ラザロのよみがえり

イエスは彼女に言われた。「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです。(ヨハネ11:25)

死者を蘇らせたという業は、世界の様々な宗教の中でも多くはありません。
しかしキリスト教では、主イエスの蘇りを含め、信仰の中心となっています。
ただ、多くの教会は、生命を肉体の生命としか考えていないので、死人が蘇ってゾンビになったという、不気味な話となっています。

主は新約聖書で、ヤイロの娘(マルコ5:41-43 ルカ8:41-56等)、ナインのやもめの一人息子(ルカ7:11-16)など、蘇りの奇跡を起こされましたが、有名なものが、ラザロの蘇りの話(ヨハネ11)です。ラザロが墓から出てきて、手足を長い布、そして顔も布切れで包まれている姿は、強烈な印象を与えます。旧約聖書でも、主を表している、エリシャの骨に触れることで、なくなった人が蘇ります(列王記Ⅱ13:21)。

ラザロのエピソードは、死人をよみがえらせる話だけではありません。人間の生命とは何か、そして教会の生命の蘇りがテーマとなっています。

「いのち」とは何でしょうか、天界の教えに問います。私たちは、人間自体には生命はなく、神からの生命を受ける器であると教えられています。善は自分からは行えないというのが新教会の教えです。
そして、
神からくる生命とは、「善を意志し、真理を信じること」と教えられています(AC7494)。

本来生命のない器である人間に、神が与える生命が、善を意志し、真理を信じることであるなら、納得できます。これが、新教会の教義の出発点であり、心から納得でき到達点でもあるからです。

そして、生命と反対の死とは、悪を行うことであり、偽りを信じることです。悪を行う者、偽りを信じる者には、生命はなく、死者であるとされています。

ヨハネ11章のラザロの蘇りを、ラザロが表しているものの死と復活という脈絡で振り返ります。
まずラザロはどういう人物として描かれているのでしょうか?
ラザロは、ルカ書の中でこう喩えられています。「金持ちの家の門前にラザロという全身おできの貧しい人が寝ていて、金持ちの食卓から落ちる物で腹を満たしたいと思っていた。犬もやって来ては、彼のおできをなめていた」(ルカ16:19,20)
み言葉を持たない異邦人でありながら、み言葉を持つユダヤ人に嫌われています。真理を知らないことから、偽りにいたため、おできができていたと表現されています(TCR215-3)。
しかし、ラザロは、主に愛され(ヨハネ11:5)、友と呼ばれ(ヨハネ11:11)、食卓をともにします(〃12:2)。これらは、善を求めていたことを意味します。

ラザロで表される異邦人は、み言葉を持たず、わずかな真理で生きていますが、主からの真理と善で生きたいと求めています。善を求めるものが教会です。真理を求めたり、教義自体を求めたりするのは、まだ教会ではありません。
善を求めることが教会です。主が愛されるのは善を求める教会です。主おひとりが善であり、真理です。ラザロとはみ言葉を持たないが、善を求める異邦人の教会です。

そこに、使いがいきなりやってきます。「主よ。ご覧ください。あなたが愛しておられる者が病気です。」(11:3) 主に使いを送ったのは、ラザロの兄弟であるマルタとマリアです。マルタとマリアは、前後して次の12章で説明されています。給仕をして仕えるマリアは、真理への情愛です。教会で真理に仕えるため、真理への情愛とされ、いつも忙しく働きます。そして善への情愛は、主ご自身を愛し、涙を流していとおしんだマリアで表されます。

二人の使いは、ラザロが病にかかって死にそうであると告げます。これは、異邦人の教会が真理の不足したため、善がなくなり、悪と偽りに心が傾き始めたことを意味します。ラザロの兄弟のマルタとマリアは、善への情愛と真理への情愛を振り絞って、主に助けを求めます。

イエスは、神の栄光と神の子が栄光を受けるため、「ラザロが病んでいることを聞かれたときも、そのおられた所になお二日とどまられ」(11:6)たといいます。これは、ラザロ教会の偽りと悪が結合し、悪が現れるまで、主は待っておられたことを意味します。悪は現れなければ、取り除くことができないからです。

「昼間は十二時間あるでしょう。だれでも、昼間歩けば、つまずくことはありません。この世の光を見ているからです。しかし、夜歩けば、つまずきます。光がその人のうちにないからです。」(11:9,10)
真理と善が残っている間、すなわち昼の間は、まだかろうじて教会は残っています。そして悪と偽りが完全に現れる夜になると、つまずき始めます。悪と偽りに気づいて、取り除くことができないためです。

そして、主はラザロ教会の終焉を宣言されます。 
イエスはそのとき、はっきりと彼らに言われた。「ラザロは死んだのです。」(11:14)
デドモと呼ばれるトマスがいました。主が十字架で亡くなり、蘇ったときも指を手と脇腹に入れて確かめなければ信じないという(20:25)弟子です。「主とともに死のう」と言い出します。彼は蘇りを信じてなかったので、自然的な意味でしか考えることができません。

