生まれつきの盲人

生まれつきの盲人

イエスは答えられた。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。この人に神のわざが現れるためです。」(9:3)

聖書に記載されている、生まれつきの盲人の目を開けた奇跡とは、物理的に目の見えない障碍者が、主の御業によってたちまち目が見えるようになったという奇跡の業です。盲人の両親も当時は手を尽くしたはずですが、盲人である本人は、座って物乞いをして生きてゆくしか道はありませんでした。

しかし、この奇跡の業が、いつどこでも、ただ主を信じれば起こるかと言われれば、残念ながら首をかしげてしまいます。医学の発展を祈るとしても、すべての障害がいつか必ず癒されると請け合うことはできません。

それではこの奇跡によって、主は現代に住む私たちに何を教えられたかったのでしょうか?
天界の教えによれば、盲人、目が見えないとは「認識の欠如」あるいは「信仰の欠如」を意味すると(AC 6990)言われています。そして、「生まれつきの」盲人とは、み言葉を持たない異教徒として生まれたため、主のことを全く知らなかった者、あるいはみ言葉以外から学んだ者のことをいいます (AE 239:19) 。

私たち日本人の大半は、残念ながらこの「生まれつきの盲人」にあたる可能性があります。み言葉のない生活環境に生まれ、主のことを存じ上げない方がほとんどであるからです。またみ言葉そのものに触れないため、思い込みだけで認識・信仰が欠如している可能性もあります。

信仰の欠如とは、よく「あなたの信仰が足りない」という意味で使われ、信仰を増すためにもっと祈りなさい、献金しなさい、神様のために働きなさいと言われることがあります。宗教がらみの問題が起こると必ず、これらの信仰が足りないからだと言われます。しかし、それは理解を伴わない「思い込み」のことであり、「信仰」ではありません。

信仰は「善く生き、正しい信念を持つ者は、主によって救われる」ために、善く生きようとする強い決心です。そのためには、「人は、主に近づき、み言葉から真理を学び、それによって生きることで信仰を得」ます(真のキリスト教336-3)。信仰が理解の領域で、隣人への思いやりを実行するのが意志の領域とするなら、理解できない信仰は、信仰ではありません。主イエスに近づかず、献金だけを要求する「似非信仰」は信仰ではありません。

そして、善いことと固く結びついているため、善いことを行おうとしない悪人は信仰をもつことができません。心の一方で、自分に有利なことだけを考える人は、求めるものが自分であり、隣人のために善くすることができないので、信仰の正反対です。彼らは十戒を、神から発した命令として守ることができません。誤った信仰や似非信仰に囚われた、パリサイ人も信仰を持つことすらできません。彼らは、イエス・キリストを神として認めず否定し、「神に栄光を帰せ」(9:24)とはいうものの、その神は愛と真の主イエスではなく、目に見えないため、自分だけに便利な神を信仰させます。目に見えない神、理解できない神であれば、どのようにでもごまかすことができます。そのため救いとなる信仰ではありません(真のキリスト教336-3)。

心に悪意や憎悪、排他心を抱く人にも、本当の信仰はできません。彼らの心には、人に思いやりを持つという気持ちがひとかけらもないので、信仰も思いやりがあったとしても、悪意や憎悪にぶつかり、「真珠が塵になるように砕け散」ります。

主はおっしゃいます。「わたしたちは、わたしを遣わされた方のわざを、昼のうちに行わなければなりません。だれも働くことができない夜が来ます。わたしが世にいる間は、わたしが世の光です。」(9:4,5)

主のこのみ言葉は、善から真理を行うことの大切さを語られたものです。そのためにはいつも善にいることができるよう、隣人への思いやりから主の業を働かなければなりません。偽りと悪から働くなら、せっかく真理を得たとしても、真理の光は深い闇に消えてしまいます。

天界の教えはこう説明します。
昼とは、善から真理を行うこと、夜とは悪から偽りを行うことです。・・
人が善の中にいないなら、すなわち、隣人への思いやりを抱かないなら、真理そのものを語ったとしても受け付けません。なぜなら人は、光は肉体と自分の関わる周りの世のことしか興味を抱かず、それを真理だと感じないからです。・・真理の光は深い闇の中に消えてしまいます(AC 6000:3 )。

