ゲラルからベエルシバへ

 

「この国にまたききんがあった。それでイサクはゲラルのペリシテ人の王アビメレクのところへ行った。」(26:1)

アブラハムの息子イサクは、父の故郷から姪にあたるリベカを妻として迎え、双子の男の子、エサウとヤコブを得ます。しかし、父の時代にあったような飢饉に遭い、食糧を求めてゲラルの地に移動したところ、主からある命令が下ります。その命令は、「エジプトへは下ってはならない。」(26:2)というものでした。

飢饉に遭うとは、御言葉では、信仰の知識が少なくなったことを意味します。エジプトはこの「知識」に恵まれた地でしたが、そこには行ってはならず、エルサレムの西にある海辺の町、ゲラルに留まれという命令です。

ゲラルとはペリシテ人の王アビメレクの支配する地で、そこに滞在せよとの命令を受けます。

創世記26章は、このペリシテ人の地中心にして井戸の話が続きます。井戸は、泉と同じように、「御言葉」を意味し、そこでは真理を意味する水を得ることができます。私たちの生活に水が不可欠であるように、真理がなければ、生きていくための指針を失い、生きてゆくことが難しくなります。アブラハムの時代にもあり、イサクの時代にも再びやってきた飢饉とは、霊的な糧である善と真理が不足することです。主イエス・キリストの幼少時代の状態を物語っています。

アブラハム以前は、霊的な糧である善と真理は、当時の人間の持つ能力で得ていました。しかし、時代が進むにつれ、人間はその能力を失います。それでも以前の人間が残してくれた知識で、霊的な糧を得て命をつないでいましたが、その知識も失われてしまいます。そこで、神である主が人間として生まれ、一般の人間が持つような力を進化させて、神的なものにまで高めることで、再びこの世と天界をつなぎ、霊的な人間が絶滅しないよう計画されました。その計画の一環が、アブラハムとその妻サラの子イサクの誕生です。

イサクは合理性を意味します。合理性とは、霊的な糧である善と真理がどこにあり、どのようなものであるかを教えてくれる能力で、その力は私たちが持っているものではなく、主から来ます。アブラハム以前は、別の力が与えられ、そこから善と知識を得ていました。この以前の能力は、自然世界の森羅万象のすべてから善と真理を探し出す力でしたが、イサクが表す合理性は、直接、善と真理を探し当てる力ではありません。

善の衣である真理、その外観を認識する力でした。残念なことに、当初の超人的な力は、もはやその欠片も残っていないほど、人間は堕落していたのです。そのため、主が人間としてこの世に生まれ、無数の試練を味わい、克服してゆくことで、神的なものまでにつなげる道を開拓されました。この道を通らなければ、私たち人間は一人として救われません。肉体の死の直前に、神様にお願いしても、あるいはある特別な「自称」神様達と取引しても、全く意味がありません。公平に自分の一生をかけて同じ道を通ります。

創世記26章は、この真理の外観が三種類あることを示します。程度によって三種類に分かれ、それは、高い・低い・より低いです。

高い真理の外観とは、天使が見てわかる外観です。逆に天使でなければわかりません。この外観は、時間や場所が状態として表されています。少なくとも私たちが生きている間は、時間や場所の外観を基準に物事を考え、話さざるをえないため、天使の話を理解することは、極めて難しくなります。空間の高低や、遠近、時間の永遠などのすべてを、相手に応じて一瞬にして、状態に変換して考えることがスタートラインとなるため(AC3404参照)です。

エジプトに南下を禁じられ、学んだゲラルを支配していたペリシテ王のアビメレクは、合理的概念によってできている教義(AC3393)を意味します。

柔らかに言えば、本の知識だけに学ぶのではなく、「自分で考えて、そこから知識を引き出しなさい、そして教義と照らし合わせてつじつまが合っているかどうか確認しなさい」ということと思われます。

ゲラルの人々がイサクに妻のリベカのことを尋ねた。「すると彼は、「あれは私の妻です」と言うのを恐れて、「あれは私の妹です」と答えた。リベカが美しかったので、リベカのことでこの土地の人々が自分を殺しはしないかと思ったからである。」(26:7)

