天からのパン

イエスがこう言われたのは、ピリポを試すためであり、ご自分が何をしようとしているのかを、知っておられた。(ヨハネ6:6)

み言葉にピリポが現れるのは、12弟子を紹介する部分(マタイ10:3,マルコ3:18,ルカ6:14)を除いては、ヨハネ福音書だけです。ヨハネ福音書では一章にもナタナエルを呼ぶ部分で(1:43-48)出現します。後半部分では、「ピリポ。こんなに長い間あなたがたといっしょにいるのに、あなたはわたしを知らなかったのですか。」(14:9)と、長い間従いはしたものの、主は、ピリポの信仰の深さを案じておられます。

前章で主はエルサレムのベテスダで、奇跡を起こし、病を癒されます。ここでは、「教義に従って行え」という「教義の実行」を説かれました。しかし、エルサレムの人々の「互いの栄誉だけを認め、主の戒めに従わない」態度に、エルサレムを離れます。
エルサレムを離れ、主が山に上ったとき、過越しの祭りが近づいて、神的善である父と主の結合、すなわち主の栄化が近づいてきます。山が意味する神的善から、教会の善と真理がどれだけ教会に浸透しているか、案じておられました。
「どこからパンを買って来て、この人々に食べさせようか。」とおっしゃったのは、群衆の食事のことを気にかけておられたのではなく、群衆の霊的な状態を気にかけておられたのです。

パンは、み言葉では、霊的栄養のことを意味します。主は、肉体の栄養だけではなく、霊的栄養が足りているかどうかを最も気にされました。ピリポの信仰の深さを案じただけではなく、群衆の全員の霊的状態を気にかけておられました。

パンの奇跡の話では、数字の「五」が何回か出てきます。少年が持っていた五つのパンと、十分腹を満たした民の五千人です。み言葉で、数字の五は、二種類の解釈がされます。一つは主が幼少から私たちに蓄えられる「残りのもの」と言われる善と真理です。もう一つは、その量が他の数に比べて「わずか」しかないという二種類です(天界の秘義5291:6)。残っている主の善と真理があるのか?どのくらいなのかです。
二匹の魚は、二が結びつきを意味し、魚は真理を意味するので、真理が善と結ばれることを意味します。

そこで、主は山上で民を草の上に座らせ、民がほしいだけパンと魚を分け与えます。草は、動物を養い、人の霊的栄養にもなるため、知識を意味します。(黙示録解説507)
主はパンに例えながら、霊的栄養の話、霊的生命を養うものの、そして与える真理が善と結ばれるかという状態をご覧になります。

パンの奇跡は、最初はわずかしかなかった真理と善も、主から知識を十分与えられたことを示します。群衆の知識は「食べたうえ、なお余ったもので十二のかごがいっぱいになった。」(6:13)となります。知識は十分あります。

しかし、「人々が自分を王とするために、むりやりに連れて行こうとしているのを知」ります。そこには、まだ本当の信仰が根付いていません。地上の流説が優勢です。そこで、ご自分は再び神的善である山に退かれます。

主という神的善を失った弟子たちは、夕方の、真理があいまいになる時を迎えます。真理があいまいなまま、弟子たちは舟に乗りこみ、自分たちの力、自分たちの考えで生きてゆこうとします。
「湖は吹きまくる強風に荒れ始め(6:18)」ます。真理を失い、偽りに囚われてしまった弟子たちは、風にあおられ、心は右に、左にと揺れ動き、ついには湖という地獄に沈みこんで霊的生命を失いそうです。偽りに翻弄され、霊的生命を失いかけている弟子たちに、主は山から下りてきて、地獄である湖の上を歩いて征服し、近寄って手を差し伸べられます。「わたしだ。恐れることはない。」

弟子たちが、嵐の湖で沈みかけていたように、おそらく私たちもまだ地獄にいます。私たちがいるところが地獄でないとささやきかけること自体が、地獄の業です。そこが地獄であるという危険に気づかなければ、ちょっとしたことで、湖に落ち、地獄の湖に沈んでしまいます。

自分が霊的に危険であることに気づくとき、主を認めて、乗っている舟に主を迎え入れなければなりません。舟は教義を意味します (AE514-20,21) 。主のおられない教義は、教義ではありません。教義は主から発するからです。

最初に主を認めることは、教会の信仰の始まりです。洗礼も同じような意義を持ちます。
洗礼の第一の機能はキリスト教徒に迎え入れること(TCR677)、第二の機能は、(キリスト教徒に)主イエス・キリストが贖い主・救い主であることを認め主に従うことです(TCR681)。その後、私たちは再生に向けて歩み始めます(TCR684)。

弟子たちが嵐の湖で主を迎え入れたように、恐れず、主を贖い主・救い主として受け入れます。
神である主を、自分たちの舟に迎え入れることで、私たちは生命を得る教えを受け、再生の道を進みはじめます。

その翌日、湖の向こう側で、主は教えを説かれます。永遠の生命を得るための教えです。再生のための教えとなります。
「なくなってしまう食べ物のためではなく、いつまでもなくならない、永遠のいのちに至る食べ物のために働きなさい。それは、人の子が与える食べ物です。この人の子に、神である父が証印を押されたのです。」 (6:27)
「神のわざを行うためには、何をすべきでしょうか。」と人々は問います。
すると、「神が遣わした者をあなたがたが信じること、それが神のわざです。」(6:29)

主を認めることは、霊的生命の最初の全てです。主を認めなければ、信仰の真理も、愛の善もやって来ません。(AC 10083:6)
湖で沈みかけた時、弟子たちは、最初、誰がやってきたのか、わかりませんでした。しかしそれが主イエスであると言われ、「私だ、恐れることはない」ということを信じて受け入れました。神が遣わした方を信じて受け入れることによって、霊的生命が始まります。
「霊的」な状態になって霊的生命を受け入れるためには、生命の源である主を受け入れる以外に道はありません。

しかし、群衆は、いつも「しるし」を求めます。教えに価値があるか、根拠があるかを尋ねます。
彼らはモーセが荒野でマナを与えたような「しるし」を求めていました。しかし主は「あなたがたの父祖たちは荒野でマナを食べたが、死にました。」(6:49)と指摘されます。マナを食べたのは、「人はパンだけで生きるのではない、人は【主】の口から出るすべてのもので生きる」ということを知るためでした。(申命記8:3 )

主は、与えようとされる真の食物であるパン、永遠の生命を宿す食料とは何かを説かれます。私たちが霊的生命を維持するため欠かせない食物です。
「これは天から下って来たパンで、それを食べると死ぬことがないのです。わたしは、天から下って来た生けるパンです。だれでもこのパンを食べるなら、永遠に生きます。またわたしが与えようとするパンは、世のいのちのための、わたしの肉です。」(6:50,51)

これは私たちが、聖餐式の度に聴く文です。聖餐式で預かるパンとワイン、その意味を再度確認します。
「食べる」そして「飲む」がみことばで霊的な飲食を意味し、教えられることであり、教えによって善と真理を自分のものとして生きること、これを自分のものとする、ことです。黙示録解説617[3]

それでは、聖餐式で私たちが、飲んで食べるものは何でしょうか?
「主の肉とパンは、主の愛の神的善を、そして仁愛の善のすべてを意味し、主の血とワインは主の知恵の神的真理と、信仰の真理のすべてを意味します。食べることは自分のものとすることです。」
(TCR702)

主の神的善と神的真理です。しかしそれは無限です。無限のものを、有限である私たちがすべて自分のものとすることはできません。
たとえば、聖餐式のやり方も教会によってさまざまです。教会によっては、聖職者がパンの一部を与えるという形式もあります。しかし教会が与えるものだけを受け取れといっているように見えます。またそのあとワインが与えられないのは、理解せずに受け取れ、と言っていることになります。

パンが、主の愛の神的善をそして、仁愛の善のすべてを意味するのであれば、まず聖職者がパンを割き、信徒はそれを分け合います。主の愛は、主によって誰にも平等に当てられているからです。聖職者は「ここから取りなさい。」とパンの器を信者に差し出します。そして、パン、主の愛をどれだけとるかは信者に任せます。信徒は手を伸ばして、受け取れる分だけを受け取ります。それは人に応じて異なります。

ここで、自分は聖餐にあずかるのがふさわしいかどうかという疑問が出てきます。主の愛をどれだけ受け取ることができるのか?です。そのため、日常の生活を振り返って、自分の生活が、主の愛の神的善と、どのくらい相応しているか自己点検して、聖餐式に臨みます。聖餐式前の自己点検は、聖餐式に正しく預かるためには欠かせません。自分を点検することなく、聖餐に預かるなら、主と自分の関係のことを考えていないことになります。日常的に自分が主の戒めを守っているかどうかを反省することから、聖餐式は始まります。

「聖餐にふさわしく預かる人は、主の内にいて主は彼らの内にいます。そのため聖餐を通して、彼らは主と結ばれます。」(TCR725)
聖餐に正しく預かる人は、主と正しい相応によって結ばれます。自分が悪を拒むことができ、主から注ぐ流入を邪魔する悪と偽りが全くなければ、主の善と真理はおびただしく流れ入り、素晴らしい感動を生み出します。心から主の流入を望む人は、日常的に悪と偽りを避け、主の善を実行していなければ流入はありません。

逆に、他人の分のことを考えず、大きなパンの固まりをとるなら、他の人との分かち合いを考えていないことになります。その人は自分だけの愛をとります。聖餐式の本当の意味を知りません。
聖餐式のパンは酵母を使わず、全粒粉を使った混じりもののないパンです。味わい深いパンですが、市場で売っているパンのように食べやすいものではありません。大きなパンの固まりは、喉をつまらせるだけです。また、自分の日常の行動が主の愛に従ったものでなければ、なんの相応も起こりません。

