羊たちの門

そこで、再びイエスは言われた。「まことに、まことに、あなたがたに言います。わたしは羊たちの門です。(ヨハネ10:7)

主は、羊たちの門であると述べられます。

羊たちといえば、大人しく飼い主に聞き従う群衆のことのように聞こえます。羊は、概ね大人しくしていますが、すべてが常に穏やかというわけではありません。羊には大人しいものもいれば、暴れるものもいます。
しかし、天界の教えは、
「羊は、仁愛の善にいる者を意味し、そのため抽象的な意味で「羊」は仁愛の善を意味」 (AE1154)すると教えます。
羊それぞれの個性に注目するのではなく、羊が「仁愛の善」すなわち、隣人を思いやる心から生まれる善を行う人あるいは、その性格自体を意味します。
もちろん、善を行わない人、みせかけだけの善を行う人、悪を行う人は、羊ではありません。
羊が、門の囲いの中にいるかどうかは、どのように区別されているのでしょうか?

主の声を聞き分け、従う人たちです。「わたしの羊たちはわたしの声を聞き分けます。わたしもその羊たちを知っており、彼らはわたしについて来ます。」(10:27)
もちろんこれは、主の肉声を聞き分けるということではありません。さらに、よく街中にいる「主の声を聞いた」と主張する人のことでもありません。声とは、肉声や霊の声ではなく、主の神的真理のことであり、すなわち、み言葉のことです (AC9926:3) 。
この神的真理は、仁愛の善にいる者に流入し、知性を与え、善にいるのに応じて知恵を与えます(AE 261:2)。み言葉を大切にし、深く学び、それを神からの言葉として、理解し守る人々に、この世の生活でいかに戒めを守り、隣人に役立てるか、という知恵が与えられます。闇雲(やみくも)に神の声を聴いたと騒ぎ立てるのではなく、深く思慮した上で守る人のことです。

羊の門には様々な人がやってきます。中には、人に善かれと思って主の前に立ち、決して害意や悪意を持たず、様々な真理を述べたり、善いことを行ったりする人が含まれています。牧師や聖職者と呼ばれる人も、その内の一人である可能性が高いと思われます。

しかし、主はおっしゃいます。「わたしの前に来た者たちはみな、盗人であり強盗です。」(10:8 )
聖職者も含めて、全員が盗人となります。

もし世で、私たちが、同じようなことを言えば、来た人すべてを全否定しているように聞こえます。
これは何かの間違いでしょうか?それとも何か深い意味があるのでしょうか?
しかし、ここで盗人・強盗とおしゃっているのは、間違いではありません。

天界の教えによれば、
「すべての霊的善、すなわち信仰と思いやりのすべては、主おひとりから来ており、人からは全くきていません。そのため「盗み」によって、主に属するものを人に帰することが意味されます。これを行う人は「盗人と強盗」と呼ばれ(AC8906)」ることになるからです。

十戒には「盗むなかれ」という戒めがあります。人のものを盗んだら、法律では犯罪者とされ、日常生活で盗み癖のある人や、生活に困った人ならともかく、一見、簡単な戒めのように感じます。
しかし、善いことを話し、行ったつもりでも、それは自分から行ったものではないと意識することは、簡単ではありません。手柄を誇りたいのは、私たちの持って生まれた本性でもあり、社会では自分の功績を誇るよう推奨する風潮まであるからです。

そして、人はついつい善いことは自分が語り、行ったものとして、自分の功績とするので、これを拒まねばなりません。これは、真のキリスト教の冒頭の新教会の信条(TCR 3)にも明記され、特に守らなければならない戒めです。私たちが意識して善と真理のすべてを主に帰さないなら、残念ながら、私たちは盗人・強盗となってしまいます。

主はご自身のことを、羊たちの門(10:7)、門(10:9)、良い牧者(10:11)と形容されています。

「門」は真理、善、あるいは主に導入し、囲いに入場させるものを意味します。「門」は真理そのもの、善そのもの、主ご自身です、なぜなら真理は善に導き、善は主に導くからです。(AC 2356:2)

そして、導かれる門の中は、天界であり教会です(AE 208:2)。
私たちが、求めるものは、永遠の幸福を与える天界です。決して狭い囲いの中ではありません。
天界は主に守られ、善自体、そして真理自体であるため、悪や偽りが近づけません。悪や偽りが近づいても、そこで目指すものが、根底から異なっているため、天界の大気の中で生きてゆくことができません。窒息したように苦しんでしまいます。
そして、教会は地上の天界です。少なくとも、天界を目指しています。天界を目指さないのは教会ではありません。書籍の出版・普及だけにこだわるのは、教会とはいえません。