主がラザロのところにいらっしゃったとき、生命の善は滅び、悪と偽りが結ばれてしまっています。これが墓に入れられて四日経ったことで示されます。数字の、二と四は、善と真理、この場合は悪と偽りが結ばれることを意味する数字です。

真理への情愛を意味するマルタは、ラザロ教会の死滅を惜しみ、主を迎えに走ります。一方、善への情愛を意味するマリアは家で座っています(11:20)。善が滅びてしまったため、善への情愛は、動けなくなっています。

イエスはマルタ、真理への情愛におっしゃいます。「あなたの兄弟はよみがえります。」(11:23)
真理の情愛を意味するマルタは、異邦人の教会であるラザロが蘇ると聞いて喜びます。
私達はまず、真理への情愛を呼び起こし、主のみ言葉を伝えなければなりません。

ラザロが意味する異邦人の教会の善が、蘇ると宣言されます。悪と偽りが結びついてしまって滅びた異邦人の教会の善が蘇ると宣言されます。そして、主は教会の蘇りを宣言されます。

「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。」
(11:25,)
生命とは、「善を意志し、真理を信じること」(AC7494)でした。
主を認めることが霊的生命のすべてです。最初であり、教会の最も本質的なことです。主を信じなければ、天界から信仰の真理も、愛の善も受けとることができません。(AC 10083:6)
なぜなら、主おひとりが善そのものであり、真理そのものであるからです。主を信じることが、教会の第一です。

「また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。このことを信じますか。」(11:25,26)

主イエスが真理への情愛を意味するマルタに、「主が蘇りであり、いのちである」という真理をお告げになります。そしてマルタは、主を信じると答えます。
彼女はイエスに言った。「はい、主よ。私は、あなたが世に来られる神の子キリストであると信じております。」(11:27)
主を信じると答えたため、真理の情愛は、活気づき、生き返ります。

主は、その後、善への情愛を意味するマリアをお呼びになります。真理への情愛を意味するマルタを通じて、マリアをお呼びになったことに注目してください。「先生がお見えになり、あなたを呼んでおられます。」(11:28)とささやきます。主を愛していたマリアが、なかなか登場しないのは、善が滅びかけて、善への情愛が現れないためです。私達はまず、真理への情愛を呼び起こし、主のみ言葉を伝えなければなりません。

「イエスはまだ村に入らず、マルタが出迎えた場所におられ(11:30)」ました。善への情愛であるマリアが、家から出てくるまで、主はお近かづきになることができませんでした。それは、善の情愛が、動かされて、活動し始めるのを待っておられたからです。善の情愛は、信仰に応じて、自ら動きださねば、生命を持てません。

天界の教えは、続きます。
主は同時に、主を信じる者は、戒めに従って生きなければならないと教えられます、その生活が信仰に入ることであるからです。(AC 10083:6)
善への情愛によって動き、主に従わなければ、異邦人の善である教会は蘇りません。

そして、マリアはイエスがおられるところに来た。そしてイエスを見ると、足もとにひれ伏して言った。「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。」(11:32)

善の教会の蘇りには、善の情愛を意味するマリアが、主を迎え足元にひれ伏す、「卑下」が必要です。
私たちは、善が何に対しての善か、卑下によって明らかにします。教会の礼拝に卑下と賛美が求められるのも、この理由からです。自分が偉いと思っているなら、本物の善である主を迎え入れることができません。卑下がなければ自分を讃えることになります。最高の善である主を迎え入れるためには、卑下という動作が必要不可欠です。主のためではありません。私たち自身のためです。

イエスは、彼女が泣き、一緒に来たユダヤ人たちも泣いているのをご覧になった。そして、霊に憤りを覚え、心を騒がせて、「彼をどこに置きましたか」と言われた。彼らはイエスに「主よ、来てご覧ください」と言った。イエスは涙を流された。(11:33-35)

教会の善が蘇るためには、主の慈悲が必要です。私たちには不可能で、主ご自身にしかできない業です。あわれみと同時に、ラザロの状態を確かめるために、葬った場所を問われます。

ユダヤ人たちのうちのある者たちは、「見えない人の目を開けたこの方も、ラザロが死なないようにすることはできなかったのか」と言った。
真理の蘇りであれば、盲人の目を開けたように、目を開けるのは、本人の偽りを、取り除くだけです。しかし、善の蘇りは簡単ではありません。悪と偽りが、本人の悪と固く結びついているためです。

まず墓の洞穴をふさいでいる石、悪と偽りを取り除かなければなりません。悪と偽りを表す石がとりのぞかれると、イエスは大声で叫ばれた、「ラザロよ、出て来なさい。」(11:43)

