主の変容

「すると、弟子たちの目の前でその御姿が変わった。顔は太陽のように輝き、衣は光のように白くなった。」17:2

「主の変容」と呼ばれる、有名な場面です。同じような表現がイザヤ書にもあります。
「【主】がその民の傷を包み、その打たれた傷をいやされる日に、月の光は日の光のようになり、日の光は七倍になって、七つの日の光のようになる。」(30:26)。
主の変容が何を意味するのか?マタイ17章を学びます。

前章で、サタンが、ペテロの口を借りて言います。「そんなことが、あなたに起こるはずはありません。」
そんなこととは、「エルサレムに行って、・・多くの苦しみを受け、殺され、そして三日目によみがえらなければならない」という最後の試練です。旧約聖書以来、何度も預言されてきた、この悲惨な状態、愛する人々によって無残な目に遭う最後の試練を、主が受け入れることができるかどうか?それが、主に与えられた試練でした。

主はこの試練を、ペテロに向かって「下がれ。サタン。あなたはわたしの邪魔をするものだ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」と退け、勝利します。ご自分の過酷な使命を受け入れます。すると、御姿の変容が起こりるという出来事が起こります。

「それから六日たって、イエスはペテロとヤコブとその兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。」(17:1)
この「六日」は、十戒の中にある労苦の六日です。「六日間、働いて、あなたのすべての仕事をしなければならない。」(出エ20:9)と、試練の労苦を意味します。主は自分が「多くの苦しみを受け、殺される」という預言を受け入れ、北へ進んできた道を引き返し、エルサレムに向け南下することになります。
神的真理・御言葉の実現の旅の始まりです。

ピリポ・カイザリヤ地方(16:13)で登る高い山といえば、ヘルモン山を連想しますが、具体的な山の名は記されていません。この山は「霊的に高い状態」を物語ります。主は試練の克服によって極めて高い状態に進まれることが預言されます。三人の弟子達の前で、主の御顔が太陽のように輝き、衣は光のように白くなります。
霊的に見れば、太陽で示される「神的愛」と、光のような白い衣で示される「神的知恵」を、三人の弟子が目撃します。しかも情景は、「モーセとエリヤが現れてイエスと話し合って」います。モーセもエリヤも伝説の預言者たちですが、とうの昔に亡くなっています。弟子達三人は「ひれ伏して非常にこわが」ります。

三人の弟子達は、優秀であったから高い山に連れて行かれたのではありません。ペテロとヤコブとヨハネが、それぞれ、大切な事柄を表象するからでした。表象する事柄とは、それぞれ信仰と仁愛、仁愛の業です(AE820)。主は。信仰と仁愛と仁愛の善を通して、人々を霊的に高い状態に導こうとされます。

ペテロは、イエスを含めた三人を礼拝するために「、私が、ここに三つの幕屋を造ります。」と言いますが、それは正しくはありません。三人は、同じ御言葉の部分・部分を示すからです。モーセは御言葉の歴史的部分を、そしてエリヤは預言的部分を意味し、主は当時進行中の新約聖書を意味するからです。
ペテロの認識を否定するように、光輝く雲が、この三人を包み、「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。彼の言うことを聞きなさい」と声がします。

「わたしの愛する子」とは、主イエスご本人に他なりません。主はご自分の過酷な運命を受け入れます。「神のことばを聞いて行う人たち」を主は愛されます。
弟子達がひれ伏し、イエスが手を触れ、目を上げると、そこには「ただイエスおひとりだけでした。」。これは三つの御言葉のすべてはイエスお一人のことについて書かれていることを表します。なぜなら、モーセで表される歴史部分も、エリヤで表される預言者の書の部分も、内意はすべて主お一人の愛と知恵について書かれているからです。御言葉すべては、ある一つの目的のため、人類の救済のために与えられたことが、弟子達が目撃した主の変容によって示されます。

天界の教えは、主は、「神的真理、御言葉」自体であると述べます。(AE594:2)
弟子達は、マタイ16章以前で、主の数々の教えと、病と身障者を癒やす奇蹟、、食で大勢を養う奇蹟を目撃しています。また、ペテロの口を借りて、主が「生ける神の子キリスト」(16:16)であることを告白しています。その後のペテロの口を借りた試練の後、この17章では、主が「神的真理、御言葉」そのものであることを、高い山での変容によってお示しになりました。

