イエスがこう言われたのは、ピリポを試すためであり、ご自分が何をしようとしているのかを、知っておられた。(ヨハネ6:6)
み言葉にピリポが現れるのは、12弟子を紹介する部分(マタイ10:3,マルコ3:18,ルカ6:14)を除いては、ヨハネ福音書だけです。ヨハネ福音書では一章にもナタナエルを呼ぶ部分で(1:43-48)出現します。後半部分では、「ピリポ。こんなに長い間あなたがたといっしょにいるのに、あなたはわたしを知らなかったのですか。」(14:9)と、長い間従いはしたものの、主は、ピリポの信仰の深さを案じておられます。
前章で主はエルサレムのベテスダで、奇跡を起こし、病を癒されます。ここでは、「教義に従って行え」という「教義の実行」を説かれました。しかし、エルサレムの人々の「互いの栄誉だけを認め、主の戒めに従わない」態度に、エルサレムを離れます。
エルサレムを離れ、主が山に上ったとき、過越しの祭りが近づいて、神的善である父と主の結合、すなわち主の栄化が近づいてきます。山が意味する神的善から、教会の善と真理がどれだけ教会に浸透しているか、案じておられました。
「どこからパンを買って来て、この人々に食べさせようか。」とおっしゃったのは、群衆の食事のことを気にかけておられたのではなく、群衆の霊的な状態を気にかけておられたのです。
パンは、み言葉では、霊的栄養のことを意味します。主は、肉体の栄養だけではなく、霊的栄養が足りているかどうかを最も気にされました。ピリポの信仰の深さを案じただけではなく、群衆の全員の霊的状態を気にかけておられました。
パンの奇跡の話では、数字の「五」が何回か出てきます。少年が持っていた五つのパンと、十分腹を満たした民の五千人です。み言葉で、数字の五は、二種類の解釈がされます。一つは主が幼少から私たちに蓄えられる「残りのもの」と言われる善と真理です。もう一つは、その量が他の数に比べて「わずか」しかないという二種類です(天界の秘義5291:6)。残っている主の善と真理があるのか?どのくらいなのかです。
二匹の魚は、二が結びつきを意味し、魚は真理を意味するので、真理が善と結ばれることを意味します。
そこで、主は山上で民を草の上に座らせ、民がほしいだけパンと魚を分け与えます。草は、動物を養い、人の霊的栄養にもなるため、知識を意味します。(黙示録解説507)
主はパンに例えながら、霊的栄養の話、霊的生命を養うものの、そして与える真理が善と結ばれるかという状態をご覧になります。
パンの奇跡は、最初はわずかしかなかった真理と善も、主から知識を十分与えられたことを示します。群衆の知識は「食べたうえ、なお余ったもので十二のかごがいっぱいになった。」(6:13)となります。知識は十分あります。
しかし、「人々が自分を王とするために、むりやりに連れて行こうとしているのを知」ります。そこには、まだ本当の信仰が根付いていません。地上の流説が優勢です。そこで、ご自分は再び神的善である山に退かれます。
主という神的善を失った弟子たちは、夕方の、真理があいまいになる時を迎えます。真理があいまいなまま、弟子たちは舟に乗りこみ、自分たちの力、自分たちの考えで生きてゆこうとします。
「湖は吹きまくる強風に荒れ始め(6:18)」ます。真理を失い、偽りに囚われてしまった弟子たちは、風にあおられ、心は右に、左にと揺れ動き、ついには湖という地獄に沈みこんで霊的生命を失いそうです。偽りに翻弄され、霊的生命を失いかけている弟子たちに、主は山から下りてきて、地獄である湖の上を歩いて征服し、近寄って手を差し伸べられます。「わたしだ。恐れることはない。」
弟子たちが、嵐の湖で沈みかけていたように、おそらく私たちもまだ地獄にいます。私たちがいるところが地獄でないとささやきかけること自体が、地獄の業です。そこが地獄であるという危険に気づかなければ、ちょっとしたことで、湖に落ち、地獄の湖に沈んでしまいます。
自分が霊的に危険であることに気づくとき、主を認めて、乗っている舟に主を迎え入れなければなりません。舟は教義を意味します (AE514-20,21) 。主のおられない教義は、教義ではありません。教義は主から発するからです。
最初に主を認めることは、教会の信仰の始まりです。洗礼も同じような意義を持ちます。
洗礼の第一の機能はキリスト教徒に迎え入れること(TCR677)、第二の機能は、(キリスト教徒に)主イエス・キリストが贖い主・救い主であることを認め主に従うことです(TCR681)。その後、私たちは再生に向けて歩み始めます(TCR684)。
弟子たちが嵐の湖で主を迎え入れたように、恐れず、主を贖い主・救い主として受け入れます。
神である主を、自分たちの舟に迎え入れることで、私たちは生命を得る教えを受け、再生の道を進みはじめます。
その翌日、湖の向こう側で、主は教えを説かれます。永遠の生命を得るための教えです。再生のための教えとなります。
