真理が偽りとされた教会。例えば、主が世に来られた時のユダヤ人たちの中にあったもの。

(2) みことばが与えられていないので、真理が全くない教会。例えば主がお越しになったときの正直な異邦人のうちにあったもの.

(3) 真理がなく、試練の状態。なぜなら試練に入れられた者は悪霊に囲まれ、悪霊は人から真理を取り去ってしまうからです。
(黙示録啓示 AR546)

はじめは異邦人だった私たちは、今はみことばを与えられたので、2は当てはまりません。天界の教えにはさらに気になる教えがあります。

「以前の教会の偽りが最初に取り去られる・・偽りが取り除かれないままで受け入れられ、植えつけられた真理は残ら」ない。(黙示録啓示 547)
持っている偽りがあれば、それをすべて取り除かなければ、新しい真理は根付かないということです。
さらに、「善にいない者にはしたがって、真理の内にいない。」(AE730)
善にいない者には、真理はない。
この2点です。

偽りがすべて除かれ、善の内にいないなら、新教会は荒野、すなわち、きわめてわずかな人の間にしか存在できない、ということです。

真理や教義を優先するのは大切なことですが、それ以前に自分の内にある偽りを取り除き、実際に善にいなければ、新教会は発展することができず、いつも龍の脅威のそばにいることとなります。

私たちの心のどこかに、偽りが残ってはいないでしょうか?自己点検が必要となります。
主は天地の唯一の神である、という第一戒に対し、金や権力や名誉を同時に崇拝するなら、二人の主人に仕える(マタ 6:24)ことになります。
今後年金で生きていけるかどうかわからない、子の教育や親の介護のためにもお金は必要で、今は主や隣人よりも、お金が大切、とすれば隣にいる龍に、子である新教会の教えが食い尽くされてしまいます。後者も大切なのですが、優先するものが異なるなら、偽りは私たちの心の内に微妙に住み着いたままです。その微妙な優先順位の差は、何かのときに出てきて大きなものとなるかもしれません。

「盗むなかれ」の第六戒も、心の底から、自分では良いことはできない、ということをいやというほど思い知らない限り、漠然と「悪いことをしないで良いことをしなければ間違いない」と生活しているなら、この漠然とした思いが、いつか行動に差をもたらすことがあります。この思いの中には、まだ自分自身から良いことをしていると、いう思いが含まれているからです。第六戒は、自分から出ることはすべて悪であり、主からでなかれば、良いことはできないことを、悟っておかなければなりません。いや、行動のたびにそうであると確認しなければ、自分に都合のいいふうに解釈してしまいます。

自己愛に染まっている私たちにとっては、簡単なことではありません。ついつい自分の都合のいいように解釈し、ながされてしまいます。

「善が少ないので、真理も根付かず、そのため日本には新教会はわずかであり、物理的な距離がそこにはあり毎日曜に招集されてもそれぞ家庭の都合もある。海外の新教会と交流しようにも、言葉の壁にも隔てられてしまう。外国語の教会紙はきても全部は読めない。私たちは孤独な荒野のなかにいるままた。日本の新教会と呼ばれるものも、権力欲の争いの中で荒れ果て、真理への情愛は純粋なまま保てない。やはり教会員が自己点検をそれぞれ寂しく行ってゆくしかないのか?」そんな結論には希望は少なく、日々の楽しさも少なく感じるかもしれません。

しかし、天界の教えの中では、「全世界に広がる主の教会」という言葉がよく出てきます。
「主の教会は全世界に広がり、そしてそれでも一つである。そのため生き方が教会を構成し、そしてそれが生き方から分離した教義 でないなら、教会は一つである。(天界の秘義1852)

最近のネット世界の広がりは急速です。5Gという、まだ見ない世界もすぐそこに来ています。
そして時と距離に縛られないのは、霊界だけではなく、今広がりつつあるネットの世界もそうです。ネット世界は危険性も含めて、きわめて霊界に似ています。ただ、私はアナログなので、そちらの世界は不得手、という方もおられるかもしれません。

「わたしは、勝利を得る者を、わたしの神の神殿の柱とする(黙3:12) とは、主から出た善からの真理を意味し、その中に彼らは住み、天界の主の教会を支えます。神殿によって教会が意味され、神の神殿によって、天界にある主の教会が意味されます。ここから明らかなのは、「柱」によって、最高の意義では神的人間の主が意味され、個別には、神的真理における主が意味されます:しかし表象的意味においては、「神殿」によって天界における主の教会と、同じように地上における主の教会が意味されます。」(AR191)