輝く雲からの声は、愛する子が、主イエスであることを示した後、「彼の言うことを聞きなさい」と命じます。「聞く」とは単に声を聞くことではなく、「従いなさい」という(AC3869) という命令です。

この超自然的な事象から発した「命令」を、弟子達は、どう受け取ったでしょうか?おとなしく聞き従ったでしょうか?
「弟子たちは、この声を聞くと、ひれ伏して非常にこわがった。」(17:6)とあります。
御言葉で「怖がる」、とは不信仰を意味します(AR891)。弟子達はまだ、主が神的真理そのものであることが信じられず怖れるだけでした。信じられない奇蹟に、腰が抜けて立つこともできません。

主は、三人の弟子に「起きなさい。こわがることはない」と手を触れ、立ち上がる力を与えられます。
高い霊的状態から醒め、現実に戻り立ち向かうには、何らかの力が必要です。主の変容と励ましは、私たちが現実の試練と向き合い闘うためのエネルギーとなります。

山を下りながら、弟子達は山頂で目撃したはずのエリヤのことを主に訊ねることで、霊的に高い状態からゆっくりと現世に戻ってゆきます。「律法学者たちが、まずエリヤが来るはずだと言っているのは、どうしてでしょうか。」と弟子が問うと、「エリヤはもうすでに来たのです。ところが彼らはエリヤを認めようとせず、彼に対して好き勝手なことをしたのです。」
弟子達ははっと気づきます。やってきたエリヤとは、昔の伝説的預言者のことではなく、洗礼者ヨハネのことでした。主ご自身もヨハネのことを「実はこの人こそ、きたるべきエリヤなのです。」(11:14) とおっしゃっています。
洗礼者ヨハネの教えは、「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」(3:2)でした。しかし、洗礼者ヨハネは、ヘロデ王に殺されます。(14:10)

洗礼者ヨハネがエリヤであることを気づかなかったのは、弟子達の悔い改めが不十分で、霊的進歩が不十分であったせいです。それは山から地上へと舞台が変わり、群衆の中に帰って来た時にはっきりします。

群衆の中に来たとき、ある人がてんかん持ちの息子のことで主の「御前にひざまずいて」助けを求めます。
「主よ。私の息子をあわれんでください。・・・その子をお弟子たちのところに連れて来たのですが、直すことができませんでした。」(17:15,16) 

イエスは答えて言われた。「ああ、不信仰な、曲がった今の世だ。いつまであなたがたといっしょにいなければならないのでしょう。」(17:17) 弟子達の霊的状態が低い状態に停滞していて、人々の救済ができないことを嘆きます。「あなたがたの信仰が薄いからです。まことに、あなたがたに告げます。もし、からし種ほどの信仰があったら、この山に、『ここからあそこに移れ』と言えば移るのです。どんなことでも、あなたがたにできないことはありません。

天界の教えは、これを解説します。
「ここでの信仰は、主からの信仰を意味し・・・主から信仰にある者は、主の王国と自分の救済以外何も望みません」(AE 815:10)。

「自分達の力による信仰」ではありません。「主からの信仰」が求められています。
弟子達は自分には力があるという思い込みに囚われ、自分の力で悪魔を祓い、人を助けることができると信じていました。しかし彼らの信仰は、「霊的本質のない、単なる知識か、思い込み」にしか過ぎません (TCR339)。そのため、主は「不信仰な、曲がったとおっしゃいます。主は、てんかん持ちの息子を救うためには、「祈りと断食」が必要だとおっしゃいます。

天界の教えである真のキリスト教にも、「信仰だけでは善行はできません。仁愛だけでもできません。善行は、仁愛と信仰がともになって生まれます。」(TCR377) とあります。
主が山につれて行かれた、ペテロとヤコブとヨハネは、この信仰と仁愛と善行を意味しました。
私たちは、「信仰」というと、「自分の力で信じること」と考えるかもしれません。自分には信仰の力があり、それを選択しさえすれば、すぐに信仰できると考えます。しかしこの力も実は主から来ています。私たちの力ではありません。自分たちが考え信じているというのは、「外観」だけです。この外観がなければ私たちは救われません。信仰も愛も善行も、自分から来て自分から行っていると思うのは、実はそうではありません。すべて善で真であることは主お一人から来ています。