同じやりとりが、アブラハムとその妻サラが、エジプトとゲラルを訪れた時にもありました。

イサクは主の合理性にある「神的善」を意味します(AC3387)。リベカはその妻ですので、主の合理性に結ばれた「神的真理」となります。しかし、リベカが「神的真理」であることを理解させることができなかったので、妹であると答えます。合理的真理とは、理解に応じた真理です (AC3386)。

主が最初得られた神的真理は、人間の理解をはるかに上回ります。私たちは説明して理解するのに、時間や場所の概念が不可欠です。これがないとどんなことを言っているのか、想像すらつきません。

そこで私たちの理解の程度に合わせて、教義を説くことを主はお考えになりました。新約聖書で、「喩え」で説かれたことは、これを意味します。

ここで、リベカが神的真理であると答えると、教義は合理的な能力を超えるため、神的善を受け入れず、イサクを、いわば殺すことになります。

「諸真理は、善の流入を可能にするという目的のために、存在します。

善は、器がなく、受け皿がなければ、行くべき所がありません。善にとっての相応しい状態が存在しないわけです。したがって、諸真理が存在しないところ、つまり受け皿がないところには、合理的善もないし、人間的善もなく、結局は、人にとっての霊的〈いのち〉もありえません。」(AC3387)

人に心から善かれと思って行ったことが、受け入れられなかったときの失望感も器がない状態と、少し似ているかもしれません。善の流入する器である真理がないときと同じように、その善はなくなってしまいます。

「ペリシテ人の王アビメレクが窓から見おろしていると、なんと、イサクがその妻のリベカを愛撫しているのが見え」(26:8)、リベカは妹ではなく、妻であることを知ります。

アビメレクが意味する「教義」を信奉する人の再生が進むと、真理の中に神性があるかどうかが見えてくるようになります。しかし、「神的真理が、再生すれば合理的真理となる」のは矛盾すると考えます。

 そこでアビメレクはすべての民に命じて言った。「この人と、この人の妻に触れる者は、必ず殺される。」(26:11)

これは、神的真理と神的善は開かれてならない、信仰によってでさえ近づくべきではないこと、冒涜によって、永遠の断罪を受ける危険にあります。・・善と真理の中に入り、それを承認し、そこから情愛を持つなら、それは永遠の断罪の危険を持ちます(AC3402)。

一度信じあるいは何らかの感情を持った後、あるいは真理を承認した後、そこから引き返しその中で生きてゆかないなら冒瀆となってしまいます。特にペリシテ人の場合、「認識の知識」だけで満足して、生活に活かさないので、きわめて深刻で、主は厳しく警告されています。しかし、真理は実行の過程でわかることがほとんどです。

理解できない真理は、善が流れ込まないので、意味がありません。そこで、主は神的真理自体をこの世で説くことをお控えになり、この世の人々の合理的能力の進化を待ち、その能力の進化に合わせようとなさいます。この世では高い真理は、誰にも理解できない!と。

以上が高い真理の外観に関して言われたもので、次に、やや低い真理の外観の話を説こうとお考えになります。

「それでペリシテ人は、イサクの父アブラハムの時代に、父のしもべたちが掘ったすべての井戸に土を満たしてこれをふさいだ。」(26:15)

ペリシテ人で意味される認識の知識優先の態度は、神性が宿る知識に理解することも、耐えることもできないので、それを塵芥で埋めて消し去ってしまいます。この塵芥とは自己愛と利得です(AC3413)。

「自己愛と利得への愛は、神よりの真理がわずかでも近づくのに我慢できません。むしろ真理を知り、その真理を熱情まがいの思いで宣べ伝えることで、栄誉を獲得し、誇り高ぶる可能性があります。・・あらゆる真理の泉としての〈みことば〉そのものは、このような地上的な愛で、邪魔されていきます。」(AC3413)

ペリシテ的態度は、別の方向に向かっていきます。

「イサクはそこを去って、ゲラルの谷間に天幕を張り、そこに住んだ。」(26:17)

