ゴシェン

イスラエルは、彼に属するものすべてと一緒に旅立った。46:1

イスラエルの息子の一人であり、エジプトの支配者となったヨセフは、飢餓に襲われていた父とその一族を、カナンから呼び寄せることに成功します。エジプトへの移住は、カナンに残って飢えに苦しむよりは、何倍もましだと考えるかもしれませんが、未来を予見することができたヨセフには、飢餓はこれからも続き、カナン自体が滅びてしまうことを予見できました。それを見越して、あえてとった行動です。そうでなければ、何年も住んできた先祖伝来の地を離れることなどできなかったことでしょう。

ヨセフは、主イエスを表象します。主イエスが、旧くなって善と真理の知識さえ乏しくなった教会に、いかに生命を吹き込み、生き返らせるかを描いています。
そしてこの46章は、内的・天的なものであるヨセフと、自然的なものからの霊的善を意味するイスラエルの結合を描いています(AC5994)。

「神は、夜の幻の中でイスラエルに、『ヤコブよ、ヤコブよ』と言って呼ばれた。」(46:2)
イスラエルの名は、ここではヤコブに変わります。イスラエルは自然的なものの内的なもの、ヤコブは自然的なものの外的なものを意味します。同じ人物でも、表象する事柄によって、呼び名が異なります。
夜の幻の中、真理の認識がおぼろげとなって、呼び名も外的なものへの呼びかけです。ヤコブの内に隠れる結合への不安、大規模な移住への不安が読み取れます。
そして外的なものを表象する、その子・孫の名が続きます。ルベンとその子、シメオンとその子、レビとその子、ユダとその子・・・と十二人の子と子孫の名が続きます。自然的・外的なものの真理が意味されます。

ただし、ヨセフがエジプトで作った子、マナセとエフライムは、エジプトの新しい地で、すでに新しく生まれています。この二人を除くヤコブの一族は、パダン・アラムの地で生まれています。これらの生まれた地の違いは、それら旧い信仰のすべては、新しい地エジプトの善と真理の知識によって生まれ変わらなければならないことを示唆しています。
そして、エジプトで生まれたマナセは新しい意志、エフライムは新しい知性が意味されます。(AC6025)

カナンで育ったはずの教会の善と真理の知識は、整理して秩序立て、新しい生命を与えられ、生まれ変わらねばなりません。教会の善と真理は、世の移り変わりと人間の遺伝悪の累積に応じて、役に立たなくなり、善と真理が不足してきます。主が地上にお越しになった時のユダヤ教会がその典型ですが、それだけにはとどまりません。そのような場合に、主は何をされるかを知り、私たちも自分の中身を整理して新しい生命を受ける必要があります。

日本の宗教界も、目先を変え様々な方向に私たちを導きます。それは新教会といえ同じです。
しかし主は何を基準とすべきか、道しるべを与えられています。

「さて、ヤコブはユダを先にヨセフのところに遣わしてゴシェンへの道を示させた。それから彼らはゴシェンの地に行った。」(46:28)

ゴシェンの地名がどのあたりを意味するかはあまり明確ではありません。天界の教えには、
「ゴシェンはエジプトの地の最良の広がりで、記憶知である自然の内の最良部分で、真中あるいは中央です。なぜなら善自体がそこにあり、太陽のように、周辺にある真理に光を発するからです。」(AC5910)とあり、真理を照らす善を意味しています。偏らず、善から諸真理を判断・活かします。
その結果、善は天界のように美しい並びを表します。

「最高の善は中央に存在し、それはすなわち中心で、最奥部分です。その周りはすべての方角に他の段階の善があり、天界の模様に従い、善の段階に従って中央に近いほうから遠く周辺へと、位置づけされています。これは再生された人に、どのように異なる段階の善が、配列されているかを示します。」(AC6028)。
何が善であり悪であるか、重要性によって、矛盾なく並びます。何が大切で、何が大切でないか、天界の基準に従った調和で配列されるのが「ゴシェンの地」です。

ユダが先駆けとして送られたのも、ユダは自然的善を意味し、ヨセフが表す内的善とは、直接の交流が行われるためです。(AC6027)

自然的善と内的善が交流しながら、善の結合と配列が始まります。ゴシェンの地で、父イスラエルとヨセフは再会を果たし、「父に会うなり、父の首に抱きつき、首にすがって泣き続けた。」(46:29)
この章に中心となる、内的・天的なものであるヨセフと、自然からの霊的善を意味するイスラエルの結合がなされます。

今まで抽象的に善であると自然的に考えられていたものが、内的・天的な根拠を与えられ、天界的生命を得ます。抽象的に考えられていた霊的善に、天界的・内的な善から流入が起こります。そして、結合は相互的なものであるため、霊的善はそれを受け入れます。

この善の地を新しい住まいとして定め、エジプトすなわち記憶知全体にも、受け入れさせねばなりません。全体的記憶知一般であるファラオが、私たちが是とする善を受け入れなければ、私たちはエジプトには住めなくなり、将来的に飢餓が予見されるカナンに戻る危険性さえ出てきます。