すると、死んでいた人が、手と足を長い布で巻かれたまま出て来た。彼の顔は布で包まれていた(11:44)。
悪と偽りを取り除き、主のお力によって善が動き始めます。善の教会は、蘇ります。しかし長い布と顔の布に偽りが、残っています。最後に蘇った善から、偽りを取り除くよう、主は命じられます。

イエスは彼らに言われた。「ほどいてやって、帰らせなさい。」(11:44)。アーメン。

【新改訳】
Ⅱ列王記
13:20 こうして、エリシャは死んで葬られた。モアブの略奪隊は、年が改まるたびにこの国に侵入していた。
13:21 人々が、一人の人を葬ろうとしていたちょうどそのとき、略奪隊を見たので、その人をエリシャの墓に投げ入れて去って行った。その人がエリシャの骨に触れるやいなや、その人は生き返り、自分の足で立ち上がった。

ヨハネ福音書
11:20 マルタは、イエスが来られたと聞いて、出迎えに行った。マリアは家で座っていた。
11:21 マルタはイエスに言った。「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。
11:22 しかし、あなたが神にお求めになることは何でも、神があなたにお与えになることを、私は今でも知っています。」
11:23 イエスは彼女に言われた。「あなたの兄弟はよみがえります。」
11:24 マルタはイエスに言った。「終わりの日のよみがえりの時に、私の兄弟がよみがえることは知っています。」
11:25 イエスは彼女に言われた。「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです。
11:26 また、生きていてわたしを信じる者はみな、永遠に決して死ぬことがありません。あなたは、このことを信じますか。」
11:27 彼女はイエスに言った。「はい、主よ。私は、あなたが世に来られる神の子キリストであると信じております。」
11:28 マルタはこう言ってから、帰って行って姉妹のマリアを呼び、そっと伝えた。「先生がお見えになり、あなたを呼んでおられます。」
11:29 マリアはそれを聞くと、すぐに立ち上がって、イエスのところに行った。
11:30 イエスはまだ村に入らず、マルタが出迎えた場所におられた。
11:31 マリアとともに家にいて、彼女を慰めていたユダヤ人たちは、マリアが急いで立ち上がって出て行くのを見て、墓に泣きに行くのだろうと思い、ついて行った。
11:32 マリアはイエスがおられるところに来た。そしてイエスを見ると、足もとにひれ伏して言った。「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。」
11:33 イエスは、彼女が泣き、一緒に来たユダヤ人たちも泣いているのをご覧になった。そして、霊に憤りを覚え、心を騒がせて、
11:34 「彼をどこに置きましたか」と言われた。彼らはイエスに「主よ、来てご覧ください」と言った。
11:35 イエスは涙を流された。
11:36 ユダヤ人たちは言った。「ご覧なさい。どんなにラザロを愛しておられたことか。」
11:37 しかし、彼らのうちのある者たちは、「見えない人の目を開けたこの方も、ラザロが死なないようにすることはできなかったのか」と言った。
11:38 イエスは再び心のうちに憤りを覚えながら、墓に来られた。墓は洞穴で、石が置かれてふさがれていた。
11:39 イエスは言われた。「その石を取りのけなさい。」死んだラザロの姉妹マルタは言った。「主よ、もう臭くなっています。四日になりますから。」
11:40 イエスは彼女に言われた。「信じるなら神の栄光を見る、とあなたに言ったではありませんか。」
11:41 そこで、彼らは石を取りのけた。イエスは目を上げて言われた。「父よ、わたしの願いを聞いてくださったことを感謝します。
11:42 あなたはいつでもわたしの願いを聞いてくださると、わたしは知っておりましたが、周りにいる人たちのために、こう申し上げました。あなたがわたしを遣わされたことを、彼らが信じるようになるために。」
11:43 そう言ってから、イエスは大声で叫ばれた。「ラザロよ、出て来なさい。」
11:44 すると、死んでいた人が、手と足を長い布で巻かれたまま出て来た。彼の顔は布で包まれていた。イエスは彼らに言われた。「ほどいてやって、帰らせなさい。」

天界の秘義7494.
そのため、愛の善と信仰の真理を捻じ曲げ、あるいは消し、否定した者は、生命を持つことができません。なぜなら神的なものからくる生命は、善を意志し、真理を信じることであるからです。
しかし、善を意志せず、悪を求める者、あるいは真理ではなく偽りを信じる者は、生命に反することになります。この正反対の生命は、地獄であり、「死」そして「死人」と呼ばれます。
愛と信仰が「生命」そして「永遠の生命」と呼ばれ、内にそれらを宿す人は、「生きている人」と呼ばれ、生命に反した者は、「死」そして「永遠の死」として、死者と呼ばれたのは、み言葉の多くの文章から明らかです。

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