主は、人々の資質に合わせて、諸真理を調整されます。弟子達に教えの表現を調整して受け入れやすいようにされます。ゲラルの低い谷間で天幕を張られたのは、この調整を意味します。

自分たちの偉大とか優越しか考えない弟子達に、「天界の喜びとは、偉大さや優越の喜びでなく、謙遜と、他人に仕える情愛の喜びであること、また偉大になることでなく、最小のものになることを望むこと」そして、「主に依存すればするほど、それだけ自力では何もできず、むしろ最小であると信じるようになる」ことを教えられます。

こうして、古代人のもとにあった真理でペリシテ人が塵と芥で埋めていったものを、主が開いてゆかれます(AC3418)。

仁愛とは、見返りを求めず隣人に仕えることであり、その隣人とは、普遍的にはすべての人を愛しながら、個々人では判別して愛してゆくこと。・・・

また仁愛とは自分のことを全く考えず、利己心を捨てること、善自体が隣人であること、最高の意味では主が隣人であること。・・・

新約聖書には、これらの教えが豊富に説かれています。仁愛の普遍的種類を示し、古代の真理を復活なさいます。

これが「イサクは、彼の父アブラハムの時代に掘ってあった井戸を、再び掘った。それらはペリシテ人がアブラハムの死後、ふさいでいたものである。イサクは、父がそれらにつけていた名と同じ名をそれらにつけた。」(26:18)で示されています。

低い種類の外観を持つ真理、より低いものを、私たちのレベルに合わせて、再び新しくされてゆきます。

旧約聖書で説かれた象徴的な知識は、主の口によって、よりわかりやすく、私たちの日々の生活に役立てるように調整されてゆきます。

しかし、知識だけにこだわり続け、自分の生活のもの、生命のものとしないペリシテ的態度は、徐々に人を硬く、変質させてしまいます。彼らは、主への愛と隣人への愛、そのものについて、口では肯定しながらも、心では否定し、反感さえ持つことが霊界で示されます。

加えて彼らは、事実さえ歪曲させて解釈するようになるといいます。

「生命の善の中におらず、教義事項にだけ留まっていれば、内部が閉ざされ、主から真理の光が注ぎ込まれず、事実を事実として、感じとることができなくなります。」(3427-4)

教義だけに集中してしまい、生活に役立てないなら、新約聖書に現れて主を否定しようとするパリサイ人や聖書学者と、さらに現代の新教会に関係する様々な人達も、同じように、真理の光が届かなくなります。

生活の中で主を見上げ、戒めを守る体験を重ねて、日々新鮮な本物の生命に気づかなければ、私たちにも真理の光が遮られてしまいます。頭が硬くなってしまわないよう、日々御言葉に触れ、そこから新たな生命をくみ出さなければなりません。日々新たな発見を続けます。立ち止まると、頭も心も硬くなってしまいます。

ゲラルの羊飼いとイサクの羊飼いは、互いに井戸を発見して名をつけてゆきます。ゲラルの羊飼いが本来の意味、内的意味を否定したものが、争いを意味する「エセク」(26:20)と、さらに争いが激しく反論のあったことを意味する「シテナ」(26:21)、さらに字義通りの意味であるため、争いがなかった「レホボテ」(26:22)です。

すべての人に、正しく教えることは簡単ではありません。必す争いや反論が生まれます。

誓いの場所である、ベエルシェバで、主が再びイサクに現れ祝福され、祭壇を築き、ここでも井戸を堀ります。

「人は、その神人性を通して救われます。人が精神の目で、主の神人性を直視して礼拝し、こうして神性に近づくことができるよう、主が人間性を神性に一致合体なさいました。しかしもし、この一体化が行われなかったら、救いはなかったでしょう。人が父と言われる神性そのものに結ばれるには、子である神人性を通さなくてはなりません。これは主を通してなされます。」(AC3441)

