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Matthew 24 「目をさましていなさい。」
それゆえ、預言者ダニエルによって語られたあの『荒らす忌まわしいもの』が聖なる所に立っているのを見たら──読者はよく理解せよ(マタイ24:15)
ダニエル書に「荒らす忌まわしいもの」の表現は三箇所出てきます(9:27.11:31.12:11)。しかし具体的に何を意味しているかは書かれていません。歴史的には、シリア王(アンティオコス4世エピファネス)がエルサレム神殿にゼウス像を設けた時(BC168)、あるいはローマ軍が神殿を破壊(AD70)したとき、と考えられています。
天界の教えは、ヤコブの子孫による表象的教会の終わりと、次のキリスト教会の始まりが意味されていると教えます(AC4333)。この世の終末ではなく、教会自体の審判の時です。教会が善と真理を教えるところという本来の意味があるかどうか、天使ではなく、主ご自身が審判し、旧い教会が終わり、新しい教会が必要と判断されたときです。天界の教えには、これに引き続き、キリスト教会の終わりと新教会の始まりが、黙示録に第四の審判として描かれています。
しかし内的には、「荒らす忌まわしいもの」とは、主が承認されず、主への愛がなく、信仰もなくなったときのことと述べています。同時に隣人への仁愛も、そして善と真であることへの信仰も無くなります(AC3652)。心がこのような状態になったときが、「荒廃」です。「荒野」です。私達も教会が終わりの時を迎えてないか、自分と、自分の教会に絶えず注意を払わなければなりません。「目をさましていな」ければなりません。(24:42)
マタイ福音書の警告は、教会の終焉の判断で、主のみが行われますが、同じように禁じられている隣人の霊的判断以外なら、私達自身への教会が続いているかどうか、絶えず「目を覚ましている」ことが主のご命令です。
クリスマスの中に主の意味と感謝が残っているかも、その判断の一つです。日本のクリスマスでは、イエス・キリストの降誕を祝うのではなく、誕生日を祝う、あるいはサンタクロースを待ち望む、恋人と過ごす夜というとんでもない誤解がまん延しています。また祝う必要も無いものだとさえ言う人もいらっしゃいます。礼拝も祝会への参加も自分の勝手だ、すなわち自由だと!主への礼拝は十戒での義務のはずです。
そうすると、これらの誤解は、感染症のまん延以上に忌まわしいと考えられるかもしれません。
また最も新しいと言われる新教会でも、祭壇の前に立ち、公然と、あるいは隠れて、隣人を根拠なく非難する人も出てきて、荒らす忌まわしいもののように振る舞います。そこには隣人への愛、尊敬などみえません。残念ながら、日本でも海外でも、そういう事態は繰り返されています。マタイ24章には、新教会の誕生の預言だけではなく、そのような場合の警告と対処方法が描かれています。
「荒らす忌まわしいもの」が聖なるとことに立つのを見たら、ユダヤに居る人は山へ、屋上にいる者は家の中のものを持ち出すため下に降りるな、畑にいる者は着物を取りに戻るな、と三種類の警告がされています。
ユダヤにいる者は山に向かえは、天的な状態にいる人は、愛を忘れず愛だけを頼りにしなさい(AC795:4)、ということですが、天的状態にいる人は極めて少ないと思われます。
屋上にいるとは、善にいる者を意味する、霊的な状態です。それらの者は、下に戻るな、すなわち、前の状態に戻るな(AC 10184:2)ということを警告されてます。霊的な成長においては、非常に高い霊性を持ち、善を持ち霊的状態に至った人は、その前の合理的状態や、自然的な状態に戻るべきではないとされています。霊的に成長し、高い霊性に至れたのに、自然的な状態から判断することは進歩ではなく、退歩です。周りを自然的な状態や人、さらに低い悪と偽りの状態に巻き込まれてもなりません。そんな状態との接触を避け、高い霊性を保ち続けます。
畑にいる人とは、真理の情愛の内にある人(AC3653)のことです。着物を取りに戻るな、とは自分で造り上げた真理らしきものにこだわっていてはなりません。自分勝手に真理を組み立て、真理に似たものを造り上げて、こだわるなら、それは都合の良いときだけ利用する偶像のようです。与えられてる真理だけに忠実に従い、生きてゆきます。
