創世記45章: ヨセフの顕現と和解

創世記45章: ヨセフの顕現と和解

ヨセフは兄弟たちに言った。「私はヨセフです。父上はお元気ですか。」(45:3)

兄弟たちの前で、エジプトの支配者としてふるまってきたヨセフは、ついにその正体を明かします。
ヨセフが兄弟たち、とくに実弟のベニヤミンに会って、感動のあまり人前で自分を制することができなくなり、和解のため自分の正体を明かしたとされています。積年の恨みを超えて、兄弟たちが自分にしたことを赦します。その赦しの行為と和解は、素晴らしい行いであると結論づけます。

しかし、赦しと兄弟間の和解のすばらしさだけを説くなら、神のみことばである聖書は、道徳のお手本にしかすぎません。兄弟の仲たがいと仲直りは、どこにでもありそうな例で、赦しの素晴らしさは描けても、人類全体の救いの道に直接関係するものかについては少し疑問です。しかし、天界の教えによる内意は、人類全体の救いについて、全く異なることを教えます。

まずヨセフの物語の事実の流れです。当初、ヨセフは兄弟たちから見ると、許しがたい夢を見ます。自分が中心にいて、兄弟たちがすべて自分にむかってお辞儀をします。さらに父母を表す太陽と月を加えて、すべてが、ヨセフを拝みます。この夢を周りに告げたため、ヨセフは生意気な弟だと、兄弟から「除け者」にされてしまいます(創37章)。さらに、あろうことか、殺そうとさえしますが、不幸中の幸い、商人に売られエジプトに連れてゆかれます。しかし、エジプトでは神の導きで、出世して宰相の地位につき、エジプト全土を支配するに至ります。カナンに残っている親兄弟たちは、飢餓のため危機を迎え、エジプトにやってきて、支配者であるヨハネに食糧を求めます。

天界の教えの解釈は、人類の救いに関するさらに壮大なものです。
ヨセフは人間の内的そして天的なものを表します。ヤコブの十人の息子達は、教会の外的な自然性を表します。
十人の兄弟たちが表す外的な自然性は、当初、ヨセフの表す内的で天的なものを認めず、除け者にして否定します。
しかし兄弟たちの地全体が飢餓の状態を迎えたことは、カナンの教会が善と真理の不足で危機にあったことを意味します。教会の存続をかけて、知識の豊富なエジプトにやってきて、生きる糧となる食糧を求めますが、ヨセフの計略にはまってしまいます。兄弟全員をエジプトに引き寄せ、兄弟の一部を人質として、ヨセフの弟のベニヤミンをエジプトに呼び寄せます。

ベニヤミンをエジプトに呼び寄せたことは、外的・自然的なものに、内的・天的なものを導入してゆくための手段でした。その計略は、外的な真理に内的真理を導入するための過程です。本45章では、さらに外的・自然的なものと、内的・天的なものとの結びつきの過程に入ってゆきます (AC5867)。

外的な自然性は、それだけでは生命があるとはいえません。なぜなら外的な自然性だけが存在し、内部との結びつきを全くもたないなら、生命の源と結びつかず、全体はいつか死を迎えることになります。中身のない外面だけの真理は、その根本的目的である善を失い、滅びてゆくことになります。外面だけ自然性だけの教会は、本来の目的の善を失ったため、善と真理が不足し、絶滅への道を歩み進めますが、それに気づけません。

豊穣の地のエジプトを支配し、霊的な食物である善と真理を蓄えたヨセフは、親兄弟たちを救うことで、彼らによって表象される教会を救わなければ、人類は滅びてしまいます。全地のどこかに生命を源とし善を目指す教会がなければ、人類は悪と偽りに突入して死に至ります。

ヨセフは兄弟たちに今後起こる危難を告げます。主が貯める善と知識を蓄積していかなければ、それが輝き始めるには、まだ時間がかかることを次のように伝えます。(AC5893,5894)
「というのは、この二年の間、国中に飢饉が起きていますが、まだあと五年は、耕すことも刈り入れることもないからです。」(45:6)
善がその働きをするためには、自然的な心の内に真理がなければなりません。そしてそれらの真理は純粋な愛に属する情愛を通してもたらさらねばなりません(AC5893)。純粋な情愛によって真理を求め、実行して思い出してゆかねば、いつか必要な時に使える善と真理の蓄積とはなりません。蓄積は主のわざで、時間をかけて本人が知らないうちに蓄積されてゆきます。善と真理が不足している危機を十人の兄弟たちで表される外的な教会に告げます。

しかし天的で、内的なものであるヨセフと、外的なものにしかすぎない十人の兄弟たちは、昔のように、意思疎通を図ることができません。ヨセフがただ自分の正体を明かしても、兄弟たちは受け入れてくれず、天的で内的なものは、理解されず、再びのけ者にされてしまい、地上の教会は滅びてしまいます。

そこで、まず力の差、食糧の差、善と真理が継続して供給されるか、持続可能な教会であるかを知らなければなりません。足りないことを知り、足りないものを求める謙虚さを持たなければ、何事も受け付ないからです。
天界の教えは告げます、「それらの真理へのこだわりは自己愛から起こり、自分だけを愛する者は、自らを謙虚にすることはできません」(AC5929)。兄弟たちはヨセフの権力を見せつけられることで、次第に謙虚になり従順になってゆきます。しかしヨセフが表す内部的善と、兄弟たちの表す自然性にある教会の真理の間は、結びつくにはまだまだ遠い存在です。その場でほしいものさえ得れば、持続可能性を無視して、近寄らなくなります。

そこで天的な内部であるヨセフと、外的で自然的な兄弟たちの仲介をする、実弟のベニヤミンが必要となります。仲介者であるベニヤミンに内的真理を認識させ、その大切さを父親に告げることで、父親の持つ善の力を引き出すしか、教会が存続する道はありません。善こそが本来の力であるからです。

「さあ、あなたがたも、弟のベニヤミンも、自分の目でしっかり見てください。
あなたがたは、エジプトでの私のすべての栄光(誉)と、あなたがたが見た一切のことを父上に告げ、急いで父上をここに連れて来てください。」(45:12,13)

この栄光は、霊的天界のことです。自然的性の内の霊的天界と、霊的善が交流することを意味します(AC5929)。
聖書にはたびたび出てくる「栄光」です(AC5929-4)。霊的な真理の美しさと力です。主イエスご自身のことです。
「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた」(ヨハネ1:14)
この世における主の恵みと誠にあふれる言動こそが、父である霊的善に伝える栄光となります。神の教えを曲げ、先祖の行いによって、善を失い、生命を失い始めた教会を、霊的によみがえらせる力です。

父親と弟のベニヤミンの証言、内的価値を認めて伝えることで、自然的で外的なものにのみ価値を置く、十人の兄弟たちを、内的善であるヨセフに近づけます。主のこの世でのみ言葉の真の意味を、理解し、行うことで自分たちのものとして、霊的生命という善をよみがえらせるための主の摂理、神の力です。神の力、生命を認識するのが媒介者の役目です。「私の弟のベニヤミンの目」によって意味される、媒介者の認識です(AC5920) 。

弟のベニヤミンが、内的真理を深く認識することで、これを意味するヨセフと深く結ばれます。
「彼は弟ベニヤミンの首を抱いて泣いた。ベニヤミンも彼の首を抱いて泣いた。」(45:14)
一方的な行為ではなく、ヨセフからの行為と、ベニヤミンからの相互的な行為で、この相互性が結合を産みます。

ベニヤミンとヨセフが結ばれることで、ベニヤミンは媒介としての役目を果たし、ヨセフと兄弟たちとの語り合い、交流が始まります。
「彼はまた、兄弟みなに口づけし、彼らを抱いて泣いた。それから兄弟たちは彼と語り合った。」(45:15)

しかし両者の交流ははじまったばかりです。両者の交流をさらに深めて、結合して持続可能となるためには、父親の力が必要です。霊的善をあらわす父親の名は、外的部分と内的部分を表す、ヤコブとイスラエルの名が交互して現れはじめます。霊的生命を受ける前は、「ヤコブ」といわれ、霊的生命を受けた後は「イスラエル」といわれます。
例えば、21節では「イスラエルの子らは、そのようにした。」(45:21)。25節では、「彼らの父ヤコブのもとへ行った」(45:25)。27節では「父ヤコブは元気づいた(45:27)。続く28節では「イスラエルは言った」(45:28)、と目まぐるしく、ヤコブとイスラエルの間で変化してゆきます。これは間違いではなく、一つ一つに意味があります。 

そして、兄弟たちのカナンへの旅が始まります。父親を連れてエジプトにやってくる旅です。
エジプトの王であるファラオは、ヨセフが兄弟たちに対して次のように述べるよう指示します。
「子どもたちと妻たちのために、エジプトの地から車を持って行き、あなたがたの父を乗せて来なさい。家財に未練を残してはならない。エジプト全土の最良の物は、あなたがたのものだから』(45:19,20)

「子供たち」はこれらの事柄を知らない者を、「妻たち」は真理の情愛を意味するがまだ真理に至っていない者を表します。彼らを「車」によって表される教義によって教え導き、「父を連れてくる」ことは、役立たせて善に近づけることを意味します(AC5945,6,7)。カナンからエジプトへの旅は、単なる旅行ではなく、私たちの霊的成長の旅でもあります。
旅の中で、「家財に未練を残すな」とは、物事の本質を認め、手段的なものには囚われるなということを意味しています。

物事の本質に近づくには、なにか近づくための手段的なものが必要ですが、進むにつれて手段的なものと本質的なものの組み合わせは変化してゆきます。魂を求めるとき、肉体は大切ではなくなり、真理を求めるとき、記憶知に未練を残す必要はなくなり、善を求めるとき、真理に未練を残す必要はなくなります(AC5948)。

著作の真理を理解するにつれ、翻訳文や英語・ラテン語の原典を読むための知識は必要が薄れてゆき、真理の実践が進むにつれ、真理の理解の必要性は薄れてゆき、再生が進むにつれて、真理の実践のことすらあまり考えなくなり、ついには善だけを求めてゆきます。

しかし、真理が不足するときも、真理への情愛が不足することもあります。時期に応じて、教会や周りから刺激を絶えず刺激を受けます。

旅のための食糧は十分与えられます。謙虚に認めれば、主が無償で与えられ(AC5957)るからです。特にベニヤミンには、仲介の役目を果たすべく、十分な量が与えられます。「銀三百枚と晴れ着五着」がその十分さを意味します (45:22)。新教会は真理過剰になるときもありますが、それは周りに与えるという意味があるのかもしれません。

旅の任務を果たすべく、主から流入があり、無事カナンにたどりつき、父ヤコブを元気づけることができます。そして教会の自然的・外的なものと内的・天的なものが、ヤコブの内的善の力によって完全に結びつく瞬間を迎えることになります。ヨセフという内的・天的なものが滅びてないことを知り、元気づけられたヤコブは、イスラエルとして語ります。

イスラエルは言った。「十分だ。息子のヨセフがまだ生きているとは。私は死ぬ前に彼に会いに行こう。」(45:28) アーメン。

創世記(新改訳)
45:12 さあ、あなたがたも、弟のベニヤミンも、自分の目でしっかり見てください。あなたがたに話しているのは、この私の口です。
45:13 あなたがたは、エジプトでの私のすべての栄誉と、あなたがたが見た一切のことを父上に告げ、急いで父上をここに連れて来てください。」
45:14 彼は弟ベニヤミンの首を抱いて泣いた。ベニヤミンも彼の首を抱いて泣いた。
45:15 彼はまた、兄弟みなに口づけし、彼らを抱いて泣いた。それから兄弟たちは彼と語り合った。
45:16 ヨセフの兄弟たちが来たという知らせが、ファラオの家に伝えられると、ファラオもその家臣たちも喜んだ。
45:17 ファラオはヨセフに言った。「おまえの兄弟たちに言うがよい。『こうしなさい。家畜に荷を積んで、すぐカナンの地へ行き、
45:18 あなたがたの父と家族を連れて、私のもとへ来なさい。私はあなたがたに、エジプトの地の最良のものを与えよう。あなたがたは、地の最も良い物を食べるがよい。』
45:19 おまえはこう命じなさい。『子どもたちと妻たちのために、エジプトの地から車を持って行き、あなたがたの父を乗せて来なさい。
45:20 家財に未練を残してはならない。エジプト全土の最良の物は、あなたがたのものだから』と。」
45:21 そこで、イスラエルの息子たちはそのようにした。ヨセフは、ファラオの命により、彼らに車を与え、また道中のための食糧も与えた。
45:22 彼ら一人ひとりに晴れ着を与えたが、ベニヤミンには銀三百枚と晴れ着五着を与えた。
45:23 父に贈ったものは、エジプトの最良のものを積んだろば十頭と、穀物とパンと父の道中の食糧を積んだ雌ろば十頭であった。
45:24 こうしてヨセフは兄弟たちを送り出し、彼らが出発するとき、彼らに言った。「道中、言い争いをしないでください。」

ヨハネ福音書
1:14 ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。


天界の秘義5893.
「この二年の間、この地の中央でききんがあった」は、自然的心に善の不足がある状態を表します。・・・
[2] この含意はこうなっています。
善がその働きをするためには、自然的な心の内に真理がなければなりません。そしてそれらの真理は純粋な愛に属する情愛を通してもたらさらねばなりません。例外なしに人の記憶はすべて、何等かの愛を通してもたらされ、その愛と結びつくことで、記憶の中に残ります。これはまた信仰の真理に適用できます。愛を通して真理がもたらされるなら、これらの真理はそこに愛とともに残ります。そこで結びつくなら、次のようになります:情愛が再び呼び起こされれば、同時にそれに結びついた真理が再現します。そして真理が呼び起こされれば、同時にそれらに結びついた情愛が再現します。それは成人の、人が再生されるときに起こりますが、それ以前は、彼は主によって送られた天使によって支配されます。それはその時には信仰の真理について自分から考えることができないからです。彼らは彼を、真理だと考え始めた真理によって維持して治め、それらの真理を通して維持することで、情愛を結び付けてゆきます。その情愛―真理への情愛―は善に源を得ており、善に向かって段階的に導かれてゆきます。

LGBTQ

LGBTQ

創造者ははじめの時から『男と女に彼らを創造され』ました。 (マタイ19:4)

LGBTQとは次の言葉の頭文字をとって組み合わせた言葉で、性的少数者 (セクシャルマイノリティ) を
表す言葉の一つとして使われています。
性的指向とは、どのような性別の人を好きになるか、ということです。
これは自分の意志で選び取るというより、多くの場合思春期の頃に「気付く」ものです。
性的志向から、女性の同性愛者(レズビアン)、男性の同性愛者(ゲイ)、両性愛者(バイセクシャル)に分かれます。
性自認 (性の自己認識)とは、自分の性をどのように認識しているのか、ということです。
「心の性」と言われることもあります。多くの人は「身体の性」と「心の性」が一致していますが、
「身体の性」と「心の性」が一致せず、自身の身体に違和感を持つ人たちもいます。
身体と心の性が不一致の人(トランスジェンダー)です。
性的少数者(セクシュアルマイノリティ)には、LGBT以外にも、男女どちらにも恋愛感情を抱かない人や、自分自身の性を決められない・分からない人など、さまざまな人々がいます。これを特定の枠に属さない人(クイア他)でしています。
https://www.moj.go.jp/JINKEN/LGBT/index.html

これらの方々は社会的・宗教的に認められず、自信を失い、自分の異常に悩み苦しむ人が多かったといいます。新教会でも、別の宗派に属する牧師が集会にやってきて、悩みに苦しむ人を無視していいのか?と指摘してくれたことがあります。あるいは、ネット経由で、聖職者なのに、苦しむ人を無視していいのか?と同じような問題の提起をしてくれる方もいました。
ほかにも、日本で、両性具有で生まれた人をテーマにした漫画を何種類か拝見したこともあり、そういう問題があるとは認知していました。

一方で、LGBTQに関する話は、霊の存在を認めるかどうかの話にも似て、なかなか収まりどころがない方向に拡散してしまう恐れも感じていました。

ところが、今回の聖職者会議では、LGBTQが課題となり三日半の日程のほとんどが、その神学的課題の検討に費やされました。教会の幹部は最低限の合意までたどり着きたいと願っていたように思いますが、全員合意には至らなかったようです。(個人的に帰国に必要なコロナ陰性証明書の入手に追われていたこともあって結論を聞き逃した可能性もあります)。
ジェネラルチャーチには、説教や組織はこうあらねばならないという決まりは全くなく、聖書と著作を「神のことば」として扱うことだけが唯一の合意事項です。そして、合意形成にも全員合意を目指し、時間をかけるというのが、もう一つの決まりだと思います。一般に日本の教会の一部には、ジェネラルチャーチは保守的だと批判する傾向があるようですが、これらの根本的な方向性を述べているのかもしれません。今回の問題もその根本方針に従って進められました。

さて、聖職者会議の全日程を終え、帰国の要件である陰性証明も無事取得し、フィラデルフィアからニューヨークで一泊して帰国の途に移りました。6月26日のことです。ニューヨークの玄関口、ペン・ステーションに着くや否や、LGBTQらしい華やかな服装の人々に囲まれました。男性トイレの個室部分には、堂々と女性が入ってきます。何事かとスマホで調べれば、その日は、コロナで数年静かであった、プライド・パレードが復活し、まさにそのピークの日だったようです。虹色に染めた旗と衣装を着た人々が、すさまじい熱気で集い、歌い、叫んでいました。路上は警官によって厳しく交通規制され、行く先と経路を指示されます。

プライド・パレードは、LGBTQ、性的少数者の人権解放のパレードとされています。かつての「オズの魔法使い」の女優が性的少数者で、彼女が「虹のかなた」にという主題歌を歌っていたこともあって、虹色がシンボルとされていると聞きました。

この解放運動には過去にも賛否両論があり、ニューヨークのグリニッジ・ヴィレッジ地区のある町で、警察との激しい闘争があったと言います(1969年6月28日「ストーンウォール・イン」事件)。その後、先進国では性的少数者は社会におおむね受け入れられ始めていますが、全世界でみれば、そうではないようです。東京では虹色のパレードが始まっているかもしれませんが、さらに山間・海辺の町ではまだ浸透していないように思えます。重要である、様々人の好みを、差別する心なしに受けいれる社会にはなっているかは、疑問です。旧い日本にも仏教寺院や僧院や権力者には、そのような風習があったと聞いています。教会の友人には、日本の一般事情として歴史のことを説明しました。

ロシアのウクライナ侵攻(自称軍事作戦?)も、プライド・パレードへのロシアの正教会総主教の反感が原因の一つであったとCNNは伝えていたことを思い出します。様々な人の指向を認めようという流れは都会や一部の大企業の中ではあるものの、世界中・日本中すべてが同じスピードで進んでいるというわけではないようです。
(https://www.cnn.co.jp/world/35184795.html)

さて、新教会教義にLGBTQの、特に同性愛に関する教えがあるかといえば、著作で正面切ってこれを取り上げた項目はほぼない、という意見が大勢です。ただし、同性愛でいえば、二つ関係するものがあります。

