羊たちの門

そこで、再びイエスは言われた。「まことに、まことに、あなたがたに言います。わたしは羊たちの門です。(ヨハネ10:7)

主は、羊たちの門であると述べられます。

羊たちといえば、大人しく飼い主に聞き従う群衆のことのように聞こえます。羊は、概ね大人しくしていますが、すべてが常に穏やかというわけではありません。羊には大人しいものもいれば、暴れるものもいます。
しかし、天界の教えは、
「羊は、仁愛の善にいる者を意味し、そのため抽象的な意味で「羊」は仁愛の善を意味」 (AE1154)すると教えます。
羊それぞれの個性に注目するのではなく、羊が「仁愛の善」すなわち、隣人を思いやる心から生まれる善を行う人あるいは、その性格自体を意味します。
もちろん、善を行わない人、みせかけだけの善を行う人、悪を行う人は、羊ではありません。
羊が、門の囲いの中にいるかどうかは、どのように区別されているのでしょうか?

主の声を聞き分け、従う人たちです。「わたしの羊たちはわたしの声を聞き分けます。わたしもその羊たちを知っており、彼らはわたしについて来ます。」(10:27)
もちろんこれは、主の肉声を聞き分けるということではありません。さらに、よく街中にいる「主の声を聞いた」と主張する人のことでもありません。声とは、肉声や霊の声ではなく、主の神的真理のことであり、すなわち、み言葉のことです (AC9926:3) 。
この神的真理は、仁愛の善にいる者に流入し、知性を与え、善にいるのに応じて知恵を与えます(AE 261:2)。み言葉を大切にし、深く学び、それを神からの言葉として、理解し守る人々に、この世の生活でいかに戒めを守り、隣人に役立てるか、という知恵が与えられます。闇雲(やみくも)に神の声を聴いたと騒ぎ立てるのではなく、深く思慮した上で守る人のことです。

羊の門には様々な人がやってきます。中には、人に善かれと思って主の前に立ち、決して害意や悪意を持たず、様々な真理を述べたり、善いことを行ったりする人が含まれています。牧師や聖職者と呼ばれる人も、その内の一人である可能性が高いと思われます。

しかし、主はおっしゃいます。「わたしの前に来た者たちはみな、盗人であり強盗です。」(10:8 )
聖職者も含めて、全員が盗人となります。

もし世で、私たちが、同じようなことを言えば、来た人すべてを全否定しているように聞こえます。
これは何かの間違いでしょうか?それとも何か深い意味があるのでしょうか?
しかし、ここで盗人・強盗とおしゃっているのは、間違いではありません。

天界の教えによれば、
「すべての霊的善、すなわち信仰と思いやりのすべては、主おひとりから来ており、人からは全くきていません。そのため「盗み」によって、主に属するものを人に帰することが意味されます。これを行う人は「盗人と強盗」と呼ばれ(AC8906)」ることになるからです。

十戒には「盗むなかれ」という戒めがあります。人のものを盗んだら、法律では犯罪者とされ、日常生活で盗み癖のある人や、生活に困った人ならともかく、一見、簡単な戒めのように感じます。
しかし、善いことを話し、行ったつもりでも、それは自分から行ったものではないと意識することは、簡単ではありません。手柄を誇りたいのは、私たちの持って生まれた本性でもあり、社会では自分の功績を誇るよう推奨する風潮まであるからです。

そして、人はついつい善いことは自分が語り、行ったものとして、自分の功績とするので、これを拒まねばなりません。これは、真のキリスト教の冒頭の新教会の信条(TCR 3)にも明記され、特に守らなければならない戒めです。私たちが意識して善と真理のすべてを主に帰さないなら、残念ながら、私たちは盗人・強盗となってしまいます。

主はご自身のことを、羊たちの門(10:7)、門(10:9)、良い牧者(10:11)と形容されています。

「門」は真理、善、あるいは主に導入し、囲いに入場させるものを意味します。「門」は真理そのもの、善そのもの、主ご自身です、なぜなら真理は善に導き、善は主に導くからです。(AC 2356:2)

そして、導かれる門の中は、天界であり教会です(AE 208:2)。
私たちが、求めるものは、永遠の幸福を与える天界です。決して狭い囲いの中ではありません。
天界は主に守られ、善自体、そして真理自体であるため、悪や偽りが近づけません。悪や偽りが近づいても、そこで目指すものが、根底から異なっているため、天界の大気の中で生きてゆくことができません。窒息したように苦しんでしまいます。
そして、教会は地上の天界です。少なくとも、天界を目指しています。天界を目指さないのは教会ではありません。書籍の出版・普及だけにこだわるのは、教会とはいえません。

天界は何かというと、簡単にいえば、主への愛と、隣人への愛にいるものが集まるところです。
自分自身と同じ程度に、隣人を愛し、あるいは自分以上に主を愛する霊・人が集まるところです。そして天界自体は、神の似姿・像として創造されているため、人間の形となっています。

すなわち、羊の囲いと門のたとえは、天界を描いた、たとえの一つです。
そしてその最も重要なものは、主ご自身が描かれているということです。これが門であり、良い牧者です。

主は、真理そのもの、善そのものです。しかし善も真理も、存在そのものである「父」のままでは私たちも、天使も見ることはできません。私たちがイメージできるもの、見える存在でなければなりません。私たちは自然的存在であるからです。
そこで主は、「門」として、善と真理を実行し、どのようなことを行えば、天界に行けるのか、この世に生まれ、教えられます。
「だれでも、わたしを通って入るなら救われます。また出たり入ったりして、牧草を見つけます。」(10:9) 

天界の教えによれば、
「出たり入ったり」とは愛と信仰の善に入ることを意味し、人生のあらゆる局面において主に導かれることを意味します。すなわち、主からそして愛と信仰から、自由のうちに善であることを考え、意志します。(AC9927:4)
牧草とは、霊的生命を支えるもので、記憶知に含まれる真理を意味します(AC6078)。

み言葉から、真理を見つけ出し、それを自由から実行に移します。この自由が私たちの選択となり、私たちの愛を育ててゆきます。一方的な命令ではなく、自由から主の教えを選択して実行します。あれはしてはならない、これはしてもよい、と雁字搦め(がんじがらめ)の中で生きてゆくのではありません。
み言葉を読み、そこから人生をどう生きてゆけばよいかを学び、み言葉の教えを主の教えと考え、喜んで従うかどうかです。

もし、自分の思いを捨て、喜んで主の導きに従ってゆくなら、真理と善によって自分の行動を作り直してゆくことになります。自分で深く考えなければなりません。考えて選ぶなら、主に導かれることになります。

主が来られたのは、私たちが善と真理によって自分を作り替え、「いのちを得るため、それも豊かに得るためです」(10:10)。
主の導きに従うのは、新しい生命、善と真理によって自分自身の生命を作り直すことです。これを行う度に、私たちの生命は新しく生まれてゆきます。

しかし、良い牧者でない雇いの牧者がいます。肉体のいのち(AE 750:4)をかける良い牧者と違い、雇い人は、世のなかの利得のために働いています(AC8002:5)。自分の名誉や、世の聞こえを求めて、導いています。そのため狼が来ると逃げてしまいます。
「牧者でない雇い人は、羊たちが自分のものではないので、狼が来るのを見ると、置き去りにして逃げてしまいます。それで、狼は羊たちを奪ったり散らしたりします」(10:12)
狼とは、捕まえようとするものです(AC6441)。狼は、すべての事柄、み言葉の内意も含めて、自分を偉大に見せよう、利がある方向に解釈します。それはみ言葉の冒涜です。(SE4550)

狼は、自分の利得のためだけに、行動し、み言葉を解釈するので、同じ自分の利得だけを目的にしている雇人も、利得がなければ逃げてしまいます。天界という目的を見失えば、羊はばらばらになってしまいます。日本の新教会、そして世のキリスト教会、どんな集団であっても、自分の利得を求めるなら、狼に会って逃げるように、ばらばらになってしまいます。ばらばらになるのは、出版や教会員の社交など二次的な目的にこだわりすぎて、天界という第一の目的を見失うからです。

「わたしにはまた、この囲いに属さないほかの羊たちがいます。それらも、わたしは導かなければなりません。その羊たちはわたしの声に聞き従います。そして、一つの群れ、一人の牧者となるのです。」
(10:16)
この囲いに属さない羊とは、ばらばらになってしまっても、一つの群れに戻るから大丈夫だというのではありません。エゼキエル書にも描かれていますが、天的王国のことです。

「ユダ」は霊的意味では主の天的王国を意味し、「イスラエルの息子」は主の霊的王国を意味します。
; 「ヨセフ」と「エフライム」そして「イスラエルの散った種族は一つに集められる」とは、これらの王国の下にあり、天的でも霊的でもなく、自然的でした。しかしそれぞれの宗教に従って善い生活を送っています。・・・
これらは主が来られるまでは、天界ではなく、主がご自身を栄化された後、天界に入れられます。その時まで神から発するものは彼らに届きませんでした。(AE433)