「だがその日、哀れなのは身重の女と乳飲み子を持つ女です。ただ、あなたがたの逃げるのが、冬や安息日にならぬよう祈りなさい。」
身重の女とは天的善を妊娠している状態で、乳飲み子を持つとは無垢を持つことです。
冬の状態とは、愛と無垢から離れることであり、さらに安息日に逃げるとは、宗教的に熱い状態となることです。両方共に愛と無垢の状態から離れることです。外見だけ礼拝を行い、熱く見せる状態は、自己愛だけが燃えあがった状態で、本物の愛と無垢ではありません(AC3755)。
真の愛と無垢は、私達が目指すべきものです。愛と無垢が少なくなれば、偽りと悪が強くなり、私達の内の教会は危機を迎えます。愛と無垢がなくなれば、当然主と隣人への愛もなくなります。
そして、愛と無垢の減少は、内だけではなく外の試練も招きます。
「いまだかつて無かったような苦難がある」とは、内外の試練に見舞われることを言います(AC 1846:5)。
これは「にせキリスト、にせ預言者たちが現れて、できれば選民をも惑わそうとして、」ますます混乱を深めます。
「にせキリスト、にせ預言者たち」とは神的ではない真理、あるいは偽りを教える者のこと(AC3010)をいいます。真理に偽りを混ぜ込んで教え込むなら、人は簡単に欺かれてしまいます。その偽りとは、自分勝手な解釈も含まれます。
愛と無垢が失われ、さらに偽りが混ざることで真理が奪われると「死体のある所には、はげたかが集まります。」
人が遺伝悪を自分のものとして同化して、悪い雰囲気を身につけるようになると、それまで近づくことを許されなかった悪霊は、力を注ぎ支配することができるようになります(AC1667:4)。悪霊に支配されるようになると悪のスフィアを身に纏います。すると、そこから自力で抜け出すことは難しくなります。敏感な人、特に善人には一目瞭然でこのスフィアを嗅ぎ取ることが可能な人がおられますが、自分自身が悪霊に染まってしまうと、気づくことさえできません。真剣な自己点検が必要になります。
苦難の後、「太陽は暗くなり、月は光を放たず、星は天から落ち、天の万象は揺り動かされます。」愛と信仰と真理はすべて失われ、絶望に追い込まれるとこがあります。真理に出会ったと信じ、従ってきた新教会にも、偽りとデマと偽基督・偽預言者がそれぞれ勝手な解釈で惑わせようとします。デマが広がり、あっという間に何も信じる事ができなくなり、疑心暗鬼に囲まれ、人も集まらなくなります。教会の最後の瞬間です。
しかし主が私達を見捨てることはありません。
「そのとき、人の子のしるしが天に現れます。すると、地上のあらゆる種族は、悲しみながら、人の子が大能と輝かしい栄光を帯びて天の雲に乗って来るのを見るのです。」(24:30)
人の子のしるしが天に現れるとは、もちろん主が天に現れるというわけではありません。「人の子」とは神的真理のことです。天の雲とは、聖書の字義、文字上の意味のことです。洗礼の水などのように、よく水で真理が意味されますが、その水が蒸発して雲になります。そして太陽の光が直接人に入って、目を盲目にするよりも、人の視力に合わせて光を見せるように、人の理解に応じて、主の愛と知恵を伝えます。
栄光とは、御言葉の霊的意味です。私達が聖書を読んで、文字上の意味を学んでも、実は霊的意味がそこに溢れているはずですが、人の理解の力に応じて調整されて与えられます。旧教会の人で、聖書の文字を超えて霊的意義があると知ると、拒否反応を示す人がいます。
それは、主がまだ与えられていないので受け取ることができないからです。あるいは知って行おうとしないので、その人達が冒瀆しないためです。主がお与えにならないものを、私達が与えるのは、十戒の霊的意義で禁じられています。主の真理を盗み、人から霊的生命を奪うからです。霊的知識が十分であるように見えても、上辺だけの知識だけなら、意味がありません。そのような人が真剣に内的意義を求めようとするまで、私達は慎重に努めます。霊的知識が与えられ、実行する人は、主の力を見ることになります。知識だけを伝えるのではなく、親が子の手本となるよう、行動で示して教えます。主の栄光と力を「悲しみながら」見るのではなく、自分が手本になって伝えます。
しかし、時は、「人の子が戸口まで近づいていると知りなさい。」(24:23)「ただし、その日、その時がいつであるかは、だれも知りません。天の御使いたちも子も知りません。ただ父だけが知っておられます。」(24:36)