その一つは、レビ記18:22の「あなたは女と寝るように、男と寝てはならない。」という戒めです。レビ記18章6節から24節の部分は、文字上、背徳の結婚と情欲についての戒めとされています。
しかし霊的意義は少し異なっています。
「み言葉では、『姦淫』の霊的意義は善の不善化で、『密通』は真理の歪曲を意味し( 2466, 3399)ますが、不潔な結びつきは禁止の段階に応じて (レビ記 18:6-24)、様々な種類の冒涜があることを意味します。」(AC 6348:2)
この部分はヤコブの長男ルベンの行為の内意が描かれ、22節の行為の内意自体は個別には触れられていません。この章の内容をざっと眺めると、外的行為の禁止だけではなく、その内的な意味の禁止がメインであるように見えます。その詳細はすべて啓示されてはいません。霊的姦淫は、実に多岐にわたるためかもしれません。

もう一つは、創世記のソドムの町の裁きの部分です。
「すべての人が、町の隅々から来て、その家を取り囲んだ。そしてロトに向かって叫んで言った。「今夜おまえのところにやって来た男たちはどこにいるのか。ここに連れ出せ。彼らをよく知りたいのだ。」(創世記19:4,5) 
ここで「彼ら」と言われているのは「二人のみ使い」です。「知りたい」とは聖書ではよう使われる用語で、主に性的関係を指すといわれています。同性間ほか一般的に正常でない性的関係を、ソドミーと呼ぶ人がいます。

しかし、天界の教えは、「ソドムは自己愛から生じるあらゆる悪」が意味され、「ソドムは姦淫の最悪の形から成る悪を意味しますが、それでもなおその悪は自己愛から生じるあらゆる悪が意味されます」(AC2220)。性的関係には限られていません。
そして「二人のみ使い」とは主の神的人間と、そこから発するものです(AC2320)。ソドムの町の人は、主ご自身に対して、暴行を働こうとしました。新約聖書にたびたび出てくる暴行です。もちろん主を認めないという霊的暴行が実際にあったことです。

どのような行為が、ソドムと言われる具体的な行為かの記述はありませんが、しかし自己愛から起因するすべての悪が意味されているといいます。それなら、その悪にはまさに無数の変化があります。私たちは自己愛そのもの、そして世間愛そのものと言ってもよいほどの存在なので、これらを挙げると、外面的には私たちの行為のすべてとなってしまうからかもしれません。

そして内面の判断は、霊界に入った後、主ご自身がそれぞれの人間に対してなさるかものと、この世で私たち自身が自己点検で真剣にあぶりだしてゆくものがあります。悪は気づかなければ、決して避けることができません。それは自分自身の無意識な、また意識的な行動のすべてであるからです。そして自己愛は地獄そのものであり、その説きつけは実に巧妙で、地獄からの説得行動であることは一見わかりません。

外面上、そして頭の中だけで新教会に属していると自分が考えても、すべては私たちの魂の実質、愛で決められます。新教会である新しいエルサレムに対する警告として、黙示録には次の句があります。
「犬ども、魔術を行う者、淫らなことを行う者、人を殺す者、偶像を拝む者、すべて偽りを好み、また行う者は、外にとどめられる。」(黙示22:15)
犬は、あらゆる情欲に囚われ、飲食の楽しみを含めた肉体的情欲にふける人が意味されます(AR952)。もちろん性欲もその中に入ります。私たちは地道に悪を避け、善を行う断悪修善の道を進まねばならないことにはまったく変化はありません。

しかしLGBTQに関する限り、私たちが気づきにくいことがあります。黙示録の中で言われている「人を殺す者」という語、そして十戒の中で「殺すなかれ」に反する行為です。驚くべきことに、新教会でも、平然と人を裁き、地獄に落ちると口にする人々がいます。それらの人々の行為です。それらの人々はいわば、意識して、あるいは無意識に、霊的な殺人を行っています。

主はヨハネ福音書で、姦淫した女の裁きについて教えられています。
律法学者とパリサイ人が、姦淫の場で捕らえられた女を連れて来て、真ん中に立たせ、イエスに言った。
「先生、この女は姦淫の現場で捕らえられました。モーセは律法の中で、こういう女を石打ちにするよう私たちに命じています。あなたは何と言われますか。」(8:3,4,5)

私たち自身が律法学者たちに同じことを問われたと考え、回答を考えてみます。そして姦淫の場で捕らえられた女とは、LGBTQの人が持つ性的な情愛です。
模範的な回答をすれば、一人の男と一人の女性の結婚愛を培わない者は、天界には迎え入れられません。結婚愛は霊的成長を促進するきわめて有力な手段で、結婚愛のことを知らない異邦人は、霊的に成長して天界に入ることができません。そのため新教会では結婚愛を大切にします。

霊的に姦淫を犯した者は、石で意味される固い真理で、自分の性根を叩き直すしかありません。モーセの律法は、霊的なことを語っています。私たちの中で、なんらかの善を攻撃する部分があれば、それは霊的な姦淫です(AC6348[2])。人の行う善を、自分の思惑で辱めることが、その内容です。霊的姦淫は、それが霊的姦淫であることを知らなければ、避けようがありません。

イエスは身を起こして言われた。「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの人に石を投げなさい。」(8:7)
自分が気づかないうちに人の善い行為を、偽りや悪として攻撃することも霊的姦淫であれば、誰も自分には罪がないと言い切れません。無意識のあるいは意識的断罪は、善の不善化として霊的姦淫になります。すべてをご存じの主以外に、石を投げることができる人間は存在しません。責めようと集まって石を手にしていた人も、それに気づき、一人一人去ってゆきます。

LGBTQの行為も、その内心まで見なければ、決して悪と断罪することはできません。
しかし、私たち新教会には、LGBTQの行為自体は、結婚愛をだいなしにし、天界への道を阻むことを、知っています。これは一人の男と一人の女の「結婚愛」を説く新教会でしか教えることができません。「結婚愛」に反する行為は、天界へ行く道を阻む行為です。自分にそれを発見した時は、石という真理で、自分を矯正します。

ヨハネ福音書で、主ご自身は決して裁かないとおっしゃいます。裁くのは私たち自身でなければなりません。そして主が私たちに求められることは、行って、二度と罪を犯さないことです。悪は悪、偽りは偽りと認めたら、そこから離れます。私たちが悪と偽りを自分の内に認め、そこから離れるにつれ、天界は少しずつ近づいてきます。

イエスは身を起こして、彼女に言われた。「女の人よ、彼らはどこにいますか。だれもあなたにさばきを下さなかったのですか。」 彼女は言った。「はい、主よ。だれも。」イエスは言われた。「わたしもあなたにさばきを下さない。行きなさい。これからは、決して罪を犯してはなりません。」(8:9-11)

アーメン。

創世記
19:4 彼らが床につかないうちに、町の者たち、ソドムの人々が、若い者から年寄りまで、すべての人が、町の隅々から来て、その家を取り囲んだ。
19:5 そしてロトに向かって叫んで言った。「今夜おまえのところにやって来た男たちはどこにいるのか。ここに連れ出せ。彼らをよく知りたいのだ。」

レビ記
18:22 あなたは女と寝るように、男と寝てはならない。これは忌みきらうべきことである。
18:23 動物と寝て、動物によって身を汚してはならない。女も動物の前に立って、これと臥してはならない。これは道ならぬことである。

ヨハネ福音書
8:3 すると、律法学者とパリサイ人が、姦淫の場で捕らえられた女を連れて来て、真ん中に立たせ、
8:4 イエスに言った。「先生、この女は姦淫の現場で捕らえられました。
8:5 モーセは律法の中で、こういう女を石打ちにするよう私たちに命じています。あなたは何と言われますか。」
8:6 彼らはイエスを告発する理由を得ようと、イエスを試みてこう言ったのであった。だが、イエスは身をかがめて、指で地面に何か書いておられた。
8:7 しかし、彼らが問い続けるので、イエスは身を起こして言われた。「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの人に石を投げなさい。」
8:8 そしてイエスは、再び身をかがめて、地面に何かを書き続けられた。
8:9 彼らはそれを聞くと、年長者たちから始まり、一人、また一人と去って行き、真ん中にいた女とともに、イエスだけが残された。
8:10 イエスは身を起こして、彼女に言われた。「女の人よ、彼らはどこにいますか。だれもあなたにさばきを下さなかったのですか。」
8:11 彼女は言った。「はい、主よ。だれも。」イエスは言われた。「わたしもあなたにさばきを下さない。行きなさい。これからは、決して罪を犯してはなりません。」〕

天界の秘義6348-2
み言葉では、『姦淫』の霊的意義は善の不善化で、『密通』は真理の歪曲を意味し( 2466, 3399)ますが、不潔な結びつきは禁止された段階に従って(呼ばれ) (レビ記 18:6-24)、様々な種類の冒涜を意味します。冒涜はここで使われている言葉「おまえは父の床に上り、そのとき、それを汚した。──彼は私の寝床に上ったのだ」で明白に意味されています。これらの言葉の意味は、信仰を分離して、善を冒涜することです(4661)。ルベンによって行われた、言葉にするのもはばかられる行為について述べられています。

四つの生き物

四つの生き物

御座の前は、水晶に似た、ガラスの海のようであった。そして、御座のあたり、御座の周りに、前もうしろも目で満ちた四つの生き物がいた。4:6

黙示録第四章は、審判の前の天界のあらゆる事柄の調整です(AE258)。この審判はすでに行われ、この新しい天界の教義は、啓示され、私たちに示されています。

第二・第三章に描かれた七つの教会は、新しい教義が啓示される前の教会ですが、その性質は、新教会にも残り、私たちが克服しなければならない面を発見することができます。なぜならこの七つの教会はあらゆる教会のこと、すなわち私たちそれぞれのことであるからです。

6月19日は新教会の日として、聖なる都である神的真理の教義(HD6)が完成し、世で主に従っていた使徒たちを集めて全世界に宣教に送り出されたことを記念する日です(TCR791)。

 

この都は、天から下ってきて、そしてこの「都の門は一日中決して閉じることがない。」(21:25)とされる神的真理の教義ですが、七つの教会の性質は根深く、新教会と称する教会にも残っており、この教会はまだ地の教会に到達できていません。第四章の天界の事柄の調整、すなわち、私たちの内心の深い部分を調整し、再び地上の新教会の完成に向け進みます。

黙示録の第四章には、荘厳で不思議な天界の光景が描かれています。黙示録の著者ヨハネの前に門があり、ラッパのような声に呼ばれて「ここに上れ。この後、必ず起こる事をあなたに示そう。」と声があります。

御座が現れ、その方は碧玉や赤瑪瑙のように見え、周りは緑玉のように見える虹があります。

御座の周りの24の座と、そこに金の冠をかぶる長老が見えます。

そして、稲妻と声と雷鳴が起こり、七つの灯が御座の前で燃えています。

天界の光景で、注意をひきやすく、私たちが学ぶべきものは、「前もうしろも目で満ちた四つの生き物」(4:6)と24人の長老です。四つの生き物はダニエル書(7:3-8)や、エゼキエル書(1:5,6)にも現れますが、黙示録の四つの生き物とは微妙に異なります。もちろん、古代の恐竜のように、過去か未来の世界のどこかにこの四つの生き物が、生きて実在しているというわけでもありません。

この生き物は「御座の中央と御座の回りに」(4:6)にいます。御座の中央に座っておられるのは、主イエス・キリストです。そして御座の周りは、主に近い、より内的な、あるいは高い天界のことです。

四つの生き物とは、ケルビムと呼ばれる天使たちのことです。

しかし天使たちのことを意味するのではなく、「愛の善と仁愛の善を除いては、内的天界に近づいてはならない」という主の守りと、摂理を意味します。さらに、「主ご自身から直接、そして高い天界から間接的に、下位の天界と地上の教会に流入するためには、秩序の内にあらねばならない」が意味されます (AE277) 。すなわち、主の力で維持される、天界の基本原則です。

この主の摂理と、守りの力が以下で説明されています。

 「第一の生き物は、獅子のようであり、第二の生き物は雄牛のようであり、第三の生き物は人間のような顔を持ち、第四の生き物は空飛ぶ鷲のようであった。」(4:7)

獅子、雄牛、人間、空飛ぶ鷲の四つの生き物は、そのような生き物がいるのではなく、いわば表象的存在です。それは、天界では実際見えますが、それぞれ、力、無垢と仁愛、知恵、知性を意味する表象的存在です。霊的な解釈が、実体・実質となります。

獅子の表す「力」は、偽りと悪を消散させ、打ち勝ちます。(AE278) もちろん、獅子が、偽りと悪を消散させるわけではなく、天使が、主の力を用いて、偽りと悪を散らし、地獄に追い返します。そして、天使が使う力の源は、神的真理としてのみ言葉にあります。

み言葉は、天的なことと、霊的なことを表象し相応します。それは、霊的意味の基礎です(AE278-1)。

文字上の意味が、天界と地上で、同じ意味を考えるなら、その両世界で考えた者に相応が産まれ、交流が産まれます。するとこの交流によって、天界の力が、地上に流れてきます。

主による天界の力の流入を産むためには、愛の善と仁愛の善が必要です。なぜなら結びつきを産むのは「愛」であるからです。「愛」以外に結びつきを生み出す力はありません。人と天界が愛によって結びつき、主の力が天界を通して、自然界に流入します。この相応があるのは、主のみ言葉です。この相応の力を悪用すれば、魔法使いと呼ばれ、排斥されます。

そして自然界という究極の場と、天界の結合は、相応を持つみ言葉によって生まれます。

教義は、主ご自身が啓示された天界の教義を除き、人が相手に教えやすいように考えだしたものです。しかし主のみ言葉は違います。なぜなら、み言葉は、主から発し、その小さな部分・部分にいたるまで、天界の結婚があるからです。聖書には似たような言葉が、繰り返されますが、それは善を意味するものと、真理を意味するものが使用され、善と真理は天界の結婚を産み、愛の源になっています。例を挙げてみます。

黙示録の四章の9.10節です。

「また、これらの生き物が、永遠に生きておられる、御座に着いている方に、栄光、誉れ、感謝をささげるとき、二十四人の長老は御座に着いている方の御前にひれ伏して、永遠に生きておられる方を拝み、自分の冠を御座の前に投げ出して言った。」

二十四人の長老とは、主の周りにいる権力を与えられた老人たちのことではありません。この長老の一人になりたいと願う人がいたら、大きな偽りと、権力欲の悪にとらわれています。二十四は、すべてを表す十二の倍数で元の数字と同じ「すべて」を表します。善と真理の知識すべてが意味されています。

「栄光と誉れ」の「栄光」は真理を意味し、「誉れ」は善を意味します。この二つがともに言われるのは、真理と善の結合という天界の結婚を生み出すからです。・・この二つが天界を造り、そして教会を造ります。この結婚はみ言葉の個々の部分にあります。これが、み言葉が最も神聖である理由です。(AE288-3)

神的真理と神的善を受け入れ、天界と教会、そして永遠の生命のすべては主から来ることを心から認めるのは、善から真理にいる者にしかできません。そしてこれができる者だけが信仰と愛にいます。そして信仰と愛にいる者だけが、魂と心で、主と結びつきます。結びつきのある魂と心に、主は流入します。(AE290-2)

結びつきは、初めは疑念的なものが、実行段階以上にまで高められ、初めて起こります。もし結びつきがなければ、それは記憶の中だけにとどまることになります。記憶された知識は消化せずに止まります。消化されて本人のものとなっていないので本人との結びつきを産みません。記憶は人の入り口、入り口のある庭にしかすぎません。

み言葉と教義を学び、実行せずにいる人は、天界の玄関の庭でたむろしている乞食のような存在です。愛することによって、相応が産まれず、消化されて自分のものとされないので、いつまでたっても天界の門はくぐれません。

第二の生き物の「雄牛」は、無垢と仁愛を意味します。雄牛は自然的な人のもつ善です。天界に近づくためには、穢れのない無垢の心と、人に対する優しい心が必要です (AE279) 。人に危害を与えようとする心や、優しい気持ちを持てなければ、天界にはふさわしくありません。天界からはじき出され、近づけません。無垢と仁愛がない者は、天界に近づけないという、主の摂理、守りの力が働きます。

第三の生き物の「人」は、霊的真理への情愛と、知恵です(AE280)。「人」は顔かたちではなく、知恵から人です。もちろん悪知恵は「知恵」ではありません。また霊的真理を、栄光や名誉、そして利得なしに、愛します。愛するとは、生活に使って「知恵」にまで高めることです。霊的真理への情愛から、それを生活に役立てることで、知恵となります。純粋な霊的真理への情愛と知恵がなければ、主と天界には近づけません。そして、正確にいえば、主おひとりが知恵であり、「人」です。

第四の生き物の「空飛ぶ鷹」は知性を表します(AE281)。そして知性は真理から来ます(AE281-7)。

真理が含まれるみ言葉から、真理を得るには知性が必要です。

空飛ぶ鷹は、高く飛び、あらゆる方角に気を配って知性を得ます。私たちが学ぶことによって知性を高めていったように、高い知性がなければみ言葉から真理を引き出せません。空飛ぶ鷹が示す、あらゆる方向に注意を払う知性がなければ、神的なものや天界には近づけないのが、主の守りのお力です。

教義の要点を並べたものは、受験のアンチョコで役立ったという経験のある人には便利ですが、消化されず行われない知識は、入り口の前の前、さらにはるか前にしかありません。それは知性や、知恵や、無垢や仁愛とは、かけはなれています。主の摂理によって、近づくことはできません。

例えれば、頂上にみ言葉がある富士山を、周囲の県から、はるか遠くから眺めているような状態です。み言葉を読まず、地図を読むだけです。地図を読むだけで学んだような気になりますが、実際に富士山への一歩を踏み出していません。そして残念なことに、地図を読むだけでは、偽りとなる可能性が高くなります。

「人から出るものは偽りの知性です。しかし主からみ言葉を通してくるのは真の知性です。」(AE251-9) と天界の教えにあるように、人から出る偽りとなれば、真の知性とはなりえません。

 「見よ。それは雲のように上って来る。その戦車はつむじ風のよう、その馬は鷲よりも速い。ああ。私たちは荒らされる。」(エレ4:13 、AE251-10)

馬は理解を、鷲は知性を表します。拙速な理解は偽りに陥り、富士山にたどり着く前に、樹海で永遠に迷い、心を「荒らされる」ことになります。

主と天界に近づくためには、四つの生き物の摂理で守られている、主と天界に、愛で近づくしかありません。真理を実行するまで、心を高めなければ善にも愛にも、知恵にも、知性にさえなりません。

そして主と天界から、直接・間接の流入を得るために、もう一つ大切なものがあります。

「二十四人の長老は御座に着いている方の御前にひれ伏して、永遠に生きておられる方を拝み、自分の冠を御座の前に投げ出して言った。」(4:10)

二十四人の長老が表す、あらゆる善と真理の知識は、主の御前にひれ伏し、自分の黄金の冠を御座の前に投げ出し、「すべての善と真理は、すべて主おひとりから来ている」と認め、感謝します。

主が感謝を求められているのではありません。私たちが主から善と真理を得るためには、深い卑下が必要なのです。上から下に水が流れるように、卑下のない心には、流入は生まれません。下から上には力は流れません。私たちが主に捧げものをするときも、実は主のものをいただいていることを自覚しなければ、何も生まれません。

二十四人の長老が冠を投げ出して、礼拝したように、善と真理はすべて主のものであることを、行動で確認し表現するとき、私たちに改良が始まります。それはみ言葉では「創造」と呼ばれます。

 「主よ。われらの神よ。あなたは、栄光と誉れと力とを受けるにc方です。あなたは万物を創造し、あなたのみこころゆえに、万物は存在し、また創造されたのですから。」(4:11)アーメン

