創世記45章: ヨセフの顕現と和解

創世記45章: ヨセフの顕現と和解

ヨセフは兄弟たちに言った。「私はヨセフです。父上はお元気ですか。」(45:3)

兄弟たちの前で、エジプトの支配者としてふるまってきたヨセフは、ついにその正体を明かします。
ヨセフが兄弟たち、とくに実弟のベニヤミンに会って、感動のあまり人前で自分を制することができなくなり、和解のため自分の正体を明かしたとされています。積年の恨みを超えて、兄弟たちが自分にしたことを赦します。その赦しの行為と和解は、素晴らしい行いであると結論づけます。

しかし、赦しと兄弟間の和解のすばらしさだけを説くなら、神のみことばである聖書は、道徳のお手本にしかすぎません。兄弟の仲たがいと仲直りは、どこにでもありそうな例で、赦しの素晴らしさは描けても、人類全体の救いの道に直接関係するものかについては少し疑問です。しかし、天界の教えによる内意は、人類全体の救いについて、全く異なることを教えます。

まずヨセフの物語の事実の流れです。当初、ヨセフは兄弟たちから見ると、許しがたい夢を見ます。自分が中心にいて、兄弟たちがすべて自分にむかってお辞儀をします。さらに父母を表す太陽と月を加えて、すべてが、ヨセフを拝みます。この夢を周りに告げたため、ヨセフは生意気な弟だと、兄弟から「除け者」にされてしまいます(創37章)。さらに、あろうことか、殺そうとさえしますが、不幸中の幸い、商人に売られエジプトに連れてゆかれます。しかし、エジプトでは神の導きで、出世して宰相の地位につき、エジプト全土を支配するに至ります。カナンに残っている親兄弟たちは、飢餓のため危機を迎え、エジプトにやってきて、支配者であるヨハネに食糧を求めます。

天界の教えの解釈は、人類の救いに関するさらに壮大なものです。
ヨセフは人間の内的そして天的なものを表します。ヤコブの十人の息子達は、教会の外的な自然性を表します。
十人の兄弟たちが表す外的な自然性は、当初、ヨセフの表す内的で天的なものを認めず、除け者にして否定します。
しかし兄弟たちの地全体が飢餓の状態を迎えたことは、カナンの教会が善と真理の不足で危機にあったことを意味します。教会の存続をかけて、知識の豊富なエジプトにやってきて、生きる糧となる食糧を求めますが、ヨセフの計略にはまってしまいます。兄弟全員をエジプトに引き寄せ、兄弟の一部を人質として、ヨセフの弟のベニヤミンをエジプトに呼び寄せます。

ベニヤミンをエジプトに呼び寄せたことは、外的・自然的なものに、内的・天的なものを導入してゆくための手段でした。その計略は、外的な真理に内的真理を導入するための過程です。本45章では、さらに外的・自然的なものと、内的・天的なものとの結びつきの過程に入ってゆきます (AC5867)。

外的な自然性は、それだけでは生命があるとはいえません。なぜなら外的な自然性だけが存在し、内部との結びつきを全くもたないなら、生命の源と結びつかず、全体はいつか死を迎えることになります。中身のない外面だけの真理は、その根本的目的である善を失い、滅びてゆくことになります。外面だけ自然性だけの教会は、本来の目的の善を失ったため、善と真理が不足し、絶滅への道を歩み進めますが、それに気づけません。

豊穣の地のエジプトを支配し、霊的な食物である善と真理を蓄えたヨセフは、親兄弟たちを救うことで、彼らによって表象される教会を救わなければ、人類は滅びてしまいます。全地のどこかに生命を源とし善を目指す教会がなければ、人類は悪と偽りに突入して死に至ります。

ヨセフは兄弟たちに今後起こる危難を告げます。主が貯める善と知識を蓄積していかなければ、それが輝き始めるには、まだ時間がかかることを次のように伝えます。(AC5893,5894)
「というのは、この二年の間、国中に飢饉が起きていますが、まだあと五年は、耕すことも刈り入れることもないからです。」(45:6)
善がその働きをするためには、自然的な心の内に真理がなければなりません。そしてそれらの真理は純粋な愛に属する情愛を通してもたらさらねばなりません(AC5893)。純粋な情愛によって真理を求め、実行して思い出してゆかねば、いつか必要な時に使える善と真理の蓄積とはなりません。蓄積は主のわざで、時間をかけて本人が知らないうちに蓄積されてゆきます。善と真理が不足している危機を十人の兄弟たちで表される外的な教会に告げます。