主の審判は、主が永遠の時と父である無限の愛から判断され、行われます。天使でさえ、その内容と時を知ることはありません。主はその人や教会が立ち直るよう、無限の愛と慈悲から、扉が開かれるのをお待ちになっておられます。悪と偽りを避けることをお待ちになっておられます。
そのため、私達が外の基準だけではなく、内心の基準から判断することは、禁じられています。内心に立ち入って判断すれば、その人の霊的生命を奪ってしまう可能性があるからです。
しかし人の心は外に現れます。「いちじくの木から、たとえを学びなさい。枝が柔らかになって、葉が出て来ると、夏の近いことがわかります。」(24:32)内部を判断しなくても、外部から見ることはできます。
そして結果的に「畑にふたりいると、ひとりは取られ、ひとりは残されます。ふたりの女が臼をひいていると、ひとりは取られ、ひとりは残されます。」(24:40,41)
畑は信仰の教義の真贋双方のことで(AC 368)、「臼をひく」とは、御言葉から真理を選んで善に役立てるか、あるいは悪に役立てるか(AC 9995:8,AE555:11)です。それぞれの愛の行方は、私達に任されています。無花果の木が実をつけるかどうかの責任は、私達それぞれにあります。
「だから、目をさましていなさい。あなたがたは、自分の主がいつ来られるか、知らないからです。・・・だから、あなたがたも用心していなさい。なぜなら、人の子は、思いがけない時に来るのですから。」(24:42,44)
私たちの行動は、最後は私たちに任されています。主はできるだけ私達の自由を奪わず、教え導かれようとはされますが、私達の持つ愛をコントロールして意のままにしようとはお考えになってはいません。チャンスを与え、最後の瞬間まで導こうとはされますが、私達が偽りと悪を選んでも私達を切り捨てたりはしません。善であれ、悪であれ、永遠に最低の生命は与え続けられます。生命とは知り、考え、それを愛し行うことです。
全人類を愛されるため、隣人から殺し、奪い、盗み続ける者は、別のグループに分けられます。相互に愛し、仕えたい、役立ちたいと願う者を同じグループとされます。そして、その愛に応じて、詳しく分けて行かれます。主を愛するか、憎むかによって大きな二つに分けられて、さらに愛に応じた分類をされてゆかれます。どちらを選ぶか、それは私達ですが、私達は家の主人ではありません。主人は主ご自身です。
家とは、私達の心です。「食事時には彼らに食事をきちんと与えるような忠実な賢いしもべ」(24:45)となるか、「仲間を打ちたたき、酒飲みたちと飲んだり食べたりし始めている」(24:49)僕となるか、どうかは、私達にまかされていますが、主は時が来ると、必ず帰って来られます。私達は家を預かり、管理する僕にしか過ぎません。管理が悪く、欲望のままに生きてゆくと、帰って来た主人に、厳しく罰されます。しかし、主の御心に従った管理をするなら、主人の「全財産を任せるようになります。」(24:47)主人が帰って来たときに、そのようにしているのを見られるしもべは幸いです。24:46
私達はいつも目を覚まして、自分の状態を見守っていなければなりません。
見守るべきは私達自身の心と教会です。
「目をさましていなさい。あなたがたは、自分の主がいつ来られるか、知らないからです。」24:42
アーメン
(新改訳聖書)
ダニエル
12:9 彼は言った。「ダニエルよ、行け。このことばは終わりの時まで秘められ、封じられているからだ。
12:10 多くの者は身を清めて白くし、そうして錬られる。悪しき者どもは悪を行い、悪しき者どものだれも理解することがない。しかし、賢明な者たちは理解する。
12:11 常供のささげ物が取り払われ、荒らす忌まわしいものが据えられる時から、千二百九十日がある。
12:12 幸いなことよ。忍んで待ち、千三百三十五日に達する者は。
12:13 あなたは終わりまで歩み、休みに入れ。あなたは時の終わりに、あなたの割り当ての地に立つ。」
マタイ福音書
24:30 そのとき、人の子のしるしが天に現れます。そのとき、地のすべての部族は胸をたたいて悲しみ、人の子が天の雲のうちに、偉大な力と栄光とともに来るのを見るのです。