エレミヤ書 新改訳

4:9 「その日には──【主】のことば──王の心や、高官たちの心は萎え、祭司はあ然とし、預言者はたじろぐ。」

4:10 私は言った。「ああ、【神】、主よ。まことに、あなたはこの民とエルサレムを完全に欺かれました。『あなたがたには平和が来る』と言われたのに、剣が私たちの喉に触れています。」

4:11 そのとき、この民とエルサレムに告げられる。「荒野にある裸の丘から、熱風は、娘であるわたしの民の方に吹く。ふるい分けるためでも、より分けるためでもない。

4:12 それよりも、もっと激しい風が、わたしのために吹いて来る。今や、わたしが彼らにさばきを下す。」

4:13 見よ、それは雲のように上って来る。その戦車はつむじ風のよう。その馬は鷲よりも速い。ああ、私たちは荒らされる。

4:14 「エルサレムよ。救われるために、悪から心を洗いきよめよ。いつまで、自分のうちによこしまな思いを宿らせているのか。

ヨハネ福音書

4:1 その後、私は見た。すると見よ、開かれた門が天にあった。そして、ラッパのような音で私に語りかけるのが聞こえた、あの最初の声が言った。「ここに上れ。この後必ず起こることを、あなたに示そう。」

4:2 たちまち私は御霊に捕らえられた。すると見よ。天に御座があり、その御座に着いている方がおられた。

4:3 その方は碧玉や赤めのうのように見え、御座の周りには、エメラルドのように見える虹があった。

4:4 また、御座の周りには二十四の座があった。これらの座には、白い衣をまとい、頭に金の冠をかぶった二十四人の長老たちが座っていた。

4:5 御座からは稲妻がひらめき、声と雷鳴がとどろいていた。御座の前では、火のついた七つのともしびが燃えていた。神の七つの御霊である。

4:6 御座の前は、水晶に似た、ガラスの海のようであった。そして、御座のあたり、御座の周りに、前もうしろも目で満ちた四つの生き物がいた。

4:7 第一の生き物は獅子のようであり、第二の生き物は雄牛のようであり、第三の生き物は人間のような顔を持ち、第四の生き物は飛んでいる鷲のようであった。

4:8 この四つの生き物には、それぞれ六つの翼があり、その周りと内側は目で満ちていた。そして、昼も夜も休みなく言い続けていた。「聖なる、聖なる、聖なる、主なる神、全能者。昔おられ、今もおられ、やがて来られる方。」

4:9 また、これらの生き物が栄光と誉れと感謝を、御座に着いて世々限りなく生きておられる方にささげるとき、

4:10 二十四人の長老たちは、御座に着いておられる方の前にひれ伏して、世々限りなく生きておられる方を礼拝した。また、自分たちの冠を御座の前に投げ出して言った。

4:11 「主よ、私たちの神よ。あなたこそ栄光と誉れと力を受けるにふさわしい方。あなたが万物を創造されました。みこころのゆえに、それらは存在し、また創造されたのです。」

黙示録解説288

[3] み言葉の中で、「栄光と誉(ほまれ)」はたびたび表現が出てきます、そこにある「栄光」は真理を意味し、「誉れ」は善を意味します。この二つがともに出てくるのは、み言葉の個々には、天界の結婚があり、それは善と真理の結合であるからです。み言葉の個々に、この結婚があります、なぜなら主から発する神的なものは、神的善と結びついた神的真理であり、これらがともになって天界と教会を造るからです。そのため、この結婚がみ言葉の個々にあります。そのため、み言葉は主から発する神的なもので、主ご自身です。これがみ言葉がもっとも神聖である理由です。

【説教アンケートのお願い】

説教の改善のため、以下のアンケートにご協力ください   shiro46m46@gmail.com へ項目と点数をご連絡ください

A学びがあるか    1ほとんど無い・・・5大いにある

Bわかりやすいか 1わかりにくい・・・5よくわかる

C新しい視点か  1 旧い視点・・・・・5斬新で新しい視点

その他(自由記述)

仮庵の祭り;わたしの時・あなたがたの時

「わたしの時はまだ来ていません。しかし、あなたがたの時はいつでも用意ができています。」(ヨハネ7:6)

前章でガリラヤ湖の周辺で、主は飢えた大勢の人にパンを与え、湖の上を歩いて弟子たちをお救いになるという奇跡を行われました。主の助けに手を伸ばして受け入れ、天からの食物のパンが、主ご自身の善を私たちが行うことによって救われることであると教えられました。しかし、主のみ言葉を受け入れない人は、大勢、主から去ってゆきます。

さて、エルサレムでは、仮庵の祭りが行われています。ユダヤ教で、スコットと呼ばれる仮庵の祭りは、「あなたがたの後の世代が、わたしがエジプトの地からイスラエルの子らを導き出したとき、彼らを仮庵に住まわせたことを知るためである」(レビ記23:43)とエジプトからの脱出を記念してレビ記他で定められたものです。時期的には、秋に収穫があったあと、それを感謝する祭で、日本の秋祭りにあたります。

しかし、この祭りには、さらに深い意味があります。天界の秘義によれば、「再生後に善が真理に植え付けられたことに感謝する礼拝を意味する祭り」(天界の秘義9296)が本当の意味です。
弟子をはじめとした人々に、主から真理が与えられ、それを善として「世に現」す時が来ています。
善に真理を植え付けることができた人は、そこから次々に大いに善と真理という収穫が産まれ、歓びの感謝をします。しかし善の源である主を憎む人々は、悪にいるため、悪の状態を意味する、「時」の審判が用意され、ることになります。
「世はあなたがたを憎むことができないが、わたしのことは憎んでいます。わたしが世について、その行いが悪いことを証ししているからです。」(7:7)

主ご自身はどうかといえば、主の目的である、ご自身と父との結合の時、すなわち栄化の時は、まだ来ていません。この時点においては、聖書に書かれた預言をすべて成就してないからです。そのため「わたしの時はまだ来ていません。」とおっしゃいます。エルサレムに入るのも、「表立ってではなく、いわば内密に上って行かれ」(7:10)ることになります。春になれば、パームサンデーの入城が待っています。そして十字架上の最後の試練が、備えられた「わたしの時」となります。

主がエルサレムに入ってからも、ユダヤ人たちは、「あの人はどこにいるのか」と言って、イエスを捜します(7:11)。
この仮庵の祭りでは、主の居場所を探す部分が度々出てきます。そして、居場所に加えて、主の出自、生まれや、教えの源が問われます。

エルサレムのある人たちは、「しかし、私たちはこの人がどこから来たのか知っている。キリストが来られるときには、どこから来るのかだれも知らないはずだ。」(7:27)と、主イエスをガリラヤ出身の者としか認めません。そしてニコデモに対しても、「ガリラヤから預言者は起こらないことが分かるだろう。」(7:52)とガリラヤの出身にこだわります。地上と世から得た情報の枠から出ることができません。

しかし、主はダビデの町、ベツレヘムでお生まれになったとあります。聖書でのお生まれは、ガリラヤ地方ではなく、ベツレヘムです。
また、「天から下って来たパン」(6:51)であることを信じることも、想像することすらできません。主の出身は、ガリラヤではなく、ダビデと同じベツレヘムです。そして主の出自は、地上ではなく、「天」そのものです。そのため、彼らが主を探しても見つけることはできません。本当の出身地である天を探さず、地上しか探さないからです。
「あなたがたはわたしを捜しますが、見つけることはありません。わたしがいるところに来ることはできません。」(7:34)と言われます。

主を「人」の中に探しても、決して見つけることはできません。「人」として探しても、主の源と出自は、地上の「人」ではないからです。
現代でも、主は地上の人だと考え、民族的な遺伝子から、顔形を予想したりします。西欧の人たちは、まるで西欧人のように描き、アフリカ大陸出身者は自分の民族のように描きます。しかし肉体的な特徴から主をとらえようとしても、「時」が来なければ、誰も主をみつけることができません。

本当に主を探して、感謝を捧げるなら、私たちは主の行った本当の業を知る必要があります。
仮庵の祭りは、主が私たちに植え、育てていただく善と真理に気づき、感謝する祭りです。
仮庵の祭りの日は七日間開かれ、八日目は大いなる日とされています。
「特に、あなたがたがその土地の収穫をし終える第七の月の十五日には、七日間にわたる【主】の祭りを祝わなければならない。最初の日は全き休みの日であり、八日目も全き休みの日である。」(レビ23:39)

「祭りもすでに半ばになったころ、イエスは宮に上って教え始められた。」(7:14)
仮庵の祭りの日の最中、主は教えを説かれます。ユダヤ人たちは、その豊富な学問の知識に感嘆し、
「どうして学問があるのか。」と学問の出自、源を問います。

「わたしの教えは、わたしのものではなく、わたしを遣わされた方のものです。」(7:16)
ご自分のものではないこと、遣わされた方のものであることを教えられます。そしてこのみ教えの証拠となるものも教えられます。
「自分から語る人は自分の栄誉を求めます。しかし、自分を遣わされた方の栄誉を求める人は真実で、その人には不正がありません。」(7:18)

天使は決して自分から語りません。天使たちは、
『はい』は『はい』、『いいえ』は『いいえ』と(マタ 5:37)だけ答えます。
彼らは、「それ以上のことは悪い者から出ている」ことを知っています。
聖書の記述を組み合わせて、自分たちの創り出した教えを語るのは、自分たちの知力を誇り、自分の栄誉を求めています。しかし、そうであってはなりません。自分の言動の中に自分への栄誉が含まれてないか点検します。自分から出るものを徹頭徹尾、否定して、その御心だけを求めます。その探求の中に自分への愛や世間への愛が含まれてないか、点検します。

この点検は、モーセが与えた律法(7:19)によって点検することが可能です。
例えば、モーセ五書の申命記によれば、割礼は「心の包皮」にしなければなりません。「うなじを固く」しないよう、「心の包皮」という汚れたものを切り捨てます(申 10:16)。悪や偽りから考えないよう心に割礼を施します。この戒めを守れば、「心に割礼を施し、あなたが心を尽くし、いのちを尽くして、あなたの神、【主】を愛し、そうしてあなたが生きるようにされ」(申 30:6)ます。悪と偽りを徹底して拒めば、主から本物の愛、隣人への愛が流入して、平安と幸福が与えられます。
モーセが与えたのが肉体の割礼ではなく、心の割礼であり、私たちの中の悪と偽りから清めることです。これを確認することで、主のみ言葉は、純粋に私たちへの愛から出ていることがわかります。

「だれでも神のみこころを行おうとするなら、その人には、この教えが神から出たものなのか、わたしが自分から語っているのかが分かります。」(7:17)
私たちが神のみこころを行おうとせず、誰かの利益や、思い込みのために行おうとすれば、それは神のみこころでないことはすぐにわかります。この地上のある人数だけが救われるとこじつける宗教は、それが主の御心でないことは一目瞭然です。主はこの地球の、そしてある時代の人間を愛しておられるのではなく、全宇宙で、主を認め、愛し、隣人愛に生きる人間を絶えず創造し、主の天界のメンバーとされたいと望まれているからです。

私たちが知っている宇宙は、時を経てゆくごとに、そのごく一部しか知らないことがわかってきます。最新の望遠鏡を宇宙に向けると、惑星一個どころではなく、銀河が次々と発見され、その誕生も確認されています。そして、宇宙の果てはまだ観測されていません。これを知っている人もいません。その中で、救う人間と救わない人間を、恣意的にわけ、何人かに絞ってしまうような存在は、「神」という名にふさわしくありません。そして、その方が支配される世界であるなら、そんな世界には生きていたくありません。存在したくもありません。

私たちは、意欲だけでも、神のみこころを行おうとしなければなりません。神様は、救われない人を作り出す解釈をしたり、簡単に切り捨てたりされません。
もしそうでなければ、神様と一体となり、天界に行くことなど不可能です。主がおっしゃったように、私たちは少なくとも「神のみこころを行う」ことを、目的としなければなりません。そして自分を含め、「うわべで人をさばかないで、正しいさばきを (7:24)しなければなりません。

仮庵の祭りの日は七日間開かれ、八日目は大いなる日とされています。この日が描かれています。
さて、祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立ち上がり、大きな声で言われた。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおり、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになります。」(7:37,38)

主はご自身が生命そのものであることを、祭りの終わりの大いなる日に再び宣言されます。
それはヨハネの前章で「わたしがいのちのパンです。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。」(6:35)とおっしゃったのと同じです。

これは肉体の生命ではありません。霊的生命です。霊的生命は、主イエス以外からは発しません。
天界の教えには、この霊的生命が、信仰と仁愛であると言われています。
「人は、生命そのものである主に近づくとき、この生命を得ます。そしてそれは信仰と仁愛の生命です。」(真のキリスト教358)

自分以外の人に優しくすることこそ、真の生命です。これに気づかせ、力を与えて、仁愛の業にされるのは主イエス・キリストだけです。私たちが自分からただ単に、人に優しくしても、それは「小さな親切」でしかなく、そしてそれは人によっては「大きなお世話」にしかなりません。しかし主がこの親切を願っておられることを知って、主から行えば、本物の生命になります。自分の業ではなく、主の業であると信じて行えば、主から生命の流入があり、私たちも主も幸せになります。

この霊的生命の流入こそが、仮庵の祭りの効果です。主の宣言によって、私たちはこれを味わい、感じます。この流入を、常に感じ、味わうことができれば、主と私たちの状態は一致します。これはこの世では簡単ではありません。父と子、父である神的善と、子である神的真理の合致は、主の栄化そのものであり、私たちはその神的善と神的真理の合致の効果の一端だけをこの世で垣間見ることができます。私たちの再生が進み、愛から真理を行うようになれば、私たちはこの仮庵の祭りを味わい、喜び楽しむことができます。

「最初の日に、あなたがたは自分たちのために、美しい木の実、なつめ椰子の葉と茂った木の大枝、また川辺の柳を取り、七日間、あなたがたの神、【主】の前で喜び楽しむ。」(レビ記23:40)アーメン。

レビ記
23:34 「イスラエルの子らに告げよ。この第七の月の十五日には、七日間にわたる【主】の仮庵の祭りが始まる。
23:35 最初の日には、聖なる会合を開く。あなたがたは、いかなる労働もしてはならない。
23:36 七日間、あなたがたは食物のささげ物を【主】に献げなければならない。八日目も、あなたがたは聖なる会合を開かなければならない。あなたがたは食物のささげ物を【主】に献げる。これはきよめの集会であり、いかなる労働もしてはならない。
23:37 以上が【主】の例祭である。あなたがたは聖なる会合を召集して、全焼のささげ物、穀物のささげ物、交わりのいけにえ、注ぎのささげ物を、食物のささげ物として、それぞれ定められた日に【主】に献げなければならない。
23:38 このほかに【主】の安息日、また、あなたがたが【主】に献げる献上物、あらゆる誓願のささげ物、あらゆる進んで献げるものがある。
23:39 特に、あなたがたがその土地の収穫をし終える第七の月の十五日には、七日間にわたる【主】の祭りを祝わなければならない。最初の日は全き休みの日であり、八日目も全き休みの日である。
23:40 最初の日に、あなたがたは自分たちのために、美しい木の実、なつめ椰子の葉と茂った木の大枝、また川辺の柳を取り、七日間、あなたがたの神、【主】の前で喜び楽しむ。
23:41 年に七日間、【主】の祭りとしてこれを祝う。これはあなたがたが代々守るべき永遠の掟であり、第七の月に祝わなければならない。
23:42 あなたがたは七日間、仮庵に住まなければならない。イスラエルで生まれた者はみな仮庵に住まなければならない。
23:43 これは、あなたがたの後の世代が、わたしがエジプトの地からイスラエルの子らを導き出したとき、彼らを仮庵に住まわせたことを知るためである。わたしはあなたがたの神、【主】である。」
23:44 こうしてモーセはイスラエルの子らに【主】の例祭のことを告げた。

ヨハネ福音書
7:1 その後、イエスはガリラヤを巡り続けられた。ユダヤ人たちがイエスを殺そうとしていたので、ユダヤを巡ろうとはされなかったからである。
7:2 時に、仮庵の祭りというユダヤ人の祭りが近づいていた。
7:3 そこで、イエスの兄弟たちがイエスに言った。「ここを去ってユダヤに行きなさい。そうすれば、弟子たちもあなたがしている働きを見ることができます。
7:4 自分で公の場に出ることを願いながら、隠れて事を行う人はいません。このようなことを行うのなら、自分を世に示しなさい。」
7:5 兄弟たちもイエスを信じていなかったのである。
7:6 そこで、イエスは彼らに言われた。「わたしの時はまだ来ていません。しかし、あなたがたの時はいつでも用意ができています。
7:7 世はあなたがたを憎むことができないが、わたしのことは憎んでいます。わたしが世について、その行いが悪いことを証ししているからです。
7:8 あなたがたは祭りに上って行きなさい。わたしはこの祭りに上って行きません。わたしの時はまだ満ちていないのです。」
7:9 こう言って、イエスはガリラヤにとどまられた。
7:10 しかし、兄弟たちが祭りに上って行った後で、イエスご自身も、表立ってではなく、いわば内密に上って行かれた。
7:11 ユダヤ人たちは祭りの場で、「あの人はどこにいるのか」と言って、イエスを捜していた。
7:12 群衆はイエスについて、小声でいろいろと話をしていた。ある人たちは「良い人だ」と言い、別の人たちは「違う。群衆を惑わしているのだ」と言っていた。
7:13 しかし、ユダヤ人たちを恐れたため、イエスについて公然と語る者はだれもいなかった。
7:14 祭りもすでに半ばになったころ、イエスは宮に上って教え始められた。
7:15 ユダヤ人たちは驚いて言った。「この人は学んだこともないのに、どうして学問があるのか。」
7:16 そこで、イエスは彼らに答えられた。「わたしの教えは、わたしのものではなく、わたしを遣わされた方のものです。
7:17 だれでも神のみこころを行おうとするなら、その人には、この教えが神から出たものなのか、わたしが自分から語っているのかが分かります。
7:18 自分から語る人は自分の栄誉を求めます。しかし、自分を遣わされた方の栄誉を求める人は真実で、その人には不正がありません。
7:19 モーセはあなたがたに律法を与えたではありませんか。それなのに、あなたがたはだれも律法を守っていません。あなたがたは、なぜわたしを殺そうとするのですか。」
7:20 群衆は答えた。「あなたは悪霊につかれている。だれがあなたを殺そうとしているのか。」
7:21 イエスは彼らに答えられた。「わたしが一つのわざを行い、それで、あなたがたはみな驚いています。
7:22 モーセはあなたがたに割礼を与えました。それはモーセからではなく、父祖たちから始まったことです。そして、あなたがたは安息日にも人に割礼を施しています。
7:23 モーセの律法を破らないようにと、人は安息日にも割礼を受けるのに、わたしが安息日に人の全身を健やかにしたということで、あなたがたはわたしに腹を立てるのですか。
7:24 うわべで人をさばかないで、正しいさばきを行いなさい。」
7:25 さて、エルサレムのある人たちは、こう言い始めた。「この人は、彼らが殺そうとしている人ではないか。
7:26 見なさい。この人は公然と語っているのに、彼らはこの人に何も言わない。もしかしたら議員たちは、この人がキリストであると、本当に認めたのではないか。
7:27 しかし、私たちはこの人がどこから来たのか知っている。キリストが来られるときには、どこから来るのかだれも知らないはずだ。」
7:28 イエスは宮で教えていたとき、大きな声で言われた。「あなたがたはわたしを知っており、わたしがどこから来たかも知っています。しかし、わたしは自分で来たのではありません。わたしを遣わされた方は真実です。その方を、あなたがたは知りません。
7:29 わたしはその方を知っています。なぜなら、わたしはその方から出たのであり、その方がわたしを遣わされたからです。」
7:30 そこで人々はイエスを捕らえようとしたが、だれもイエスに手をかける者はいなかった。イエスの時がまだ来ていなかったからである。
7:31 群衆のうちにはイエスを信じる人が多くいて、「キリストが来られるとき、この方がなさったよりも多くのしるしを行うだろうか」と言い合った。
7:32 パリサイ人たちは、群衆がイエスについて、このようなことを小声で話しているのを耳にした。それで祭司長たちとパリサイ人たちは、イエスを捕らえようとして下役たちを遣わした。
7:33 そこで、イエスは言われた。「もう少しの間、わたしはあなたがたとともにいて、それから、わたしを遣わされた方のもとに行きます。
7:34 あなたがたはわたしを捜しますが、見つけることはありません。わたしがいるところに来ることはできません。」
7:35 すると、ユダヤ人たちは互いに言った。「私たちには見つからないとは、あの人はどこへ行くつもりなのか。まさか、ギリシア人の中に離散している人々のところに行って、ギリシア人を教えるつもりではあるまい。
7:36 『あなたがたはわたしを捜しますが、見つけることはありません。わたしがいるところに来ることはできません』とあの人が言ったこのことばは、どういう意味だろうか。」
7:37 さて、祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立ち上がり、大きな声で言われた。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。
7:38 わたしを信じる者は、聖書が言っているとおり、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになります。」
7:39 イエスは、ご自分を信じる者が受けることになる御霊について、こう言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊はまだ下っていなかったのである。
7:40 このことばを聞いて、群衆の中には、「この方は、確かにあの預言者だ」と言う人たちがいた。
7:41 別の人たちは「この方はキリストだ」と言った。しかし、このように言う人たちもいた。「キリストはガリラヤから出るだろうか。
7:42 キリストはダビデの子孫から、ダビデがいた村、ベツレヘムから出ると、聖書は言っているではないか。」
7:43 こうして、イエスのことで群衆の間に分裂が生じた。
7:44 彼らの中にはイエスを捕らえたいと思う人たちもいたが、だれもイエスに手をかける者はいなかった。
7:45 さて、祭司長たちとパリサイ人たちは、下役たちが自分たちのところに戻って来たとき、彼らに言った。「なぜあの人を連れて来なかったのか。」
7:46 下役たちは答えた。「これまで、あの人のように話した人はいませんでした。」
7:47 そこで、パリサイ人たちは答えた。「おまえたちまで惑わされているのか。
7:48 議員やパリサイ人の中で、だれかイエスを信じた者がいたか。
7:49 それにしても、律法を知らないこの群衆はのろわれている。」
7:50 彼らのうちの一人で、イエスのもとに来たことのあるニコデモが彼らに言った。
7:51 「私たちの律法は、まず本人から話を聞き、その人が何をしているのかを知ったうえでなければ、さばくことをしないのではないか。」
7:52 彼らはニコデモに答えて言った。「あなたもガリラヤの出なのか。よく調べなさい。ガリラヤから預言者は起こらないことが分かるだろう。」
7:53 〔人々はそれぞれ家に帰って行った。