自分には力がないことと認め、主に向かい、主からの神的真理の力を受け入れます。
これが「祈り」です。
そして「断食」とは、地獄から流れ込む悪と偽りを断固として拒み、主の王国への役立ちだけを願うことです。
祈りと断食の力を使えば、仁愛の実現を拒んでいる「自己愛」という大きな山が崩れて、主の王国への働きができるようになります。私たちに主の王国の働きができないのは、心のどこかで自分のため、自分の名誉や利得のために働こうとしている部分があり、それが隠れた動機となっているからです。

この後、主は神的真理が、無残な目に遭うことを預言されます(AC 9807:10)。神的真理を軽んじているのは実は、私たちや弟子達であったことがわかります。
「人の子は、いまに人々の手に渡されます。そして彼らに殺されるが、三日目によみがえります。」
前章では主ご自身が試練に遭うことを預言されましたが、主が、神的真理であることをお示しになったため、ここでは神的真理自体への扱いも含むことになります。神的真理を軽んじそう考えていないのは、実は弟子達であり、主の王国のために働きのできない私たちです。

主の一行は、ガリラヤ湖畔のカペナウムに戻ります。ガリラヤ湖は、私たちの日常生活の場を意味します。
私たちは国や地方公共団体へ税金を納め、教会活動の促進のため献金をします。カペナウムにも教会への役立ちである納入金を集金する人が待っていました。彼らは律法で命じられたことを実現するため、集金しています。

「シモン。どう思いますか。世の王たちはだれから税や貢を取り立てますか。自分の子どもたちからですか、それとも異邦人(日本語訳:ほかの人たち)からですか。」

ここで、「異邦人たち」は、外部にだけ信仰を置いた人たちを表象しました。かれらは「すべての人のしもべ」であって、教会での低い役立ちを提供します。(AC1097)
しかし低い役立ちであっても、律法で定められ命じられた役立ちです。「彼らが法を破らないよう、湖に行って釣りをして、最初に釣れた魚を取りなさい。その口をあけるとスタテル一枚が見つかるから、それを取って、わたしとあなたとの分として納めなさい。」
ペテロが湖で魚を捕り、口から硬貨一枚を見つけ与えたことは、仕える最も低い自然的なもののことを意味します。なぜなら、魚は自然的なものを意味するからです。(AC 6394)
私たちも、日常の自然的な状況にあっては、国へ税金を納め、教会への献金を行わなければならないことが意味されます。それは主の働きと力を認め、感謝する自然的手段であるからです。

この章は、最も高い状態での栄光、主の変容の目撃に導かれました。そしてその状態から主の力で「立ち上がって進み」、私たちの日常にまで降りてきます。信仰は、愛・仁愛を伴わなければ、善行に結びつくことができないこと、さらに自然的な義務も果たすべきことを、主はこの章で教えられます。

私たちも、主の神的真理を学び知った後は、それを実行しなければなりません。主の働きを行い、同時に地上で与えられた義務も果たしてゆかねばなりません。神的真理は、怖れて崇めるばかりでいれば、「不信仰」となり、何も産み出しません。信仰と仁愛と伴うことで、善行を産み出します。
主は励まされます。「起きなさい。こわがることはない」(17:7) アーメン。


イザヤ
30:19 ああ、シオンの民、エルサレムに住む者。もうあなたは泣くことはない。あなたの叫び声に応じて、主は必ずあなたに恵み、それを聞かれるとすぐ、あなたに答えてくださる。
30:20 たとい主があなたがたに、乏しいパンとわずかな水とを賜っても、あなたの教師はもう隠れることなく、あなたの目はあなたの教師を見続けよう。
30:21 あなたが右に行くにも左に行くにも、あなたの耳はうしろから「これが道だ。これに歩め」と言うことばを聞く。
30:22 あなたは、銀をかぶせた刻んだ像と、金をかぶせた鋳物の像を汚し、汚れた物としてそれをまき散らし、これに「出て行け」と言うであろう。
30:23 主は、あなたが畑に蒔く種に雨を降らせ、その土地の産する食物は豊かで滋養がある。その日、あなたの家畜の群れは、広々とした牧場で草をはみ、
30:24 畑を耕す牛やろばは、シャベルや熊手でふるい分けられた味の良いまぐさを食べる。
30:25 大いなる虐殺の日、やぐらの倒れる日に、すべての高い山、すべてのそびえる丘の上にも、水の流れる運河ができる。
30:26 【主】がその民の傷を包み、その打たれた傷をいやされる日に、月の光は日の光のようになり、日の光は七倍になって、七つの日の光のようになる。