24:31 人の子は大きなラッパの響きとともに御使いたちを遣わします。すると御使いたちは、天の果てから果てまで四方から、人の子が選んだ者たちを集めます。
24:32 いちじくの木から教訓を学びなさい。枝が柔らかになって葉が出て来ると、夏が近いことが分かります。
24:33 同じように、これらのことをすべて見たら、あなたがたは人の子が戸口まで近づいていることを知りなさい。
24:34 まことに、あなたがたに言います。これらのことがすべて起こるまでは、この時代が過ぎ去ることは決してありません。
24:35 天地は消え去ります。しかし、わたしのことばは決して消え去ることがありません。
24:36 ただし、その日、その時がいつなのかは、だれも知りません。天の御使いたちも子も知りません。ただ父だけが知っておられます。
24:37 人の子の到来はノアの日と同じように実現するのです。
24:38 洪水前の日々にはノアが箱舟に入るその日まで、人々は食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしていました。
24:39 洪水が来て、すべての人をさらってしまうまで、彼らには分かりませんでした。人の子の到来もそのように実現するのです。
24:40 そのとき、男が二人畑にいると一人は取られ、一人は残されます。
24:41 女が二人臼をひいていると一人は取られ、一人は残されます。
24:42 ですから、目を覚ましていなさい。あなたがたの主が来られるのがいつの日なのか、あなたがたは知らないのですから。
24:43 次のことは知っておきなさい。泥棒が夜の何時に来るかを知っていたら、家の主人は目を覚ましているでしょうし、自分の家に穴を開けられることはないでしょう。
24:44 ですから、あなたがたも用心していなさい。人の子は思いがけない時に来るのです。
24:45 ですから、主人によってその家のしもべたちの上に任命され、食事時に彼らに食事を与える、忠実で賢いしもべとはいったいだれでしょう。
24:46 主人が帰って来たときに、そのようにしているのを見てもらえるしもべは幸いです。
24:47 まことに、あなたがたに言います。主人はその人に自分の全財産を任せるようになります。
24:48 しかし彼が悪いしもべで、『主人の帰りは遅くなる』と心の中で思い、
24:49 仲間のしもべたちをたたき始め、酒飲みたちと食べたり飲んだりしているなら、
24:50 そのしもべの主人は、予期していない日、思いがけない時に帰って来て、
24:51 彼を厳しく罰し、偽善者たちと同じ報いを与えます。しもべはそこで泣いて歯ぎしりするのです。
天界の秘義 アルカナ訳
- 「その日には、妊娠した女と乳飲み子をもつ女は、わざわいである」とは、主への〈愛の善〉と〈純真無垢の善〉が染みとおっている人々を指します。「わざわいである」とは、永遠の断罪を受ける危険があることを示す定式です。「妊娠している」とは、天的愛の善をはらんでいることであり、「乳を飲ませる」とは、これもまた純真無垢の状態を指します。「その日」とは、当時の教会にある状態です。
② 「あなた方の逃げるのが、冬あるいは安息日にならないよう祈りなさい」とは、以上の状態から遠ざかることを指します。あまりに寒い状態とか、あまりに暑い状態で、あわてて事が運ばれないようにとの意味です。「逃げる」とは、〈愛および純真無垢の善〉の状態から遠ざかることで、前述のとおりです。「冬に逃げる」とは、あまりにも寒い状態にあり、それから遠ざかることです。冬とは、〈愛および純真無垢の善〉に敵対するときのことで、これは自己愛から導き出されます。「安息日に逃げる」とは、あまりにも暑い状態にあって、〈愛および純真無垢の善〉から遠ざかることです。「暑さ」は、内部に自己愛と世間愛がある場合の外部的聖性を指します。
③ 「その時、世の初めから現在まで、かつてなく、これからもないほど大きな患難が起る」とは、善と真理の面での教会の倒錯と荒廃が最高度になることで、冒涜を指します。なぜなら、聖なるものを冒涜することは、永遠の死をもたらすからです。それは悪であっても、それ以外の状態より、遥かに重大な死です。冒涜される善と真理が内的なものであればあるほど、それだけ重大な死になります。その内的なものとは、キリスト教会で啓示され、知られたもので、これが冒涜されます。「その時、世の初めから現在まで、かつてなく、これからもないほど大きな患難が起る」とは、そのことです。