天界の秘義9296.
「年の終わりに、あなたの勤労の実を畑から取り入れるときの収穫祭を行わなければならない」(出エ23:16)とは、善の植え付けと、その後の再生と、破滅からの完全な救済への、感謝の心からの礼拝を意味します。
これは、祭りの意味が(9286, 9287, 9294で扱われたように)主への礼拝と感謝、感謝の心からの礼拝であることから明らかです。刈入れの意味が、善への真理の植え付けに関するなら、善自体の植えつけです。「年の終わり」の意味は、労働の終わりを、「あなたの勤労の実を畑から取り入れるとき」の意味は、善の中に植え付けられたものすべての楽しみと役立ちです。
「労働」によって意味される畑からの勤労の実だけではなく、地の果実を意味するぶどう畑とオリーブ畑が意味されます、これはモーセにあるこの祭りの記述から明らかです。

あなたの打ち場とあなたの踏み場から取り入れが済んだとき、七日間、仮庵の祭りをしなければならない。あなたの神、【主】のために、【主】が選ばれる場所で七日間、祭りをしなければならない。あなたの神、【主】があなたのすべての収穫、あなたの手のすべてのわざを祝福されるからである。あなたは大いに喜びなさい。(申命16:13,15)

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創世記44章: ユダの懇願 

「ですから、どうか今、このしもべを、あの子の代わりに、あなた様の奴隷としてとどめ、あの子を兄弟たちと一緒に帰らせてください。」(44:33)

ラケルを母とする二人兄弟の兄ヨセフは、他のヤコブの十人の息子たちの嫉妬を買い、穴に放り込まれ、エジプトに売られます。
出世したヨセフは、食料調達に来た兄弟たちと再会しますが、弟のベニヤミンを連れてくるよう要求します。二度目の穀物調達のため、カナンからエジプトに旅してきたヤコブの息子たちは、飢餓の危険から、ヨセフの要求通りベニヤミンも連れてきます。久しぶりに弟ベニヤミンを見たヨセフは、懐かしさのあまり奥の部屋で一人泣きます。気を取り直したヨセフは、兄弟たちと酒宴をしますが、「ベニヤミンの分け前はほかのだれの分け前よりも五倍も多かった」とそっと実の弟だけに、破格の扱いをします。

兄弟たちとの宴会の後も、ヨセフのたくらみは続きます。
「あの者たちの袋を、彼らが運べるかぎりの食糧で満たし、 一人ひとりの銀を彼らの袋の口に入れておけ。それから、私の杯、あの銀の杯は、一番年下の者の袋の口に、穀物の代金と一緒に入れておけ。」(44:1,2)
と、家の管理者に命じ、そして、ひそかにベニヤミンへの破格の扱いを続けます。しかし、兄弟たちが町を出たところで、家の管理者は、ヨセフの命令で兄弟たちを盗みの嫌疑をかけて引き留めます。兄弟たちは、もし盗みがあれば、盗んだ者は殺し、兄弟たちは奴隷となると、言質を与えてしまいます。そして、ヨセフがたくらんだ通り、兄弟たちを盗みの証拠を抑えます。ベニヤミンの袋からは、ヨセフが命じた通り、銀の杯が出てきます。兄弟たちは見事にヨセフの計略にはまります。兄弟の一人、ユダが兄弟たちを代表して、ベニヤミンを大切にしている父ヤコブ(イスラエル)の事情を切々と訴え、自分だけをとらえるようヨセフに懇願します。

過去に自分を殺そうとして売り渡したといういきさつがあったとはいえ、ヨセフの計略は露骨です。陰で泣きながらも、それを表に出さず、冷酷に扱うふるまいは普通ではありません。これに対して、ユダは非常に正直な対応をします。父が悲しまないよう、自分だけを犠牲にしてくれという誠意は、人の心を打ちます。

しかし、このやりとりが聖なる書とされるのは、何か深い意味があるはずです。単なる自己犠牲の申し出なら、よくある美談の一つにしかすぎません。

ここで登場人物が意味する事柄を天界の教えから、吟味します。神のみ言葉である聖書には、人の個性ではなく、表象される事柄がそのテーマとされます。実際にあったこととはいえ、啓示がなければ誰もその表象はわかりません。
この章の主要な登場人物は、エジプトの支配者のヨセフと、同じ母から生まれた末弟ベニヤミン、そしてカナンに残っている父親のイスラエル(ヤコブ)と、異母兄弟の一人のユダです。ただし表象する事柄も、扱う内容に応じて変化します。

ここでヨセフは天的な「内なる人」、すなわち天的善(AC4592)を意味し、主イエスとその栄化を表象します。弟のベニヤミンは「新しい真理」(AC5812)、そして父親のイスラエルは霊的善(AC5803)を、ユダは自然的善(AC5775)を意味します。

善がなければ教会は成立しません。真理を理解から意志にまでおろし、実行することで、教会が誕生します(AC5826)。善と真理が結ばれることで、教会が生まれます。しかし真理だけでは教会は成立しません。なんらかの善がない限り、教会は存在できません。そして真理と善が結びつかない限り、何も存在できません。

真理の教会という名称の教会があります。しかし教会は建物や組織、そして真理によっては成立しません。ましてや「翻訳」によっても成立しません。
翻訳した書籍などの出版が教会の中心事項とするなら、一方通行のネット配信だけで教会は成立することになります。そう考えている人は、教会は教義などの真理によって成立すると考えているのかもしれません。

しかし、教会は善によって成立します。霊的善と結ばれた真理によって教会が成立します(AC5813)。真理を頭で納得して、覚悟を決めて意志に入れ、行ったときに善となり、教会が誕生します。教義や真理だけでは教会は成立しません。年から年中、真理について議論し、言い争う教会は、想像しただけでもうんざりです。そこには、私たちが求めている善、温かみや愛・仁愛などが全くないからです。しかし、善は真理という形にならなければ、誰も考えることすらできません。単なる暖かいムードのようなものだけで終わってしまいます。

では、霊的善や天的善と結ばれるべき真理は、どこにあるのでしょうか?
み言葉の中では、「杯」ここでは「銀の杯」で表されています。杯で表されるのは「内的真理」であり、それは神的な天的な人、主を表象するヨセフから与えられます(AC5788)。私たちの聖餐式でも、パンの後に、杯からワインをいただきます。主を表象する牧師から、杯を示され、私たちが手を伸ばして杯を受け取り、中にあるワインを飲んで自分のものとします。杯がなければワインを運べません。

内的真理とは善から発する真理です。仁愛の善が、意志、情愛から発したものです。そして、服従や宗教的信仰から発していないものです。後者は、目に見える外的教会の善にしかすぎません。(AC5843) しかし内的真理は、なかなか形として把握できません。この世のものではなく、天から与えられるものであるからです。たとえとして、仁愛の善という言葉を聞いても、どういうものかすぐにイメージできる人はわずかです。困っている人に助けを与える、と漠然としか考えることができませんし、み言葉も、やもめや身障者を助けなさいとしか記されていません。やもめや身障者の本質は何かを考え、啓示されなければ理解できません。霊的なやもめや、身障者の意味を教えられ、知らなければ、助けることはできません。その人たちを助けるという霊的善、内的な善は行えません。

父であるイスラエルは霊的善を意味しますが、善から発した真理がなく、この真理と結ばれないなら「あの子がいないのを見たら、父は死んでしまうでしょう。」(44:31)と、教会は滅びてしまうことを警告しています。これが、父イスラエルが、末子のベニヤミンを決して手放そうとしなかった理由です。

イスラエルは真理の善を意味し、真理が意志に入って実行することを意味します(AC5826)。実行しない真理は、結果が出ないのでイメージすらできません。何を行えばいいのか想像もできない教会は、存在できません。存在できなければ、イスラエルと呼ばれる教会は崩壊してしまいます。教会は、死においやられます。真理だけの教会や、形だけの教会、教義だけの教会にとどまるなら、教会とはいえません。教会の役立ちがどこにもないからです。教義はこうだから、それに従え、という強制だけになります。宗教的な権威など偉いと言われる人が言っているから、とりあえず従おうか、と考えますが、実は心から従ってはいません。見かけだけ、形を整えるだけです。

そのようなやり方は「教会」を滅ぼします。いままで立ち上がった日本の新教会が、次々と滅びてゆくのは、真理の善とならず、生命がなかったからです。真理を行って善として、示さなかったからです。

しかし意志と行動の中に真理を受け入れるなら、「神の子」となります。ヨハネ福音書の初めにもあります。
「神の子どもとなる特権をお与えになった。この人々は、血によってではなく、肉の望むところでも人の意志によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。」(ヨハネ1:12,13)
血によって生まれるとは、仁愛に暴力を加えることです。そして肉の望むところとは自己愛と世間愛の悪に引きずられること。人の意志とは、偽りによって説き伏せられることです(AC6826)。

人の意志とは、世の中の風潮や「多様性」という名に説き伏せられて、神の法を無視し、神の法を捨ててしまうことです。しかし、ただ真の生命とは何かを求めて、真理を実行するなら、その真理は「新しい真理」となり、善を無限に生み出す「真理」となります。これがベニヤミンの意味する真理です。ベニヤミンはヤコブの兄弟の末に生まれたように、人が再生する段階で初めて生まれる真理です。この真理が生まれて、天的善と結ばれるなら、無数の真理が生まれます。

ベニヤミンの袋の口に、銀の杯を置いたのは、主を表す天的善であるヨセフでした。ベニヤミンは主から内的真理を得ていることを気づかせるため、ヨセフは家の管理者に手の込んだ芝居を行わせたのです。

ヨセフは天的善で、主イエス・キリストの表象です。主は常に流入してはいますが、その力を明らかにはしません。家の管理者に手の込んだ芝居を行わせ、自分の存在を隠し、消していますが、それは、すべて善は自分たちのものではなく、主から発していることを教えるためです。主から発しているものを、それ以外のもの、例えば自分や、教義、などから発していることとするなら、それは「霊的な盗み」となります。

翻訳した教義をコピーすることが盗みではなく、翻訳者が自分の真理・善としてしまうことが盗みです。自分の業績として、人に喧伝することが霊的窃盗です。説教者が自分の真理として伝えるのも、霊的な盗みです。絶えず真理の出どころを明示しなければ、霊的窃盗となります。現代日本でも、出所や典拠を記さなければ、著作権法違反として非難されます。

霊的盗みとされないためには、常に卑下と謙遜が必要です。自分から発するものはすべて悪であり、主から発するものが善であると心から認めます(AC5758)。もしこれができなければ、天界には入れません。天界の外側に居続けます。これは霊界の法則です。霊界の法則は、主ご自身です。霊界の法則を破る限り、法の源である主、主の作られた天界には入れません。

別の霊界の法則があります。「流入は流出に従う」という法則です。
流入とは、上の段階から下の段階に流れ込むことです。霊的な力や主の力が、私たちに流れてくることです。これが逆になることはありません。逆に自然的なものが、霊的なものに影響することはありません。霊的なものと自然的なものは原因と結果の関係です。結果が原因に影響するという考え方は、定義を誤っていて、成立しません。この法則は、原因がなければ結果は起こらないということを述べています。

流出がなければ、流入もなくなります。私たちが善と真理を実行すれば、実行するだけ主から善と真理が流入してきます。まったく真理を意志し行わなければ、善と真理は主から流入しません。仁愛から善を行わないのであれば、仁愛の善は全く流入してこないことになります (AC5828) 。

もし、私たちが善を行えば、その源は私たちではありません。しかしその善の源が霊界であり、さらに主であることを理解し、これは自分のものではなく、主の御業を行っているのだと、常に意識していれば、流入は継続します。流出が継続すれば流入も継続します。この意識がある限り、私たちは霊的な窃盗を行わず、正しい流れがあり、生命が生まれ、存在し続けることになります。

創世記44章の最後にユダが懇願したこと、自然的善であるユダが奴隷としてとどまるとは、自由を失い、自由でない状態から善を行おうとすることです。新しい真理を意味するベニヤミンが、父であるイスラエル、霊的善のもとに帰らない限り、私たちは奴隷となります。しかし、ベニヤミンが善のもとに帰らない限り、教会は滅びてしまいます。ユダの懇願した、ベニヤミンの帰還、新しい真理が生まれ続けるかどうかは、教会の存続をかけた切実な願いでした。

「ですから、どうか今、このしもべを、あの子の代わりに、あなた様の奴隷としてとどめ、あの子を兄弟たちと一緒に帰らせてください。」(44:33) アーメン。


創世記(新改訳)

44:1 ヨセフは家を管理する者に命じた。「あの者たちの袋を、彼らが運べるかぎりの食糧で満たし、 一人ひとりの銀を彼らの袋の口に入れておけ。
44:2 それから、私の杯、あの銀の杯は、一番年下の者の袋の口に、穀物の代金と一緒に入れておけ。」彼はヨセフのことばどおりにした。
44:3 明け方、一行はろばとともに送り出された。
44:4 彼らが町を出て、まだ遠くへ行かないうちに、ヨセフは家を管理する者に言った。「さあ、あの者たちの後を追え。追いついたら、『なぜ、おまえたちは悪をもって善に報いるのか。
44:5 これは、私の主君が、飲んだり占いをしたりするときに、いつも使っておられるものではないか。おまえたちのしたことは悪辣だ』と彼らに言うのだ。」
44:6 彼は追いついて、このことばを彼らに告げた。
44:7 彼らは言った。「あなた様は、なぜ、そのようなことをおっしゃるのですか。しもべどもがそんなことをするなど、あり得ないことです。
44:8 袋の口で見つけた銀でさえ、カナンの地からあなた様のもとへ返しに来たではありませんか。どうして、あなた様のご主人の家から銀や金を盗んだりするでしょう。
44:9 しもべどものうちで、それが見つかった者は殺してください。そして、私たちもまた、ご主人の奴隷になります。」
44:10 彼は言った。「今度も、おまえたちの言うことはもっともだが、それが見つかった者は私の奴隷とし、ほかの者は無罪としよう。」
44:11 彼らは急いでそれぞれ自分の袋を地面に降ろし、それぞれその袋を開けた。
44:12 彼は年長の者から調べ始めて、年下の者で終えた。すると、その杯はベニヤミンの袋から見つかった。
44:13 彼らは自分の衣を引き裂いた。そして、それぞれろばに荷を負わせ、町に引き返した。
44:14 ユダと兄弟たちがヨセフの家にやって来たとき、ヨセフはまだ、そこにいた。彼らはヨセフの前で顔を地に伏せた。
・・・
44:30 私が今、あなた様のしもべである私の父のもとへ帰ったとき、あの子が私たちと一緒にいなかったら、父のいのちはあの子のいのちに結ばれていますから、
44:31 あの子がいないのを見たら、父は死んでしまうでしょう。しもべどもは、あなた様のしもべである白髪頭の父を、悲しみながらよみに下らせることになります。
44:32 というのは、このしもべは父に、『もしも、あの子をお父さんのもとに連れ帰らなかったなら、私は一生あなたの前に罪ある者となります』と言って、あの子の保証人となっているからです。
44:33 ですから、どうか今、このしもべを、あの子の代わりに、あなた様の奴隷としてとどめ、あの子を兄弟たちと一緒に帰らせてください。
44:34 あの子が一緒でなくて、どうして私は父のところへ帰れるでしょう。父に起こるわざわいを見たくありません。」

ヨハネ福音書
1:12 しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとなる特権をお与えになった。
1:13 この人々は、血によってではなく、肉の望むところでも人の意志によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。

天界の秘義5827
「一人は私のところから出て行ったきり」とは内的善の見かけ上の失踪です。「出て行ったきり」が失踪を意味することから明らかで、ヨセフが内的善を意味することはすでに取り扱っています。この失踪が単なる見かけ上なのは自明です、なぜならヨセフはまだ生きているからです。この意味は以下のようです。:ヨセフに関して最初から最後に至る記録は、主の人間性の栄化の順を表しています。主の栄化は人間の再生のイメージでありモデルであるため、低い意味では人間の再生をも描いています(3178, 3212, 3296, 3490, 4402, 5688)。
[2] 人の再生に関しては、最初の段階では、真理によって善にもたらされるため、真理は明らかに見ることができます。なぜならそれはこの世の光の内に存在し、肉体的感覚から成る考えにそう遠く離れてないからです。しかし善についてはそうではありません、善は天界の光の中に存在するため、肉体的感覚から成る考えから離れていて、人の霊の内側に存在するからです。したがって信仰の真理は明らかに見えても、善はそうではありません。たとえ善は絶えず存在し、真理の中に流入し、生命を与えているとしても。もしそうでなかったら人は再生することができません。しかしひとたび状態が完了すれば、善は自らを表し、隣人への愛からそうして、真理への情愛を通して生命に導きます。これらの事柄も、ヨセフが取り去られ、父から見えなくなりますが、後に父に自身を明かすことによって表されます。これが、内的善が見かけ上失踪して、「出て行ったきり」となることで意味されることが理解されます。