これは明らかに、主が最後の十字架上の試練を耐えて、栄化された後の話が旧約聖書で描かれています。

しかし、旧約聖書であろうと新約聖書であろうと、さらに新教会であろうと、教義は変わりません。

それは一つだけ、「隣人への仁愛と、主への愛を説く」教義です。世界の言葉は数多くあり、表現はその言語に応じて変化しますが、教義はただ一つです。

御言葉のすべてには主が存在されていますが、教義はこの仁愛の教義ただ一つです。信仰や教義のための教義などありません。

私たちは洗礼の場での誓いを思い出して御言葉に向かい、生活の場で活かすことを心がけるなら、いつも新鮮な気持、聖霊による啓示があたえられます。

この一つの教義を戒めにすると二つの戒めとなりますが、同じことを言っています。

「『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』

これがたいせつな第一の戒めです。

『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』という第二の戒めも、それと同じようにたいせつです。

律法全体と預言者とが、この二つの戒めにかかっているのです。」

「あなたの神である主」とは、栄化されて天地唯一、宇宙唯一の神となられた、イエス・キリストお一人です。

アーメン

創世記 新改訳

26:1 さて、アブラハムの時代にあった先の飢饉とは別に、この国にまた飢饉が起こった。それでイサクは、ゲラルのペリシテ人の王アビメレクのもとへ行った。

26:2 【主】はイサクに現れて言われた。「エジプトへは下ってはならない。わたしがあなたに告げる地に住みなさい。

26:3 あなたはこの地に寄留しなさい。・・・

26:6 こうしてイサクはゲラルに住んでいたが、

26:7 その土地の人々が彼の妻のことを尋ねた。すると彼は「あれは私の妹です」と答えた。この土地の人々がリベカのことで自分を殺しはしないかと思って、「私の妻です」と言うのを恐れたのであった。彼女が美しかったからである。

26:8 イサクは長くそこに滞在していた。ある日のこと、ペリシテ人の王アビメレクが窓から見下ろしていると、なんと、イサクがその妻リベカを愛撫しているのが見えた。

26:9 アビメレクは、イサクを呼び寄せて言った。「本当のところ、あの女はあなたの妻ではないか。なぜ、あなたは『あれは私の妹です』と言ったのか。」イサクは「彼女のことで殺されはしないかと思ったからです」と答えた。

26:10 アビメレクは言った。「何ということをしてくれたのか。もう少しで、民の一人があなたの妻と寝て、あなたはわれわれに罪責をもたらすところだった。」

26:11 そこでアビメレクは、すべての民に命じて言った。「この人と、この人の妻に触れる者は、必ず殺される。」

・・

26:15 それでペリシテ人は、イサクの父アブラハムの時代に父のしもべたちが掘った井戸を、すべてふさいで土で満たした。

26:16 アビメレクはイサクに言った。「さあ、われわれのところから出て行ってほしい。われわれより、はるかに強くなったから。」

26:17 イサクはそこを去り、ゲラルの谷間に天幕を張って、そこに住んだ。

ルカ福音書 新改訳

22:24 また、彼らの間には、この中でだれが一番偉いだろうかという論議も起こった。

22:25 すると、イエスは彼らに言われた。「異邦人の王たちは人々を支配し、また人々の上に権威を持つ者は守護者と呼ばれています。

22:26 だが、あなたがたは、それではいけません。あなたがたの間で一番偉い人は一番年の若い者のようになりなさい。また、治める人は仕える人のようでありなさい。

22:27 食卓に着く人と給仕する者と、どちらが偉いでしょう。むろん、食卓に着く人でしょう。しかしわたしは、あなたがたのうちにあって給仕する者のようにしています。

22:28 けれども、あなたがたこそ、わたしのさまざまの試練の時にも、わたしについて来てくれた人たちです。

22:29 わたしの父がわたしに王権を与えてくださったように、わたしもあなたがたに王権を与えます。

22:30 それであなたがたは、わたしの国でわたしの食卓に着いて食事をし、王座に着いて、イスラエルの十二の部族をさばくのです。

22:31 シモン、シモン。見なさい。サタンが、あなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って聞き届けられました。

22:32 しかし、わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。だからあなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。

天界の秘義3454 アルカナ訳

内的意味の中軸は、〈みことば〉の聖性そのもの、主の神人性、それから主への愛・隣人への愛です。以上の三つは、内的意味の中軸であるとともに、〈みことば〉の聖性です。また以上の三つは、〈みことば〉に由来するあらゆる教義事項の内部にある聖なるものであり、あらゆる信心の内部にある聖なるものです。なぜなら、主のみ国そのものは、以上の中に存在するからです。