しかし天的で、内的なものであるヨセフと、外的なものにしかすぎない十人の兄弟たちは、昔のように、意思疎通を図ることができません。ヨセフがただ自分の正体を明かしても、兄弟たちは受け入れてくれず、天的で内的なものは、理解されず、再びのけ者にされてしまい、地上の教会は滅びてしまいます。

そこで、まず力の差、食糧の差、善と真理が継続して供給されるか、持続可能な教会であるかを知らなければなりません。足りないことを知り、足りないものを求める謙虚さを持たなければ、何事も受け付ないからです。
天界の教えは告げます、「それらの真理へのこだわりは自己愛から起こり、自分だけを愛する者は、自らを謙虚にすることはできません」(AC5929)。兄弟たちはヨセフの権力を見せつけられることで、次第に謙虚になり従順になってゆきます。しかしヨセフが表す内部的善と、兄弟たちの表す自然性にある教会の真理の間は、結びつくにはまだまだ遠い存在です。その場でほしいものさえ得れば、持続可能性を無視して、近寄らなくなります。

そこで天的な内部であるヨセフと、外的で自然的な兄弟たちの仲介をする、実弟のベニヤミンが必要となります。仲介者であるベニヤミンに内的真理を認識させ、その大切さを父親に告げることで、父親の持つ善の力を引き出すしか、教会が存続する道はありません。善こそが本来の力であるからです。

「さあ、あなたがたも、弟のベニヤミンも、自分の目でしっかり見てください。
あなたがたは、エジプトでの私のすべての栄光(誉)と、あなたがたが見た一切のことを父上に告げ、急いで父上をここに連れて来てください。」(45:12,13)

この栄光は、霊的天界のことです。自然的性の内の霊的天界と、霊的善が交流することを意味します(AC5929)。
聖書にはたびたび出てくる「栄光」です(AC5929-4)。霊的な真理の美しさと力です。主イエスご自身のことです。
「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた」(ヨハネ1:14)
この世における主の恵みと誠にあふれる言動こそが、父である霊的善に伝える栄光となります。神の教えを曲げ、先祖の行いによって、善を失い、生命を失い始めた教会を、霊的によみがえらせる力です。

父親と弟のベニヤミンの証言、内的価値を認めて伝えることで、自然的で外的なものにのみ価値を置く、十人の兄弟たちを、内的善であるヨセフに近づけます。主のこの世でのみ言葉の真の意味を、理解し、行うことで自分たちのものとして、霊的生命という善をよみがえらせるための主の摂理、神の力です。神の力、生命を認識するのが媒介者の役目です。「私の弟のベニヤミンの目」によって意味される、媒介者の認識です(AC5920) 。

弟のベニヤミンが、内的真理を深く認識することで、これを意味するヨセフと深く結ばれます。
「彼は弟ベニヤミンの首を抱いて泣いた。ベニヤミンも彼の首を抱いて泣いた。」(45:14)
一方的な行為ではなく、ヨセフからの行為と、ベニヤミンからの相互的な行為で、この相互性が結合を産みます。

ベニヤミンとヨセフが結ばれることで、ベニヤミンは媒介としての役目を果たし、ヨセフと兄弟たちとの語り合い、交流が始まります。
「彼はまた、兄弟みなに口づけし、彼らを抱いて泣いた。それから兄弟たちは彼と語り合った。」(45:15)

しかし両者の交流ははじまったばかりです。両者の交流をさらに深めて、結合して持続可能となるためには、父親の力が必要です。霊的善をあらわす父親の名は、外的部分と内的部分を表す、ヤコブとイスラエルの名が交互して現れはじめます。霊的生命を受ける前は、「ヤコブ」といわれ、霊的生命を受けた後は「イスラエル」といわれます。
例えば、21節では「イスラエルの子らは、そのようにした。」(45:21)。25節では、「彼らの父ヤコブのもとへ行った」(45:25)。27節では「父ヤコブは元気づいた(45:27)。続く28節では「イスラエルは言った」(45:28)、と目まぐるしく、ヤコブとイスラエルの間で変化してゆきます。これは間違いではなく、一つ一つに意味があります。 