私たちの霊的天界は、主がご自身を栄化して、父と一つになられた時に、はじめて天界となりました。
主の御業なくしては、私たちは天界に進むことはできません。主の御業は、私たちの想像をはるかに超えるものです。それは、主の御業を信じてついてくる者のために、新しい天界をおつくりになるというものでした。天界を創造する、これは神である主ご自身にしかできません。

しかし(わたしが、わたしの父のみわざを)、行っているのなら、たとえわたしが信じられなくても、わたしのわざを信じなさい。それは、父がわたしにおられ、わたしも父にいることを、あなたがたが知り、また深く理解するようになるためです。」(10:38 )

残念なことに当時のユダヤ人は、主を理解せず、主を石で打とうとします。それらの者たちのもとから一時的に逃げられます。
しかし、主はご自身の身体の生命を失うことを恐れず、信じる者を救おうとする主のみ言葉と業は、ヨルダン川の向こうの異邦人の心を深く打ちます。そして、異邦人のもとで、善い生活を行い、主を受け入れた者たちのために新しい天界を創造されます。

「多くの人々がイエスのところに来た。彼らは「ヨハネは何もしるしを行わなかったが、この方についてヨハネが話したことはすべて真実であった」と言った そして、その地で多くの人々がイエスを信じた。(10:41,42) アーメン 

【新改訳】
エゼキエル書
37:15 次のような【主】のことばが私にあった。
37:16 「人の子よ。あなたは一本の杖を取り、その上に『ユダと、それにつくイスラエルの人々のために』と書き記せ。もう一本の杖を取り、その上に『エフライムの杖、ヨセフと、それにつくイスラエルの全家のために』と書き記せ。
37:17 その両方をつなぎ、一本の杖とし、あなたの手の中で一つとなるようにせよ。
・・・
37:21 彼らに告げよ。『【神】である主はこう言われる。見よ。わたしはイスラエルの子らを、彼らが行っていた国々の間から取り、四方から集めて彼らの地に導いて行く。
37:22 わたしが彼らを、その地、イスラエルの山々で一つの国とするとき、一人の王が彼ら全体の王となる。彼らは再び二つの国となることはなく、決して再び二つの王国に分かれることはない。

ヨハネ福音書
10:1 「まことに、まことに、あなたがたに言います。羊たちの囲いに、門から入らず、ほかのところを乗り越えて来る者は、盗人であり強盗です。
10:2 しかし、門から入るのは羊たちの牧者です。
10:3 門番は牧者のために門を開き、羊たちはその声を聞き分けます。牧者は自分の羊たちを、それぞれ名を呼んで連れ出します。
10:4 羊たちをみな外に出すと、牧者はその先頭に立って行き、羊たちはついて行きます。彼の声を知っているからです。
10:5 しかし、ほかの人には決してついて行かず、逃げて行きます。ほかの人たちの声は知らないからです。」
10:6 イエスはこの比喩を彼らに話されたが、彼らは、イエスが話されたことが何のことなのか、分からなかった。
10:7 そこで、再びイエスは言われた。「まことに、まことに、あなたがたに言います。わたしは羊たちの門です。
10:8 わたしの前に来た者たちはみな、盗人であり強盗です。羊たちは彼らの言うことを聞きませんでした。
10:9 わたしは門です。だれでも、わたしを通って入るなら救われます。また出たり入ったりして、牧草を見つけます。
10:10 盗人が来るのは、盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするためにほかなりません。わたしが来たのは、羊たちがいのちを得るため、それも豊かに得るためです。
10:11 わたしは良い牧者です。良い牧者は羊たちのためにいのちを捨てます。
10:12 牧者でない雇い人は、羊たちが自分のものではないので、狼が来るのを見ると、置き去りにして逃げてしまいます。それで、狼は羊たちを奪ったり散らしたりします。
10:13 彼は雇い人で、羊たちのことを心にかけていないからです。
10:14 わたしは良い牧者です。わたしはわたしのものを知っており、わたしのものは、わたしを知っています。
10:15 ちょうど、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じです。また、わたしは羊たちのために自分のいのちを捨てます。
10:16 わたしにはまた、この囲いに属さないほかの羊たちがいます。それらも、わたしは導かなければなりません。その羊たちはわたしの声に聞き従います。そして、一つの群れ、一人の牧者となるのです。
10:17 わたしが再びいのちを得るために自分のいのちを捨てるからこそ、父はわたしを愛してくださいます。
10:18 だれも、わたしからいのちを取りません。わたしが自分からいのちを捨てるのです。わたしには、それを捨てる権威があり、再び得る権威があります。わたしはこの命令を、わたしの父から受けたのです。」

黙示録解説208:2
(ヨハネ10:1-3, 7, 9).
「門を通って入る」とは明らかに主を通して入ることです、なぜなら「私は羊の門である」と言われているからです。主を通して入るとは、多くの節にあるように、主に近づき、主を認め、主を信じ、主を愛することです。そうして人は天界にはいります。他に道はありません。そのため主はおっしゃいます、「私を通して入る者は救われます」、「ほかの所を乗り越えて来る者は、盗人で強盗です。」

ゴシェン

イスラエルは、彼に属するものすべてと一緒に旅立った。46:1

イスラエルの息子の一人であり、エジプトの支配者となったヨセフは、飢餓に襲われていた父とその一族を、カナンから呼び寄せることに成功します。エジプトへの移住は、カナンに残って飢えに苦しむよりは、何倍もましだと考えるかもしれませんが、未来を予見することができたヨセフには、飢餓はこれからも続き、カナン自体が滅びてしまうことを予見できました。それを見越して、あえてとった行動です。そうでなければ、何年も住んできた先祖伝来の地を離れることなどできなかったことでしょう。

ヨセフは、主イエスを表象します。主イエスが、旧くなって善と真理の知識さえ乏しくなった教会に、いかに生命を吹き込み、生き返らせるかを描いています。
そしてこの46章は、内的・天的なものであるヨセフと、自然的なものからの霊的善を意味するイスラエルの結合を描いています(AC5994)。

「神は、夜の幻の中でイスラエルに、『ヤコブよ、ヤコブよ』と言って呼ばれた。」(46:2)
イスラエルの名は、ここではヤコブに変わります。イスラエルは自然的なものの内的なもの、ヤコブは自然的なものの外的なものを意味します。同じ人物でも、表象する事柄によって、呼び名が異なります。
夜の幻の中、真理の認識がおぼろげとなって、呼び名も外的なものへの呼びかけです。ヤコブの内に隠れる結合への不安、大規模な移住への不安が読み取れます。
そして外的なものを表象する、その子・孫の名が続きます。ルベンとその子、シメオンとその子、レビとその子、ユダとその子・・・と十二人の子と子孫の名が続きます。自然的・外的なものの真理が意味されます。

ただし、ヨセフがエジプトで作った子、マナセとエフライムは、エジプトの新しい地で、すでに新しく生まれています。この二人を除くヤコブの一族は、パダン・アラムの地で生まれています。これらの生まれた地の違いは、それら旧い信仰のすべては、新しい地エジプトの善と真理の知識によって生まれ変わらなければならないことを示唆しています。
そして、エジプトで生まれたマナセは新しい意志、エフライムは新しい知性が意味されます。(AC6025)

カナンで育ったはずの教会の善と真理の知識は、整理して秩序立て、新しい生命を与えられ、生まれ変わらねばなりません。教会の善と真理は、世の移り変わりと人間の遺伝悪の累積に応じて、役に立たなくなり、善と真理が不足してきます。主が地上にお越しになった時のユダヤ教会がその典型ですが、それだけにはとどまりません。そのような場合に、主は何をされるかを知り、私たちも自分の中身を整理して新しい生命を受ける必要があります。

日本の宗教界も、目先を変え様々な方向に私たちを導きます。それは新教会といえ同じです。
しかし主は何を基準とすべきか、道しるべを与えられています。

「さて、ヤコブはユダを先にヨセフのところに遣わしてゴシェンへの道を示させた。それから彼らはゴシェンの地に行った。」(46:28)

ゴシェンの地名がどのあたりを意味するかはあまり明確ではありません。天界の教えには、
「ゴシェンはエジプトの地の最良の広がりで、記憶知である自然の内の最良部分で、真中あるいは中央です。なぜなら善自体がそこにあり、太陽のように、周辺にある真理に光を発するからです。」(AC5910)とあり、真理を照らす善を意味しています。偏らず、善から諸真理を判断・活かします。
その結果、善は天界のように美しい並びを表します。