次にワインが聖職者より差し出されます。
ワインは聖餐式で、「私の血、あがないのために流される血」と付け加えられ、「この杯から取って飲みなさい」と差し出されます。これも自分が進んで受けるという姿勢が必要です。
贖いのための血、とは主が十字架刑のときに流される血ではありません。神的真理を意味します。
聖餐式でパンの後にいただくワインは、行った愛の善を真理によって、それは主のものであることを確認するものです。自分が行ったと考えるなら、それは神的真理とはなりません。

全体を通して、聖餐式は強い相応を生みます。主が世に来られる前、無数の奇跡を起こした相応です。
ヨハネ福音書の第六章でも、この相応がおこりました。
「わたしを食べる者も、わたしによって生きるのです。これは天から下って来たパンです。(6:57,58)」この主のみ言葉に、躓く人が多く出てきます。
「これはひどいことばだ。そんなことをだれが聞いておられようか。」(6:60)
彼らはこう言って離れてゆき、弟子たちのうちの多くの者が離れ去って行き、もはやイエスとともに歩かなかった (6:66)。
そして「わたしがあなたがた十二人を選んだのではありませんか。しかしそのうちのひとりは悪魔です。」(6:70)と、最初は主を選んだとしても、私たちが自分の愛を優先すれば、主の愛を冒涜することになります。主を受け入れようとしない人は、離れてゆくことになります。善と悪の分離が生まれます。

肉にこだわる、すなわち自分自身の愛にこだわる人は、主が与えようとする霊的生命を持つことができません。自分自身の愛である肉と、仁愛の善、主の善である愛は、真っ向から対立します。私たちは、肉である自分の愛ではなく、主の愛、永遠の生命である主のみ言葉を選びます。

「いのちを与えるのは御霊です。肉は何の益ももたらしません。わたしがあなたがたに話したことばは、霊であり、またいのちです」。(6:63)アーメン。

申命記
8:3 それで主は、あなたを苦しめ、飢えさせて、あなたも知らず、あなたの先祖たちも知らなかったマナを食べさせられた。それは、人はパンだけで生きるのではない、人は【主】の口から出るすべてのもので生きる、ということを、あなたにわからせるためであった。

ヨハネ福音書
6:1 その後、イエスはガリラヤの湖、すなわち、ティベリアの湖の向こう岸に行かれた。
6:2 大勢の群衆がイエスについて行った。イエスが病人たちになさっていたしるしを見たからであった。
6:3 イエスは山に登り、弟子たちとともにそこに座られた。
6:4 ユダヤ人の祭りである過越が近づいていた。
6:5 イエスは目を上げて、大勢の群衆がご自分の方に来るのを見て、ピリポに言われた。「どこからパンを買って来て、この人たちに食べさせようか。」
6:6 イエスがこう言われたのは、ピリポを試すためであり、ご自分が何をしようとしているのかを、知っておられた。
6:7 ピリポはイエスに答えた。「一人ひとりが少しずつ取るにしても、二百デナリのパンでは足りません。」
6:8 弟子の一人、シモン・ペテロの兄弟アンデレがイエスに言った。
6:9 「ここに、大麦のパン五つと、魚二匹を持っている少年がいます。でも、こんなに大勢の人々では、それが何になるでしょう。」
6:10 イエスは言われた。「人々を座らせなさい。」その場所には草がたくさんあったので、男たちは座った。その数はおよそ五千人であった。
6:11 そうして、イエスはパンを取り、感謝の祈りをささげてから、座っている人たちに分け与えられた。魚も同じようにして、彼らが望むだけ与えられた。
6:12 彼らが十分食べたとき、イエスは弟子たちに言われた。「一つも無駄にならないように、余ったパン切れを集めなさい。」
6:13 そこで彼らが集めると、大麦のパン五つを食べて余ったパン切れで、十二のかごがいっぱいになった。
6:14 人々はイエスがなさったしるしを見て、「まことにこの方こそ、世に来られるはずの預言者だ」と言った。
6:15 イエスは、人々がやって来て、自分を王にするために連れて行こうとしているのを知り、再びただ一人で山に退かれた。
6:16 夕方になって、弟子たちは湖畔に下りて行った。
6:17 そして、舟に乗り込み、カペナウムの方へと湖を渡って行った。すでにあたりは暗く、イエスはまだ彼らのところに来ておられなかった。
6:18 強風が吹いて湖は荒れ始めた。
6:19 そして、二十五ないし三十スタディオンほど漕ぎ出したころ、弟子たちは、イエスが湖の上を歩いて舟に近づいて来られるのを見て恐れた。
6:20 しかし、イエスは彼らに言われた。「わたしだ。恐れることはない。」
6:21 それで彼らは、イエスを喜んで舟に迎えた。すると、舟はすぐに目的地に着いた。
6:22 その翌日、湖の向こう岸にとどまっていた群衆は、前にはそこに小舟が一艘しかなく、その舟にイエスは弟子たちと一緒には乗らずに、弟子たちが自分たちだけで立ち去ったことに気づいた。
6:23 すると、主が感謝をささげて人々がパンを食べた場所の近くに、ティベリアから小舟が数艘やって来た。
6:24 群衆は、イエスも弟子たちもそこにいないことを知ると、自分たちもそれらの小舟に乗り込んで、イエスを捜しにカペナウムに向かった。
6:25 そして、湖の反対側でイエスを見つけると、彼らはイエスに言った。「先生、いつここにおいでになったのですか。」
6:26 イエスは彼らに答えられた。「まことに、まことに、あなたがたに言います。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからです。
6:26 イエスは彼らに答えられた。「まことに、まことに、あなたがたに言います。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからです。
6:27 なくなってしまう食べ物のためではなく、いつまでもなくならない、永遠のいのちに至る食べ物のために働きなさい。それは、人の子が与える食べ物です。この人の子に、神である父が証印を押されたのです。」

黙示録解説617
[2]
「食べる」そして「飲む」はみ言葉にたびたび言及されていて、霊的意味を知らない者は、自然的な飲食が意味されるとしか考えません。しかし「食べる」「飲む」は霊的に栄養を摂ること、したがって善と真理を自分のものとすることを意味します。「食べる」とは善を自分のものとすることを意味し、「飲む」とは真理を自分のものをすることを意味します。み言葉が霊的なものであると信じる者は、「食べる」「飲む」、同じように、「パン」「食物」「ワイン」そして「飲む」が霊的栄養であることを知っています。もしこの意味がそうでなかったら、み言葉は単に自然的なもので、同時に霊的なものではなくなります。したがって単に自然的な人のために書かれ、霊的な人のため。ましてや天使のためには書かれていないことになります。「パン」「食物」「ワイン」そして「飲む」の霊的意味が度々以上に示されたように心の栄養を示すのでなく、み言葉すべてが、文字の意味で自然的であるだけではなく、霊的です。
霊的に栄養を摂るとは、教えられ、浸透しすること、したがって知り、理解し、賢明になることです。
人が肉体の養分だけではなく、この栄養を味わなければ、人ではなく獣です。そして、祝宴や宴会や日々の味覚に日々歓びを置く者は、霊的な事柄に鈍感であるが、世や肉体のことに推論を使うことができるかを物語ります。そのため、死後彼らは人間というより獣のような生を送り、知性と知恵は狂気であり、愚かです。「その小さな巻き物を取って食べなさい。」(黙10:9)とは、読んで、認識し、聖書を調べることを意味するからです、というには天からおりて来た天使の手にする「その小さな巻物」とは、以上に述べたように聖書を意味するからです。さらに、人は本を自然的に食べ、むさぼることができず、すなわち、み言葉ではありません。以上から「食べる」とは霊的に栄養を与えられることは明白です。
[3]
「食べる」そして「飲む」がみことばで霊的な飲食を意味し、教えられることであり、教えによって善と真理を自分のものとして生きること、これを自分のものとする、したがって知性と知恵のものをすることは、次の節に見ることができます。
エレミアで、「私はあなたのみことばを見つけ出し、それを食べました。あなたのみことばは、私にとって楽しみとなり、心の喜びとなりました。」(15:16)
ここで「食べる」とは明らかに霊的食を意味し、知り、受容し、自分のものとすることを表しています。そのため、「それを食べました。あなたのみことばは、私にとって楽しみとなり、心の喜びとなりました。」と言われます。「あなたのみことば」が神的真理の教えを意味します。これは主が試みる者におっしゃったものと同じです。
「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる』と書いてある。」 (マタイ4:3, 4; ルカ 4:4; 申命記 8:3)
そして、「なくなる食物のためではなく、いつまでも保ち、永遠のいのちに至る食物のために働きなさい。」(ヨハネ 6:27)。
そして、主が弟子たちにおっしゃった言葉もそうです。
弟子たちはイエスに、「先生。召し上がってください」とお願いした。しかし、イエスは彼らに言われた。「わたしには、あなたがたの知らない食物があります。」そこで、弟子たちは互いに言った。「だれか食べる物を持って来たのだろうか。」イエスは彼らに言われた。「わたしを遣わした方のみこころを行い、そのみわざを成し遂げることが、わたしの食物です。(ヨハネ4:31-34).