 第四番目は、〈みことば〉の個々全体、むしろ一点一画まで神的で、主がその〈みことば〉の中におられることです。

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「悪い、姦淫の時代はしるしを求めます。しかし、ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられません。」マタイ16:4

ヨナ書は旧約聖書の十二預言者と呼ばれる書の一つで、ヘブル人であるヨナが書いたと言われる四章の短い書です。
最初、ヨナが主から命じられたのは、「悪から立ち返らなければ、ニネベの町は滅びる」これをニネベの人に伝えることでした。ヨナは、預言の任務を拒み、ニネベとは全く逆の方向に舟で進みます。しかし嵐にあい、船員たちは嵐の責任はヨナにあると、荒れる海にヨナを投げ込みます。主は大きな魚を備え、ヨナは三日三晩、魚の腹にいることになります。ヨナは魚の腹の中で反省し、預言者の任務を果たすことを誓ったため、陸地に吐き出されます。その後ニネベで主の預言を告げ、ニネベの町は深く反省し、主に立ち返ります、そのためニネベは罰されませんでした。

ところがヨナは、自分の預言どおりにならなかったため、「死んだほうがましだ」と腹を立てます。最初は拒んでおきながら、きわめて身勝手な感情です。そして、ニネベの町を出て、主が自分の願いどおりに動くかを観察します。主を試すとは、信じられない仕業です。後に、マタイ書に出てくるパリサイ人やサドカイ人が印をみせよと迫るのと同じです。
観察する間、熱い日光が照りつけます。主は「トウゴマ」の葉を植え、木陰を備えられます。ヨナは熱い日光を遮った葉にはありがたく感じます。ところが、葉は虫のため一夜にして枯れてしまいました。するとヨナは葉が枯れてしまったことに、再び「死んだほうがまし」と主に文句を言います。主は、ニネベの町が立ち返って救われたことと、トウゴマの葉のどちらが大切かを問い、この書は終わります。

天界の教えは、ヨナの態度は、当時のユダヤ人を表していることを教えます。ニネベが救われたように、主はガリラヤ湖の周辺で、無数の奇蹟を働かれます。病人と身障者を救い、さらに、五つのパンで五千人を養い、七つのパンで四千人を養います。これだけ確かな証を、見聞きしたはずのパリサイ人とサドカイ人は、さらに印を見せよ、言います。これは、主を訴えるための言質をとろうとしているだけです。自分の立場を守ろうとするヨナの態度です。

「悪い、姦淫の時代」は、パリサイ人とサドカイ人を意味します。「ヨナ」は、御言葉を持つユダヤ人を意味するからです。ヨナはニネベの人が救われたことを歓ばず、自分の身を守ったトウゴマの葉が枯れたことに不平を言います。ヨナへの印とは、自分達だけの救い・都合や、繁栄しか考えない人々への警告です (AE401-36参照) 。 彼らは、すべての人間を救おうとする、主の無限の愛には全く気づかず、自分の身にふるかかる仔細なことに不平をいうだけです。

自分だけの利害を感じ、他の人の救いを歓ばないなら、「ヨナへの印」と同じ警告が与えられます。それはたとえ、「新教会」に属していると主張しても同じ事です。自分だけの救いだけを歓び、他の人々の救いに全く関心を示さないなら、霊的には同じことです。主は、パンの奇蹟を引き合いに出されますが、弟子達も気づきません。

「わたしの言ったのは、パンのことなどではないことが、どうしてあなたがたには、わからないのですか。」
主が弟子達に引き合いに出された、パンの残り分の話は、物質的なパンを産み出す奇蹟ではありません。
残ったパン籠の数字の「十二」が意味する「すべて」の教えと、「七」が意味する「聖なる」愛のことを言っています。この教えと愛は、私たちにどれくらい残っているかを問われています。これらの教えが残っていない、あるは身についていないならば、それには理由があるはずです。主はここでさらに警告されます。
「パリサイ人やサドカイ人たちのパン種」に気をつけなさい。(16:11)

