ヨセフの出世

「さあ、私はおまえにエジプト全土を支配させよう。」(創41:41)

ヤコブの息子ヨセフは、兄弟達に売られ、エジプトの侍従長に買われます。そこで働きを認められ、主人の妻に濡れ衣を着せられ獄につながれてしまいます。その後ファラオの献酌官長と、料理官長の二人がヨセフと同じ獄につながれます。二人は不思議な夢を見て、ヨセフに相談し、ヨセフは二人の夢を解き明かします。その後二人は獄から解放されます。ヨセフの夢明かしが当たり、献酌官長は元の職務に戻りますが、調理官長は吊されてしまいます。

ファラオは自然界を支配するエジプトの王です。ファラオの献酌官長と、料理官長によって自然的なものに仕える二種類の感覚的部分が意味されます。感覚的部分うち献酌官長で表現される知的な部分と、吊された料理官長で表現されている意志的部分です。知的な部分は、再生に当たって生かされることが可能ですが、意志的部分については再生不可能だというのが、主が予見されたことでした。

しかし人間は、意志と知性の両方によって一人の人間です。その一方だけが生き返っても、生命とはいえません。私達が密かに期待を寄せる主人公のヨセフは、獄につながれたままです。ヨセフが何らかの働きをしなければ、人間は再生できません。新しい生命を受けることができません。このままでは人間・人類は滅びてしまいます。主は再生の最初の段階の自己改革といわれる部分の備えをなさいます。すなわち、再生が始まるにつれ、善と真理が不足することを予見され、再生が進歩しても不足が起こらないよう、人間には知られず、密かにその備えをなさいます。

「それから二年後、ファラオは夢を見た。見ると、彼はナイル川のほとりに立っていた。」(創 41:1)
ファラオが見た夢は、不可解で不吉でした。ナイル川から、7頭の肉づきの良い雌牛が上がってくると、続けて上がってきた痩せた醜い雌牛に食べられてしまいます。

それだけではありません、ファラオは次の夢をみます。七つの穂が実ると、その後、東風に吹かれて焼けしなびた七つの穂に食べられてしまいます。

朝になって、ファラオは心が騒ぎ、人を遣わして、エジプトのすべての呪法師とすべての知恵のある者たちを呼び寄せた。ファラオは彼らに夢のことを話したが、解き明かすことのできる者はいなかった。(41:8)
そこで、献酌官長は、獄の中で夢を解き明かしてくれたヨセフのことを思いだし、獄につながれているヨセフを呼び出すようファラオに進言します。

監獄から呼び出されたヨセフは、ファラオの見た夢を解き明かします。エジプトの豊作と飢饉を預言し、続いてその対策、豊作時の備蓄をも進言してエジプトを救おうとします。

ヨセフの見事な解き明かしと対策に感動したファラオは、こう言います。
「おまえのように、さとくて知恵のある者は、ほかにはいない。おまえが私の家を治めるがよい。私の民はみな、おまえの命令に従うであろう。私がまさっているのは王位だけだ。」(41:39-40)
「さあ、私はおまえにエジプト全土を支配させよう。」(41:41)

ファラオはヨセフに、自分の指輪、亜麻布の衣服、金の首飾を与え、自分の第二の車に乗せます。
そして、「ヨセフにツァフェナテ・パネアハという名を与え」さらに祭司の娘を妻として与え、「ヨセフはエジプトの地を監督するようにな」ります。このとき「ヨセフは三十歳であった。」といいます。

ヨセフは奴隷から、囚人となりますが、いまやエジプト全土を実質的に治める支配者に出世します。
奴隷・囚人から第二の支配者への出世、一夜にして驚くべき出世です。緊急時に予想したとはいえ、世界の歴史で一夜にしてこのような出世をした例は聞いたことがありません。主は人間の再生が停止してしまうことを予見され、ご自身が私達それぞれに働きかける備えをなさいます。

ヨセフは、この世におられた時の主イエス・キリストを表します。
エジプトの王ファラオに仕えるようになったとき、ヨセフは三十歳であった。(41:46)
ルカ書には、「イエスは、働きを始められたとき、およそ三十歳で、ヨセフの子と考えられていた。」(ルカ 3:23)とあります。
これは単なる偶然ではありません。「三十」には主が人に蓄積される善と真理が満ちていっぱいになる、という意味があります(AC5335)。この「三十」が、主が用意されたこと、すなわち本人が知らない間の「善と真理の蓄積」でした。

ヨセフは、ツァフェナテ・パネアハZaphenath Paneah(41:45)という名を与えられます。このヘブライ語の意味は、「隠された物事の啓示者、起こる事の開示者」(AC5331)です。ファラオにとっての啓示者であるとともに、当時、神の御心を知るひとり子としてこの世に来られた主イエスのことを表しています(同上)。主はこの世に居られた時、御言葉の内意を次々と正しく明かして、私達に神の真の心を説かれました。

ファラオはヨセフを「神の霊が宿っているこのような人が、ほかに見つかるだろうか。」(創41:38)と驚きます。ヨセフへの抜群の評価によって、自然的なものであるエジプト王ファラオが全面的に服従して、エジプト全土を救うことになります。まさに救世主です。ファラオ自体も以前のような状態ではなくなっています。ファラオが以前のままでは、このような気づきは不可能でした。ファラオにも新しい状態が始まっています。

ヨセフの霊的な意味は、「合理的なものから出る、霊的なものの天的なもの」です。言葉にすると抽象的な形容が重なり、わかりにくくなりますが、これを仮に、分解して並べると少しわかりやすくなります。
まず「天的なもの」が中心の第一に来ます。天的なものはアブラハムがそうであったように、神性そのものです。しかし、神的なものは無限であるため、人間には理解できません。これを私達に伝えるため次の工夫が必要です。

これを囲むように第二に来るのが「霊的なもの」です。神的なものから出ている霊的な価値が、この中にあります。しかし私達は自然的な存在であるため、霊的な価値を理解できません。霊的なものを知るためには、合理性と直接の刺激が必要です。それがイサクで表される主の合理性と、自然界へいる私達への流入です。

「すべてに勝って神を愛しなさい」それと同じように「自分と同じくらいに隣人を愛しなさい」と霊的に教えられても、「神」「隣人」「愛する」をそれぞれ定義して、重ねてゆくとぼんやりとわかってくる程度です。しかし、曖昧にしかわかりません。

「神」を何にも勝って愛せと言われています。しかし、人は自分の一番、愛する者を神と呼びます。「神」が何かわからなければ、神を愛せと言われても、自分が愛するものを愛するだけで、人は再生するどころかどんどん自己愛の世界に埋没してしまいます。
「隣人」を愛すると称して、隣にいる人を皆、愛そうとします。たとえ隣にいる者が犯罪者や侵略者であっても、気にしません。その人が自分は犯罪者や侵略者でないと言えば、分別なしに愛し、そして時に自分の都合に合わせて愛します。侵略者や犯罪者は、自分こそが正しいと偽りを振りまき、私達も情報に踊らされて、何が隣人か、何が正しいかわからなくなります。

主がこの世にお越しになったときは、正しいことが曲げられ、神的なものがわからなくなった状態で、神と人間が交流不可能な状態であったと言われています。しかし表現を変えて、現代の今の状態を考察すると、あまり進歩がないように見えます。相変わらず平和や解放という偽りの仮面をかぶって、殺人や略奪、姦淫を繰り返しています。会社や家庭でも、自分達の利益や存在継続という偽りのもと、パワハラ・セクハラ・弱い者いじめ・見切りが続いています。何が正しいことで、善い事かわからなくなっています。
昔学んで、豊かになったはずの善と真理が、悪霊が吹き込む偽りのせいで役立たない状態になっています。乱れた理解を正すためには、悪を避ける人間の努力と、主からの流入の両方が必要です。

まずは、悪は何かを知り、これを徹底的に断つことが必要です。十戒や聖書で命じられた悪を断たなければ、善と真理が追放されたようになっています。私達の内に深くしまわれ、忘れている御言葉の真理を思いだして行います。すると主が内的道を通って、乱れた秩序を回復されます。幼時に蓄えられた真理も、思春期になって、世の偽りや遺伝悪の刺激によって秩序が乱されますが、この秩序を主とともに回復します(AC5280)。

思春期以降、老年から人生の最後に至り、そして死後も永遠に至るまで、この秩序の回復を重ね、一つ一つの真理を善と結び合わせてゆきます。知識にすぎない真理を、行い、そして実現させ、歓びが生まれて善となるまで結びつけてゆきます。そこには偽りがあると主からの流入が阻害されます。偽りと悪は自分の利得や名誉などは偽りと結びついて善と真理の結婚の邪魔をするだけです。純粋に真理を歓び。善を行う態度が必要です。

地上に居られた時の主は、「合理的なものから出る、霊的なものの天的なもの」としか表現できません。なぜなら、主は常に「父」に祈り、その御心を行おうとされました。しかし、その「父」は主の「魂」でした。そして主は常に隠された霊的意味を開示され、捧げ物や犠牲などが、物ではなく、「思いやり」や愛での霊的価値であることを明かされました。しかも、喩えによって大筋から離れないよう霊的に支えられます。さらに本人の状態が進めば「天界の教え」という再臨によって、合理的な教えをより鮮明になさいます。天界の教えの表現にあるとおり「合理的なものから出る、霊的なものの天的なもの」以外の「表現は用いることができません」。

天界の教えは、私達に再生の道を教えます。悪を拒み、善を行い、神を信じよと。
この三つだけでも真心こめて真剣に行えば、私達は再生の道を歩めるはずです。しかし行ってなければそうではありません。常に何かの偏りを思い込み、全体のバランスが崩れ、調和がとれなくなっています。その偏りはそれぞれが都合のいい部分に起こり、最後には全体が崩壊してしまいます。偏りを起こすのはいつも自己愛と世間愛です。この調和の回復には、私達と主の力の両方が必要です。私達が働かなければ、自己愛と世間愛が働き、主からの流入は起こりません。私達が自己愛と世間愛に気づき、これを除く努力を行うと、主は流入によって助けてくださいます。

ヨセフはファラオの命によって、エジプト全土を支配します。このエジプト全土とは、知識とそれによって生きる自然的な本人の両方を意味します(AC5316)。外的な真理である知識と内的な真理です。
そして「知識は、知性によって受け入れられ見いだされるまでは、真理として人の内に安んじることができません。それは人が固く抱きしめないからです。人がそれに従って生きない限り、真理はその人に安んじません。なぜなら人の生命のものとならない限り、何もその人のものとはならないからです。そのためこれらの真理が人の生命を形作り、人の真の自分は、その真理によって覆われます。」(AC5276)

私達は、ヨセフがエジプト全土を支配したように、善に結ばれた真理を、一つ一つ自分の生命として自分自身を蓄えてゆかねばなりません。私達が真理を善と結び合わせる努力をします。善を真理と結び合わせてゆきます。知識として貯めておくことなど論外です。知識は使わなければ忘れ去られてしまいます。幼い時に純真に学んだ知識も、成長するにつれて忘れ去られてしまえば、知識が多くあっても、必ず「飢餓」がやってきます。この飢餓が進む状態は、私達が成長し善と真理が不足してきた状態なのです。

学んだ知識を行い、自分の中で消化して人に役立て、そこから歓びを得て、初めて自分を構成する真理となってゆきます。役立ちという善と結びつくことで、私達を構成する真理となってゆきます。私達の自然的な分野は、「ヨセフ」によって支配され、調整されなければなりません。主によって蓄えられた真理を呼び起こしてて、調和を取り戻す努力をするなら、栄化されたヨセフである主から流入が豊にあり、天界の形である巨大人の形が、私達の中で整えられてゆきます。ヨセフの支配が私達の再生の始まりの状態です。

ファラオはさらにヨセフに言った。「さあ、私はおまえにエジプト全土を支配させよう。」(創41:41)
アーメン

創世記(新改訳)
41:1 それから二年後、ファラオは夢を見た。見ると、彼はナイル川のほとりに立っていた。
41:2 すると、ナイル川から、つやつやした、肉づきの良い雌牛が七頭、上がって来て、葦の中で草をはんだ。
41:3 するとまた、その後を追って、醜く痩せ細った別の雌牛が七頭、ナイル川から上がって来て、その川岸にいた雌牛のそばに立った。
41:4 そして、醜く痩せ細った雌牛が、つやつやした、よく肥えた七頭の雌牛を食い尽くしてしまった。そのとき、ファラオは目が覚めた。
41:5 彼はまた眠り、再び夢を見た。見ると、一本の茎に、よく実った七つの良い穂が出て来た。
41:6 すると、その後を追って、しなびた、東風に焼けた七つの穂が出て来た。
41:7 そして、しなびた穂が、よく実った七つの穂を吞み込んでしまった。そのとき、ファラオは目が覚めた。それは夢だった。
41:8 朝になって、ファラオは心が騒ぎ、人を遣わして、エジプトのすべての呪法師とすべての知恵のある者たちを呼び寄せた。ファラオは彼らに夢のことを話したが、解き明かすことのできる者はいなかった。
・・
41:25 ヨセフはファラオに言った。「ファラオの夢は一つです。神が、なさろうとしていることをファラオにお告げになったのです。・・・
41:37 このことは、ファラオとすべての家臣たちの心にかなった。
41:38 そこで、ファラオは家臣たちに言った。「神の霊が宿っているこのような人が、ほかに見つかるだろうか。」
41:39 ファラオはヨセフに言った。「神がこれらすべてのことをおまえに知らされたからには、おまえのように、さとくて知恵のある者は、ほかにはいない。
41:40 おまえが私の家を治めるがよい。私の民はみな、おまえの命令に従うであろう。私がまさっているのは王位だけだ。」
41:41 ファラオはさらにヨセフに言った。「さあ、私はおまえにエジプト全土を支配させよう。」
41:42 そこで、ファラオは自分の指輪を指から外してヨセフの指にはめ、亜麻布の衣服を着せ、その首に金の首飾りを掛けた。
41:43 そして、自分の第二の車に彼を乗せた。人々は彼の前で「ひざまずけ」と叫んだ。こうしてファラオは彼にエジプト全土を支配させた。
41:44 ファラオはヨセフに言った。「私はファラオだ。しかし、おまえの許しなくしては、エジプトの国中で、だれも何もすることができない。」
41:45 ファラオはヨセフにツァフェナテ・パネアハという名を与え、オンの祭司ポティ・フェラの娘アセナテを彼の妻として与えた。こうしてヨセフはエジプトの地を監督するようになった。

ヨハネ福音書
3:3 イエスは答えられた。「まことに、まことに、あなたに言います。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」
3:4 ニコデモはイエスに言った。「人は、老いていながら、どうやって生まれることができますか。もう一度、母の胎に入って生まれることなどできるでしょうか。」
3:5 イエスは答えられた。「まことに、まことに、あなたに言います。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国に入ることはできません。
3:6 肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です。
3:7 あなたがたは新しく生まれなければならない、とわたしが言ったことを不思議に思ってはなりません。
3:8 風は思いのままに吹きます。その音を聞いても、それがどこから来てどこへ行くのか分かりません。御霊によって生まれた者もみな、それと同じです。」

天界の秘義5307. 「神の霊が宿っているこのような人が、ほかに見つかるだろうか。」とは、真理の流入を意味し、その真理は、内側からの善を含んでいるため、霊的なものの天的なものを含めることになります。これは「人」の意味が真理であり(3134, 3309, 3459参照)、「神の霊」の意味が、内から善を受ける、すなわち神的なものからを意味することから明らかです。神の霊とは、神的なものから発し、そのため完全な善です。なぜなら神的なものとは完全な善であるからです。ここから発するものは、善を含んだ真理であるため、この真理は、御言葉では「神の霊」を意味します。確かに、霊が出ずに、善を含んだ真理が出て、それは聖なる真理です。この真理は善を含み、「ヨセフ」によって表される、霊的なものの天的なものです。

[2] 教会の中で、「ヨセフ」の霊的意味は主であることはよく知られ、そのため主は天的なヨセフと呼ばれています。しかし主がヨセフによってどの面を表しているのか誰も知りません。主は、アブラハム、そしてイサクによって、さらにヤコブによって表されます。しかし、モーセやエリアやアロン、そしてダビデ、さらに御言葉のその他の多くの人によっても表されます。しかしそのそれぞれは、他の人から別の方法で表されています。アブラハムは神性そのものを、イサクは神的合理性を、ヤコブは神的自然性を、モーセは御言葉と法と歴史的部分を、エリアは預言的部分を、アロンは祭司を、ダビデは王を意味します。しかし、ヨセフが何を意味するかについては、3969, 4286, 4585, 4592, 4594, 4669, 4723, 4727, 4963, 5249を参照してください。
ヨセフは、合理的なものから出る、霊的なものの天的なもの、意味します。他の表現は用いることができません。なぜなら天的なものは、神的なものからの善を受け、霊的なものはその善から出る真理を受け、それは主の神的人間からくる善の真理を構成しています。これは主が世に居られた時の主でした。しかし、主はご自身を栄化されると、それを超えて蘇られ、その人間さえも完全に神的善、あるいはエホバとされました。

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Bわかりやすいか 1わかりにくい・・・5よくわかる
C新しい視点か  1 旧い視点・・・・・5斬新で新しい視点

説教テーマ(自由記述)

新約聖書(マタイ各章・黙示録7つの教会・ヨハネ各章~)と旧約聖書(創世記~)をで交互に題材を求め、各個人の内にできる教会の成長に会わせ、網羅できるように進めています。
特に学びたい部分があればご連絡ください。
(                              )

イースターの意味

イースターの朝と夕

さて、週の初めの日、朝早くまだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓にやって来て、墓から石が取りのけられているのを見た。ヨハネ20:1

主の蘇りの朝、それは驚きと、新しい希望に満ちた時です。
その朝、マグダラのマリアは、主を葬った墓の石が取り除かれているのを発見して弟子に知らせます。報告を受けた、ヨハネとペテロは走って墓に行きます。しかし、墓の中には主の身体を巻いていた亜麻布が残っているだけでした。

主にお会いできなくて悲しんでいたマグダラのマリアは、墓の中をのぞき込んだとき白い衣を着た二人の御使いを見ます。御使い二人と話しますが、主の居場所はわかりません。うしろを振り向くとイエスが立たれています。しかしマリアにはそれが主であるとわかりません。園の管理人と考えています。
「マリア」と主が呼ばれると、振り向いてそれが主であるとわかり、「ラボニ・先生」と呼びかけ、初めて主を認識します。

マリアは主の足に香油を塗り、髪の毛で足をぬぐった(12:3)女性です。優しさと愛に溢れながら、主の足下に座って、謙虚にひたすら御言葉を聞き(ルカ10:39)、十字架での最期まで主を慕い続けます。マリアによって、善への情愛が表されています。

イースターの朝、マリアは、復活した主イエスに会います。いや、会ったはずですが、なかなか主に会えたという実感がありません。マリアと会った主はいろいろと形を変えられます。それはマリアの受容の程度に応じます。最初は、二人の天使でしたが、次は園の管理人と考えます。そして、三番目は「ラボニ・先生」です。最後に「先生」であるイエスと会えたはずですが、「触ってはいけない」と言われてしまいます。

マリアの受容の変化に注意してみましょう。
最初の二人の天使です。主の身体のあった頭と、足のところにいた天使は、主から発する神的真理の最初から最後までを意味しています(AE687:18)。天使によって神的真理が意味され、その最初から最後のすべてが表わされてるのは、すなわち主ご自身全体です。しかし神的真理の全体はマリアにはわかりません。マリアは「どこに置いたのか、私にはわからないのです。」(20:13)と応えます。マリアがわからないのは、主のご遺体の行方ではなく、神的真理の全体像でした。しかし、次に出てくるのが「園の管理人」(20:15)と思った人です。