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創世記43章: ベニヤミン  エジプトへ (結びつきの始まり)

創世記43章: ベニヤミン  エジプトへ (結びつきの始まり)
「安心しなさい。恐れることはありません。」(43:23)

エジプトの支配者であったヨセフは、弟ベニヤミンを連れてくることを条件に、シメオンを人質にして、ヤコブの残りの息子たちをカナンに返します。
ベニヤミンを手放したくないヤコブは、「この子は、おまえたちと一緒には行かせない。」(42:38)とヨセフの要求を拒みます。

この時、ヨセフが一族の一員のヨセフであると誰も考えてはいませんでした。ヨセフは兄弟たちや父母が、自分に頭を下げるという夢を見て、それを兄弟たちに語ったため、嫉妬されました。そのため、あやうく殺されるところを、通りかかった商人に売り払われるという悲惨な経緯があったからです。もはや兄弟たちからは居なくなったものと考えられていました。

しかし、カナンはさらに激しい飢饉を迎えます。先にエジプトから持ち帰った穀物も、すべて食べつくしてしまいます。一族が生きてゆくためには、さらに穀物をエジプトに求めなければなりません。末弟のベニヤミンを手放したくないという父ヤコブの気持ちも、一族が生き残るためには、もはや選択肢はありません。ベニヤミンをエジプトに連れてゆき、エジプトの支配者であるヨセフの要求に従わざるを得ません。

前回のエジプトへの穀物調達の旅では、支払ったはずの銀が、ヨセフによって袋の中に入れられていました。銀で調達したはずの穀物が、無償で与えられた形になっています。さらに穀物をただで手に入れることは難しいはずです。今回の穀物調達の旅では、ベニヤミンとともに、今回の穀物の代価に前回支払うはずであった銀を加えます。さらにエジプトの支配者の歓心を買おうと、様々な贈り物を携えて出発します。

そこで、一行は贈り物を携え、二倍の銀を持ち、ベニヤミンを伴って出発した。そして、エジプトへ下り、ヨセフの前に立った。(43:15)

ここで、ヨセフは弟ベニヤミンが来たことを認めます。
ヨセフとベニヤミンは、母をラケルとする二人の兄弟です。他の十人の兄弟たちとは、異母兄弟となります。他の兄弟たちは、レアと女奴隷たちの子です。レアは、外的真理への情愛を意味し、ラケルは内的真理への情愛を意味します。ヨセフとベニヤミンは、他の兄弟たちとは異なり、内的真理への情愛から生まれています。

しかし他の十人の息子たちで表される真理は、外的なものから生まれているため、内的な存在である神的なものと結ばれていません。いまだ外的で自然的な存在としてしか考えられていません。しかし、それぞれに、役割と役立ちがあるはずですが、神的なものと結ばれていないので、人間の再生にはまだ不十分です。

ヨセフは「天的なものの霊的なもの」を、ベニヤミンは「霊的なものの天的なもの」を意味します。特にベニヤミンは、天的なものとの間に入るので、天的であるヨセフと他の息子たちを仲介する機能を持ちます。
ヨセフはエジプトで出世して、エジプトを支配する者となりましたが、ベニヤミンという仲介者なしには、他の十人の息子たちとつながることができません。他の息子たちは、シメオンのように意志に植え付けられた信仰をはじめとして、試練、善行や結婚愛、相互愛など、私たちの再生に必要な真理がそろっていますが、まだ霊的ではなく、自然的です。「神は霊」であるため、自然的なものはそのままでは、神に結びつくことができません。相互愛というキリスト教の大切な概念も、ただ仲のいいことを薦めているだけのようにしか見えません。自然的な仲良しにとどまっています。

「霊的」という語は、教会には不可欠な語ですが、今やキリスト教会で「霊的」という語の意味を知る人はごくまれです。現代日本でも、オカルト的な意味合いに使われているのがせいぜいです。しかし本質的には違っています。霊的なものは、善で真であるものに、情愛を持つ者に存在します。「善と真理」は人のものではなく、すべて神に属するものです。善と真理に対して、心を惹かれて、他の何よりも大切にしたいと思わねばなりません。善と真理という抽象的な概念を、自分なりに消化して考え、それを他のすべてに勝って大切にすることがキリスト教徒には求められています。

他の自分勝手な理由ではなく、純粋に「善と真理への愛」です。本人に歓びや幸福感、そして人を思いやる気持ちや信仰があり、それを自分からではなく、それは天界や霊界から来ていると(AC5639) 考え、神聖なものとして扱わなければなりません。

一般的には、人によって霊感があったり、なかったり、宗教的施設や墓、災害・犯罪現場など特別な霊的スポットがあったりするといわれます。しかし天界の教えの定義によれば、そういう人や場所には、なんら霊的なものがないということになります。本来、霊界には、時間と空間という概念さえないので、三次元の人や場所に霊的なものを見出すのは、思い込みとしかいえません。人は、この「思い込み」に左右されやすい存在です。

「思い込み」といえば、ヤコブとその十人の息子たちにも思い込がありました。ヨセフは昔の兄弟ではなく、エジプトの支配者であるとしか考えていません。そして、穀物は対価なしには購入できない、無料で与えられるはずかない、自分で苦労して手に入れるものだというこの世的な考え方です。当時のヤコブの十人の息子たちはまだ自然的であったため、この思いこみは当然でした。

穀物を購入しにエジプトまで来ますが、支払ったはずの銀は、知らないうちに返されてしまいます。エジプトの支配者からは、父親が大事にしている末の弟を連れてこなければ、兄の一人のシメオンを人質にする、という理不尽な要求をされます。しかし、カナンの家族を、飢餓から救うには、他の手段は残されていません。霊的な存在であるベニヤミンがなぜ必要なのか、他の兄弟ではだめなのか?理不尽と思しか考えられません。しかしこれらは、後から振り返れば自然的な考えからの「思い込み」にすぎません。ただ、すぐには理解できないため、これらの思い込みは時間をかけて、解いてゆく必要があります。

エジプトの支配者の前に出たベニヤミンとヤコブの残りの息子たちは、ヨセフの家に連れてゆかれることになります。そのため、彼らはエジプトの支配者に何をされるのか、その原因は何なのか、わかりません。しかし心に思い当たることを、正直に話し、家の管理者に相談します。これが自然的な素直さ・正直さです。心に悪と偽りがあるなら、穀物を盗んで逃げてしまったでしょう。
前回購入した穀物の代金が、知らないうちに返されていた、のは彼らの本意ではなく、そのため前回の代金も持ってきたことを伝えます。

「一同はヨセフの家に連れて行かれたので、怖くなって言った。」(43:18)
この時、彼らが抱いた「怖れ」の本質が天界の教えに説明されています。
私たちは、様々な理由で「怖れ」を抱きます。生命を失う危険な状況、いままで得たもの、利得や地位や評価を失い、自由を失ってその歓びも失うと考えます。これが自然的・外的なものであるヤコブの子らが、霊的なものに仕えなければならない、といわれた時に感じる「怖れ」がこれです(AC5647)。ヨセフの家に連れていかれた時、彼らは「怖れ」の経緯を事細かに、ヨセフの家の管理者に説明します。自分たちは無償で穀物を受け取ってそのままにしておいたのではなく、その代価も支払おうとしていることを伝えます。

しかし、管理者は答えます。

「安心しなさい。恐れることはありません。
あなたがたの神、あなたがたの父の神が、あなたがたのために袋の中に宝を入れてくださったのです。あなたがたの銀は、私が受け取りました。」(43:23)
そして、人質として捕えられていたシメオンも連れてきます。

彼らは自分の力で真理を得ようと考え、その真理で善を得ようと考えいました。しかし、真理は主によって与えられます。真理は人のものではないからです。
しかし自分で手に入れなければ、自分自身も、そしてその自由、そしてその歓びもすべて失ってしまうと考えていました。(AC5662)

再生するためには、自分の我を捨てなければなりません。福音書でも、「自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世で自分のいのちを憎む者は、それを保って永遠のいのちに至」る。(ヨハネ12:25)とあります。

これを聞くと、自我を失う怖れにとらわれます。そこまでしなければならないのか?と疑問を持ち、自分は再生しなくてもいい、このままでいたい、と後ずさりしてしまいます。完全な服従ということを聞いて、自我を失うことを恐れ、また自分の「こだわり」を失うことは、自分のすべてを失うことだと考え、躊躇してしまいます。自分の「こだわり」を捨てると、自分らしさがなくなってしまうと怖れます。しかし、自分のこだわりを通し続けると、神からくる本物の生命を失い、再生して天界で生きてゆくことができなくなります。

自分のこだわりを捨てると素晴らしいものが与えられます。それが「天界的自我」と言われるものです。自分のこだわりの中にいると、自分の声が四六時中聞こえてきます。「それは自分のやり方とは違う。これまで自分のやり方にこだわってきたのは、それなりの理由があり、これらのこだわりは自分自身で、このこだわりを捨てることは自分の生命を失うに等しい」と考えます。

このこだわりに捕らわれ、再生の道から後退すれば、カナンという教会には食料が絶え、私たちには霊的死がまっています。自我の死という「怖れ」を乗り越えて、何が待っているかわからないヨセフの家に入るしかありません。そこに入れば、「天界的自我」という新しい意志を得ることができます。この「天界的自我」を得るためにはヨセフの家に入り、食事して結びつかなければなりません。

驚いたことに、この怖れを乗り越えて家で待っていたのは、ごちそうと酒でした。彼らは贈り物を用意して、待ちます。家の主人であるヨセフが現れると、贈り物を渡して、地に伏して拝みます。
贈り物を渡すのは好意を得たいという気持ちの表れで、それは現在の風習にも根付いています。地に伏して拝むのは、卑下です。

私たちは一般的に、礼拝に出て、献金し、跪きますが、賛美と感謝、そして卑下は礼拝の重要な一部です。参加することに意義がある、自分の大切な時間を使うことが、礼拝の意義だとという考えは、大きく誤っています。ましてや参加しなければ、何も始まりません。卑下と賛美と感謝を定期的に行い、主と対話を継続します。

ヨセフも現れて、ヤコブの息子達と、彼らの父の安否を問います。ヨセフの出現は、主の出現を表し、主が出現されると、秩序が整います。ヤコブの子たちも、「ヨセフの前で、年長者は年長の席に、年下の者は年下の席に座らされたので、」(43:33)驚くことになります。

賛美と感謝と卑下、そして対話が終わると、食事と宴会が始まります。この食事と宴会は、結びつきの始まりを意味します。ヨセフの正体がまだ明かされていないので、この宴会によって、まだ一般的な流入しか意味されません。しかし、ここでヨセフとともに食事することは、神的なものとの結びつきの最初の段階です。

