四つの生き物

四つの生き物

御座の前は、水晶に似た、ガラスの海のようであった。そして、御座のあたり、御座の周りに、前もうしろも目で満ちた四つの生き物がいた。4:6

黙示録第四章は、審判の前の天界のあらゆる事柄の調整です(AE258)。この審判はすでに行われ、この新しい天界の教義は、啓示され、私たちに示されています。

第二・第三章に描かれた七つの教会は、新しい教義が啓示される前の教会ですが、その性質は、新教会にも残り、私たちが克服しなければならない面を発見することができます。なぜならこの七つの教会はあらゆる教会のこと、すなわち私たちそれぞれのことであるからです。

6月19日は新教会の日として、聖なる都である神的真理の教義(HD6)が完成し、世で主に従っていた使徒たちを集めて全世界に宣教に送り出されたことを記念する日です(TCR791)。

 

この都は、天から下ってきて、そしてこの「都の門は一日中決して閉じることがない。」(21:25)とされる神的真理の教義ですが、七つの教会の性質は根深く、新教会と称する教会にも残っており、この教会はまだ地の教会に到達できていません。第四章の天界の事柄の調整、すなわち、私たちの内心の深い部分を調整し、再び地上の新教会の完成に向け進みます。

黙示録の第四章には、荘厳で不思議な天界の光景が描かれています。黙示録の著者ヨハネの前に門があり、ラッパのような声に呼ばれて「ここに上れ。この後、必ず起こる事をあなたに示そう。」と声があります。

御座が現れ、その方は碧玉や赤瑪瑙のように見え、周りは緑玉のように見える虹があります。

御座の周りの24の座と、そこに金の冠をかぶる長老が見えます。

そして、稲妻と声と雷鳴が起こり、七つの灯が御座の前で燃えています。

天界の光景で、注意をひきやすく、私たちが学ぶべきものは、「前もうしろも目で満ちた四つの生き物」(4:6)と24人の長老です。四つの生き物はダニエル書(7:3-8)や、エゼキエル書(1:5,6)にも現れますが、黙示録の四つの生き物とは微妙に異なります。もちろん、古代の恐竜のように、過去か未来の世界のどこかにこの四つの生き物が、生きて実在しているというわけでもありません。

この生き物は「御座の中央と御座の回りに」(4:6)にいます。御座の中央に座っておられるのは、主イエス・キリストです。そして御座の周りは、主に近い、より内的な、あるいは高い天界のことです。

四つの生き物とは、ケルビムと呼ばれる天使たちのことです。

しかし天使たちのことを意味するのではなく、「愛の善と仁愛の善を除いては、内的天界に近づいてはならない」という主の守りと、摂理を意味します。さらに、「主ご自身から直接、そして高い天界から間接的に、下位の天界と地上の教会に流入するためには、秩序の内にあらねばならない」が意味されます (AE277) 。すなわち、主の力で維持される、天界の基本原則です。

この主の摂理と、守りの力が以下で説明されています。

 「第一の生き物は、獅子のようであり、第二の生き物は雄牛のようであり、第三の生き物は人間のような顔を持ち、第四の生き物は空飛ぶ鷲のようであった。」(4:7)

獅子、雄牛、人間、空飛ぶ鷲の四つの生き物は、そのような生き物がいるのではなく、いわば表象的存在です。それは、天界では実際見えますが、それぞれ、力、無垢と仁愛、知恵、知性を意味する表象的存在です。霊的な解釈が、実体・実質となります。

獅子の表す「力」は、偽りと悪を消散させ、打ち勝ちます。(AE278) もちろん、獅子が、偽りと悪を消散させるわけではなく、天使が、主の力を用いて、偽りと悪を散らし、地獄に追い返します。そして、天使が使う力の源は、神的真理としてのみ言葉にあります。

み言葉は、天的なことと、霊的なことを表象し相応します。それは、霊的意味の基礎です(AE278-1)。

文字上の意味が、天界と地上で、同じ意味を考えるなら、その両世界で考えた者に相応が産まれ、交流が産まれます。するとこの交流によって、天界の力が、地上に流れてきます。

主による天界の力の流入を産むためには、愛の善と仁愛の善が必要です。なぜなら結びつきを産むのは「愛」であるからです。「愛」以外に結びつきを生み出す力はありません。人と天界が愛によって結びつき、主の力が天界を通して、自然界に流入します。この相応があるのは、主のみ言葉です。この相応の力を悪用すれば、魔法使いと呼ばれ、排斥されます。

そして自然界という究極の場と、天界の結合は、相応を持つみ言葉によって生まれます。

教義は、主ご自身が啓示された天界の教義を除き、人が相手に教えやすいように考えだしたものです。しかし主のみ言葉は違います。なぜなら、み言葉は、主から発し、その小さな部分・部分にいたるまで、天界の結婚があるからです。聖書には似たような言葉が、繰り返されますが、それは善を意味するものと、真理を意味するものが使用され、善と真理は天界の結婚を産み、愛の源になっています。例を挙げてみます。

黙示録の四章の9.10節です。

「また、これらの生き物が、永遠に生きておられる、御座に着いている方に、栄光、誉れ、感謝をささげるとき、二十四人の長老は御座に着いている方の御前にひれ伏して、永遠に生きておられる方を拝み、自分の冠を御座の前に投げ出して言った。」

二十四人の長老とは、主の周りにいる権力を与えられた老人たちのことではありません。この長老の一人になりたいと願う人がいたら、大きな偽りと、権力欲の悪にとらわれています。二十四は、すべてを表す十二の倍数で元の数字と同じ「すべて」を表します。善と真理の知識すべてが意味されています。

「栄光と誉れ」の「栄光」は真理を意味し、「誉れ」は善を意味します。この二つがともに言われるのは、真理と善の結合という天界の結婚を生み出すからです。・・この二つが天界を造り、そして教会を造ります。この結婚はみ言葉の個々の部分にあります。これが、み言葉が最も神聖である理由です。(AE288-3)

神的真理と神的善を受け入れ、天界と教会、そして永遠の生命のすべては主から来ることを心から認めるのは、善から真理にいる者にしかできません。そしてこれができる者だけが信仰と愛にいます。そして信仰と愛にいる者だけが、魂と心で、主と結びつきます。結びつきのある魂と心に、主は流入します。(AE290-2)

