天の御国に関する三つの喩え(最後の喩え)

M25 天の御国に関する三つの喩え(最後の喩え)

ですから、あなたがたも用心していなさい。人の子は思いがけない時に来るのです。(マタ24:44)

主がエルサレムに入城され、既存の宗教勢力の偽善を叱責され、今後の預言をされます。荒らす忌まわしいものが聖なる所に立つのを、目を覚まして見張るように警告されます。
マタイ25章では、地上における最後のたとえによって、天の御国の喩えを締めくくられます。

天の御国に関する三つの喩えです。賢明な乙女と愚かな乙女の喩え、タラントの喩え、そして人の子が栄光の位に就いたときに分離される羊と山羊の喩えです。

乙女の教えは、灯(ともしび)とそれをともす油について話されています。
御言葉の油は、愛の善を意味します。そして灯(ともしび)は真理を意味しています。
真理は愛という燃料がなければ灯すことができません。愛によって真理は灯されます。
また、愛を他人に分けると、他人の歓びを奪ってしまいます。霊界では許されないことです。そのため天国と地獄が分断されています。地獄の歓びが天に伝わり、天の歓びが地獄に伝わると、それぞれが大変な苦しみを受けるからです。

「十人の乙女」とは、教会にいるすべての人を指します。花婿と花嫁に喩えられているのは、善と真理が結びつく天界の結婚が意味されているからです。天界の結婚は、善と真理が結びつく時です。
油を持っておらず、あわてて油を求めたり、買いに出て行ったりした乙女は、真理を持っていながら、愛と仁愛の善が無かった者のことを言っています。婚礼の祝宴の時に戸は閉められ、主に「知らない」とまで言われてしまいます。真理を用意したのに、全く愛を用意しなかった者は、まさに愚かと評価されてしまいます。(AC4638)

学ぶことだけに注力して、一生をかけて真理の知識を蓄積し、理解したとしても、愛と仁愛を養わなければ、まったく「愚か」そのものと評価されてしまいます。油である愛と仁愛を集めるための真理であるからです。この世でなければ、愛を養うことができません。この世はそれぞれの愛を育てる場です。

油の準備、愛の準備ができていないなら、戸が閉まる前、審判される前に愛を蓄えます。
なぜなら、心や隣人や、主に対する愛と思いやりは、一朝一夕にしては用意できるものではないからです。油の原料となるオリーブを考えて見ましょう。オリーブの木を種から、木を育て、実を実らせ、実を集めて絞ります。人が不幸な目に遭った時の憐れむ心、人を赦す心、困った人や不幸な人を見て助けたいという心、主と共に働きたいという心、これらを一つ一つ、一粒一粒積み重ね、絞って集めたものが灯を点す油となります。日々これらを実践した結果が油となります。そしてこれは主からいただくものです。売ったり買ったりすることはできません。

主はマタイ24章でされた警告をもう一度なさいます。
だから、目をさましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないからです。(25:13)
十人の乙女が、賢明な乙女と愚かな乙女に分けられる喩えは、愛についての喩えで、この世の人生で最も大切な愛・仁愛を備えておきなさいとの警告です。

次はタラントの喩えです。
主人は「おのおのその能力に応じて」(25:15)しもべ達に財産であるタラントを渡します。渡されたしもべ達は、それぞれの能力を発揮して、財産を殖やしますが、一タラントしか渡されなかったしもべは、殖やさずに、一タラントのまま返します。一タラントを殖やさなかったしもべは、主人は「蒔かない所から刈り取り、散らさない所から集めるひどい方だ」(25:24)と自分の怠慢の言い訳をし、主人の非難さえします。

このタラントとは、主に貨幣について使われる重量を量る単位で、かなり大きな額を取引するときに用いられていました。「ここでのタラントは、御言葉からの真理と善の知識を意味し」、「商売をする、儲ける、銀行に預ける、とは霊的生命や知性によって獲得する」ことを意味し、「地中に隠す」とは「自然的人間の知識のみに」しまいこんでおくことを意味します(AE193-10)。

五タラントと二タラントを預かった僕は、「能力に応じて」その知識を活用して成果をあげました。御言葉から学んだことを人生の場でさっそく行います。
しかし、一タラントを預かり、地中にしまい込んで隠した僕は、御言葉からの真理と善の知識を、生活に適用せず、記憶の中にしまっていました。彼は「悪い怠け者」、「役に立たない僕」と評価され、「外の暗やみに追い出しなさい。そこで泣いて歯ぎしり」します。これは地獄に追いやられることです。財産を隠しただけなのに、そこまでする必要はない?とも思われるかもしれませんが、彼は主人を非難さえしているので、イザヤ書に出てくる「遊女の報酬」と同じく、主に「ささげられ、それはたくわえられず、積み立てられない」(23:18)と、せっかく主が与えられた善と真理の知識を、全く再生の役に立たず、無駄にしてしまうことを意味します。天界には入れません。
タラントの喩えは、真理の知識の活用についての喩えです。

最後に羊と山羊の喩えです。これは「人の子が、その栄光を帯びて、すべての御使いたちを伴って来るとき、人の子はその栄光の位に着」(25:31)いて、すべての国民を選別し、「羊を自分の右に、山羊を左に置きます」(25:33) 。人の子、神的真理の導きに従順で、主の戒め、十戒に従って生きる者は右にされます。正しく生きるのではなく、ただ知識があれば救われると信じる者は左により分けられます。

右にいる者に 「世の初めから、あなたがたのために備えられた御国を継」(25:34)がせ、その左にいる者たちに「悪魔とその使いたちのために用意された永遠の火に入れ」(25:41)と裁きます。

左右の選別は、主の右側にいる者は、右手すなわち主の力によって生きようとする者、左にいる者は自分で生きようと考える者です。神的秩序を正として生きる者と、そうで無い者ですTCR510)。自分の力と考えだけで生きようとする者のことです。

その規準は、具体的には六つの仁愛があるかないかです。
「仁愛とは、内なる情愛で、隣人に善をしたいと心から湧き上がる望みにいるか、自分の生の歓びにいるかが規準で、その望みには、報われるという考えは含まれません(AC8033)。
何らかの報いを念頭に置いて、その欲を燃やして行ってきた者は、左側の山羊に分類され、地獄の自己愛の火の中に入ります。彼らには、自分の欲望を燃やすために行動してきたからです。
しかし、心から隣人に善いことをしたいという気持ちを育み、主から善いことを行った者は右の羊に分類され、天界に入ります。天界と地獄とは、それぞれ、そういう所だからです。

賢い乙女達のように心に愛を蓄え、忠実な僕のように真理を実行に移し、この愛と真理が行為に結びつき、役立ちとなります。天界的結婚の成立です。これが仁愛と仁愛の業です。実行するかどうかで、心の中の愛または欲望は絶えず実現を待っています。せっかくの仁愛も実現しなければ役立ちません。

具体的な仁愛の行いが記されています。
飢えた者に食べ物を与え、渇いた者に飲ませ、旅人に宿を貸し、裸の者を着せ、病気の者を見舞い、牢にいる者を訪ねます。(25:35,36)
この行為を自然的に実行するだけではなく、霊的に行なえば仁愛の行いとなります。
霊的とは、行為の源を主におくことで、自然的とは源を自分の都合や欲望、そして世のならわしと決まりに置くことです。

霊的に飢えた者とは、純粋な想いに導かれて善いことをしたいと願う者です(AC4956)。給料が安くても、心から人のために働くよう納得させたり、一見雑事に見える仕事でも、人に役立ちたいという情愛を伴うようになったりすれば、仁愛の業となります。街角で貧しい人に無償で温かい食事を与えたとしても、内心で名声や善い評価など、なんらかの報いを願ったり、相手をさげすんだりするなら、それは山羊の業です。

真理の情愛に導かれたいと望む者が霊的に渇いた者です(AC4956)。彼らに、真理が書いてあるから読め、と本を渡すだけでは導くことになりません。人にもよりますが、原書に近いような分厚い本を渡され、真理の情愛に満ちて真理に導かれるようになるでしょうか?本屋さんと図書館とネットは、存在するだけで、霊的渇きを潤せる仁愛の業でしょうか?受ける人に応じて役立ちは変わります。
霊的渇きがなくらなければ、役立ちとはいえません。単なる自己満足に終わる、山羊の業です。