天界は何かというと、簡単にいえば、主への愛と、隣人への愛にいるものが集まるところです。
自分自身と同じ程度に、隣人を愛し、あるいは自分以上に主を愛する霊・人が集まるところです。そして天界自体は、神の似姿・像として創造されているため、人間の形となっています。

すなわち、羊の囲いと門のたとえは、天界を描いた、たとえの一つです。
そしてその最も重要なものは、主ご自身が描かれているということです。これが門であり、良い牧者です。

主は、真理そのもの、善そのものです。しかし善も真理も、存在そのものである「父」のままでは私たちも、天使も見ることはできません。私たちがイメージできるもの、見える存在でなければなりません。私たちは自然的存在であるからです。
そこで主は、「門」として、善と真理を実行し、どのようなことを行えば、天界に行けるのか、この世に生まれ、教えられます。
「だれでも、わたしを通って入るなら救われます。また出たり入ったりして、牧草を見つけます。」(10:9) 

天界の教えによれば、
「出たり入ったり」とは愛と信仰の善に入ることを意味し、人生のあらゆる局面において主に導かれることを意味します。すなわち、主からそして愛と信仰から、自由のうちに善であることを考え、意志します。(AC9927:4)
牧草とは、霊的生命を支えるもので、記憶知に含まれる真理を意味します(AC6078)。

み言葉から、真理を見つけ出し、それを自由から実行に移します。この自由が私たちの選択となり、私たちの愛を育ててゆきます。一方的な命令ではなく、自由から主の教えを選択して実行します。あれはしてはならない、これはしてもよい、と雁字搦め(がんじがらめ)の中で生きてゆくのではありません。
み言葉を読み、そこから人生をどう生きてゆけばよいかを学び、み言葉の教えを主の教えと考え、喜んで従うかどうかです。

もし、自分の思いを捨て、喜んで主の導きに従ってゆくなら、真理と善によって自分の行動を作り直してゆくことになります。自分で深く考えなければなりません。考えて選ぶなら、主に導かれることになります。

主が来られたのは、私たちが善と真理によって自分を作り替え、「いのちを得るため、それも豊かに得るためです」(10:10)。
主の導きに従うのは、新しい生命、善と真理によって自分自身の生命を作り直すことです。これを行う度に、私たちの生命は新しく生まれてゆきます。

しかし、良い牧者でない雇いの牧者がいます。肉体のいのち(AE 750:4)をかける良い牧者と違い、雇い人は、世のなかの利得のために働いています(AC8002:5)。自分の名誉や、世の聞こえを求めて、導いています。そのため狼が来ると逃げてしまいます。
「牧者でない雇い人は、羊たちが自分のものではないので、狼が来るのを見ると、置き去りにして逃げてしまいます。それで、狼は羊たちを奪ったり散らしたりします」(10:12)
狼とは、捕まえようとするものです(AC6441)。狼は、すべての事柄、み言葉の内意も含めて、自分を偉大に見せよう、利がある方向に解釈します。それはみ言葉の冒涜です。(SE4550)

狼は、自分の利得のためだけに、行動し、み言葉を解釈するので、同じ自分の利得だけを目的にしている雇人も、利得がなければ逃げてしまいます。天界という目的を見失えば、羊はばらばらになってしまいます。日本の新教会、そして世のキリスト教会、どんな集団であっても、自分の利得を求めるなら、狼に会って逃げるように、ばらばらになってしまいます。ばらばらになるのは、出版や教会員の社交など二次的な目的にこだわりすぎて、天界という第一の目的を見失うからです。

「わたしにはまた、この囲いに属さないほかの羊たちがいます。それらも、わたしは導かなければなりません。その羊たちはわたしの声に聞き従います。そして、一つの群れ、一人の牧者となるのです。」
(10:16)
この囲いに属さない羊とは、ばらばらになってしまっても、一つの群れに戻るから大丈夫だというのではありません。エゼキエル書にも描かれていますが、天的王国のことです。

「ユダ」は霊的意味では主の天的王国を意味し、「イスラエルの息子」は主の霊的王国を意味します。
; 「ヨセフ」と「エフライム」そして「イスラエルの散った種族は一つに集められる」とは、これらの王国の下にあり、天的でも霊的でもなく、自然的でした。しかしそれぞれの宗教に従って善い生活を送っています。・・・
これらは主が来られるまでは、天界ではなく、主がご自身を栄化された後、天界に入れられます。その時まで神から発するものは彼らに届きませんでした。(AE433)

私たちの霊的天界は、主がご自身を栄化して、父と一つになられた時に、はじめて天界となりました。
主の御業なくしては、私たちは天界に進むことはできません。主の御業は、私たちの想像をはるかに超えるものです。それは、主の御業を信じてついてくる者のために、新しい天界をおつくりになるというものでした。天界を創造する、これは神である主ご自身にしかできません。