結びつきは、初めは疑念的なものが、実行段階以上にまで高められ、初めて起こります。もし結びつきがなければ、それは記憶の中だけにとどまることになります。記憶された知識は消化せずに止まります。消化されて本人のものとなっていないので本人との結びつきを産みません。記憶は人の入り口、入り口のある庭にしかすぎません。

み言葉と教義を学び、実行せずにいる人は、天界の玄関の庭でたむろしている乞食のような存在です。愛することによって、相応が産まれず、消化されて自分のものとされないので、いつまでたっても天界の門はくぐれません。

第二の生き物の「雄牛」は、無垢と仁愛を意味します。雄牛は自然的な人のもつ善です。天界に近づくためには、穢れのない無垢の心と、人に対する優しい心が必要です (AE279) 。人に危害を与えようとする心や、優しい気持ちを持てなければ、天界にはふさわしくありません。天界からはじき出され、近づけません。無垢と仁愛がない者は、天界に近づけないという、主の摂理、守りの力が働きます。

第三の生き物の「人」は、霊的真理への情愛と、知恵です(AE280)。「人」は顔かたちではなく、知恵から人です。もちろん悪知恵は「知恵」ではありません。また霊的真理を、栄光や名誉、そして利得なしに、愛します。愛するとは、生活に使って「知恵」にまで高めることです。霊的真理への情愛から、それを生活に役立てることで、知恵となります。純粋な霊的真理への情愛と知恵がなければ、主と天界には近づけません。そして、正確にいえば、主おひとりが知恵であり、「人」です。

第四の生き物の「空飛ぶ鷹」は知性を表します(AE281)。そして知性は真理から来ます(AE281-7)。

真理が含まれるみ言葉から、真理を得るには知性が必要です。

空飛ぶ鷹は、高く飛び、あらゆる方角に気を配って知性を得ます。私たちが学ぶことによって知性を高めていったように、高い知性がなければみ言葉から真理を引き出せません。空飛ぶ鷹が示す、あらゆる方向に注意を払う知性がなければ、神的なものや天界には近づけないのが、主の守りのお力です。

教義の要点を並べたものは、受験のアンチョコで役立ったという経験のある人には便利ですが、消化されず行われない知識は、入り口の前の前、さらにはるか前にしかありません。それは知性や、知恵や、無垢や仁愛とは、かけはなれています。主の摂理によって、近づくことはできません。

例えれば、頂上にみ言葉がある富士山を、周囲の県から、はるか遠くから眺めているような状態です。み言葉を読まず、地図を読むだけです。地図を読むだけで学んだような気になりますが、実際に富士山への一歩を踏み出していません。そして残念なことに、地図を読むだけでは、偽りとなる可能性が高くなります。

「人から出るものは偽りの知性です。しかし主からみ言葉を通してくるのは真の知性です。」(AE251-9) と天界の教えにあるように、人から出る偽りとなれば、真の知性とはなりえません。

 「見よ。それは雲のように上って来る。その戦車はつむじ風のよう、その馬は鷲よりも速い。ああ。私たちは荒らされる。」(エレ4:13 、AE251-10)

馬は理解を、鷲は知性を表します。拙速な理解は偽りに陥り、富士山にたどり着く前に、樹海で永遠に迷い、心を「荒らされる」ことになります。

主と天界に近づくためには、四つの生き物の摂理で守られている、主と天界に、愛で近づくしかありません。真理を実行するまで、心を高めなければ善にも愛にも、知恵にも、知性にさえなりません。

そして主と天界から、直接・間接の流入を得るために、もう一つ大切なものがあります。

「二十四人の長老は御座に着いている方の御前にひれ伏して、永遠に生きておられる方を拝み、自分の冠を御座の前に投げ出して言った。」(4:10)

二十四人の長老が表す、あらゆる善と真理の知識は、主の御前にひれ伏し、自分の黄金の冠を御座の前に投げ出し、「すべての善と真理は、すべて主おひとりから来ている」と認め、感謝します。

主が感謝を求められているのではありません。私たちが主から善と真理を得るためには、深い卑下が必要なのです。上から下に水が流れるように、卑下のない心には、流入は生まれません。下から上には力は流れません。私たちが主に捧げものをするときも、実は主のものをいただいていることを自覚しなければ、何も生まれません。

二十四人の長老が冠を投げ出して、礼拝したように、善と真理はすべて主のものであることを、行動で確認し表現するとき、私たちに改良が始まります。それはみ言葉では「創造」と呼ばれます。

 「主よ。われらの神よ。あなたは、栄光と誉れと力とを受けるにc方です。あなたは万物を創造し、あなたのみこころゆえに、万物は存在し、また創造されたのですから。」(4:11)アーメン

エレミヤ書 新改訳

4:9 「その日には──【主】のことば──王の心や、高官たちの心は萎え、祭司はあ然とし、預言者はたじろぐ。」

4:10 私は言った。「ああ、【神】、主よ。まことに、あなたはこの民とエルサレムを完全に欺かれました。『あなたがたには平和が来る』と言われたのに、剣が私たちの喉に触れています。」

4:11 そのとき、この民とエルサレムに告げられる。「荒野にある裸の丘から、熱風は、娘であるわたしの民の方に吹く。ふるい分けるためでも、より分けるためでもない。

4:12 それよりも、もっと激しい風が、わたしのために吹いて来る。今や、わたしが彼らにさばきを下す。」

4:13 見よ、それは雲のように上って来る。その戦車はつむじ風のよう。その馬は鷲よりも速い。ああ、私たちは荒らされる。

4:14 「エルサレムよ。救われるために、悪から心を洗いきよめよ。いつまで、自分のうちによこしまな思いを宿らせているのか。

ヨハネ福音書

4:1 その後、私は見た。すると見よ、開かれた門が天にあった。そして、ラッパのような音で私に語りかけるのが聞こえた、あの最初の声が言った。「ここに上れ。この後必ず起こることを、あなたに示そう。」

4:2 たちまち私は御霊に捕らえられた。すると見よ。天に御座があり、その御座に着いている方がおられた。

4:3 その方は碧玉や赤めのうのように見え、御座の周りには、エメラルドのように見える虹があった。

4:4 また、御座の周りには二十四の座があった。これらの座には、白い衣をまとい、頭に金の冠をかぶった二十四人の長老たちが座っていた。

4:5 御座からは稲妻がひらめき、声と雷鳴がとどろいていた。御座の前では、火のついた七つのともしびが燃えていた。神の七つの御霊である。

4:6 御座の前は、水晶に似た、ガラスの海のようであった。そして、御座のあたり、御座の周りに、前もうしろも目で満ちた四つの生き物がいた。

4:7 第一の生き物は獅子のようであり、第二の生き物は雄牛のようであり、第三の生き物は人間のような顔を持ち、第四の生き物は飛んでいる鷲のようであった。

4:8 この四つの生き物には、それぞれ六つの翼があり、その周りと内側は目で満ちていた。そして、昼も夜も休みなく言い続けていた。「聖なる、聖なる、聖なる、主なる神、全能者。昔おられ、今もおられ、やがて来られる方。」