マタイ
17:1 それから六日たって、イエスは、ペテロとヤコブとその兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に導いて行かれた。
17:2 そして彼らの目の前で、御姿が変わり、御顔は太陽のように輝き、御衣は光のように白くなった。
17:3 しかも、モーセとエリヤが現れてイエスと話し合っているではないか。
17:4 すると、ペテロが口出ししてイエスに言った。「先生。私たちがここにいることは、すばらしいことです。もし、およろしければ、私が、ここに三つの幕屋を造ります。あなたのために一つ、モーセのために一つ、エリヤのために一つ。」
17:5 彼がまだ話している間に、見よ、光り輝く雲がその人々を包み、そして、雲の中から、「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。彼の言うことを聞きなさい」という声がした。
17:6 弟子たちは、この声を聞くと、ひれ伏して非常にこわがった。
17:7 すると、イエスが来られて、彼らに手を触れ、「起きなさい。こわがることはない」と言われた。
17:8 それで、彼らが目を上げて見ると、だれもいなくて、ただイエスおひとりだけであった。
17:9 彼らが山を降りるとき、イエスは彼らに、「人の子が死人の中からよみがえるときまでは、いま見た幻をだれにも話してはならない」と命じられた。・・・

17:22 彼らがガリラヤに集まっていたとき、イエスは彼らに言われた。「人の子は、いまに人々の手に渡されます。
17:23 そして彼らに殺されるが、三日目によみがえります。」すると、彼らは非常に悲しんだ。
17:24 また、彼らがカペナウムに来たとき、宮の納入金を集める人たちが、ペテロのところに来て言った。「あなたがたの先生は、宮の納入金を納めないのですか。」
17:25 彼は「納めます」と言って、家に入ると、先にイエスのほうからこう言い出された。「シモン。どう思いますか。世の王たちはだれから税や貢を取り立てますか。自分の子どもたちからですか、それともほかの人たちからですか。」
17:26 ペテロが「ほかの人たちからです」と言うと、イエスは言われた。「では、子どもたちにはその義務がないのです。
17:27 しかし、彼らにつまずきを与えないために、湖に行って釣りをして、最初に釣れた魚を取りなさい。その口をあけるとスタテル一枚が見つかるから、それを取って、わたしとあなたとの分として納めなさい。」

AE594:2
この主の変容は、主が、神的真理、すなわち御言葉を表したことを意味します。主は世に居られた時、その人間性を神的真理とされ、そして世から出られる時、その人間性を受胎から主の内にあった神性自体と結合することによって、神的善となさいました。
従って、主が変容する際に見られた個々の事象は、主の神的善からの神的真理の発出が意味されます。主の内にあった神的愛の神的善と、そこから主の人間性のうちにある神的真理からは「その御顔は太陽のように輝く」と表されます。というのは、顔を通して、「顔」が内面を表すからです。そして「太陽」は神的愛を意味するからです(参考 401, 412)。神的真理は光始めた「衣」によって表されます、御言葉の「衣」は真理を意味し、「主の衣」は神的真理(64, 271, 395) を表します。なぜこれらが「光」として現れたかは、神的真理は天使的天界では光を生み出すので、御言葉の「光」によって意味されるからです(HH 126-140)。
神的真理である御言葉で表されたため、「モーセとエリヤ」が現れ、主と話したとされます。「モーセとエリヤ」は御言葉を表します。「モーセ」は歴史的御言葉を、「エリヤ」は預言的御言葉を表します。文字上の御言葉は、「雲が彼らをおおい、彼らはその中に入った」ことによって表されます。御言葉で弟子達は教会を表し、当時、そしてその後、文字上の御言葉から唯一真理にいて、上掲前出のように、究極の神的真理による啓示と回答がなされ、この真理は御言葉の文字上の真理であったため、「これはわたしの愛する子。わたしはこれを喜ぶ。彼の言うことを聞け」という声が聞こえました。これは主が神的真理であり、御言葉であることを意味します。

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