④ 「その日々が縮められないなら、救われる肉はいない。しかし選ばれた人々のため、その日々は縮められる」とは、善と真理の〈いのち〉にある人が救われるようになるまで、教会出身の人々、準内部の善と真理に依存する人々が、準外部のほうに遠ざけられるという意味です。「日々が縮められる」とは、遠ざけられた状態を意味し、「救われる肉はない」とは、そうでなければ、だれも救われないという意味です。「選ばれた人々」とは、善と真理の〈いのち〉のうちにある人々を指します。
ラバンからの別離
ヤコブがラバンの態度を見ると、はたして、それは彼に対して以前のようではなかった。31:2兄の復讐を怖れて、カナンから来たヤコブは、母レベカの兄妹であるラバンの娘、レアとラケルを妻とします。さらに二人の女奴隷から、計十一人の息子と一人の娘を得ました。そこで、「ラケルがヨセフを産んで後、ヤコブはラバンに言った。「私を去らせ、私の故郷の地へ帰らせてください。(30:25)と願います。
しかし叔父のラバンは、さらに言った。「あなたの望む報酬を申し出てくれ。私はそれを払おう。」(30:28)
という名目で、ヤコブを働かせます。
これに対して、ヤコブは計略を持って望み、自分の群れを増やしてゆきます。
「それで、この人は大いに富み、多くの群れと、男女の奴隷、およびらくだと、ろばとを持つように」なりました(30:43)。
ラバンの息子達は、ヤコブの群れが増えたのを妬み、「ヤコブはわれわれの父の物をみな取った。父の物でこのすべての富をものにしたのだ」と言っているのを聞きました。(31:1)
冒頭の句のように、ヤコブはラバンの態度にも変化が生まれたのに気づきます。もはやラバンは叔父ではなく、「アラム人のラバン」(31:20)と、一族ではなく、ただの他人のようになっています。
ヤコブは叔父のラバンのために、「この二十年間、あなたの家で過ごしました。十四年間はあなたのふたりの娘たちのために、六年間はあなたの群れのために、あなたに仕えてきました。」(31:41)。
しかし、ラバンは、もはや叔父ではなく、今や単に財産に嫉妬し、恨む、ただの「アラム人」となりました。
「彼の子たち、妻たちをらくだに乗せ、また、すべての家畜と、彼が得たすべての財産、彼がパダン・アラムで自分自身のものとした家畜を追って、カナンの地にいる父イサクのところへ(31:18)向かいます。
「アラム人」である「ラバンにないしょにして、自分の逃げるのを彼に知らせず(31:20)、逃避行が始まります。
ここで内的意味上扱うテーマは、「ヤコブとその妻たち」が表象する〈善と真理〉が「ヤコブ」の示す善から、分離され(AC4061)、イサクが表象する神的合理性と結ばれることです(AC4108)。
親しかった肉親や友人の一方あるいはそれぞれが成長し、また相手を利用するだけの関係になり、嫉妬が芽生えたりして、もはや以前のような関係を維持することができなくなることはよく見かけます。
霊界においては、霊の集団の中で起こり、ある霊の変化が、まわりの霊のグループと一致しなくなれば、そのグループにはいられなくなります。人・霊の変化は霊の社会の変化に他なりません(AC4067)。
不一致があればそこには分離が起こります。それはマイナスの場合だけではなく、再生の進歩という場合にも起こります。再生中の霊あるいは人には、善霊と中間霊と悪霊がいます。彼らを通して純粋な善と真理に導入されるためです。人が成長し、再生するためには必ず通らなければなりません。
善霊との別離は、自分の歓びの赴くまま、それぞれが気づかないうちに起こります。善霊はその導きは主によるものと考えているからです。
悪霊は善くないものを、反面教師として提供します。しかし悪いことを拒絶し続けると、お互いに不愉快が募り、自由の内に分離されるようになります。
そして善霊と悪霊の中間にいる中間霊では、歓びと不愉快が生まれ、楽しみと不愉快さが交互にやってきます。霊達の快・不快が明らかになってくるまでになると、自由のうちに別離が産まれます。
一致・不一致の基準は、霊達の目的・愛であり、これが明確になるまで分離は起こりません。いずれも自由のうちに起こるようになるまで留められます(AC4110参照)。