4:9 また、これらの生き物が栄光と誉れと感謝を、御座に着いて世々限りなく生きておられる方にささげるとき、

4:10 二十四人の長老たちは、御座に着いておられる方の前にひれ伏して、世々限りなく生きておられる方を礼拝した。また、自分たちの冠を御座の前に投げ出して言った。

4:11 「主よ、私たちの神よ。あなたこそ栄光と誉れと力を受けるにふさわしい方。あなたが万物を創造されました。みこころのゆえに、それらは存在し、また創造されたのです。」

黙示録解説288

[3] み言葉の中で、「栄光と誉(ほまれ)」はたびたび表現が出てきます、そこにある「栄光」は真理を意味し、「誉れ」は善を意味します。この二つがともに出てくるのは、み言葉の個々には、天界の結婚があり、それは善と真理の結合であるからです。み言葉の個々に、この結婚があります、なぜなら主から発する神的なものは、神的善と結びついた神的真理であり、これらがともになって天界と教会を造るからです。そのため、この結婚がみ言葉の個々にあります。そのため、み言葉は主から発する神的なもので、主ご自身です。これがみ言葉がもっとも神聖である理由です。

【説教アンケートのお願い】

説教の改善のため、以下のアンケートにご協力ください   shiro46m46@gmail.com へ項目と点数をご連絡ください

A学びがあるか    1ほとんど無い・・・5大いにある

Bわかりやすいか 1わかりにくい・・・5よくわかる

C新しい視点か  1 旧い視点・・・・・5斬新で新しい視点

その他(自由記述)

仮庵の祭り;わたしの時・あなたがたの時

「わたしの時はまだ来ていません。しかし、あなたがたの時はいつでも用意ができています。」(ヨハネ7:6)

前章でガリラヤ湖の周辺で、主は飢えた大勢の人にパンを与え、湖の上を歩いて弟子たちをお救いになるという奇跡を行われました。主の助けに手を伸ばして受け入れ、天からの食物のパンが、主ご自身の善を私たちが行うことによって救われることであると教えられました。しかし、主のみ言葉を受け入れない人は、大勢、主から去ってゆきます。

さて、エルサレムでは、仮庵の祭りが行われています。ユダヤ教で、スコットと呼ばれる仮庵の祭りは、「あなたがたの後の世代が、わたしがエジプトの地からイスラエルの子らを導き出したとき、彼らを仮庵に住まわせたことを知るためである」(レビ記23:43)とエジプトからの脱出を記念してレビ記他で定められたものです。時期的には、秋に収穫があったあと、それを感謝する祭で、日本の秋祭りにあたります。

しかし、この祭りには、さらに深い意味があります。天界の秘義によれば、「再生後に善が真理に植え付けられたことに感謝する礼拝を意味する祭り」(天界の秘義9296)が本当の意味です。
弟子をはじめとした人々に、主から真理が与えられ、それを善として「世に現」す時が来ています。
善に真理を植え付けることができた人は、そこから次々に大いに善と真理という収穫が産まれ、歓びの感謝をします。しかし善の源である主を憎む人々は、悪にいるため、悪の状態を意味する、「時」の審判が用意され、ることになります。
「世はあなたがたを憎むことができないが、わたしのことは憎んでいます。わたしが世について、その行いが悪いことを証ししているからです。」(7:7)

主ご自身はどうかといえば、主の目的である、ご自身と父との結合の時、すなわち栄化の時は、まだ来ていません。この時点においては、聖書に書かれた預言をすべて成就してないからです。そのため「わたしの時はまだ来ていません。」とおっしゃいます。エルサレムに入るのも、「表立ってではなく、いわば内密に上って行かれ」(7:10)ることになります。春になれば、パームサンデーの入城が待っています。そして十字架上の最後の試練が、備えられた「わたしの時」となります。

主がエルサレムに入ってからも、ユダヤ人たちは、「あの人はどこにいるのか」と言って、イエスを捜します(7:11)。
この仮庵の祭りでは、主の居場所を探す部分が度々出てきます。そして、居場所に加えて、主の出自、生まれや、教えの源が問われます。

エルサレムのある人たちは、「しかし、私たちはこの人がどこから来たのか知っている。キリストが来られるときには、どこから来るのかだれも知らないはずだ。」(7:27)と、主イエスをガリラヤ出身の者としか認めません。そしてニコデモに対しても、「ガリラヤから預言者は起こらないことが分かるだろう。」(7:52)とガリラヤの出身にこだわります。地上と世から得た情報の枠から出ることができません。

しかし、主はダビデの町、ベツレヘムでお生まれになったとあります。聖書でのお生まれは、ガリラヤ地方ではなく、ベツレヘムです。
また、「天から下って来たパン」(6:51)であることを信じることも、想像することすらできません。主の出身は、ガリラヤではなく、ダビデと同じベツレヘムです。そして主の出自は、地上ではなく、「天」そのものです。そのため、彼らが主を探しても見つけることはできません。本当の出身地である天を探さず、地上しか探さないからです。
「あなたがたはわたしを捜しますが、見つけることはありません。わたしがいるところに来ることはできません。」(7:34)と言われます。

主を「人」の中に探しても、決して見つけることはできません。「人」として探しても、主の源と出自は、地上の「人」ではないからです。
現代でも、主は地上の人だと考え、民族的な遺伝子から、顔形を予想したりします。西欧の人たちは、まるで西欧人のように描き、アフリカ大陸出身者は自分の民族のように描きます。しかし肉体的な特徴から主をとらえようとしても、「時」が来なければ、誰も主をみつけることができません。

本当に主を探して、感謝を捧げるなら、私たちは主の行った本当の業を知る必要があります。
仮庵の祭りは、主が私たちに植え、育てていただく善と真理に気づき、感謝する祭りです。
仮庵の祭りの日は七日間開かれ、八日目は大いなる日とされています。
「特に、あなたがたがその土地の収穫をし終える第七の月の十五日には、七日間にわたる【主】の祭りを祝わなければならない。最初の日は全き休みの日であり、八日目も全き休みの日である。」(レビ23:39)