「最高の善は中央に存在し、それはすなわち中心で、最奥部分です。その周りはすべての方角に他の段階の善があり、天界の模様に従い、善の段階に従って中央に近いほうから遠く周辺へと、位置づけされています。これは再生された人に、どのように異なる段階の善が、配列されているかを示します。」(AC6028)。
何が善であり悪であるか、重要性によって、矛盾なく並びます。何が大切で、何が大切でないか、天界の基準に従った調和で配列されるのが「ゴシェンの地」です。

ユダが先駆けとして送られたのも、ユダは自然的善を意味し、ヨセフが表す内的善とは、直接の交流が行われるためです。(AC6027)

自然的善と内的善が交流しながら、善の結合と配列が始まります。ゴシェンの地で、父イスラエルとヨセフは再会を果たし、「父に会うなり、父の首に抱きつき、首にすがって泣き続けた。」(46:29)
この章に中心となる、内的・天的なものであるヨセフと、自然からの霊的善を意味するイスラエルの結合がなされます。

今まで抽象的に善であると自然的に考えられていたものが、内的・天的な根拠を与えられ、天界的生命を得ます。抽象的に考えられていた霊的善に、天界的・内的な善から流入が起こります。そして、結合は相互的なものであるため、霊的善はそれを受け入れます。

この善の地を新しい住まいとして定め、エジプトすなわち記憶知全体にも、受け入れさせねばなりません。全体的記憶知一般であるファラオが、私たちが是とする善を受け入れなければ、私たちはエジプトには住めなくなり、将来的に飢餓が予見されるカナンに戻る危険性さえ出てきます。

しかし私たちとファラオの間は、実は双方向ではありません。双方向の関係ではないので、イスラエルとヨセフのように結合できません。結合や交流はどのようにして起こるのでしょうか?天界の教えは、さまざまな交流は「流入」によって起こるといいます。そのため、流入の性質を知らなければなりません。

自然的なものは何も感知することができません。自然的なものだけでは、悟りなどのあらゆる知的な認識は不可能です。自然的なものの世界だけにいるなら、交流することすらできません。私たちの世界、国と国、教会と他の教会、社会と社会、集団同士、他人との付き合いが、いかに難しいかを考えれば、その難しさがわかります。
なぜなら、あらゆる認識は内的なものから外的なものへ流入によって起こるからです。(AC6040)
同じ次元にいて、認識した、あるいは悟ったといっても、それは状況が変化すると、すぐに意見を変えてしまいます。つねに変化する主観でしかありません。自然界にいて、物事を観測しても絶対的な評価とはいえません。観測する側も変化するからです。
宇宙や微小な世界を観測しても、常に新しい発見があり、なかなか定まりません。同じ平面、同じ次元で見ようとするからかもしれません。科学が、すべてを一元的に説明する理論を探っても、難しい壁に当たってしまうのは、そのせいかもしれません。

流入は、いわば因果のようなものであり、「物事は常に前にあるものからやってきます。(AC6040)」
物事が起こる原因は、前の世界にあり、その前の世界は、段階が異なるので、後の世界の中では決して把握することができません。物事の存在は、常に前の段階をたどってゆかねば本質はわかりません。
それ自体からは何も存在しませんが、前にあるものから起こります、そしてついに、すべては「最初」、すなわち「存在とそれを存在させるもの(Esse&Existere)」に帰着します。そこからすべてが存在します。(同上)

そしてこの「存在と存在させるもの」とつながることができれば、本物の生命を得ることができます。永遠にこのつながりを十分に得るためには、形どうしが似たような形にならなければなりません。配列が同じようにならなければなりません。人間と、爬虫類のように遺伝子が離れてしまうと、交流や結合は難しくなります。

人間は神の形の似姿・像として創造されています。その形の配列が、天界の形であり、天界の形は、「巨大人」の形、人間の形です。私たちが、主を愛し、主が全人類を愛して、すべてのものを与えようとされているため、それを受け取るためには、主と同じような形をとるようにしなければなりません。霊界では、その形を見て、明らかな形で認識できるといいます。

しかし霊界にいない私たちは、主と同じような形、人間の形が具体的にどうなっているかをイメージして確認することはできません。記憶知的による感覚的な印象によって確認することは、幻想による確認に結びつきやすく、地獄の影響、私たちの内にある自己愛の影響によって、異端や怪しげな宗教は、荒れ果てた地に雑草がすぐ繁殖するように、いくら取り除いてもすぐ生えて当たりを埋め尽くします。
この世では、より確固たるものによる必要があります。

天界の教えは、教会の真理と、記憶知の結びつきはみ言葉によって確認しなければならないと教えます。
(AC6047) 天界の教義自体が、み言葉の句について一つ一つ確認していて、単なる読者にとっては、煩わしい感があると思います。しかし、この確認は、天界の教えの源が、み言葉にあることを教えています。

真理への情愛を持って、み言葉によって真理を確認しなければ、私たちは簡単に、偽りによって騙されてしまいます。しかし、これがたった一つの天界とのつながりを確認する方法です(AC6047)。もし人が真理への情愛を本当に持つならば、この手間を惜しんではなりません。人がそう言ったからではなく、それぞれがこの確認を行う必要があります。新教会でこの作業を行っている人が、ごくわずかです。それは真理への情愛が不足しているからです(AC6047)。簡単な入門書だけでは、真理への情愛を継続することはできません。これが、新教会からの離脱者の増加の要因の一つです。

天界の形を地上、この自然界に実現しようとするためには、自然界の支配者のエジプトのファラオにその形を伝え、わたしたちの生き方を認めさせねばなりません。み言葉から確認して、私たちの生き方が主とつながっていることを確認していることを伝えなければなりません。

ヨセフは兄弟たちや父の家族に言います。
み言葉で「言う」というとき、それは流入を意味しています。天的な認識から、自然的真理や善に流入があり、認識したことが意味されます。

「もしファラオがあなたがたを呼び寄せて、『おまえたちの職業は何か』と聞いたら、こう答えてください。」(46:33,34)
ファラオで意味される自然的なもの自体が認識を持つことはできません。そのため天的善であるヨセフから流入を受けた自然的な善と真理は、ファラオに伝え、理解させなければなりません。

「この人たちは羊飼いです。家畜を飼っていたのです。」(46:32)
羊を飼う者とは「教え導く者です」。そして家畜とは、「教えられ導かれる者」を意味します(AC6044)。

自然界の中で、新しい価値、違った価値はすぐには受け入れることは容易ではありません。しかし自然界で居場所がなければ、いつかは飢えて死にます。教会は滅んでしまいます。そこで、このエジプトの中、記憶知だけですべて知識としてだけとどめておく地で、生き抜くためには、常に善と真理を教え、それを実現するよう導き続けなければなりません。善に導き続けること。これが教えるほうにも、学ぶ側にとっても必要です。そしてその根拠が、唯一の絶対者、神とつながっていることをみ言葉によって確認し、強化します。これは新しい地でも欠かせません。

『しもべどもは若いときから今まで、家畜を飼う者でございます。私たちも、また私たちの先祖も』と。
そうすれば、あなたがたはゴシェンの地に住めるでしょう。」(46:34)アーメン。

【新改訳】
創世記
46:1 イスラエルは、彼に属するものすべてと一緒に旅立った。そしてベエル・シェバに来たとき、父イサクの神にいけにえを献げた。
46:2 神は、夜の幻の中でイスラエルに「ヤコブよ、ヤコブよ」と語りかけられた。彼は答えた。「はい、ここにおります。」
46:3 すると神は仰せられた。「わたしは神、あなたの父の神である。エジプトに下ることを恐れるな。わたしはそこで、あなたを大いなる国民とする。
46:4 このわたしが、あなたとともにエジプトに下り、また、このわたしが必ずあなたを再び連れ上る。そしてヨセフが、その手であなたの目を閉じてくれるだろう。」
46:5 ヤコブはベエル・シェバを出発した。イスラエルの息子たちは、ヤコブを乗せるためにファラオが送った車に、父ヤコブと自分の子どもたちや妻たちを乗せた。
46:6 そして、家畜とカナンの地で得た財産を携えて、ヤコブとそのすべての子孫は、一緒にエジプトにやって来た。
46:7 彼は、自分の息子と孫、娘と孫娘、すなわちすべての子孫を、一緒にエジプトに連れて来た。
・・・