園の管理人は、種を集め、土地を耕し、種をまき、育ててゆきます。しかし、実際に種を根付かせ、発芽させ、花をつけ、実をならせるのは、主の御業です (AE1154[2] ) 。主のみわざはマリアにも、もちろん私達にもわかっていません。
毎日、劇場のように全世界に主の御業を見ておきながら、主の摂理を知らずに、自然の力、あるいは人間の力としか考えないからです。生命とは肉体の生命だけであると考え、そしてその生命の源がどこから来ているか、知らずに生活しています。さらに、その生命を、本来あるべき方向ではなく、自分の好きな方向に濫用しています。そのため、主に出会いながらも、ただの「園の管理人」としか考えません。憐れに想われた主は、声をかけられ御姿を明かします。

イエスは彼女に言われた。「マリア。」彼女は振り向いて、ヘブル語で「ラボニ」、すなわち「先生」とイエスに言った。(20:16)

弟子達は「先生」とは呼びません。マリアが応えた「先生」という返事は、主を神的善ではなく、神的真理として考えている結果といわれています。
「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。」(1:14)とあるように、主はみことば、神的真理としてお生まれになりました。そして最期の試練によって栄化され神的善とむすばれたはずです。しかし、マリアの意識の中では、まだ栄化されていません。全能の神となっていません。そこで、主はマリアだけではなく、弟子や、信仰の真理にいる者のところに行って伝えなさいと命じられます。
天界の教えによれば、「主」という呼びかけは善について、そして「先生」は真理について呼ばれます(AC2921:6)。

「わたしはまだ父のもとに上っていないのです。わたしの兄弟たちのところに行って、『わたしは、わたしの父であり、あなたがたの父である方、わたしの神であり、あなたがたの神である方のもとに上る』と伝えなさい。」(20:17)

このとき、マリアは、主に「わたしにすがりついていてはいけません」と諭されます。マリアの意識の中で栄化されていないため、兄弟たち、すなわち弟子たちのところに行って、栄化されたことを伝え、全能の神となることを彼らによって教えられることをお求めになります。

「『あなたがたの神である方のもとに上る』と伝えなさい。」とは、神的真理が、神的善と一体となって栄化されることです。神的真理と神的善が結びついて一体となることは、善への情愛だけでは理解は難しく、理解できません。信仰の真理を少しずつ教えられ学んでいる弟子達によって、初めて理解が可能となります。

善と真理がどう違うのか?神的真理と神的善が結びつくとは、どういうことなのか、抽象的な概念はなかなか理解できません。
しかし例えば、隣人への善は、教えられ、行いながら考えると、誰が隣人で、何が善なのか、はじめて理解することができます。学ぶだけでは誤解や偽りが残り、主の教えを理解することは簡単ではありません。行い、善にしてゆく過程で、真理に含まれている偽りが取り除かれてゆきます。そして、すべて隣にいる人が隣人ではなく、それぞれの人が持っている善自体が隣人であることに気づきます。

私達も、主の蘇りは、肉体の蘇りなのか、霊の蘇りなのか、そして私達自身にも蘇りがあるのかどうか、はっきりとはわかりません。人に教えるよう遣わされたとしても、確信をもって人に言えません。確信をもって人に伝えるためには、しっかりした教えにそって理解し、行って確かめなければ、曖昧なままです。

マリアが来て「私は主を見ました」と報告し、そして上られて神と一体となると告げられたことを弟子達に伝えます。イースター、主の蘇りの日の夕方、弟子達の真ん中に主が現れ、大きな進展があります。

弟子達は、旧い宗教勢力への怖れから、「戸に鍵がかけられてい」ます。真理を知り、伝えることができません。私達も、旧い宗教に囲まれ、主の再臨を堂々と告げることができません。真理を説けば、社会的評価を失う怖れがあるので、戸を閉めて小さいグループで話し合います。

すると、イエスが来て彼らの真ん中に立ち、こう言われます。「平安があなたがたにあるように。」(20:19)

平安とは神性と神的人間の結合で、主が語られた「神のもとに上る」ことが意味されます。平安の内的意味は、主ご自身のことです。主は天界であり永遠の生命です。そして主との結びつきによって起こる天界の歓びです。(AE365:11)
蘇った主と会い、「平安」を祈られた時、弟子達にとってどんなに素晴らしい歓びの瞬間であったことでしょうか!弟子達の中に立って「手と脇腹を彼らに示された」ことは、主は単なる霊ではないことを物語ります。また、焼いた魚と蜂蜜(KJV)を召し上がった(ルカ24:42)ことも単なる霊ではない証しです。

しかし、鍵のかけられた戸を通り抜けて、弟子達の前にあらわれことは、私たちのような肉体でもありません。天界の教えは、神の右の座に着いて、神的全能を得られたと教えます。「主の人間的実体と本質は、神的実体あるいは本質のようであった」(主の教義 35:10,11) と記します。
主イエスは、人間的実体とともに神的実体をお持ちになった特別な存在となられました。墓には何も残してゆかれません。すべて天に上げられます。
私達は、肉体を地上に残し、霊として霊界で生きてゆきます。そして知性は受容の程度に応じます。しかし、主の身体はその両方を今もお持ちです。自然的感覚もあるため、私達と交流することができます。

神的全能をお持ちになった主から、再び、「平安があるように」そして「父がわたしを遣わされたように、わたしもあなたがたを遣わします。」と告げられます。
息を吹きかけ、「聖霊を受けなさい。あなたがたがだれかの罪を赦すなら、その人の罪は赦されます。赦さずに残すなら、そのまま残ります。」(20:22,23)

主から息を吹きかけられると、神的真理を認識し、信仰の生命を受けるようになります(AC 9818:15)。聖霊とは霊的意味では真理のことで、人の生命はそこからきます。それは知性のことです。(AE 183:6)
聖霊を与えられると、知性から真理を認識できます。聖霊、すなわち神的霊感を受けなければ、信仰は知識のままで本当に理解できません。生きたものとなりません。信仰の生命を受けることができません。主の聖霊を受け、主の知恵から罪を考えて生きたものとします。人間の恣意的な知性ではありません。

弟子の一人のトマスは「私は、その手に釘の跡を見て、釘の跡に指を入れ、その脇腹に手を入れてみなければ、決して信じません」(20:25)と、否定します。トマスのように感覚的真理に留まると、主のお姿を見て、主を信じることができません。
主は憐れみ、トマスの前に現れ、見て触って信じなさいと促されます。
「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしの脇腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」(20:27)
主が人間であると同時に、神的な存在であることを感覚的にも確認します。

「私の主、私の神よ。」(20:28)
トマスは信じます。先にマグダラのマリアが「先生」と言ったのとは異なります。神的真理と神的善が結びつき、栄化されたことを認めました(AC2921:6)。
「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ないで信じる人たちは幸いです。」(20:29)

見て信じるのは、奇蹟を見て主の力を信じるのと同じです。奇蹟など感覚的に訴える信仰は、理性を麻痺させ、強制するからです。強制された信仰は、さらに刺激の強いものに出会えば、忘れてしまいます。しかし自由の内におかれて、人が理性的に考えた上で、自分で選択するなら、その選択は自分のものとなります。理性を使って考えた信仰は、その人のものです。(AC 7290:2)

質問と回答だけを記した問答は、たしかに信仰のきっかけにはなります。しかしそのとき、何故?どうして?と深く考えれば、理性的思考として残ります。その思考は、一生残り、様々な経験で役に立ちます。
「見ないで信じる人たちは幸いです。」とは、人間のそんな傾向についておしゃっています。

イースターの祝いは、主の復活の祝いです。しかし二千年前に主が復活されたと祝うだけなら、新たな刺激が出るとすぐ忘れ去って、信じない者となってしまいます。主の復活を深く考えることは、私達自身の復活を考えることです。どうすれば、何を信じて行えば、復活し、永遠の生命を得られるのか?永遠の生命とは何か?深く考え、新しい生命を知性で自分のものとすることがイースターの真の意味です。

マリアは、最初に主の蘇りに出会う光栄にあずかります。しかしマリアの理解は、主はまだ栄化された存在となってないので、「触ってはいけない。すがりついていてはいけない」と警告されます。マリアが聞くだけでなければ、ただ触るだけ、すがりつくだけでなく、主の傷も含めた真のお姿を見ることができたかもしれません。栄化された主のみ心に触れることができたかもしれません。

復活し、栄化された主は、万能の力をお持ちで、神の右の座につかれています。真理は善と結ばれなくてはなりません。私達の学ぶ真理も、行って善としなければなりません。知識ではなく、隣人に役立たねせなければなりません。隠れている弟子たちの元に行って、神的善となった主と会い、そこから聖霊をいただかなければ、主の本質である愛が見えません。信仰の真理を理解する力を、主ご自身に求め、理解して実行します。私達自身が復活の道、再生の道を進んでゆきます。

主イエスが、天地唯一の神となられたことを信じて、その主が与えられる真理を、主によって理解して実行するなら、私達はイエスの名によって再生し、永遠の生命を得ることになります。

これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるためであり、また信じて、イエスの名によっていのちを得るためである。(20:31) アーメン

詩編 <ダビデによる。賛歌。>
110:1 【主】は私の主に言われた。「あなたはわたしの右の座に着いていなさい。わたしがあなたの敵をあなたの足台とするまで。」
110:2 【主】はあなたの力の杖をシオンから伸ばされる。「あなたの敵のただ中で治めよ」と。
110:3 あなたの民はあなたの戦いの日に喜んで仕える。聖なる威光をまとって夜明け前から。あなたの若さは朝露のようだ。
110:4 【主】は誓われた。思い直されることはない。「あなたはメルキゼデクの例に倣いとこしえに祭司である。」
110:5 あなたの右におられる主は御怒りの日に王たちを打ち砕かれる。
110:6 国々をさばき屍で満たし広い地を治める首領を打ち砕かれる。
110:7 主は道の傍らで流れから水を飲まれる。こうしてその頭を高く上げられる。

ヨハネ福音書
20:1 さて、週の初めの日、朝早くまだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓にやって来て、墓から石が取りのけられているのを見た。
・・・
20:19 その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちがいたところでは、ユダヤ人を恐れて戸に鍵がかけられていた。すると、イエスが来て彼らの真ん中に立ち、こう言われた。「平安があなたがたにあるように。」
20:20 こう言って、イエスは手と脇腹を彼らに示された。弟子たちは主を見て喜んだ。
20:21 イエスは再び彼らに言われた。「平安があなたがたにあるように。父がわたしを遣わされたように、わたしもあなたがたを遣わします。」
20:22 こう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。
20:23 あなたがたがだれかの罪を赦すなら、その人の罪は赦されます。赦さずに残すなら、そのまま残ります。」
20:24 十二弟子の一人で、デドモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。
20:25 そこで、ほかの弟子たちは彼に「私たちは主を見た」と言った。しかし、トマスは彼らに「私は、その手に釘の跡を見て、釘の跡に指を入れ、その脇腹に手を入れてみなければ、決して信じません」と言った。
20:26 八日後、弟子たちは再び家の中におり、トマスも彼らと一緒にいた。戸には鍵がかけられていたが、イエスがやって来て、彼らの真ん中に立ち、「平安があなたがたにあるように」と言われた。
20:27 それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしの脇腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」
20:28 トマスはイエスに答えた。「私の主、私の神よ。」
20:29 イエスは彼に言われた。「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ないで信じる人たちは幸いです。」
20:30 イエスは弟子たちの前で、ほかにも多くのしるしを行われたが、それらはこの書には書かれていない。
20:31 これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるためであり、また信じて、イエスの名によっていのちを得るためである。

黙示録解説(AE) 419
[5]
ヨハネ福音書に
イエスは弟子達におっしゃった。「平安があなたがたにあるように。父がわたしを遣わされたように、わたしもあなたがたを遣わします。」こう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。」 (20:21, 22)
主が「息を吹きかけ、彼らに聖霊を受けなさい」とおっしゃったことは、エホバが「アダムの鼻にいのちの息を吹き込まれた」のと同じで、すなわち霊的生命を与えられたことです。なぜなら、聖霊は主から発する神的真理を意味し、ここから霊的生命が来ます。彼らが主から神的真理を教えなければならないことは、「父がわたしを遣わされたように、わたしもあなたがたを遣わします。」によって意味されます。なぜなら主がこの世にいらっしゃったときは、神的真理それ自体で、受胎のときから主の内にあった神的善から教えられました。この神性は主がここでそして他の箇所で「父」と呼ばれるものです、なぜなら、この世から出られたとき主は神的真理を内にある神的善と一つになるよう結ばれ、その時以来、神的真理は主から発していたので、「父がわたしを遣わされたように、わたしもあなたがたを遣わします。」とおしゃいます。呼吸の息が霊的生命を意味するのは相応から来ているためです(天界の秘義3883-3896参照)。霊界のすべての性質が、その単なる呼吸から来ていることは知られています。天界の呼吸の生命の内にいる者は、天使の間にいます。しかしその呼吸の内にいない者は、もし天界に来るなら、そこで息をすることが出来ず、窒息したように苦痛にあえぎます(天界の秘義1119, 3887, 3889, 3892, 3893参照)。この語の相応から、「インスピレーション・霊感」という語は来ており、預言者は「霊感を与えられる」そして御言葉は、「神的霊感を与えられたもの」と言われます。

パームサンデー

パームサンデー

なつめ椰子の枝を持って迎えに出て行き、こう叫んだ。「ホサナ。祝福あれ、主の御名によって来られる方に。イスラエルの王に。」(ヨハネ 12:13)

本日はパームサンデー、主のエルサレム入城の日です。これは主の復活の日、イースターのちょうど一週間前の日に設定されています。この週は過越の祭りの期間でもあり、当時は多くの人がエルサレムを訪れていました。
主がロバに乗って、エルサレムの門をくぐられ、多くの人が棕櫚の葉の枝を持って、大声で「ホサナ」と叫びます。まさに王の入城の光景です。

ホサナという語は、元はヘブル語で、「お救いください」を意味します。詩編118:25 で「ああ【主】よどうか救ってください」とあります。
当時の群衆は、救世主の出現を待ちに待っていました。その救世主が登場し、エルサレムで多くの民に迎えられるシーンは悦ばしく、主の地上の生涯のうちでも晴れがましい光景です。

人々は、主をどんな気持ちで迎えたのでしょうか?
ここにいる人達の多くは、ラザロの死からの蘇りを聞いて集まってきた人達と言われています。(12:17,18)

ラザロは、主に香油を塗り、髪の毛でその足をぬぐったマリアと、その姉妹のマルタの兄弟です(11:2)。
主はラザロを愛され(11:1-3, 5, 36)、主の友人であり(11:11)、主と同じ食卓についていました(12:2)。
しかし、金持ちの門前に「全身おできの貧しい人が寝ていて、金持ちの食卓から落ちる物で腹を満たしたいと思っていた。犬もやって来ては、彼のおできをなめていた。」(ルカ16:20-21)とも表現されています。
実在の人というより、何かが表象されています。ルカ書の表現を、天界の教えから読み解けば、「真理が豊富な教会からわずかな真理を学んではいるものの、信仰の純粋な真理にはおらず、教会の外にいて、善にいる者」(AC 9231:3)のことを言っています。

主を歓迎する人たちを、ラザロの表象から推測すれば、わずかな真理で善い生活を送っており、自らも蘇りたい、再生したいと望んでいる人たちのことが意味されています。彼らは霊的情愛の起源から真理を求めています。(AE 137:2)

しかし、そこには同じようにパリサイ人もいます(12:19)。彼らは、内心では主を否定し、足を引っ張りたいと願っている偽善的な人達です。彼らが主を迎えたとしても、内心は害を与えたいため機会をうかがっているに他なりません。

そして別の集団がいます。ギリシア人達です。「祭りのとき礼拝のために上って来た人々の中に、ギリシア人が幾人かいた。」(12:20)とあります。
彼らは、ユダヤ人ではなく、いわゆる異邦人と呼ばれています。ギリシア人は、ガリラヤ出身のピリポと、そこからアンデレを頼って、主に会いたいと願い出ます。
アンデレは天界の教えによれば、「信仰の従順」を意味します(AE821-3 )。そしてギリシア人たち異邦人は知的に優れています。アンデレが仲介したことから、知的な真理には、従順に従おうとする人達です。
本来はこのエルサレムにはおらず、他の地で生活していた人々、異邦人です。

アンデレがギリシア人達を主の前に連れてくると、驚くべきことが起こりました。
主イエスは彼らに答えて言われ「人の子が栄光を受けるその時が来た。」(12:23)と、切り出されたのです。ギリシア人たちは、ラザロの蘇りについて聞きたいと思っていたのでしょう。彼らにとっては寝耳に水のような話です。

しかし、主はこれからご自身が凄惨な試練に会うことを知って、その預言が始まります。たしかに、エルサレムで、主はパリサイ人やユダヤ教会の指導者の憎悪を受けています。隠れた憎しみと殺人の想いが、彼らから噴き出て、それを浴びせかけられています。直接、浴びせかけられた者にはよくわかる殺意と憎悪です。

この殺意と憎悪の渦巻く中、主は敢えてこの試練を進んで受けられようとされています。
天界の教えにも、「この種を入れないパンの祭り、あるいは過越が定められたのは、まさにこの試練を記念していたためで、この祭りにあって主は再び蘇られます」(AC 10655:3)と教えています。この祭り自体が、主の最後の試練のために定められていたのです。

ご自身も『父よ。この時からわたしをお救いください』と言おうか。いや。このためにこそ、わたしはこの時に至った (12:27) と、これから起こる試練のまさに最中であることを主は明らかにご存じでした。

教義を意味するエルサレムで、ギリシア人で表される異邦人が、内的真理である主を求めてきたことが、この試練の始まりです。主が世に来られた目的は、異邦人達の中に新しい教会を設立し、すべての人を救うことでした。異邦人の中への新しい教会の設立は、異邦人へのご自身の試練と、栄化の「宣言」から始まったことになります。

とすれば、エルサレム入城は、王の歓迎の行事だけではなく、主の試練の始まりであると同時に、私達も試練を経て、同じように再生しなければならないことを告げる教えの始まりです。

しかし異邦人は、奇蹟を起こした主に会いたいという、知的興味に未だ留まっています。彼らには内的真理を説き、知的興味だけではなく、自分から行動することが重要だと明らかにされます。

「自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世でそのいのちを憎む者はそれを保って永遠のいのちに至るのです。わたしに仕えるというのなら、その人はわたしについて来なさい。わたしがいる所に、わたしに仕える者もいるべきです。」(12:25,26)

これはギリシア人達や当時の人達や弟子たちだけではなく、自分の内に教会を持っていない、あるいは、真理を実行しようとせず教会を持っていない異邦人である、私達への言葉です。私達が新しい生命を得るために何をすべきかを教えられています。その言葉の内意は、実に強烈です。天界の教えから学びます。

主は「人が祝福され、幸福になるために、完全服従を望まれ」(AC 6138:2)ます。
完全服従です。完全服従と言われると、「ちょっと私には会わない、無理かな?」と多くの人の腰が退けてしまいます。何十年か前、米のネット論議に参加したことがあり、この「完全服従」という言葉が出てきて、多くのキリスト教徒、それも新教会の方々が拒否反応をしている様子を数多く見ました。当時は、そういう段階の人が多いのだと驚いたものです。

自分のものを捨て、主に従わなければならないと聞くと、現代の全体主義国家や、金と権力だけが目当ての偽宗教を連想します。そのため拒否反応を示したのかもしれません。しかし主は、パリサイ人達のように嘘をつかれない、真実な方です。私達もそれが真実の教えであることを、何年も学び知っています。信仰とは、心の中でそれは真理だと確信し行うことです。心で確信したのに、行わなければ、信仰とはいえません。単なる知識です。主は、異邦人である私達に、信じて行え、覚悟して着いてこい、と強くお奨めになっています。