彼らはヨセフとともに酒を飲み、酔い心地になった。(43:34 )
アーメン。 
創世記(新改訳)
43:1 さて、その地の飢饉は激しかった。
43:2 彼らがエジプトから持って来た穀物を食べ尽くしたとき、父は彼らに言った。「また行って、われわれのために食糧を少し買って来てくれ。」
・・
43:15 そこで、一行は贈り物を携え、二倍の銀を持ち、ベニヤミンを伴って出発した。そして、エジプトへ下り、ヨセフの前に立った。
43:16 ヨセフは、ベニヤミンが彼らと一緒にいるのを見るや、彼の家を管理する者に言った。「この人たちを家に連れて行き、家畜を屠って料理しなさい。この人たちは私と昼食をともにするから。」
43:17 その人は、ヨセフが言ったとおりに、一同をヨセフの家に連れて行った。
43:18 一同はヨセフの家に連れて行かれたので、怖くなって言った。「われわれが連れて来られたのは、この前のとき、われわれの袋に戻されていた、あの銀のせいだ。われわれを陥れて襲い、奴隷としてろばとともに捕らえるためだ。」
43:19 彼らはヨセフの家を管理するその人に近づいて、家の入り口のところで話しかけた。
43:20 「ご主人様、最初のとき、私たちは食糧を買いに下って参りました。
43:21 ところが、宿泊所に着いて、袋を開けると、なんと、私たちの一人ひとりの銀がそのまま自分の袋の口にあったのです。それで、私たちはそれを返しに持って参りました。
43:22 また、食糧を買うために、別の銀も持って参りました。だれが私たちの銀を袋の中に入れたのかは、私たちには分かりません。」
43:23 彼は答えた。「安心しなさい。恐れることはありません。あなたがたの神、あなたがたの父の神が、あなたがたのために袋の中に宝を入れてくださったのです。あなたがたの銀は、私が受け取りました。」それから、彼はシメオンを彼らのところに連れて来た。
43:24 その人は一同をヨセフの家に連れて行き、水を与え、彼らは足を洗った。また彼は、彼らのろばに餌を与えた。
43:25 兄弟たちは、ヨセフが昼に帰って来るまでに、贈り物を用意しておいた。自分たちがそこで食事をすることになっていると聞いたからである。
43:26 ヨセフが家に帰って来たとき、彼らはその家まで携えて来た贈り物を彼に差し出し、地に伏して彼を拝した。
43:27 ヨセフは彼らの安否を尋ねた。「以前に話していた、おまえたちの年老いた父親は元気か。まだ生きているのか。」
43:28 彼らは答えた。「あなた様のしもべ、私たちの父は元気で、まだ生きております。」そして、彼らはひざまずいて彼を拝した。
43:29 ヨセフは目を上げ、同じ母の子である弟のベニヤミンを見て言った。「これが、おまえたちが私に話した末の弟か。」そして言った。「わが子よ、神がおまえを恵まれるように。」
43:30 ヨセフは弟なつかしさに、胸が熱くなって泣きたくなり、急いで奥の部屋に入って、そこで泣いた。
43:31 やがて、彼は顔を洗って出て来た。そして自分を制して、「食事を出せ」と命じた。
43:32 それで、ヨセフにはヨセフ用に、彼らには彼ら用に、ヨセフとともに食事をするエジプト人にはその人たち用に、それぞれ別々に食事が出された。エジプト人は、ヘブル人とはともに食事ができなかったからである。それは、エジプト人が忌み嫌うことであった。
43:33 彼らはヨセフの前で、年長者は年長の席に、年下の者は年下の席に座らされたので、一同は互いに驚き合った。
43:34 また、ヨセフの食卓から彼らの分が与えられたが、ベニヤミンの分は、ほかの者より五倍も多かった。彼らはヨセフとともに酒を飲み、酔い心地になった。

ヨハネ福音書
12:25 自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世で自分のいのちを憎む者は、それを保って永遠のいのちに至ります。
12:26 わたしに仕えるというのなら、その人はわたしについて来なさい。わたしがいるところに、わたしに仕える者もいることになります。わたしに仕えるなら、父はその人を重んじてくださいます。」

天界の秘義5647
[2]ともに結ばれることについての性格について簡単に述べます。すなわち、外的なものあるいは自然的なものが、内的なものあるいは霊的なものについて結ばれるときです。人が改良され、自然的、外的な人が、霊的、内的になるときもそうで、最初、自然的なものが反乱を起こします。なぜなら自然的人間は霊的なものに仕えなければならない、という旨の教えを受けるからです。すなわち、彼の強烈な悪の欲望とそれを支える考えを根絶しなければなりません。したがって、自分に戻ると、自然的人はそのような場合完全に破壊されると考えます。なぜなら、自分のすべてがそこにあると考え、霊的なものの中に筆舌を尽くせないほど物事があることを全く知らないからです。自然的な人がこのように考えると、霊的なものに仕えると望みはなくなる、と後ずさりします。この時の意味されるものが「怖れ」です。

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J5 良くなりたいか?

イエスは・・・彼に言われた。「良くなりたいか。」(5:6)

エルサレムのベテスダの池での出来事です。
そこには、大ぜいの病人、盲人、足のなえた者、やせ衰えた者たちが伏せっていた。5:3
彼らは、池が波立つのを待っていました。池が波立つと天使が下りてきて、最初にその池に入ったものの病が癒される (5:4KJV)、という言い伝えを信じていたからです。

自分の不治の病を癒したいという思いで、祈る思いで何日も、何日も、波立つのを待っていました。ただ待つだけの日々です。そして、その日そこにいたある人も、三十八年も病で苦しんで、同じように波が立つのを待っていました。
そこに現れた、主イエスが彼におっしゃったのは、「良くなりたいか」(5:6)という問いでした。誰も助けてくれない、と彼が不満を言うと、主は病人に命じられます。「起きて床を取り上げ、歩きなさい」(5:8)。

これは主の力によって病が癒される、奇跡の力の物語でしょうか?
病で苦しみ、主の出現と奇跡を待つしか手がないなら、池でこの奇跡を待つのと同じです。待てば、そのうち奇跡が起こる。主が現れるか、波が立って天使が現れるのかを、待つしかありません。もし、難病で苦しんでいれば、自分にもその奇跡が起こることを願い、主イエスが目の前に出現されるのを待ちます。聖書で癒された病人のように、池が波立つ奇跡を何日も待ち続けます。

しかし主が直されようとされているのは、身体の病ではありません。私たちの霊的病です。
もし私たちが真理にいて、そこから偽りに転ずると、霊的な病となります。善から悪に移れば、私たちの心と霊は、霊的な健康を失い、霊的病を得ます。霊的な病にかかると、霊的生命を失い、心と精神は弱くなり、蝕まれ、最後には死に至ります(AC9031)。

池で奇跡を待っていた他の者は、「盲人や足なえ、やせ衰えた者」と表現されています。しかしこれを霊的な病に置き換えれば、景色は変わります。
盲人や足なえ、やせ衰えた者、それぞれの意味は、真理を知らず偽りに陥いった者(AC2383)、そして善にはいるが純粋な善にはいない者(AC4302-4)、真理が弱まり滅びて消え去ってしまった者(AE627)のことを言っています。これら霊的病を得た者の集まりが、健康を回復しようとして、天使か主の出現をただ待っていました。

私たちの内にも、これら霊的病に苦しむ人は少なくありません。天界の教えを学んでも、真理を実行せず、自分のものとしなければ、同じ症状が現れます。真理を行わず、記憶にだけ残しておく、という深い病です。
しかし、主が「起きて床を取り上げ、歩きなさい」(5:8)と命じると、奇跡が起こります。

病人たちが、池の波立を待っていたのは、旧約聖書で命じられた奉納物の揺祭(ようさい)と同じ意味をもちます。認めて信じることで、生命を与えられます。真理を本当に知って、心が揺り動かされると、その信仰の真理を自分のものとしたい、という意欲がわきあがります。水が意味する信仰の真理をくぐれば、人は清められます (AC 10083:4) 。

床とは、教義を意味します。「起きて床を取り上げて歩け」とは、これら罪を犯した者に「教義に従って生きよ」と、ただ待つのではなく、真理を知って奮起しなさい。心を高めなさい。心と霊を鼓舞して、教えを実行しなさいと命令されたのです(AE163:7)。

命じられた人は、心を高め、教えを実行することで癒されました。しかし、周りにいたユダヤ人や、私たちは、そう簡単には癒されません。ユダヤ人たちは、「安息日を犯した」という頭の固い反応をします。私たちも、教義に従って生きれば、本当に霊的な病は癒されるのか?と従来の固定観念に縛られて実行への一歩が進めません。悪を絶て、悪をするな、という戒めも、「明日から、次回から」にしようと先延ばしにしてしまいます。

癒された当人は、宮の中で主に会います。「見なさい。あなたは良くなった。もう罪を犯してはなりません。そうでないと、もっと悪いことがあなたに起こるかもしれない。」(5:14)。
宮は主の神的人間を意味します。良くなって、何が罪かを知った上で、さらに罪を犯すなら、それは冒涜です。主の神的人間の言葉を、善と真理であると知った上で、反対のことを行うと冒涜となり、取返しのつかないことが起こります。私たちに与えられる善と真理が、全く役に立たなくなります。そうすると永遠に再生できず、永遠の死に至ってしまいます。もはや人間とはいえない存在になります。

「その人は行って、ユダヤ人たちに、自分を治してくれたのはイエスだと伝えた。そのためユダヤ人たちは、イエスを迫害し始めた。」
言わないと念をおされ、いいつけに背いた点に問題は残りますが、その人は主イエスを認めました。ユダヤ人たちは、神的真理そのものであると聞き、逆に主に暴力を浴びせかけます。まさに冒涜の極みです。主イエスは、ご自分が父で同じであると明かされると、興奮したユダヤ人たちは殺そうとさえします。