46:28 さて、ヤコブはユダを先にヨセフのところに遣わして、ゴシェンへの道を教えてもらった。そうして彼らは、ゴシェンの地にやって来た。
46:29 ヨセフは車を整え、父イスラエルを迎えにゴシェンへ上った。そして父に会うなり、父の首に抱きつき、首にすがって泣き続けた。
46:30 イスラエルはヨセフに言った。「もう今、私は死んでもよい。おまえがまだ生きていて、そのおまえの顔を見たのだから。」
46:31 ヨセフは兄弟たちや父の家の者たちに言った。「私はファラオのところに知らせに上って行き、申しましょう。『カナンの地にいた、私の兄弟たちと父の家の者たちが、私のところにやって来ました。
46:32 この人たちは羊飼いです。家畜を飼っていたのです。この人たちは、自分たちの羊と牛と、所有するものすべてを連れて来ました。』
46:33 もしファラオがあなたがたを呼び寄せて、『おまえたちの職業は何か』と聞いたら、
46:34 こう答えてください。『しもべどもは若いときから今まで、家畜を飼う者でございます。私たちも、また私たちの先祖も』と。そうすれば、あなたがたはゴシェンの地に住めるでしょう。羊を飼う者はみな、エジプト人に忌み嫌われているからです。」

マタイ福音書
11:25 そのとき、イエスはこう言われた。「天地の主であられる父よ、あなたをほめたたえます。あなたはこれらのことを、知恵ある者や賢い者には隠して、幼子たちに現してくださいました。
11:26 そうです、父よ、これはみこころにかなったことでした。

天界の秘義6047
[2] ここでの主題は、教会の真理と記憶知が結ばれ会うことですが、どのように結ばれるか知る必要があります。結びつきは、信仰の真理をのぞき込む記憶知から始まってはなりません。なぜなら人の記憶知は感覚的な印象、すなわち世そして無数の幻想から来るからです。信仰の真理から始まらなければなりません、すなわち次のように進まなければなりません。
一番、最初に教会の教えることを知り、それらの教えが真理であるか、み言葉から発見しなければなりません。物事が真であるかどうかは、教会の指導者がそう宣言し、信者が支持しているからではありません。もしそれがそうであるなら、どんな教会の教えや宗教であっても、人の生まれの土壌のものであり、その中に生まれついたから、真理であるということになります。すると、カトリック教徒あるいはクウェーカー教の教えが真理であるだけではなく、ユダヤ教やムハマドの教えも真理となります、なぜならそれらの教会の指導者がそう宣言し、信者も支持するからです。このすべてから、人はみ言葉を探し、そこに教会が真理を教えているかどうかを見なければならないことは明らかです。真理への情愛がその精査を動機付けしているとき、人は主から光を受け、見分けることができます。しかしながら、その啓蒙の源に気づかないので、何が真理であるかは善によって治められるほど、確信を持つことができます。
しかし、真理が彼によって見分けられるなら、教会の教えによって変化するので、彼は教会の中で騒動をもたらすことに警戒しなければなりません。

生まれつきの盲人

生まれつきの盲人

イエスは答えられた。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。この人に神のわざが現れるためです。」(9:3)

聖書に記載されている、生まれつきの盲人の目を開けた奇跡とは、物理的に目の見えない障碍者が、主の御業によってたちまち目が見えるようになったという奇跡の業です。盲人の両親も当時は手を尽くしたはずですが、盲人である本人は、座って物乞いをして生きてゆくしか道はありませんでした。

しかし、この奇跡の業が、いつどこでも、ただ主を信じれば起こるかと言われれば、残念ながら首をかしげてしまいます。医学の発展を祈るとしても、すべての障害がいつか必ず癒されると請け合うことはできません。

それではこの奇跡によって、主は現代に住む私たちに何を教えられたかったのでしょうか?
天界の教えによれば、盲人、目が見えないとは「認識の欠如」あるいは「信仰の欠如」を意味すると(AC 6990)言われています。そして、「生まれつきの」盲人とは、み言葉を持たない異教徒として生まれたため、主のことを全く知らなかった者、あるいはみ言葉以外から学んだ者のことをいいます (AE 239:19) 。

私たち日本人の大半は、残念ながらこの「生まれつきの盲人」にあたる可能性があります。み言葉のない生活環境に生まれ、主のことを存じ上げない方がほとんどであるからです。またみ言葉そのものに触れないため、思い込みだけで認識・信仰が欠如している可能性もあります。

信仰の欠如とは、よく「あなたの信仰が足りない」という意味で使われ、信仰を増すためにもっと祈りなさい、献金しなさい、神様のために働きなさいと言われることがあります。宗教がらみの問題が起こると必ず、これらの信仰が足りないからだと言われます。しかし、それは理解を伴わない「思い込み」のことであり、「信仰」ではありません。

信仰は「善く生き、正しい信念を持つ者は、主によって救われる」ために、善く生きようとする強い決心です。そのためには、「人は、主に近づき、み言葉から真理を学び、それによって生きることで信仰を得」ます(真のキリスト教336-3)。信仰が理解の領域で、隣人への思いやりを実行するのが意志の領域とするなら、理解できない信仰は、信仰ではありません。主イエスに近づかず、献金だけを要求する「似非信仰」は信仰ではありません。

そして、善いことと固く結びついているため、善いことを行おうとしない悪人は信仰をもつことができません。心の一方で、自分に有利なことだけを考える人は、求めるものが自分であり、隣人のために善くすることができないので、信仰の正反対です。彼らは十戒を、神から発した命令として守ることができません。誤った信仰や似非信仰に囚われた、パリサイ人も信仰を持つことすらできません。彼らは、イエス・キリストを神として認めず否定し、「神に栄光を帰せ」(9:24)とはいうものの、その神は愛と真の主イエスではなく、目に見えないため、自分だけに便利な神を信仰させます。目に見えない神、理解できない神であれば、どのようにでもごまかすことができます。そのため救いとなる信仰ではありません(真のキリスト教336-3)。

心に悪意や憎悪、排他心を抱く人にも、本当の信仰はできません。彼らの心には、人に思いやりを持つという気持ちがひとかけらもないので、信仰も思いやりがあったとしても、悪意や憎悪にぶつかり、「真珠が塵になるように砕け散」ります。

主はおっしゃいます。「わたしたちは、わたしを遣わされた方のわざを、昼のうちに行わなければなりません。だれも働くことができない夜が来ます。わたしが世にいる間は、わたしが世の光です。」(9:4,5)

主のこのみ言葉は、善から真理を行うことの大切さを語られたものです。そのためにはいつも善にいることができるよう、隣人への思いやりから主の業を働かなければなりません。偽りと悪から働くなら、せっかく真理を得たとしても、真理の光は深い闇に消えてしまいます。

天界の教えはこう説明します。
昼とは、善から真理を行うこと、夜とは悪から偽りを行うことです。・・
人が善の中にいないなら、すなわち、隣人への思いやりを抱かないなら、真理そのものを語ったとしても受け付けません。なぜなら人は、光は肉体と自分の関わる周りの世のことしか興味を抱かず、それを真理だと感じないからです。・・真理の光は深い闇の中に消えてしまいます(AC 6000:3 )。

主は、生来の盲人に対して、地面に唾をして、その唾で泥を作られた。そして、その泥を彼の目に塗って、「行って、シロアム(訳すと、遣わされた者)の池で洗いなさい」(9:6,7)と命じ、盲人は行って洗うと、見えるようになり、帰って行った。と言います。

主の盲人への奇跡は、目を癒すことだけではありません。彼が真理を理解できず、悪と偽りに生きていたことから立ちなおさせることです。

これは「み言葉の字義からの真理によって改心させることを意味します。真理を理解させ、み言葉の字義を意味するシロアムの池で、洗い清めることは、悪と偽りから清めることです」。(AE239[19])
み言葉から教えなければ、主からではなく、別の何かから学ぶことになり、悪と偽りから清くなることはできません。

ヨハネ福音書の中の微妙な言葉の違いから、生来の盲人の立場から、どのように改心が進んでいったかを、見てみます。
最初盲人は、座って物乞いをするしか生きる術はありませんでした。しかし、主イエスの指示に従い、
「行って洗った。すると、見えるようになり、帰って行った。」(9:7)とあくまで受け身の立場、言われたことを実行するだけです。
奇跡を目撃した人たちも、彼について懐疑的です。その人達に問われても、事実を繰り返すだけです。そして、目を癒してくれた恩人のことについて聞かれても、「知りません」(9:12)としか応えません。何の恩も感じていないようです。

主に敵対するパリサイ人のところに連れてゆかれ、事情を聴かれますが、
「あの方が私の目に泥を塗り、私が洗いました。それで今は見えるのです」(9:15)と、恩人がしてくれたことを「あの方」のおかげで、見えるようになったと伝えます。
しかし、パリサイ人にその方のことを問われると、彼は「あの方は預言者です」と答えます。(9:17)
元盲人の認識は進み、知らない人から、預言者へと変化しました。ただの人ではなく、神から言葉を預かった方と認めます。

パリサイ人は、主が安息日に働いたことで「罪びと」という難癖をつけますが、
「あの方が罪人かどうか私は知りませんが、一つのことは知っています。私は盲目であったのに、今は見えるということです。」(9:25) と行いを持って弁護します。盲目を癒してくれたことを認め、恩を感じています。偽りではなく、正しい行いであると認めます。