教わりたいと望む者が旅人です(同上)。私達が互いに相手の望みを知らなければ、私達はそれぞれ旅人で、赤の他人にしかすぎません。また単に相手の欲しい物を販売する店やサイトを教えることも、自分勝手な欲望の充足の手伝いにしか過ぎないかもしれません。主の望まれていることを教えることが主の望まれている霊的な仁愛の業です。霊界の規則の内容を教え、そこがどんなところか、正しく、詳しく知るようになり、生活を改めれるようになれば、それは羊の業です。

霊的に自分の内には、善と真理が全くないと認める者が裸の者です(同上)。
私達は怒り、不満を溜め、心はいつも揺れ動いています。自分の内には、怒りや、不満、不安で、自分は否定的なものの塊と考える人には、適切な衣、真理を着せます。
着せる真理とは、赦しや、満足や、安定、自己肯定感です。主がいかに私達を赦されているかを教え、同じように自分も他人も赦すよう薦め、物質的にはもうすでに満ち足りていることを教え、心を安定させ、自己肯定感という着物を着せます。教えるには根気が必要です。

霊的に病んだ人とは、自分には悪しかないと認める人です(同上)。単なる精神病だけではありません。他人への軽蔑、憎悪、常に世間や自分に怒り続け、自己を中心に考え、赦しを拒み、主に導かれることを拒みます。
そんな人は、自分の内側は悪で満ちていると認め、助けを求めています。しかし、十戒のそれぞれを学び守る努力をすることが、癒しのはじめです。そこから時間をかけて、悪を一つ一つ拒めば、主が愛を注ぎこみ、霊的な病から癒やされます。霊的な病の治療法は、悪を断つ、断悪を行うことです。

霊的な囚人とは、自分の中には偽りしかないと認める人のことです(同上)。
イスラエルの民がエジプトに囚われたように、私達は偽りの世界に閉じ込められ抜け出せなくなります。そこは真っ暗な監獄で、希望の光はまったくありません。
様々な監獄があります。自分の理想が高すぎて、その理想がまったく適わないと監獄の囚人になってしまいます。プライドが高すぎても同じです。絶望とプライドは死のコンビです。身近な人にもこんな牢獄の囚人になっている人はいます。
そして鬱病などの精神病も、霊的な囚れとなる可能性があります。しかし、精神科に見て貰え、と冷たく言うだけでは、たとえそれが正しくても、相手は軽蔑されているとしか考えない場合があります。相手の状態を見極め、必ず主の力を借りて温かく助言することが、羊か山羊の見極めになります。

以上が羊と山羊を区別する、六種類の仁愛の業の概要です。
天の御国の喩えとは、天界的結婚の実現です。
主の変容(17章)を見た、ペテロとヤコブとヨハネが象徴した、信仰と仁愛と仁愛の業が揃って、天界的結婚である善と真理の結婚で可能となります。
賢い乙女の喩えは愛を(ヤコブ)、忠実なタラントの教えは真理を(ペテロ)、そして羊の教えは仁愛の業(ヨハネ)を象徴します。主が変貌してお見せになった天界を、改めてここでお説きになられます。私達が主の教えに従って、天界的結婚を実行することができれば、私達は三人の弟子達が目撃した、主の栄光を実際に目にすることができます。

「人の子は、その栄光を帯びてすべての御使いたちを伴って来るとき、その栄光の座に着きます。」(25:31)アーメン。 
イザヤ (新改訳)
23:18. その儲け、遊女の報酬は、【主】にささげられ、それはたくわえられず、積み立てられない。その儲けは、【主】の前に住む者たちが、飽きるほど食べ、上等の着物を着るためのものとなるからだ。
「古代のものを覆う」ものとなる。(AC6917:3, AE61:11)

マタイ (新改訳)
25:1 そこで、天の御国は、それぞれともしびを持って花婿を迎えに出る、十人の娘にたとえることができます。
25:2 そのうちの五人は愚かで、五人は賢かった。
25:3 愚かな娘たちは、ともしびは持っていたが、油を持って来ていなかった。
25:4 賢い娘たちは自分のともしびと一緒に、入れ物に油を入れて持っていた。
25:5 花婿が来るのが遅くなったので、娘たちはみな眠くなり寝入ってしまった。
・・・
25:10 そこで娘たちが買いに行くと、その間に花婿が来た。用意ができていた娘たちは彼と一緒に婚礼の祝宴に入り、戸が閉じられた。
25:11 その後で残りの娘たちも来て、『ご主人様、ご主人様、開けてください』と言った。
25:12 しかし、主人は答えた。『まことに、あなたがたに言います。私はあなたがたを知りません。』
25:13 ですから、目を覚ましていなさい。その日、その時をあなたがたは知らないのですから。

25:14 天の御国は、旅に出るにあたり、自分のしもべたちを呼んで財産を預ける人のようです。
25:15 彼はそれぞれその能力に応じて、一人には五タラント、一人には二タラント、もう一人には一タラントを渡して旅に出かけた。するとすぐに、
25:16 五タラント預かった者は出て行って、それで商売をし、ほかに五タラントをもうけた。
25:17 同じように、二タラント預かった者もほかに二タラントをもうけた。
25:18 一方、一タラント預かった者は出て行って地面に穴を掘り、主人の金を隠した。
・・・・
25:28 だから、そのタラントを彼から取り上げて、十タラント持っている者に与えよ。
25:29 だれでも持っている者は与えられてもっと豊かになり、持っていない者は持っている物までも取り上げられるのだ。
25:30 この役に立たないしもべは外の暗闇に追い出せ。そこで泣いて歯ぎしりするのだ。』
25:31 人の子は、その栄光を帯びてすべての御使いたちを伴って来るとき、その栄光の座に着きます。
25:32 そして、すべての国の人々が御前に集められます。人の子は、羊飼いが羊をやぎからより分けるように彼らをより分け、
25:33 羊を自分の右に、やぎを左に置きます。
25:34 それから王は右にいる者たちに言います。『さあ、わたしの父に祝福された人たち。世界の基が据えられたときから、あなたがたのために備えられていた御国を受け継ぎなさい。
25:35 あなたがたはわたしが空腹であったときに食べ物を与え、渇いていたときに飲ませ、旅人であったときに宿を貸し、
25:36 わたしが裸のときに服を着せ、病気をしたときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからです。』
・・・
25:45 すると、王は彼らに答えます。『まことに、おまえたちに言う。おまえたちがこの最も小さい者たちの一人にしなかったのは、わたしにしなかったのだ。』
25:46 こうして、この者たちは永遠の刑罰に入り、正しい人たちは永遠のいのちに入るのです。」

天界の秘義(アルカナ訳)

  1. 「天界のみ国は、十人の乙女たちに似ている」とは、古い教会の終末であり、新しい教会の始まりを意味します。教会とは、地上における主のみ国です。「十人の乙女」とは、善と真理のうちにいる人、および悪と偽りの中にいる人を含め、教会にいるすべての人を指します。「十」とは、内的意味では残果 reliquiae です。また十全であり、全体です。「乙女」とは、教会の中にいる人々です。それは〈みことば〉の他の箇所にもある通りです。
    ② 「自分の灯火を手にして」とは、天的なものを含む霊的なもの、諸善を含む諸真理、換言すれば、隣人への仁愛を含む信仰であり、主への愛を含む仁愛です。「油」は愛の善を指し、それについては、後述します。「油のない灯火」とは、善を含んでいない諸真理のことです。
    ③ 「花婿を迎えに行く」とは、それらを受け入れることです。「その中の五人は賢く、五人は愚かであった」とは、一部は、善を含む諸真理のうちにいる人々であり、一部は、善を含まない諸真理のうちにいる人々を指します。前者は「賢い者たち」であり、後者は「愚かな者たち」です。「五」の内的意味は、何人かという意味で、ここでは、かれらの一部という意味です。
    「愚かな者たちは、灯火を持っていたが、油を持っていかなかった」とは、自分の諸真理の中に仁愛の善をもっていなかったという意味です。「油」とは、その内的意味では、仁愛と愛の善を指します。「賢い者たちは、自分の灯火といっしょに、容器の中に油を持っていった」とは、自分の諸真理の中に、仁愛と愛の善をもっていたことを指します。「容器」とは、信仰の教義事項を指します。