「祭りもすでに半ばになったころ、イエスは宮に上って教え始められた。」(7:14)
仮庵の祭りの日の最中、主は教えを説かれます。ユダヤ人たちは、その豊富な学問の知識に感嘆し、
「どうして学問があるのか。」と学問の出自、源を問います。

「わたしの教えは、わたしのものではなく、わたしを遣わされた方のものです。」(7:16)
ご自分のものではないこと、遣わされた方のものであることを教えられます。そしてこのみ教えの証拠となるものも教えられます。
「自分から語る人は自分の栄誉を求めます。しかし、自分を遣わされた方の栄誉を求める人は真実で、その人には不正がありません。」(7:18)

天使は決して自分から語りません。天使たちは、
『はい』は『はい』、『いいえ』は『いいえ』と(マタ 5:37)だけ答えます。
彼らは、「それ以上のことは悪い者から出ている」ことを知っています。
聖書の記述を組み合わせて、自分たちの創り出した教えを語るのは、自分たちの知力を誇り、自分の栄誉を求めています。しかし、そうであってはなりません。自分の言動の中に自分への栄誉が含まれてないか点検します。自分から出るものを徹頭徹尾、否定して、その御心だけを求めます。その探求の中に自分への愛や世間への愛が含まれてないか、点検します。

この点検は、モーセが与えた律法(7:19)によって点検することが可能です。
例えば、モーセ五書の申命記によれば、割礼は「心の包皮」にしなければなりません。「うなじを固く」しないよう、「心の包皮」という汚れたものを切り捨てます(申 10:16)。悪や偽りから考えないよう心に割礼を施します。この戒めを守れば、「心に割礼を施し、あなたが心を尽くし、いのちを尽くして、あなたの神、【主】を愛し、そうしてあなたが生きるようにされ」(申 30:6)ます。悪と偽りを徹底して拒めば、主から本物の愛、隣人への愛が流入して、平安と幸福が与えられます。
モーセが与えたのが肉体の割礼ではなく、心の割礼であり、私たちの中の悪と偽りから清めることです。これを確認することで、主のみ言葉は、純粋に私たちへの愛から出ていることがわかります。

「だれでも神のみこころを行おうとするなら、その人には、この教えが神から出たものなのか、わたしが自分から語っているのかが分かります。」(7:17)
私たちが神のみこころを行おうとせず、誰かの利益や、思い込みのために行おうとすれば、それは神のみこころでないことはすぐにわかります。この地上のある人数だけが救われるとこじつける宗教は、それが主の御心でないことは一目瞭然です。主はこの地球の、そしてある時代の人間を愛しておられるのではなく、全宇宙で、主を認め、愛し、隣人愛に生きる人間を絶えず創造し、主の天界のメンバーとされたいと望まれているからです。

私たちが知っている宇宙は、時を経てゆくごとに、そのごく一部しか知らないことがわかってきます。最新の望遠鏡を宇宙に向けると、惑星一個どころではなく、銀河が次々と発見され、その誕生も確認されています。そして、宇宙の果てはまだ観測されていません。これを知っている人もいません。その中で、救う人間と救わない人間を、恣意的にわけ、何人かに絞ってしまうような存在は、「神」という名にふさわしくありません。そして、その方が支配される世界であるなら、そんな世界には生きていたくありません。存在したくもありません。

私たちは、意欲だけでも、神のみこころを行おうとしなければなりません。神様は、救われない人を作り出す解釈をしたり、簡単に切り捨てたりされません。
もしそうでなければ、神様と一体となり、天界に行くことなど不可能です。主がおっしゃったように、私たちは少なくとも「神のみこころを行う」ことを、目的としなければなりません。そして自分を含め、「うわべで人をさばかないで、正しいさばきを (7:24)しなければなりません。

仮庵の祭りの日は七日間開かれ、八日目は大いなる日とされています。この日が描かれています。
さて、祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立ち上がり、大きな声で言われた。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおり、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになります。」(7:37,38)

主はご自身が生命そのものであることを、祭りの終わりの大いなる日に再び宣言されます。
それはヨハネの前章で「わたしがいのちのパンです。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。」(6:35)とおっしゃったのと同じです。

これは肉体の生命ではありません。霊的生命です。霊的生命は、主イエス以外からは発しません。
天界の教えには、この霊的生命が、信仰と仁愛であると言われています。
「人は、生命そのものである主に近づくとき、この生命を得ます。そしてそれは信仰と仁愛の生命です。」(真のキリスト教358)

自分以外の人に優しくすることこそ、真の生命です。これに気づかせ、力を与えて、仁愛の業にされるのは主イエス・キリストだけです。私たちが自分からただ単に、人に優しくしても、それは「小さな親切」でしかなく、そしてそれは人によっては「大きなお世話」にしかなりません。しかし主がこの親切を願っておられることを知って、主から行えば、本物の生命になります。自分の業ではなく、主の業であると信じて行えば、主から生命の流入があり、私たちも主も幸せになります。

この霊的生命の流入こそが、仮庵の祭りの効果です。主の宣言によって、私たちはこれを味わい、感じます。この流入を、常に感じ、味わうことができれば、主と私たちの状態は一致します。これはこの世では簡単ではありません。父と子、父である神的善と、子である神的真理の合致は、主の栄化そのものであり、私たちはその神的善と神的真理の合致の効果の一端だけをこの世で垣間見ることができます。私たちの再生が進み、愛から真理を行うようになれば、私たちはこの仮庵の祭りを味わい、喜び楽しむことができます。

「最初の日に、あなたがたは自分たちのために、美しい木の実、なつめ椰子の葉と茂った木の大枝、また川辺の柳を取り、七日間、あなたがたの神、【主】の前で喜び楽しむ。」(レビ記23:40)アーメン。