さらにパリサイ人が主を罪人に定めようとするのに、真っ向から反対します。
「これは驚きです。あの方がどこから来られたのか、あなたがたが知らないとは。あの方は私の目を開けてくださったのです。」(9:30)

主である「あの方」がどこから来たかは、最初のように無知ではなく、自分の持つ知識から確信しています。
「私たちは知っています。神は、罪人たちの言うことはお聞きになりませんが、神を敬い、神のみこころを行う者がいれば、その人の言うことはお聞きくださいます。・・・あの方が神から出ておられるのでなかったら、何もできなかったはずです。」(9:31-33)
主は、神から来られた方である、と堂々と敵であるパリサイ人を前に宣言します。

最初は奇跡の業によって、信じたというだけでした。しかし信仰という自分の心の中の確信が、次第に育ち初めて、不動となっています。悪と偽りに対して、立ち向かう力、善の力を得ています。
パリサイ人という悪と偽りは、「彼を外に追い出し」ます。しかし、これは逆に癒された盲人自身が、悪と偽りを自分自身から追い出したことの証です。

すると主イエスがお越しになって問われます。「あなたは人の子を信じますか。」(9:35)
ここで、彼は最も大切なことを主にお願いします。
「主よ、私が信じることができるように教えてください。その人はどなたですか。」(9:36)

本人からではなく、主から信じるという最も大切なことです。
「主は人の中にある思いやりと信仰であり、人は主の内にある思いやりと信仰である。」(真のキリスト教336-3)
思いやりと信仰の源は主です。人から信じ、信仰するのではありません。信仰と思いやりがあっても、主の力がなければ、信仰は成立しません。
私たちが、自分は信じます、と信仰表明しても、実は人が主から力を借りず信仰することは不可能です。
自分が信仰しているというのは、口先だけです。主から信仰も・仁愛もすべてが来ている、これを確信することが、本当の信仰です。この確信は、人の力ではできません。

彼は「主よ、信じます」と言って、イエスを礼拝した。(9:38)

盲人の目が物理的・医学的に開かれたこと自体が奇跡ではありません。教会の中で、自分の義務も果たすことができず異邦人として、主を認めていなかった者に、正しい信仰の認識を与えることが奇跡の業です。私たちもこの盲人のように、主に近づき、み言葉から真理を学びます。真理を生きぬき、偽りと戦いぬくことで、初めて信仰を得ることができます。

主はおっしゃいます。
「わたしはさばきのためにこの世に来ました。目の見えない者が見えるようになり、見える者が盲目となるためです。」9:39

「さばきのためにこの世にきた」とは、神的真理を啓示するためを意味し、主から賢明である者を見えるようにし、賢明であるとされる者を、自らによって賢明であるとして、盲目とするためです。(AC 9857:9)
私たちは、自分から賢明であると思いあがったり、自分の信仰が誰よりも素晴らしいと自慢したりするのはなく、主から信仰と思いやりを得ていることに気づくことで、初めて本物の認識を得ることができます。「自分は見える」と言い張れば、罪は残ります。

イエスは彼らに言われた。「もしあなたがたが盲目であったなら、あなたがたに罪はなかったでしょう。しかし、今、『私たちは見える』と言っているのですから、あなたがたの罪は残ります。」(9:41)
アーメン


4:10 モーセは【主】に言った。「ああ、わが主よ、私はことばの人ではありません。以前からそうでしたし、あなたがしもべに語られてからもそうです。私は口が重く、舌が重いのです。」
4:11 【主】は彼に言われた。「人に口をつけたのはだれか。だれが口をきけなくし、耳をふさぎ、目を開け、また閉ざすのか。それは、わたし、【主】ではないか。
4:12 今、行け。わたしがあなたの口とともにあって、あなたが語るべきことを教える。」

ヨハネ福音書
9:1 さて、イエスは通りすがりに、生まれたときから目の見えない人をご覧になった。
9:2 弟子たちはイエスに尋ねた。「先生。この人が盲目で生まれたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。両親ですか。」
9:3 イエスは答えられた。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。この人に神のわざが現れるためです。
9:4 わたしたちは、わたしを遣わされた方のわざを、昼のうちに行わなければなりません。だれも働くことができない夜が来ます。
9:5 わたしが世にいる間は、わたしが世の光です。」
9:6 イエスはこう言ってから、地面に唾をして、その唾で泥を作られた。そして、その泥を彼の目に塗って、
9:7 「行って、シロアム(訳すと、遣わされた者)の池で洗いなさい」と言われた。そこで、彼は行って洗った。すると、見えるようになり、帰って行った。

天界の秘義6990.
「目を開け、また閉ざすのか。」とは認識からの信仰を、あるいはその欠如によるための信仰の欠如を意味します。これは「見る」の意義が理解と信仰を持つことであり、(897, 2325, 2807, 3863, 3869, 4403-4411参照)、すなわち、認識の結果としての信仰です。(原語では、開いた者を意味する単語で、正確な意味で目を開いた-そして、開くのに役立つため、認識の結果として見る者を意味します。
認識の欠如の結果から信仰を欠くことが「盲人」の意味であることは、盲人は見ることができないからです。み言葉で、「盲人」が教会外に生きるため、信仰の真理を持たない異教徒を意味しますが、それでも教えられて信仰を受け入れた時は2387参照。主がお癒しになった盲人たちによって以下に意味されます。                                                                                                                                                                                                                                                                         
マタイ9:27-31; 12:22; 20:29-end; 21:14; マルコ 8:22-26; 10:46-end; ルカ 18:35-end; ヨハネ9:1-end.

「真のキリスト教」336[3]
信仰の要点を次に示します。
I  救いとなる信仰は、イエス・キリストを神であり救い主であると信じることにある。
II  信仰は、善く生き、正しい信念を持つ者は、主によって救われる、と要約できます。
III  人は、主に近づき、み言葉から真理を学び、それによって生きることで信仰を得る。
IV  真理の群は、房のように内でまとまり、信仰のレベルが上がるにつれ、完全に近づく。
V  思いやりのない信仰は、信仰ではなく、信仰のない思いやりは、思いりではなく、主がそれらに生命を与えなければ双方とも生命はない。
VI  主と思いやりと信仰は一つであり、それは人の中に生命と意志と理解があるようなものだ:もしそれらが分離すれば、真珠が塵になるように砕け散る。
VII  主は人の中にある思いやりと信仰であり、人は主の内にある思いやりと信仰である。
VIII  思いやりと信仰は、善行の中にともに存在する。
IX  真の信仰、偽の信仰と、偽善的信仰がある。
X  悪人は信仰を持てない。

創世記45章: ヨセフの顕現と和解

創世記45章: ヨセフの顕現と和解

ヨセフは兄弟たちに言った。「私はヨセフです。父上はお元気ですか。」(45:3)

兄弟たちの前で、エジプトの支配者としてふるまってきたヨセフは、ついにその正体を明かします。
ヨセフが兄弟たち、とくに実弟のベニヤミンに会って、感動のあまり人前で自分を制することができなくなり、和解のため自分の正体を明かしたとされています。積年の恨みを超えて、兄弟たちが自分にしたことを赦します。その赦しの行為と和解は、素晴らしい行いであると結論づけます。

しかし、赦しと兄弟間の和解のすばらしさだけを説くなら、神のみことばである聖書は、道徳のお手本にしかすぎません。兄弟の仲たがいと仲直りは、どこにでもありそうな例で、赦しの素晴らしさは描けても、人類全体の救いの道に直接関係するものかについては少し疑問です。しかし、天界の教えによる内意は、人類全体の救いについて、全く異なることを教えます。

まずヨセフの物語の事実の流れです。当初、ヨセフは兄弟たちから見ると、許しがたい夢を見ます。自分が中心にいて、兄弟たちがすべて自分にむかってお辞儀をします。さらに父母を表す太陽と月を加えて、すべてが、ヨセフを拝みます。この夢を周りに告げたため、ヨセフは生意気な弟だと、兄弟から「除け者」にされてしまいます(創37章)。さらに、あろうことか、殺そうとさえしますが、不幸中の幸い、商人に売られエジプトに連れてゆかれます。しかし、エジプトでは神の導きで、出世して宰相の地位につき、エジプト全土を支配するに至ります。カナンに残っている親兄弟たちは、飢餓のため危機を迎え、エジプトにやってきて、支配者であるヨハネに食糧を求めます。