主は、生来の盲人に対して、地面に唾をして、その唾で泥を作られた。そして、その泥を彼の目に塗って、「行って、シロアム(訳すと、遣わされた者)の池で洗いなさい」(9:6,7)と命じ、盲人は行って洗うと、見えるようになり、帰って行った。と言います。

主の盲人への奇跡は、目を癒すことだけではありません。彼が真理を理解できず、悪と偽りに生きていたことから立ちなおさせることです。

これは「み言葉の字義からの真理によって改心させることを意味します。真理を理解させ、み言葉の字義を意味するシロアムの池で、洗い清めることは、悪と偽りから清めることです」。(AE239[19])
み言葉から教えなければ、主からではなく、別の何かから学ぶことになり、悪と偽りから清くなることはできません。

ヨハネ福音書の中の微妙な言葉の違いから、生来の盲人の立場から、どのように改心が進んでいったかを、見てみます。
最初盲人は、座って物乞いをするしか生きる術はありませんでした。しかし、主イエスの指示に従い、
「行って洗った。すると、見えるようになり、帰って行った。」(9:7)とあくまで受け身の立場、言われたことを実行するだけです。
奇跡を目撃した人たちも、彼について懐疑的です。その人達に問われても、事実を繰り返すだけです。そして、目を癒してくれた恩人のことについて聞かれても、「知りません」(9:12)としか応えません。何の恩も感じていないようです。

主に敵対するパリサイ人のところに連れてゆかれ、事情を聴かれますが、
「あの方が私の目に泥を塗り、私が洗いました。それで今は見えるのです」(9:15)と、恩人がしてくれたことを「あの方」のおかげで、見えるようになったと伝えます。
しかし、パリサイ人にその方のことを問われると、彼は「あの方は預言者です」と答えます。(9:17)
元盲人の認識は進み、知らない人から、預言者へと変化しました。ただの人ではなく、神から言葉を預かった方と認めます。

パリサイ人は、主が安息日に働いたことで「罪びと」という難癖をつけますが、
「あの方が罪人かどうか私は知りませんが、一つのことは知っています。私は盲目であったのに、今は見えるということです。」(9:25) と行いを持って弁護します。盲目を癒してくれたことを認め、恩を感じています。偽りではなく、正しい行いであると認めます。

さらにパリサイ人が主を罪人に定めようとするのに、真っ向から反対します。
「これは驚きです。あの方がどこから来られたのか、あなたがたが知らないとは。あの方は私の目を開けてくださったのです。」(9:30)

主である「あの方」がどこから来たかは、最初のように無知ではなく、自分の持つ知識から確信しています。
「私たちは知っています。神は、罪人たちの言うことはお聞きになりませんが、神を敬い、神のみこころを行う者がいれば、その人の言うことはお聞きくださいます。・・・あの方が神から出ておられるのでなかったら、何もできなかったはずです。」(9:31-33)
主は、神から来られた方である、と堂々と敵であるパリサイ人を前に宣言します。

最初は奇跡の業によって、信じたというだけでした。しかし信仰という自分の心の中の確信が、次第に育ち初めて、不動となっています。悪と偽りに対して、立ち向かう力、善の力を得ています。
パリサイ人という悪と偽りは、「彼を外に追い出し」ます。しかし、これは逆に癒された盲人自身が、悪と偽りを自分自身から追い出したことの証です。

すると主イエスがお越しになって問われます。「あなたは人の子を信じますか。」(9:35)
ここで、彼は最も大切なことを主にお願いします。
「主よ、私が信じることができるように教えてください。その人はどなたですか。」(9:36)

本人からではなく、主から信じるという最も大切なことです。
「主は人の中にある思いやりと信仰であり、人は主の内にある思いやりと信仰である。」(真のキリスト教336-3)
思いやりと信仰の源は主です。人から信じ、信仰するのではありません。信仰と思いやりがあっても、主の力がなければ、信仰は成立しません。
私たちが、自分は信じます、と信仰表明しても、実は人が主から力を借りず信仰することは不可能です。
自分が信仰しているというのは、口先だけです。主から信仰も・仁愛もすべてが来ている、これを確信することが、本当の信仰です。この確信は、人の力ではできません。

彼は「主よ、信じます」と言って、イエスを礼拝した。(9:38)

盲人の目が物理的・医学的に開かれたこと自体が奇跡ではありません。教会の中で、自分の義務も果たすことができず異邦人として、主を認めていなかった者に、正しい信仰の認識を与えることが奇跡の業です。私たちもこの盲人のように、主に近づき、み言葉から真理を学びます。真理を生きぬき、偽りと戦いぬくことで、初めて信仰を得ることができます。