その基準は「役立ち」・目標にあります。役立ちが終わると、分離の時期がやってきます。この役立ちは御言葉では「毛を刈る」ことで表現されます。ヤコブが出発したのは「ラバンは自分の羊の毛を刈るために出ていた」(31:19)時でした。自分のいる社会の役立ちが、自分の目的に合致しなくなれば、分離の時です。
ヤコブと共にカナンへ向けて逃避したラケルは、父の所有のテラフィムを盗み出し(31:19)ます。
テラフィムとは古代で禁じられていた偶像です。しかし、試練の後に来る慰めが「エホビ」によって表現されたり、十戒の箱や天界の入り口にいる「ケルビム」が守りの摂理を表すように、「テラフィム」は真理の一部をも意味します。ラケルの盗みも偶像の所有も外観だけ考えると、それぞれ禁じられていた事柄ですが、この「盗み」は、ラバンとヤコブの分離に描かれたもので、盗みや偶像がテーマではありません。
事実、ラケルがこの真理の一部を盗み出したことを、ヤコブは知りませんでした。テラフィムはラバンにとっては大切なものでした。自分の力によって得た真理と考えていたものなので、神に夢で「あなたはヤコブと、事の善悪を論じないように気をつけよ。」(31:24)と警告を受けたにもかかわらず、逃げたヤコブを七日間追跡します。
ギルアデの山地でヤコブに追いつきます。ヤコブ側は、そこで天幕を張ります。追いついたラバン側も張りますが、日本語の聖書が「天幕を」張った、と余計?に「天幕」を付け加えていますが、原語やkingJames聖書では「天幕」を入れず、「張った」とだけ記されています。天幕が愛の聖なるものを意味するためです(AC4128)。あえてラバン側には「天幕」という言葉が除かれ、「張る」とだけ記されています。ラバン側には愛の聖性がないというが示唆されています。
ラバンは、ヤコブの天幕、レアの天幕、二人の召使いの天幕の天幕を探し、テラフィム、自分のものと考えている真理を探します。しかし、見つかりません。そしてラケルの天幕を探しますが、ラケルはテラフィムをらくだの鞍の下に入れ、その上に座り、自分には「女の常」のことがあるので立てないとごまかします。
らくだは、記憶知を示し、「女の常」は、御言葉の内意では不潔を意味します。ラバンが大切と考えていた真理は、美しくない記憶の中に埋もれ、発見できません。そしてこの後、このテラフィムが御言葉の中で問題とされることはなくなります。自分のものと思っていた真理は、存在しません。
そしてもちろんヤコブも、ラケルがテラフィムを盗みだしたことを知りません(31:32)。
「中間的善の中にいる霊たちの社会は、天使たちの社会の中にいるとき、あたかも、天使たちの諸真理と諸善が、自分たちのもののように見え、しかもそうとしか思いません。ところが分離されると、それが自分たちのものではないことが分かります。したがって、自分たちの社会にともにいた人々から引き離されたと知ると、不平を言います。」(AC4151-2)
真理と善、そして悪と偽りはすべて流入してきます。私たちの教義でも、善と真理は主のものであり、悪と偽りは地獄の悪魔のものであることが、真のキリスト教(3-2)で、そうであることを信じなければならないとされています。新教会の教義の、まさに中心事項の一つです。
しかしこの教義を知識としては知ってはいるが、心から信じる人は少数です。新教会では口を酸っぱくするほど繰り返し、信条として唱え、知識としては行き渡っています。行き渡っているはずです。
マルコ福音書にも、主は同じ事を、「外側から人に入って、人を汚すことのできる物は何もありません。人から出て来るものが、人を汚すものなのです。」(7:15)と指摘されます。
すると、悪や偽りは自分のものではないなら、自分が何をしても過失はないはずだ、と主張する人が出てきます。
「しかし、自分から出た考えだと信じ、自分から欲するものと信じることによって、それを自分のものとして同化吸収するわけで、もし事実どおりに信じていたら、悪や偽りを同化しなかっただろう」(AC4151-6)悪や偽りを、考え、行ったことが、私たちの思考と、行動として、私たち自身のものとされます。
そのため、私たちは常に偽りと悪は、頭に思い浮かべ、かすめたとしても、それは地獄の悪魔の思考と認識し、避けます。偽りの思考がかすめても、実行に移せば、間違いなくそれは自分のものをなってしまいます。