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その他(自由記述)

天からのパン

イエスがこう言われたのは、ピリポを試すためであり、ご自分が何をしようとしているのかを、知っておられた。(ヨハネ6:6)

み言葉にピリポが現れるのは、12弟子を紹介する部分(マタイ10:3,マルコ3:18,ルカ6:14)を除いては、ヨハネ福音書だけです。ヨハネ福音書では一章にもナタナエルを呼ぶ部分で(1:43-48)出現します。後半部分では、「ピリポ。こんなに長い間あなたがたといっしょにいるのに、あなたはわたしを知らなかったのですか。」(14:9)と、長い間従いはしたものの、主は、ピリポの信仰の深さを案じておられます。

前章で主はエルサレムのベテスダで、奇跡を起こし、病を癒されます。ここでは、「教義に従って行え」という「教義の実行」を説かれました。しかし、エルサレムの人々の「互いの栄誉だけを認め、主の戒めに従わない」態度に、エルサレムを離れます。
エルサレムを離れ、主が山に上ったとき、過越しの祭りが近づいて、神的善である父と主の結合、すなわち主の栄化が近づいてきます。山が意味する神的善から、教会の善と真理がどれだけ教会に浸透しているか、案じておられました。
「どこからパンを買って来て、この人々に食べさせようか。」とおっしゃったのは、群衆の食事のことを気にかけておられたのではなく、群衆の霊的な状態を気にかけておられたのです。

パンは、み言葉では、霊的栄養のことを意味します。主は、肉体の栄養だけではなく、霊的栄養が足りているかどうかを最も気にされました。ピリポの信仰の深さを案じただけではなく、群衆の全員の霊的状態を気にかけておられました。

パンの奇跡の話では、数字の「五」が何回か出てきます。少年が持っていた五つのパンと、十分腹を満たした民の五千人です。み言葉で、数字の五は、二種類の解釈がされます。一つは主が幼少から私たちに蓄えられる「残りのもの」と言われる善と真理です。もう一つは、その量が他の数に比べて「わずか」しかないという二種類です(天界の秘義5291:6)。残っている主の善と真理があるのか?どのくらいなのかです。
二匹の魚は、二が結びつきを意味し、魚は真理を意味するので、真理が善と結ばれることを意味します。

そこで、主は山上で民を草の上に座らせ、民がほしいだけパンと魚を分け与えます。草は、動物を養い、人の霊的栄養にもなるため、知識を意味します。(黙示録解説507)
主はパンに例えながら、霊的栄養の話、霊的生命を養うものの、そして与える真理が善と結ばれるかという状態をご覧になります。

パンの奇跡は、最初はわずかしかなかった真理と善も、主から知識を十分与えられたことを示します。群衆の知識は「食べたうえ、なお余ったもので十二のかごがいっぱいになった。」(6:13)となります。知識は十分あります。

しかし、「人々が自分を王とするために、むりやりに連れて行こうとしているのを知」ります。そこには、まだ本当の信仰が根付いていません。地上の流説が優勢です。そこで、ご自分は再び神的善である山に退かれます。

主という神的善を失った弟子たちは、夕方の、真理があいまいになる時を迎えます。真理があいまいなまま、弟子たちは舟に乗りこみ、自分たちの力、自分たちの考えで生きてゆこうとします。
「湖は吹きまくる強風に荒れ始め(6:18)」ます。真理を失い、偽りに囚われてしまった弟子たちは、風にあおられ、心は右に、左にと揺れ動き、ついには湖という地獄に沈みこんで霊的生命を失いそうです。偽りに翻弄され、霊的生命を失いかけている弟子たちに、主は山から下りてきて、地獄である湖の上を歩いて征服し、近寄って手を差し伸べられます。「わたしだ。恐れることはない。」

弟子たちが、嵐の湖で沈みかけていたように、おそらく私たちもまだ地獄にいます。私たちがいるところが地獄でないとささやきかけること自体が、地獄の業です。そこが地獄であるという危険に気づかなければ、ちょっとしたことで、湖に落ち、地獄の湖に沈んでしまいます。

自分が霊的に危険であることに気づくとき、主を認めて、乗っている舟に主を迎え入れなければなりません。舟は教義を意味します (AE514-20,21) 。主のおられない教義は、教義ではありません。教義は主から発するからです。

最初に主を認めることは、教会の信仰の始まりです。洗礼も同じような意義を持ちます。
洗礼の第一の機能はキリスト教徒に迎え入れること(TCR677)、第二の機能は、(キリスト教徒に)主イエス・キリストが贖い主・救い主であることを認め主に従うことです(TCR681)。その後、私たちは再生に向けて歩み始めます(TCR684)。

弟子たちが嵐の湖で主を迎え入れたように、恐れず、主を贖い主・救い主として受け入れます。
神である主を、自分たちの舟に迎え入れることで、私たちは生命を得る教えを受け、再生の道を進みはじめます。

その翌日、湖の向こう側で、主は教えを説かれます。永遠の生命を得るための教えです。再生のための教えとなります。
「なくなってしまう食べ物のためではなく、いつまでもなくならない、永遠のいのちに至る食べ物のために働きなさい。それは、人の子が与える食べ物です。この人の子に、神である父が証印を押されたのです。」 (6:27)
「神のわざを行うためには、何をすべきでしょうか。」と人々は問います。
すると、「神が遣わした者をあなたがたが信じること、それが神のわざです。」(6:29)

主を認めることは、霊的生命の最初の全てです。主を認めなければ、信仰の真理も、愛の善もやって来ません。(AC 10083:6)
湖で沈みかけた時、弟子たちは、最初、誰がやってきたのか、わかりませんでした。しかしそれが主イエスであると言われ、「私だ、恐れることはない」ということを信じて受け入れました。神が遣わした方を信じて受け入れることによって、霊的生命が始まります。
「霊的」な状態になって霊的生命を受け入れるためには、生命の源である主を受け入れる以外に道はありません。

しかし、群衆は、いつも「しるし」を求めます。教えに価値があるか、根拠があるかを尋ねます。
彼らはモーセが荒野でマナを与えたような「しるし」を求めていました。しかし主は「あなたがたの父祖たちは荒野でマナを食べたが、死にました。」(6:49)と指摘されます。マナを食べたのは、「人はパンだけで生きるのではない、人は【主】の口から出るすべてのもので生きる」ということを知るためでした。(申命記8:3 )

主は、与えようとされる真の食物であるパン、永遠の生命を宿す食料とは何かを説かれます。私たちが霊的生命を維持するため欠かせない食物です。
「これは天から下って来たパンで、それを食べると死ぬことがないのです。わたしは、天から下って来た生けるパンです。だれでもこのパンを食べるなら、永遠に生きます。またわたしが与えようとするパンは、世のいのちのための、わたしの肉です。」(6:50,51)

これは私たちが、聖餐式の度に聴く文です。聖餐式で預かるパンとワイン、その意味を再度確認します。
「食べる」そして「飲む」がみことばで霊的な飲食を意味し、教えられることであり、教えによって善と真理を自分のものとして生きること、これを自分のものとする、ことです。黙示録解説617[3]

それでは、聖餐式で私たちが、飲んで食べるものは何でしょうか?
「主の肉とパンは、主の愛の神的善を、そして仁愛の善のすべてを意味し、主の血とワインは主の知恵の神的真理と、信仰の真理のすべてを意味します。食べることは自分のものとすることです。」
(TCR702)

主の神的善と神的真理です。しかしそれは無限です。無限のものを、有限である私たちがすべて自分のものとすることはできません。
たとえば、聖餐式のやり方も教会によってさまざまです。教会によっては、聖職者がパンの一部を与えるという形式もあります。しかし教会が与えるものだけを受け取れといっているように見えます。またそのあとワインが与えられないのは、理解せずに受け取れ、と言っていることになります。

パンが、主の愛の神的善をそして、仁愛の善のすべてを意味するのであれば、まず聖職者がパンを割き、信徒はそれを分け合います。主の愛は、主によって誰にも平等に当てられているからです。聖職者は「ここから取りなさい。」とパンの器を信者に差し出します。そして、パン、主の愛をどれだけとるかは信者に任せます。信徒は手を伸ばして、受け取れる分だけを受け取ります。それは人に応じて異なります。

ここで、自分は聖餐にあずかるのがふさわしいかどうかという疑問が出てきます。主の愛をどれだけ受け取ることができるのか?です。そのため、日常の生活を振り返って、自分の生活が、主の愛の神的善と、どのくらい相応しているか自己点検して、聖餐式に臨みます。聖餐式前の自己点検は、聖餐式に正しく預かるためには欠かせません。自分を点検することなく、聖餐に預かるなら、主と自分の関係のことを考えていないことになります。日常的に自分が主の戒めを守っているかどうかを反省することから、聖餐式は始まります。

「聖餐にふさわしく預かる人は、主の内にいて主は彼らの内にいます。そのため聖餐を通して、彼らは主と結ばれます。」(TCR725)
聖餐に正しく預かる人は、主と正しい相応によって結ばれます。自分が悪を拒むことができ、主から注ぐ流入を邪魔する悪と偽りが全くなければ、主の善と真理はおびただしく流れ入り、素晴らしい感動を生み出します。心から主の流入を望む人は、日常的に悪と偽りを避け、主の善を実行していなければ流入はありません。

逆に、他人の分のことを考えず、大きなパンの固まりをとるなら、他の人との分かち合いを考えていないことになります。その人は自分だけの愛をとります。聖餐式の本当の意味を知りません。
聖餐式のパンは酵母を使わず、全粒粉を使った混じりもののないパンです。味わい深いパンですが、市場で売っているパンのように食べやすいものではありません。大きなパンの固まりは、喉をつまらせるだけです。また、自分の日常の行動が主の愛に従ったものでなければ、なんの相応も起こりません。

次にワインが聖職者より差し出されます。
ワインは聖餐式で、「私の血、あがないのために流される血」と付け加えられ、「この杯から取って飲みなさい」と差し出されます。これも自分が進んで受けるという姿勢が必要です。
贖いのための血、とは主が十字架刑のときに流される血ではありません。神的真理を意味します。
聖餐式でパンの後にいただくワインは、行った愛の善を真理によって、それは主のものであることを確認するものです。自分が行ったと考えるなら、それは神的真理とはなりません。

全体を通して、聖餐式は強い相応を生みます。主が世に来られる前、無数の奇跡を起こした相応です。
ヨハネ福音書の第六章でも、この相応がおこりました。
「わたしを食べる者も、わたしによって生きるのです。これは天から下って来たパンです。(6:57,58)」この主のみ言葉に、躓く人が多く出てきます。
「これはひどいことばだ。そんなことをだれが聞いておられようか。」(6:60)
彼らはこう言って離れてゆき、弟子たちのうちの多くの者が離れ去って行き、もはやイエスとともに歩かなかった (6:66)。
そして「わたしがあなたがた十二人を選んだのではありませんか。しかしそのうちのひとりは悪魔です。」(6:70)と、最初は主を選んだとしても、私たちが自分の愛を優先すれば、主の愛を冒涜することになります。主を受け入れようとしない人は、離れてゆくことになります。善と悪の分離が生まれます。

肉にこだわる、すなわち自分自身の愛にこだわる人は、主が与えようとする霊的生命を持つことができません。自分自身の愛である肉と、仁愛の善、主の善である愛は、真っ向から対立します。私たちは、肉である自分の愛ではなく、主の愛、永遠の生命である主のみ言葉を選びます。

「いのちを与えるのは御霊です。肉は何の益ももたらしません。わたしがあなたがたに話したことばは、霊であり、またいのちです」。(6:63)アーメン。

申命記
8:3 それで主は、あなたを苦しめ、飢えさせて、あなたも知らず、あなたの先祖たちも知らなかったマナを食べさせられた。それは、人はパンだけで生きるのではない、人は【主】の口から出るすべてのもので生きる、ということを、あなたにわからせるためであった。

ヨハネ福音書
6:1 その後、イエスはガリラヤの湖、すなわち、ティベリアの湖の向こう岸に行かれた。
6:2 大勢の群衆がイエスについて行った。イエスが病人たちになさっていたしるしを見たからであった。
6:3 イエスは山に登り、弟子たちとともにそこに座られた。
6:4 ユダヤ人の祭りである過越が近づいていた。
6:5 イエスは目を上げて、大勢の群衆がご自分の方に来るのを見て、ピリポに言われた。「どこからパンを買って来て、この人たちに食べさせようか。」
6:6 イエスがこう言われたのは、ピリポを試すためであり、ご自分が何をしようとしているのかを、知っておられた。
6:7 ピリポはイエスに答えた。「一人ひとりが少しずつ取るにしても、二百デナリのパンでは足りません。」
6:8 弟子の一人、シモン・ペテロの兄弟アンデレがイエスに言った。
6:9 「ここに、大麦のパン五つと、魚二匹を持っている少年がいます。でも、こんなに大勢の人々では、それが何になるでしょう。」
6:10 イエスは言われた。「人々を座らせなさい。」その場所には草がたくさんあったので、男たちは座った。その数はおよそ五千人であった。
6:11 そうして、イエスはパンを取り、感謝の祈りをささげてから、座っている人たちに分け与えられた。魚も同じようにして、彼らが望むだけ与えられた。
6:12 彼らが十分食べたとき、イエスは弟子たちに言われた。「一つも無駄にならないように、余ったパン切れを集めなさい。」
6:13 そこで彼らが集めると、大麦のパン五つを食べて余ったパン切れで、十二のかごがいっぱいになった。
6:14 人々はイエスがなさったしるしを見て、「まことにこの方こそ、世に来られるはずの預言者だ」と言った。
6:15 イエスは、人々がやって来て、自分を王にするために連れて行こうとしているのを知り、再びただ一人で山に退かれた。
6:16 夕方になって、弟子たちは湖畔に下りて行った。
6:17 そして、舟に乗り込み、カペナウムの方へと湖を渡って行った。すでにあたりは暗く、イエスはまだ彼らのところに来ておられなかった。
6:18 強風が吹いて湖は荒れ始めた。
6:19 そして、二十五ないし三十スタディオンほど漕ぎ出したころ、弟子たちは、イエスが湖の上を歩いて舟に近づいて来られるのを見て恐れた。
6:20 しかし、イエスは彼らに言われた。「わたしだ。恐れることはない。」
6:21 それで彼らは、イエスを喜んで舟に迎えた。すると、舟はすぐに目的地に着いた。
6:22 その翌日、湖の向こう岸にとどまっていた群衆は、前にはそこに小舟が一艘しかなく、その舟にイエスは弟子たちと一緒には乗らずに、弟子たちが自分たちだけで立ち去ったことに気づいた。
6:23 すると、主が感謝をささげて人々がパンを食べた場所の近くに、ティベリアから小舟が数艘やって来た。
6:24 群衆は、イエスも弟子たちもそこにいないことを知ると、自分たちもそれらの小舟に乗り込んで、イエスを捜しにカペナウムに向かった。
6:25 そして、湖の反対側でイエスを見つけると、彼らはイエスに言った。「先生、いつここにおいでになったのですか。」
6:26 イエスは彼らに答えられた。「まことに、まことに、あなたがたに言います。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからです。
6:26 イエスは彼らに答えられた。「まことに、まことに、あなたがたに言います。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからです。
6:27 なくなってしまう食べ物のためではなく、いつまでもなくならない、永遠のいのちに至る食べ物のために働きなさい。それは、人の子が与える食べ物です。この人の子に、神である父が証印を押されたのです。」

黙示録解説617
[2]
「食べる」そして「飲む」はみ言葉にたびたび言及されていて、霊的意味を知らない者は、自然的な飲食が意味されるとしか考えません。しかし「食べる」「飲む」は霊的に栄養を摂ること、したがって善と真理を自分のものとすることを意味します。「食べる」とは善を自分のものとすることを意味し、「飲む」とは真理を自分のものをすることを意味します。み言葉が霊的なものであると信じる者は、「食べる」「飲む」、同じように、「パン」「食物」「ワイン」そして「飲む」が霊的栄養であることを知っています。もしこの意味がそうでなかったら、み言葉は単に自然的なもので、同時に霊的なものではなくなります。したがって単に自然的な人のために書かれ、霊的な人のため。ましてや天使のためには書かれていないことになります。「パン」「食物」「ワイン」そして「飲む」の霊的意味が度々以上に示されたように心の栄養を示すのでなく、み言葉すべてが、文字の意味で自然的であるだけではなく、霊的です。
霊的に栄養を摂るとは、教えられ、浸透しすること、したがって知り、理解し、賢明になることです。
人が肉体の養分だけではなく、この栄養を味わなければ、人ではなく獣です。そして、祝宴や宴会や日々の味覚に日々歓びを置く者は、霊的な事柄に鈍感であるが、世や肉体のことに推論を使うことができるかを物語ります。そのため、死後彼らは人間というより獣のような生を送り、知性と知恵は狂気であり、愚かです。「その小さな巻き物を取って食べなさい。」(黙10:9)とは、読んで、認識し、聖書を調べることを意味するからです、というには天からおりて来た天使の手にする「その小さな巻物」とは、以上に述べたように聖書を意味するからです。さらに、人は本を自然的に食べ、むさぼることができず、すなわち、み言葉ではありません。以上から「食べる」とは霊的に栄養を与えられることは明白です。
[3]
「食べる」そして「飲む」がみことばで霊的な飲食を意味し、教えられることであり、教えによって善と真理を自分のものとして生きること、これを自分のものとする、したがって知性と知恵のものをすることは、次の節に見ることができます。
エレミアで、「私はあなたのみことばを見つけ出し、それを食べました。あなたのみことばは、私にとって楽しみとなり、心の喜びとなりました。」(15:16)
ここで「食べる」とは明らかに霊的食を意味し、知り、受容し、自分のものとすることを表しています。そのため、「それを食べました。あなたのみことばは、私にとって楽しみとなり、心の喜びとなりました。」と言われます。「あなたのみことば」が神的真理の教えを意味します。これは主が試みる者におっしゃったものと同じです。
「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる』と書いてある。」 (マタイ4:3, 4; ルカ 4:4; 申命記 8:3)
そして、「なくなる食物のためではなく、いつまでも保ち、永遠のいのちに至る食物のために働きなさい。」(ヨハネ 6:27)。
そして、主が弟子たちにおっしゃった言葉もそうです。
弟子たちはイエスに、「先生。召し上がってください」とお願いした。しかし、イエスは彼らに言われた。「わたしには、あなたがたの知らない食物があります。」そこで、弟子たちは互いに言った。「だれか食べる物を持って来たのだろうか。」イエスは彼らに言われた。「わたしを遣わした方のみこころを行い、そのみわざを成し遂げることが、わたしの食物です。(ヨハネ4:31-34).