イスラエル

その人は言った。「あなたの名は、もうヤコブとは呼ばれない。イスラエルだ。あなたが神と、また人と戦って、勝ったからだ。」創32:28

叔父のラバンと協定を結び、ラバンから完全に離れたヤコブは、ついにヨルダン川の前に到着し、カナンの地を前にしています。そこで思い出したのが、長子権と祝福を計略で奪い、復讐を誓った双子の兄エサウのことです。エサウの怒りを避けるため、ヤコブは20年間もカナンを離れていたことになります。

そこで、カナンの地に着く前に、セイルの地、エドムの野にいるエサウに使者を送ります。今まで自分はラバンの下にいて、家畜や奴隷を多く持っていて、エサウに好意を得たいと、メッセージを伝えます。するとエサウは使いを返し、四百人を引き連れて迎えたいと伝えます。

これを聞いたヤコブは「非常に恐れ、不安になりました」(32:7)。20年の月日はたったものの、兄が昔の恨みを覚えて、復讐しようと思っているかもしれないからです。この後、ヤコブは全員が一挙に襲われないよう、自分の陣営を分けて、進みます。自分以外はヤボクの渡しを渡り、順にカナンの地に入ります。しかし、自身は最後尾に位置し、残ってます。するとそこに「ある人」が現れ、ヤコブと格闘します。格闘は朝まで続きます。朝になったので、「ある人」は去ろうとしますが、ヤコブは「ある人」に祝福をせがみ、「イスラエル」という名を得ます。

天界の教えは、この話は、自然性の中での状態が逆転し、第二位であった「善」が第一位となり、一位であった「真理」が第二位なったことを意味すると教えます。状態の逆転です。そして同時にそれは試練の中での闘いであったと教えます (AC4232)。

この章は次の句で始まります。
「神の使いたちが彼に現れた。ヤコブは彼らを見たとき、「ここは神の陣営だ」と言って、その場所の名をマハナイムと呼んだ。」
神の使いとは、神的流入のことが意味されます。「神の陣営」と言われたものとは、天界のことで、マハナイムとは原語で二つの陣営を意味し、主の御国の天的なものと霊的なものの二つの天界が意味されています (AC4237) 。これは主が天界を通して照らしを与えられたことを意味します。人に神からの流入を邪魔する悪と偽りがなくなり、主が善しとされれば、そこに神的流入が生まれます。この神的流入は自然性の内に状態の変化をもたらします。この場合は、善と真理の順位の逆転をもたらし、本来あるべき順位を産み出します。この本質的な状態の変化を生み出せるのは、神である主のみです。またこの神的流入による天界からの照らしによって、人の再生の状態が明らかになり、知ることができます。人間では見えないものを、霊的天界と天的天界の光を通して明らかにし、同時に状態を整える、神的な啓示と力です。神的流入が、出発点です。

ヤコブは兄のエサウに使者を使わしますが、兄はセイルという地のエドムの野にいることになっています。しかし、以前の御言葉では一箇所(創14:6、25:3)を除き、以前にはセイルやエドムという地名は出てきません。エサウがセイルの地に住んでいることも、初めての言及です。そのため地名や人名によって、エサウの性格を定義するためのものと考えられます。
セイルの地は「天的な自然的な善」を意味し (AC4249)、教会の外にあります。地図でみればカナンの外、南のほうにその名が記されています。エドムの野にいるとは、「善の面からみた主の神的自然性」を意味します。いずれも善を意味します。すなわち、エサウは善を表象します。

ヤコブが善を意味する兄のエサウに使いを出すことは、善が真理を意味するヤコブより高い存在であることを認めることを意味します(AC4242)。使者への伝言の内容は、ヤコブを僕として、エサウを主人とすることで、真理が善に対して卑下しています。謙虚になっていることがわかります。この卑下と謙虚が、神的流入を受ける側の準備です。

神の使いである神的流入があることで、従来考えていた順位の逆転が生まれます。それまで人は真理が最高だと思い、善を真理の下に置いていますが、その状態は再生のかなり前の段階です。
真理・真理と喧伝し、実質的な役立ちのことや、人に与える柔らかさ、永遠の生の歓びや、優しさを与える「善」を二の次にしている状態は、よくて再生のきわめて初期の段階、あるいは、まだ教会を意味するヨルダン川を渡っていない段階ともいえます。いちじくの葉も、善という実がならなければ、葉は枯れてしまうように、善という実を結ばなければ、樹木の葉や木は無駄になります。ヤコブがエサウと再会する本章は、真理を上位にして善を下位に定める段階を「逆転」し、真理を下にして、善を上位として迎え入れるための備えの段階です。

一般に、真理は何の媒介なしには、善に植え付けられません。目の前にぶら下がった餌のようなものが必要です。美味しい、あるいは自分の利得になるといった餌が必要です。これが、ラバンが意味する仲介的な善でした。この善には、自分の快楽や利得といった、不要なもの、純粋ではないものが混ざっています。しかし人が情愛を込めて真理を学び、情愛の籠もった真理に従って生きようとするなら、その真理は善と等価となり、善に従って生きることになります (AC4243)。純粋な真理は、不純なものを取り除き、善と真理を同じ価値にします。その準備として、真理は、善の前にへりくだり、自らを卑下しなければなりません(AC4245)。へりくだらなければ、善でない、雑多で余分なものが見えてきません。

エサウの回答は「あなたを迎えに四百人を引き連れてやって来られます。」(32:6)
これは善が真理に継続して流入し、善専用に役立たせることです(AC4247)。この凄まじい善の流入は、純粋な真理でなければ耐えれません。中に不純物があれば、耐えられません。
「先ず、最初に、信仰の諸真理があって、聴覚や視覚を通して浸透し、記憶に蓄積されます。
そこから徐々に思考に向かって上昇し、やがて意志に浸透し、意志の中に入ると、そこから思考力を通して、行動に進みます。
行動にいたらないとき、行動への推進力 conatus をもった状態を保ちます。
推進力自体は、内部的な行動です。なぜなら能力があるときは、その度に外部的行動にもなるからです。」(AC4247)
実現するまで、善が相手の善を同化しようとする強烈な力が働き、邪魔する不純物は取り除かれます。(同)

人の思考は、実は本人のものではなく、天使と悪魔の持つ思考の混合体です。そこに絶えず主が善を流入し続けると、対立する偽りや悪は追い出されざるをえません。
そこでヤコブは「非常に恐れ、不安になりました」(32:7)この怖れと不安は、試練の始めです(AC4249)。
四百人の四は試練も表しています。

自分にある真理と善を整え、配備して、善の流入に備えます。ヤコブが自分の陣営を二つに分けることによって示されます(AC4250)。
真理が第一になれば、真理自らの力では純粋な真理であるかどうかわかりません。それが本当に役に立つものかどうか、善の立場から判断できないからです。必ず何らかの偽りが混入してしまいます(AC4256)。

善の立場から見れば、この偽りに気づくようになり、偽りを取り除こうとしますが、善と偽りが固く結びつき、離れられなくなっています。これが、試練が厳しくなる理由です。人が正しいと思っていたことが、実は偽りと結びつき分離できない状態になっているからです。無理にそれを切り離そうとすれば、その人の生命自体が切り刻まれてしまいます。
何か善いことだとして確信して、実行し、これからも実行しようとしていた中に、自分勝手な欲が混ざっていると知ると、自分が考えていた善い事すべてが、悪と偽りに見え出します。すると人は、絶望に至ります。しかし試練・誘惑の価値は、試練の終了の後にわかります。
「恐れと悩みのあと、試練・誘惑に入っていきます。 試練・誘惑こそ、 それを取り除くための神的手段です。」(AC4256)