主はご自身が、天地の神である存在のはずですが、当時の宗教的権威から心身とも徹底的に否定されるという十字架の試練に入ります。天界の教えの表現によれば、天使を含めて、誰一人として主を助けようとする者はいませんでした。逆に反対側にまわります。そして一人で凄惨な試練を闘われます。

主が試練を通られたのと同じように、私達も自己愛である、自分の生命を捨てよと、行動を促されます。
「主の後を追い、主に従う」とは、自分自身を否定することです。自分を否定するとは、自分ではなく主によって導かれることです。そして悪を断ち、それは罪であるから顔を背けることが、自分を否定し、主によって導かれることです。(AE 864:5)

私達も日々の生活の中で、自分は正しく、もっと尊重されるべきだ、と考えることがよくあります。もっと自分が活躍する場があっていいはずだ、自分の栄光は正当な報酬だという思いが心をよぎります。
しかしこれは地獄からの声に他なりません。自分自身には優しい声です。ここで主を見上げ、それは悪と気づき、その悪を罪として顔を背けるなら、地獄の声ではない別の声が聞こえてきます。

「わたしは栄光をすでに現したし、またもう一度栄光を現そう。」(12:28)
主が「父よ。御名の栄光を現してください。」と祈った時に聞こえる天から声です。
私達がここで自分の悪を避けるなら、私達にも天の声が聞こえます。

主はおっしゃいます。
「この声が聞こえたのは、わたしのためではなく、あなたがたのためです。
今、この世に対するさばきが行われ、今、この世を支配する者が追い出されます。わたしが地上から上げられるとき、わたしはすべての人を自分のもとに引き寄せます。」(12:30-32)

私達が、地獄からの声、悪魔のささやきを拒むことができたなら、それがこの世に対する裁きとなります。この世を支配している者は、私達の内から追い出されます。私達には天界の教え、新教会の教えがあるはずです。そしてそれは、内的真理の教えです。これが私達の内にあって堅く根付いている限り、私達にも内的な天の声、良心の声が聞こえてきます。

内的真理が私達の内にあり、その声が聞こえている内に、主の純粋な真理を行わなければなりません。
「あなたがたは光があるうちに歩きなさい。闇の中を歩く者は、自分がどこに行くのか分かりません。自分に光があるうちに、光の子どもとなれるように、光を信じなさい。」(12:35,36)
光があるうちに歩けとは、真理に従って生きてゆけということです。真理を行えということです。学んだ真理を行わなければ、光の子にはなれません。

しかし、光の子になれなければ、主は姿を隠されてしまいます。
「これらのことを話すと、立ち去って彼らから身を隠された。イエスがこれほど多くのしるしを彼らの目の前で行われたのに、彼らはイエスを信じなかった。」(12:37)

私達から神的真理は消えてしまいます。私達がこれほど多くの神的真理を学んでいても、行わなければ、主は立ち去り、身を隠されてしまいます。
それは私達が、「神からの栄誉よりも、人からの栄誉を愛する」(12:43)ためです。

実に的確なご指摘です。心静かに自分を反省して点検すると、「神からの栄誉」を気に掛けず、いつも「人からの栄誉」を愛して生きていることに気づきます。

しかし主は、私達への慈しみから、再び姿を現され、叫ばれます。
イエスは大きな声でこう言われた。「わたしを信じる者は、わたしではなく、わたしを遣わされた方を信じるのです。」(12:44)

主は「世をさばくためではなく、世を救うため」(12:47)に世にお越しになりました。
しかし、主が天地の神ご自身であることを学びながら、その主の命令を聞かなければ、主の御言葉自体が私達を裁きます。主の命令を神の命令と知りながら拒んだことを裁きます。(12:48)

私達は、この輝かしい日、パームサンデー、が私達自身の裁きの日の始めとならないようにしなければなりません。主は天地の神であり、すべての生命は主からきており、主のみがすべてを支配されています。私達はこれを心に確信し、その御言葉を行います。悪を主に対する罪として拒みます。これが真の主のエルサレム入城です。私達のエルサレムの中で、主は真の王となられます。

「ホサナ(お救いください)。祝福あれ、主の御名によって来られる方に。イスラエルの王に。」(ヨハネ 12:13)アーメン。

【新改訳2017】
出エジプト記
34:18 あなたは種なしパンの祭りを守らなければならない。アビブの月の定められた時に七日間、わたしが命じた種なしパンを食べる。あなたはアビブの月にエジプトを出たからである。
詩編
118:14 【主】は私の力またほめ歌。主は私の救いとなられた。
118:15 喜びと救いの声は正しい者の幕屋の内にある。【主】の右の手は力ある働きをする。
118:16 【主】の右の手は高く上げられ【主】の右の手は力ある働きをする。
118:17 私は死ぬことなくかえって生きて【主】のみわざを語り告げよう。
118:18 【主】は私を厳しく懲らしめられた。しかし私を死に渡されはしなかった。
118:19 義の門よ私のために開け。私はそこから入り【主】に感謝しよう。
118:20 これこそ【主】の門。正しい者たちはここから入る。
118:21 私はあなたに感謝します。あなたが私に答え私の救いとなられたからです。
118:22 家を建てる者たちが捨てた石それが要の石となった。
118:23 これは【主】がなさったこと。私たちの目には不思議なことだ。
118:24 これは【主】が設けられた日。この日を楽しみ喜ぼう。
118:25 ああ【主】よどうか救ってください。ああ【主】よどうか栄えさせてください。
118:26 祝福あれ【主】の御名によって来られる方に。私たちは【主】の家からあなたがたを祝福する。
118:27 【主】こそ神。主は私たちに光を与えられた。枝をもって祭りの行列を組め。祭壇の角のところまで。
118:28 あなたは私の神。私はあなたに感謝します。あなたは私の神。私はあなたをあがめます。
118:29 【主】に感謝せよ。主はまことにいつくしみ深い。その恵みはとこしえまで。

ヨハネ福音書
12:12 その翌日、祭りに来ていた大勢の群衆は、イエスがエルサレムに来られると聞いて、
12:13 なつめ椰子の枝を持って迎えに出て行き、こう叫んだ。「ホサナ。祝福あれ、主の御名によって来られる方に。イスラエルの王に。」
12:14 イエスはろばの子を見つけて、それに乗られた。次のように書かれているとおりである。
12:15 「恐れるな、娘シオン。見よ、あなたの王が来られる。ろばの子に乗って。」
12:16 これらのことは、初め弟子たちには分からなかった。しかし、イエスが栄光を受けられた後、これがイエスについて書かれていたことで、それを人々がイエスに行ったのだと、彼らは思い起こした。
12:17 さて、イエスがラザロを墓から呼び出して、死人の中からよみがえらせたときにイエスと一緒にいた群衆は、そのことを証しし続けていた。
12:18 群衆がイエスを出迎えたのは、イエスがこのしるしを行われたことを聞いたからであった。
12:19 それで、パリサイ人たちは互いに言った。「見てみなさい。何一つうまくいっていない。見なさい。世はこぞってあの人の後について行ってしまった。」
12:20 さて、祭りで礼拝のために上って来た人々の中に、ギリシア人が何人かいた。
12:21 この人たちは、ガリラヤのベツサイダ出身のピリポのところに来て、「お願いします。イエスにお目にかかりたいのです」と頼んだ。
12:22 ピリポは行ってアンデレに話し、アンデレとピリポは行って、イエスに話した。
12:23 すると、イエスは彼らに答えられた。「人の子が栄光を受ける時が来ました。
12:24 まことに、まことに、あなたがたに言います。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままです。しかし、死ぬなら、豊かな実を結びます。
12:25 自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世で自分のいのちを憎む者は、それを保って永遠のいのちに至ります。
12:26 わたしに仕えるというのなら、その人はわたしについて来なさい。わたしがいるところに、わたしに仕える者もいることになります。わたしに仕えるなら、父はその人を重んじてくださいます。」
12:27 「今わたしの心は騒いでいる。何と言おうか。『父よ、この時からわたしをお救いください』と言おうか。いや、このためにこそ、わたしはこの時に至ったのだ。
12:28 父よ、御名の栄光を現してください。」すると、天から声が聞こえた。「わたしはすでに栄光を現した。わたしは再び栄光を現そう。」
・・・
12:43 彼らは、神からの栄誉よりも、人からの栄誉を愛したのである。
12:44 イエスは大きな声でこう言われた。「わたしを信じる者は、わたしではなく、わたしを遣わされた方を信じるのです。
12:45 また、わたしを見る者は、わたしを遣わされた方を見るのです。
12:46 わたしは光として世に来ました。わたしを信じる者が、だれも闇の中にとどまることのないようにするためです。
12:47 だれか、わたしのことばを聞いてそれを守らない者がいても、わたしはその人をさばきません。わたしが来たのは世をさばくためではなく、世を救うためだからです。
12:48 わたしを拒み、わたしのことばを受け入れない者には、その人をさばくものがあります。わたしが話したことば、それが、終わりの日にその人をさばきます。
12:49 わたしは自分から話したのではなく、わたしを遣わされた父ご自身が、言うべきこと、話すべきことを、わたしにお命じになったのだからです。
12:50 わたしは、父の命令が永遠のいのちであることを知っています。ですから、わたしが話していることは、父がわたしに言われたとおりを、そのまま話しているのです。」

黙示録解説864
[5]福音書に、
「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、そしてわたしについて来なさい。」
(マタイ 16:24; マルコ8:34; ルカ 9:23)とあります。

「主の後をついてゆき、主に従う」とは結局、自分自身を否定することです;そして自分自身を否定するとは、自分ではなく主によって導かれることです;そして自分を否定するとは、悪を断ち、悪を罪として顔を背けることで、悪から顔を背けたとき、主から導かれることになります。なぜならそのとき彼は主の命令を、自分からではなく、主から行うからです。「主に従う」とは他でも同じ意味を持ちます。
(マタイ19:21, 28; マルコ 2:14, 15; 3:7, 8; 10:21, 28, 29; ルカ 18:22, 28; ヨハネ 12:26; 13:36, 37; 21:19-22).

黙示録解説137
[2]「アンテパス、私の忠実な証人」は主の神的人間を認めた嫌われた人達のことが意味され、当時アンテパスはそういう理由で虐殺されたためです。そのため「アンテパス」は、そういう理由で嫌われることが意味されます。
「ラザロ」は金持ちの門にいて、その食卓からのパンくずで養われたいと願ったように、彼らが霊的情愛から真理を求めたために主が愛された者達のことを意味します。主が「ラザロ」という名の者を愛されたのは、主が彼を死から蘇らせた(ヨハネ11:3, 5, 36)、主と食卓に共に着いたこと(〃12章)そして金持ちの食卓から落ちるパンくずによって養われたいと願う者、これによって霊的情愛から真理を求める者が、主によって「ラザロ」と呼ばれました。
ラザロがそういう理由で名付けられたため、「アンテパス」も主の神的人間を認めたため、主の御名の殉教者とされます。

そのぶどうの木には三本のつるがあった。それは、芽を出すと、すぐ花が咲き、房が熟してぶどうの実になった。(40:10)

世は桜が満開で咲き誇り、コロナで閉ざされた人の心を開き始めています。マスコミが桜の開花前線や、開花情報を告げる度に、人は今年も桜の時期がやってきたと、安堵し、雨風によって桜が散らされないか心配します。そして桜の開花とともに、万物が活動を始め、長く暗い冬の終わりと、明るく暖かい春の初めを告げてくれます。

「今年もまた桜が咲いてくれた」、とこの時期になると毎年歓び、ともに学校や会社の新年度の始まりを迎え、自然の恵みに感謝します。これが典型的な日本人の春の迎え方です。
しかし、天界の教えは、それは違うといいます。これは自然の力にすべてを帰す者の考え方だとします。ここで、それは神の御業であると、口を挟めば、お説教が始まった、気が利かない奴と評価されます。しかし、同時に、死んだ後、自分はどうなるのだろうか、天国と地獄があるなら、自分はどちらに行くのだろうかと矛盾に満ちた悩みを口にします。矛盾に満ちているのが人間だと、悟った言い方をする人もいますが、問題はそこにはありません。すべての事象を神に帰するか、あるいは自然の力に帰し、あるいは周りの人に同調してしまうかです。神を大切にしているか、世あるいは自然を大切にしているかの問題に帰着します。

神様の立場から考えれば、あらゆる人間に、見る、聞く、嗅ぐ、味わう、触るという五感を与え、全宇宙に五感の対象も無限に与え、そしてその全てが、神が居て、私達を愛していると教えているのに、何故わかろうとしないのだろうか?さらに、神ご自身がこの宇宙のはるか片隅の地球に人間として生まれ、人それぞれに、今、現在も豊かな流入を与え続けているのに、なぜそれに気づかず、拒んでしまうのだろうか?とおっしゃっているかもしれません。
そして、人は、自分は神を信じて真面目にやっているはずなのに、自分には何も与えられず不幸なんだろうかと嘆き続けます。

神様がいくら種を蒔いても、花を咲かせず、実を結ばず、荊棘(けいきょく)しか育たないなら、なんと虚しいことでしょうか。しかし、それでも主は諦めることなく、無限の慈しみを与え続けておられます。私達は、その慈しみに気づき、本来の人間の成長に戻らねばなりません。

神様が絶えず流入を与え続けていること、そしてそれを拒んでいるのは私達自身であることに気づきます。これが現状認識のための第一歩です。これを知らなければ、私達は不満を言い続けるしかありません。そしてこの現状認識を進めるための道具が、「相応」と「度」という概念です。聖書の神の御言葉は、すべてこの相応という道具によって書かれているため、この相応を知らなければ、聖書が全く理解できません。神の御言葉は、天使にも、そして同時に私達にも書かれています。

人間と天使は、「度」が違います。そして天使の間にも三つの「度」の違いがあります。「度」とは私達の尺度では、高さの次元のイメージです。神様はすべて平等に与えられますが、私達が受け取るのは、私達の理解の程度に応じます。

高い度と低い度があります。神様は高い度・次元にいらっしゃいます。神様と私達の「度」の差は、無限大です。天使の理解でさえ、はるかに超える、高い度におられます。一番低い度・次元にいる天使でさえ、私達とは、かなりの差があります。なぜなら、天使の世界には、時間と空間がないから、時間と空間の束縛を離れているからです。

私達はこの時間と空間から、多くの概念を得ていますが、天使達はこの時間と空間の概念がない世界で自由に生きているため、なかなか話が通じません。しかしこの次元の高さの差を超えて、結びつけている仕組みが、「相応」です。私達の言葉から、時間と空間を除くと、一番低い天使達の言葉に近くなります。ただし、相応は主からの啓示によらず、私達が勝手に解釈すると、魔法と言われる、偽りと悪の源になってしまいます。

本日の創世記第40章の話に帰ります。ヨセフはエジプト王の侍従長に仕えますが、侍従長の妻に濡れ衣を着せられてしまい、侍従長の監獄に入れられます。するとエジプト王の二人の臣がエジプト王に罪を犯したとして、同じ牢獄につながれます。二人の臣下とは、王に酒をつぐ献酌官長と、王の料理を作る料理官長です。これらの話は実際に起こったことですが、同時に全く違う意味を持っています。その深い意味は、さきほど離した相応の啓示によって解釈してゆきます。なぜこんな面倒なことをするのか?と思う方もいらっしゃるでしょうが、遥かに遠い次元におられる神様と、天界の天使達すべてに語るための表現は、相応しかないのです。

その相応を与えられた啓示によって解釈すれば、王に罪を犯すとは、王の作った秩序に違反したことを意味します(AC5076)。エジプト王とは、自然的な世界を支配する秩序です。

献酌官と料理官は、自然的なものに仕える感覚的部分が意味されます。二人とも王の臣下で、飲み物と食べ物に関係しているからです。人間の能力は、知的なものと、意志的なものの二つにわかれます。人間の感覚にも、知的なものと、意志的なものがあり、知的なものが献酌官として表され、意志的なものが料理官長として表されています。

献酌官は、ぶどう酒を王に注ぐ官職であり、ぶどう酒は王に仕える感覚的部分の内、飲み物に関係し、飲み物は栄養を血液として身体中に行き渡らせので、知的なものとされています。料理官は王の食事を作り、栄養を直接与えるので、意志的なものとされます(AC5094)。

献酌官と料理官の働きは、食事と飲み物の養分を自然的なものに伝える重要なもので、彼らがその職を果たさなければ、自然的な感覚は正常に働きません。自然的な感覚が正常であれば、その上の合理的なもの、さらに上の霊的なもの、そして天的なものと、より高いものに仕えることが出来ます。
献酌官と料理官が罪を犯したとは、感覚的なもののせいで、迷いや偽りが混じり込んだため。より高いものに仕えることができなくなったことが意味されます。そして獄につながれるとは、偽りにとらわれることです。どんな迷いと偽りが混じり込むのでしょうか?

天界の教えという啓示には、感覚的な偽りの例が上げられています。
太陽と星が地球を回っているように見える前時代の天動説のたとえ。次には、物質は単一な原子から出来ているというやや近代的な錯覚です。現代の科学は、原子は陽子と中性子から構成され、さらにより複雑な素粒子からできていると発見され、単一な原子などではないことがわかっています。

さらに大きな錯覚と偽りが次々と啓示されています。
肉体だけが生きていて、霊の存在を認めない考え方や、人間と動物は同じような存在であるという考え方。生命はそれぞれが持っているもので、肉体の生命が終われば、全ては終わる。結婚は単なる地上の便宜的な制度にしかすぎないという考え方。善はその人の功績である。人は信仰だけで救われる等(AC5084)、数限りなくあります。そしてその錯覚や偽りは私達の生活に、大きな問題をもたらしています。これら偽りに囚われている限り、私達は大きな牢獄にいます。

この偽りに囚われているのは、私達を偽りのうちにと留めて置きたいという地獄の勢力の影響と、私達があえてそれを知ろうとしない、という理由があります。すべてを自然の力にして、神の力と考えさせない、私達の姿勢と、それを利用しようとする勢力がいます。
私達に絶えずある主からの光である知性と知恵の流入が、これらの勢力によって阻まれるため起こります(AC5092)。これだけ豊かな証拠があるのに、私達は目を背けています。

現代でも解決できていない大きな偽りに囚われず、私達が再生できる可能性があるのかどうかが、ヨセフの夢の解釈によって、主が予見されています。ヨセフの夢の解釈という予見によれば、献酌官は、元の職に戻されることはできるが、料理官は木につるされるという結果です。この結果だけを、勘弁な書にして提供しようとする方もいらっしゃいますが、それはごく一時的な効果しか生まず。私達の囚われ自体はさらに続きます。私達は、合理的な人間とならなければなりません。相応の喩えでいえば、ヨセフを牢獄から解放しなければなりません。

主は、ヨセフの見た夢の解釈を通して、私達が再生される条件を提示されています。
まず、献酌官である私達の感覚的なもののうち知性的なものが、再生されるには、知性によって自分の感覚的な偽りを従わさなければなりません。無理やり偽りを信じ込んでしまうこと、さらに欺瞞と冒瀆は、合理性との交流を妨げます(AC5128)。自分で自分の心を欺き、自分を無理に正当化するのが自己欺瞞です。そして偽りと真理と、悪を善と混同するのが冒瀆です。素直な心を持っていたとしても、この欺瞞と冒瀆によって、自分の心と理解をねじ曲げてしまいます。合理性と交流できなくなると、感覚的にとどまり、この感覚的なものの支配があるうちは、知性によって自分を従わすことができません。