すると主は、「子」であるご自分と、ご自分の内の魂である「父」との関係を、たとえによって説明なさいます。
ここで父とは神的善、神的愛そのものの存在です。子とは、神的善とともになって栄化される前の神的真理である、この世におられた時の主イエス・キリストです。

「まことに、まことに、あなたがたに言います。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わされた方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきにあうことがなく、死からいのちに移っています。
まことに、まことに、あなたがたに言います。死人が神の子の声を聞く時が来ます。今がその時です。それを聞く者は生きます。」(5:24,25)

みことばという、神的真理がおっしゃることを聞き、それが魂である神的善から出ていることを信じるなら、聞いて信じ、行った者は、霊的生命を持ちます。もし霊的生命という存在を知らなかったとしても、主のおっしゃることを聞いて、信じ、行うなら、霊的生命が与えられます。

ベテスダの池で、「起きて床を取り上げ、歩きなさい。」とおっしゃった内意と全く同じです。主の教えを聞き、信じ、行うことで、今まで死んでいた人間は、霊的生命を与えられ、「それを聞く者は生きます」。

もし、私たちが、誰か著名な人のいうこと、本に書いてあることを、聞き、読んで、「なるほど」、と思ってそれを実行しようとします。
「必ず出世する方法」「金持ちになる方法」「異性にもてる方法」という本が書棚に並んでいます。そして「心を穏やかにする方法」「長生きする方法」「健康でいるための方法」を書いた本も、あふれています。このような題名の本を見ると、もし興味があれば、手に取ってパラパラとめくってみるはずです?
しかし「永遠の生命を得る方法」については書棚にあるでしょうか?

ヨハネは燃えて輝くともしびであり、あなたがたはしばらくの間、その光の中で大いに喜ぼうとしました。(5:35)ヨハネは荒野で「悔い改めよ」と叫び、洗礼を授けた預言者です。
たしかに、同じように「永遠の生命」について、神から言葉がきている預言者と信じたなら、その声に従うかもしれません。当時にも預言者と信じられた人物は数多くいました。その筆頭が「モーセ」でした。「モーセ」のいうことを聞かず、荒野で死んだ人々がいましたが、彼の法を聞き生きた人の話もあります。モーセもヨハネも、「永遠の生命を得る方法」を延べ伝え、多くの人がモーセとヨハネを信じたと言います。そしてその「方法」について聖書を調べた人 (5:39)も多くいます。当時のユダヤ教徒、中世のキリスト教徒も聖書を学んだはずです。私たちが聖書を読むのと同じことを感じていたはずです。

しかし、永遠の生命、霊的生命であることを知らずに、見過ごした人も数多くいました。いや、どれくらいの人が肉体の生命のことではなく、霊的生命であることを知り、霊的生命を自分のものとしたでしょう?単にその人たちは、「人」を信じただけではなかったでしょうか?モーセを信じ、ヨハネを信じたとしても、その人を「信じる」だけでは足りません。いつか疑問にとらわれると、そこでその信頼は終わってしまうからです。

この時のユダヤ人のように、私たちの信頼を終わらせようとして、絶えず働きかける勢力があることを忘れてはなりません。それは地獄の勢力です。たとえ新教会で学ぼうとも、その地獄の勢力は、絶えず、信頼を終了させようと働きかけ続けます。行っても無駄、明日からでいい、とささやき続けます。
そして主ご自身も、両方の中から、私たちが自由に選べるよう、天界と地獄の力の均衡を保ち続けられます。

この世で、信頼しつづけるには、対話を絶やさず、繰り返し、「間違いない、これ以外に方法はない」と確認し続けなければなりません。天界の天使は、天界の光の中にいて、霊的生命は、主以外から来ないということを常に確認し、その光の中で明らかに認識しています。この認識を与える光が、天界の光です。私たちは地上にいる間、この光は確実には与えられません。

主はこの問題を指摘されます。
「いのちを得るためにわたしのもとに来ようとはしません。」(5:40)
なぜなら「あなたがたのうちに神への愛がないこと」(5:42)からです。
「互いの間では栄誉を受けても、唯一の神からの栄誉を求めないあなたがたが、どうして信じることができるでしょうか。」(5:44)

新教会の中でも、自分自身の栄誉を求め、認めてくれる人には近づきます。しかし、そうでなければ近寄らず、敬遠します。自分の名誉を常に優先しなければ、聴こうとしません。信じて行おうとしません。ギブ&テイクとしか考えていません。自分が優遇されるなら、礼拝に出ようか、と考え、知識として、せいぜい参考にとどめておくだけです。

主は「人からの栄誉は受けません。」(5:41)と述べられました。
私たちも唯一の神からの名誉を求め、その戒めを聞き、心から信じて行わなければ、霊的生命は私たちのものとはなりません。

「良くなりたい」と思うなら、「起きて床を取り上げ、自ら歩」かねば、なりません。主の戒めに霊的生命があることを信じて、その教えを実行しなければなりません。その主の教え自体が、霊的生命を持っていることに気づかねばなりません。
「起きて床を取り上げ、歩きなさい。」アーメン。

出エジプト記
29:23 また、【主】の前にある種なしパンのかごから、円形パン一つと、油を混ぜた輪形パン一つと、薄焼きパン一つを取る。
29:24 そして、そのすべてをアロンの手のひらとその子らの手のひらに載せ、奉献物として【主】の前で揺り動かす。
29:25 それらを彼らの手から取り、全焼のささげ物とともに、【主】の前の芳ばしい香りとして祭壇の上で焼いて煙にする。これは【主】への食物のささげ物である。
29:26 アロンの任職のための雄羊の胸肉を取り、これを奉献物として【主】に向かって揺り動かす。これは、あなたの受ける分となる。
29:27 アロンとその子らの任職のための雄羊の、奉献物として揺り動かされた胸肉と、奉納物として献げられたもも肉とを聖別する。
29:28 それは、 アロンとその子らがイスラエルの子らから受け取る永遠の割り当てとなる。それは奉納物である。それはイスラエルの子らからの交わりのいけにえの奉納物、【主】への奉納物であるから。

ヨハネ福音書
5:1 その後、ユダヤ人の祭りがあって、イエスはエルサレムに上られた。
5:2 エルサレムには、羊の門の近くに、ヘブル語でベテスダと呼ばれる池があり、五つの回廊がついていた。
5:3 その中には、病人、目の見えない人、足の不自由な人、からだに麻痺のある人たちが大勢、横になっていた。
5:4 【本節欠如】For an angel went down at a certain season into the pool, and troubled the water;whosoever then first after the troubling of the water stepped in was made whole of whatsoever disease he had.(KJV)
5:5 そこに、三十八年も病気にかかっている人がいた。
5:6 イエスは彼が横になっているのを見て、すでに長い間そうしていることを知ると、彼に言われた。「良くなりたいか。」
5:7 病人は答えた。「主よ。水がかき回されたとき、池の中に入れてくれる人がいません。行きかけると、ほかの人が先に下りて行きます。」
5:8 イエスは彼に言われた。「起きて床を取り上げ、歩きなさい。」
5:9 すると、すぐにその人は治って、床を取り上げて歩き出した。ところが、その日は安息日であった。
5:10 そこでユダヤ人たちは、その癒やされた人に、「今日は安息日だ。床を取り上げることは許されていない」と言った。
5:11 しかし、その人は彼らに答えた。「私を治してくださった方が、『床を取り上げて歩け』と私に言われたのです。」
5:12 彼らは尋ねた。「『取り上げて歩け』とあなたに言った人はだれなのか。」
5:13 しかし、癒やされた人は、それがだれであるかを知らなかった。群衆がそこにいる間に、イエスは立ち去られたからである。
5:14 後になって、イエスは宮の中で彼を見つけて言われた。「見なさい。あなたは良くなった。もう罪を犯してはなりません。そうでないと、もっと悪いことがあなたに起こるかもしれない。」
5:15 その人は行って、ユダヤ人たちに、自分を治してくれたのはイエスだと伝えた。

黙示録解説163:7
[7]
ヨハネ福音書の中に、イエスはベテスダの池で病人におっしゃりました。「起きて床を取り上げ、歩きなさい。」すると、すぐにその人は治って、床を取り上げて歩き出した。・・・(ヨハネ 5:8-12, 14) 、(マルコ 2:4, 9, 11-12).

主が病人におっしゃった「起きて床を取り上げ、歩きなさい。」は教義と、それに従った生活です。「床」とは教義を、「歩く」は生活を意味します(97参照)。「病人」は罪を犯した者を意味します:したがって主はベテスダの池の病人におっしゃいます、「見なさい。あなたは良くなった。もう罪を犯してはなりません。そうでないと、もっと悪いことがあなたに起こるかもしれない。」また、屋根をはがし、穴を開けて、中風の人が寝ている寝床をつり降ろした人に、『あなたの罪は赦された』と言うのと、『起きて、寝床をたたんで歩け』と言うのと、どちらが易しいか?と問われました。み言葉の内意について何も知らない人は主が語られた言葉には文字の上の意味以上に明らかなものは含まれないと信じますが、主の話されたそれぞれには霊的意味があります、なぜなら主は神的なものから話され、天界と世の両方に話されているからです。(天界の秘義 n. 2533, 4637, 4807, 9048, 9063, 9086, 10126, 10276).