レビ記
23:34 「イスラエルの子らに告げよ。この第七の月の十五日には、七日間にわたる【主】の仮庵の祭りが始まる。
23:35 最初の日には、聖なる会合を開く。あなたがたは、いかなる労働もしてはならない。
23:36 七日間、あなたがたは食物のささげ物を【主】に献げなければならない。八日目も、あなたがたは聖なる会合を開かなければならない。あなたがたは食物のささげ物を【主】に献げる。これはきよめの集会であり、いかなる労働もしてはならない。
23:37 以上が【主】の例祭である。あなたがたは聖なる会合を召集して、全焼のささげ物、穀物のささげ物、交わりのいけにえ、注ぎのささげ物を、食物のささげ物として、それぞれ定められた日に【主】に献げなければならない。
23:38 このほかに【主】の安息日、また、あなたがたが【主】に献げる献上物、あらゆる誓願のささげ物、あらゆる進んで献げるものがある。
23:39 特に、あなたがたがその土地の収穫をし終える第七の月の十五日には、七日間にわたる【主】の祭りを祝わなければならない。最初の日は全き休みの日であり、八日目も全き休みの日である。
23:40 最初の日に、あなたがたは自分たちのために、美しい木の実、なつめ椰子の葉と茂った木の大枝、また川辺の柳を取り、七日間、あなたがたの神、【主】の前で喜び楽しむ。
23:41 年に七日間、【主】の祭りとしてこれを祝う。これはあなたがたが代々守るべき永遠の掟であり、第七の月に祝わなければならない。
23:42 あなたがたは七日間、仮庵に住まなければならない。イスラエルで生まれた者はみな仮庵に住まなければならない。
23:43 これは、あなたがたの後の世代が、わたしがエジプトの地からイスラエルの子らを導き出したとき、彼らを仮庵に住まわせたことを知るためである。わたしはあなたがたの神、【主】である。」
23:44 こうしてモーセはイスラエルの子らに【主】の例祭のことを告げた。

ヨハネ福音書
7:1 その後、イエスはガリラヤを巡り続けられた。ユダヤ人たちがイエスを殺そうとしていたので、ユダヤを巡ろうとはされなかったからである。
7:2 時に、仮庵の祭りというユダヤ人の祭りが近づいていた。
7:3 そこで、イエスの兄弟たちがイエスに言った。「ここを去ってユダヤに行きなさい。そうすれば、弟子たちもあなたがしている働きを見ることができます。
7:4 自分で公の場に出ることを願いながら、隠れて事を行う人はいません。このようなことを行うのなら、自分を世に示しなさい。」
7:5 兄弟たちもイエスを信じていなかったのである。
7:6 そこで、イエスは彼らに言われた。「わたしの時はまだ来ていません。しかし、あなたがたの時はいつでも用意ができています。
7:7 世はあなたがたを憎むことができないが、わたしのことは憎んでいます。わたしが世について、その行いが悪いことを証ししているからです。
7:8 あなたがたは祭りに上って行きなさい。わたしはこの祭りに上って行きません。わたしの時はまだ満ちていないのです。」
7:9 こう言って、イエスはガリラヤにとどまられた。
7:10 しかし、兄弟たちが祭りに上って行った後で、イエスご自身も、表立ってではなく、いわば内密に上って行かれた。
7:11 ユダヤ人たちは祭りの場で、「あの人はどこにいるのか」と言って、イエスを捜していた。
7:12 群衆はイエスについて、小声でいろいろと話をしていた。ある人たちは「良い人だ」と言い、別の人たちは「違う。群衆を惑わしているのだ」と言っていた。
7:13 しかし、ユダヤ人たちを恐れたため、イエスについて公然と語る者はだれもいなかった。
7:14 祭りもすでに半ばになったころ、イエスは宮に上って教え始められた。
7:15 ユダヤ人たちは驚いて言った。「この人は学んだこともないのに、どうして学問があるのか。」
7:16 そこで、イエスは彼らに答えられた。「わたしの教えは、わたしのものではなく、わたしを遣わされた方のものです。
7:17 だれでも神のみこころを行おうとするなら、その人には、この教えが神から出たものなのか、わたしが自分から語っているのかが分かります。
7:18 自分から語る人は自分の栄誉を求めます。しかし、自分を遣わされた方の栄誉を求める人は真実で、その人には不正がありません。
7:19 モーセはあなたがたに律法を与えたではありませんか。それなのに、あなたがたはだれも律法を守っていません。あなたがたは、なぜわたしを殺そうとするのですか。」
7:20 群衆は答えた。「あなたは悪霊につかれている。だれがあなたを殺そうとしているのか。」
7:21 イエスは彼らに答えられた。「わたしが一つのわざを行い、それで、あなたがたはみな驚いています。
7:22 モーセはあなたがたに割礼を与えました。それはモーセからではなく、父祖たちから始まったことです。そして、あなたがたは安息日にも人に割礼を施しています。
7:23 モーセの律法を破らないようにと、人は安息日にも割礼を受けるのに、わたしが安息日に人の全身を健やかにしたということで、あなたがたはわたしに腹を立てるのですか。
7:24 うわべで人をさばかないで、正しいさばきを行いなさい。」
7:25 さて、エルサレムのある人たちは、こう言い始めた。「この人は、彼らが殺そうとしている人ではないか。
7:26 見なさい。この人は公然と語っているのに、彼らはこの人に何も言わない。もしかしたら議員たちは、この人がキリストであると、本当に認めたのではないか。
7:27 しかし、私たちはこの人がどこから来たのか知っている。キリストが来られるときには、どこから来るのかだれも知らないはずだ。」
7:28 イエスは宮で教えていたとき、大きな声で言われた。「あなたがたはわたしを知っており、わたしがどこから来たかも知っています。しかし、わたしは自分で来たのではありません。わたしを遣わされた方は真実です。その方を、あなたがたは知りません。
7:29 わたしはその方を知っています。なぜなら、わたしはその方から出たのであり、その方がわたしを遣わされたからです。」
7:30 そこで人々はイエスを捕らえようとしたが、だれもイエスに手をかける者はいなかった。イエスの時がまだ来ていなかったからである。
7:31 群衆のうちにはイエスを信じる人が多くいて、「キリストが来られるとき、この方がなさったよりも多くのしるしを行うだろうか」と言い合った。
7:32 パリサイ人たちは、群衆がイエスについて、このようなことを小声で話しているのを耳にした。それで祭司長たちとパリサイ人たちは、イエスを捕らえようとして下役たちを遣わした。
7:33 そこで、イエスは言われた。「もう少しの間、わたしはあなたがたとともにいて、それから、わたしを遣わされた方のもとに行きます。
7:34 あなたがたはわたしを捜しますが、見つけることはありません。わたしがいるところに来ることはできません。」
7:35 すると、ユダヤ人たちは互いに言った。「私たちには見つからないとは、あの人はどこへ行くつもりなのか。まさか、ギリシア人の中に離散している人々のところに行って、ギリシア人を教えるつもりではあるまい。
7:36 『あなたがたはわたしを捜しますが、見つけることはありません。わたしがいるところに来ることはできません』とあの人が言ったこのことばは、どういう意味だろうか。」
7:37 さて、祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立ち上がり、大きな声で言われた。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。
7:38 わたしを信じる者は、聖書が言っているとおり、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになります。」
7:39 イエスは、ご自分を信じる者が受けることになる御霊について、こう言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊はまだ下っていなかったのである。
7:40 このことばを聞いて、群衆の中には、「この方は、確かにあの預言者だ」と言う人たちがいた。
7:41 別の人たちは「この方はキリストだ」と言った。しかし、このように言う人たちもいた。「キリストはガリラヤから出るだろうか。
7:42 キリストはダビデの子孫から、ダビデがいた村、ベツレヘムから出ると、聖書は言っているではないか。」
7:43 こうして、イエスのことで群衆の間に分裂が生じた。
7:44 彼らの中にはイエスを捕らえたいと思う人たちもいたが、だれもイエスに手をかける者はいなかった。
7:45 さて、祭司長たちとパリサイ人たちは、下役たちが自分たちのところに戻って来たとき、彼らに言った。「なぜあの人を連れて来なかったのか。」
7:46 下役たちは答えた。「これまで、あの人のように話した人はいませんでした。」
7:47 そこで、パリサイ人たちは答えた。「おまえたちまで惑わされているのか。
7:48 議員やパリサイ人の中で、だれかイエスを信じた者がいたか。
7:49 それにしても、律法を知らないこの群衆はのろわれている。」
7:50 彼らのうちの一人で、イエスのもとに来たことのあるニコデモが彼らに言った。
7:51 「私たちの律法は、まず本人から話を聞き、その人が何をしているのかを知ったうえでなければ、さばくことをしないのではないか。」
7:52 彼らはニコデモに答えて言った。「あなたもガリラヤの出なのか。よく調べなさい。ガリラヤから預言者は起こらないことが分かるだろう。」
7:53 〔人々はそれぞれ家に帰って行った。