しかし、合理性と交流することで、自分の感覚を従わせることができるなら、私達は感覚的な人間ではなく、合理的に正しい考え方ができるようになります。上の偽りの例でいえば、肉体だけが自分ではなく、霊として永遠に生きる自分がいる、そして結婚は神聖であり、肉欲や自分勝手な考えでそれを汚してはならない、善は自分のものではく、主の御業を私達が行う事であり、善は行っても、そこ功績はすべて主のものである。そして人は信仰だけではなく、正しい行いによって救われる。感覚的な偽りによって囚われなければ、私達は主に結びつくことができます。私達は安易な回答だけをカンニングしてのぞき見するのではなく、地道に合理的能力を養わなければなりません。主の門である、合理的能力の育成を行わず、門を通り越してやってくる盗人(ヨハネ10:1-2,8-10)になってはなりません。

主はぶどうの木、わたしたちは枝です。人が主にとどまり、主がその人にとどまっているなら、その人は多くの実を結びます。主を離れては、私達は何もすることができません。(ヨハネ15:5改)
主との結びつきを絶やさないことが、合理性獲得のための大きな要件です。

一方、料理官は、感覚的なもののうち意志的なものを意味しています。料理官の見た夢は、頭の上に三つの籠があり、鳥がやってきて籠の穴から食べ物をすべて食べてしまいます。三つの籠は、私達の心の中にあるより高い度の意志部分を意味します。食べ物は、主から流入してくる善です。三つの度のどこかで主から流入する善を受け止め、自分のものとすることができれば、主の善を私達のものとすることができます。鳥は悪からくる偽りです。悪から偽りが、主からやってくる善を、すべて食べて無くしてしまえば、私達に残される善は一つもありません。主からの善がなくなれば、再生されるのは不可能です。悪からくる偽りとは、憎しみや復讐、報復や嫉妬、さらには自己愛や世間愛の楽しさであり、主から流入してくる善を消耗させ、消滅させてしまいます。

主は私達の再生に向かう姿を予見され、意志的なものが、感覚的なものに生きていると、再生は不可能と予見されました。
しかし、もし、私達が感覚的なものを知的に克服して、合理性のもとに従わせることができるならば、
私達の内にある「度」は、正しく上の次元の「度」に相応することが可能になります。
正しい相応があれば、主からの流入を無垢の心で、受け入れることができます。

そうすれば、私達はファラオの誕生日の祝宴に呼び戻され、献酌の職務を全うすることができることになります。ファラオの誕生日の祝宴とは、私達の再生のことです。

そうして献酌官長をその献酌の役に戻したので、彼はその杯をファラオの手に献げた。(40:21)
アーメン

創世記
40:1 これらのことの後、エジプト王の献酌官と料理官が、その主君、エジプト王に対して過ちを犯した。
40:2 ファラオは、この献酌官長と料理官長の二人の廷臣に対して怒り、
40:3 彼らを侍従長の家に拘留した。それは、ヨセフが監禁されているのと同じ監獄であった。
40:4 侍従長がヨセフを彼らの付き人にしたので、ヨセフは彼らの世話をした。彼らは、しばらく拘留されていた。
40:5 さて、監獄に監禁されていた、エジプト王の献酌官と料理官は、二人とも同じ夜にそれぞれ夢を見た。その夢にはそれぞれ意味があった。
40:6 朝、ヨセフが彼らのところに来て、見ると、彼らは顔色がすぐれなかった。
40:7 それで彼は、自分の主人の家に一緒に拘留されている、このファラオの廷臣たちに「なぜ、今日、お二人は顔色がさえないのですか」と尋ねた。
40:8 二人は答えた。「私たちは夢を見たが、それを解き明かす人がいない。」ヨセフは言った。「解き明かしは、神のなさることではありませんか。さあ、私に話してください。」
40:9 献酌官長はヨセフに自分の夢を話した。「夢の中で、私の前に一本のぶどうの木があった。
40:10 そのぶどうの木には三本のつるがあった。それは、芽を出すと、すぐ花が咲き、房が熟してぶどうの実になった。
40:11 私の手にはファラオの杯があったので、私はそのぶどうを摘んで、ファラオの杯の中に搾って入れ、その杯をファラオの手に献げた。」

・・・・
40:16 料理官長は、解き明かしが良かったのを見て、ヨセフに言った。「私の夢の中では、頭の上に枝編みのかごが三つあった。
40:17 一番上のかごには、ファラオのために、ある料理官が作ったあらゆる食べ物が入っていたが、鳥が私の頭の上のかごの中から、それを食べてしまった。」
40:18 ヨセフは答えた。「その解き明かしはこうです。三つのかごとは三日のことです。
40:19 三日のうちに、ファラオはあなたを呼び出し、あなたを木につるし、鳥があなたの肉をついばむでしょう。」
40:20 三日目はファラオの誕生日であった。それで彼は、すべての家臣たちのために祝宴を催し、献酌官長と料理官長を家臣たちの中に呼び戻した。
40:21 そうして献酌官長をその献酌の役に戻したので、彼はその杯をファラオの手に献げた。
40:22 しかし、料理官長のほうは木につるした。ヨセフが彼らに解き明かしたとおりであった。
40:23 ところが、献酌官長はヨセフのことを思い出さないで、忘れてしまった。

ヨハネ福音書
15:1 わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫です。
15:2 わたしの枝で実を結ばないものはすべて、父がそれを取り除き、実を結ぶものはすべて、もっと多く実を結ぶように、刈り込みをなさいます。
15:3 あなたがたは、わたしがあなたがたに話したことばによって、すでにきよいのです。
15:4 わたしにとどまりなさい。わたしもあなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木にとどまっていなければ、自分では実を結ぶことができないのと同じように、あなたがたもわたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。
15:5 わたしはぶどうの木、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人にとどまっているなら、その人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないのです。

10:1 「まことに、まことに、あなたがたに言います。羊たちの囲いに、門から入らず、ほかのところを乗り越えて来る者は、盗人であり強盗です。
10:2 しかし、門から入るのは羊たちの牧者です。
10:8 わたしの前に来た者たちはみな、盗人であり強盗です。羊たちは彼らの言うことを聞きませんでした。
10:9 わたしは門です。だれでも、わたしを通って入るなら救われます。また出たり入ったりして、牧草を見つけます。
10:10 盗人が来るのは、盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするためにほかなりません。わたしが来たのは、羊たちがいのちを得るため、それも豊かに得るためです。

天界の秘義5116. アルカナ訳
「花が咲き」とは、再生に近い状態を指します。「花」は、実りを前にして樹木から咲き出るもので、再生前の状態を意味します。樹木が生長し実を結ぶようになることは、5115節ですでに触れたように、人の再生を表象的にあらわします。第一には、葉が茂る状態であり、第二には、花が咲く状態、すなわち再生間近の状態であり、第三には、再生の状態自身である実を結ぶ状態です。
したがって、「葉」は、理知にかんすること、すなわち信仰の諸真理を指します(885節)。これは生まれ変わり、すなわち再生の当初です。「花」は、英知にかんすること、すなわち信仰の善を意味します。これは生まれ変わり、すなわち再生直前の状態です。「実り」は、〈いのち〉にかんすること、すなわち仁愛の行いを指し、それに続いて再生した状態そのものを構成します。

② 以上は霊界からの流入で、植物界に実在します。ところが万事を神のおかげにしないで、自然のおかげにする人は、これを信じるなど全く不可能です。それにたいし、万事を神のおかげとし、自然のおかげにはしない人は、個々のものが神に由来することを見通すことができます。神由来を認めるだけでなく、個々のものが相応し、相応しているからこそ、表象的にあらわしていることを見通すことができます。
さらにはやがて、全自然宇宙が神のみ国の表象的舞台(ステージ)であることを知ります。その結果、個々の中に神が存在すること、しかも永遠と無限を表象していること、永劫(えいごう)にまで繁殖する点では永遠であり、タネが無限に増殖する点では無限であることを表象します。このような推進力 conatus は、神性のたえざる流入がなかったら、植物界の個々のものに内在するはずはありません。流入が起源になって推進力があり、推進力が起源で活力があり、活力が起源で結果が生まれます。

悪を行う者はみな、光を憎み、その行いが明るみに出されることを恐れて、光の方に来ない。ヨハネ3:20

パリサイ人のニコデモというユダヤの教師が、夜に主を訪れます、
彼は主の行った奇跡を見て、神的なものを感じましたが、自分の立場を考えたのか、夜、密かに主を訪れました。
主はニコデモを通じて、ユダヤ教会へ光をあてるメッセージとともに、わたしたちにも重要な教えを説かれます。
この言葉で、夜の状態であったユダヤ教会の指導者を、光の方、真理へと導きます。
「人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」(3:3)

神の国と、新しく生まれ変わるという二つです。ニコデモが特に驚いたのが、「新しく生まれ変わる」という教えでした。私たちの宗教的概念としても、「再生」という言葉があります。しかし、再生ということを、どの程度知り、どの程度、真剣に再生を求めるかは、人によってそれぞれ異なります。

再生を知るためには、今、私たちがどういう状態にあるのか、そして神の国とはどういうところか、そして再生して神の国に入るためには、どうしなければならないのでしょうか?この三つを学ばなければなりません。

今、私たちはどういう状態にあるのでしょうか?
自分は、犯罪者ではないし、会社などの共同体や、隣近所、学校の同級生達と比べると、キリスト教に興味をもって、時々教えに耳を傾け、聖書も読んでいる、まあまあの状態かな?そして、ふと思いつく、「あの人」よりはましと考える人が多いかもしれません。このままこの世を去り、霊界に行けば、そこでさらに教えられるとも聞いているし、まあ、なんとかなるだろう・・・。

これに対しては、「そうだといいですね」としか言いようがありません。人が人の内心まで判断することは、許されていないからです。
例えば、世界を戦争に巻き込んだ悪人達や、人の悪口しか言わず、悪意を周りにふりまく人の外面の悪は判断できます。犠牲者も証言してくれます。しかし、他人には厳しいが、自分には甘いという人の傾向を知っておかなければなりません。人には、自分の悪や偽りには目を閉じる傾向があります。本人自身は、言い訳を集めて、自分は悪人ではないと言い張ることさえできます。但し、被害者のほうは、本人よりもよくその意識を心に留め続けています。

さらに問題なのが、人の内心の中にあって決して外には出ないが、自由になると一挙に燃え上がる悪です。
霊界では自分の思いは隠せません。そして、世の法律や、人の目など、束縛する物は何一つありません。欲しいと思う想いはすべて口に出ます。異性でも、支配する部下でも、権威でも、思いは周りに伝わります。
もし、それがすべて手に入るなら、まさに「天国」です。但し、霊界には他の霊も大勢いて、同じ好みの霊が同じ所に集まります。過去に死んだ霊も集まります。同じような愛を持つ霊の中で、一定の自由が与えられます。その一定の自由の中で、自分が何をするか想像することができますか?・・・・・

歯止めがなければ、「自由」の中、一番愛するものの中に突入してゆきます。自分を含め、それを阻むものが全く無いからです。進むところは、自分と同じような好みを持つ霊がいて、同じ対象に集まります。何の遠慮も、拘束もありません。そして求める対象が限られていれば、おそらく奪い合いになります。他の霊への思いやりなどなく、自分の求めるものにしか興味がないからです。そして手にいれるための争いが始まります。歯止めがないので、手に入れるために熾烈な争いが始まります。

しかし、もし他への思いやりがあるなら、神の御国である天界を見ることができます。同じような天使のような霊が集まるからです。

「肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です。」(3:6)ともおっしゃっています。 
私たちが生まれた時は「肉」の身体でした。しかし、ここで「肉」とおっしゃっているのは「肉体」という意味だけではありません。「肉」とは「自分自身のもの」を意味します(AC 8409:3)。
自分自身のもの、自分自身が求めるものにしか興味がないのであれば、その人や霊は、「肉」と言われます。ここで言われている、「霊」ではありません。自分自身にしか興味がないなら、奪い合いになって、「神の国に入ることができません」(3:5) 。
自分だけが救われて、天界に入りたいと願うなら、それも変わりありません。自分自身の救いだけにしか興味がなく、もし天界の門があれば、自分だけが入りたいと願います。他が入るのを許そうとしなければ他を押しのけて入ることになります。人から救いを奪います。

自分の興味の対象が自分自身だけなのか、どうか、これは自分にしかわかりません。また、自分にもわからない場合もあります。しかし、歓びを生む物が自分の愛するものであり、自分が何に歓ぶかを注意して見続けていると、気づくときがあります。

悪が許されるのは、自分の悪に気づくためです。自分がその悪に歓ぶなら、自分は悪を愛しています。
例えば。身近な話題で、戦争があったとします。
攻撃側であっても、防御側であっても、誰かが傷つき、命を奪われるのを歓ぶなら、それはやはり殺し傷つけるという悪を愛していることになります。
私も、侵略した側に大きな損害が出たことに歓ぶ自分に気づきました。自分も正義の味方の仮面をかぶり、悪を愛しています。自分が「肉」に留まる存在であるかどうか、自分で見極めなければなりません。悪が許されているのは、自分の悪に気づくためだからです。

「水と御霊によって生まれなければ、神の国に入ることが出来ません」(3:5)。
「水」は御言葉から得た信仰の真理を、「霊」とはこの真理に従って生きることで、「生まれる」とは再生することです(AC10388)。
「信仰の真理」は人を殺してはならない、人から奪ってはならないなど、人が行ってはならないことを教えます。また「父と母を尊べ」、あるいは「何事でも、自分にしてもらいたいことは、ほかの人にもそのようにしなさい。」(マタイ7:12)と、行わなければならないことも教えます。

「霊」はこの真理に従って生きることです。人を殺すのを歓ぶなら、まだ「霊」によって生まれていません。知っていて行わないなら、それも真理を尊ばないということで、同じです。自分がしてもらいたくないことを、他の人にも常に行わなければ、「水と霊によって生まれる」ことになります。

私たちは、思っているよりはるかに肉の影響が強く、なかなか水と霊によって生まれかわれるまで、進めません。
例えば、自分に不利なことを行う人には、その人が痛い目に遭ったり、罰されたりすることをどこか心の奥底で望んでいます。また戦争で、侵略側が、厳しく罰されることを望みます。昔、我が国が侵略側であったことを忘れています。侵略側にも無理やり徴兵され、どこに派遣されるかもわからず、欺されて死んでいった人のいることを昔の教訓から学んだはずが、すべて忘れています。
これでは自分が霊によって生まれるどころではありません。自分の心の暗闇の深さがわかりました。

絶望的な状況の中で、聖書をひもとき、主からのメッセージを受け取ります。
「人にはできないことが、神にはできるのです。」(ルカ18:27) 「見よ。わたしは、すべての肉なる者の神、【主】である。わたしにとってできないことが一つでもあろうか。」(エレミヤ32:27)
「神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。」(3:17)

これは私たちへの純粋な主の慈悲です。再生は私達の自分の力でできるものではありません。「自分の再生はどの程度進んでいるか?」と口にする方がいらっしゃいますが、それは大きく誤っています。これは自分を点検したことがない方の言葉です。点検すればするほど、自分の闇がまだまだ深いということしかわかりません。天界の教えにも、自分が再生する、とは書いていません。「再生される」と受動態で書かれています。

「風は思いのままに吹きます。その音を聞いても、それがどこから来てどこへ行くのか分かりません。御霊によって生まれた者もみな、それと同じです。」(3:8)
私たちは、自分の力では無く、主によって救われることを信じて、御言葉から学んだ真理を行い続けるしかありません。

「御子を信じる者はさばかれない。信じない者は神のひとり子の御名を信じなかったので、すでにさばかれている。」(3:18)
頭の中で、信じるだけでは、信じたとは言えません。真理を行い続けることだけによって、信じていると認められます。得た真理を行いながら、私たちに新しい自我が誕生するのを待つしかありません。

私たちの旧い自我、肉の自我が、主のお力によって遠ざけられ、死んでしまう状態となってはじめて、主から新しい「霊」を頂きます。天界的自我です。「水」は私達が御言葉から汲み上げて、学びます。何が悪で避けなければならないか、そして何が善であり行わなければならないか、光のほうに向かい進みます。

光とは、神人となられ、私達の本当の状態を私達よりも、よくご存じの方、主イエス・キリストです。慈悲を与えていただく、主イエス・キリストです。スウェーデンボリィが、自分でも確認して告白しているように、決してスウェーデンボリィではありません。
「悪を行う者はみな、光を憎み、その行いが明るみに出されることを恐れて、光の方に来ない。」

学びや学習に囚われて、行き先を誤ってはなりません。光はただお一人からしか発しません。
真理は、自分で行いますがこれは見かけであり、外観です。真理は実は、主が行われています。
真理を行っているのは、主であることを明らかに知るためには、自分のほうではなく、光のほうに向かいます。
「しかし、真理を行う者は、その行いが神にあってなされたことが明らかになるように、光の方に来る。」(3:21)
アーメン。

エレミヤ書
32:17 「ああ、神、主よ。まことに、あなたは大きな力と、伸ばした御腕とをもって天と地を造られました。あなたには何一つできないことはありません。
32:18 あなたは、恵みを千代にまで施し、先祖の咎をその後の子らのふところに報いる方、偉大な力強い神、その名は万軍の【主】です。
32:19 おもんぱかりは大きく、みわざは力があり、御目は人の子のすべての道に開いており、人それぞれの生き方にしたがい、行いの結ぶ実にしたがって、すべてに報いをされます。
・・・・
32:24 ご覧ください。この町を攻め取ろうとして、塁が築かれました。この町は、剣とききんと疫病のために、攻めているカルデヤ人の手に渡されようとしています。あなたの告げられた事は成就しました。ご覧のとおりです。
32:25 神、主よ。あなたはこの町がカルデヤ人の手に渡されようとしているのに、私に、『銀を払ってあの畑を買い、証人を立てよ』と仰せられます。」
32:26 エレミヤに次のような【主】のことばがあった。
32:27 「見よ。わたしは、すべての肉なる者の神、【主】である。わたしにとってできないことが一つでもあろうか。」

ヨハネ福音書
3:1 さて、パリサイ人の一人で、ニコデモという名の人がいた。ユダヤ人の議員であった。
3:2 この人が、夜、イエスのもとに来て言った。「先生。私たちは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神がともにおられなければ、あなたがなさっているこのようなしるしは、だれも行うことができません。」
3:3 イエスは答えられた。「まことに、まことに、あなたに言います。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」
3:4 ニコデモはイエスに言った。「人は、老いていながら、どうやって生まれることができますか。もう一度、母の胎に入って生まれることなどできるでしょうか。」
3:5 イエスは答えられた。「まことに、まことに、あなたに言います。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国に入ることはできません。
3:6 肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です。
3:7 あなたがたは新しく生まれなければならない、とわたしが言ったことを不思議に思ってはなりません。
3:8 風は思いのままに吹きます。その音を聞いても、それがどこから来てどこへ行くのか分かりません。御霊によって生まれた者もみな、それと同じです。」
3:9 ニコデモは答えた。「どうして、そのようなことがあり得るでしょうか。」
3:10 イエスは答えられた。「あなたはイスラエルの教師なのに、そのことが分からないのですか。
3:11 まことに、まことに、あなたに言います。わたしたちは知っていることを話し、見たことを証ししているのに、あなたがたはわたしたちの証しを受け入れません。
3:12 わたしはあなたがたに地上のことを話しましたが、あなたがたは信じません。それなら、天上のことを話して、どうして信じるでしょうか。
3:13 だれも天に上った者はいません。しかし、天から下って来た者、人の子は別です。
3:14 モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子も上げられなければなりません。
3:15 それは、信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つためです。」
3:16 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。
3:17 神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。
3:18 御子を信じる者はさばかれない。信じない者はすでにさばかれている。神のひとり子の名を信じなかったからである。
3:19 そのさばきとは、光が世に来ているのに、自分の行いが悪いために、人々が光よりも闇を愛したことである。
3:20 悪を行う者はみな、光を憎み、その行いが明るみに出されることを恐れて、光の方に来ない。
3:21 しかし、真理を行う者は、その行いが神にあってなされたことが明らかになるように、光の方に来る。

天界の秘義10388.