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創世記42章: エジプトへの食糧調達の旅

「おまえたちは回し者だ。この国の隙をうかがいに来たのだろう。」(42:9)

監獄に入れられていたヨセフは、エジプト王ファラオの見た夢を解き明かしたことで、エジプト全土を支配します。ヨセフの預言の通り、エジプト全土に飢饉がやってきます。飢饉はやがて全世界に広がり、カナンの地に住むヤコブとその家族にも及びます。

エジプトに穀物があることを知って、ヤコブは息子たちに穀物を買いにゆかせます。ヤコブは、ヨセフの弟ベニヤミンにわざわいが降りかかることを恐れ、ベニヤミンを手元におき、残りの十人の息子がエジプトに下り、今やエジプトの権力者となったヨセフにまみえます。ヨセフには相手が兄弟たちであったことがわかりましたが、十人の兄弟たちにはヨセフのことがわかりません。

ヨセフは「霊的なものの天的なもの」を意味します。ヨセフには自分の光から、兄弟たちの存在を見ます。すなわち教会の全般的な真理を見て、それら真理を知ります。しかし外的な情愛であるレアから生まれた兄弟たちには、内的な情愛のラケルから生まれたヨセフのことがわかりません。
教会の全般的真理である兄弟たちは、自然的な光の中にいて、天界の光にはいません。そのため「霊的なものの天的なもの、あるいは神的なものからの真理」が、認識できません(AC5428)。内的なものは外的なものは、わかりますが、外的なものは、内的なものはそのままではわかりません。何らかの助けが必要です。

その助けとは、ベニヤミンで意味される媒介、あるいは相応の知識です。この助けがないため、兄弟たちは、ヨセフのことがわかりません。
「天界の栄光」について考えてみます。天界の栄光は、主イエスがこの世に誕生された時のまぶしく明るいものといった自然的イメージはできますが、それ以上は想像できません。ヨハネ福音書に相応が示されていますが、それがいかに素晴らしく輝きに満ちたものであるかは、この啓示によって推測できます。しかし、その栄光の源はすべて主おひとりであることを理解しなければ、より深く理解できません。

一人の天使は、何百万の地獄の勢力を押し返します。この力をある一人の天使の力と考えると間違った方向に考えてしまいます。万能の主からすべての力が来ており、天使はその力を借りていると考ええれば、天使の力の源を見誤りません。

さらに、「自由」とは、自分自身から考え意志することだと考えます。他から何も制約されずに考え、意志することこそ「自由」だと信じます。しかし、天界的自由にいる者は、自分からではなく、主から、天界から考えることこそが自由であると考えます。これは自然的に自由を考える者からは想像できません。

このように、自然的な光と天界的な光では大きな差異があります。この差は天界の光の内にいるものには一目瞭然です。しかし自然的光にいる者は。気づくことさえありません。両者が共通の理解ができません。ヨセフと、兄弟たちの間には、支配者と奴隷のような差があります。

エジプトを支配するヨセフは、権力者として上から言い切ります。
「おまえたちは回し者だ。この国の隙をうかがいに来たのだろう。」
この文句の中には兄弟の情など感じることができません。ヨセフと残りの兄弟たちの間には、過去、両者の間に確執がありました。ヨセフは兄弟たちに嫉妬され、殺されかけ、最後には売られてしまいます。殺されかけた時に、止めてくれたのは、ルベンだけでした(37:21,22)。その確執のせいか、ヨセフは十人の兄弟たちを「回し者・間者」、「スパイ」と呼びます。

一般に、「スパイ」は敵国の利益のために、国の情報を探る者のことです。
スパイだと疑われると、国を売る者として、死刑など重い刑罰が科されてしまいます。

兄弟たちは自分たちの思った通りに、正直に、愚直なほど過去のいきさつを述べます。しかしヨセフには通じません。三日間兄弟たちを監禁したうえで、解決案を出します。
兄弟シメオンを縛って人質とした上で、穀物を持たせてカナンの地へ返し、末の弟のベニヤミンをエジプトに連れてこいと要求します。シメオンは人質としてとられたままで、ベニヤミンを連れてくるまではスパイとしての疑いは晴らされません。

天界の教えでは、スパイは「ただ利得を求める者」を意味します(AC5432)。ヨセフは兄弟たちがスパイであるという疑いをかけ、スパイでない証明をしつこく迫ります。それは、ヨセフは仲介となるベニヤミンなしでは、兄弟である自分の正体を明かせなかったからです。今のエジプトの権力者の姿は、過去の自分からでは全く想像もできません。過去の経緯を説明できる、同じ母からの兄弟でなければ、自分の正体はわかりません。
前に述べたように、「栄光」、「力」そして「自由」のたとえのように、神の力を源として考えなければ、神性は理解できません。ヨセフが行った夢の解き明かしは、すべて神の力に帰して行いました。これを、自分の力とするなら、神的なものは理解できません。

しかし、もし利得を求めるスパイであるなら、神の力に帰することなく、ただ自分の利益から考えます。
若いころ、真理を学びますが、大人や老齢に達しても、教会の真理を自分で見て理解しようとはしません。もし、それを真理と考えないなら、口先だけになってしまいます。決して実行することはありません。真理であると考えるなら、本当にそうか、自分の力で考えてみよう、真理を見ようとして、み言葉にあたります。それが神から来ていると確認できれば、実行して、自分の生命とします。

しかし自分で考えようとしないなら、他人の思考のままです。神ではなく、他人の考えであるので、実行しません。自分で神から由来する真理と考え、実行して、はじめて真理そして善となってゆきます。
真理を外からのぞき、他人のものと考えるなら、自分の名誉と利得だけしか考えません。自分の生命のものと考えないからです。外側だけから考えるなら、善を基礎とする真理にへばりついて、他人の考えのように考え、その真理のあらさがしをして、粗を見つけてれば、責めようとします。自分の生命のものとしないので、何らかの利得がこぼれてくれば、こぼれてきた利得を得ようとして、そばにいますが、何か粗を見つけると、喜んで批判に走ります。

教会を渡り歩く人は、粗を見つけ出すのが上手です。粗を見つけると別の教会に移ります。真理と善を求めているのではなく、それ以外のもの、自分の優越や名誉、あるいは自分の都合がよい利得を求めるからです。

もし、私たちの求めているのが、再生に至る教会の真理、純粋な神的真理ではなく、何らかの利得にすぎないなら、残念ながら再生の道は遠ざかります。本人が純粋な真理と善を求めるまでやり直すことになります。霊界では、自分の求めるものは、他の霊にも明らかに見えるので、この世のように隠せません。スパイとして扱われます。

スパイではないかというヨセフの追求は、兄弟たちにしつこく繰り返されます。兄弟たちは懸命になって、スパイではないと愚直に言い続けます。私たちの意図の中も、利得を求める心が混じりこんでないか、この世でも、来世でも、とことん検査されることになります。この世にいる間は自己点検と悔い改めによって確認して改め、軌道修正を図ることができます。しかし来世では、自分の愛を隠すことはできず、自分の愛を変えることは極めて難しくなります。法や外からの拘束など、何も制約するものがないからです。

ヨセフはスパイでないことを証明するために、源であるヤコブのいるカナンに帰り、自分の媒介となるベニヤミンを連れてこいと要求します。道中で死なないように、それぞれの袋に穀物を満たしてくれます。ここで袋に満たされた穀物とは、教会の真理を意味し、ベニヤミンを連れてくるまでの支えの真理となります。しかしヨセフから渡されたものは穀物だけではありませんでした。支払ったはずの銀が袋に入れられています。穀物を買ったはずですが、途中で確認すると代価である銀が袋の口に戻されているので、ただでもらったことになり、その不気味なふるまいに、兄弟たちは恐れます。

カナンに帰って、袋を開けて空にして確認すると、それぞれの袋に中に「銀の包み」が入っています。父のヤコブも兄弟たちも、恐れます。(42:35)
先ほど袋の口に銀が入っていたのをみたのは、途中のことでしたが、カナンに着いて、袋を空にすると、銀の包がまるまる入っています。

ここで「包み」とは、束ねることが意味されます。束ねは、秩序付けを表しています。
私たちも、様々な情報が、一晩寝て朝になるといつのまにか整理されていることがあります。それに似たようなことでしょうか、自分の持つ真理が整理されています。自分の愛の種類に従って分類されています。

その愛の種類とは、主への愛、隣人への愛、そして奈落への道である世間への愛と自己愛です。
一晩寝た後のように、自分の持つ真理が、分類されています。これも自分の行ったことではありません。人間業ではありません。気味が悪く、恐れざるを得ません。

カナンを出てエジプトに下り、出会った不思議な出来事と、エジプトでの支配者の理解できない要求、仲介者であるベニヤミンを連れてこいという要求に、父のヤコブは激しく拒絶します。兄弟の一人のシメオンは、ヨセフに縛られて人質になっています。シメオンは「意志による信仰」を意味します。意志による信仰が切り離されると、外的な人間であれば、内的そのものである神との結びつきはほとんど感じなくなります(AC5461)。

ヤコブという自然的な教会にとって、シメオンを縛られて離され、内的情愛から生まれた二人の息子ヨセフとベニヤミンを失えば、壊滅的な打撃となってしまいます。意志による信仰と、霊的なものの天的なもの、そしてその仲介というすべてを失ってしまいます。これらすべてがなくなると教会は内的なものをすべて失い、意志による神への結びつきも失い、空虚となってしまいます。空虚な教会では、人の再生はできなくなります。

エジプトへの食糧購入の旅は、このままでは教会の破滅という不幸な結果を迎えます。教会が破滅すれば、人類再生の道は途絶えてしまいます。再びエジプトに下り、仲介であるベニヤミンは、ヨセフと会って内部とのつながりを回復して、内的教会を再建しなければなりません。束縛されているシメオンを解放します。

ヤコブは言った。「この子は、おまえたちと一緒には行かせない。この子の兄は死んで、この子だけが残っているのだから。道中で、もし彼にわざわいが降りかかれば、おまえたちは、この白髪頭の私を、悲しみながらよみに下らせることになるのだ。」(42:38)
しかし、次のエジプトへの旅、私たち人類の救済への旅が待っています。アーメン。