試練なしには、人の霊的成長はありえません。試練がないのは、基礎となる良心がまだできあがっていないからです。良心がないうち、すなわち善と悪、真と偽の知識がなく、そしてそれを自分のものとしてゆかない限り、試練には入れません。しかし自分の中に悪と偽りが混ざっています。これを整理して分類し、切り離さなければ天界には入れません。

ヤコブは自分の持ち物を、グループに分け、距離を置き、順にヤボクの渡しを渡らせます。教会であり、天界でもあるカナンの地に入ってゆきます。秩序付けと導入の開始です。この秩序付けと導入がなければ、カナンの地には入れません(AC4266)。次々と群れを秩序づけ、そして善に服従させます(AC4268)。秩序づけられ、善に服従したら、天界に入ることができます。

先に行く家畜と財産のグループが純粋な真理と結びつけば、次は家族で表されるより本人に近いものの順番です。ヤコブが結ばれた妻と奴隷女性、内なる情愛と外なる情愛、それに附属するものが、善に服従し、天界に入ります。そして十一人の息子、すなわち十一の真理が善に結ばれていて、余計なものがないことが確認され、天界に入ります。

二人の妻と女奴隷、そして十一人の子がカナンに入った後、「ヤコブはひとりだけ、あとに残」(32:24)ります。最後に残ったヤコブとは、彼が「獲得した真理の善」です。最初の試練は真理についてでしたが、情愛を込めて獲得した真理は、「善」と等価となっています。すなわち、愛に近いものです。最後に残った愛が試されます。そこに不純なものがあれば、徹底的に暴かれ、地獄に攻撃されます。

地獄は人の愛を攻撃するため、人に仁愛がなければ、試練はありません(AC4274)。試練が訪れるなら、その人には仁愛があるという証拠となります。その人が霊的に成長し、真理ではなく、善が主導するようになって初めてその愛を試すため、熾烈な試練がやってきます。地獄の攻撃を受けます。霊的試練があるなら、その人は霊的に成長していることになります。試練がないのは、まだまだ霊的成長が必要であるということです。

主ご自身の場合、地獄だけではなく、全天界によって主の愛が試されました(AC4295-2)。主の最後の愛は、全人類を救いたい、全人類に永遠の生命を与え、ご自分と同じ幸福を与えたい、という主の愛自体が、全天界を敵に回して試されるという事態になりました。

いかに苛烈な試練であったか、想像さえできません。私達人間を遥かに上回る知恵を持つ天使が、無数になって、本気で主お一人に挑んだのです。十字架上で肉体を極限まで痛めつけられている主に、際限もなく全宇宙に至る大きな事から、細かいことからまでつついて、苛烈な攻撃を浴びせました。しかし、その全てに勝利され、全てを秩序づけることで、主は天界と地獄、そして私たち人類の永遠の生命を贖い、お救いになられました。すべての攻撃を、赦して受け流し、役立ちによって撓めます。

ヤコブは夜が明けるまで「ある人」と格闘します。この「ある人」とは、よく絵画で描かれているような天使ではありません。逆に試練に遭わせる者とは地獄の悪魔しかいません。試練にあって、天使は人を守り、地獄は攻撃します。
主の最後の試練は、全天使が悪魔の側について攻撃しました。

夜が明けるとは、試練に勝利することを意味します。
試練に勝利することで、ヤコブが表す人はもはや自然的ではなく、神的な天的・霊的な状態であると宣言されます。(AC4286) この神的な天的・霊的な状態が「イスラエル」とよばれます。イスラエルが勝った神と人とは、真理と善が意味されます。主が真理と善の面で絶えず勝利されたことが意味されます(AC4287)。

「あなたの名は、もうヤコブとは呼ばれない。イスラエルだ。あなたが神と、また人と戦って、勝ったからだ。」創32:28
アーメン

創世記 (新改訳)
32:24 ヤコブが一人だけ後に残ると、ある人が夜明けまで彼と格闘した。
32:25 その人はヤコブに勝てないのを見てとって、彼のももの関節を打った。ヤコブのももの関節は、その人と格闘しているうちに外れた。
32:26 すると、その人は言った。「わたしを去らせよ。夜が明けるから。」ヤコブは言った。「私はあなたを去らせません。私を祝福してくださらなければ。」
32:27 その人は言った。「あなたの名は何というのか。」彼は言った。「ヤコブです。」
32:28 その人は言った。「あなたの名は、もうヤコブとは呼ばれない。イスラエルだ。あなたが神と、また人と戦って、勝ったからだ。」
32:29 ヤコブは願って言った。「どうか、あなたの名を教えてください。」すると、その人は「いったい、なぜ、わたしの名を尋ねるのか」と言って、その場で彼を祝福した。
32:30 そこでヤコブは、その場所の名をペヌエルと呼んだ。「私は顔と顔を合わせて神を見たのに、私のいのちは救われた」という意味である。
32:31 彼がペヌエルを通り過ぎたころ、太陽は彼の上に昇ったが、彼はそのもものために足を引きずっていた。
32:32 こういうわけで、イスラエルの人々は今日まで、ももの関節の上の、腰の筋を食べない。ヤコブが、ももの関節、腰の筋を打たれたからである。

マタイ
21:18 翌朝、イエスは都に帰る途中、空腹を覚えられた。
21:19 道ばたにいちじくの木が見えたので、近づいて行かれたが、葉のほかは何もないのに気づかれた。それで、イエスはその木に「おまえの実は、もういつまでも、ならないように」と言われた。すると、たちまちいちじくの木は枯れた。

天界の秘義4256(アルカナ訳)
② その理由は次の通りです。真理が第一の座を占めていたとは、真理がみずからの視野を支配していたことで、そのため偽りが混入します。真理はみずからの力では、真理かどうかを見通すことができないからです。真理を見通すことができるには、善に根ざさねばなりません。したがって善が接近してくると、恐れをいだきます。
また善のうちにいる人は、善からの光で偽りが浮き彫りにされると、みな恐れを抱き始めます。偽りを恐れ、それを根絶したいと思いますが、密着しているためできません。ただ主による神的手段によるしかありません。そのため再生するはずの人は、恐れと悩みのあと、試練・誘惑に入っていきます。試練・誘惑こそ、それを取り除くための神的手段です。
人が再生にあたって、霊的試練・誘惑を経過する事実には、最高の秘義的根拠があります。その根拠は、人には決して見えてきません。なぜなら、人の感知できるスフィアを越えているからです。万事は、あたかも良心をゆり動かし、切り裂き、拷問にかけるかのようです。

最新説教

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Matthew 24 「目をさましていなさい。」

それゆえ、預言者ダニエルによって語られたあの『荒らす忌まわしいもの』が聖なる所に立っているのを見たら──読者はよく理解せよ(マタイ24:15)

ダニエル書に「荒らす忌まわしいもの」の表現は三箇所出てきます(9:27.11:31.12:11)。しかし具体的に何を意味しているかは書かれていません。歴史的には、シリア王(アンティオコス4世エピファネス)がエルサレム神殿にゼウス像を設けた時(BC168)、あるいはローマ軍が神殿を破壊(AD70)したとき、と考えられています。

天界の教えは、ヤコブの子孫による表象的教会の終わりと、次のキリスト教会の始まりが意味されていると教えます(AC4333)。この世の終末ではなく、教会自体の審判の時です。教会が善と真理を教えるところという本来の意味があるかどうか、天使ではなく、主ご自身が審判し、旧い教会が終わり、新しい教会が必要と判断されたときです。天界の教えには、これに引き続き、キリスト教会の終わりと新教会の始まりが、黙示録に第四の審判として描かれています。

しかし内的には、「荒らす忌まわしいもの」とは、主が承認されず、主への愛がなく、信仰もなくなったときのことと述べています。同時に隣人への仁愛も、そして善と真であることへの信仰も無くなります(AC3652)。心がこのような状態になったときが、「荒廃」です。「荒野」です。私達も教会が終わりの時を迎えてないか、自分と、自分の教会に絶えず注意を払わなければなりません。「目をさましていな」ければなりません。(24:42)
マタイ福音書の警告は、教会の終焉の判断で、主のみが行われますが、同じように禁じられている隣人の霊的判断以外なら、私達自身への教会が続いているかどうか、絶えず「目を覚ましている」ことが主のご命令です。