しかし(わたしが、わたしの父のみわざを)、行っているのなら、たとえわたしが信じられなくても、わたしのわざを信じなさい。それは、父がわたしにおられ、わたしも父にいることを、あなたがたが知り、また深く理解するようになるためです。」(10:38 )

残念なことに当時のユダヤ人は、主を理解せず、主を石で打とうとします。それらの者たちのもとから一時的に逃げられます。
しかし、主はご自身の身体の生命を失うことを恐れず、信じる者を救おうとする主のみ言葉と業は、ヨルダン川の向こうの異邦人の心を深く打ちます。そして、異邦人のもとで、善い生活を行い、主を受け入れた者たちのために新しい天界を創造されます。

「多くの人々がイエスのところに来た。彼らは「ヨハネは何もしるしを行わなかったが、この方についてヨハネが話したことはすべて真実であった」と言った そして、その地で多くの人々がイエスを信じた。(10:41,42) アーメン 

【新改訳】
エゼキエル書
37:15 次のような【主】のことばが私にあった。
37:16 「人の子よ。あなたは一本の杖を取り、その上に『ユダと、それにつくイスラエルの人々のために』と書き記せ。もう一本の杖を取り、その上に『エフライムの杖、ヨセフと、それにつくイスラエルの全家のために』と書き記せ。
37:17 その両方をつなぎ、一本の杖とし、あなたの手の中で一つとなるようにせよ。
・・・
37:21 彼らに告げよ。『【神】である主はこう言われる。見よ。わたしはイスラエルの子らを、彼らが行っていた国々の間から取り、四方から集めて彼らの地に導いて行く。
37:22 わたしが彼らを、その地、イスラエルの山々で一つの国とするとき、一人の王が彼ら全体の王となる。彼らは再び二つの国となることはなく、決して再び二つの王国に分かれることはない。

ヨハネ福音書
10:1 「まことに、まことに、あなたがたに言います。羊たちの囲いに、門から入らず、ほかのところを乗り越えて来る者は、盗人であり強盗です。
10:2 しかし、門から入るのは羊たちの牧者です。
10:3 門番は牧者のために門を開き、羊たちはその声を聞き分けます。牧者は自分の羊たちを、それぞれ名を呼んで連れ出します。
10:4 羊たちをみな外に出すと、牧者はその先頭に立って行き、羊たちはついて行きます。彼の声を知っているからです。
10:5 しかし、ほかの人には決してついて行かず、逃げて行きます。ほかの人たちの声は知らないからです。」
10:6 イエスはこの比喩を彼らに話されたが、彼らは、イエスが話されたことが何のことなのか、分からなかった。
10:7 そこで、再びイエスは言われた。「まことに、まことに、あなたがたに言います。わたしは羊たちの門です。
10:8 わたしの前に来た者たちはみな、盗人であり強盗です。羊たちは彼らの言うことを聞きませんでした。
10:9 わたしは門です。だれでも、わたしを通って入るなら救われます。また出たり入ったりして、牧草を見つけます。
10:10 盗人が来るのは、盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするためにほかなりません。わたしが来たのは、羊たちがいのちを得るため、それも豊かに得るためです。
10:11 わたしは良い牧者です。良い牧者は羊たちのためにいのちを捨てます。
10:12 牧者でない雇い人は、羊たちが自分のものではないので、狼が来るのを見ると、置き去りにして逃げてしまいます。それで、狼は羊たちを奪ったり散らしたりします。
10:13 彼は雇い人で、羊たちのことを心にかけていないからです。
10:14 わたしは良い牧者です。わたしはわたしのものを知っており、わたしのものは、わたしを知っています。
10:15 ちょうど、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じです。また、わたしは羊たちのために自分のいのちを捨てます。
10:16 わたしにはまた、この囲いに属さないほかの羊たちがいます。それらも、わたしは導かなければなりません。その羊たちはわたしの声に聞き従います。そして、一つの群れ、一人の牧者となるのです。
10:17 わたしが再びいのちを得るために自分のいのちを捨てるからこそ、父はわたしを愛してくださいます。
10:18 だれも、わたしからいのちを取りません。わたしが自分からいのちを捨てるのです。わたしには、それを捨てる権威があり、再び得る権威があります。わたしはこの命令を、わたしの父から受けたのです。」

黙示録解説208:2
(ヨハネ10:1-3, 7, 9).
「門を通って入る」とは明らかに主を通して入ることです、なぜなら「私は羊の門である」と言われているからです。主を通して入るとは、多くの節にあるように、主に近づき、主を認め、主を信じ、主を愛することです。そうして人は天界にはいります。他に道はありません。そのため主はおっしゃいます、「私を通して入る者は救われます」、「ほかの所を乗り越えて来る者は、盗人で強盗です。」

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