創世記
42:1 ヤコブはエジプトに穀物があることを知って、息子たちに言った。「おまえたちは、なぜ互いに顔を見合わせているのか。」
42:2 さらに言った。「今、私はエジプトに穀物があると聞いた。おまえたちは下って行って、そこから私たちのために穀物を買って来なさい。そうすれば、私たちは生き延び、死なずにすむだろう。」
42:3 そこで、ヨセフの十人の兄弟は、穀物を買うためにエジプトに下って行った。
42:4 しかし、ヤコブはヨセフの弟ベニヤミンを兄弟たちと一緒に送らなかった。わざわいが彼に降りかかるといけないと思ったからである。
42:5 こうしてイスラエルの息子たちは、人々に混じって、穀物を買いにやって来た。カナンの地に飢饉が起こったからである。
42:6 ときに、ヨセフはこの地の権力者であり、この地のすべての人に穀物を売る者であった。ヨセフの兄弟たちはやって来て、顔を地に付けて彼を伏し拝んだ。
42:7 ヨセフは兄弟たちを見て、それと分かったが、彼らに対して見知らぬ者のようにふるまい、荒々しいことばで彼らに言った。「おまえたちはどこから来たのか。」すると彼らは答えた。「カナンの地から食糧を買いに参りました。」
42:8 ヨセフには兄弟たちだと分かったが、彼らにはヨセフだとは分からなかった。
42:9 かつて彼らについて見た夢を思い出して、ヨセフは言った。「おまえたちは回し者だ。この国の隙をうかがいに来たのだろう。」

マタイ福音書
6:24 だれも二人の主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛することになるか、一方を重んじて他方を軽んじることになります。あなたがたは神と富とに仕えることはできません。

AC5432. 「おまえたちはスパイだ」は、彼らはただ利得のために存在する、を意味します。これはここでの「スパイ」の意味が、物質的利得に偏ることであることから明らかです。確かに、一連の思考から、「スパイ」の内的意味はほかの何でもありません。ここで扱われる内的真理は教会でよく知られており、
自然性自体のために作り変える真理のことを扱っています。しかし、このような作り変えは、天的なものの霊的なものを媒介としなければ不可能です。それらの真理は教会では「ヤコブの息子たち」で知られ、それは「ヨセフの兄弟たち」であり、天的なものの霊的なものである「ヨセフ」であり、媒介は「ベニヤミン」です。これらすべての含意は5402で述べています。
教会には知られている信仰の真理が示され、その教えと呼ばれるものが学ばれるのは人生の早期です。それらは事実として、他の事実知と同じように、記憶の中に取り入れられ、処分されてしまいます。
それらは、人が自分の能力を使ってその真理を見て、自分からそれが本当に真理であるかを知るまで、そこで事実知として残ります。そしてそれがそのようなものとわかり、それらに従って行います。
そのような真理を見て、それらに従って喜んで行動する能力はもはやそれを事実知としません。
今やそれは人生で従うべき戒めであり、ついには彼の人生となります。なぜなら送る生命に渡し、自分自身のものとするからです。

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A学びがあるか 1ほとんど無い・・・5大いにある
Bわかりやすいか 1わかりにくい・・・5よくわかる
C新しい視点か  1 旧い視点・・・・・5斬新で新しい視点
その他(自由記述)

異邦人教会の設立:サマリアの女

それでイエスは、ヤコブがその子ヨセフに与えた地所に近い、スカルというサマリアの町に来られた。ヨハネ4:5

主イエスは、サマリアの地で不思議な出会いをなさいます。
サマリアは、「異邦人の道に行ってはいけません。また、サマリア人の町に入ってはいけません。」(マタイ10:5)と、警告された地です。北王国イスラエルの首都でありながら、預言者エリヤと敵対したアハブ以来、偶像礼拝の中心として考えられた地であったからです。またサマリア人も、エルサレムを目指していたイエスを受け入れなかったと、ルカ書(9:53-54)に書かれています
そのためか、サマリアの女の話は、ヨハネ福音書だけに記され、他の福音書には記されていません。

しかし逆に、異邦人である私たち日本人には、大切な話となります。日本人は聖書の存在を知りながら、受け入れ方、内的真理の受け入れが十分ではなく、実行する方が少ないので、ユダヤ人にとって異邦人のような存在であるからです。
サマリアには、スカルという町にヤコブの井戸があります。以前ここはシュケムといいました。シュケムはアブラハム(創12:6)とヤコブ(33:17-20)が、シリアからカナンから来た時、最初に立ち寄った地でした。彼らははじめて真理にふれたため、内的真理を表します (AC4430)。

しかし、残虐なことに、ヤコブの子らがその町の男子を皆殺しにして(創34)しまいました。今も昔も、獣よりも残虐な人の性格は変わりありません。
男子の深い意味は真理をあらわすため、それをあてはめれば、内的真理はもはや絶滅していたことになります。しかし、その後、ヨセフの遺体はエジプトから運ばれ、ここに埋葬されており、シュケムは大切な何かを表し続けています(ヨシュア24:32)。それは失われた内的真理です。主がサマリアに立ち寄ったのは、これら内的真理を、聞こうとしないエルサレムではなく、異邦人の間に復活させるためでした。

主がサマリアの地にある時、ヤコブの泉に座り、サマリアの女におっしゃいます、この水を飲むものは再び渇きます:しかし私が与える水を飲む者は永遠に渇くことがなく;私が与える水は、彼の中で永遠の生命を湧き出す水の泉となります(AE483[12])。

主が与える水とは、神的真理です(同上)。それは文字上のみ言葉に内意として含まれています。
主は神的真理を異邦人に甦らせ、その教会をおつくりになります。サマリアとは異邦人を意味し、サマリアの女で意味される異邦人の教会は、善を求める情愛にあふれています。女性はみ言葉では善への情愛を表します。善への情愛がないところには、教会は設立できません。もし善を求める情愛がないのであれば、悪を求めているため教会とはいえないません。善への情愛があり、次に善に見合った真理が求められます。真理とは善を形にして知的に理解できるものとします。相手に善かれと思う気持ちが善の情愛です。
善と真理は常に一体とならなければ何も生じることがありません。気持ちと、その気持ちを理解して表現するものがなければ、何も実現しません。教会が存在するためには、真理と善の両方が必要です。

そこで主は、女に「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい。」(4:16) と確認されます。夫は真理を表しています。しかし、このサマリアの「女」には過去には夫はいましたが、現在は夫がいません。冒頭に述べたように、ヤコブの子孫によって男である真理は根絶やしにされ、わずかになっています。今の夫で表されるのは、偶像崇拝の信仰で、これは真理ではありません。

そこで主は、新しい真理をお与えになります。
「しかし、まことの礼拝者たちが、御霊と真理によって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はそのような人たちを、ご自分を礼拝する者として求めておられるのです。
神は霊ですから、神を礼拝する人は、御霊と真理によって礼拝しなければなりません。」(4:23,24)
ここで御霊とは真理を意味します(AC9828:10, AE183:7, Lord49:1)。真理は、知恵と知性によって認識されます。善とその情愛があっても、それに形をもたらす真理がなければ何事も存在できません。それでは真理とは何でしょうか?

サマリアの女は、キリストと呼ばれるメシアのことを聞きますが、それに答えて主はおっしゃいます。
「あなたと話しているこのわたしがそれです。」(4:26)
主はご自身が、神的真理そのものであり、神的真理が人類全体を救うことを明らかにされます。神的真理を、おおまかにいえば、神と隣人に対する愛です。神と隣人に対して愛をもって生きてゆかなければ、私たちはこの果てしない宇宙の中で意味を持たず、なくなってしまうからです。
「神を礼拝する人は、御霊と真理によって礼拝」するとは、神への愛と隣人に対する仁愛を意味し、私たちはここから永遠の生命を得ます。主が全能の神であることを認めて、礼拝すれば、私たちは永遠の生命を得ます。

この生命はどうすれば、私たちのものとすることができるのでしようか?
ここで弟子たちが現れ、ヒントを与えてくれます。
弟子たちは「先生、食事をしてください」と勧め、主は「わたしには、あなたがたが知らない食べ物があります。」とお応えになります。食べ物は私たちに生命を与えます。水は真理を与えてくれますが、水だけでは生きてはいけません。イスラエルの民が荒野で飢えたときも、マナという謎の食べ物を与えられました。主は、その謎の食べ物のことを明かされます。

「わたしの食べ物とは、わたしを遣わされた方のみこころを行い、そのわざを成し遂げることです。」
(4:34) 天界の天使たちは、主に使え、そのみこころを行い、御業を成し遂げます。天界の天使たちの食物とは、まさに神である主の御心を行うことです。肉体が食べる行為ではありません。「行い、歓ぶこと」。身体が歓ぶように、心が歓ばねばなりません。これが私たちを生かす食べ物です。永遠の生命を与える食べ物です。現在では聖餐式のパンで表されます。

主は『一人が種を蒔き、ほかの者が刈り入れる』(4:37)というたとえで、これを証されます。
「すでに、刈る者は報酬を受け、永遠のいのちに至る実を集めています。それは蒔く者と刈る者がともに喜ぶためです。」(4:36) 「わたしはあなたがたを、自分たちが労苦したのでないものを刈り入れるために遣わしました。ほかの者たちが労苦し、あなたがたがその労苦の実にあずかっているのです。」(4:38)
天使たちは、主の御心を行いますが、それは主がまかれた種と、育てられた実を刈り集めることによって行います。
主は、すべての人類にみ言葉という種を与え、それを信じて行うようにさせ、実らせます。実るまでには大変な時間がかかります。主は私たち一人ひとりに種を蒔きます。
そしてそれを回収するのが、天使たちです。あるいは天使的な心を持った人です。人の善い行いという実は、主おひとりに種がまかれ、育てられます。集めるのは天使たちで、実がなることを天使たちはこの上なく歓びます(AE911:16参照)。刈り取って、天使たちは歓び、その歓びを本人に伝えます。まだこの歓びを知らなければ、み言葉を実行して、天使たちの歓びを味わってください。真理と善が結婚して、生まれる歓びを味わってください。天使たちは深い平安に浸り、その平安を伝えてくれます。