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創世記43章: ベニヤミン  エジプトへ (結びつきの始まり)

創世記43章: ベニヤミン  エジプトへ (結びつきの始まり)
「安心しなさい。恐れることはありません。」(43:23)

エジプトの支配者であったヨセフは、弟ベニヤミンを連れてくることを条件に、シメオンを人質にして、ヤコブの残りの息子たちをカナンに返します。
ベニヤミンを手放したくないヤコブは、「この子は、おまえたちと一緒には行かせない。」(42:38)とヨセフの要求を拒みます。

この時、ヨセフが一族の一員のヨセフであると誰も考えてはいませんでした。ヨセフは兄弟たちや父母が、自分に頭を下げるという夢を見て、それを兄弟たちに語ったため、嫉妬されました。そのため、あやうく殺されるところを、通りかかった商人に売り払われるという悲惨な経緯があったからです。もはや兄弟たちからは居なくなったものと考えられていました。

しかし、カナンはさらに激しい飢饉を迎えます。先にエジプトから持ち帰った穀物も、すべて食べつくしてしまいます。一族が生きてゆくためには、さらに穀物をエジプトに求めなければなりません。末弟のベニヤミンを手放したくないという父ヤコブの気持ちも、一族が生き残るためには、もはや選択肢はありません。ベニヤミンをエジプトに連れてゆき、エジプトの支配者であるヨセフの要求に従わざるを得ません。

前回のエジプトへの穀物調達の旅では、支払ったはずの銀が、ヨセフによって袋の中に入れられていました。銀で調達したはずの穀物が、無償で与えられた形になっています。さらに穀物をただで手に入れることは難しいはずです。今回の穀物調達の旅では、ベニヤミンとともに、今回の穀物の代価に前回支払うはずであった銀を加えます。さらにエジプトの支配者の歓心を買おうと、様々な贈り物を携えて出発します。

そこで、一行は贈り物を携え、二倍の銀を持ち、ベニヤミンを伴って出発した。そして、エジプトへ下り、ヨセフの前に立った。(43:15)

ここで、ヨセフは弟ベニヤミンが来たことを認めます。
ヨセフとベニヤミンは、母をラケルとする二人の兄弟です。他の十人の兄弟たちとは、異母兄弟となります。他の兄弟たちは、レアと女奴隷たちの子です。レアは、外的真理への情愛を意味し、ラケルは内的真理への情愛を意味します。ヨセフとベニヤミンは、他の兄弟たちとは異なり、内的真理への情愛から生まれています。

しかし他の十人の息子たちで表される真理は、外的なものから生まれているため、内的な存在である神的なものと結ばれていません。いまだ外的で自然的な存在としてしか考えられていません。しかし、それぞれに、役割と役立ちがあるはずですが、神的なものと結ばれていないので、人間の再生にはまだ不十分です。

ヨセフは「天的なものの霊的なもの」を、ベニヤミンは「霊的なものの天的なもの」を意味します。特にベニヤミンは、天的なものとの間に入るので、天的であるヨセフと他の息子たちを仲介する機能を持ちます。
ヨセフはエジプトで出世して、エジプトを支配する者となりましたが、ベニヤミンという仲介者なしには、他の十人の息子たちとつながることができません。他の息子たちは、シメオンのように意志に植え付けられた信仰をはじめとして、試練、善行や結婚愛、相互愛など、私たちの再生に必要な真理がそろっていますが、まだ霊的ではなく、自然的です。「神は霊」であるため、自然的なものはそのままでは、神に結びつくことができません。相互愛というキリスト教の大切な概念も、ただ仲のいいことを薦めているだけのようにしか見えません。自然的な仲良しにとどまっています。

「霊的」という語は、教会には不可欠な語ですが、今やキリスト教会で「霊的」という語の意味を知る人はごくまれです。現代日本でも、オカルト的な意味合いに使われているのがせいぜいです。しかし本質的には違っています。霊的なものは、善で真であるものに、情愛を持つ者に存在します。「善と真理」は人のものではなく、すべて神に属するものです。善と真理に対して、心を惹かれて、他の何よりも大切にしたいと思わねばなりません。善と真理という抽象的な概念を、自分なりに消化して考え、それを他のすべてに勝って大切にすることがキリスト教徒には求められています。

他の自分勝手な理由ではなく、純粋に「善と真理への愛」です。本人に歓びや幸福感、そして人を思いやる気持ちや信仰があり、それを自分からではなく、それは天界や霊界から来ていると(AC5639) 考え、神聖なものとして扱わなければなりません。

一般的には、人によって霊感があったり、なかったり、宗教的施設や墓、災害・犯罪現場など特別な霊的スポットがあったりするといわれます。しかし天界の教えの定義によれば、そういう人や場所には、なんら霊的なものがないということになります。本来、霊界には、時間と空間という概念さえないので、三次元の人や場所に霊的なものを見出すのは、思い込みとしかいえません。人は、この「思い込み」に左右されやすい存在です。

「思い込み」といえば、ヤコブとその十人の息子たちにも思い込がありました。ヨセフは昔の兄弟ではなく、エジプトの支配者であるとしか考えていません。そして、穀物は対価なしには購入できない、無料で与えられるはずかない、自分で苦労して手に入れるものだというこの世的な考え方です。当時のヤコブの十人の息子たちはまだ自然的であったため、この思いこみは当然でした。

穀物を購入しにエジプトまで来ますが、支払ったはずの銀は、知らないうちに返されてしまいます。エジプトの支配者からは、父親が大事にしている末の弟を連れてこなければ、兄の一人のシメオンを人質にする、という理不尽な要求をされます。しかし、カナンの家族を、飢餓から救うには、他の手段は残されていません。霊的な存在であるベニヤミンがなぜ必要なのか、他の兄弟ではだめなのか?理不尽と思しか考えられません。しかしこれらは、後から振り返れば自然的な考えからの「思い込み」にすぎません。ただ、すぐには理解できないため、これらの思い込みは時間をかけて、解いてゆく必要があります。

エジプトの支配者の前に出たベニヤミンとヤコブの残りの息子たちは、ヨセフの家に連れてゆかれることになります。そのため、彼らはエジプトの支配者に何をされるのか、その原因は何なのか、わかりません。しかし心に思い当たることを、正直に話し、家の管理者に相談します。これが自然的な素直さ・正直さです。心に悪と偽りがあるなら、穀物を盗んで逃げてしまったでしょう。
前回購入した穀物の代金が、知らないうちに返されていた、のは彼らの本意ではなく、そのため前回の代金も持ってきたことを伝えます。

「一同はヨセフの家に連れて行かれたので、怖くなって言った。」(43:18)
この時、彼らが抱いた「怖れ」の本質が天界の教えに説明されています。
私たちは、様々な理由で「怖れ」を抱きます。生命を失う危険な状況、いままで得たもの、利得や地位や評価を失い、自由を失ってその歓びも失うと考えます。これが自然的・外的なものであるヤコブの子らが、霊的なものに仕えなければならない、といわれた時に感じる「怖れ」がこれです(AC5647)。ヨセフの家に連れていかれた時、彼らは「怖れ」の経緯を事細かに、ヨセフの家の管理者に説明します。自分たちは無償で穀物を受け取ってそのままにしておいたのではなく、その代価も支払おうとしていることを伝えます。

しかし、管理者は答えます。

「安心しなさい。恐れることはありません。
あなたがたの神、あなたがたの父の神が、あなたがたのために袋の中に宝を入れてくださったのです。あなたがたの銀は、私が受け取りました。」(43:23)
そして、人質として捕えられていたシメオンも連れてきます。

彼らは自分の力で真理を得ようと考え、その真理で善を得ようと考えいました。しかし、真理は主によって与えられます。真理は人のものではないからです。
しかし自分で手に入れなければ、自分自身も、そしてその自由、そしてその歓びもすべて失ってしまうと考えていました。(AC5662)

再生するためには、自分の我を捨てなければなりません。福音書でも、「自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世で自分のいのちを憎む者は、それを保って永遠のいのちに至」る。(ヨハネ12:25)とあります。

これを聞くと、自我を失う怖れにとらわれます。そこまでしなければならないのか?と疑問を持ち、自分は再生しなくてもいい、このままでいたい、と後ずさりしてしまいます。完全な服従ということを聞いて、自我を失うことを恐れ、また自分の「こだわり」を失うことは、自分のすべてを失うことだと考え、躊躇してしまいます。自分の「こだわり」を捨てると、自分らしさがなくなってしまうと怖れます。しかし、自分のこだわりを通し続けると、神からくる本物の生命を失い、再生して天界で生きてゆくことができなくなります。

自分のこだわりを捨てると素晴らしいものが与えられます。それが「天界的自我」と言われるものです。自分のこだわりの中にいると、自分の声が四六時中聞こえてきます。「それは自分のやり方とは違う。これまで自分のやり方にこだわってきたのは、それなりの理由があり、これらのこだわりは自分自身で、このこだわりを捨てることは自分の生命を失うに等しい」と考えます。

このこだわりに捕らわれ、再生の道から後退すれば、カナンという教会には食料が絶え、私たちには霊的死がまっています。自我の死という「怖れ」を乗り越えて、何が待っているかわからないヨセフの家に入るしかありません。そこに入れば、「天界的自我」という新しい意志を得ることができます。この「天界的自我」を得るためにはヨセフの家に入り、食事して結びつかなければなりません。

驚いたことに、この怖れを乗り越えて家で待っていたのは、ごちそうと酒でした。彼らは贈り物を用意して、待ちます。家の主人であるヨセフが現れると、贈り物を渡して、地に伏して拝みます。
贈り物を渡すのは好意を得たいという気持ちの表れで、それは現在の風習にも根付いています。地に伏して拝むのは、卑下です。

私たちは一般的に、礼拝に出て、献金し、跪きますが、賛美と感謝、そして卑下は礼拝の重要な一部です。参加することに意義がある、自分の大切な時間を使うことが、礼拝の意義だとという考えは、大きく誤っています。ましてや参加しなければ、何も始まりません。卑下と賛美と感謝を定期的に行い、主と対話を継続します。

ヨセフも現れて、ヤコブの息子達と、彼らの父の安否を問います。ヨセフの出現は、主の出現を表し、主が出現されると、秩序が整います。ヤコブの子たちも、「ヨセフの前で、年長者は年長の席に、年下の者は年下の席に座らされたので、」(43:33)驚くことになります。

賛美と感謝と卑下、そして対話が終わると、食事と宴会が始まります。この食事と宴会は、結びつきの始まりを意味します。ヨセフの正体がまだ明かされていないので、この宴会によって、まだ一般的な流入しか意味されません。しかし、ここでヨセフとともに食事することは、神的なものとの結びつきの最初の段階です。

彼らはヨセフとともに酒を飲み、酔い心地になった。(43:34 )
アーメン。 
創世記(新改訳)
43:1 さて、その地の飢饉は激しかった。
43:2 彼らがエジプトから持って来た穀物を食べ尽くしたとき、父は彼らに言った。「また行って、われわれのために食糧を少し買って来てくれ。」
・・
43:15 そこで、一行は贈り物を携え、二倍の銀を持ち、ベニヤミンを伴って出発した。そして、エジプトへ下り、ヨセフの前に立った。
43:16 ヨセフは、ベニヤミンが彼らと一緒にいるのを見るや、彼の家を管理する者に言った。「この人たちを家に連れて行き、家畜を屠って料理しなさい。この人たちは私と昼食をともにするから。」
43:17 その人は、ヨセフが言ったとおりに、一同をヨセフの家に連れて行った。
43:18 一同はヨセフの家に連れて行かれたので、怖くなって言った。「われわれが連れて来られたのは、この前のとき、われわれの袋に戻されていた、あの銀のせいだ。われわれを陥れて襲い、奴隷としてろばとともに捕らえるためだ。」
43:19 彼らはヨセフの家を管理するその人に近づいて、家の入り口のところで話しかけた。
43:20 「ご主人様、最初のとき、私たちは食糧を買いに下って参りました。
43:21 ところが、宿泊所に着いて、袋を開けると、なんと、私たちの一人ひとりの銀がそのまま自分の袋の口にあったのです。それで、私たちはそれを返しに持って参りました。
43:22 また、食糧を買うために、別の銀も持って参りました。だれが私たちの銀を袋の中に入れたのかは、私たちには分かりません。」
43:23 彼は答えた。「安心しなさい。恐れることはありません。あなたがたの神、あなたがたの父の神が、あなたがたのために袋の中に宝を入れてくださったのです。あなたがたの銀は、私が受け取りました。」それから、彼はシメオンを彼らのところに連れて来た。
43:24 その人は一同をヨセフの家に連れて行き、水を与え、彼らは足を洗った。また彼は、彼らのろばに餌を与えた。
43:25 兄弟たちは、ヨセフが昼に帰って来るまでに、贈り物を用意しておいた。自分たちがそこで食事をすることになっていると聞いたからである。
43:26 ヨセフが家に帰って来たとき、彼らはその家まで携えて来た贈り物を彼に差し出し、地に伏して彼を拝した。
43:27 ヨセフは彼らの安否を尋ねた。「以前に話していた、おまえたちの年老いた父親は元気か。まだ生きているのか。」
43:28 彼らは答えた。「あなた様のしもべ、私たちの父は元気で、まだ生きております。」そして、彼らはひざまずいて彼を拝した。
43:29 ヨセフは目を上げ、同じ母の子である弟のベニヤミンを見て言った。「これが、おまえたちが私に話した末の弟か。」そして言った。「わが子よ、神がおまえを恵まれるように。」
43:30 ヨセフは弟なつかしさに、胸が熱くなって泣きたくなり、急いで奥の部屋に入って、そこで泣いた。
43:31 やがて、彼は顔を洗って出て来た。そして自分を制して、「食事を出せ」と命じた。
43:32 それで、ヨセフにはヨセフ用に、彼らには彼ら用に、ヨセフとともに食事をするエジプト人にはその人たち用に、それぞれ別々に食事が出された。エジプト人は、ヘブル人とはともに食事ができなかったからである。それは、エジプト人が忌み嫌うことであった。
43:33 彼らはヨセフの前で、年長者は年長の席に、年下の者は年下の席に座らされたので、一同は互いに驚き合った。
43:34 また、ヨセフの食卓から彼らの分が与えられたが、ベニヤミンの分は、ほかの者より五倍も多かった。彼らはヨセフとともに酒を飲み、酔い心地になった。

ヨハネ福音書
12:25 自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世で自分のいのちを憎む者は、それを保って永遠のいのちに至ります。
12:26 わたしに仕えるというのなら、その人はわたしについて来なさい。わたしがいるところに、わたしに仕える者もいることになります。わたしに仕えるなら、父はその人を重んじてくださいます。」

天界の秘義5647
[2]ともに結ばれることについての性格について簡単に述べます。すなわち、外的なものあるいは自然的なものが、内的なものあるいは霊的なものについて結ばれるときです。人が改良され、自然的、外的な人が、霊的、内的になるときもそうで、最初、自然的なものが反乱を起こします。なぜなら自然的人間は霊的なものに仕えなければならない、という旨の教えを受けるからです。すなわち、彼の強烈な悪の欲望とそれを支える考えを根絶しなければなりません。したがって、自分に戻ると、自然的人はそのような場合完全に破壊されると考えます。なぜなら、自分のすべてがそこにあると考え、霊的なものの中に筆舌を尽くせないほど物事があることを全く知らないからです。自然的な人がこのように考えると、霊的なものに仕えると望みはなくなる、と後ずさりします。この時の意味されるものが「怖れ」です。

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J5 良くなりたいか?

イエスは・・・彼に言われた。「良くなりたいか。」(5:6)

エルサレムのベテスダの池での出来事です。
そこには、大ぜいの病人、盲人、足のなえた者、やせ衰えた者たちが伏せっていた。5:3
彼らは、池が波立つのを待っていました。池が波立つと天使が下りてきて、最初にその池に入ったものの病が癒される (5:4KJV)、という言い伝えを信じていたからです。

自分の不治の病を癒したいという思いで、祈る思いで何日も、何日も、波立つのを待っていました。ただ待つだけの日々です。そして、その日そこにいたある人も、三十八年も病で苦しんで、同じように波が立つのを待っていました。
そこに現れた、主イエスが彼におっしゃったのは、「良くなりたいか」(5:6)という問いでした。誰も助けてくれない、と彼が不満を言うと、主は病人に命じられます。「起きて床を取り上げ、歩きなさい」(5:8)。

これは主の力によって病が癒される、奇跡の力の物語でしょうか?
病で苦しみ、主の出現と奇跡を待つしか手がないなら、池でこの奇跡を待つのと同じです。待てば、そのうち奇跡が起こる。主が現れるか、波が立って天使が現れるのかを、待つしかありません。もし、難病で苦しんでいれば、自分にもその奇跡が起こることを願い、主イエスが目の前に出現されるのを待ちます。聖書で癒された病人のように、池が波立つ奇跡を何日も待ち続けます。

しかし主が直されようとされているのは、身体の病ではありません。私たちの霊的病です。
もし私たちが真理にいて、そこから偽りに転ずると、霊的な病となります。善から悪に移れば、私たちの心と霊は、霊的な健康を失い、霊的病を得ます。霊的な病にかかると、霊的生命を失い、心と精神は弱くなり、蝕まれ、最後には死に至ります(AC9031)。

池で奇跡を待っていた他の者は、「盲人や足なえ、やせ衰えた者」と表現されています。しかしこれを霊的な病に置き換えれば、景色は変わります。
盲人や足なえ、やせ衰えた者、それぞれの意味は、真理を知らず偽りに陥いった者(AC2383)、そして善にはいるが純粋な善にはいない者(AC4302-4)、真理が弱まり滅びて消え去ってしまった者(AE627)のことを言っています。これら霊的病を得た者の集まりが、健康を回復しようとして、天使か主の出現をただ待っていました。

私たちの内にも、これら霊的病に苦しむ人は少なくありません。天界の教えを学んでも、真理を実行せず、自分のものとしなければ、同じ症状が現れます。真理を行わず、記憶にだけ残しておく、という深い病です。
しかし、主が「起きて床を取り上げ、歩きなさい」(5:8)と命じると、奇跡が起こります。

病人たちが、池の波立を待っていたのは、旧約聖書で命じられた奉納物の揺祭(ようさい)と同じ意味をもちます。認めて信じることで、生命を与えられます。真理を本当に知って、心が揺り動かされると、その信仰の真理を自分のものとしたい、という意欲がわきあがります。水が意味する信仰の真理をくぐれば、人は清められます (AC 10083:4) 。

床とは、教義を意味します。「起きて床を取り上げて歩け」とは、これら罪を犯した者に「教義に従って生きよ」と、ただ待つのではなく、真理を知って奮起しなさい。心を高めなさい。心と霊を鼓舞して、教えを実行しなさいと命令されたのです(AE163:7)。

命じられた人は、心を高め、教えを実行することで癒されました。しかし、周りにいたユダヤ人や、私たちは、そう簡単には癒されません。ユダヤ人たちは、「安息日を犯した」という頭の固い反応をします。私たちも、教義に従って生きれば、本当に霊的な病は癒されるのか?と従来の固定観念に縛られて実行への一歩が進めません。悪を絶て、悪をするな、という戒めも、「明日から、次回から」にしようと先延ばしにしてしまいます。

癒された当人は、宮の中で主に会います。「見なさい。あなたは良くなった。もう罪を犯してはなりません。そうでないと、もっと悪いことがあなたに起こるかもしれない。」(5:14)。
宮は主の神的人間を意味します。良くなって、何が罪かを知った上で、さらに罪を犯すなら、それは冒涜です。主の神的人間の言葉を、善と真理であると知った上で、反対のことを行うと冒涜となり、取返しのつかないことが起こります。私たちに与えられる善と真理が、全く役に立たなくなります。そうすると永遠に再生できず、永遠の死に至ってしまいます。もはや人間とはいえない存在になります。

「その人は行って、ユダヤ人たちに、自分を治してくれたのはイエスだと伝えた。そのためユダヤ人たちは、イエスを迫害し始めた。」
言わないと念をおされ、いいつけに背いた点に問題は残りますが、その人は主イエスを認めました。ユダヤ人たちは、神的真理そのものであると聞き、逆に主に暴力を浴びせかけます。まさに冒涜の極みです。主イエスは、ご自分が父で同じであると明かされると、興奮したユダヤ人たちは殺そうとさえします。

すると主は、「子」であるご自分と、ご自分の内の魂である「父」との関係を、たとえによって説明なさいます。
ここで父とは神的善、神的愛そのものの存在です。子とは、神的善とともになって栄化される前の神的真理である、この世におられた時の主イエス・キリストです。

「まことに、まことに、あなたがたに言います。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わされた方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきにあうことがなく、死からいのちに移っています。
まことに、まことに、あなたがたに言います。死人が神の子の声を聞く時が来ます。今がその時です。それを聞く者は生きます。」(5:24,25)

みことばという、神的真理がおっしゃることを聞き、それが魂である神的善から出ていることを信じるなら、聞いて信じ、行った者は、霊的生命を持ちます。もし霊的生命という存在を知らなかったとしても、主のおっしゃることを聞いて、信じ、行うなら、霊的生命が与えられます。

ベテスダの池で、「起きて床を取り上げ、歩きなさい。」とおっしゃった内意と全く同じです。主の教えを聞き、信じ、行うことで、今まで死んでいた人間は、霊的生命を与えられ、「それを聞く者は生きます」。

もし、私たちが、誰か著名な人のいうこと、本に書いてあることを、聞き、読んで、「なるほど」、と思ってそれを実行しようとします。
「必ず出世する方法」「金持ちになる方法」「異性にもてる方法」という本が書棚に並んでいます。そして「心を穏やかにする方法」「長生きする方法」「健康でいるための方法」を書いた本も、あふれています。このような題名の本を見ると、もし興味があれば、手に取ってパラパラとめくってみるはずです?
しかし「永遠の生命を得る方法」については書棚にあるでしょうか?