天界の秘義9296.
「年の終わりに、あなたの勤労の実を畑から取り入れるときの収穫祭を行わなければならない」(出エ23:16)とは、善の植え付けと、その後の再生と、破滅からの完全な救済への、感謝の心からの礼拝を意味します。
これは、祭りの意味が(9286, 9287, 9294で扱われたように)主への礼拝と感謝、感謝の心からの礼拝であることから明らかです。刈入れの意味が、善への真理の植え付けに関するなら、善自体の植えつけです。「年の終わり」の意味は、労働の終わりを、「あなたの勤労の実を畑から取り入れるとき」の意味は、善の中に植え付けられたものすべての楽しみと役立ちです。
「労働」によって意味される畑からの勤労の実だけではなく、地の果実を意味するぶどう畑とオリーブ畑が意味されます、これはモーセにあるこの祭りの記述から明らかです。

あなたの打ち場とあなたの踏み場から取り入れが済んだとき、七日間、仮庵の祭りをしなければならない。あなたの神、【主】のために、【主】が選ばれる場所で七日間、祭りをしなければならない。あなたの神、【主】があなたのすべての収穫、あなたの手のすべてのわざを祝福されるからである。あなたは大いに喜びなさい。(申命16:13,15)

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創世記44章: ユダの懇願 

「ですから、どうか今、このしもべを、あの子の代わりに、あなた様の奴隷としてとどめ、あの子を兄弟たちと一緒に帰らせてください。」(44:33)

ラケルを母とする二人兄弟の兄ヨセフは、他のヤコブの十人の息子たちの嫉妬を買い、穴に放り込まれ、エジプトに売られます。
出世したヨセフは、食料調達に来た兄弟たちと再会しますが、弟のベニヤミンを連れてくるよう要求します。二度目の穀物調達のため、カナンからエジプトに旅してきたヤコブの息子たちは、飢餓の危険から、ヨセフの要求通りベニヤミンも連れてきます。久しぶりに弟ベニヤミンを見たヨセフは、懐かしさのあまり奥の部屋で一人泣きます。気を取り直したヨセフは、兄弟たちと酒宴をしますが、「ベニヤミンの分け前はほかのだれの分け前よりも五倍も多かった」とそっと実の弟だけに、破格の扱いをします。

兄弟たちとの宴会の後も、ヨセフのたくらみは続きます。
「あの者たちの袋を、彼らが運べるかぎりの食糧で満たし、 一人ひとりの銀を彼らの袋の口に入れておけ。それから、私の杯、あの銀の杯は、一番年下の者の袋の口に、穀物の代金と一緒に入れておけ。」(44:1,2)
と、家の管理者に命じ、そして、ひそかにベニヤミンへの破格の扱いを続けます。しかし、兄弟たちが町を出たところで、家の管理者は、ヨセフの命令で兄弟たちを盗みの嫌疑をかけて引き留めます。兄弟たちは、もし盗みがあれば、盗んだ者は殺し、兄弟たちは奴隷となると、言質を与えてしまいます。そして、ヨセフがたくらんだ通り、兄弟たちを盗みの証拠を抑えます。ベニヤミンの袋からは、ヨセフが命じた通り、銀の杯が出てきます。兄弟たちは見事にヨセフの計略にはまります。兄弟の一人、ユダが兄弟たちを代表して、ベニヤミンを大切にしている父ヤコブ(イスラエル)の事情を切々と訴え、自分だけをとらえるようヨセフに懇願します。

過去に自分を殺そうとして売り渡したといういきさつがあったとはいえ、ヨセフの計略は露骨です。陰で泣きながらも、それを表に出さず、冷酷に扱うふるまいは普通ではありません。これに対して、ユダは非常に正直な対応をします。父が悲しまないよう、自分だけを犠牲にしてくれという誠意は、人の心を打ちます。

しかし、このやりとりが聖なる書とされるのは、何か深い意味があるはずです。単なる自己犠牲の申し出なら、よくある美談の一つにしかすぎません。

ここで登場人物が意味する事柄を天界の教えから、吟味します。神のみ言葉である聖書には、人の個性ではなく、表象される事柄がそのテーマとされます。実際にあったこととはいえ、啓示がなければ誰もその表象はわかりません。
この章の主要な登場人物は、エジプトの支配者のヨセフと、同じ母から生まれた末弟ベニヤミン、そしてカナンに残っている父親のイスラエル(ヤコブ)と、異母兄弟の一人のユダです。ただし表象する事柄も、扱う内容に応じて変化します。