これはヨハネ福音書にある主の教えです、

「人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国に入ることができません。」ヨハネ 3:5.
「水」の霊的意味は、御言葉からとった信仰の真理です、「霊」はそれを守る生活で。「これらに生まれる」とは、再生されることです。

ヨセフの誘惑

ヨセフの誘惑
主人はヨセフの手に全財産を任せ、自分が食べる食物のこと以外は、何も気を使わなかった。しかもヨセフは体格も良く、顔だちも美しかった。(創39:6)

兄弟達に自分が君臨する夢を見たことを語ったため、嫉妬した兄弟達は、ヨセフを穴の中に落とし殺そうとします。しかし、一部の兄弟が反対したため命は助かります。その後、ミデヤン人の商人に救われ、イシュマエル人に売られて、エジプトに連れて行かれます。エジプトでは、ファラオの廷臣のポティファルに買い取られ、ポティファルの家の管理を任されるまでに出世します。ところが、ポティファルの妻からの誘惑を断ったため、ぬれ絹を着せられ、ヨセフは王の監獄にいれられてしまいます。波瀾万丈の生涯が続きます。

しかし、神が述べられた御言葉の深い意味は、この文字上とは全く異なる深い内容で、私たちにも関係してきます。文字の上では、一民族の族長達の栄枯盛衰の物語ですが、その内意は、主イエス・キリストのご自身の栄化の過程と、同時に私たちの再生の道のりが描かれています。そのため、人類すべて、その永遠の生、すべてに影響します。
主人公のヨセフは、主の神的人間を表現しています。正確に言えば、合理的なものから生まれた霊的なものの天的な存在 (AC4286)(caeleste spiritualis exrationali, the celestial of the spiritual from the rational)で、自然的なものである私たちを、天界の霊的・天的存在、そして創造主である神に、仲介するものです。

ごくごく簡単に言えば、神的なものと自然的な人間を仲介することによって、人間と神の交流を促進し、人間の再生を図ります。そのため、主が人間としてお生まれになり、ご自身を神的なものに栄化なされました。これがなければ、人類は一人として神と結ばれること無く、滅んでいました。

聖書の創世記39章で、ヨセフは、エジプト王の臣下の家と畑の管理をすべてまかされます。そして「体格も良く、顔だちも美し」(創39:6)く、ヨセフの人生は兄弟たちから受けた不遇から、エジプトでの栄達へと順風満帆のように見えます。
私たちも、遺伝悪や悪い社会習慣から離れて、畑で表される教会の真理に従って、人間の生命の全てを、役立ちという目的に向けて生活すれば、家で表される人間の生命のすべては善い方向に向かって進みはじめます。
逆に、盲目的・本能的に善いと思う方向に向かうなら、バランスを崩してしまい、全体の舵取りはうまく出来なくなります。しかし、理性を働かせ、役立ちの目的・内容をよく考えます。そうすることで、公平と正義、そして霊的真理と善の原理に従えうようになれば、ヨセフが家を管理したように、人生はうまく管理できます(AC4988)。
ヨセフは、この管理を段階的に進めて(AC4977,4979,4992,4999,5003)、自然の中での内面の支配を強めてゆきます。内面の善が外面まで影響するようになれば、美しい天使の姿のように、霊界では、善の美しさが輝き始め、来世の姿形も美しくなります(AC4985)。

このヨセフの容姿の美しさに惹かれたのか、ポティファルの妻は何度も「結合」を迫ります。ポティファルの妻は「霊的でない自然的真理」を意味します (AC4989) 。例えば、霊的でない自然的真理の言うことを聞けば、どんな友人であっても友人である限り、仲良くしなければならない、とされてしまいます。もし、その友人が邪悪であっても、親切にしないと許されません。この自然的な定義を一律にあてはめられるなら、合理的なものから生まれた存在であるヨセフは、不合理な規準に「納得できない!」と嫌悪感を抱きます。加えてこの人妻には、自然的善という夫がすでにいて、ヨセフはその配下にいます。

「あなたがご主人の奥さまだからです。どうして、そのような大きな悪事をして、私は神に罪を犯すことができましょうか。」(39:9)夫のいる妻とは結合ではなく、分離を目指さなければなりません。そうでなければ、不合理な規準の中で、合理的なものから生まれた存在は、生きて行けません。

このヨセフのセリフの中に「悪」と「罪」という単語が出てくることに注目します。これは霊的な善は、霊的でない自然的真理とは、両立できないので、結ばれてはならないことを意味します。そしてそこに存在する悪は、善から分離しなければなりません。
一般に「善」は主への愛と隣人への愛であり、結合する力と傾向があります。そして「悪」は自己愛と世間愛であり、悪同士は常に分離する傾向を持ちます(AC4997等)。悪と悪は結ばれているように見えますが、それはある短期的・利己的な目的が一致する限りにおいてです。自己愛と自己愛どうしは、嫌悪と憎悪が働き、自分以外とは結ばれることはありません。

教会でも同じ事が起こります。教会の内外で結合する愛がなくなれば、分離と消滅が生まれます(AC5002)。日本と世界の新教会、そして世界のキリスト教会の動向を見れば、これは一目瞭然です。主の平和を説くはずの教会が、ある国の教会のように、主への愛と隣人愛を超える別の価値を上にもって、戦乱が生まれます。もし、教会の内や、教会同士の間に、分離の傾向があれば、必ずそこには何らかの悪があり、罪があるはずです。
それは教会の自己点検の時です。

ヨセフを誘惑しようとした自然的真理の、霊的でない部分は、
「私が声をあげて叫んだので、私のそばに上着を残して外へ逃げました。」(39:18)
不倫という悪を行おうとしたポティファルの妻は、拒まれたため、ヨセフに反感を抱き、最も外側の真理を切り離し証拠とします(AC5028)。これが残された上着です。そうなると、霊的真理に反感を抱き、拒絶し、仁愛の善から撤退します(AC5034)。相手に仁愛の善がなければ、それは別離の時です。

天界の教義では、隣人に対する善、貧しい人、やもめ、孤児を例として取り上げます。貧しい人であれば、親切にしなければならないという最も外側の真理を一律に適用しようとします。その実質が悪であっても関係ありません。そして内的真理を説き、実質を考えようとする霊的人間を笑いものにします(AC5028)。

偽りと反感によって、ヨセフの主人であるポティファルは、ヨセフを監獄に入れます(39:20)。創世記にもイサクの献納から、ヤコブのヤボクの渡しでの試練、エサウとの再会、そしてヨセフの人生等、数々の試練が描かれています。これは、主イエスが、この世でお受けになった無数の試練を物語るだけではありません。私たちも霊的成長の度に、必ず試練を受けることを描いています。

試練は「人が実際に再生の過程に入っている間、進展してゆきます、なぜなら誰も試練を受けない限り再生することが出来ないからです。」(AC5036) 霊的に成長する限り、試練は避けられません。

主の祈りのなかに、「私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください。」(マタイ6:13)という句があります。しかし私たちは試練に遭わなければ、霊的成長がありません。主は試練をもたらさず、常にお守りになっています。私たちを試練に遭わせるのは、私たちの周りにいる悪霊、奈落の霊です。悪霊たちが、私たちの中にある偽りの思考、過去の悪業を刺激して思い起こさせることで起こります。私たちが祈るは、試練の中で主のみ力による守りを求めるためです。

最も外側の真理が退き、自分を守るものがなくなった時に試練が訪れます。試練の例をあげます。「人が霊的になると、裕福な教会等に献金を捧げることが聖なる業ではないと考え始めます。しかし霊的になる前はそれが聖なる業と考えて、そうしていました。すると悪霊達は新しい考えは偽りであり、以前は、聖と考え、行っていたはずだと責めてきます」(AC5036-5)。
これは、昔一般的であった考え方と、新しい考え方の矛盾をついた情愛に関する問題ですが、現在ではより深く人の情愛の矛盾を突いてきます。
例えば、人が死後三日目に生き返るなら、三日に至る前に、心臓や脳を移植したり、遺体を焼却したりすると、それは殺人ではないか?
遺伝子操作による治療や人間のクローン作成は、神の領域を荒らす業ではないか?現代の科学でも解決できない問題を、人間が勝手気ままに行って善いのか?まだ解決できていない新たな問題が累積しています。人間の良心の葛藤は次々と生まれてゆきます。

悪霊達は、情愛を責めます。過去の悪と偽りを責め、矛盾を責め、良心の呵責を産み出します。
そのため、真理を学んで情愛を育てたことが全く無く、良心を持たない人には、試練は起こりません。悪霊たちが責める面がないからです。

「しかし、【主】はヨセフとともにおられ、彼に恵みを施し、監獄の長の心にかなうようにされた。」(39:21)
神の慈しみは、罠にはまった者へ向けられる神的愛に他なりません、試練にある者への愛です (A
C5041) 。試練にいる者が、疑問の状態と絶望にあるとき、そこから目をあげると、主から真理が流入し、思考を治めます。その真理とは、御言葉から学び本人が確認したものです。その真理自体を流入させるのではなく、真理の情愛を高めます(AC5044)。「監獄の長」とは、支配する真理です。

私たちが試練にあると、主がその試練から直接お救いになるわけではありません。財産や家族を失ったとしても、主が奇蹟の力によって財産や家族をお戻しになるわけではありません。戦争にあっても、戦争を主が直接止め、主が直接現れ、平和を与えるのでもありません。もしあるとした、それは摂理の法則という別の法に従います。決して試練の中ではありません。試練では、その試練の内容に合った御言葉に神の力を吹き入れ、御言葉の真理を心に根づかせます。

例えば、御言葉によって、この世の財産よりもより価値のある財産があることに気づきます。家族の肉体の死は、肉体だけの死で、魂は蘇り、生きています。戦争は間違いなく悪であり、悪は避けなければなりません。しかし、家族や国を守るための戦いは悪ではありませんが、闘いの中で残忍や冷酷が起これば、悪として避けなければならない。これらの真理を学んだ時の御言葉が思い起こされ、自分のうちに真理が深く根付くことになります。

神的なものは、情愛だけに流入します。真理が人の心に深く根付くためには、私たちの力だけでは足りません。強い思い込みをしても役に立ちません。厳しい現実に出会うと、主の力をすぐに疑い始めます。そして神的なものによって根付いた真理には、主の御力が働き、主の善から光が輝き出します。そこに私たちの力は全くありません。

私たちの内で、試練に遭う人はわずかか、ほとんどいないことが天界の教義の中で示されてます。しかし、私たちが霊的に成長するためには、試練は欠かせません。私たちの内にある学んだ真理が、自分の力によって記憶しているだけの、あやふやな内容として留まるからです。情愛の中で真理が力を持つためには、神的な力が必要です。もしも試練が起こり、その中で勝利するなら、主の力が御言葉から学んだ真理に流入し情愛が強まったおかげです。私たちの力ではないことが嫌というほどわかります。

ヨセフが監獄の中で、力を持てたように、試練の中で、主の神的人間が私たちの内で力を持つことができますように。「私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください。」(マタイ6:13)
アーメン。

(新旧約聖書は新改訳)
創世記
39:1 一方、ヨセフはエジプトへ連れて行かれた。ファラオの廷臣で侍従長のポティファルという一人のエジプト人が、ヨセフを連れ下ったイシュマエル人の手からヨセフを買い取った。
39:2 【主】がヨセフとともにおられたので、彼は成功する者となり、そのエジプト人の主人の家に住んだ。
39:3 彼の主人は、【主】が彼とともにおられ、【主】が彼のすることすべてを彼に成功させてくださるのを見た。
39:4 それでヨセフは主人の好意を得て、彼のそば近くで仕えることになった。主人は彼にその家を管理させ、自分の全財産を彼に委ねた。
39:5 主人が彼にその家と全財産を管理させたときから、【主】はヨセフのゆえに、このエジプト人の家を祝福された。それで、【主】の祝福が、家や野にある全財産の上にあった。
39:6 主人はヨセフの手に全財産を任せ、自分が食べる食物のこと以外は、何も気を使わなかった。しかもヨセフは体格も良く、顔だちも美しかった。
39:7 これらのことの後、主人の妻はヨセフに目をつけて、「一緒に寝ましょう」と言った。
39:8 しかし彼は拒んで、主人の妻に言った。「ご覧ください。ご主人は、家の中のことは何でも私に任せ、心配せずに全財産を私に委ねられました。
39:9 ご主人は、この家の中で私より大きな権威をふるおうとはせず、私がするどんなことも妨げておられません。ただし、あなたのことは別です。あなたがご主人の奥様だからです。どうして、そのような大きな悪事をして、神に対して罪を犯すことができるでしょうか。」
・・・
39:20 ヨセフの主人は彼を捕らえ、王の囚人が監禁されている監獄に彼を入れた。こうして彼は監獄に置かれた。
39:21 しかし、【主】はヨセフとともにおられ、彼に恵みを施し、監獄の長の心にかなうようにされた。
39:22 監獄の長は、その監獄にいるすべての囚人をヨセフの手に委ねた。ヨセフは、そこで行われるすべてのことを管理するようになった。
39:23 監獄の長は、ヨセフの手に委ねたことには何も干渉しなかった。それは、【主】が彼とともにおられ、彼が何をしても、【主】がそれを成功させてくださったからである。

ヨハネ福音書
10:17 わたしが再びいのちを得るために自分のいのちを捨てるからこそ、父はわたしを愛してくださいます。
10:18 だれも、わたしからいのちを取りません。わたしが自分からいのちを捨てるのです。わたしには、それを捨てる権威があり、再び得る権威があります。わたしはこの命令を、わたしの父から受けたのです。」

天界の秘義5036
[2] 試練自体に関しては、人が実際に再生の過程に入っている間、進展してゆきます、なぜなら誰も試練を受けない限り再生することが出来ないからです。そして彼の周りに居る悪霊が、試練を起こす手段となります。試練の中では、自分が持っている悪の状態の中に入れられます、すなわち、その人を支配する本質的自我です。ひとたびこの悪の状態に入ると、悪霊、奈落の霊が彼を取り囲み、彼が内的に天使達によって守られていると気付けば、悪霊たちは、彼が抱いていた偽りの思考や、犯した悪い業を思い起こさせます。しかし天使達は内側から守ります。この闘いが、人が試練として経験するものです、しかしこの経験はあまりにも漠然としているので、不安感としてしか感じません。

剣を取る者はみな剣で滅びます。

剣を取る者はみな剣で滅びます。

「わたしが来たのは地に平和をもたらすためだと思ってはなりません。わたしは、平和をもたらすために来たのではなく、剣をもたらすために来たのです。」(マタイ10:34)

世界には戦乱と疫病がまん延し、物価上昇で経済も不安的になりつつあります。
私たちが謳歌していたはずの日本の平和は、今や姿を消してしまいつつあるようにさえ思えます。
戦乱の国から、小さい国にも匹敵する人口が、逃げ出しています。良い関係と信じていた国々、人々の間にも、ちょっとした行き違いから、あっという間に敵意が生まれます。

ここで、戦争についての基本的な教えを、天界の教えの書から確認します。(DP251参照)
戦争は、殺人・略奪・暴力・残虐などあらゆる恐ろしい悪と切り離すことができず、キリスト教の愛と正反対です。しかし、私たちは人を支配しようとする愛と、世界の富を全て獲得する愛に生まれついており、これは表面に出てこない限り、認めて抵抗することが出来ません。これを認め、闘うため、主の長期的見地の許しの法によって、戦争という悪が許されています。その戦争は、人類の絶滅の怖れが出るまで抑えられません。この世の戦争は、同時になんらかの霊界での出来事を反映しています。そして、勝敗や運不運など出来事すべてに神的摂理が働いています。

戦争にも侵略戦争と防衛戦争があります。侵略は悪としても、守るための戦争はどうでしょうか?
善人は守りしか気に掛けず、情熱を持ちません。攻撃は稀にしか行いません。天界と地獄と同じで、地獄の霊は攻撃し、天界の天使は守ります。自分の国と市民を侵略から守るのは、適切とされています。(DP252)

私たちが、まず確認しなければならないのは、戦争は間違いなく十戒に反する悪であることです。そこには善の欠片もありません、ただ隠れてなかなか表面に出てこないいる自分の二大悪、支配欲と所有欲を知るため大小の戦争が起こります。
大小の戦争、国と国の闘い、会社間の争い、隣室や家の住人、家族との争いが起こるとき、誠に不本意ながら、それは神が下さったチャンスと考える考え方もあります。
自分が相手を支配しようとしていないか、あるいは物欲を満足せるために行っていないか、自分の奥深く問いながら、その源泉を探ります。もし、戦争や争いを行うのに、そういう悪が隠れているのを発見したら、その悪と偽りが無くなるまで闘います。悪と偽りは地獄からきています。この闘いが神の御心です。この自己点検のために、主は不承不承ながら戦争を許されています。

ただし、国・市民の防衛は適切な闘いです。闘って家族や自分の財産を守るのは、十戒の悪には反しません。
それでも、闘いの過程で、相手を殺すことや傷つけること、奪うことに歓ぶ自分を見つけたら、その歓びは地獄からきていることに気づかなければなりません。闘いは隠れている自分の悪と偽りとの闘いです。

私たちの救いという主の大きな目的のため、やむなく戦争は起こり、人類絶滅の危機に至らない限り主はお止めになりません。そして戦争の本当の原因は、霊界にあります。霊界や教会でなんらかの闘いが起こっていることが、この世の戦争の原因とされています。自分の意見と通そうとするための支配欲が戦争の原因となっている可能性があります。

悪と真理、善と偽りの戦いがあります。これは霊的試練です。霊的試練は、人の内にある偽りと悪の破壊と除去(AC 4843:4)のために存在します。
冒頭の主の御言葉、「平和のため来たのではなく、剣をもたらすために来た」は、本来、試練のことをおっしゃっています(AC 8159:4)。戦争のイメージではありません。
この剣とは、闘うための真理(AC2799:4)です。人は試練の時、偽りの中にいて、主が開く内的真理によってのみ、偽りを追放できます(AE 131:2)。

真理は、何が悪で、偽りであるか、そしてその源が地獄から来ていて、人を破滅させてゆくことを教えます。私たちは、真理がなければ、闘う相手がわからず、対象がなくては、闘うことはできません。そして偽りが何か?これを知なければ、追放できません。試練の中にいる段階では、偽りは真理らしいものの中に混じっていて、離れません。これを離そうとしないのは、実は私たち自身です。闘いの中で、悪は偽り続けます。自分が正しいものであるかのように偽ります。そしてこの偽りは巧妙で、私たちにはわかりません。なぜなら自分自身が、自分の中にある悪を隠しておきたいからです。

この偽りを分離して追放しない限り、試練は終わりません。終わったように見えても、それは失敗です。試練の機会が再びやってくるまで試練は続きます。この試練が終わらなければ、決して天界に入ることはできません。私たちの信仰の力の強弱の問題ではありません。
私たちが天界に入るのが相応しいかどうかの判断です。この判断は、偽りが混じっている私たちには、できません。偽りを入れる、私たち自身を暴かなくてはなりません。偽りを隠している私たち自身である悪が死ななくてはなりません。試練が誰にも厳しいのはこのためです。
主は私たちが天界に入り、ご自身とともになるチャンスを根気強く、お待ちになっています。

御言葉の剣は、他の御言葉の語と同じように、善と悪、真理と偽りの両方の意味を持っています。
「剣が、カルデヤ人にも、──【主】の御告げ──バビロンの住民、その首長たち、知恵ある者たちにも下る。」(エレ50:35)
剣は偽りと闘う真理、そして、真理を荒廃させる偽り・真理と闘う偽りの、真理と偽りの二通りを意味します。
カルデヤは真理を冒瀆する者、バビロンは善を冒瀆する者(AC 5044:9)を意味します。真理と善を冒瀆するなら、救いは永遠に無くなります。
「剣が自慢する者たちにも下り、彼らは愚かになる。」(50:36)
真理を荒廃させる偽りは取り上げられ、偽りによって冒瀆できなくなります。