パリサイ人とは、内的のもののない、外的なものだけに留まっていることです(AE746-17)。
そしてサドカイ人は、復活を信じません(マタイ22:23)。彼らのパン種とは、彼らの「偽りの教え」(AC706)のことです。
この世だけがすべてであると考え、そしてこの世の価値だけが大切であると教えれば、すべては「偽りの教え」になります。物質的な損得勘定に終始し、大切なのは自分だけと考えてしまいます。
パリサイ人とサドカイ人は「来世や霊界などない・・だからこの世で自分の欲望を満足させなければ意味が無い」と教えます。この偽りの教えは、パン種のように、どんどん膨らんで行きます。

例えば「出世がすべてだ、この世で受け入れられることがすべてた。富と栄誉はこの世からだけ来る。それ以外のこと、他人や隣人や社会のことなどかまっていれば、自分は損をするだけだ・・・・。」
パン種がパンを膨らませるように、偽りと妄想はどんどん膨らんでゆきます。

「自分は善をおこなっている、そのため回りは自分を賞賛すべきだ」・・と妄想はさらに膨らみ続けます。
主が警告されているのは、主から与えられ、自分に残っている真理と、愛を大切にしなければ、妄想は膨らみ続ける、ということです。
自分は真理を知っていると考える人ほど、自分はすべてを知っているという妄想が膨らみます。しかし、自分ではなく、隣人と主を大切にするという主の教えを実行しているなら、謙虚に自分をふり返ることができ、この妄想は止まります!やってみてください。

主と弟子達は、ガリラヤ湖周辺のマグダラから北上し、ヘルモン山の麓にある、ピリポ・カイザリヤ地方に進まれます。新約聖書で記録されている中では、ほとんど北限に近い地です。御言葉の「北」は、曖昧な状態の真理を意味します。
そこで主は、弟子たちに「人々は人の子をだれだと言っていますか。」とお尋ねになります。
弟子達は様々な預言者の名を上げ、「人はこう言っています」、と回答をします。
しかしこの回答に、主は「あなたがたは、・・・わたしをだれだと言いますか。」と重ねて問われます。

私たちがこれを問われたら、どう応えますか?・・・
人が言っている、親が言っている。高名な哲学者や、聖なる書の翻訳者・宗教者である誰々さんがこう言っている。しかし、人の言葉を借りるなら、弟子達と変わりません。
「あなたは。どう思うか」と主が問われています。あなたは、聖書に出てくるイエス・キリストは誰だと思いますか?あなたは、神とは誰だと思いますか?私たちそれぞれに、こう問われています。
自分の潜在意識の奥底に、深くあるものを探し出してください。そして、これを考え、答えを出すことは非常に大切です。来世での自分の場所が定まるからです。

新教会の洗礼で、「あなたは主イエス・キリストが、天地ただ一人の神であると認めますか?」と問われ、式文どおりに進めるなら、「はい認めます」と応えます。しかし私たちは、パリサイ人やサドカイ人のように、外面や強制から回答するのでなく、それぞれの内面の認識を回答しなければなりません。これは簡単ではなく、気分や本人のおかれる状況によっても変わります。この世で逆境にあれば変わります。そのため自分に深く問わなければなりません。

ペテロは他の弟子が黙る中で、こう応えました。「あなたは、生ける神の御子キリストです。」
新教会の洗礼は、「天地ただ一人の神」であると応えますが、ペテロは「生ける神の御子」そしてキリストであると応えます。もちろんこのときは、まだ最後の試練によって主は栄化されておられない、すなわち天地の唯一の神となられておられません。ペテロのこの時の回答は、彼の血筋からすると正しい回答です。

「バルヨナ・シモン。あなたは幸いです。このことをあなたに明らかに示したのは人間ではなく、天にいますわたしの父です。」(16:17)
バルヨナとは、ヨナの子という意味です。このヨナも、ヨナ書のヨナもギリシア語原書(正確にはアラム語)では同じ綴りです。他の聖書の訳(KJV)では、「肉と血はこれをあなたに明かさなかったが、天の父は明かした」とあります。(SE820等) これはペテロにとっては、まことに天の啓示です。当時のユダヤ人の血肉では、遺伝体質では、この認識はできません。