同じように真理と善を語り行ったなら、それを自分が語り、行ったと認めるなら、主のものを「盗む」ことになってしまいます。悪を行うな、善を行え、といいますが、善を自分が行ったと認めた瞬間に「盗み」という十戒で禁じられた悪を行うことになります。善は主のものとして、私たちが行わなければなりません。悪は主に対する罪として避けなければなりません。意識の中に「主」を思い浮かべ、常に主に立ち返ることが、私たちと主を結びつけます。
この中心教義を知る人は多くいますが、信じて、心身で実行する人は少ないのには理由があります。
「なぜなら、エゴのうちに留まりたいと願うからです。そのエゴを愛する結果、すべてが流入によると示されると、不安にかられ、エゴのうちに生きられるよう、この上なく切望し、もし万一それが取り去られれば、生きることもできなくなります。」(AC4151-7)
エゴと呼ばれる「我」を捨てきれないと教えます。悪はしないというつもりが、「我」あるいはエゴは捨てきれないということが原因となっています。自己愛と世間愛は、地獄の中心です。この「我」・エゴ・プロプリウムこそ私たちが乗り越えなければならないものです。周りの人、特に悪を行ってはならない、断悪修善を唱える人も、エゴ・我を乗り越えることができない人が数多くいます。自分は新教会の中心的な人物と考える人も、そうです。わかっていながら、「自分のスタイル」を押し通します。「自分のちょっとしたこだわり」を優先させます。そのため、新教会はこのエゴによって犯され、絶えず攻撃され続けます。
しかしこのスタイル・こだわりと名を変えるものはすべて、エゴであり我であり、地獄の悪魔から出るものです。年の初めにあたり、この我、エゴを自分の敵と認め、闘う覚悟を固めましょう。
御言葉によって私たちはラバンである傍系的な善と区別されます。常に御言葉にもどり、主の神人生とともに、地獄と闘うなら、自分からではなく、主から、主と共に闘うことができます。ヤコブが父イサクの怖れる方にかけて誓い、山で犠牲を捧げたように、「愛の善」を信じ、これを得るべく闘います。
「そうしてヤコブは山でいけにえをささげた。」(31:54)アーメン
創世記 (新改訳)
31:17 そこでヤコブは立って、彼の子たち、妻たちをらくだに乗せ、
31:18 また、すべての家畜と、彼が得たすべての財産、彼がパダン・アラムで自分のものとした家畜を連れて、カナンの地にいる父イサクのところへ向かった。
31:19 そのとき、ラバンは自分の羊の毛を刈りに出ていた。ラケルは、父が所有しているテラフィムを盗み出した。
31:20 ヤコブはアラム人ラバンを欺いて、自分が逃げるのを彼に知られないようにした。
31:21 彼は自分のものをすべて持って逃げた。彼は立ち去ってあの大河を渡り、ギルアデの山地の方へ向かった。
31:22 三日目に、ヤコブが逃げたことがラバンに知らされた。
31:23 ラバンは身内の者たちを率いて、七日の道のりを追って行き、ギルアデの山地でヤコブに追いついた。
31:24 神は夜、夢でアラム人ラバンに現れて仰せられた。「あなたは気をつけて、ヤコブと事の善悪を論じないようにしなさい。」
31:25 ラバンはヤコブに追いついた。そのとき、ヤコブは山地に天幕を張っていたが、ラバンもギルアデの山地に身内の者たちと天幕を張った。
・・・・
31:34 ところが、ラケルはすでにテラフィムを取って、それらをらくだの鞍の中に入れ、その上に座っていたので、ラバンが天幕を隅々まで調べても見つからなかった。
31:35 ラケルは父に言った。「父上、どうか怒らないでください。私はあなたの前で立ち上がることができません。女の常のことがあるからです。」彼は捜したが、テラフィムは見つからなかった。
31:36 するとヤコブは怒って、ラバンをとがめた。ヤコブはラバンに向かって言った。「私にどんな背きがあり、どんな罪があるというのですか。私をここまで追いつめるとは。
31:37 あなたは私の物を一つ残らず調べて、何か一つでも、あなたの家の物を見つけましたか。もしあったなら、それを私の一族と、あなたの一族の前に置いて、彼らに私たち二人の間をさばかせましょう。
31:38 私があなたと一緒にいた二十年間、あなたの雌羊も雌やぎも流産したことはなく、また私はあなたの群れの雄羊も食べませんでした。