天界の教えの解釈は、人類の救いに関するさらに壮大なものです。
ヨセフは人間の内的そして天的なものを表します。ヤコブの十人の息子達は、教会の外的な自然性を表します。
十人の兄弟たちが表す外的な自然性は、当初、ヨセフの表す内的で天的なものを認めず、除け者にして否定します。
しかし兄弟たちの地全体が飢餓の状態を迎えたことは、カナンの教会が善と真理の不足で危機にあったことを意味します。教会の存続をかけて、知識の豊富なエジプトにやってきて、生きる糧となる食糧を求めますが、ヨセフの計略にはまってしまいます。兄弟全員をエジプトに引き寄せ、兄弟の一部を人質として、ヨセフの弟のベニヤミンをエジプトに呼び寄せます。

ベニヤミンをエジプトに呼び寄せたことは、外的・自然的なものに、内的・天的なものを導入してゆくための手段でした。その計略は、外的な真理に内的真理を導入するための過程です。本45章では、さらに外的・自然的なものと、内的・天的なものとの結びつきの過程に入ってゆきます (AC5867)。

外的な自然性は、それだけでは生命があるとはいえません。なぜなら外的な自然性だけが存在し、内部との結びつきを全くもたないなら、生命の源と結びつかず、全体はいつか死を迎えることになります。中身のない外面だけの真理は、その根本的目的である善を失い、滅びてゆくことになります。外面だけ自然性だけの教会は、本来の目的の善を失ったため、善と真理が不足し、絶滅への道を歩み進めますが、それに気づけません。

豊穣の地のエジプトを支配し、霊的な食物である善と真理を蓄えたヨセフは、親兄弟たちを救うことで、彼らによって表象される教会を救わなければ、人類は滅びてしまいます。全地のどこかに生命を源とし善を目指す教会がなければ、人類は悪と偽りに突入して死に至ります。

ヨセフは兄弟たちに今後起こる危難を告げます。主が貯める善と知識を蓄積していかなければ、それが輝き始めるには、まだ時間がかかることを次のように伝えます。(AC5893,5894)
「というのは、この二年の間、国中に飢饉が起きていますが、まだあと五年は、耕すことも刈り入れることもないからです。」(45:6)
善がその働きをするためには、自然的な心の内に真理がなければなりません。そしてそれらの真理は純粋な愛に属する情愛を通してもたらさらねばなりません(AC5893)。純粋な情愛によって真理を求め、実行して思い出してゆかねば、いつか必要な時に使える善と真理の蓄積とはなりません。蓄積は主のわざで、時間をかけて本人が知らないうちに蓄積されてゆきます。善と真理が不足している危機を十人の兄弟たちで表される外的な教会に告げます。

しかし天的で、内的なものであるヨセフと、外的なものにしかすぎない十人の兄弟たちは、昔のように、意思疎通を図ることができません。ヨセフがただ自分の正体を明かしても、兄弟たちは受け入れてくれず、天的で内的なものは、理解されず、再びのけ者にされてしまい、地上の教会は滅びてしまいます。

そこで、まず力の差、食糧の差、善と真理が継続して供給されるか、持続可能な教会であるかを知らなければなりません。足りないことを知り、足りないものを求める謙虚さを持たなければ、何事も受け付ないからです。
天界の教えは告げます、「それらの真理へのこだわりは自己愛から起こり、自分だけを愛する者は、自らを謙虚にすることはできません」(AC5929)。兄弟たちはヨセフの権力を見せつけられることで、次第に謙虚になり従順になってゆきます。しかしヨセフが表す内部的善と、兄弟たちの表す自然性にある教会の真理の間は、結びつくにはまだまだ遠い存在です。その場でほしいものさえ得れば、持続可能性を無視して、近寄らなくなります。

そこで天的な内部であるヨセフと、外的で自然的な兄弟たちの仲介をする、実弟のベニヤミンが必要となります。仲介者であるベニヤミンに内的真理を認識させ、その大切さを父親に告げることで、父親の持つ善の力を引き出すしか、教会が存続する道はありません。善こそが本来の力であるからです。

「さあ、あなたがたも、弟のベニヤミンも、自分の目でしっかり見てください。
あなたがたは、エジプトでの私のすべての栄光(誉)と、あなたがたが見た一切のことを父上に告げ、急いで父上をここに連れて来てください。」(45:12,13)

この栄光は、霊的天界のことです。自然的性の内の霊的天界と、霊的善が交流することを意味します(AC5929)。
聖書にはたびたび出てくる「栄光」です(AC5929-4)。霊的な真理の美しさと力です。主イエスご自身のことです。
「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた」(ヨハネ1:14)
この世における主の恵みと誠にあふれる言動こそが、父である霊的善に伝える栄光となります。神の教えを曲げ、先祖の行いによって、善を失い、生命を失い始めた教会を、霊的によみがえらせる力です。

父親と弟のベニヤミンの証言、内的価値を認めて伝えることで、自然的で外的なものにのみ価値を置く、十人の兄弟たちを、内的善であるヨセフに近づけます。主のこの世でのみ言葉の真の意味を、理解し、行うことで自分たちのものとして、霊的生命という善をよみがえらせるための主の摂理、神の力です。神の力、生命を認識するのが媒介者の役目です。「私の弟のベニヤミンの目」によって意味される、媒介者の認識です(AC5920) 。

弟のベニヤミンが、内的真理を深く認識することで、これを意味するヨセフと深く結ばれます。
「彼は弟ベニヤミンの首を抱いて泣いた。ベニヤミンも彼の首を抱いて泣いた。」(45:14)
一方的な行為ではなく、ヨセフからの行為と、ベニヤミンからの相互的な行為で、この相互性が結合を産みます。

ベニヤミンとヨセフが結ばれることで、ベニヤミンは媒介としての役目を果たし、ヨセフと兄弟たちとの語り合い、交流が始まります。
「彼はまた、兄弟みなに口づけし、彼らを抱いて泣いた。それから兄弟たちは彼と語り合った。」(45:15)

しかし両者の交流ははじまったばかりです。両者の交流をさらに深めて、結合して持続可能となるためには、父親の力が必要です。霊的善をあらわす父親の名は、外的部分と内的部分を表す、ヤコブとイスラエルの名が交互して現れはじめます。霊的生命を受ける前は、「ヤコブ」といわれ、霊的生命を受けた後は「イスラエル」といわれます。
例えば、21節では「イスラエルの子らは、そのようにした。」(45:21)。25節では、「彼らの父ヤコブのもとへ行った」(45:25)。27節では「父ヤコブは元気づいた(45:27)。続く28節では「イスラエルは言った」(45:28)、と目まぐるしく、ヤコブとイスラエルの間で変化してゆきます。これは間違いではなく、一つ一つに意味があります。 

そして、兄弟たちのカナンへの旅が始まります。父親を連れてエジプトにやってくる旅です。
エジプトの王であるファラオは、ヨセフが兄弟たちに対して次のように述べるよう指示します。
「子どもたちと妻たちのために、エジプトの地から車を持って行き、あなたがたの父を乗せて来なさい。家財に未練を残してはならない。エジプト全土の最良の物は、あなたがたのものだから』(45:19,20)

「子供たち」はこれらの事柄を知らない者を、「妻たち」は真理の情愛を意味するがまだ真理に至っていない者を表します。彼らを「車」によって表される教義によって教え導き、「父を連れてくる」ことは、役立たせて善に近づけることを意味します(AC5945,6,7)。カナンからエジプトへの旅は、単なる旅行ではなく、私たちの霊的成長の旅でもあります。
旅の中で、「家財に未練を残すな」とは、物事の本質を認め、手段的なものには囚われるなということを意味しています。

物事の本質に近づくには、なにか近づくための手段的なものが必要ですが、進むにつれて手段的なものと本質的なものの組み合わせは変化してゆきます。魂を求めるとき、肉体は大切ではなくなり、真理を求めるとき、記憶知に未練を残す必要はなくなり、善を求めるとき、真理に未練を残す必要はなくなります(AC5948)。

著作の真理を理解するにつれ、翻訳文や英語・ラテン語の原典を読むための知識は必要が薄れてゆき、真理の実践が進むにつれ、真理の理解の必要性は薄れてゆき、再生が進むにつれて、真理の実践のことすらあまり考えなくなり、ついには善だけを求めてゆきます。

しかし、真理が不足するときも、真理への情愛が不足することもあります。時期に応じて、教会や周りから刺激を絶えず刺激を受けます。

旅のための食糧は十分与えられます。謙虚に認めれば、主が無償で与えられ(AC5957)るからです。特にベニヤミンには、仲介の役目を果たすべく、十分な量が与えられます。「銀三百枚と晴れ着五着」がその十分さを意味します (45:22)。新教会は真理過剰になるときもありますが、それは周りに与えるという意味があるのかもしれません。

旅の任務を果たすべく、主から流入があり、無事カナンにたどりつき、父ヤコブを元気づけることができます。そして教会の自然的・外的なものと内的・天的なものが、ヤコブの内的善の力によって完全に結びつく瞬間を迎えることになります。ヨセフという内的・天的なものが滅びてないことを知り、元気づけられたヤコブは、イスラエルとして語ります。