天の父と同じ方である主からの言葉は続きます。
「ではわたしもあなたに言います。あなたはペテロ(岩)です。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます。ハデスの門もそれには打ち勝てません。」
この岩とは、真理を意味します。ペテロという個人ではありません。少々の地殻変動などには、まったく揺るがない、岩のような真理とは、主イエスが「生ける神の御子キリスト」であることです。
主の十字架の試練後に栄化された後は、「天地ただ一人の神」であるイエス・キリストです。
この認識と告白は、すべてに先んじます。なぜなら主イエスからでなければ、誰でも悪を避け、本物の善を行うことができないからです。

一番大切なことは、何にも勝って、主イエスを愛することです。神がどなたかを知ることは、愛するための第一歩です。知らないものは愛せません。そして神とはどんなお方であるかを、漠然とした概念でとどめておいてはなりません。私たちと同じような身体を持ち、ご自分の生まれ故郷や、霊的な故郷であるエルサレムからの冷たい仕打ちを経験された方です。誰一人も助けようとはしない絶望感を味わった方、と知らなければなりません。

この認識はまさに、「天の御国」に入る鍵です。この鍵がなければ天界に入れません。主の身体は天界です。主を拒めば、当然、天界は私たちを拒みます。
これは、パリサイ人やサドカイ人に与えることのできない印です。彼らはこの認識を、拒んで受けないからです。

「何でもあなたが地上でつなぐなら、それは天においてもつながれており、あなたが地上で解くなら、それは天においても解かれています。(16:19)」 
これは特定の聖職者や人物、そして教会を意味しません。
認識は認識したものを存在させ、さらに愛で結びます。主と愛で結ばれるなら、天界にも結ばれ、地上で主を拒むなら、結びつきは解かれます。日常の多忙の中で、私たちに愛を与えてくれる存在を忘れてしまうなら、結びつきは解かれます。結びつきを思い出すなら、愛の源である主から愛をいただき、回りの隣人にその愛を分かち合うこともできます。これは概念ではありません。行えばわかります。行わなければ決してわかりません。

これは私たちのそれぞれが、行う事で強い確信にまで高めなければなりません。行動と確信ですから、人から知識として教わることはできません。そのため主は、「ご自分がキリストであることをだれにも言ってはならない」、と念を押されます。人の意見に左右されるなら、自分の信念は揺らぎます。自分の子であれ、親兄弟であれ、友人であれ、認識が育つのを温かく見守ります。

本当に純粋な真理を自分のものとするには、試練が必要です。試練を受けない内は、真理は自分のものとなりません。「私たちを試みに合わせないで、悪からお救い下さい」と主の祈りにありますが、試みに合わせるのは、自分自身の内にある悪と偽りです。主ではありません。そして主は絶えず、悪から救おうと働かれています。主の守りが一瞬でもなければ、私たちはたちまち一直線に最悪の地獄に向かいます。

試練は避けることができません。私たちの内に悪と偽りがある限り、私たちに合わない、善と真理は受け入れることができません。
そのため主は、私たちの為に試練を表す十字架をかついでついてついてくるよう、励まされます。
もし私たちが試練に臆するなら、私たちは永遠に再生できません。主の教えを否定するすべてについて、私たちは自分自身にこう言わなければなりません。
「下がれ。サタン。あなたはわたしの邪魔をするものだ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」
試練を耐え抜き、今までの自分を捨てることができれば、主からの善と真理を受け入れることができます。
 「いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者は、それを見いだす」(16:25)
アーメン。