クリスマスの中に主の意味と感謝が残っているかも、その判断の一つです。日本のクリスマスでは、イエス・キリストの降誕を祝うのではなく、誕生日を祝う、あるいはサンタクロースを待ち望む、恋人と過ごす夜というとんでもない誤解がまん延しています。また祝う必要も無いものだとさえ言う人もいらっしゃいます。礼拝も祝会への参加も自分の勝手だ、すなわち自由だと!主への礼拝は十戒での義務のはずです。
そうすると、これらの誤解は、感染症のまん延以上に忌まわしいと考えられるかもしれません。

また最も新しいと言われる新教会でも、祭壇の前に立ち、公然と、あるいは隠れて、隣人を根拠なく非難する人も出てきて、荒らす忌まわしいもののように振る舞います。そこには隣人への愛、尊敬などみえません。残念ながら、日本でも海外でも、そういう事態は繰り返されています。マタイ24章には、新教会の誕生の預言だけではなく、そのような場合の警告と対処方法が描かれています。

「荒らす忌まわしいもの」が聖なるとことに立つのを見たら、ユダヤに居る人は山へ、屋上にいる者は家の中のものを持ち出すため下に降りるな、畑にいる者は着物を取りに戻るな、と三種類の警告がされています。

ユダヤにいる者は山に向かえは、天的な状態にいる人は、愛を忘れず愛だけを頼りにしなさい(AC795:4)、ということですが、天的状態にいる人は極めて少ないと思われます。

屋上にいるとは、善にいる者を意味する、霊的な状態です。それらの者は、下に戻るな、すなわち、前の状態に戻るな(AC 10184:2)ということを警告されてます。霊的な成長においては、非常に高い霊性を持ち、善を持ち霊的状態に至った人は、その前の合理的状態や、自然的な状態に戻るべきではないとされています。霊的に成長し、高い霊性に至れたのに、自然的な状態から判断することは進歩ではなく、退歩です。周りを自然的な状態や人、さらに低い悪と偽りの状態に巻き込まれてもなりません。そんな状態との接触を避け、高い霊性を保ち続けます。

畑にいる人とは、真理の情愛の内にある人(AC3653)のことです。着物を取りに戻るな、とは自分で造り上げた真理らしきものにこだわっていてはなりません。自分勝手に真理を組み立て、真理に似たものを造り上げて、こだわるなら、それは都合の良いときだけ利用する偶像のようです。与えられてる真理だけに忠実に従い、生きてゆきます。

「だがその日、哀れなのは身重の女と乳飲み子を持つ女です。ただ、あなたがたの逃げるのが、冬や安息日にならぬよう祈りなさい。」
身重の女とは天的善を妊娠している状態で、乳飲み子を持つとは無垢を持つことです。
冬の状態とは、愛と無垢から離れることであり、さらに安息日に逃げるとは、宗教的に熱い状態となることです。両方共に愛と無垢の状態から離れることです。外見だけ礼拝を行い、熱く見せる状態は、自己愛だけが燃えあがった状態で、本物の愛と無垢ではありません(AC3755)。

真の愛と無垢は、私達が目指すべきものです。愛と無垢が少なくなれば、偽りと悪が強くなり、私達の内の教会は危機を迎えます。愛と無垢がなくなれば、当然主と隣人への愛もなくなります。
そして、愛と無垢の減少は、内だけではなく外の試練も招きます。
「いまだかつて無かったような苦難がある」とは、内外の試練に見舞われることを言います(AC 1846:5)。

これは「にせキリスト、にせ預言者たちが現れて、できれば選民をも惑わそうとして、」ますます混乱を深めます。
「にせキリスト、にせ預言者たち」とは神的ではない真理、あるいは偽りを教える者のこと(AC3010)をいいます。真理に偽りを混ぜ込んで教え込むなら、人は簡単に欺かれてしまいます。その偽りとは、自分勝手な解釈も含まれます。

愛と無垢が失われ、さらに偽りが混ざることで真理が奪われると「死体のある所には、はげたかが集まります。」
人が遺伝悪を自分のものとして同化して、悪い雰囲気を身につけるようになると、それまで近づくことを許されなかった悪霊は、力を注ぎ支配することができるようになります(AC1667:4)。悪霊に支配されるようになると悪のスフィアを身に纏います。すると、そこから自力で抜け出すことは難しくなります。敏感な人、特に善人には一目瞭然でこのスフィアを嗅ぎ取ることが可能な人がおられますが、自分自身が悪霊に染まってしまうと、気づくことさえできません。真剣な自己点検が必要になります。

苦難の後、「太陽は暗くなり、月は光を放たず、星は天から落ち、天の万象は揺り動かされます。」愛と信仰と真理はすべて失われ、絶望に追い込まれるとこがあります。真理に出会ったと信じ、従ってきた新教会にも、偽りとデマと偽基督・偽預言者がそれぞれ勝手な解釈で惑わせようとします。デマが広がり、あっという間に何も信じる事ができなくなり、疑心暗鬼に囲まれ、人も集まらなくなります。教会の最後の瞬間です。

しかし主が私達を見捨てることはありません。
 「そのとき、人の子のしるしが天に現れます。すると、地上のあらゆる種族は、悲しみながら、人の子が大能と輝かしい栄光を帯びて天の雲に乗って来るのを見るのです。」(24:30)

人の子のしるしが天に現れるとは、もちろん主が天に現れるというわけではありません。「人の子」とは神的真理のことです。天の雲とは、聖書の字義、文字上の意味のことです。洗礼の水などのように、よく水で真理が意味されますが、その水が蒸発して雲になります。そして太陽の光が直接人に入って、目を盲目にするよりも、人の視力に合わせて光を見せるように、人の理解に応じて、主の愛と知恵を伝えます。

栄光とは、御言葉の霊的意味です。私達が聖書を読んで、文字上の意味を学んでも、実は霊的意味がそこに溢れているはずですが、人の理解の力に応じて調整されて与えられます。旧教会の人で、聖書の文字を超えて霊的意義があると知ると、拒否反応を示す人がいます。

それは、主がまだ与えられていないので受け取ることができないからです。あるいは知って行おうとしないので、その人達が冒瀆しないためです。主がお与えにならないものを、私達が与えるのは、十戒の霊的意義で禁じられています。主の真理を盗み、人から霊的生命を奪うからです。霊的知識が十分であるように見えても、上辺だけの知識だけなら、意味がありません。そのような人が真剣に内的意義を求めようとするまで、私達は慎重に努めます。霊的知識が与えられ、実行する人は、主の力を見ることになります。知識だけを伝えるのではなく、親が子の手本となるよう、行動で示して教えます。主の栄光と力を「悲しみながら」見るのではなく、自分が手本になって伝えます。

しかし、時は、「人の子が戸口まで近づいていると知りなさい。」(24:23)「ただし、その日、その時がいつであるかは、だれも知りません。天の御使いたちも子も知りません。ただ父だけが知っておられます。」(24:36)
主の審判は、主が永遠の時と父である無限の愛から判断され、行われます。天使でさえ、その内容と時を知ることはありません。主はその人や教会が立ち直るよう、無限の愛と慈悲から、扉が開かれるのをお待ちになっておられます。悪と偽りを避けることをお待ちになっておられます。
そのため、私達が外の基準だけではなく、内心の基準から判断することは、禁じられています。内心に立ち入って判断すれば、その人の霊的生命を奪ってしまう可能性があるからです。

しかし人の心は外に現れます。「いちじくの木から、たとえを学びなさい。枝が柔らかになって、葉が出て来ると、夏の近いことがわかります。」(24:32)内部を判断しなくても、外部から見ることはできます。
そして結果的に「畑にふたりいると、ひとりは取られ、ひとりは残されます。ふたりの女が臼をひいていると、ひとりは取られ、ひとりは残されます。」(24:40,41)
畑は信仰の教義の真贋双方のことで(AC 368)、「臼をひく」とは、御言葉から真理を選んで善に役立てるか、あるいは悪に役立てるか(AC 9995:8,AE555:11)です。それぞれの愛の行方は、私達に任されています。無花果の木が実をつけるかどうかの責任は、私達それぞれにあります。