「なくなってしまう食べ物のためではなく、いつまでもなくならない、永遠のいのちに至る食べ物のために働きなさい。それは、人の子が与える食べ物です。この人の子に、神である父が証印を押されたのです。」 (6:27)
「神のわざを行うためには、何をすべきでしょうか。」と人々は問います。
すると、「神が遣わした者をあなたがたが信じること、それが神のわざです。」(6:29)
主を認めることは、霊的生命の最初の全てです。主を認めなければ、信仰の真理も、愛の善もやって来ません。(AC 10083:6)
湖で沈みかけた時、弟子たちは、最初、誰がやってきたのか、わかりませんでした。しかしそれが主イエスであると言われ、「私だ、恐れることはない」ということを信じて受け入れました。神が遣わした方を信じて受け入れることによって、霊的生命が始まります。
「霊的」な状態になって霊的生命を受け入れるためには、生命の源である主を受け入れる以外に道はありません。
しかし、群衆は、いつも「しるし」を求めます。教えに価値があるか、根拠があるかを尋ねます。
彼らはモーセが荒野でマナを与えたような「しるし」を求めていました。しかし主は「あなたがたの父祖たちは荒野でマナを食べたが、死にました。」(6:49)と指摘されます。マナを食べたのは、「人はパンだけで生きるのではない、人は【主】の口から出るすべてのもので生きる」ということを知るためでした。(申命記8:3 )
主は、与えようとされる真の食物であるパン、永遠の生命を宿す食料とは何かを説かれます。私たちが霊的生命を維持するため欠かせない食物です。
「これは天から下って来たパンで、それを食べると死ぬことがないのです。わたしは、天から下って来た生けるパンです。だれでもこのパンを食べるなら、永遠に生きます。またわたしが与えようとするパンは、世のいのちのための、わたしの肉です。」(6:50,51)
これは私たちが、聖餐式の度に聴く文です。聖餐式で預かるパンとワイン、その意味を再度確認します。
「食べる」そして「飲む」がみことばで霊的な飲食を意味し、教えられることであり、教えによって善と真理を自分のものとして生きること、これを自分のものとする、ことです。黙示録解説617[3]
それでは、聖餐式で私たちが、飲んで食べるものは何でしょうか?
「主の肉とパンは、主の愛の神的善を、そして仁愛の善のすべてを意味し、主の血とワインは主の知恵の神的真理と、信仰の真理のすべてを意味します。食べることは自分のものとすることです。」
(TCR702)
主の神的善と神的真理です。しかしそれは無限です。無限のものを、有限である私たちがすべて自分のものとすることはできません。
たとえば、聖餐式のやり方も教会によってさまざまです。教会によっては、聖職者がパンの一部を与えるという形式もあります。しかし教会が与えるものだけを受け取れといっているように見えます。またそのあとワインが与えられないのは、理解せずに受け取れ、と言っていることになります。
パンが、主の愛の神的善をそして、仁愛の善のすべてを意味するのであれば、まず聖職者がパンを割き、信徒はそれを分け合います。主の愛は、主によって誰にも平等に当てられているからです。聖職者は「ここから取りなさい。」とパンの器を信者に差し出します。そして、パン、主の愛をどれだけとるかは信者に任せます。信徒は手を伸ばして、受け取れる分だけを受け取ります。それは人に応じて異なります。
ここで、自分は聖餐にあずかるのがふさわしいかどうかという疑問が出てきます。主の愛をどれだけ受け取ることができるのか?です。そのため、日常の生活を振り返って、自分の生活が、主の愛の神的善と、どのくらい相応しているか自己点検して、聖餐式に臨みます。聖餐式前の自己点検は、聖餐式に正しく預かるためには欠かせません。自分を点検することなく、聖餐に預かるなら、主と自分の関係のことを考えていないことになります。日常的に自分が主の戒めを守っているかどうかを反省することから、聖餐式は始まります。
「聖餐にふさわしく預かる人は、主の内にいて主は彼らの内にいます。そのため聖餐を通して、彼らは主と結ばれます。」(TCR725)
聖餐に正しく預かる人は、主と正しい相応によって結ばれます。自分が悪を拒むことができ、主から注ぐ流入を邪魔する悪と偽りが全くなければ、主の善と真理はおびただしく流れ入り、素晴らしい感動を生み出します。心から主の流入を望む人は、日常的に悪と偽りを避け、主の善を実行していなければ流入はありません。
逆に、他人の分のことを考えず、大きなパンの固まりをとるなら、他の人との分かち合いを考えていないことになります。その人は自分だけの愛をとります。聖餐式の本当の意味を知りません。
聖餐式のパンは酵母を使わず、全粒粉を使った混じりもののないパンです。味わい深いパンですが、市場で売っているパンのように食べやすいものではありません。大きなパンの固まりは、喉をつまらせるだけです。また、自分の日常の行動が主の愛に従ったものでなければ、なんの相応も起こりません。