31:39 野獣にかみ裂かれたものは、あなたのもとへ持って行かずに、私が負担しました。それなのに、あなたは昼盗まれたものや夜盗まれたものについてまでも、私に責任を負わせました。
31:40 私は昼は暑さに、夜は寒さに悩まされて、眠ることもできませんでした。
31:41 私はこの二十年間、あなたの家で過ごし、十四年間はあなたの二人の娘たちのために、六年間はあなたの群れのために、あなたに仕えてきました。しかも、あなたは何度も私の報酬を変えました。
31:42 もし、私の父祖の神、アブラハムの神、イサクの恐れる方が私についておられなかったなら、あなたはきっと何も持たせずに私を去らせたことでしょう。神は私の苦しみとこの手の労苦を顧みられ、昨夜さばきをなさったのです。」
・・・
マルコによる福音書
7:14 イエスは再び群衆を呼び寄せて言われた。「みな、わたしの言うことを聞いて、悟るようになりなさい。
7:15 外側から人に入って、人を汚すことのできる物は何もありません。人から出て来るものが、人を汚すものなのです。」
7:17 イエスが群衆を離れて、家に入られると、弟子たちは、このたとえについて尋ねた。
7:18 イエスは言われた。「あなたがたまで、そんなにわからないのですか。外側から人に入って来る物は人を汚すことができない、ということがわからないのですか。
7:19 そのような物は、人の心には、入らないで、腹に入り、そして、かわやに出されてしまうのです。」イエスは、このように、すべての食物をきよいとされた。
7:20 また言われた。「人から出るもの、これが、人を汚すのです。
7:21 内側から、すなわち、人の心から出て来るものは、悪い考え、不品行、盗み、殺人、
7:22 姦淫、貪欲、よこしま、欺き、好色、ねたみ、そしり、高ぶり、愚かさであり、
7:23 これらの悪はみな、内側から出て、人を汚すのです。」
天界の秘義4145 アルカナ訳
② 再生される人は、一人残らず、まず中間的善の中に置かれますが、それは純粋な善と真理の導入という役割を果たすためで、その役割を果たしたあと、切り離され、直接流入の善に導きいれられます。そのようにして、再生される人は、段階的に完成されていきます。
例えば、再生される人は、考える善にしても、行う善にしても、自分自身の力によるもので、それなりに報われるはずだと、最初は信じます。善は他から注がれるものである事実を知らず、みずからそれを行ったための報いではないことも知らず、たとえ知ったとしても、理解できません。またそう信じていなければ、決して善を行えません。
善を行うときの情愛面でも、善や功績についての認識面でも、最初はこうして始まります。善を行うさいの情愛に導きいれられると、その時、今までとは違ったことを考え、信じはじめます。すなわち善は主からの流入によることです。それと同時に、エゴから行う善によっては、手柄になるものは何もないことです。また善を欲し行う際の情愛にひたるとき、功績をまったく拒否するだけでなく、嫌悪し、善に根ざす善によって感化されるようになります。このような状態にあって、初めて直接流入の善があります。
③ 例えば、結婚愛の場合がそうです。先行する善、開始導入のさいの善といえば、美しさであり、習慣の一致であり、一方が他方にたいして外面的に適応することであり、両者の対等関係であったり、願わしい条件であったりします。
このような善は、結婚愛の最初の中間善です。そのあと、魂が結ばれるときがきます。一方が他方と同じような意志をもちます。相手がよろこぶことをすることで、〈よろこび〉を感じとります。この状態は第二の状態ですが、以前の状態が残っていても、それを目標にすることはありません。
やがて、天的善と霊的真理の一致のときが来ます。それは一方が他方と、同じように信じ、一方も他方が感化されると同じ善で、感化されることです。この状態になると、双方とも同時に、善と真理との天的結婚のうちにいることになります。
それが結婚愛です。結婚愛とは、それに他なりません。つまり主は、二人の情愛にたいし、一つの情愛にたいするような流入を注がれます。これこそ直接流入の善です。間接的流入であった以前のものは、直接の流入を導入するための媒介的役割を果たしたことになります。