「だから、目をさましていなさい。あなたがたは、自分の主がいつ来られるか、知らないからです。・・・だから、あなたがたも用心していなさい。なぜなら、人の子は、思いがけない時に来るのですから。」(24:42,44)
私たちの行動は、最後は私たちに任されています。主はできるだけ私達の自由を奪わず、教え導かれようとはされますが、私達の持つ愛をコントロールして意のままにしようとはお考えになってはいません。チャンスを与え、最後の瞬間まで導こうとはされますが、私達が偽りと悪を選んでも私達を切り捨てたりはしません。善であれ、悪であれ、永遠に最低の生命は与え続けられます。生命とは知り、考え、それを愛し行うことです。

全人類を愛されるため、隣人から殺し、奪い、盗み続ける者は、別のグループに分けられます。相互に愛し、仕えたい、役立ちたいと願う者を同じグループとされます。そして、その愛に応じて、詳しく分けて行かれます。主を愛するか、憎むかによって大きな二つに分けられて、さらに愛に応じた分類をされてゆかれます。どちらを選ぶか、それは私達ですが、私達は家の主人ではありません。主人は主ご自身です。

家とは、私達の心です。「食事時には彼らに食事をきちんと与えるような忠実な賢いしもべ」(24:45)となるか、「仲間を打ちたたき、酒飲みたちと飲んだり食べたりし始めている」(24:49)僕となるか、どうかは、私達にまかされていますが、主は時が来ると、必ず帰って来られます。私達は家を預かり、管理する僕にしか過ぎません。管理が悪く、欲望のままに生きてゆくと、帰って来た主人に、厳しく罰されます。しかし、主の御心に従った管理をするなら、主人の「全財産を任せるようになります。」(24:47)主人が帰って来たときに、そのようにしているのを見られるしもべは幸いです。24:46

私達はいつも目を覚まして、自分の状態を見守っていなければなりません。
見守るべきは私達自身の心と教会です。
「目をさましていなさい。あなたがたは、自分の主がいつ来られるか、知らないからです。」24:42
アーメン

(新改訳聖書)
ダニエル
12:9 彼は言った。「ダニエルよ、行け。このことばは終わりの時まで秘められ、封じられているからだ。
12:10 多くの者は身を清めて白くし、そうして錬られる。悪しき者どもは悪を行い、悪しき者どものだれも理解することがない。しかし、賢明な者たちは理解する。
12:11 常供のささげ物が取り払われ、荒らす忌まわしいものが据えられる時から、千二百九十日がある。
12:12 幸いなことよ。忍んで待ち、千三百三十五日に達する者は。
12:13 あなたは終わりまで歩み、休みに入れ。あなたは時の終わりに、あなたの割り当ての地に立つ。」

マタイ福音書
24:30 そのとき、人の子のしるしが天に現れます。そのとき、地のすべての部族は胸をたたいて悲しみ、人の子が天の雲のうちに、偉大な力と栄光とともに来るのを見るのです。
24:31 人の子は大きなラッパの響きとともに御使いたちを遣わします。すると御使いたちは、天の果てから果てまで四方から、人の子が選んだ者たちを集めます。
24:32 いちじくの木から教訓を学びなさい。枝が柔らかになって葉が出て来ると、夏が近いことが分かります。
24:33 同じように、これらのことをすべて見たら、あなたがたは人の子が戸口まで近づいていることを知りなさい。
24:34 まことに、あなたがたに言います。これらのことがすべて起こるまでは、この時代が過ぎ去ることは決してありません。
24:35 天地は消え去ります。しかし、わたしのことばは決して消え去ることがありません。
24:36 ただし、その日、その時がいつなのかは、だれも知りません。天の御使いたちも子も知りません。ただ父だけが知っておられます。
24:37 人の子の到来はノアの日と同じように実現するのです。
24:38 洪水前の日々にはノアが箱舟に入るその日まで、人々は食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしていました。
24:39 洪水が来て、すべての人をさらってしまうまで、彼らには分かりませんでした。人の子の到来もそのように実現するのです。
24:40 そのとき、男が二人畑にいると一人は取られ、一人は残されます。
24:41 女が二人臼をひいていると一人は取られ、一人は残されます。
24:42 ですから、目を覚ましていなさい。あなたがたの主が来られるのがいつの日なのか、あなたがたは知らないのですから。
24:43 次のことは知っておきなさい。泥棒が夜の何時に来るかを知っていたら、家の主人は目を覚ましているでしょうし、自分の家に穴を開けられることはないでしょう。
24:44 ですから、あなたがたも用心していなさい。人の子は思いがけない時に来るのです。
24:45 ですから、主人によってその家のしもべたちの上に任命され、食事時に彼らに食事を与える、忠実で賢いしもべとはいったいだれでしょう。
24:46 主人が帰って来たときに、そのようにしているのを見てもらえるしもべは幸いです。
24:47 まことに、あなたがたに言います。主人はその人に自分の全財産を任せるようになります。
24:48 しかし彼が悪いしもべで、『主人の帰りは遅くなる』と心の中で思い、
24:49 仲間のしもべたちをたたき始め、酒飲みたちと食べたり飲んだりしているなら、
24:50 そのしもべの主人は、予期していない日、思いがけない時に帰って来て、
24:51 彼を厳しく罰し、偽善者たちと同じ報いを与えます。しもべはそこで泣いて歯ぎしりするのです。

天界の秘義 アルカナ訳

  1. 「その日には、妊娠した女と乳飲み子をもつ女は、わざわいである」とは、主への〈愛の善〉と〈純真無垢の善〉が染みとおっている人々を指します。「わざわいである」とは、永遠の断罪を受ける危険があることを示す定式です。「妊娠している」とは、天的愛の善をはらんでいることであり、「乳を飲ませる」とは、これもまた純真無垢の状態を指します。「その日」とは、当時の教会にある状態です。
    ② 「あなた方の逃げるのが、冬あるいは安息日にならないよう祈りなさい」とは、以上の状態から遠ざかることを指します。あまりに寒い状態とか、あまりに暑い状態で、あわてて事が運ばれないようにとの意味です。「逃げる」とは、〈愛および純真無垢の善〉の状態から遠ざかることで、前述のとおりです。「冬に逃げる」とは、あまりにも寒い状態にあり、それから遠ざかることです。冬とは、〈愛および純真無垢の善〉に敵対するときのことで、これは自己愛から導き出されます。「安息日に逃げる」とは、あまりにも暑い状態にあって、〈愛および純真無垢の善〉から遠ざかることです。「暑さ」は、内部に自己愛と世間愛がある場合の外部的聖性を指します。
    ③ 「その時、世の初めから現在まで、かつてなく、これからもないほど大きな患難が起る」とは、善と真理の面での教会の倒錯と荒廃が最高度になることで、冒涜を指します。なぜなら、聖なるものを冒涜することは、永遠の死をもたらすからです。それは悪であっても、それ以外の状態より、遥かに重大な死です。冒涜される善と真理が内的なものであればあるほど、それだけ重大な死になります。その内的なものとは、キリスト教会で啓示され、知られたもので、これが冒涜されます。「その時、世の初めから現在まで、かつてなく、これからもないほど大きな患難が起る」とは、そのことです。
    ④ 「その日々が縮められないなら、救われる肉はいない。しかし選ばれた人々のため、その日々は縮められる」とは、善と真理の〈いのち〉にある人が救われるようになるまで、教会出身の人々、準内部の善と真理に依存する人々が、準外部のほうに遠ざけられるという意味です。「日々が縮められる」とは、遠ざけられた状態を意味し、「救われる肉はない」とは、そうでなければ、だれも救われないという意味です。「選ばれた人々」とは、善と真理の〈いのち〉のうちにある人々を指します。