主はおっしゃいます。
「わたしはさばきのためにこの世に来ました。目の見えない者が見えるようになり、見える者が盲目となるためです。」9:39

「さばきのためにこの世にきた」とは、神的真理を啓示するためを意味し、主から賢明である者を見えるようにし、賢明であるとされる者を、自らによって賢明であるとして、盲目とするためです。(AC 9857:9)
私たちは、自分から賢明であると思いあがったり、自分の信仰が誰よりも素晴らしいと自慢したりするのはなく、主から信仰と思いやりを得ていることに気づくことで、初めて本物の認識を得ることができます。「自分は見える」と言い張れば、罪は残ります。

イエスは彼らに言われた。「もしあなたがたが盲目であったなら、あなたがたに罪はなかったでしょう。しかし、今、『私たちは見える』と言っているのですから、あなたがたの罪は残ります。」(9:41)
アーメン


4:10 モーセは【主】に言った。「ああ、わが主よ、私はことばの人ではありません。以前からそうでしたし、あなたがしもべに語られてからもそうです。私は口が重く、舌が重いのです。」
4:11 【主】は彼に言われた。「人に口をつけたのはだれか。だれが口をきけなくし、耳をふさぎ、目を開け、また閉ざすのか。それは、わたし、【主】ではないか。
4:12 今、行け。わたしがあなたの口とともにあって、あなたが語るべきことを教える。」

ヨハネ福音書
9:1 さて、イエスは通りすがりに、生まれたときから目の見えない人をご覧になった。
9:2 弟子たちはイエスに尋ねた。「先生。この人が盲目で生まれたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。両親ですか。」
9:3 イエスは答えられた。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。この人に神のわざが現れるためです。
9:4 わたしたちは、わたしを遣わされた方のわざを、昼のうちに行わなければなりません。だれも働くことができない夜が来ます。
9:5 わたしが世にいる間は、わたしが世の光です。」
9:6 イエスはこう言ってから、地面に唾をして、その唾で泥を作られた。そして、その泥を彼の目に塗って、
9:7 「行って、シロアム(訳すと、遣わされた者)の池で洗いなさい」と言われた。そこで、彼は行って洗った。すると、見えるようになり、帰って行った。

天界の秘義6990.
「目を開け、また閉ざすのか。」とは認識からの信仰を、あるいはその欠如によるための信仰の欠如を意味します。これは「見る」の意義が理解と信仰を持つことであり、(897, 2325, 2807, 3863, 3869, 4403-4411参照)、すなわち、認識の結果としての信仰です。(原語では、開いた者を意味する単語で、正確な意味で目を開いた-そして、開くのに役立つため、認識の結果として見る者を意味します。
認識の欠如の結果から信仰を欠くことが「盲人」の意味であることは、盲人は見ることができないからです。み言葉で、「盲人」が教会外に生きるため、信仰の真理を持たない異教徒を意味しますが、それでも教えられて信仰を受け入れた時は2387参照。主がお癒しになった盲人たちによって以下に意味されます。                                                                                                                                                                                                                                                                         
マタイ9:27-31; 12:22; 20:29-end; 21:14; マルコ 8:22-26; 10:46-end; ルカ 18:35-end; ヨハネ9:1-end.

「真のキリスト教」336[3]
信仰の要点を次に示します。
I  救いとなる信仰は、イエス・キリストを神であり救い主であると信じることにある。
II  信仰は、善く生き、正しい信念を持つ者は、主によって救われる、と要約できます。
III  人は、主に近づき、み言葉から真理を学び、それによって生きることで信仰を得る。
IV  真理の群は、房のように内でまとまり、信仰のレベルが上がるにつれ、完全に近づく。
V  思いやりのない信仰は、信仰ではなく、信仰のない思いやりは、思いりではなく、主がそれらに生命を与えなければ双方とも生命はない。
VI  主と思いやりと信仰は一つであり、それは人の中に生命と意志と理解があるようなものだ:もしそれらが分離すれば、真珠が塵になるように砕け散る。
VII  主は人の中にある思いやりと信仰であり、人は主の内にある思いやりと信仰である。
VIII  思いやりと信仰は、善行の中にともに存在する。
IX  真の信仰、偽の信仰と、偽善的信仰がある。
X  悪人は信仰を持てない。

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