十二弟子のひとりであるユダがやって来た。剣や板(棒)を手にした大ぜいの群衆もいっしょであった。(26:47)ここでの剣は真理を破壊する偽りが、そして板は善を破壊する偽りを意味します。主の受難のすべては、ユダヤ人達による全ての善と真理の破壊であったことを象徴していました(AE 1145:9)。

群衆は主イエスに手を掛けて捕らえようとしますが、弟子の一人が剣を抜き、大祭司の僕の耳を切り落とします(26:51)。ヨハネ福音書と天界の教義ではペテロとされていますので、マタイ書には明示されていませんが、ペテロが剣を抜いたと進めます。ペテロは信仰の真理を意味します。そして僕の「耳」は信頼や信仰の意志を表します(AC3869)。ユダヤ人達がもはや真理を聞き、信頼するつもりが全くないことを表しています。

そのとき、イエスは彼に言われた。「剣をもとに納めなさい。剣を取る者はみな剣で滅びます。」(26:52) 
この有名な言葉は、聖書を離れて、無抵抗主義や、力に対して力で対抗するな、という様々な解釈がされています。しかし聖書の文脈と内意は異なります。文脈からいけば、「剣をもとに納める」のは、聖書の預言が実現するためでした(TCR262,マタイ26:52, 54, 56)。主の受難として、主の最後の試練の始めとして聖書の御言葉が成就して、当時のユダヤ人の信仰が全く無かったため、彼らの教会は終わったことを、私たちに伝えなければなりません。主は天地の神でいらっしゃるため、「十二軍団よりも多くの御使いを、今わたしの配下に置いて」(26:53)、やってきた祭司長、民の長老の配下を排除するのは簡単であったはずです。しかし、主が最期の試練を受け、栄化されなければ、私たちは誰一人救われません。

そして「剣を取る者はみな剣で滅びる」の内意は、「信仰の偽りを受けた者は、それにより滅びる」(AE812:2)です。
当時のユダヤ人の信仰の偽りを受けるならば、救いはなく滅びてしまう、ということを最期に警告されました。彼らは、もはや正しい信仰を受けることができない、という宣告とも言えます。弟子がユダヤ教会と同じ信仰の偽りを受けるなら、滅びてしまう。そうであってはならないと諭されました。

私たちが、剣で襲われた時に、剣をとらなければ、大切な家族や社会は守れません。無抵抗は、必ずしも、最善の策ではなく、またそれは神の絶対的な命令でもありません。
不完全なこの世の自然界では、それぞれが知恵を絞って、悪意に対抗しなければ悪意がはびこり地獄の意のままになります。
十戒の禁をもとに、与えられた現実の姿を考え抜いてベストを尽くすことが主の御心です。
何が悪で、偽りかを吟味して、分離しなければなりません。深く考えて、悪と偽りを避けなければなりません。主への愛と隣人への愛、これより他の事柄を、より大切なものと考え始めたとき、真理は偽りに変わってしまいます。この偽りにこだわり始めるなら、この世でも、戦争を起こせという、本来の主の教えとは違った結果を生み出します。偽善は暴かなければなりません。

より大切な主の御心は、私たちが、試練を乗り越え、天界の一員になることです。主への愛と、隣人への愛を、私たちそれぞれが実現することです。
闘う真理、剣は人に向けるのではなく、自分の中にある悪と偽りに向けます。
偽りで闘うなら、自分も偽りで滅びます。

そのとき、イエスは彼に言われた。「剣をもとに収めなさい。剣を取る者はみな剣で滅びます。」(26:52)
アーメン。

【新旧約聖書は新改訳】
エレミヤ書
50:35 剣が、カルデヤ人にも、──【主】の御告げ──バビロンの住民、その首長たち、知恵ある者たちにも下る。
50:36 剣が自慢する者たちにも下り、彼らは愚かになる。剣がその勇士たちにも下り、彼らはおののく。
50:37 剣がその馬と車と、そこに住む混血の民にも下り、彼らは女のようになる。剣がその財宝にも下り、それらはかすめ取られる。
50:38 その水の上には、ひでりが下り、それはかれる。ここは刻んだ像の国で、彼らは偶像の神に狂っているからだ。

マタイ福音書
26:45 それから、イエスは弟子たちのところに来て言われた。「まだ眠って休んでいるのですか。見なさい。時が来ました。人の子は罪人たちの手に渡されます。
26:46 立ちなさい。さあ、行こう。見なさい。わたしを裏切る者が近くに来ています。」
26:47 イエスがまだ話しておられるうちに、見よ、十二人の一人のユダがやって来た。祭司長たちや民の長老たちから差し向けられ、剣や棒を手にした大勢の群衆も一緒であった。
26:48 イエスを裏切ろうとしていた者は彼らと合図を決め、「私が口づけをするのが、その人だ。その人を捕まえるのだ」と言っておいた。
26:49 それで彼はすぐにイエスに近づき、「先生、こんばんは」と言って口づけした。
26:50 イエスは彼に「友よ、あなたがしようとしていることをしなさい」と言われた。そのとき人々は近寄り、イエスに手をかけて捕らえた。
26:51 すると、イエスと一緒にいた者たちの一人が、見よ、手を伸ばして剣を抜き、大祭司のしもべに切りかかり、その耳を切り落とした。
26:52 そのとき、イエスは彼に言われた。「剣をもとに収めなさい。剣を取る者はみな剣で滅びます。
26:53 それとも、わたしが父にお願いして、十二軍団よりも多くの御使いを、今すぐわたしの配下に置いていただくことが、できないと思うのですか。
26:54 しかし、それでは、こうならなければならないと書いてある聖書が、どのようにして成就するのでしょう。」
26:55 また、そのとき群衆に言われた。「まるで強盗にでも向かうように、剣や棒を持ってわたしを捕らえに来たのですか。わたしは毎日、宮で座って教えていたのに、あなたがたはわたしを捕らえませんでした。
26:56 しかし、このすべてのことが起こったのは、預言者たちの書が成就するためです。」そのとき、弟子たちはみなイエスを見捨てて逃げてしまった。

黙示録解説(AE)812
「剣で殺す者は、自分も剣で殺されなければならない。」(黙13:10)とは、偽りを他人に植え付けた者は、地獄から偽りを植え付けられることを意味します。・・・・・
[2] 主がペテロにおっしゃったことに意味が似ています。
「剣を取る者はみな剣で滅びます。」(マタイ26:52).

これはペテロに言われたことです。なぜなら彼は信仰の真理を表し、そしてまた信仰の偽りをも表したからです;そのため「剣を取る者はみな剣で滅びる。」とは「信仰の偽りを受けた者は、それにより滅びる」ことを意味します。「獣」によって意味される者は、推論によって生命から信仰を分離してしまった者で「剣で殺す者は、自分も剣で殺されなければならない。」すなわち、偽りを他人に植え付けた者は、地獄から偽りを植え付けられます、なぜなら「信仰のみ」のドグマは、全ての真理を閉ざしすべての善を拒むからです。「信仰のみ」は真理の全てを閉じます、なぜならそれは「主は十字架で私たちの罪のため苦しみ、法の責めを除き、このように私たちを贖われた」ので私たちはこれだけで贖われると主張するからです。彼らはこれだけを取り上げ、信仰そのものと呼び、救い、真理を学ぶ努力をしません。ところが真理は、どのように生きなればならないかを教え、これらの真理は多様です。「信仰のみ」はそのドグマ自体に続く善を拒み、信仰は善の行いなしに義とされます;かくして本質的な善である、神への愛の善と隣人への仁愛の善は無視されます。

創37 ヨセフの夢

創37 ヨセフの夢
ヨセフは彼らに言った。「私が見たこの夢について聞いてください。」(創37:6)

ヨセフはヤコブの十二人の息子の内の一人で、妻のラケルによって生まれた十一番目の息子です。
ヨセフは父が年寄りの時の子であったため、息子の内で誰よりも愛されて、「彩りのある服」(KJV,天界の秘義)を着せられていました。父に愛されているのを、兄弟達は「彼を憎み、彼と穏やかに話すことができ」(37:4)ませんでした。

兄弟達に憎まれている状態の中で、あるときヨセフは夢を見て、それを兄達に告げます。
「私の束が立ち上がり、しかもまっすぐに立っているのです。見ると、あなたがたの束が回りに来て、私の束におじぎをしました。」(37:7) 
兄たちは気分を害し、彼を「ますます憎むようにな」ります。

ヨセフはさらに他の夢を見ます。「太陽と月と十一の星が私を伏し拝んでいる」夢です。この話を聞き、兄達はますます気分を害し、妬みます。そして父は叱りますが、心に留めて置きました。

ヨセフの先祖、アブラハムと祖父イサクには「夢を見た」という表現はありません。まわりの人物が夢を見ますが、これら本人たちには、神が天使として直接現れます。彼らは主のきわめて内的な部分、天的な部分と合理性という部分を表しているので、より直接的なやりとりが、できました。しかしヨセフの父ヤコブは、主の自然的なものを表していて、神からの距離が遠くなるため夢という表現が出てきます。

父のヤコブは、天使が天に届く梯子を上り下りする夢を見ます(創28:12)。これは天界の教えによれば、未来の予知、予見とされています(AC3698)。主が、これから何が起きるかをあらかじめ知ったことが夢として語られています。ヤコブの夢は、主が、天界に至る道と、天界から地上界に下りてくる、道と方法を予見されたことを意味します。

ヤコブは主の自然性、その外的な部分を意味します。そして試練によってより内的なものとされたのが、イスラエルです。ヤコブとイスラエルは同じ人物ですが、聖書の表現は、表す事柄によって使い分けられています。おおまかにいえば、主の自然性の、外的なものがヤコブで、内的なものがイスラエルです。

主は、ご自身の自然性を栄化されると同時に、自然的な存在である私たちが再生してゆく道を備えられました。そのために必要な真理が、ヤコブの十二人の息子によって示されています。御言葉では息子は真理を表します。十二は、全てという意味で、十二人の息子の誕生が、私たちが、再び生まれ変わるため必要な真理すべてを表しています。

十二人の息子、すなわち真理の内、六人がレアの息子、そして側女ビルハと、ジルパがそれぞれ二人ずつ息子を産みました。レアは外的真理への情愛を意味します。
もう一人の妻のラケルは内的真理への情愛を表し、その内的真理への情愛から生まれた息子がヨセフとベニヤミンです。

物語風に記された創世記は、アブラハム・イサク・ヤコブあるいはイスラエルと主人公が変わります。
この主人公は、主イエス・キリストの霊的進化を表しています。主の魂に近い天的な段階と、地上の人間と交流するために生まれた合理的な段階、そして自然的な段階です。自然的な段階は、外的な道を通って、私たちをまず知的部分から再生させる、ヤコブの物語が主流となっています。

ヤコブの双子のエサウも、主の自然的な善を意味します。エサウは、内的な道を通って、合理的善に直接来る善を象徴 (AC4641) します。創世記36章は、エサウの家系と歴史を書いたように見えますが、この家系に出てくる名称は、私たちだけではなく、天使の理解も及ばない深いものが隠されていると、天界の教義は示唆します。主のみが善の中に生まれ、その父である魂から神的善を受けられたためです。私たちは何が善か知らず、そして真理を通してしか、善を学べません。私たちは肉体的な善の感覚や、自分に都合の良い善しか知ることができません。
しかし、主の善は、人類全てを救う善です。私たちは主の善によって救われることを念頭に置いて、聖書のヨセフの物語に進みます。

ヨセフは、内的情愛を意味するラケルを母として生まれたヤコブの十一番目の息子です。主の霊的な神的人間を意味します(AC4666)。アブラハム・イサク・ヤコブに続いて、ヨセフは、主イエス・キリストを表象します。

ヨハネが見た、二つの夢は、主ご自身についての宣教、宣言です(AC4682)。主が、ご自身について、何であるか、どういう状態かを教えられます。アブラハムからヨセフに至る人物は、実在の人物で、学者から約紀元前2千年の頃に生きていたと推定されています。そして主イエスの誕生が今から約2千年前ですので、計4千年前から、主イエス・キリストのことが描かれていたことになります。私たちは、4千年前に書かれた聖書と、約2千年前にこの世に来られた主イエスの生涯の内容を、約250年前にスウェデンボリィの書いた天界の教えとして学びます。ヨセフとして表象された主が、私たちに教えたかったこととは、何でしょうか?

ヨセフの見た第一の夢は、ヨセフが畑で束ねた束が、立ち上がり、しかもまっすぐ立ち上がり、兄達が束ねた束が、お辞儀をする(37:7)という、不思議な夢です。天界の教えによれば、畑は教会を意味し,束とは教義からの教えを意味します(AC4686)。
畑から作物が育つと、実のついた穂を刈り取って、まとめて束にします。穀物はせっかく育っても、そのままにしておけば、実が落ちてしまいます。その育った穀物は、実が落ちる前に茎や穂を除き、実を加工しなければなりません。同じ教義であっても、仁愛のない信仰を説く教義は、茎と穂だけの実のない教義です。私たちの口に入れ、身体に役に立てるためには、仁愛という実のある穂を選別しなければなりません。

ヨセフが束ねた、束、すなわちヨハネの教義とは、主ご自身、そして主ご自身の人間が神的であるという教義です(AC4687)。
現代のキリスト教会の大半は、主イエスは、どういう方かは、曖昧にされています。
イエス・キリストではなく、教会が決めた「聖人」を礼拝せよ、あるいはイエス・キリストではなく、父なる神エホバを礼拝せよと、仁愛は関係なく信仰だけによって救われると、もはやキリスト教とはいえないような宗教も蔓延っています。

ヨセフが見た、もう一つの夢は、太陽と月と十一の星が、ヨセフを拝んでいる夢です。太陽と月は、霊界において見える主を表象します。主は、天的天界では太陽として、霊的天界では月として現れます。十一の星は、ヤコブの他の息子達の表す真理のことです。
しかしこの場合、太陽はヤコブを表し、自然的善を意味します、そして月は(ラケルではなく、)母のレアを表し、自然的真理を意味します。星は善と真理の認識です (AC4696)。
すべての教会と、すべての教義は、ヨセフという教義、主は神的人間であるという教義を大原則として解釈せよということを意味します。

ユダヤ教会はモーセに渡された十戒と法であり、キリスト教会はその教会の信条、すなわち信じるべき教義事項が真理とされています(AC4690)。
しかし、その前提として、主を神的人間と認めなければなりません。十戒でも、一枚目の石板に書かれた教え、第一戒の他の神を拝むなかれ、第二戒の主の御名を虚しくするな、第三戒の安息日を聖とせよ、第四の父母を敬えという戒めを忘れては、第二の石板は生きてきません。
新教会の信条でも、先に普遍的な信条が置かれています。そして個別信条の五条の、第一と第二にも主の位置づけが、記されています。

ヨセフが表す信条の第一とは、「主の人間は神的である」ということ、そして第二は「主への愛と隣人への仁愛が教会を作る」ということです(AC4723)。これがすべてを解釈する原則です。
この大原則を忘れるなら、あらゆる努力が無駄になってしまいます。万が一、主がただの普通の人間と同じ存在という意識が残るなら、困ったことになります。何かあれば、別の神を拝み始めてしまうからです。生活や仕事に追われると、主への信頼を忘れ、目先の金銭や自分の地位の安定や昇進を第一に置くようになるかもしれません。戦争が起こり、疫病が蔓延すれば、主の摂理を信じずに、世界の終わりが来そうだから何でも好きなことをやってしまおうと、結局、自分の欲望や恐怖や不安に囚われるようになるかもしれません。

ヨセフの表す信条の第一と第二なしには、他の真理は役に立たなくなります。本当の主を知らなければ、主の神的人間から発する神的真理を受けることができなくなります。主が栄化されての後、主の神的人間から、聖霊という照らしが出て、人はこの照らしを受けて、御言葉の深い理解をしています。
この聖霊の照らしがなくなると、深い真理は理解できません。天界の教えの書を読み進んでも、理解できません。主への愛がないからです。主への愛がなければ、本当の隣人愛が理解できなくなり、隣人愛を行ったとしても、隣人への役立ちではなく、自己満足に終わる可能性が高くなってきます。

口先で告白するだけでは足りません。全地全能の神として主を見上げ、主の愛を私たちが自分の選択として、隣人への役立ちとして行うという姿勢を貫きます。この姿勢さえしっかりしていれば、主は私たちを、不安や怖れからお守りになります。
自分の生命や財産だけを守ってくださいという利己的な思いから離れなくてはなりません。利己的な思いが混ざった祈りは天界に届きません。霊的・天的な姿勢が含まれている祈り、霊的・天的な、隣人愛と主への愛の願いが中心となっていれば、祈りは必ず天に届き、その願いは聞かれます。

完全に利己的要素をなくすことができなくても、素直な心から「跪き、謙遜な心で主を救い主なる神として礼拝します。その際、主の神的本性と人間的本性との間の教義上の区別について何も考えません。聖餐式に同じ思いで参列します。 そうすれば心には、主の神人性が保たれて」ます。主を神的人間と、心から思い、考えれば、神的力から、自分の中にある自己愛と闘うことが可能となります。

しかし、ヨセフの兄達は、嫉妬のあまり、ヨセフの彩りの美しい衣服を剥ぎ取り、穴の中に投げ込みます(37:23.24)。これらの行動の内意は、主は神的人間であるという、真理の外観を剥ぎ取り、ヨセフの表している真理の最も大切な部分を無にしてしまうことです。一部の教会が、このような残虐を行ったことを表しています。しかし私たち新教会は、そうあってはなりません。

新教会の第一の真理は、「主の人間は神的である」です。この第一の真理の基に、断悪修善を行うことで、「主への愛と隣人への仁愛によって教会を作る」ことが二番目の真理です。第二の真理は、第一の真理の原則のもとに生きます。これが前提でなければ、第二の真理は弱くなります。ただの人となってしまった主の命令は聞けなくなり、ただの人を愛することは難しくなります。ただの人から愛をもらい、隣人に役立てることは簡単ではありません。

「主の人間は神的である」ということを心に焼き付け、自分の潜在意識に植え込むには、日々の生活、意識を常に繰り返すことが役に立ちます。機会があるたびに、「跪き、謙遜な心で、主を救い主なる神として礼拝する」習慣を身につけます。

するとヨセフの夢の通り、「太陽と月と十一の星が私(、ヨセフ)を伏し拝」(37:9)みます。
アーメン。


創世記
37:1 さて、ヤコブは父の寄留の地、カナンの地に住んでいた。
37:2 これはヤコブの歴史である。ヨセフは十七歳のとき、兄たちとともに羊の群れを飼っていた。彼はまだ手伝いで、父の妻ビルハの子らやジルパの子らとともにいた。ヨセフは彼らの悪いうわさを彼らの父に告げた。
37:3 イスラエルは、息子たちのだれよりもヨセフを愛していた。ヨセフが年寄り子だったからである。それで彼はヨセフに、あや織りの長服を作ってやっていた。
37:4 ヨセフの兄たちは、父が兄弟たちのだれよりも彼を愛しているのを見て、彼を憎み、穏やかに話すことができなかった。
37:5 さて、ヨセフは夢を見て、それを兄たちに告げた。すると彼らは、ますます彼を憎むようになった。
37:6 ヨセフは彼らに言った。「私が見たこの夢について聞いてください。
37:7 見ると、私たちは畑で束を作っていました。すると突然、私の束が起き上がり、まっすぐに立ちました。そしてなんと、兄さんたちの束が周りに来て、私の束を伏し拝んだのです。」
37:8 兄たちは彼に言った。「おまえが私たちを治める王になるというのか。私たちを支配するというのか。」彼らは、夢や彼のことばのことで、ますます彼を憎むようになった。
37:9 再びヨセフは別の夢を見て、それを兄たちに話した。彼は、「また夢を見ました。見ると、太陽と月と十一の星が私を伏し拝んでいました」と言った。
37:10 ヨセフが父や兄たちに話すと、父は彼を叱って言った。「いったい何なのだ、おまえの見た夢は。私や、おまえの母さん、兄さんたちが、おまえのところに進み出て、地に伏しておまえを拝むというのか。」
37:11 兄たちは彼をねたんだが、父はこのことを心にとどめていた。