ラバンからの別離
ヤコブがラバンの態度を見ると、はたして、それは彼に対して以前のようではなかった。31:2兄の復讐を怖れて、カナンから来たヤコブは、母レベカの兄妹であるラバンの娘、レアとラケルを妻とします。さらに二人の女奴隷から、計十一人の息子と一人の娘を得ました。そこで、「ラケルがヨセフを産んで後、ヤコブはラバンに言った。「私を去らせ、私の故郷の地へ帰らせてください。(30:25)と願います。

しかし叔父のラバンは、さらに言った。「あなたの望む報酬を申し出てくれ。私はそれを払おう。」(30:28)
という名目で、ヤコブを働かせます。
これに対して、ヤコブは計略を持って望み、自分の群れを増やしてゆきます。
「それで、この人は大いに富み、多くの群れと、男女の奴隷、およびらくだと、ろばとを持つように」なりました(30:43)。

ラバンの息子達は、ヤコブの群れが増えたのを妬み、「ヤコブはわれわれの父の物をみな取った。父の物でこのすべての富をものにしたのだ」と言っているのを聞きました。(31:1)
冒頭の句のように、ヤコブはラバンの態度にも変化が生まれたのに気づきます。もはやラバンは叔父ではなく、「アラム人のラバン」(31:20)と、一族ではなく、ただの他人のようになっています。

ヤコブは叔父のラバンのために、「この二十年間、あなたの家で過ごしました。十四年間はあなたのふたりの娘たちのために、六年間はあなたの群れのために、あなたに仕えてきました。」(31:41)。
しかし、ラバンは、もはや叔父ではなく、今や単に財産に嫉妬し、恨む、ただの「アラム人」となりました。

「彼の子たち、妻たちをらくだに乗せ、また、すべての家畜と、彼が得たすべての財産、彼がパダン・アラムで自分自身のものとした家畜を追って、カナンの地にいる父イサクのところへ(31:18)向かいます。
「アラム人」である「ラバンにないしょにして、自分の逃げるのを彼に知らせず(31:20)、逃避行が始まります。

ここで内的意味上扱うテーマは、「ヤコブとその妻たち」が表象する〈善と真理〉が「ヤコブ」の示す善から、分離され(AC4061)、イサクが表象する神的合理性と結ばれることです(AC4108)。
親しかった肉親や友人の一方あるいはそれぞれが成長し、また相手を利用するだけの関係になり、嫉妬が芽生えたりして、もはや以前のような関係を維持することができなくなることはよく見かけます。

霊界においては、霊の集団の中で起こり、ある霊の変化が、まわりの霊のグループと一致しなくなれば、そのグループにはいられなくなります。人・霊の変化は霊の社会の変化に他なりません(AC4067)。
不一致があればそこには分離が起こります。それはマイナスの場合だけではなく、再生の進歩という場合にも起こります。再生中の霊あるいは人には、善霊と中間霊と悪霊がいます。彼らを通して純粋な善と真理に導入されるためです。人が成長し、再生するためには必ず通らなければなりません。

善霊との別離は、自分の歓びの赴くまま、それぞれが気づかないうちに起こります。善霊はその導きは主によるものと考えているからです。
悪霊は善くないものを、反面教師として提供します。しかし悪いことを拒絶し続けると、お互いに不愉快が募り、自由の内に分離されるようになります。
そして善霊と悪霊の中間にいる中間霊では、歓びと不愉快が生まれ、楽しみと不愉快さが交互にやってきます。霊達の快・不快が明らかになってくるまでになると、自由のうちに別離が産まれます。
一致・不一致の基準は、霊達の目的・愛であり、これが明確になるまで分離は起こりません。いずれも自由のうちに起こるようになるまで留められます(AC4110参照)。

その基準は「役立ち」・目標にあります。役立ちが終わると、分離の時期がやってきます。この役立ちは御言葉では「毛を刈る」ことで表現されます。ヤコブが出発したのは「ラバンは自分の羊の毛を刈るために出ていた」(31:19)時でした。自分のいる社会の役立ちが、自分の目的に合致しなくなれば、分離の時です。

ヤコブと共にカナンへ向けて逃避したラケルは、父の所有のテラフィムを盗み出し(31:19)ます。
テラフィムとは古代で禁じられていた偶像です。しかし、試練の後に来る慰めが「エホビ」によって表現されたり、十戒の箱や天界の入り口にいる「ケルビム」が守りの摂理を表すように、「テラフィム」は真理の一部をも意味します。ラケルの盗みも偶像の所有も外観だけ考えると、それぞれ禁じられていた事柄ですが、この「盗み」は、ラバンとヤコブの分離に描かれたもので、盗みや偶像がテーマではありません。

事実、ラケルがこの真理の一部を盗み出したことを、ヤコブは知りませんでした。テラフィムはラバンにとっては大切なものでした。自分の力によって得た真理と考えていたものなので、神に夢で「あなたはヤコブと、事の善悪を論じないように気をつけよ。」(31:24)と警告を受けたにもかかわらず、逃げたヤコブを七日間追跡します。

ギルアデの山地でヤコブに追いつきます。ヤコブ側は、そこで天幕を張ります。追いついたラバン側も張りますが、日本語の聖書が「天幕を」張った、と余計?に「天幕」を付け加えていますが、原語やkingJames聖書では「天幕」を入れず、「張った」とだけ記されています。天幕が愛の聖なるものを意味するためです(AC4128)。あえてラバン側には「天幕」という言葉が除かれ、「張る」とだけ記されています。ラバン側には愛の聖性がないというが示唆されています。

ラバンは、ヤコブの天幕、レアの天幕、二人の召使いの天幕の天幕を探し、テラフィム、自分のものと考えている真理を探します。しかし、見つかりません。そしてラケルの天幕を探しますが、ラケルはテラフィムをらくだの鞍の下に入れ、その上に座り、自分には「女の常」のことがあるので立てないとごまかします。
らくだは、記憶知を示し、「女の常」は、御言葉の内意では不潔を意味します。ラバンが大切と考えていた真理は、美しくない記憶の中に埋もれ、発見できません。そしてこの後、このテラフィムが御言葉の中で問題とされることはなくなります。自分のものと思っていた真理は、存在しません。

そしてもちろんヤコブも、ラケルがテラフィムを盗みだしたことを知りません(31:32)。
「中間的善の中にいる霊たちの社会は、天使たちの社会の中にいるとき、あたかも、天使たちの諸真理と諸善が、自分たちのもののように見え、しかもそうとしか思いません。ところが分離されると、それが自分たちのものではないことが分かります。したがって、自分たちの社会にともにいた人々から引き離されたと知ると、不平を言います。」(AC4151-2)

真理と善、そして悪と偽りはすべて流入してきます。私たちの教義でも、善と真理は主のものであり、悪と偽りは地獄の悪魔のものであることが、真のキリスト教(3-2)で、そうであることを信じなければならないとされています。新教会の教義の、まさに中心事項の一つです。

しかしこの教義を知識としては知ってはいるが、心から信じる人は少数です。新教会では口を酸っぱくするほど繰り返し、信条として唱え、知識としては行き渡っています。行き渡っているはずです。
マルコ福音書にも、主は同じ事を、「外側から人に入って、人を汚すことのできる物は何もありません。人から出て来るものが、人を汚すものなのです。」(7:15)と指摘されます。

すると、悪や偽りは自分のものではないなら、自分が何をしても過失はないはずだ、と主張する人が出てきます。
「しかし、自分から出た考えだと信じ、自分から欲するものと信じることによって、それを自分のものとして同化吸収するわけで、もし事実どおりに信じていたら、悪や偽りを同化しなかっただろう」(AC4151-6)悪や偽りを、考え、行ったことが、私たちの思考と、行動として、私たち自身のものとされます。
そのため、私たちは常に偽りと悪は、頭に思い浮かべ、かすめたとしても、それは地獄の悪魔の思考と認識し、避けます。偽りの思考がかすめても、実行に移せば、間違いなくそれは自分のものをなってしまいます。

同じように真理と善を語り行ったなら、それを自分が語り、行ったと認めるなら、主のものを「盗む」ことになってしまいます。悪を行うな、善を行え、といいますが、善を自分が行ったと認めた瞬間に「盗み」という十戒で禁じられた悪を行うことになります。善は主のものとして、私たちが行わなければなりません。悪は主に対する罪として避けなければなりません。意識の中に「主」を思い浮かべ、常に主に立ち返ることが、私たちと主を結びつけます。