サマリアの女による善の情愛に、弟子たちの問いによって真理への情愛がもたらされ、異邦人の内に教会が設立されます。この歓びが生まれれば、善と真理がむすびつき、教会が誕生します。
サマリアの女は町に行って人々に主イエスのことを報告し、女の言葉によって主がメシアであると信じます。この時はまだ人から聞いた、伝聞的な信仰ですが、二日間の滞在によって「自分で聞いて、この方が本当に世の救い主だと分かったのです」(4:40) 。伝聞的な信仰から、主がメシアであることを自分で聞いて理解します。霊的善と教義が結びついて、異邦人の地に教会が誕生します。

しかし異邦人の地に誕生した教会は、自然的な部分が悪影響しています。同じ異邦人の地であるガリラヤに戻りますが、エルサレムの祭りで主の行いを見聞きし、カナの婚礼での奇跡を知っているはずですが、遺伝悪に影響され、元の悪に戻ってしまいます。そのため、ある役人の息子が死にかかっているという助けを求めます。息子は真理を表します。主が救世主であるという真理が消えそうであることを表しています。しかし主は、「息子は直った」という言葉を与えます。このみ言葉だけで息子は癒されます。神的真理が与える言葉は、与えた時刻と同じ時刻に息子を癒し、異邦人の教会は立ち直り、支えられます。

主が、サマリアとガリラヤの異邦人の地で行われた奇跡を振り返ります。主はご自身を栄化して、私たち人類の救いの道を作り、同時に異邦人の地に教会を建て、エルサレムで表される旧い、歪曲されてしまった教会の裁きをするためにこの世にお越しになりました。

新しい教会は、異邦人である私たちの教会でもあります。私たちの教会は、「御霊と真理によって礼拝しなければなりません」。その真理とは、「あなたと話しているこのわたしがそれです。」と明かされた神的真理である主イエスご自身です。新旧両聖書に記された主の外的・内的人生すべてです。旧約聖書に記された主イエスの内的人生は、創世記の中のアブラハムとイサク、ヤコブそして、ヨセフで表象される内意です。

主は旧約聖書の本当の意味をよみがえらせるために、サマリアのスカル、いにしえのシュケムのヤコブの井戸に現れ、異邦人であるサマリアの女を導かれます。異邦人である私たちに、旧約聖書にも深い隠された意味があることを教えられるためです。旧約聖書の深い意味の復活こそ、主の目指された目的でした。サマリアの女との水と泉・井戸に関する対話は、これを意味しています。

神的真理は、霊的善の礼拝の実行を求めます。その霊的善とは、神への愛と隣人愛に他なりません。愛と知恵が主イエスの本質です。愛と知恵が、主の魂に内在する神の本質です。私たちは、主の愛と知恵を、行い、歓ぶことで、心を込めて自分のものとしなければなりません。神の似姿あるいは像とならなければなりません。私たちが目的としなければならないはずの霊的善、失われて歪曲されてしまった霊的善の復活も、主がこの世に来られた目的の一つです。霊的善が私たちの内に宿り、私たちの形となるまでに同化しなければ、善と真理は私たちのものではありません。善と真理以外のものは、すべて私たち自身のものです。私たち自身のものは、永遠のものではなく、永遠の生命とはなりえません。私たちは自身のものを嫌い遠ざけることで、永遠の生命である主の善と真理を自分のものとします。

主は、「遣わされた方のみこころを行い、そのわざを成し遂げること」が私たちの食物となるべきだと、模範を示されました。これが主の善と真理を私たちのものとすることです。私たちは地上の食べ物を求めるより、天界の食べ物を求めます。地上の食べ物である自分のもの、自分のこだわりを捨て、主が歓びになる真理を行い、歓びます。

「刈る者は報酬を受け、永遠のいのちに至る実を集めています。」主が種をまき育てた善と真理を集めて、自分のものとしなければ、天界に入ることができません。これこそ永遠の生命となる私たちの報酬です。

しかし、一方で私たちの遺伝悪は、永遠の生命に反する悪と偽りに引きずりこもうと邪魔してきます。せっかく生まれたはずの息子である真理は、この遺伝悪によって死にかけます。
このとき、私たちは主にみ言葉を求めます。神的真理によって、真理を破壊しようとする悪と偽りは、善と真理ではなく、私たちの内にある悪と偽りであることを確認します。それが、み言葉によって悪と偽りであることを確認できれば、私たちの持っている新しい生命は、たちまち癒されます。

イエスはユダヤを去ってガリラヤに来てから、これを第二のしるしとして行われた。(4:54)
アーメン

創世記
33:17 一方、ヤコブはスコテへ移動し、そこで自分のために家を建て、家畜のためには小屋を作った。それゆえ、その場所の名はスコテと呼ばれた。
33:18 こうしてヤコブは、パダン・アラムからの帰途、カナンの地にあるシェケムの町に無事に着き、その町の手前で宿営した。
33:19 そして、天幕を張った野の一画を、シェケムの父ハモルの息子たちの手から百ケシタで買い取った。
33:20 彼はそこに祭壇を築き、それをエル・エロヘ・イスラエルと呼んだ。

ヨハネ福音書
4:1 パリサイ人たちは、イエスがヨハネよりも多くの弟子を作ってバプテスマを授けている、と伝え聞いた。それを知るとイエスは、
4:2 ──バプテスマを授けていたのはイエスご自身ではなく、弟子たちであったのだが──
4:3 ユダヤを去って、再びガリラヤへ向かわれた。
4:4 しかし、サマリアを通って行かなければならなかった。
4:5 それでイエスは、ヤコブがその子ヨセフに与えた地所に近い、スカルというサマリアの町に来られた。
4:6 そこにはヤコブの井戸があった。イエスは旅の疲れから、その井戸の傍らに、ただ座っておられた。時はおよそ第六の時であった。
4:7 一人のサマリアの女が、水を汲みに来た。イエスは彼女に、「わたしに水を飲ませてください」と言われた。
4:8 弟子たちは食物を買いに、町へ出かけていた。
4:9 そのサマリアの女は言った。「あなたはユダヤ人なのに、どうしてサマリアの女の私に、飲み水をお求めになるのですか。」ユダヤ人はサマリア人と付き合いをしなかったのである。
4:10 イエスは答えられた。「もしあなたが神の賜物を知り、また、水を飲ませてくださいとあなたに言っているのがだれなのかを知っていたら、あなたのほうからその人に求めていたでしょう。そして、その人はあなたに生ける水を与えたことでしょう。」
4:11 その女は言った。「主よ。あなたは汲む物を持っておられませんし、この井戸は深いのです。その生ける水を、どこから手に入れられるのでしょうか。
4:12 あなたは、私たちの父ヤコブより偉いのでしょうか。ヤコブは私たちにこの井戸を下さって、彼自身も、その子たちも家畜も、この井戸から飲みました。」
4:13 イエスは答えられた。「この水を飲む人はみな、また渇きます。
4:14 しかし、わたしが与える水を飲む人は、いつまでも決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人の内で泉となり、永遠のいのちへの水が湧き出ます。」
4:15 彼女はイエスに言った。「主よ。私が渇くことのないように、ここに汲みに来なくてもよいように、その水を私に下さい。」
4:16 イエスは彼女に言われた。「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい。」
4:17 彼女は答えた。「私には夫がいません。」イエスは言われた。「自分には夫がいない、と言ったのは、そのとおりです。
4:18 あなたには夫が五人いましたが、今一緒にいるのは夫ではないのですから。あなたは本当のことを言いました。」
4:19 彼女は言った。「主よ。あなたは預言者だとお見受けします。
4:20 私たちの先祖はこの山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムにあると言っています。」
4:21 イエスは彼女に言われた。「女の人よ、わたしを信じなさい。この山でもなく、エルサレムでもないところで、あなたがたが父を礼拝する時が来ます。
4:22 救いはユダヤ人から出るのですから、わたしたちは知って礼拝していますが、あなたがたは知らないで礼拝しています。
4:23 しかし、まことの礼拝者たちが、御霊と真理によって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はそのような人たちを、ご自分を礼拝する者として求めておられるのです。
4:24 神は霊ですから、神を礼拝する人は、御霊と真理によって礼拝しなければなりません。」
4:25 女はイエスに言った。「私は、キリストと呼ばれるメシアが来られることを知っています。その方が来られるとき、一切のことを私たちに知らせてくださるでしょう。」
4:26 イエスは言われた。「あなたと話しているこのわたしがそれです。」

AE483[12]
主からの神的真理が「泉」によって意味されるのは、ヨハネで主ご自身が明らかな言葉で教えられています:主がサマリアの地にある時、ヤコブの泉に座り、サマリアの女におっしゃいました、この水を飲むものは再び渇きます:しかし私が与える水を飲む者は永遠に渇くことがなく;私が与える水は、彼の中で永遠の生命を湧き出す水の泉となります。 (4:5-20).

主が与える「水」は水のことではなく、神的真理であることは明らかです:なぜならサマリアの女が汲んでくる水は、再び渇きますが、主の与える水はそうではありません。「わたしが与える水は、その人の内で泉となり、永遠のいのちへの水が湧き出ます。」とは、その真理の内に生命があることを意味します。主がそれらを与えるとき、真理の中には生命があることは上記の記事に見ることができます。主はヤコブの泉に座って、これらのことをサマリアの女に告げました、なぜならサマリアの女によって、主が異邦人に神的真理を与えることが意味され、「サマリアの女」によって、そのような教会の設立、「ヤコブの泉」によって主ご自身からの神的真理、すなわち、み言葉が意味されるからです。