マタイ
16:15 イエスは彼らに言われた。「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」
16:16 シモン・ペテロが答えた。「あなたは生ける神の子キリストです。」
16:17 すると、イエスは彼に答えられた。「バルヨナ・シモン、あなたは幸いです。このことをあなたに明らかにしたのは血肉ではなく、天におられるわたしの父です。
16:18 そこで、わたしもあなたに言います。あなたはペテロです。わたしはこの岩の上に、わたしの教会を建てます。よみの門もそれに打ち勝つことはできません。
16:19 わたしはあなたに天の御国の鍵を与えます。あなたが地上でつなぐことは天においてもつながれ、あなたが地上で解くことは天においても解かれます。」

天界の秘義4723
・・・
教会を構成する本質的なものは二つあり、これは教義上の二大要点でもあります。それは主の人間性が神化されていること、もう一つは、主への愛と隣人への仁愛が教会を構成するということです。愛や仁愛から切り離された信仰が教会を構成するのではありません。以上は〈神の真理〉の中心でもあり、「ヨセフ」がまた、それを表象します。・・・
④ 〈神の真理〉は、神性そのものから直接発出するのでなく、主の神人性のみ力で発出するものであることが、以上の簡単な説明だけでも明らかです。信仰のみの教義のために論戦し、信仰の〈いのち〉を生きようとしない人は、自分のもとで、主の神人性を消し去ります。かれらは主の人間性が純粋に人間であって、 他の人間と変わらないと信じ、そのため口先でどのように主を告白しようとも、主の神性を否定する者が多くいます。しかし信仰の〈いのち〉に生きる人は違います。かれらは跪き、謙遜な心で主を救い主なる神として礼拝します。かれらはその際、主の神的本性と人間的本性との間の教義上の区別について何も考えません。聖餐式に同じ思いで参列します。かれらの心には、主の神人性が保たれていることが分かります。

カナの婚礼と宮清め

カナの婚礼と宮清め

それから三日目に、ガリラヤのカナで婚礼があり、そこにイエスの母がいた。(ヨハネ2:1)

主が、受洗後三日目に行ったカナの婚礼での奇蹟は、水をワインに変えた奇蹟として有名です。
しかし、教会外の人にとっては、蛇口をひねるとオレンジジュースが出て来る、都市伝説の一種かもしれません。旧教会の人にとっては、ヨハネ福音書のみに記載されている、主イエスの最初の奇蹟です。その他の福音書で伝道の末期として記されている宮清めが続き、歴史的な時系列からは疑問が提示されています。私たちは、時や場所を離れて霊的に解釈する必要があります。

四福音書と天界の教義の著作(さらに旧約の各書)は、それぞれ、ある目的を目指した主の御言葉です。
四福音書マタイ・ルカ・マルコ・ヨハネの人物像は、スウェーデンボリと異なり、明確には伝わっていません。マタイが徴税人、ルカが医者、マルコは人物像が不明で以前は軽んじられていましたが、最新の研究では最も旧い書とされています。ヨハネは福音書とともに黙示録の作者ではないかと言われています。
ヨハネ福音書は、著者ヨハネの思慮深く、知的な性格をお使いになり、主のさらに深い御心を学ぶことができます。その御心は、御言葉の内意により詳しく学ぶことができます。

婚礼があったカナの地はガリラヤ地方にあり、主のお生まれになったナザレの北10数キロで、最初の弟子達がいたと思われるガリラヤ湖沿岸からも20km位と思われます。ガリラヤ地方はエルサレムから離れているという点で異邦人の地とされています。異邦人は御言葉を持たず、あるいは知らないので、異邦人と呼ばれていました。そして、私たち日本人もキリスト教圏から離れていて、御言葉は本屋や図書館にあるだけです。そして御言葉が物理的に存在しても、自分の真理として生きていなければ、異邦人と同じです。

主イエスが地上に来られた当時、エルサレムを中心とした主エホバの教えは、完全にねじ曲げられ、その結果、誰も受け入れなくなりました。そこで主は異邦人の地から伝道を始められます。そして、本来の教えが偽りとなると、主は必ず異邦人の中に教会を移されます(AC9526-5)。地上に人類が生き残るためです。私たちが、悪ではなく、善への情愛を持っている限り、主は善の源となる真理を与え続け、善を産み出し、人類の存続を図られます。

カナで婚礼があったとは、異邦人の地で教会が始まることを意味します。なぜなら善と真理の結婚は、教会を意味するからです。真理は、神から与えられた生き方のあるべき姿を、人が知的、そしてその通り生きようとして受け入れることです。その生き方の源は主から、御言葉として与えられます。真理を与えられ、その人なりの理解に応じて実行することで、隣人への役立ちとなります。これが、真理が善となることで、善と真理が深く結ばれる状態が、教会です。御言葉である神的真理の実現が教会です。カナの教会には、「女の方」としか呼ばれないイエスの母もいたと記されています。女性も教会を意味しますが、教会の真理への情愛を意味します。

イエスも弟子たちもその婚礼に招かれています。主イエスは肉体を纏われた、神ご自身、神的真理であることはヨハネの最初の章で明らかにされています。弟子達は、神の真理を行おうとする者です(AC10683-6)。

母はワインがなくなったと主に言います。宴会で酒が足りなくなると、宴会の世話役か、給仕に言いますが、母は招かれていたはずの客の一人である、イエスに言います。多少、習慣の差はあるでしょうが、純粋にワインのことが述べているのではないと、わかります。ワインは内的真理を意味します。
教会の真理の情愛を表す「母」から、内的真理が足りていない、と神的真理に言われたのであれば、よくわかります。どう生きてゆけばよいかという真理が、足りない、不十分だという、教会としての切実な欲求です。教会に主から真理を十分あたえられなければ、教会とは真理と善が結ばれるところで、真理が足りないと、寂しい地、荒野になってしまいます。

しかし、主イエスの回答は、「あなたと私は何の関係があるのか?私の時は来ていない」でした。私の時とは、神的真理が受け入れられる時のことで、たとえ神的真理を開いても現状の教会では受け入れられないとおっしゃいます。そこで主は石の「水甕に水を満たしなさい。」と命じます。
水は外的教会の真理、ユダヤ教会の真理を意味します。水甕は六つあり、この六は全てを表します(AR610-2)。外的教会の真理、罪の清めの真理、犠牲や貢ぎ物で罪を清めるという真理を全て出せと求められます。手伝いの者が六つの水甕を縁までいっぱいに満たします。すると、水で意味される外的真理は、宴会の世話役である、真理の知識にいる者が味見すると、ワインが意味する内的真理となっています。

主は、以前のユダヤ教会がただの儀礼にねじ曲げてしまった外的真理を、内的真理としてすべて開き、隣人愛と神への愛の正しい姿に戻されます。地上での生涯をかけた言動で、見かけは罪の清めに見えた
外的真理の真の意味の基本を証されます。

弟子達は、この奇蹟を見て、イエスを信じたといいます。
カナの婚礼の後、主イエスは母・兄弟・弟子達とガリラヤ湖の北端にあるカペナウムに短い滞在をされました。カペナウムは主が驚くほどの信仰を示す百人隊長もいました(マタイ8:5)。しかし、その後、「主から教会の真理と善を教わりながら、それを拒み否定した者」(AE653-9)を象徴することになってしまった町です。
一度真理を教わりながら否定するなら、否定した者は、真理と偽りが混じり合い、冒瀆することになります。人を救うための真理を否定して、冒瀆すれば、死んだ後も永遠に救われないという悲惨な運命が待っています。冒瀆をふせぐために、カペナウムには長い間滞在することができません。

その後、主は過越の祭に合わせてエルサレムに上られます。そこで後に「宮清め」と呼ばれる業をなさいます。
宮の中で「売り買いする者」や、両替人が座っているのを見て、これを鞭で追い払われます。
両替人の机は、教会の真理から自分の利得とする者のことです。鳩を売る者の椅子とは、神聖なる善から自分の利得とする者です (AE840;4) 。教会の善と真理を、本来の再生という目的ではなく、自分を利する目的に使うなら、真理と善の冒瀆となる可能性が出てきます。

主は、内的真理を明かすにあたって、これら真理の冒瀆を最も怖れていました。本人が永遠に救われなくなる危険があるためです。ヨハネ福音書が他の福音書と違い、内的真理の開示であるカナの婚礼の奇蹟を最初に記し、その直後に、宮清めを配置したのは、主の御心です。

私たちには、さらにより内的な真理が、第二の再臨である天界の教えによって明かされています。
これを、行わず、知識のままにしておくこと、あるいは、この知識を自分の利得とすると、さらに冒瀆の危険性が高まります。主がより内的なヨハネ福音書の始めで、示されておかれたかったことは、この警告でした。

主が神殿での商売人を追い出すと、ユダヤ人達は、この行為を行う権利・権威があるのか「しるし」を見せよと迫ります。神であるご自身の、魂を収める肉体が「神殿」です。その肉体を壊してみよ、三日で建てると、ご自分の蘇りを預言されます。

しかし、神殿の商人の追放に、このときユダヤ人達が抱いた疑問、そして弟子達も、「いくらなんでも、やり過ぎではないか?」と考えたかもしれません。現代の私たちも同じで、宗教だからと言って、普通に商売をしている人達を追い出していいのだろうか?神社のおみくじやお札売り場を荒らせば、警察沙汰になってしまうと、自分の社会での立場を考えます。当時の弟子達が「あなたの家を思う熱心がわたしを食い尽くす」という御言葉を思い出したのと同じく、熱心故のやりすぎではないか程度だったかもしれません。

しかし彼らが言った「しるしを見せよ」は、「不思議なもの、あるいは天からの声」などの証明を意味していました。しかし、それらの証明を求めることは、救うというより、むしろ地獄に落とされます。
なぜなら、彼らは一度、意志を扇動され、知性を丸め込まれ (AE706-2)て、認め、信じますが、その後、自分の生活に戻ると、否定します。自分の生命と正反対のものは、よほど深く印象が無いと、心のそこで受付ません。大切な教えは、概ね三度繰り返されます。そして認めた後に、それを否定することは、冒瀆であり、地獄での冒瀆者の運命は、最悪です (AE706-8) 。

主が宮清めを行われた「家を思う熱心」は、霊的な熱であり、真理への愛であり、偽りへの嫌悪です(AE216)。自分は真理を受け入れたと、偽ることも、冒瀆となるので怖れておられ慎重です。

これは私たちを救おうとする強い愛です。そのため、主は私たちの内側を常に見ていらっしゃいます。誰にもお任せにならず、ご自身から見て、私たちの真実の姿を知り、あらゆる手段で、私たちが救済不可能に陥らず、正しい道を歩むことを見守っておられます。「主が、過越の祭りの祝いの間、エルサレムにおられたとき、多くの人々が、イエスの行われたしるしを見て、御名を信じた。」(2:23)としても、そのままにしておかれません。一番弟子であったペテロでさえ、後で裏切るからです。人は、学び行います、と口にしたことを、自分に都合のいい理由をつけて簡単に翻します。

しかし主は、私たちの長い人生すべての、一瞬一瞬、そしてその最小単位に至るまで支え続けられます(AC59-2)。これが永遠の神が、人間の形をとられて、私たちの生き方をご覧になった理由です。

「しかし、イエスは、ご自身を彼らにお任せにならなかった。なぜなら、イエスはすべての人を知っておられたからであり、また、イエスはご自身で、人のうちにあるものを知っておられたので、人についてだれの証言も必要とされなかったからである。」(ヨハネ2:24,25)
アーメン。


【新改訳】
詩編
69:5 神よ。あなたは私の愚かしさをご存じです。私の数々の罪過は、あなたに隠されてはいません。
69:6 万軍の神、主よ。あなたを待ち望む者たちが、私のために恥を見ないようにしてください。イスラエルの神よ。あなたを慕い求める者たちが、私のために卑しめられないようにしてください。
69:7 私は、あなたのためにそしりを負い、侮辱が私の顔をおおっていますから。
69:8 私は自分の兄弟からは、のけ者にされ、私の母の子らにはよそ者となりました。
69:9 それは、あなたの家を思う熱心が私を食い尽くし、あなたをそしる人々のそしりが、私に降りかかったからです。
69:10 私が、断食して、わが身を泣き悲しむと、それが私へのそしりとなりました。
69:11 私が荒布を自分の着物とすると、私は彼らの物笑いの種となりました。
69:12 門にすわる者たちは私のうわさ話をしています。私は酔いどれの歌になりました。
69:13 しかし【主】よ。この私は、あなたに祈ります。神よ。みこころの時に。あなたの豊かな恵みにより、御救いのまことをもって、私に答えてください。
69:14 私を泥沼から救い出し、私が沈まないようにしてください。

ヨハネ福音書
2:1 それから三日目に、ガリラヤのカナで婚礼があり、そこにイエスの母がいた。
2:2 イエスも弟子たちも、その婚礼に招かれていた。
2:3 ぶどう酒がなくなると、母はイエスに向かって「ぶどう酒がありません」と言った。
2:4 すると、イエスは母に言われた。「女の方、あなたはわたしと何の関係がありますか。わたしの時はまだ来ていません。」
2:5 母は給仕の者たちに言った。「あの方が言われることは、何でもしてください。」
2:6 そこには、ユダヤ人のきよめのしきたりによって、石の水がめが六つ置いてあった。それぞれ、二あるいは三メトレテス入りのものであった。
2:7 イエスは給仕の者たちに言われた。「水がめを水でいっぱいにしなさい。」彼らは水がめを縁までいっぱいにした。
2:8 イエスは彼らに言われた。「さあ、それを汲んで、宴会の世話役のところに持って行きなさい。」彼らは持って行った。
2:9 宴会の世話役は、すでにぶどう酒になっていたその水を味見した。汲んだ給仕の者たちはそれがどこから来たのかを知っていたが、世話役は知らなかった。それで、花婿を呼んで、
2:10 こう言った。「みな、初めに良いぶどう酒を出して、酔いが回ったころに悪いのを出すものだが、あなたは良いぶどう酒を今まで取っておきました。」
2:11 イエスはこれを最初のしるしとしてガリラヤのカナで行い、ご自分の栄光を現された。それで、弟子たちはイエスを信じた。
2:12 その後イエスは、母と弟たち、そして弟子たちとともにカペナウムに下って行き、長い日数ではなかったが、そこに滞在された。
2:13 さて、ユダヤ人の過越の祭りが近づき、イエスはエルサレムに上られた。
2:14 そして、宮の中で、牛や羊や鳩を売っている者たちと、座って両替をしている者たちを見て、
2:15 細縄でむちを作って、羊も牛もみな宮から追い出し、両替人の金を散らして、その台を倒し、
2:16 鳩を売っている者たちに言われた。「それをここから持って行け。わたしの父の家を商売の家にしてはならない。」
2:17 弟子たちは、「あなたの家を思う熱心が私を食い尽くす」と書いてあるのを思い起こした。
2:18 すると、ユダヤ人たちがイエスに対して言った。「こんなことをするからには、どんなしるしを見せてくれるのか。」
2:19 イエスは彼らに答えられた。「この神殿を壊してみなさい。わたしは、三日でそれをよみがえらせる。」

AE706
8
心の中で深く嘆息して、こう言われた。「なぜ、今の時代はしるしを求めるのか。まことに、あなたがたに告げます。今の時代には、しるしは絶対に与えられません。」
ここでの「しるし」は、主が、預言者の預言から期待されたメシアであり、神の息子であることを、
彼らがはっきりと知り、認め、信じるための証明を意味することは明らかです。そしてこれが明らかに啓示され、天から告げられたら、かくして知性を丸め込まれたなら、彼らは認め信じます、しかし後で拒みます。そして認め信じた後の拒絶は、冒瀆であり、冒涜者の地獄での運命は、すべての中で最悪です。

参考 AE376-29
この奇蹟について;ここ、そして御言葉のあらゆるところで、「婚礼」は教会を意味します;「ガラリヤのカナにて」は異邦人の間にて;「水」は外的教会の真理、ユダヤ教会の文字上の意味から;そして「ワイン」は内的教会の真理、キリスト教会の真理を;そのため、主が「水をワインにした」とは、外的教会の真理を、その中に隠された内的なものを開くことによって内的教会の真理とすることを意味します。
「ユダヤ人の清めのしきたりによって備えられた、石の六個の水甕」は、御言葉の中の真理のすべてと、ユダヤ教会とその礼拝のすべてを意味します;これらは主からの、主の内の神的なものの表象と意味のすべてです。こういう理由から、「ユダヤ人の清めのしきたりによって備えられた、石の六個の水甕」がありました。数字の六はすべてを表し、真理についていわれています;「石」は真理で、「ユダヤ人の清めのしきたり」は罪からの清めを意味します;そのためユダヤ教会のすべてが意味されます。それは、その教会は、罪からの清めがすべてと見なし、誰も罪から清められる限り、彼は教会となります。「宴会の世話役」は真理の知識にいる者を意味し:彼が花婿に言った「だれでも初めに良いぶどう酒を出し、人々が十分飲んだころになると、悪いのを出すものだが、あなたは良いぶどう酒をよくも今まで取っておきました。」は、教会のすべては、最初は善から真理にいるが、善のない真理に堕落し、そして今、教会の終わりに、善からの真理、あるいは純粋な真理が主から与えられれます。

Gen35ベニヤミンの誕生

神はヤコブに仰せられた。「立って、ベテルに上り、そこに住みなさい。そしてそこに、あなたが兄エサウから逃れたとき、あなたに現れた神のために祭壇を築きなさい。」35:1

ヤコブは、仲違いした双子の兄エサウと二十年ぶりに再会し、感動的な再会をしました。
ただし、ヤコブは、一方的に低姿勢に出ました。兄エサウに近づくまで七回、地に伏しておじぎします。すると兄エサウはヤコブを迎えに走り、抱いて、さらに首に抱きつき、口づけをし、二人は泣きました。

二人の兄弟は、愛によって仲直りを終えます。愛によって結びつきます。
「あなたは、しもべよりずっと先に進んで行ってください。私は、私の前に行く家畜や子どもたちの歩みに合わせて、ゆっくり旅を続け、あなたのところ、セイルへまいります。」(33:14)
お互いの旅に、気遣いが見せ合いながら、別れがやってきます。

天界の教えによると、真理の善であるヤコブは、神的善の象徴であるエサウから、善でないものが混ざり込んでないかのチェックを受け、純粋である部分に、善の流入を受けます。すると真理と善の結婚が始まります。すなわち、主からの善の流入によって試練の後、真理と善の結婚によって再生が始まります。しかし、真理が善に追いつけない部分は、猶予を受けます。これがエサウとヤコブの仲直りの意味することでした。

次の34章の、ヤコブの娘ディナと土地の族長シェケムの関係、さらにディナの兄シメオンとレビの残忍な復讐劇は、ユダヤ民族の個別の事情が主題です。しかし、主イエスが克服された遺伝悪に関係します。
35章はベテルへの旅と、リベカの乳母デボラの死、ヤコブの最後の息子のベニヤミンの誕生と、出産した母ラケルの死、そしてイサクの死で終わります。冒頭にある、ベテルへの旅は、約束の地、天界を象徴するカナンへの旅が進むことで、より内面に向けて進むことが意味されます。