この中心教義を知る人は多くいますが、信じて、心身で実行する人は少ないのには理由があります。
「なぜなら、エゴのうちに留まりたいと願うからです。そのエゴを愛する結果、すべてが流入によると示されると、不安にかられ、エゴのうちに生きられるよう、この上なく切望し、もし万一それが取り去られれば、生きることもできなくなります。」(AC4151-7)
エゴと呼ばれる「我」を捨てきれないと教えます。悪はしないというつもりが、「我」あるいはエゴは捨てきれないということが原因となっています。自己愛と世間愛は、地獄の中心です。この「我」・エゴ・プロプリウムこそ私たちが乗り越えなければならないものです。周りの人、特に悪を行ってはならない、断悪修善を唱える人も、エゴ・我を乗り越えることができない人が数多くいます。自分は新教会の中心的な人物と考える人も、そうです。わかっていながら、「自分のスタイル」を押し通します。「自分のちょっとしたこだわり」を優先させます。そのため、新教会はこのエゴによって犯され、絶えず攻撃され続けます。

しかしこのスタイル・こだわりと名を変えるものはすべて、エゴであり我であり、地獄の悪魔から出るものです。年の初めにあたり、この我、エゴを自分の敵と認め、闘う覚悟を固めましょう。

御言葉によって私たちはラバンである傍系的な善と区別されます。常に御言葉にもどり、主の神人生とともに、地獄と闘うなら、自分からではなく、主から、主と共に闘うことができます。ヤコブが父イサクの怖れる方にかけて誓い、山で犠牲を捧げたように、「愛の善」を信じ、これを得るべく闘います。

 「そうしてヤコブは山でいけにえをささげた。」(31:54)アーメン


創世記 (新改訳)
31:17 そこでヤコブは立って、彼の子たち、妻たちをらくだに乗せ、
31:18 また、すべての家畜と、彼が得たすべての財産、彼がパダン・アラムで自分のものとした家畜を連れて、カナンの地にいる父イサクのところへ向かった。
31:19 そのとき、ラバンは自分の羊の毛を刈りに出ていた。ラケルは、父が所有しているテラフィムを盗み出した。
31:20 ヤコブはアラム人ラバンを欺いて、自分が逃げるのを彼に知られないようにした。
31:21 彼は自分のものをすべて持って逃げた。彼は立ち去ってあの大河を渡り、ギルアデの山地の方へ向かった。
31:22 三日目に、ヤコブが逃げたことがラバンに知らされた。
31:23 ラバンは身内の者たちを率いて、七日の道のりを追って行き、ギルアデの山地でヤコブに追いついた。
31:24 神は夜、夢でアラム人ラバンに現れて仰せられた。「あなたは気をつけて、ヤコブと事の善悪を論じないようにしなさい。」
31:25 ラバンはヤコブに追いついた。そのとき、ヤコブは山地に天幕を張っていたが、ラバンもギルアデの山地に身内の者たちと天幕を張った。
・・・・
31:34 ところが、ラケルはすでにテラフィムを取って、それらをらくだの鞍の中に入れ、その上に座っていたので、ラバンが天幕を隅々まで調べても見つからなかった。
31:35 ラケルは父に言った。「父上、どうか怒らないでください。私はあなたの前で立ち上がることができません。女の常のことがあるからです。」彼は捜したが、テラフィムは見つからなかった。
31:36 するとヤコブは怒って、ラバンをとがめた。ヤコブはラバンに向かって言った。「私にどんな背きがあり、どんな罪があるというのですか。私をここまで追いつめるとは。
31:37 あなたは私の物を一つ残らず調べて、何か一つでも、あなたの家の物を見つけましたか。もしあったなら、それを私の一族と、あなたの一族の前に置いて、彼らに私たち二人の間をさばかせましょう。
31:38 私があなたと一緒にいた二十年間、あなたの雌羊も雌やぎも流産したことはなく、また私はあなたの群れの雄羊も食べませんでした。
31:39 野獣にかみ裂かれたものは、あなたのもとへ持って行かずに、私が負担しました。それなのに、あなたは昼盗まれたものや夜盗まれたものについてまでも、私に責任を負わせました。
31:40 私は昼は暑さに、夜は寒さに悩まされて、眠ることもできませんでした。
31:41 私はこの二十年間、あなたの家で過ごし、十四年間はあなたの二人の娘たちのために、六年間はあなたの群れのために、あなたに仕えてきました。しかも、あなたは何度も私の報酬を変えました。
31:42 もし、私の父祖の神、アブラハムの神、イサクの恐れる方が私についておられなかったなら、あなたはきっと何も持たせずに私を去らせたことでしょう。神は私の苦しみとこの手の労苦を顧みられ、昨夜さばきをなさったのです。」
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マルコによる福音書

7:14 イエスは再び群衆を呼び寄せて言われた。「みな、わたしの言うことを聞いて、悟るようになりなさい。
7:15 外側から人に入って、人を汚すことのできる物は何もありません。人から出て来るものが、人を汚すものなのです。」
7:17 イエスが群衆を離れて、家に入られると、弟子たちは、このたとえについて尋ねた。
7:18 イエスは言われた。「あなたがたまで、そんなにわからないのですか。外側から人に入って来る物は人を汚すことができない、ということがわからないのですか。
7:19 そのような物は、人の心には、入らないで、腹に入り、そして、かわやに出されてしまうのです。」イエスは、このように、すべての食物をきよいとされた。
7:20 また言われた。「人から出るもの、これが、人を汚すのです。
7:21 内側から、すなわち、人の心から出て来るものは、悪い考え、不品行、盗み、殺人、
7:22 姦淫、貪欲、よこしま、欺き、好色、ねたみ、そしり、高ぶり、愚かさであり、
7:23 これらの悪はみな、内側から出て、人を汚すのです。」

天界の秘義4145 アルカナ訳
② 再生される人は、一人残らず、まず中間的善の中に置かれますが、それは純粋な善と真理の導入という役割を果たすためで、その役割を果たしたあと、切り離され、直接流入の善に導きいれられます。そのようにして、再生される人は、段階的に完成されていきます。
例えば、再生される人は、考える善にしても、行う善にしても、自分自身の力によるもので、それなりに報われるはずだと、最初は信じます。善は他から注がれるものである事実を知らず、みずからそれを行ったための報いではないことも知らず、たとえ知ったとしても、理解できません。またそう信じていなければ、決して善を行えません。
善を行うときの情愛面でも、善や功績についての認識面でも、最初はこうして始まります。善を行うさいの情愛に導きいれられると、その時、今までとは違ったことを考え、信じはじめます。すなわち善は主からの流入によることです。それと同時に、エゴから行う善によっては、手柄になるものは何もないことです。また善を欲し行う際の情愛にひたるとき、功績をまったく拒否するだけでなく、嫌悪し、善に根ざす善によって感化されるようになります。このような状態にあって、初めて直接流入の善があります。

③ 例えば、結婚愛の場合がそうです。先行する善、開始導入のさいの善といえば、美しさであり、習慣の一致であり、一方が他方にたいして外面的に適応することであり、両者の対等関係であったり、願わしい条件であったりします。
このような善は、結婚愛の最初の中間善です。そのあと、魂が結ばれるときがきます。一方が他方と同じような意志をもちます。相手がよろこぶことをすることで、〈よろこび〉を感じとります。この状態は第二の状態ですが、以前の状態が残っていても、それを目標にすることはありません。
やがて、天的善と霊的真理の一致のときが来ます。それは一方が他方と、同じように信じ、一方も他方が感化されると同じ善で、感化されることです。この状態になると、双方とも同時に、善と真理との天的結婚のうちにいることになります。
それが結婚愛です。結婚愛とは、それに他なりません。つまり主は、二人の情愛にたいし、一つの情愛にたいするような流入を注がれます。これこそ直接流入の善です。間接的流入であった以前のものは、直接の流入を導入するための媒介的役割を果たしたことになります。