ヨハネは燃えて輝くともしびであり、あなたがたはしばらくの間、その光の中で大いに喜ぼうとしました。(5:35)ヨハネは荒野で「悔い改めよ」と叫び、洗礼を授けた預言者です。
たしかに、同じように「永遠の生命」について、神から言葉がきている預言者と信じたなら、その声に従うかもしれません。当時にも預言者と信じられた人物は数多くいました。その筆頭が「モーセ」でした。「モーセ」のいうことを聞かず、荒野で死んだ人々がいましたが、彼の法を聞き生きた人の話もあります。モーセもヨハネも、「永遠の生命を得る方法」を延べ伝え、多くの人がモーセとヨハネを信じたと言います。そしてその「方法」について聖書を調べた人 (5:39)も多くいます。当時のユダヤ教徒、中世のキリスト教徒も聖書を学んだはずです。私たちが聖書を読むのと同じことを感じていたはずです。

しかし、永遠の生命、霊的生命であることを知らずに、見過ごした人も数多くいました。いや、どれくらいの人が肉体の生命のことではなく、霊的生命であることを知り、霊的生命を自分のものとしたでしょう?単にその人たちは、「人」を信じただけではなかったでしょうか?モーセを信じ、ヨハネを信じたとしても、その人を「信じる」だけでは足りません。いつか疑問にとらわれると、そこでその信頼は終わってしまうからです。

この時のユダヤ人のように、私たちの信頼を終わらせようとして、絶えず働きかける勢力があることを忘れてはなりません。それは地獄の勢力です。たとえ新教会で学ぼうとも、その地獄の勢力は、絶えず、信頼を終了させようと働きかけ続けます。行っても無駄、明日からでいい、とささやき続けます。
そして主ご自身も、両方の中から、私たちが自由に選べるよう、天界と地獄の力の均衡を保ち続けられます。

この世で、信頼しつづけるには、対話を絶やさず、繰り返し、「間違いない、これ以外に方法はない」と確認し続けなければなりません。天界の天使は、天界の光の中にいて、霊的生命は、主以外から来ないということを常に確認し、その光の中で明らかに認識しています。この認識を与える光が、天界の光です。私たちは地上にいる間、この光は確実には与えられません。

主はこの問題を指摘されます。
「いのちを得るためにわたしのもとに来ようとはしません。」(5:40)
なぜなら「あなたがたのうちに神への愛がないこと」(5:42)からです。
「互いの間では栄誉を受けても、唯一の神からの栄誉を求めないあなたがたが、どうして信じることができるでしょうか。」(5:44)

新教会の中でも、自分自身の栄誉を求め、認めてくれる人には近づきます。しかし、そうでなければ近寄らず、敬遠します。自分の名誉を常に優先しなければ、聴こうとしません。信じて行おうとしません。ギブ&テイクとしか考えていません。自分が優遇されるなら、礼拝に出ようか、と考え、知識として、せいぜい参考にとどめておくだけです。

主は「人からの栄誉は受けません。」(5:41)と述べられました。
私たちも唯一の神からの名誉を求め、その戒めを聞き、心から信じて行わなければ、霊的生命は私たちのものとはなりません。

「良くなりたい」と思うなら、「起きて床を取り上げ、自ら歩」かねば、なりません。主の戒めに霊的生命があることを信じて、その教えを実行しなければなりません。その主の教え自体が、霊的生命を持っていることに気づかねばなりません。
「起きて床を取り上げ、歩きなさい。」アーメン。

出エジプト記
29:23 また、【主】の前にある種なしパンのかごから、円形パン一つと、油を混ぜた輪形パン一つと、薄焼きパン一つを取る。
29:24 そして、そのすべてをアロンの手のひらとその子らの手のひらに載せ、奉献物として【主】の前で揺り動かす。
29:25 それらを彼らの手から取り、全焼のささげ物とともに、【主】の前の芳ばしい香りとして祭壇の上で焼いて煙にする。これは【主】への食物のささげ物である。
29:26 アロンの任職のための雄羊の胸肉を取り、これを奉献物として【主】に向かって揺り動かす。これは、あなたの受ける分となる。
29:27 アロンとその子らの任職のための雄羊の、奉献物として揺り動かされた胸肉と、奉納物として献げられたもも肉とを聖別する。
29:28 それは、 アロンとその子らがイスラエルの子らから受け取る永遠の割り当てとなる。それは奉納物である。それはイスラエルの子らからの交わりのいけにえの奉納物、【主】への奉納物であるから。

ヨハネ福音書
5:1 その後、ユダヤ人の祭りがあって、イエスはエルサレムに上られた。
5:2 エルサレムには、羊の門の近くに、ヘブル語でベテスダと呼ばれる池があり、五つの回廊がついていた。
5:3 その中には、病人、目の見えない人、足の不自由な人、からだに麻痺のある人たちが大勢、横になっていた。
5:4 【本節欠如】For an angel went down at a certain season into the pool, and troubled the water;whosoever then first after the troubling of the water stepped in was made whole of whatsoever disease he had.(KJV)
5:5 そこに、三十八年も病気にかかっている人がいた。
5:6 イエスは彼が横になっているのを見て、すでに長い間そうしていることを知ると、彼に言われた。「良くなりたいか。」
5:7 病人は答えた。「主よ。水がかき回されたとき、池の中に入れてくれる人がいません。行きかけると、ほかの人が先に下りて行きます。」
5:8 イエスは彼に言われた。「起きて床を取り上げ、歩きなさい。」
5:9 すると、すぐにその人は治って、床を取り上げて歩き出した。ところが、その日は安息日であった。
5:10 そこでユダヤ人たちは、その癒やされた人に、「今日は安息日だ。床を取り上げることは許されていない」と言った。
5:11 しかし、その人は彼らに答えた。「私を治してくださった方が、『床を取り上げて歩け』と私に言われたのです。」
5:12 彼らは尋ねた。「『取り上げて歩け』とあなたに言った人はだれなのか。」
5:13 しかし、癒やされた人は、それがだれであるかを知らなかった。群衆がそこにいる間に、イエスは立ち去られたからである。
5:14 後になって、イエスは宮の中で彼を見つけて言われた。「見なさい。あなたは良くなった。もう罪を犯してはなりません。そうでないと、もっと悪いことがあなたに起こるかもしれない。」
5:15 その人は行って、ユダヤ人たちに、自分を治してくれたのはイエスだと伝えた。

黙示録解説163:7
[7]
ヨハネ福音書の中に、イエスはベテスダの池で病人におっしゃりました。「起きて床を取り上げ、歩きなさい。」すると、すぐにその人は治って、床を取り上げて歩き出した。・・・(ヨハネ 5:8-12, 14) 、(マルコ 2:4, 9, 11-12).

主が病人におっしゃった「起きて床を取り上げ、歩きなさい。」は教義と、それに従った生活です。「床」とは教義を、「歩く」は生活を意味します(97参照)。「病人」は罪を犯した者を意味します:したがって主はベテスダの池の病人におっしゃいます、「見なさい。あなたは良くなった。もう罪を犯してはなりません。そうでないと、もっと悪いことがあなたに起こるかもしれない。」また、屋根をはがし、穴を開けて、中風の人が寝ている寝床をつり降ろした人に、『あなたの罪は赦された』と言うのと、『起きて、寝床をたたんで歩け』と言うのと、どちらが易しいか?と問われました。み言葉の内意について何も知らない人は主が語られた言葉には文字の上の意味以上に明らかなものは含まれないと信じますが、主の話されたそれぞれには霊的意味があります、なぜなら主は神的なものから話され、天界と世の両方に話されているからです。(天界の秘義 n. 2533, 4637, 4807, 9048, 9063, 9086, 10126, 10276).

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創世記42章: エジプトへの食糧調達の旅

「おまえたちは回し者だ。この国の隙をうかがいに来たのだろう。」(42:9)

監獄に入れられていたヨセフは、エジプト王ファラオの見た夢を解き明かしたことで、エジプト全土を支配します。ヨセフの預言の通り、エジプト全土に飢饉がやってきます。飢饉はやがて全世界に広がり、カナンの地に住むヤコブとその家族にも及びます。

エジプトに穀物があることを知って、ヤコブは息子たちに穀物を買いにゆかせます。ヤコブは、ヨセフの弟ベニヤミンにわざわいが降りかかることを恐れ、ベニヤミンを手元におき、残りの十人の息子がエジプトに下り、今やエジプトの権力者となったヨセフにまみえます。ヨセフには相手が兄弟たちであったことがわかりましたが、十人の兄弟たちにはヨセフのことがわかりません。

ヨセフは「霊的なものの天的なもの」を意味します。ヨセフには自分の光から、兄弟たちの存在を見ます。すなわち教会の全般的な真理を見て、それら真理を知ります。しかし外的な情愛であるレアから生まれた兄弟たちには、内的な情愛のラケルから生まれたヨセフのことがわかりません。
教会の全般的真理である兄弟たちは、自然的な光の中にいて、天界の光にはいません。そのため「霊的なものの天的なもの、あるいは神的なものからの真理」が、認識できません(AC5428)。内的なものは外的なものは、わかりますが、外的なものは、内的なものはそのままではわかりません。何らかの助けが必要です。

その助けとは、ベニヤミンで意味される媒介、あるいは相応の知識です。この助けがないため、兄弟たちは、ヨセフのことがわかりません。
「天界の栄光」について考えてみます。天界の栄光は、主イエスがこの世に誕生された時のまぶしく明るいものといった自然的イメージはできますが、それ以上は想像できません。ヨハネ福音書に相応が示されていますが、それがいかに素晴らしく輝きに満ちたものであるかは、この啓示によって推測できます。しかし、その栄光の源はすべて主おひとりであることを理解しなければ、より深く理解できません。

一人の天使は、何百万の地獄の勢力を押し返します。この力をある一人の天使の力と考えると間違った方向に考えてしまいます。万能の主からすべての力が来ており、天使はその力を借りていると考ええれば、天使の力の源を見誤りません。

さらに、「自由」とは、自分自身から考え意志することだと考えます。他から何も制約されずに考え、意志することこそ「自由」だと信じます。しかし、天界的自由にいる者は、自分からではなく、主から、天界から考えることこそが自由であると考えます。これは自然的に自由を考える者からは想像できません。

このように、自然的な光と天界的な光では大きな差異があります。この差は天界の光の内にいるものには一目瞭然です。しかし自然的光にいる者は。気づくことさえありません。両者が共通の理解ができません。ヨセフと、兄弟たちの間には、支配者と奴隷のような差があります。

エジプトを支配するヨセフは、権力者として上から言い切ります。
「おまえたちは回し者だ。この国の隙をうかがいに来たのだろう。」
この文句の中には兄弟の情など感じることができません。ヨセフと残りの兄弟たちの間には、過去、両者の間に確執がありました。ヨセフは兄弟たちに嫉妬され、殺されかけ、最後には売られてしまいます。殺されかけた時に、止めてくれたのは、ルベンだけでした(37:21,22)。その確執のせいか、ヨセフは十人の兄弟たちを「回し者・間者」、「スパイ」と呼びます。

一般に、「スパイ」は敵国の利益のために、国の情報を探る者のことです。
スパイだと疑われると、国を売る者として、死刑など重い刑罰が科されてしまいます。

兄弟たちは自分たちの思った通りに、正直に、愚直なほど過去のいきさつを述べます。しかしヨセフには通じません。三日間兄弟たちを監禁したうえで、解決案を出します。
兄弟シメオンを縛って人質とした上で、穀物を持たせてカナンの地へ返し、末の弟のベニヤミンをエジプトに連れてこいと要求します。シメオンは人質としてとられたままで、ベニヤミンを連れてくるまではスパイとしての疑いは晴らされません。

天界の教えでは、スパイは「ただ利得を求める者」を意味します(AC5432)。ヨセフは兄弟たちがスパイであるという疑いをかけ、スパイでない証明をしつこく迫ります。それは、ヨセフは仲介となるベニヤミンなしでは、兄弟である自分の正体を明かせなかったからです。今のエジプトの権力者の姿は、過去の自分からでは全く想像もできません。過去の経緯を説明できる、同じ母からの兄弟でなければ、自分の正体はわかりません。
前に述べたように、「栄光」、「力」そして「自由」のたとえのように、神の力を源として考えなければ、神性は理解できません。ヨセフが行った夢の解き明かしは、すべて神の力に帰して行いました。これを、自分の力とするなら、神的なものは理解できません。

しかし、もし利得を求めるスパイであるなら、神の力に帰することなく、ただ自分の利益から考えます。
若いころ、真理を学びますが、大人や老齢に達しても、教会の真理を自分で見て理解しようとはしません。もし、それを真理と考えないなら、口先だけになってしまいます。決して実行することはありません。真理であると考えるなら、本当にそうか、自分の力で考えてみよう、真理を見ようとして、み言葉にあたります。それが神から来ていると確認できれば、実行して、自分の生命とします。

しかし自分で考えようとしないなら、他人の思考のままです。神ではなく、他人の考えであるので、実行しません。自分で神から由来する真理と考え、実行して、はじめて真理そして善となってゆきます。
真理を外からのぞき、他人のものと考えるなら、自分の名誉と利得だけしか考えません。自分の生命のものと考えないからです。外側だけから考えるなら、善を基礎とする真理にへばりついて、他人の考えのように考え、その真理のあらさがしをして、粗を見つけてれば、責めようとします。自分の生命のものとしないので、何らかの利得がこぼれてくれば、こぼれてきた利得を得ようとして、そばにいますが、何か粗を見つけると、喜んで批判に走ります。

教会を渡り歩く人は、粗を見つけ出すのが上手です。粗を見つけると別の教会に移ります。真理と善を求めているのではなく、それ以外のもの、自分の優越や名誉、あるいは自分の都合がよい利得を求めるからです。

もし、私たちの求めているのが、再生に至る教会の真理、純粋な神的真理ではなく、何らかの利得にすぎないなら、残念ながら再生の道は遠ざかります。本人が純粋な真理と善を求めるまでやり直すことになります。霊界では、自分の求めるものは、他の霊にも明らかに見えるので、この世のように隠せません。スパイとして扱われます。

スパイではないかというヨセフの追求は、兄弟たちにしつこく繰り返されます。兄弟たちは懸命になって、スパイではないと愚直に言い続けます。私たちの意図の中も、利得を求める心が混じりこんでないか、この世でも、来世でも、とことん検査されることになります。この世にいる間は自己点検と悔い改めによって確認して改め、軌道修正を図ることができます。しかし来世では、自分の愛を隠すことはできず、自分の愛を変えることは極めて難しくなります。法や外からの拘束など、何も制約するものがないからです。

ヨセフはスパイでないことを証明するために、源であるヤコブのいるカナンに帰り、自分の媒介となるベニヤミンを連れてこいと要求します。道中で死なないように、それぞれの袋に穀物を満たしてくれます。ここで袋に満たされた穀物とは、教会の真理を意味し、ベニヤミンを連れてくるまでの支えの真理となります。しかしヨセフから渡されたものは穀物だけではありませんでした。支払ったはずの銀が袋に入れられています。穀物を買ったはずですが、途中で確認すると代価である銀が袋の口に戻されているので、ただでもらったことになり、その不気味なふるまいに、兄弟たちは恐れます。

カナンに帰って、袋を開けて空にして確認すると、それぞれの袋に中に「銀の包み」が入っています。父のヤコブも兄弟たちも、恐れます。(42:35)
先ほど袋の口に銀が入っていたのをみたのは、途中のことでしたが、カナンに着いて、袋を空にすると、銀の包がまるまる入っています。

ここで「包み」とは、束ねることが意味されます。束ねは、秩序付けを表しています。
私たちも、様々な情報が、一晩寝て朝になるといつのまにか整理されていることがあります。それに似たようなことでしょうか、自分の持つ真理が整理されています。自分の愛の種類に従って分類されています。

その愛の種類とは、主への愛、隣人への愛、そして奈落への道である世間への愛と自己愛です。
一晩寝た後のように、自分の持つ真理が、分類されています。これも自分の行ったことではありません。人間業ではありません。気味が悪く、恐れざるを得ません。

カナンを出てエジプトに下り、出会った不思議な出来事と、エジプトでの支配者の理解できない要求、仲介者であるベニヤミンを連れてこいという要求に、父のヤコブは激しく拒絶します。兄弟の一人のシメオンは、ヨセフに縛られて人質になっています。シメオンは「意志による信仰」を意味します。意志による信仰が切り離されると、外的な人間であれば、内的そのものである神との結びつきはほとんど感じなくなります(AC5461)。

ヤコブという自然的な教会にとって、シメオンを縛られて離され、内的情愛から生まれた二人の息子ヨセフとベニヤミンを失えば、壊滅的な打撃となってしまいます。意志による信仰と、霊的なものの天的なもの、そしてその仲介というすべてを失ってしまいます。これらすべてがなくなると教会は内的なものをすべて失い、意志による神への結びつきも失い、空虚となってしまいます。空虚な教会では、人の再生はできなくなります。

エジプトへの食糧購入の旅は、このままでは教会の破滅という不幸な結果を迎えます。教会が破滅すれば、人類再生の道は途絶えてしまいます。再びエジプトに下り、仲介であるベニヤミンは、ヨセフと会って内部とのつながりを回復して、内的教会を再建しなければなりません。束縛されているシメオンを解放します。