主イエスの内面の旅は、私たちの再生の道筋を示します。聖書のアブラハムから始まり、イサク、ヤコブと続く主人公、すなわち主イエスを表す象徴の変遷は、すべて主がこの地上で、ご自身の人間を栄化させ、神的なもとする過程を描いています。しかし、それと同時に、これは主が、私たちを再生させてゆくための道筋を描く旅でもあります。天界の教えは、再生の最初の段階、そしてさらに深い段階へ進む者は、ごくごくわずかであると述べます。そして私たちの再生は、主の生涯に比べれば、進歩は早くありません。日々、当面出くわす問題に囚われ続けます。

しかし、主のお導きによって、いつか通る道筋を知ってその備えを行い、希望を抱き続けることは主の御心に適います。日本にはまだ、この道筋を大まかに描いたものはなく、天界の秘義の書籍を学ぶに当たって、自分がどこにいるか、何を学んでいるか迷い始める方がでないためでもあります。

ベテルへの旅の継続によって、娘ディナの問題が一段落し、さらに内面への旅への継続が再開されます。ディナの扱いと、シメオンとレビの復讐は、主イエスのご自分の肉体上の母の遺伝悪を、克服しなければならない問題として、当時の主ご自身に現れたはずです。
私たちも、それぞれの民族として遺伝悪の問題に気づき、克服するよう、注意喚起されておられます。

ヤコブはベテルに向かう前に、持っている異国の神と、耳輪を、シェケムの近くにある樫の木の下に生めて隠すよう一族に語ります。ここで、以前、ラケルが持ち出したテラフィムと、追いかけてきたラバンの問題が思い起こされますが、そのテラフィムもこの異国の神として、樫の木の下に埋められます。
内的真理への情愛が表すラケルが、ひっそりと持ち出したテラフィムも、イスラエル民族の奥底に潜む真理は、エサウの示す善に合致しないものとして、樫の木の下に埋められ、視野から忘れ去られてしまいます。

私たちが持ち続けている、真理と考えているもの、そして現代の私たち自身にも、民族や、自然的な偽りが過去から積み重なり、溜まり続けています。テレビを見ると、占いがシラッと流れ、今日の調子はどうかな?と心を引かれます。もし、より大きな人生の問題に悩むなら、悪と偽りによってさらに深く心を引かれ、神の摂理から心をそらしてしまうかもしれません。カレンダーの休日も、神道に由来するものがほとんどです。天皇の誕生日は休日となっているため、皇室の今後はどうなるか、男子が皇統を継ぐのが正しいかと、霊的成長や宗教的問題から外れたものにとらわれてしまいます。また、戦争の危機や、気象変動、さらにウイルス・疫病の蔓延の情報が、毎日流れます。すると、世界は破滅に向かっていると誤解して、中には破滅的な行動に加わる人も現れます。
しかし他方で、主は天界の教えを通して神の摂理を説かれます。目先の変化する情報に囚われず、隣人や神へ悪を行わず、隣人の幸いを求め、主の導きに従うことが大切と、私たちの本来あるべき視野を元の方向に向け、天界にむかっているという希望と安心を与えられます。

私たちの考え方や、思考の片隅に、こびりついて天界への道を妨げているものすべては、ヤコブが命じたように、使われない記憶の下に移してゆかねばなりません。目指す「ベテル」は、内面が広がる自然的分野、自然的なもの内にある、「神的なもの」です(4547,4539)。私たちはこの神的なものに向けて「立っ」て進むことが必要です。日々の生活の中にあっても、神的なものに心を向ける必要があります。そのためには、地上の問題に縛られず、天界との交流が継続しなければなりません。御言葉によって天使達と同じ意味を捉えることで、真理だけではなく、善への情愛も同じ方向に向けます。真理を求め行うことで善を生み出すことで、天界との交流が生まれます。この交流は教会によってもたらされます(AC4545参照)。逆に言えば、御言葉を通じて天界との交流を生まなければ、それは教会とはいえません。地上の天界が教会であるからです。

私たちは「立ち上がり」、心をベテルに向けて進みます。そのため、偽りが何か、純粋な真理、そして善とは何か、隣人愛とは何か、常に心を向けます。それが私たちの向かう神、主イエスの示す方向であるからです。余計なもの。偽りは曲がりくねった根の「樫の木」の下に捨ててゆきます。そして、「身を清め、着物を着替え」、天界の真理を生きてゆきます。知ることではなく、真理を生き抜きます。
再生しない者は、自分の気に食わないこと、愛さないことを捨てます、再生中の者は、信仰の善と仁愛に合わないことを捨ててゆきます(AC4551:2)。これが仁愛を行う事で、善と真理を結んでゆくことです。

仁愛の道を進む内に不思議なことが起こります。
 「彼らが旅立つと、神からの恐怖が回りの町々に下ったので、彼らはヤコブの子らのあとを追わなかった。」(35:5)
その一つ目は、身を清め、着物を着替えたため、周りに充満していた偽りの中に、恐怖が起こります。神が守っておられるからです(AC4555)。以前心配していた偽りは、私たちに近づかなくなり、例え来たとしても、影響がなくなります。神である主イエスに近づき、その神的真理の力を頂くことがだんだんと増えてきます。そうしてさらに進むなら、「リベカのうばデボラは死に、ベテルの下手にある樫の木の下に葬られ」(35:8)ます。
主ご自身の遺伝悪は、主のご自身のお力で永遠に消し去られます。それは前34章で予見されたように、民族に深く根付く、根拠のない優越感と身勝手な残酷性に気づいておられたからです。

しかし、私たちの遺伝悪は、簡単にはなくなりません。遺伝悪と、気づかないからです。社会の中で生きていると、あるいは悪を気づき会おうとする人達の集まりに入ると、突然、自分の悪が見え始めることがあります。社会の多様性の中で鍛えられ、教会の様々なプログラムに参加することなどで、まず自分の遺伝悪を知ります。
他人の遺伝悪は簡単に目につきますが、自分自身の遺伝悪は、自分で気づかなければなりません。そして悔い改めの教えに従い、これを主に祈って遠ざけなければ、取り去って永遠に取り去り、「アロン・バクテ」すなわち「樫の嘆き」の下に追いやり捨て去ることはできません。教会が用意するこの種類のプログラムに参加すること、御言葉の内意に学ぶことは、その気づきの始めとなります。社会の中では、悪や偽りがあっても、それがその社会では正しいとされる可能性があります。自然性の外的側面は、肉体的感覚と世の価値に従った感覚でしかない、感覚的規準に基づくからです(AC4570)。
私たちは、主が与える判断基準に従い、御言葉に学び、実行してゆきます。その規準に基づいて気づかない悪は、避けることも、除くこともできません。

主を意味するヤコブは、遺伝悪と闘い、勝利したことで、神シャッダイから祝福されます。シャッダイは試練の後に来る慰めを意味する神です(AC4572)。
「わたしは全能の神シャッダイである。生めよ。ふえよ。一つの国民、諸国の民のつどいが、あなたから出て、王たちがあなたの腰から出る。」(35:11)

「諸国の民の集い」と呼ばれる祝福は、ヤコブが初めて与えられるものです。父親のイサクは子孫(26:24)、祖父のアブラハムは多くの国民の父(17:5,6)と祝福の中にも細かな差があります。アブラハムが祝福された「国民」とは善のことを意味しますが(AC1259)、ヤコブは「国民」に「諸国民の集い」が加えられています。この後者の諸国民の集いとは、「善からの真理」を意味します(AC4574)。

人は知性と意志が一つの心を形成するように作られています。例えば、礼儀正しさと誠実さは同時に働いてはじめて一個の心になります。礼儀作法は素晴らしいが、心は不誠実な人。心は誠実だが、礼儀作法は未熟な人。これらの一方だけが働くのは、この世では可能かもしれませんが、霊界では許されません。霊界での秩序を目指すなら、私たちは誠実で、かつ礼儀正しくあらねばなりません。

一見、道徳的・社会的な面に見えますが、礼儀正しくという真理から、誠実という善に進みます。さらに、隣人に誠実にありたいと思う心から、より詳しく礼儀正しさが生まれます。霊的にも善と真理の一致が求められますが、善と真理の結婚は、自然界にいる私たちには見えません。しかし、この自然界で生きている間に、道徳的な善と真理の一致に努めることで、同時に生きている霊の世界で私たちは成長します。見かけだけの誠実は、霊界に移ってから、外面が取り払われ、その人は不誠実そのものとなってしまいます。見かけだけではなく、誠実さから礼儀正しくあるよう努めます。その場限りの不誠実は、日々の行いで悪として拒みます。また他方で、礼儀正しさも求めます。誠実さの表現が礼儀正しさであるからです。これは霊界での生活の基本であり、私たちも地上にいるうちから、この一致に努めれば、目には見えませんが、霊界で成長してゆきます。

現れた主に、ヤコブが今後はイスラエルと名乗れと、頂いた祝福は、主からの頂く善のすべてであり、個別には善と真理の結合を意味 (AC4567)します。自然的ではなく、霊的に生きてゆけという進歩の証しです。目には見えませんが、進歩した本人と、天使たちにはわかります。

そして、これを地上に現したものが、ベテルでヤコブが行ったことです。後に、主ご自身がこの世で定められた聖餐です。
 ヤコブは、神が彼に語られたその場所に柱、すなわち、石の柱を立て、その上に注ぎのぶどう酒を注ぎ、またその上に油をそそいだ。(35:14)
当時は、灌祭(かんさい)と呼ばれるぶどう酒の注ぎであり、これは真理の善を意味します。そして素祭と言われる、油の注ぎとともに、現在はワインとパンの聖餐式となっています。聖餐式も真理と善の結婚を意味します(AC4581)。善と真理の結婚を意味する聖餐式にあっては、偽りは赦されません。偽りを抱えたまま霊界に進めば、偽りと善との結婚となり、再生不可能という厳しい結果が待っているからです。

ベテルへ行く道で、持っていた自然的偽りを清め、リベカの乳母である遺伝悪を葬ると、自然的局面であるベテルで、主が再び現れ祝福され、善と真理の結合が進んでゆきます。そして自然的なものを意味するベテルから、さらに内面を意味する部分、ベツレヘムで生まれるのが、ヤコブの最後の子であるベニヤミンです。母のラケルのお産の苦しみと死に表されるような厳しい試練を乗り越えれば、全く新しい状態が誕生します。ベニヤミンあるいは主が後にお生まれになるベツレヘムは、「天的なものの霊的なもの」を意味します(AC4584)。

先に産まれたヨセフと同じように、ベニヤミンも、天的なものと霊的なもの中間的なものを意味し、教会に属する霊的真理を意味します。後にベニヤミンの息子達は、エルサレムを受け継ぐこととなります。エルサレムは霊的教会を表し、その教義を意味します。
教会の霊的真理が誕生したことで、教会の真理のすべて、十二人の息子が揃いました。母のラケルはこの子をわたしの苦痛と嘆きの子と呼んで、試練の激しさを物語りますが、父はベニヤミン、すなわち「右手の息子」と呼んで、全能の力の誕生を表現します。

パダン・アラムでの11人の息子の誕生から始まり、ベツレヘムで全能の力を意味するベニヤミンの誕生で、教会の真理のすべてを表す12人の息子がすべて誕生しました。その全能の力で私たちを天界に導く手段のすべてが備えられたことになります。ベツレヘムの次に向かう先は、イサクの表す合理性です。主の魂の成長はさらに進み、私たちを新しい状態へと導く手段も揃います。

「彼女が死に臨み、そのたましいが離れ去ろうとするとき、彼女はその子の名をベン・オニと呼んだ。しかし、その子の父はベニヤミンと名づけた。(35:18)アーメン

創世記(新改訳)
35:1 神はヤコブに仰せられた。「立って、ベテルに上り、そこに住みなさい。そしてそこに、あなたが兄エサウから逃れたとき、あなたに現れた神のために祭壇を築きなさい。」
35:2 それで、ヤコブは自分の家族と、自分と一緒にいるすべての者に言った。「あなたがたの中にある異国の神々を取り除き、身をきよめ、衣を着替えなさい。
35:3 私たちは立って、ベテルに上って行こう。私はそこに、苦難の日に私に答え、私が歩んだ道でともにいてくださった神に、祭壇を築こう。」
35:4 彼らは、手にしていたすべての異国の神々と、耳につけていた耳輪をヤコブに渡した。ヤコブはそれらを、シェケムの近くにある樫の木の下に埋めた。
35:5 彼らが旅立つと、神からの恐怖が周りの町々に下ったので、だれもヤコブの息子たちの後を追わなかった。
35:6 ヤコブは、カナンの地にあるルズ、すなわちベテルに来た。彼とともにいた人たちもみな一緒であった。
35:7 彼はそこに祭壇を築き、その場所をエル・ベテルと呼んだ。それは、彼が兄から逃れたとき、神がそこで彼に現れたからである。
35:8 リベカの乳母デボラが死に、ベテルの下手にある樫の木の下に葬られた。それで、その木の名はアロン・バクテと呼ばれた。
35:9 ヤコブがパダン・アラムから帰って来たとき、神は再び彼に現れ、彼を祝福された。
35:10 神は彼に仰せられた。「あなたの名はヤコブである。しかし、あなたの名は、もうヤコブとは呼ばれない。イスラエルが、あなたの名となるからだ。」こうして神は彼の名をイスラエルと呼ばれた。
35:11 神はまた、彼に仰せられた。「わたしは全能の神である。生めよ。増えよ。一つの国民が、国民の群れが、あなたから出る。王たちがあなたの腰から生まれ出る。
35:12 わたしは、アブラハムとイサクに与えた地を、あなたに与える。あなたの後の子孫にも、その地を与えよう。」
35:13 神は彼に語ったその場所で、彼を離れて上って行かれた。
35:14 ヤコブは、神が自分に語られた場所に、柱を、石の柱を立て、その上に注ぎのぶどう酒を注ぎ、さらにその上に油を注いだ。
35:15 ヤコブは、神が自分と語られたその場所をベテルと名づけた。
35:16 彼らはベテルから旅立った。エフラテに着くまでまだかなりの道のりがあるところで、ラケルは出産したが、難産であった。
35:17 彼女が大変な難産で苦しんでいたとき、助産婦は彼女に、「恐れることはありません。今度も男のお子さんです」と告げた。
35:18 彼女が死に臨み、たましいが離れ去ろうとしたとき、その子の名をベン・オニと呼んだ。しかし、その子の父はベニヤミンと名づけた。
35:19 こうしてラケルは死んだ。彼女はエフラテ、すなわちベツレヘムへの道で葬られた。

ヨハネ福音書
17:9 わたしは彼らのためにお願いします。世のためにではなく、あなたがわたしに下さった人たちのためにお願いします。彼らはあなたのものですから。
17:10 わたしのものはすべてあなたのもの、あなたのものはわたしのものです。わたしは彼らによって栄光を受けました。
17:21 父よ。あなたがわたしのうちにおられ、わたしがあなたのうちにいるように、すべての人を一つにしてください。彼らもわたしたちのうちにいるようにしてください。あなたがわたしを遣わされたことを、世が信じるようになるためです。
17:22 またわたしは、あなたが下さった栄光を彼らに与えました。わたしたちが一つであるように、彼らも一つになるためです。
17:23 わたしは彼らのうちにいて、あなたはわたしのうちにおられます。彼らが完全に一つになるためです。また、あなたがわたしを遣わされたことと、わたしを愛されたように彼らも愛されたことを、世が知るためです。

  1. 「一民族、諸民族の集団があなたから出」‘Gens et coetus gentium erit a te’とは、善を意味し、善の神的〈かたち〉を意味します。その根拠は次の通りです。
    「民族」とは、教会の善を意味します(1259,1260,1362,1416,1849節)。また「諸民族の集団」とは、善由来の諸真理、換言すれば、善の〈かたち〉を意味します。主をテーマとした最高の意味では、神の善に由来する神的諸真理を意味します。すなわち、神の善の〈かたち〉です。
    ② 善の〈かたち〉とは何か、これについてまず述べ、それに引き続き、「諸民族の集団」が、意味上、善の〈かたち〉であることに触れます。
    善に由来する諸真理を、善の〈かたち〉と言います。なぜなら善に由来する諸真理は、形成された善以外の何ものでもないからです。諸真理について、それ以外の考え方をしたり、まして善から真理を切り離したりする人は、真理とは何か理解していません。
    諸真理は、一見、善から切り離されているように見え、そのものとして per se 〈かたち〉でしかないようです。しかしそれは、善の中にいない人々にとって、そう見えるだけです。つまり考えたり、話したりすることが、欲したり、実行したりすることとは、別ものであると思う人々です。
    人は、理性 intellectus と意志 voluntas が一つの精神を構成するように造られています。しかも理性が意志と行動をともにするときこそ、一つの精神を構成します。すなわち意志をもって、それに動かされ、実行するのが目的で、考えたり、話したりするときです。そのとき、本人の理性は、本人の意志の〈かたち〉になっています。
    真理が語られるとき、理知的なもの intellectualia になります。なぜなら真理とは、理性固有のものだからです。それにたいし、善と呼ばれるものは、意志に属するものです。なぜなら善は、意志固有のものだからです。したがって、理知的なもの intellectuale は、そのものとして見た場合、形成された意志的なもの voluntarium formatum になります。

③ しかし、〈かたち〉という言葉は、人文学としての哲学 philosophia humana からの匂いがあります。そのため、例をあげて説明することにすれば、諸真理が善の〈かたち〉であることが明らかになります。
社会的・道徳的生活の中では、誠実 honestum と、礼儀作法 decorum が存在します。誠実とは、社会生活にかんして、人にたいして心から幸福を願う思いです。それにたいし礼儀作法とは、言語や態度によって、その誠実さを証明することです。したがって、礼儀作法は、それ自身として見た場合、誠実さの〈かたち〉以外の何ものでもありません。誠実こそ礼儀作法の源です。
したがって誠実さが、礼儀作法を通して、または礼儀作法によって、すなわち言語や態度を通して働くとき、礼儀にかなう個々の事柄の中で、誠実さが現れます。何でも言語を通して発話され、態度を通して示されれば、そこに誠実さが現れてくるものです。それが〈かたち〉でありイメージで、その〈かたち〉やイメージを通して、誠実さが輝きを放ちます。それは本質とその〈かたち〉、いわば本質的なもの essentiale と、その外面的形 formale が一体となって働く結果です。
しかしだれかが、誠実と礼儀作法とを分離するとどうでしょう。すなわち仲間にたいして悪意をもちながら、上手に話す場合です。あるいは、相手を攻撃するため、上手に身を処するときです。そのようなとき、誠実さにあるような〈かたち〉を礼儀作法を通して、どれほど示そうと努めても、言語や態度には、何らの誠実さもありません。むしろそこには不誠実さがあります。鋭敏な人は、それを不誠実と命名します。そこには物まねや、欺瞞や、下心があります。

④ 以上から、諸真理と諸善との関係が分かってきます。霊的生活上での真理は、社会生活上での礼儀作法のようであり、霊的生活上での善は、社会生活上での正直さのようです。それで真理が、善の〈かたち〉であるときと、真理が善から切り離されるときの違いが明らかです。つまり真理が善由来ではない場合、ある種の悪に由来することになります。悪の〈かたち〉でありながらも、善の〈かたち〉であるかのように、人をあざむきます。
「諸民族の集団」とは、善の〈かたち〉です。これは前述したように、「民族」には善という意味があり、民族の集団、すなわち会衆 congregatio は、民族の集まりであって、前述のように、〈かたち〉であり、真理です。
また諸真理が浮き彫りにされ、しかも民族は善を指しますから、「一民族がヤコブから出る」と言われるだけでなく、「諸民族の集団」が出ると言われています。そうでなければ、どちらか一方で十分だったはずです。
さらに、〈みことば〉で、「集団」、「会衆」、「大勢の人」と言えば、諸真理を話題にします。「大勢 multitudo」、あるいは「増える multiplicari」については、43,55,913,983,2846,2847節を参照してください。