次にワインが聖職者より差し出されます。
ワインは聖餐式で、「私の血、あがないのために流される血」と付け加えられ、「この杯から取って飲みなさい」と差し出されます。これも自分が進んで受けるという姿勢が必要です。
贖いのための血、とは主が十字架刑のときに流される血ではありません。神的真理を意味します。
聖餐式でパンの後にいただくワインは、行った愛の善を真理によって、それは主のものであることを確認するものです。自分が行ったと考えるなら、それは神的真理とはなりません。
全体を通して、聖餐式は強い相応を生みます。主が世に来られる前、無数の奇跡を起こした相応です。
ヨハネ福音書の第六章でも、この相応がおこりました。
「わたしを食べる者も、わたしによって生きるのです。これは天から下って来たパンです。(6:57,58)」この主のみ言葉に、躓く人が多く出てきます。
「これはひどいことばだ。そんなことをだれが聞いておられようか。」(6:60)
彼らはこう言って離れてゆき、弟子たちのうちの多くの者が離れ去って行き、もはやイエスとともに歩かなかった (6:66)。
そして「わたしがあなたがた十二人を選んだのではありませんか。しかしそのうちのひとりは悪魔です。」(6:70)と、最初は主を選んだとしても、私たちが自分の愛を優先すれば、主の愛を冒涜することになります。主を受け入れようとしない人は、離れてゆくことになります。善と悪の分離が生まれます。
肉にこだわる、すなわち自分自身の愛にこだわる人は、主が与えようとする霊的生命を持つことができません。自分自身の愛である肉と、仁愛の善、主の善である愛は、真っ向から対立します。私たちは、肉である自分の愛ではなく、主の愛、永遠の生命である主のみ言葉を選びます。
「いのちを与えるのは御霊です。肉は何の益ももたらしません。わたしがあなたがたに話したことばは、霊であり、またいのちです」。(6:63)アーメン。
申命記
8:3 それで主は、あなたを苦しめ、飢えさせて、あなたも知らず、あなたの先祖たちも知らなかったマナを食べさせられた。それは、人はパンだけで生きるのではない、人は【主】の口から出るすべてのもので生きる、ということを、あなたにわからせるためであった。
ヨハネ福音書
6:1 その後、イエスはガリラヤの湖、すなわち、ティベリアの湖の向こう岸に行かれた。
6:2 大勢の群衆がイエスについて行った。イエスが病人たちになさっていたしるしを見たからであった。
6:3 イエスは山に登り、弟子たちとともにそこに座られた。
6:4 ユダヤ人の祭りである過越が近づいていた。
6:5 イエスは目を上げて、大勢の群衆がご自分の方に来るのを見て、ピリポに言われた。「どこからパンを買って来て、この人たちに食べさせようか。」
6:6 イエスがこう言われたのは、ピリポを試すためであり、ご自分が何をしようとしているのかを、知っておられた。
6:7 ピリポはイエスに答えた。「一人ひとりが少しずつ取るにしても、二百デナリのパンでは足りません。」
6:8 弟子の一人、シモン・ペテロの兄弟アンデレがイエスに言った。
6:9 「ここに、大麦のパン五つと、魚二匹を持っている少年がいます。でも、こんなに大勢の人々では、それが何になるでしょう。」
6:10 イエスは言われた。「人々を座らせなさい。」その場所には草がたくさんあったので、男たちは座った。その数はおよそ五千人であった。
6:11 そうして、イエスはパンを取り、感謝の祈りをささげてから、座っている人たちに分け与えられた。魚も同じようにして、彼らが望むだけ与えられた。
6:12 彼らが十分食べたとき、イエスは弟子たちに言われた。「一つも無駄にならないように、余ったパン切れを集めなさい。」
6:13 そこで彼らが集めると、大麦のパン五つを食べて余ったパン切れで、十二のかごがいっぱいになった。
6:14 人々はイエスがなさったしるしを見て、「まことにこの方こそ、世に来られるはずの預言者だ」と言った。
6:15 イエスは、人々がやって来て、自分を王にするために連れて行こうとしているのを知り、再びただ一人で山に退かれた。
6:16 夕方になって、弟子たちは湖畔に下りて行った。
6:17 そして、舟に乗り込み、カペナウムの方へと湖を渡って行った。すでにあたりは暗く、イエスはまだ彼らのところに来ておられなかった。
6:18 強風が吹いて湖は荒れ始めた。
6:19 そして、二十五ないし三十スタディオンほど漕ぎ出したころ、弟子たちは、イエスが湖の上を歩いて舟に近づいて来られるのを見て恐れた。
6:20 しかし、イエスは彼らに言われた。「わたしだ。恐れることはない。」
6:21 それで彼らは、イエスを喜んで舟に迎えた。すると、舟はすぐに目的地に着いた。