しかし私たちとファラオの間は、実は双方向ではありません。双方向の関係ではないので、イスラエルとヨセフのように結合できません。結合や交流はどのようにして起こるのでしょうか?天界の教えは、さまざまな交流は「流入」によって起こるといいます。そのため、流入の性質を知らなければなりません。

自然的なものは何も感知することができません。自然的なものだけでは、悟りなどのあらゆる知的な認識は不可能です。自然的なものの世界だけにいるなら、交流することすらできません。私たちの世界、国と国、教会と他の教会、社会と社会、集団同士、他人との付き合いが、いかに難しいかを考えれば、その難しさがわかります。
なぜなら、あらゆる認識は内的なものから外的なものへ流入によって起こるからです。(AC6040)
同じ次元にいて、認識した、あるいは悟ったといっても、それは状況が変化すると、すぐに意見を変えてしまいます。つねに変化する主観でしかありません。自然界にいて、物事を観測しても絶対的な評価とはいえません。観測する側も変化するからです。
宇宙や微小な世界を観測しても、常に新しい発見があり、なかなか定まりません。同じ平面、同じ次元で見ようとするからかもしれません。科学が、すべてを一元的に説明する理論を探っても、難しい壁に当たってしまうのは、そのせいかもしれません。

流入は、いわば因果のようなものであり、「物事は常に前にあるものからやってきます。(AC6040)」
物事が起こる原因は、前の世界にあり、その前の世界は、段階が異なるので、後の世界の中では決して把握することができません。物事の存在は、常に前の段階をたどってゆかねば本質はわかりません。
それ自体からは何も存在しませんが、前にあるものから起こります、そしてついに、すべては「最初」、すなわち「存在とそれを存在させるもの(Esse&Existere)」に帰着します。そこからすべてが存在します。(同上)

そしてこの「存在と存在させるもの」とつながることができれば、本物の生命を得ることができます。永遠にこのつながりを十分に得るためには、形どうしが似たような形にならなければなりません。配列が同じようにならなければなりません。人間と、爬虫類のように遺伝子が離れてしまうと、交流や結合は難しくなります。

人間は神の形の似姿・像として創造されています。その形の配列が、天界の形であり、天界の形は、「巨大人」の形、人間の形です。私たちが、主を愛し、主が全人類を愛して、すべてのものを与えようとされているため、それを受け取るためには、主と同じような形をとるようにしなければなりません。霊界では、その形を見て、明らかな形で認識できるといいます。

しかし霊界にいない私たちは、主と同じような形、人間の形が具体的にどうなっているかをイメージして確認することはできません。記憶知的による感覚的な印象によって確認することは、幻想による確認に結びつきやすく、地獄の影響、私たちの内にある自己愛の影響によって、異端や怪しげな宗教は、荒れ果てた地に雑草がすぐ繁殖するように、いくら取り除いてもすぐ生えて当たりを埋め尽くします。
この世では、より確固たるものによる必要があります。

天界の教えは、教会の真理と、記憶知の結びつきはみ言葉によって確認しなければならないと教えます。
(AC6047) 天界の教義自体が、み言葉の句について一つ一つ確認していて、単なる読者にとっては、煩わしい感があると思います。しかし、この確認は、天界の教えの源が、み言葉にあることを教えています。

真理への情愛を持って、み言葉によって真理を確認しなければ、私たちは簡単に、偽りによって騙されてしまいます。しかし、これがたった一つの天界とのつながりを確認する方法です(AC6047)。もし人が真理への情愛を本当に持つならば、この手間を惜しんではなりません。人がそう言ったからではなく、それぞれがこの確認を行う必要があります。新教会でこの作業を行っている人が、ごくわずかです。それは真理への情愛が不足しているからです(AC6047)。簡単な入門書だけでは、真理への情愛を継続することはできません。これが、新教会からの離脱者の増加の要因の一つです。

天界の形を地上、この自然界に実現しようとするためには、自然界の支配者のエジプトのファラオにその形を伝え、わたしたちの生き方を認めさせねばなりません。み言葉から確認して、私たちの生き方が主とつながっていることを確認していることを伝えなければなりません。

ヨセフは兄弟たちや父の家族に言います。
み言葉で「言う」というとき、それは流入を意味しています。天的な認識から、自然的真理や善に流入があり、認識したことが意味されます。

「もしファラオがあなたがたを呼び寄せて、『おまえたちの職業は何か』と聞いたら、こう答えてください。」(46:33,34)
ファラオで意味される自然的なもの自体が認識を持つことはできません。そのため天的善であるヨセフから流入を受けた自然的な善と真理は、ファラオに伝え、理解させなければなりません。

「この人たちは羊飼いです。家畜を飼っていたのです。」(46:32)
羊を飼う者とは「教え導く者です」。そして家畜とは、「教えられ導かれる者」を意味します(AC6044)。