イスラエルは言った。「十分だ。息子のヨセフがまだ生きているとは。私は死ぬ前に彼に会いに行こう。」(45:28) アーメン。

創世記(新改訳)
45:12 さあ、あなたがたも、弟のベニヤミンも、自分の目でしっかり見てください。あなたがたに話しているのは、この私の口です。
45:13 あなたがたは、エジプトでの私のすべての栄誉と、あなたがたが見た一切のことを父上に告げ、急いで父上をここに連れて来てください。」
45:14 彼は弟ベニヤミンの首を抱いて泣いた。ベニヤミンも彼の首を抱いて泣いた。
45:15 彼はまた、兄弟みなに口づけし、彼らを抱いて泣いた。それから兄弟たちは彼と語り合った。
45:16 ヨセフの兄弟たちが来たという知らせが、ファラオの家に伝えられると、ファラオもその家臣たちも喜んだ。
45:17 ファラオはヨセフに言った。「おまえの兄弟たちに言うがよい。『こうしなさい。家畜に荷を積んで、すぐカナンの地へ行き、
45:18 あなたがたの父と家族を連れて、私のもとへ来なさい。私はあなたがたに、エジプトの地の最良のものを与えよう。あなたがたは、地の最も良い物を食べるがよい。』
45:19 おまえはこう命じなさい。『子どもたちと妻たちのために、エジプトの地から車を持って行き、あなたがたの父を乗せて来なさい。
45:20 家財に未練を残してはならない。エジプト全土の最良の物は、あなたがたのものだから』と。」
45:21 そこで、イスラエルの息子たちはそのようにした。ヨセフは、ファラオの命により、彼らに車を与え、また道中のための食糧も与えた。
45:22 彼ら一人ひとりに晴れ着を与えたが、ベニヤミンには銀三百枚と晴れ着五着を与えた。
45:23 父に贈ったものは、エジプトの最良のものを積んだろば十頭と、穀物とパンと父の道中の食糧を積んだ雌ろば十頭であった。
45:24 こうしてヨセフは兄弟たちを送り出し、彼らが出発するとき、彼らに言った。「道中、言い争いをしないでください。」

ヨハネ福音書
1:14 ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。


天界の秘義5893.
「この二年の間、この地の中央でききんがあった」は、自然的心に善の不足がある状態を表します。・・・
[2] この含意はこうなっています。
善がその働きをするためには、自然的な心の内に真理がなければなりません。そしてそれらの真理は純粋な愛に属する情愛を通してもたらさらねばなりません。例外なしに人の記憶はすべて、何等かの愛を通してもたらされ、その愛と結びつくことで、記憶の中に残ります。これはまた信仰の真理に適用できます。愛を通して真理がもたらされるなら、これらの真理はそこに愛とともに残ります。そこで結びつくなら、次のようになります:情愛が再び呼び起こされれば、同時にそれに結びついた真理が再現します。そして真理が呼び起こされれば、同時にそれらに結びついた情愛が再現します。それは成人の、人が再生されるときに起こりますが、それ以前は、彼は主によって送られた天使によって支配されます。それはその時には信仰の真理について自分から考えることができないからです。彼らは彼を、真理だと考え始めた真理によって維持して治め、それらの真理を通して維持することで、情愛を結び付けてゆきます。その情愛―真理への情愛―は善に源を得ており、善に向かって段階的に導かれてゆきます。

LGBTQ

LGBTQ

創造者ははじめの時から『男と女に彼らを創造され』ました。 (マタイ19:4)

LGBTQとは次の言葉の頭文字をとって組み合わせた言葉で、性的少数者 (セクシャルマイノリティ) を
表す言葉の一つとして使われています。
性的指向とは、どのような性別の人を好きになるか、ということです。
これは自分の意志で選び取るというより、多くの場合思春期の頃に「気付く」ものです。
性的志向から、女性の同性愛者(レズビアン)、男性の同性愛者(ゲイ)、両性愛者(バイセクシャル)に分かれます。
性自認 (性の自己認識)とは、自分の性をどのように認識しているのか、ということです。
「心の性」と言われることもあります。多くの人は「身体の性」と「心の性」が一致していますが、
「身体の性」と「心の性」が一致せず、自身の身体に違和感を持つ人たちもいます。
身体と心の性が不一致の人(トランスジェンダー)です。
性的少数者(セクシュアルマイノリティ)には、LGBT以外にも、男女どちらにも恋愛感情を抱かない人や、自分自身の性を決められない・分からない人など、さまざまな人々がいます。これを特定の枠に属さない人(クイア他)でしています。
https://www.moj.go.jp/JINKEN/LGBT/index.html

これらの方々は社会的・宗教的に認められず、自信を失い、自分の異常に悩み苦しむ人が多かったといいます。新教会でも、別の宗派に属する牧師が集会にやってきて、悩みに苦しむ人を無視していいのか?と指摘してくれたことがあります。あるいは、ネット経由で、聖職者なのに、苦しむ人を無視していいのか?と同じような問題の提起をしてくれる方もいました。
ほかにも、日本で、両性具有で生まれた人をテーマにした漫画を何種類か拝見したこともあり、そういう問題があるとは認知していました。

一方で、LGBTQに関する話は、霊の存在を認めるかどうかの話にも似て、なかなか収まりどころがない方向に拡散してしまう恐れも感じていました。

ところが、今回の聖職者会議では、LGBTQが課題となり三日半の日程のほとんどが、その神学的課題の検討に費やされました。教会の幹部は最低限の合意までたどり着きたいと願っていたように思いますが、全員合意には至らなかったようです。(個人的に帰国に必要なコロナ陰性証明書の入手に追われていたこともあって結論を聞き逃した可能性もあります)。
ジェネラルチャーチには、説教や組織はこうあらねばならないという決まりは全くなく、聖書と著作を「神のことば」として扱うことだけが唯一の合意事項です。そして、合意形成にも全員合意を目指し、時間をかけるというのが、もう一つの決まりだと思います。一般に日本の教会の一部には、ジェネラルチャーチは保守的だと批判する傾向があるようですが、これらの根本的な方向性を述べているのかもしれません。今回の問題もその根本方針に従って進められました。

さて、聖職者会議の全日程を終え、帰国の要件である陰性証明も無事取得し、フィラデルフィアからニューヨークで一泊して帰国の途に移りました。6月26日のことです。ニューヨークの玄関口、ペン・ステーションに着くや否や、LGBTQらしい華やかな服装の人々に囲まれました。男性トイレの個室部分には、堂々と女性が入ってきます。何事かとスマホで調べれば、その日は、コロナで数年静かであった、プライド・パレードが復活し、まさにそのピークの日だったようです。虹色に染めた旗と衣装を着た人々が、すさまじい熱気で集い、歌い、叫んでいました。路上は警官によって厳しく交通規制され、行く先と経路を指示されます。

プライド・パレードは、LGBTQ、性的少数者の人権解放のパレードとされています。かつての「オズの魔法使い」の女優が性的少数者で、彼女が「虹のかなた」にという主題歌を歌っていたこともあって、虹色がシンボルとされていると聞きました。

この解放運動には過去にも賛否両論があり、ニューヨークのグリニッジ・ヴィレッジ地区のある町で、警察との激しい闘争があったと言います(1969年6月28日「ストーンウォール・イン」事件)。その後、先進国では性的少数者は社会におおむね受け入れられ始めていますが、全世界でみれば、そうではないようです。東京では虹色のパレードが始まっているかもしれませんが、さらに山間・海辺の町ではまだ浸透していないように思えます。重要である、様々人の好みを、差別する心なしに受けいれる社会にはなっているかは、疑問です。旧い日本にも仏教寺院や僧院や権力者には、そのような風習があったと聞いています。教会の友人には、日本の一般事情として歴史のことを説明しました。

ロシアのウクライナ侵攻(自称軍事作戦?)も、プライド・パレードへのロシアの正教会総主教の反感が原因の一つであったとCNNは伝えていたことを思い出します。様々な人の指向を認めようという流れは都会や一部の大企業の中ではあるものの、世界中・日本中すべてが同じスピードで進んでいるというわけではないようです。
(https://www.cnn.co.jp/world/35184795.html)

さて、新教会教義にLGBTQの、特に同性愛に関する教えがあるかといえば、著作で正面切ってこれを取り上げた項目はほぼない、という意見が大勢です。ただし、同性愛でいえば、二つ関係するものがあります。