6:22 その翌日、湖の向こう岸にとどまっていた群衆は、前にはそこに小舟が一艘しかなく、その舟にイエスは弟子たちと一緒には乗らずに、弟子たちが自分たちだけで立ち去ったことに気づいた。
6:23 すると、主が感謝をささげて人々がパンを食べた場所の近くに、ティベリアから小舟が数艘やって来た。
6:24 群衆は、イエスも弟子たちもそこにいないことを知ると、自分たちもそれらの小舟に乗り込んで、イエスを捜しにカペナウムに向かった。
6:25 そして、湖の反対側でイエスを見つけると、彼らはイエスに言った。「先生、いつここにおいでになったのですか。」
6:26 イエスは彼らに答えられた。「まことに、まことに、あなたがたに言います。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからです。
6:26 イエスは彼らに答えられた。「まことに、まことに、あなたがたに言います。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからです。
6:27 なくなってしまう食べ物のためではなく、いつまでもなくならない、永遠のいのちに至る食べ物のために働きなさい。それは、人の子が与える食べ物です。この人の子に、神である父が証印を押されたのです。」
黙示録解説617
[2]
「食べる」そして「飲む」はみ言葉にたびたび言及されていて、霊的意味を知らない者は、自然的な飲食が意味されるとしか考えません。しかし「食べる」「飲む」は霊的に栄養を摂ること、したがって善と真理を自分のものとすることを意味します。「食べる」とは善を自分のものとすることを意味し、「飲む」とは真理を自分のものをすることを意味します。み言葉が霊的なものであると信じる者は、「食べる」「飲む」、同じように、「パン」「食物」「ワイン」そして「飲む」が霊的栄養であることを知っています。もしこの意味がそうでなかったら、み言葉は単に自然的なもので、同時に霊的なものではなくなります。したがって単に自然的な人のために書かれ、霊的な人のため。ましてや天使のためには書かれていないことになります。「パン」「食物」「ワイン」そして「飲む」の霊的意味が度々以上に示されたように心の栄養を示すのでなく、み言葉すべてが、文字の意味で自然的であるだけではなく、霊的です。
霊的に栄養を摂るとは、教えられ、浸透しすること、したがって知り、理解し、賢明になることです。
人が肉体の養分だけではなく、この栄養を味わなければ、人ではなく獣です。そして、祝宴や宴会や日々の味覚に日々歓びを置く者は、霊的な事柄に鈍感であるが、世や肉体のことに推論を使うことができるかを物語ります。そのため、死後彼らは人間というより獣のような生を送り、知性と知恵は狂気であり、愚かです。「その小さな巻き物を取って食べなさい。」(黙10:9)とは、読んで、認識し、聖書を調べることを意味するからです、というには天からおりて来た天使の手にする「その小さな巻物」とは、以上に述べたように聖書を意味するからです。さらに、人は本を自然的に食べ、むさぼることができず、すなわち、み言葉ではありません。以上から「食べる」とは霊的に栄養を与えられることは明白です。
[3]
「食べる」そして「飲む」がみことばで霊的な飲食を意味し、教えられることであり、教えによって善と真理を自分のものとして生きること、これを自分のものとする、したがって知性と知恵のものをすることは、次の節に見ることができます。
エレミアで、「私はあなたのみことばを見つけ出し、それを食べました。あなたのみことばは、私にとって楽しみとなり、心の喜びとなりました。」(15:16)
ここで「食べる」とは明らかに霊的食を意味し、知り、受容し、自分のものとすることを表しています。そのため、「それを食べました。あなたのみことばは、私にとって楽しみとなり、心の喜びとなりました。」と言われます。「あなたのみことば」が神的真理の教えを意味します。これは主が試みる者におっしゃったものと同じです。
「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる』と書いてある。」 (マタイ4:3, 4; ルカ 4:4; 申命記 8:3)
そして、「なくなる食物のためではなく、いつまでも保ち、永遠のいのちに至る食物のために働きなさい。」(ヨハネ 6:27)。
そして、主が弟子たちにおっしゃった言葉もそうです。
弟子たちはイエスに、「先生。召し上がってください」とお願いした。しかし、イエスは彼らに言われた。「わたしには、あなたがたの知らない食物があります。」そこで、弟子たちは互いに言った。「だれか食べる物を持って来たのだろうか。」イエスは彼らに言われた。「わたしを遣わした方のみこころを行い、そのみわざを成し遂げることが、わたしの食物です。(ヨハネ4:31-34).
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