ヤコブは言った。「この子は、おまえたちと一緒には行かせない。この子の兄は死んで、この子だけが残っているのだから。道中で、もし彼にわざわいが降りかかれば、おまえたちは、この白髪頭の私を、悲しみながらよみに下らせることになるのだ。」(42:38)
しかし、次のエジプトへの旅、私たち人類の救済への旅が待っています。アーメン。

創世記
42:1 ヤコブはエジプトに穀物があることを知って、息子たちに言った。「おまえたちは、なぜ互いに顔を見合わせているのか。」
42:2 さらに言った。「今、私はエジプトに穀物があると聞いた。おまえたちは下って行って、そこから私たちのために穀物を買って来なさい。そうすれば、私たちは生き延び、死なずにすむだろう。」
42:3 そこで、ヨセフの十人の兄弟は、穀物を買うためにエジプトに下って行った。
42:4 しかし、ヤコブはヨセフの弟ベニヤミンを兄弟たちと一緒に送らなかった。わざわいが彼に降りかかるといけないと思ったからである。
42:5 こうしてイスラエルの息子たちは、人々に混じって、穀物を買いにやって来た。カナンの地に飢饉が起こったからである。
42:6 ときに、ヨセフはこの地の権力者であり、この地のすべての人に穀物を売る者であった。ヨセフの兄弟たちはやって来て、顔を地に付けて彼を伏し拝んだ。
42:7 ヨセフは兄弟たちを見て、それと分かったが、彼らに対して見知らぬ者のようにふるまい、荒々しいことばで彼らに言った。「おまえたちはどこから来たのか。」すると彼らは答えた。「カナンの地から食糧を買いに参りました。」
42:8 ヨセフには兄弟たちだと分かったが、彼らにはヨセフだとは分からなかった。
42:9 かつて彼らについて見た夢を思い出して、ヨセフは言った。「おまえたちは回し者だ。この国の隙をうかがいに来たのだろう。」

マタイ福音書
6:24 だれも二人の主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛することになるか、一方を重んじて他方を軽んじることになります。あなたがたは神と富とに仕えることはできません。

AC5432. 「おまえたちはスパイだ」は、彼らはただ利得のために存在する、を意味します。これはここでの「スパイ」の意味が、物質的利得に偏ることであることから明らかです。確かに、一連の思考から、「スパイ」の内的意味はほかの何でもありません。ここで扱われる内的真理は教会でよく知られており、
自然性自体のために作り変える真理のことを扱っています。しかし、このような作り変えは、天的なものの霊的なものを媒介としなければ不可能です。それらの真理は教会では「ヤコブの息子たち」で知られ、それは「ヨセフの兄弟たち」であり、天的なものの霊的なものである「ヨセフ」であり、媒介は「ベニヤミン」です。これらすべての含意は5402で述べています。
教会には知られている信仰の真理が示され、その教えと呼ばれるものが学ばれるのは人生の早期です。それらは事実として、他の事実知と同じように、記憶の中に取り入れられ、処分されてしまいます。
それらは、人が自分の能力を使ってその真理を見て、自分からそれが本当に真理であるかを知るまで、そこで事実知として残ります。そしてそれがそのようなものとわかり、それらに従って行います。
そのような真理を見て、それらに従って喜んで行動する能力はもはやそれを事実知としません。
今やそれは人生で従うべき戒めであり、ついには彼の人生となります。なぜなら送る生命に渡し、自分自身のものとするからです。

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異邦人教会の設立:サマリアの女

それでイエスは、ヤコブがその子ヨセフに与えた地所に近い、スカルというサマリアの町に来られた。ヨハネ4:5

主イエスは、サマリアの地で不思議な出会いをなさいます。
サマリアは、「異邦人の道に行ってはいけません。また、サマリア人の町に入ってはいけません。」(マタイ10:5)と、警告された地です。北王国イスラエルの首都でありながら、預言者エリヤと敵対したアハブ以来、偶像礼拝の中心として考えられた地であったからです。またサマリア人も、エルサレムを目指していたイエスを受け入れなかったと、ルカ書(9:53-54)に書かれています
そのためか、サマリアの女の話は、ヨハネ福音書だけに記され、他の福音書には記されていません。

しかし逆に、異邦人である私たち日本人には、大切な話となります。日本人は聖書の存在を知りながら、受け入れ方、内的真理の受け入れが十分ではなく、実行する方が少ないので、ユダヤ人にとって異邦人のような存在であるからです。
サマリアには、スカルという町にヤコブの井戸があります。以前ここはシュケムといいました。シュケムはアブラハム(創12:6)とヤコブ(33:17-20)が、シリアからカナンから来た時、最初に立ち寄った地でした。彼らははじめて真理にふれたため、内的真理を表します (AC4430)。

しかし、残虐なことに、ヤコブの子らがその町の男子を皆殺しにして(創34)しまいました。今も昔も、獣よりも残虐な人の性格は変わりありません。
男子の深い意味は真理をあらわすため、それをあてはめれば、内的真理はもはや絶滅していたことになります。しかし、その後、ヨセフの遺体はエジプトから運ばれ、ここに埋葬されており、シュケムは大切な何かを表し続けています(ヨシュア24:32)。それは失われた内的真理です。主がサマリアに立ち寄ったのは、これら内的真理を、聞こうとしないエルサレムではなく、異邦人の間に復活させるためでした。

主がサマリアの地にある時、ヤコブの泉に座り、サマリアの女におっしゃいます、この水を飲むものは再び渇きます:しかし私が与える水を飲む者は永遠に渇くことがなく;私が与える水は、彼の中で永遠の生命を湧き出す水の泉となります(AE483[12])。

主が与える水とは、神的真理です(同上)。それは文字上のみ言葉に内意として含まれています。
主は神的真理を異邦人に甦らせ、その教会をおつくりになります。サマリアとは異邦人を意味し、サマリアの女で意味される異邦人の教会は、善を求める情愛にあふれています。女性はみ言葉では善への情愛を表します。善への情愛がないところには、教会は設立できません。もし善を求める情愛がないのであれば、悪を求めているため教会とはいえないません。善への情愛があり、次に善に見合った真理が求められます。真理とは善を形にして知的に理解できるものとします。相手に善かれと思う気持ちが善の情愛です。
善と真理は常に一体とならなければ何も生じることがありません。気持ちと、その気持ちを理解して表現するものがなければ、何も実現しません。教会が存在するためには、真理と善の両方が必要です。

そこで主は、女に「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい。」(4:16) と確認されます。夫は真理を表しています。しかし、このサマリアの「女」には過去には夫はいましたが、現在は夫がいません。冒頭に述べたように、ヤコブの子孫によって男である真理は根絶やしにされ、わずかになっています。今の夫で表されるのは、偶像崇拝の信仰で、これは真理ではありません。

そこで主は、新しい真理をお与えになります。
「しかし、まことの礼拝者たちが、御霊と真理によって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はそのような人たちを、ご自分を礼拝する者として求めておられるのです。
神は霊ですから、神を礼拝する人は、御霊と真理によって礼拝しなければなりません。」(4:23,24)
ここで御霊とは真理を意味します(AC9828:10, AE183:7, Lord49:1)。真理は、知恵と知性によって認識されます。善とその情愛があっても、それに形をもたらす真理がなければ何事も存在できません。それでは真理とは何でしょうか?

サマリアの女は、キリストと呼ばれるメシアのことを聞きますが、それに答えて主はおっしゃいます。
「あなたと話しているこのわたしがそれです。」(4:26)
主はご自身が、神的真理そのものであり、神的真理が人類全体を救うことを明らかにされます。神的真理を、おおまかにいえば、神と隣人に対する愛です。神と隣人に対して愛をもって生きてゆかなければ、私たちはこの果てしない宇宙の中で意味を持たず、なくなってしまうからです。
「神を礼拝する人は、御霊と真理によって礼拝」するとは、神への愛と隣人に対する仁愛を意味し、私たちはここから永遠の生命を得ます。主が全能の神であることを認めて、礼拝すれば、私たちは永遠の生命を得ます。

この生命はどうすれば、私たちのものとすることができるのでしようか?
ここで弟子たちが現れ、ヒントを与えてくれます。
弟子たちは「先生、食事をしてください」と勧め、主は「わたしには、あなたがたが知らない食べ物があります。」とお応えになります。食べ物は私たちに生命を与えます。水は真理を与えてくれますが、水だけでは生きてはいけません。イスラエルの民が荒野で飢えたときも、マナという謎の食べ物を与えられました。主は、その謎の食べ物のことを明かされます。

「わたしの食べ物とは、わたしを遣わされた方のみこころを行い、そのわざを成し遂げることです。」
(4:34) 天界の天使たちは、主に使え、そのみこころを行い、御業を成し遂げます。天界の天使たちの食物とは、まさに神である主の御心を行うことです。肉体が食べる行為ではありません。「行い、歓ぶこと」。身体が歓ぶように、心が歓ばねばなりません。これが私たちを生かす食べ物です。永遠の生命を与える食べ物です。現在では聖餐式のパンで表されます。

主は『一人が種を蒔き、ほかの者が刈り入れる』(4:37)というたとえで、これを証されます。
「すでに、刈る者は報酬を受け、永遠のいのちに至る実を集めています。それは蒔く者と刈る者がともに喜ぶためです。」(4:36) 「わたしはあなたがたを、自分たちが労苦したのでないものを刈り入れるために遣わしました。ほかの者たちが労苦し、あなたがたがその労苦の実にあずかっているのです。」(4:38)
天使たちは、主の御心を行いますが、それは主がまかれた種と、育てられた実を刈り集めることによって行います。
主は、すべての人類にみ言葉という種を与え、それを信じて行うようにさせ、実らせます。実るまでには大変な時間がかかります。主は私たち一人ひとりに種を蒔きます。
そしてそれを回収するのが、天使たちです。あるいは天使的な心を持った人です。人の善い行いという実は、主おひとりに種がまかれ、育てられます。集めるのは天使たちで、実がなることを天使たちはこの上なく歓びます(AE911:16参照)。刈り取って、天使たちは歓び、その歓びを本人に伝えます。まだこの歓びを知らなければ、み言葉を実行して、天使たちの歓びを味わってください。真理と善が結婚して、生まれる歓びを味わってください。天使たちは深い平安に浸り、その平安を伝えてくれます。

サマリアの女による善の情愛に、弟子たちの問いによって真理への情愛がもたらされ、異邦人の内に教会が設立されます。この歓びが生まれれば、善と真理がむすびつき、教会が誕生します。
サマリアの女は町に行って人々に主イエスのことを報告し、女の言葉によって主がメシアであると信じます。この時はまだ人から聞いた、伝聞的な信仰ですが、二日間の滞在によって「自分で聞いて、この方が本当に世の救い主だと分かったのです」(4:40) 。伝聞的な信仰から、主がメシアであることを自分で聞いて理解します。霊的善と教義が結びついて、異邦人の地に教会が誕生します。

しかし異邦人の地に誕生した教会は、自然的な部分が悪影響しています。同じ異邦人の地であるガリラヤに戻りますが、エルサレムの祭りで主の行いを見聞きし、カナの婚礼での奇跡を知っているはずですが、遺伝悪に影響され、元の悪に戻ってしまいます。そのため、ある役人の息子が死にかかっているという助けを求めます。息子は真理を表します。主が救世主であるという真理が消えそうであることを表しています。しかし主は、「息子は直った」という言葉を与えます。このみ言葉だけで息子は癒されます。神的真理が与える言葉は、与えた時刻と同じ時刻に息子を癒し、異邦人の教会は立ち直り、支えられます。

主が、サマリアとガリラヤの異邦人の地で行われた奇跡を振り返ります。主はご自身を栄化して、私たち人類の救いの道を作り、同時に異邦人の地に教会を建て、エルサレムで表される旧い、歪曲されてしまった教会の裁きをするためにこの世にお越しになりました。

新しい教会は、異邦人である私たちの教会でもあります。私たちの教会は、「御霊と真理によって礼拝しなければなりません」。その真理とは、「あなたと話しているこのわたしがそれです。」と明かされた神的真理である主イエスご自身です。新旧両聖書に記された主の外的・内的人生すべてです。旧約聖書に記された主イエスの内的人生は、創世記の中のアブラハムとイサク、ヤコブそして、ヨセフで表象される内意です。

主は旧約聖書の本当の意味をよみがえらせるために、サマリアのスカル、いにしえのシュケムのヤコブの井戸に現れ、異邦人であるサマリアの女を導かれます。異邦人である私たちに、旧約聖書にも深い隠された意味があることを教えられるためです。旧約聖書の深い意味の復活こそ、主の目指された目的でした。サマリアの女との水と泉・井戸に関する対話は、これを意味しています。

神的真理は、霊的善の礼拝の実行を求めます。その霊的善とは、神への愛と隣人愛に他なりません。愛と知恵が主イエスの本質です。愛と知恵が、主の魂に内在する神の本質です。私たちは、主の愛と知恵を、行い、歓ぶことで、心を込めて自分のものとしなければなりません。神の似姿あるいは像とならなければなりません。私たちが目的としなければならないはずの霊的善、失われて歪曲されてしまった霊的善の復活も、主がこの世に来られた目的の一つです。霊的善が私たちの内に宿り、私たちの形となるまでに同化しなければ、善と真理は私たちのものではありません。善と真理以外のものは、すべて私たち自身のものです。私たち自身のものは、永遠のものではなく、永遠の生命とはなりえません。私たちは自身のものを嫌い遠ざけることで、永遠の生命である主の善と真理を自分のものとします。

主は、「遣わされた方のみこころを行い、そのわざを成し遂げること」が私たちの食物となるべきだと、模範を示されました。これが主の善と真理を私たちのものとすることです。私たちは地上の食べ物を求めるより、天界の食べ物を求めます。地上の食べ物である自分のもの、自分のこだわりを捨て、主が歓びになる真理を行い、歓びます。

「刈る者は報酬を受け、永遠のいのちに至る実を集めています。」主が種をまき育てた善と真理を集めて、自分のものとしなければ、天界に入ることができません。これこそ永遠の生命となる私たちの報酬です。

しかし、一方で私たちの遺伝悪は、永遠の生命に反する悪と偽りに引きずりこもうと邪魔してきます。せっかく生まれたはずの息子である真理は、この遺伝悪によって死にかけます。
このとき、私たちは主にみ言葉を求めます。神的真理によって、真理を破壊しようとする悪と偽りは、善と真理ではなく、私たちの内にある悪と偽りであることを確認します。それが、み言葉によって悪と偽りであることを確認できれば、私たちの持っている新しい生命は、たちまち癒されます。

イエスはユダヤを去ってガリラヤに来てから、これを第二のしるしとして行われた。(4:54)
アーメン

創世記
33:17 一方、ヤコブはスコテへ移動し、そこで自分のために家を建て、家畜のためには小屋を作った。それゆえ、その場所の名はスコテと呼ばれた。
33:18 こうしてヤコブは、パダン・アラムからの帰途、カナンの地にあるシェケムの町に無事に着き、その町の手前で宿営した。
33:19 そして、天幕を張った野の一画を、シェケムの父ハモルの息子たちの手から百ケシタで買い取った。
33:20 彼はそこに祭壇を築き、それをエル・エロヘ・イスラエルと呼んだ。

ヨハネ福音書
4:1 パリサイ人たちは、イエスがヨハネよりも多くの弟子を作ってバプテスマを授けている、と伝え聞いた。それを知るとイエスは、
4:2 ──バプテスマを授けていたのはイエスご自身ではなく、弟子たちであったのだが──
4:3 ユダヤを去って、再びガリラヤへ向かわれた。
4:4 しかし、サマリアを通って行かなければならなかった。
4:5 それでイエスは、ヤコブがその子ヨセフに与えた地所に近い、スカルというサマリアの町に来られた。
4:6 そこにはヤコブの井戸があった。イエスは旅の疲れから、その井戸の傍らに、ただ座っておられた。時はおよそ第六の時であった。
4:7 一人のサマリアの女が、水を汲みに来た。イエスは彼女に、「わたしに水を飲ませてください」と言われた。
4:8 弟子たちは食物を買いに、町へ出かけていた。
4:9 そのサマリアの女は言った。「あなたはユダヤ人なのに、どうしてサマリアの女の私に、飲み水をお求めになるのですか。」ユダヤ人はサマリア人と付き合いをしなかったのである。
4:10 イエスは答えられた。「もしあなたが神の賜物を知り、また、水を飲ませてくださいとあなたに言っているのがだれなのかを知っていたら、あなたのほうからその人に求めていたでしょう。そして、その人はあなたに生ける水を与えたことでしょう。」
4:11 その女は言った。「主よ。あなたは汲む物を持っておられませんし、この井戸は深いのです。その生ける水を、どこから手に入れられるのでしょうか。
4:12 あなたは、私たちの父ヤコブより偉いのでしょうか。ヤコブは私たちにこの井戸を下さって、彼自身も、その子たちも家畜も、この井戸から飲みました。」
4:13 イエスは答えられた。「この水を飲む人はみな、また渇きます。
4:14 しかし、わたしが与える水を飲む人は、いつまでも決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人の内で泉となり、永遠のいのちへの水が湧き出ます。」
4:15 彼女はイエスに言った。「主よ。私が渇くことのないように、ここに汲みに来なくてもよいように、その水を私に下さい。」
4:16 イエスは彼女に言われた。「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい。」
4:17 彼女は答えた。「私には夫がいません。」イエスは言われた。「自分には夫がいない、と言ったのは、そのとおりです。
4:18 あなたには夫が五人いましたが、今一緒にいるのは夫ではないのですから。あなたは本当のことを言いました。」
4:19 彼女は言った。「主よ。あなたは預言者だとお見受けします。
4:20 私たちの先祖はこの山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムにあると言っています。」
4:21 イエスは彼女に言われた。「女の人よ、わたしを信じなさい。この山でもなく、エルサレムでもないところで、あなたがたが父を礼拝する時が来ます。
4:22 救いはユダヤ人から出るのですから、わたしたちは知って礼拝していますが、あなたがたは知らないで礼拝しています。
4:23 しかし、まことの礼拝者たちが、御霊と真理によって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はそのような人たちを、ご自分を礼拝する者として求めておられるのです。
4:24 神は霊ですから、神を礼拝する人は、御霊と真理によって礼拝しなければなりません。」
4:25 女はイエスに言った。「私は、キリストと呼ばれるメシアが来られることを知っています。その方が来られるとき、一切のことを私たちに知らせてくださるでしょう。」
4:26 イエスは言われた。「あなたと話しているこのわたしがそれです。」

AE483[12]
主からの神的真理が「泉」によって意味されるのは、ヨハネで主ご自身が明らかな言葉で教えられています:主がサマリアの地にある時、ヤコブの泉に座り、サマリアの女におっしゃいました、この水を飲むものは再び渇きます:しかし私が与える水を飲む者は永遠に渇くことがなく;私が与える水は、彼の中で永遠の生命を湧き出す水の泉となります。 (4:5-20).

主が与える「水」は水のことではなく、神的真理であることは明らかです:なぜならサマリアの女が汲んでくる水は、再び渇きますが、主の与える水はそうではありません。「わたしが与える水は、その人の内で泉となり、永遠のいのちへの水が湧き出ます。」とは、その真理の内に生命があることを意味します。主がそれらを与えるとき、真理の中には生命があることは上記の記事に見ることができます。主はヤコブの泉に座って、これらのことをサマリアの女に告げました、なぜならサマリアの女によって、主が異邦人に神的真理を与えることが意味され、「サマリアの女」によって、そのような教会の設立、「ヤコブの泉」によって主ご自身からの神的真理、すなわち、み言葉が意味されるからです。