ここでヨセフは天的な「内なる人」、すなわち天的善(AC4592)を意味し、主イエスとその栄化を表象します。弟のベニヤミンは「新しい真理」(AC5812)、そして父親のイスラエルは霊的善(AC5803)を、ユダは自然的善(AC5775)を意味します。

善がなければ教会は成立しません。真理を理解から意志にまでおろし、実行することで、教会が誕生します(AC5826)。善と真理が結ばれることで、教会が生まれます。しかし真理だけでは教会は成立しません。なんらかの善がない限り、教会は存在できません。そして真理と善が結びつかない限り、何も存在できません。

真理の教会という名称の教会があります。しかし教会は建物や組織、そして真理によっては成立しません。ましてや「翻訳」によっても成立しません。
翻訳した書籍などの出版が教会の中心事項とするなら、一方通行のネット配信だけで教会は成立することになります。そう考えている人は、教会は教義などの真理によって成立すると考えているのかもしれません。

しかし、教会は善によって成立します。霊的善と結ばれた真理によって教会が成立します(AC5813)。真理を頭で納得して、覚悟を決めて意志に入れ、行ったときに善となり、教会が誕生します。教義や真理だけでは教会は成立しません。年から年中、真理について議論し、言い争う教会は、想像しただけでもうんざりです。そこには、私たちが求めている善、温かみや愛・仁愛などが全くないからです。しかし、善は真理という形にならなければ、誰も考えることすらできません。単なる暖かいムードのようなものだけで終わってしまいます。

では、霊的善や天的善と結ばれるべき真理は、どこにあるのでしょうか?
み言葉の中では、「杯」ここでは「銀の杯」で表されています。杯で表されるのは「内的真理」であり、それは神的な天的な人、主を表象するヨセフから与えられます(AC5788)。私たちの聖餐式でも、パンの後に、杯からワインをいただきます。主を表象する牧師から、杯を示され、私たちが手を伸ばして杯を受け取り、中にあるワインを飲んで自分のものとします。杯がなければワインを運べません。

内的真理とは善から発する真理です。仁愛の善が、意志、情愛から発したものです。そして、服従や宗教的信仰から発していないものです。後者は、目に見える外的教会の善にしかすぎません。(AC5843) しかし内的真理は、なかなか形として把握できません。この世のものではなく、天から与えられるものであるからです。たとえとして、仁愛の善という言葉を聞いても、どういうものかすぐにイメージできる人はわずかです。困っている人に助けを与える、と漠然としか考えることができませんし、み言葉も、やもめや身障者を助けなさいとしか記されていません。やもめや身障者の本質は何かを考え、啓示されなければ理解できません。霊的なやもめや、身障者の意味を教えられ、知らなければ、助けることはできません。その人たちを助けるという霊的善、内的な善は行えません。

父であるイスラエルは霊的善を意味しますが、善から発した真理がなく、この真理と結ばれないなら「あの子がいないのを見たら、父は死んでしまうでしょう。」(44:31)と、教会は滅びてしまうことを警告しています。これが、父イスラエルが、末子のベニヤミンを決して手放そうとしなかった理由です。

イスラエルは真理の善を意味し、真理が意志に入って実行することを意味します(AC5826)。実行しない真理は、結果が出ないのでイメージすらできません。何を行えばいいのか想像もできない教会は、存在できません。存在できなければ、イスラエルと呼ばれる教会は崩壊してしまいます。教会は、死においやられます。真理だけの教会や、形だけの教会、教義だけの教会にとどまるなら、教会とはいえません。教会の役立ちがどこにもないからです。教義はこうだから、それに従え、という強制だけになります。宗教的な権威など偉いと言われる人が言っているから、とりあえず従おうか、と考えますが、実は心から従ってはいません。見かけだけ、形を整えるだけです。

そのようなやり方は「教会」を滅ぼします。いままで立ち上がった日本の新教会が、次々と滅びてゆくのは、真理の善とならず、生命がなかったからです。真理を行って善として、示さなかったからです。

しかし意志と行動の中に真理を受け入れるなら、「神の子」となります。ヨハネ福音書の初めにもあります。
「神の子どもとなる特権をお与えになった。この人々は、血によってではなく、肉の望むところでも人の意志によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。」(ヨハネ1:12,13)
血によって生まれるとは、仁愛に暴力を加えることです。そして肉の望むところとは自己愛と世間愛の悪に引きずられること。人の意志とは、偽りによって説き伏せられることです(AC6826)。

人の意志とは、世の中の風潮や「多様性」という名に説き伏せられて、神の法を無視し、神の法を捨ててしまうことです。しかし、ただ真の生命とは何かを求めて、真理を実行するなら、その真理は「新しい真理」となり、善を無限に生み出す「真理」となります。これがベニヤミンの意味する真理です。ベニヤミンはヤコブの兄弟の末に生まれたように、人が再生する段階で初めて生まれる真理です。この真理が生まれて、天的善と結ばれるなら、無数の真理が生まれます。

ベニヤミンの袋の口に、銀の杯を置いたのは、主を表す天的善であるヨセフでした。ベニヤミンは主から内的真理を得ていることを気づかせるため、ヨセフは家の管理者に手の込んだ芝居を行わせたのです。

ヨセフは天的善で、主イエス・キリストの表象です。主は常に流入してはいますが、その力を明らかにはしません。家の管理者に手の込んだ芝居を行わせ、自分の存在を隠し、消していますが、それは、すべて善は自分たちのものではなく、主から発していることを教えるためです。主から発しているものを、それ以外のもの、例えば自分や、教義、などから発していることとするなら、それは「霊的な盗み」となります。

翻訳した教義をコピーすることが盗みではなく、翻訳者が自分の真理・善としてしまうことが盗みです。自分の業績として、人に喧伝することが霊的窃盗です。説教者が自分の真理として伝えるのも、霊的な盗みです。絶えず真理の出どころを明示しなければ、霊的窃盗となります。現代日本でも、出所や典拠を記さなければ、著作権法違反として非難されます。

霊的盗みとされないためには、常に卑下と謙遜が必要です。自分から発するものはすべて悪であり、主から発するものが善であると心から認めます(AC5758)。もしこれができなければ、天界には入れません。天界の外側に居続けます。これは霊界の法則です。霊界の法則は、主ご自身です。霊界の法則を破る限り、法の源である主、主の作られた天界には入れません。