ヨナ書
4:5 ヨナは都から出て、都の東の方に座った。そしてそこに自分で仮小屋を作り、都の中で何が起こるかを見極めようと、その陰のところに座った。
4:6 神である【主】は一本の唐胡麻を備えて、ヨナの上をおおうように生えさせ、それを彼の頭の上の陰にして、ヨナの不機嫌を直そうとされた。ヨナはこの唐胡麻を非常に喜んだ。
4:7 しかし翌日の夜明けに、神は一匹の虫を備えられた。虫がその唐胡麻をかんだので、唐胡麻は枯れた。
4:8 太陽が昇ったとき、神は焼けつくような東風を備えられた。太陽がヨナの頭に照りつけたので、彼は弱り果て、自分の死を願って言った。「私は生きているより死んだほうがましだ。」
4:9 すると神はヨナに言われた。「この唐胡麻のために、あなたは当然であるかのように怒るのか。」ヨナは言った。「私が死ぬほど怒るのは当然のことです。」
4:10 【主】は言われた。「あなたは、自分で労さず、育てもせず、一夜で生えて一夜で滅びたこの唐胡麻を惜しんでいる。
4:11 ましてわたしは、この大きな都ニネベを惜しまないでいられるだろうか。そこには、右も左も分からない十二万人以上の人間と、数多くの家畜がいるではないか。」

マタイ福音書
16:1 パリサイ人たちやサドカイ人たちが、イエスを試そうと近づいて来て、天からのしるしを見せてほしいと求めた。
16:2 イエスは彼らに答えられた。「夕方になると、あなたがたは『夕焼けだから晴れる』と言い、
16:3 朝には『朝焼けでどんよりしているから、今日は荒れ模様だ』と言います。空模様を見分けることを知っていながら、時のしるしを見分けることはできないのですか。
16:4 悪い、姦淫の時代はしるしを求めます。しかし、ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられません。」こうしてイエスは彼らを残して去って行かれた。・・・・・・・
16:13 さて、ピリポ・カイサリアの地方に行かれたとき、イエスは弟子たちに「人々は人の子をだれだと言っていますか」とお尋ねになった。
16:14 彼らは言った。「バプテスマのヨハネだと言う人たちも、エリヤだと言う人たちもいます。またほかの人たちはエレミヤだとか、預言者の一人だとか言っています。」
16:15 イエスは彼らに言われた。「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」
16:16 シモン・ペテロが答えた。「あなたは生ける神の子キリストです。」
16:17 すると、イエスは彼に答えられた。「バルヨナ・シモン、あなたは幸いです。このことをあなたに明らかにしたのは血肉ではなく、天におられるわたしの父です。
16:18 そこで、わたしもあなたに言います。あなたはペテロです。わたしはこの岩の上に、わたしの教会を建てます。よみの門もそれに打ち勝つことはできません。
16:19 わたしはあなたに天の御国の鍵を与えます。あなたが地上でつなぐことは天においてもつながれ、あなたが地上で解くことは天においても解かれます。」

AC4368 (アルカナ訳)
③ 次のような例をあげて説明します。純粋な仁愛の善のうちにいて、主がペテロに向かって言われた言葉を読むと、どうでしょう。
「わたしもあなたに言う。あなたはペテロである。わたしは、この岩の上にわたしの教会を建てる。地獄の門がそれに打ち勝つことはない。わたしは、あなたに天界の王国の鍵を授ける。あなたが地上で解くことは、諸天界でも解かれる、と」(マタイ16・15-19)。
純粋な仁愛の善に根ざして、真理の情愛のうちにいる人は、以上の言葉が何を意味しているか、教わりたいと思います。その上に「教会が建てられる」ための「岩」が、愛に属する信仰を意味し、その結果、「ペテロ」とは、そのような人だと聞きます。こうして、天界を開いたり閉じたりする鍵が、その信仰に与えられています(創世記第22章の序参照)。
そう聞いて、かれらはその真理を歓迎し、感化されます。なぜなら信仰の源は主おひとりであり、その権限は主にあるからです。ところが、純粋な仁愛の善に根ざす真理の情愛のうちにおらず、別種の善に根ざす真理への情愛のうちにいる人、しかもそれが、自己愛と世間愛に根ざしていれば、当該の真理に感化されることはありません。むしろ立腹せんばかりに悲しみます。
なぜなら祭司職にこそ、その権限があることを要求しているからです。立腹するのは、支配権が失われるからであり、悲しむのは、人々が服従しなくなるからです。