自然界の中で、新しい価値、違った価値はすぐには受け入れることは容易ではありません。しかし自然界で居場所がなければ、いつかは飢えて死にます。教会は滅んでしまいます。そこで、このエジプトの中、記憶知だけですべて知識としてだけとどめておく地で、生き抜くためには、常に善と真理を教え、それを実現するよう導き続けなければなりません。善に導き続けること。これが教えるほうにも、学ぶ側にとっても必要です。そしてその根拠が、唯一の絶対者、神とつながっていることをみ言葉によって確認し、強化します。これは新しい地でも欠かせません。

『しもべどもは若いときから今まで、家畜を飼う者でございます。私たちも、また私たちの先祖も』と。
そうすれば、あなたがたはゴシェンの地に住めるでしょう。」(46:34)アーメン。

【新改訳】
創世記
46:1 イスラエルは、彼に属するものすべてと一緒に旅立った。そしてベエル・シェバに来たとき、父イサクの神にいけにえを献げた。
46:2 神は、夜の幻の中でイスラエルに「ヤコブよ、ヤコブよ」と語りかけられた。彼は答えた。「はい、ここにおります。」
46:3 すると神は仰せられた。「わたしは神、あなたの父の神である。エジプトに下ることを恐れるな。わたしはそこで、あなたを大いなる国民とする。
46:4 このわたしが、あなたとともにエジプトに下り、また、このわたしが必ずあなたを再び連れ上る。そしてヨセフが、その手であなたの目を閉じてくれるだろう。」
46:5 ヤコブはベエル・シェバを出発した。イスラエルの息子たちは、ヤコブを乗せるためにファラオが送った車に、父ヤコブと自分の子どもたちや妻たちを乗せた。
46:6 そして、家畜とカナンの地で得た財産を携えて、ヤコブとそのすべての子孫は、一緒にエジプトにやって来た。
46:7 彼は、自分の息子と孫、娘と孫娘、すなわちすべての子孫を、一緒にエジプトに連れて来た。
・・・

46:28 さて、ヤコブはユダを先にヨセフのところに遣わして、ゴシェンへの道を教えてもらった。そうして彼らは、ゴシェンの地にやって来た。
46:29 ヨセフは車を整え、父イスラエルを迎えにゴシェンへ上った。そして父に会うなり、父の首に抱きつき、首にすがって泣き続けた。
46:30 イスラエルはヨセフに言った。「もう今、私は死んでもよい。おまえがまだ生きていて、そのおまえの顔を見たのだから。」
46:31 ヨセフは兄弟たちや父の家の者たちに言った。「私はファラオのところに知らせに上って行き、申しましょう。『カナンの地にいた、私の兄弟たちと父の家の者たちが、私のところにやって来ました。
46:32 この人たちは羊飼いです。家畜を飼っていたのです。この人たちは、自分たちの羊と牛と、所有するものすべてを連れて来ました。』
46:33 もしファラオがあなたがたを呼び寄せて、『おまえたちの職業は何か』と聞いたら、
46:34 こう答えてください。『しもべどもは若いときから今まで、家畜を飼う者でございます。私たちも、また私たちの先祖も』と。そうすれば、あなたがたはゴシェンの地に住めるでしょう。羊を飼う者はみな、エジプト人に忌み嫌われているからです。」

マタイ福音書
11:25 そのとき、イエスはこう言われた。「天地の主であられる父よ、あなたをほめたたえます。あなたはこれらのことを、知恵ある者や賢い者には隠して、幼子たちに現してくださいました。
11:26 そうです、父よ、これはみこころにかなったことでした。

天界の秘義6047
[2] ここでの主題は、教会の真理と記憶知が結ばれ会うことですが、どのように結ばれるか知る必要があります。結びつきは、信仰の真理をのぞき込む記憶知から始まってはなりません。なぜなら人の記憶知は感覚的な印象、すなわち世そして無数の幻想から来るからです。信仰の真理から始まらなければなりません、すなわち次のように進まなければなりません。
一番、最初に教会の教えることを知り、それらの教えが真理であるか、み言葉から発見しなければなりません。物事が真であるかどうかは、教会の指導者がそう宣言し、信者が支持しているからではありません。もしそれがそうであるなら、どんな教会の教えや宗教であっても、人の生まれの土壌のものであり、その中に生まれついたから、真理であるということになります。すると、カトリック教徒あるいはクウェーカー教の教えが真理であるだけではなく、ユダヤ教やムハマドの教えも真理となります、なぜならそれらの教会の指導者がそう宣言し、信者も支持するからです。このすべてから、人はみ言葉を探し、そこに教会が真理を教えているかどうかを見なければならないことは明らかです。真理への情愛がその精査を動機付けしているとき、人は主から光を受け、見分けることができます。しかしながら、その啓蒙の源に気づかないので、何が真理であるかは善によって治められるほど、確信を持つことができます。
しかし、真理が彼によって見分けられるなら、教会の教えによって変化するので、彼は教会の中で騒動をもたらすことに警戒しなければなりません。

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