別の霊界の法則があります。「流入は流出に従う」という法則です。
流入とは、上の段階から下の段階に流れ込むことです。霊的な力や主の力が、私たちに流れてくることです。これが逆になることはありません。逆に自然的なものが、霊的なものに影響することはありません。霊的なものと自然的なものは原因と結果の関係です。結果が原因に影響するという考え方は、定義を誤っていて、成立しません。この法則は、原因がなければ結果は起こらないということを述べています。

流出がなければ、流入もなくなります。私たちが善と真理を実行すれば、実行するだけ主から善と真理が流入してきます。まったく真理を意志し行わなければ、善と真理は主から流入しません。仁愛から善を行わないのであれば、仁愛の善は全く流入してこないことになります (AC5828) 。

もし、私たちが善を行えば、その源は私たちではありません。しかしその善の源が霊界であり、さらに主であることを理解し、これは自分のものではなく、主の御業を行っているのだと、常に意識していれば、流入は継続します。流出が継続すれば流入も継続します。この意識がある限り、私たちは霊的な窃盗を行わず、正しい流れがあり、生命が生まれ、存在し続けることになります。

創世記44章の最後にユダが懇願したこと、自然的善であるユダが奴隷としてとどまるとは、自由を失い、自由でない状態から善を行おうとすることです。新しい真理を意味するベニヤミンが、父であるイスラエル、霊的善のもとに帰らない限り、私たちは奴隷となります。しかし、ベニヤミンが善のもとに帰らない限り、教会は滅びてしまいます。ユダの懇願した、ベニヤミンの帰還、新しい真理が生まれ続けるかどうかは、教会の存続をかけた切実な願いでした。

「ですから、どうか今、このしもべを、あの子の代わりに、あなた様の奴隷としてとどめ、あの子を兄弟たちと一緒に帰らせてください。」(44:33) アーメン。


創世記(新改訳)

44:1 ヨセフは家を管理する者に命じた。「あの者たちの袋を、彼らが運べるかぎりの食糧で満たし、 一人ひとりの銀を彼らの袋の口に入れておけ。
44:2 それから、私の杯、あの銀の杯は、一番年下の者の袋の口に、穀物の代金と一緒に入れておけ。」彼はヨセフのことばどおりにした。
44:3 明け方、一行はろばとともに送り出された。
44:4 彼らが町を出て、まだ遠くへ行かないうちに、ヨセフは家を管理する者に言った。「さあ、あの者たちの後を追え。追いついたら、『なぜ、おまえたちは悪をもって善に報いるのか。
44:5 これは、私の主君が、飲んだり占いをしたりするときに、いつも使っておられるものではないか。おまえたちのしたことは悪辣だ』と彼らに言うのだ。」
44:6 彼は追いついて、このことばを彼らに告げた。
44:7 彼らは言った。「あなた様は、なぜ、そのようなことをおっしゃるのですか。しもべどもがそんなことをするなど、あり得ないことです。
44:8 袋の口で見つけた銀でさえ、カナンの地からあなた様のもとへ返しに来たではありませんか。どうして、あなた様のご主人の家から銀や金を盗んだりするでしょう。
44:9 しもべどものうちで、それが見つかった者は殺してください。そして、私たちもまた、ご主人の奴隷になります。」
44:10 彼は言った。「今度も、おまえたちの言うことはもっともだが、それが見つかった者は私の奴隷とし、ほかの者は無罪としよう。」
44:11 彼らは急いでそれぞれ自分の袋を地面に降ろし、それぞれその袋を開けた。
44:12 彼は年長の者から調べ始めて、年下の者で終えた。すると、その杯はベニヤミンの袋から見つかった。
44:13 彼らは自分の衣を引き裂いた。そして、それぞれろばに荷を負わせ、町に引き返した。
44:14 ユダと兄弟たちがヨセフの家にやって来たとき、ヨセフはまだ、そこにいた。彼らはヨセフの前で顔を地に伏せた。
・・・
44:30 私が今、あなた様のしもべである私の父のもとへ帰ったとき、あの子が私たちと一緒にいなかったら、父のいのちはあの子のいのちに結ばれていますから、
44:31 あの子がいないのを見たら、父は死んでしまうでしょう。しもべどもは、あなた様のしもべである白髪頭の父を、悲しみながらよみに下らせることになります。
44:32 というのは、このしもべは父に、『もしも、あの子をお父さんのもとに連れ帰らなかったなら、私は一生あなたの前に罪ある者となります』と言って、あの子の保証人となっているからです。
44:33 ですから、どうか今、このしもべを、あの子の代わりに、あなた様の奴隷としてとどめ、あの子を兄弟たちと一緒に帰らせてください。
44:34 あの子が一緒でなくて、どうして私は父のところへ帰れるでしょう。父に起こるわざわいを見たくありません。」

ヨハネ福音書
1:12 しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとなる特権をお与えになった。
1:13 この人々は、血によってではなく、肉の望むところでも人の意志によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。

天界の秘義5827
「一人は私のところから出て行ったきり」とは内的善の見かけ上の失踪です。「出て行ったきり」が失踪を意味することから明らかで、ヨセフが内的善を意味することはすでに取り扱っています。この失踪が単なる見かけ上なのは自明です、なぜならヨセフはまだ生きているからです。この意味は以下のようです。:ヨセフに関して最初から最後に至る記録は、主の人間性の栄化の順を表しています。主の栄化は人間の再生のイメージでありモデルであるため、低い意味では人間の再生をも描いています(3178, 3212, 3296, 3490, 4402, 5688)。
[2] 人の再生に関しては、最初の段階では、真理によって善にもたらされるため、真理は明らかに見ることができます。なぜならそれはこの世の光の内に存在し、肉体的感覚から成る考えにそう遠く離れてないからです。しかし善についてはそうではありません、善は天界の光の中に存在するため、肉体的感覚から成る考えから離れていて、人の霊の内側に存在するからです。したがって信仰の真理は明らかに見えても、善はそうではありません。たとえ善は絶えず存在し、真理の中に流入し、生命を与えているとしても。もしそうでなかったら人は再生することができません。しかしひとたび状態が完了すれば、善は自らを表し、隣人への愛からそうして、真理への情愛を通して生命に導きます。これらの事柄も、ヨセフが取り去られ、父から見えなくなりますが、後に父に自身を明かすことによって表されます。これが、内的善が見かけ上失踪して、「出て行ったきり」となることで意味されることが理解されます。

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