その一つは、レビ記18:22の「あなたは女と寝るように、男と寝てはならない。」という戒めです。レビ記18章6節から24節の部分は、文字上、背徳の結婚と情欲についての戒めとされています。
しかし霊的意義は少し異なっています。
「み言葉では、『姦淫』の霊的意義は善の不善化で、『密通』は真理の歪曲を意味し( 2466, 3399)ますが、不潔な結びつきは禁止の段階に応じて (レビ記 18:6-24)、様々な種類の冒涜があることを意味します。」(AC 6348:2)
この部分はヤコブの長男ルベンの行為の内意が描かれ、22節の行為の内意自体は個別には触れられていません。この章の内容をざっと眺めると、外的行為の禁止だけではなく、その内的な意味の禁止がメインであるように見えます。その詳細はすべて啓示されてはいません。霊的姦淫は、実に多岐にわたるためかもしれません。

もう一つは、創世記のソドムの町の裁きの部分です。
「すべての人が、町の隅々から来て、その家を取り囲んだ。そしてロトに向かって叫んで言った。「今夜おまえのところにやって来た男たちはどこにいるのか。ここに連れ出せ。彼らをよく知りたいのだ。」(創世記19:4,5) 
ここで「彼ら」と言われているのは「二人のみ使い」です。「知りたい」とは聖書ではよう使われる用語で、主に性的関係を指すといわれています。同性間ほか一般的に正常でない性的関係を、ソドミーと呼ぶ人がいます。

しかし、天界の教えは、「ソドムは自己愛から生じるあらゆる悪」が意味され、「ソドムは姦淫の最悪の形から成る悪を意味しますが、それでもなおその悪は自己愛から生じるあらゆる悪が意味されます」(AC2220)。性的関係には限られていません。
そして「二人のみ使い」とは主の神的人間と、そこから発するものです(AC2320)。ソドムの町の人は、主ご自身に対して、暴行を働こうとしました。新約聖書にたびたび出てくる暴行です。もちろん主を認めないという霊的暴行が実際にあったことです。

どのような行為が、ソドムと言われる具体的な行為かの記述はありませんが、しかし自己愛から起因するすべての悪が意味されているといいます。それなら、その悪にはまさに無数の変化があります。私たちは自己愛そのもの、そして世間愛そのものと言ってもよいほどの存在なので、これらを挙げると、外面的には私たちの行為のすべてとなってしまうからかもしれません。

そして内面の判断は、霊界に入った後、主ご自身がそれぞれの人間に対してなさるかものと、この世で私たち自身が自己点検で真剣にあぶりだしてゆくものがあります。悪は気づかなければ、決して避けることができません。それは自分自身の無意識な、また意識的な行動のすべてであるからです。そして自己愛は地獄そのものであり、その説きつけは実に巧妙で、地獄からの説得行動であることは一見わかりません。

外面上、そして頭の中だけで新教会に属していると自分が考えても、すべては私たちの魂の実質、愛で決められます。新教会である新しいエルサレムに対する警告として、黙示録には次の句があります。
「犬ども、魔術を行う者、淫らなことを行う者、人を殺す者、偶像を拝む者、すべて偽りを好み、また行う者は、外にとどめられる。」(黙示22:15)
犬は、あらゆる情欲に囚われ、飲食の楽しみを含めた肉体的情欲にふける人が意味されます(AR952)。もちろん性欲もその中に入ります。私たちは地道に悪を避け、善を行う断悪修善の道を進まねばならないことにはまったく変化はありません。

しかしLGBTQに関する限り、私たちが気づきにくいことがあります。黙示録の中で言われている「人を殺す者」という語、そして十戒の中で「殺すなかれ」に反する行為です。驚くべきことに、新教会でも、平然と人を裁き、地獄に落ちると口にする人々がいます。それらの人々の行為です。それらの人々はいわば、意識して、あるいは無意識に、霊的な殺人を行っています。

主はヨハネ福音書で、姦淫した女の裁きについて教えられています。
律法学者とパリサイ人が、姦淫の場で捕らえられた女を連れて来て、真ん中に立たせ、イエスに言った。
「先生、この女は姦淫の現場で捕らえられました。モーセは律法の中で、こういう女を石打ちにするよう私たちに命じています。あなたは何と言われますか。」(8:3,4,5)

私たち自身が律法学者たちに同じことを問われたと考え、回答を考えてみます。そして姦淫の場で捕らえられた女とは、LGBTQの人が持つ性的な情愛です。
模範的な回答をすれば、一人の男と一人の女性の結婚愛を培わない者は、天界には迎え入れられません。結婚愛は霊的成長を促進するきわめて有力な手段で、結婚愛のことを知らない異邦人は、霊的に成長して天界に入ることができません。そのため新教会では結婚愛を大切にします。

霊的に姦淫を犯した者は、石で意味される固い真理で、自分の性根を叩き直すしかありません。モーセの律法は、霊的なことを語っています。私たちの中で、なんらかの善を攻撃する部分があれば、それは霊的な姦淫です(AC6348[2])。人の行う善を、自分の思惑で辱めることが、その内容です。霊的姦淫は、それが霊的姦淫であることを知らなければ、避けようがありません。

イエスは身を起こして言われた。「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの人に石を投げなさい。」(8:7)
自分が気づかないうちに人の善い行為を、偽りや悪として攻撃することも霊的姦淫であれば、誰も自分には罪がないと言い切れません。無意識のあるいは意識的断罪は、善の不善化として霊的姦淫になります。すべてをご存じの主以外に、石を投げることができる人間は存在しません。責めようと集まって石を手にしていた人も、それに気づき、一人一人去ってゆきます。

LGBTQの行為も、その内心まで見なければ、決して悪と断罪することはできません。
しかし、私たち新教会には、LGBTQの行為自体は、結婚愛をだいなしにし、天界への道を阻むことを、知っています。これは一人の男と一人の女の「結婚愛」を説く新教会でしか教えることができません。「結婚愛」に反する行為は、天界へ行く道を阻む行為です。自分にそれを発見した時は、石という真理で、自分を矯正します。

ヨハネ福音書で、主ご自身は決して裁かないとおっしゃいます。裁くのは私たち自身でなければなりません。そして主が私たちに求められることは、行って、二度と罪を犯さないことです。悪は悪、偽りは偽りと認めたら、そこから離れます。私たちが悪と偽りを自分の内に認め、そこから離れるにつれ、天界は少しずつ近づいてきます。

イエスは身を起こして、彼女に言われた。「女の人よ、彼らはどこにいますか。だれもあなたにさばきを下さなかったのですか。」 彼女は言った。「はい、主よ。だれも。」イエスは言われた。「わたしもあなたにさばきを下さない。行きなさい。これからは、決して罪を犯してはなりません。」(8:9-11)

アーメン。

創世記
19:4 彼らが床につかないうちに、町の者たち、ソドムの人々が、若い者から年寄りまで、すべての人が、町の隅々から来て、その家を取り囲んだ。
19:5 そしてロトに向かって叫んで言った。「今夜おまえのところにやって来た男たちはどこにいるのか。ここに連れ出せ。彼らをよく知りたいのだ。」

レビ記
18:22 あなたは女と寝るように、男と寝てはならない。これは忌みきらうべきことである。
18:23 動物と寝て、動物によって身を汚してはならない。女も動物の前に立って、これと臥してはならない。これは道ならぬことである。

ヨハネ福音書
8:3 すると、律法学者とパリサイ人が、姦淫の場で捕らえられた女を連れて来て、真ん中に立たせ、
8:4 イエスに言った。「先生、この女は姦淫の現場で捕らえられました。
8:5 モーセは律法の中で、こういう女を石打ちにするよう私たちに命じています。あなたは何と言われますか。」
8:6 彼らはイエスを告発する理由を得ようと、イエスを試みてこう言ったのであった。だが、イエスは身をかがめて、指で地面に何か書いておられた。
8:7 しかし、彼らが問い続けるので、イエスは身を起こして言われた。「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの人に石を投げなさい。」
8:8 そしてイエスは、再び身をかがめて、地面に何かを書き続けられた。
8:9 彼らはそれを聞くと、年長者たちから始まり、一人、また一人と去って行き、真ん中にいた女とともに、イエスだけが残された。
8:10 イエスは身を起こして、彼女に言われた。「女の人よ、彼らはどこにいますか。だれもあなたにさばきを下さなかったのですか。」
8:11 彼女は言った。「はい、主よ。だれも。」イエスは言われた。「わたしもあなたにさばきを下さない。行きなさい。これからは、決して罪を犯してはなりません。」〕

天界の秘義6348-2
み言葉では、『姦淫』の霊的意義は善の不善化で、『密通』は真理の歪曲を意味し( 2466, 3399)ますが、不潔な結びつきは禁止された段階に従って(呼ばれ) (レビ記 18:6-24)、様々な種類の冒涜を意味します。冒涜はここで使われている言葉「おまえは父の床に上り、そのとき、それを汚した。──彼は私の寝床に上ったのだ」で明白に意味されています。これらの言葉の意味は、信仰を分離して、善を冒涜することです(4661)。ルベンによって行われた、言葉にするのもはばかられる行為について述べられています。