これは黙示録の第3章でフィラデルフィアと呼ばれる教会について言われたものです。
「あなたは忍耐についてのわたしのことばを守ったので、地上に住む者たちを試みるために全世界に来ようとしている試練の時には、わたしもあなたを守る。」(3:10) とあります。

私たち、孤独で荒野にいるように見えても、実はそうではありません。天界と地上にある主の教会が私たちを支えてくれています。そして、不思議な力で、私たちが知らないうちに、私たちを守ってくれています。
霊界とむやみにつながると危険であると警告されているように、ネットにも危険はあります。顔とその人物を直接知らないし、書き込まれた言葉だけが独り歩きすることもあるからです。しかし、その危険を知った上で、これを活用することで私たちは全世界に広がる主の教会に容易につながることは可能です。

また、それができなくても、心配する必要はありません。
天にも地にも、自分を守る「主の教会」があり、それは紛れもなく、現に存在しています。ただ一つの条件さえ守るならば。
私たちは、「行い」によって、フィラデルフィアと呼ばれる教会に属することになります。それは、「主の言葉を守り、主の名を拒まない」なら、全世界に広がる主の教会とつながることになるからです。実際に善を行うことによって、必ず主とその教会からの庇護があります。

「わたしはあなたの行いを知っている。見よ。わたしは、だれも閉じることができない門を、あなたの前に開いておいた。あなたには少しばかりの力があって、わたしのことばを守り、わたしの名を否まなかったからである。」(3:8)アーメン

黙示録
12:1 また、大きなしるしが天に現れた。一人の女が太陽をまとい、月を足の下にし、頭に十二の星の冠をかぶっていた。
12:2 女は身ごもっていて、子を産む痛みと苦しみのために、叫び声をあげていた。
12:3 また、別のしるしが天に現れた。見よ、炎のように赤い大きな竜。それは、七つの頭と十本の角を持ち、その頭に七つの王冠をかぶっていた。
12:4 その尾は天の星の三分の一を引き寄せて、それらを地に投げ落とした。また竜は、子を産もうとしている女の前に立ち、産んだら、その子を食べてしまおうとしていた。
12:5 女は男の子を産んだ。この子は、鉄の杖をもってすべての国々の民を牧することになっていた。その子は神のみもとに、その御座に引き上げられた。
12:6 女は荒野に逃れた。そこには、千二百六十日の間、人々が彼女を養うようにと、神によって備えられた場所があった。

黙示録
3:7 また、フィラデルフィアにある教会の御使いに書き送れ。『聖なる方、真実な方、ダビデの鍵を持っている方、彼が開くと、だれも閉じることがなく、彼が閉じると、だれも開くことがない。その方がこう言われる──。
3:8 わたしはあなたの行いを知っている。見よ。わたしは、だれも閉じることができない門を、あなたの前に開いておいた。あなたには少しばかりの力があって、わたしのことばを守り、わたしの名を否まなかったからである。
3:9 見よ。サタンの会衆に属する者、すなわち、ユダヤ人だと自称しているが、実はそうではなく、?を言っている者たちに、わたしはこうする。見よ。彼らをあなたの足もとに来させてひれ伏させ、わたしがあなたを愛していることを知らせる。
3:10 あなたは忍耐についてのわたしのことばを守ったので、地上に住む者たちを試みるために全世界に来ようとしている試練の時には、わたしもあなたを守る。
3:11 わたしはすぐに来る。あなたは、自分の冠をだれにも奪われないように、持っているものをしっかり保ちなさい。
3:12 わたしは、勝利を得る者を、わたしの神の神殿の柱とする。彼はもはや決して外に出て行くことはない。わたしは彼の上に、わたしの神の御名と、わたしの神の都、すなわち、わたしの神のもとを出て天から下って来る新しいエルサレムの名と、わたしの新しい名とを書き記す。

黙示録啓示 547 (部分)
「主の神的摂理は、その教会は最初はごく少数の内にあり、次第により多くの者たちのうちにあるようになる。なぜなら、以前の教会の偽りが最初に取り去らなければならないから。それ以前には真理は受け入れられず、同じように、偽りが取り除かれないままで受け入れられ、植えつけられた真理は残らず、龍の追随者に追い払われてしまうからです。キリスト教会でも事情は同じで、わずかから多数へと次第に成長します。

第二の理由は、地上の教会と共に機能しなくてはならない新しい天が最初に形成されなければならないからです。したがってヨハネが新しい天界を見て、神のもとから天界を出て新しいエルサレムが降りてくることになります。黙示録21:1-2