そして、兄弟たちのカナンへの旅が始まります。父親を連れてエジプトにやってくる旅です。
エジプトの王であるファラオは、ヨセフが兄弟たちに対して次のように述べるよう指示します。
「子どもたちと妻たちのために、エジプトの地から車を持って行き、あなたがたの父を乗せて来なさい。家財に未練を残してはならない。エジプト全土の最良の物は、あなたがたのものだから』(45:19,20)

「子供たち」はこれらの事柄を知らない者を、「妻たち」は真理の情愛を意味するがまだ真理に至っていない者を表します。彼らを「車」によって表される教義によって教え導き、「父を連れてくる」ことは、役立たせて善に近づけることを意味します(AC5945,6,7)。カナンからエジプトへの旅は、単なる旅行ではなく、私たちの霊的成長の旅でもあります。
旅の中で、「家財に未練を残すな」とは、物事の本質を認め、手段的なものには囚われるなということを意味しています。

物事の本質に近づくには、なにか近づくための手段的なものが必要ですが、進むにつれて手段的なものと本質的なものの組み合わせは変化してゆきます。魂を求めるとき、肉体は大切ではなくなり、真理を求めるとき、記憶知に未練を残す必要はなくなり、善を求めるとき、真理に未練を残す必要はなくなります(AC5948)。

著作の真理を理解するにつれ、翻訳文や英語・ラテン語の原典を読むための知識は必要が薄れてゆき、真理の実践が進むにつれ、真理の理解の必要性は薄れてゆき、再生が進むにつれて、真理の実践のことすらあまり考えなくなり、ついには善だけを求めてゆきます。

しかし、真理が不足するときも、真理への情愛が不足することもあります。時期に応じて、教会や周りから刺激を絶えず刺激を受けます。

旅のための食糧は十分与えられます。謙虚に認めれば、主が無償で与えられ(AC5957)るからです。特にベニヤミンには、仲介の役目を果たすべく、十分な量が与えられます。「銀三百枚と晴れ着五着」がその十分さを意味します (45:22)。新教会は真理過剰になるときもありますが、それは周りに与えるという意味があるのかもしれません。

旅の任務を果たすべく、主から流入があり、無事カナンにたどりつき、父ヤコブを元気づけることができます。そして教会の自然的・外的なものと内的・天的なものが、ヤコブの内的善の力によって完全に結びつく瞬間を迎えることになります。ヨセフという内的・天的なものが滅びてないことを知り、元気づけられたヤコブは、イスラエルとして語ります。

イスラエルは言った。「十分だ。息子のヨセフがまだ生きているとは。私は死ぬ前に彼に会いに行こう。」(45:28) アーメン。

創世記(新改訳)
45:12 さあ、あなたがたも、弟のベニヤミンも、自分の目でしっかり見てください。あなたがたに話しているのは、この私の口です。
45:13 あなたがたは、エジプトでの私のすべての栄誉と、あなたがたが見た一切のことを父上に告げ、急いで父上をここに連れて来てください。」
45:14 彼は弟ベニヤミンの首を抱いて泣いた。ベニヤミンも彼の首を抱いて泣いた。
45:15 彼はまた、兄弟みなに口づけし、彼らを抱いて泣いた。それから兄弟たちは彼と語り合った。
45:16 ヨセフの兄弟たちが来たという知らせが、ファラオの家に伝えられると、ファラオもその家臣たちも喜んだ。
45:17 ファラオはヨセフに言った。「おまえの兄弟たちに言うがよい。『こうしなさい。家畜に荷を積んで、すぐカナンの地へ行き、
45:18 あなたがたの父と家族を連れて、私のもとへ来なさい。私はあなたがたに、エジプトの地の最良のものを与えよう。あなたがたは、地の最も良い物を食べるがよい。』
45:19 おまえはこう命じなさい。『子どもたちと妻たちのために、エジプトの地から車を持って行き、あなたがたの父を乗せて来なさい。
45:20 家財に未練を残してはならない。エジプト全土の最良の物は、あなたがたのものだから』と。」
45:21 そこで、イスラエルの息子たちはそのようにした。ヨセフは、ファラオの命により、彼らに車を与え、また道中のための食糧も与えた。
45:22 彼ら一人ひとりに晴れ着を与えたが、ベニヤミンには銀三百枚と晴れ着五着を与えた。
45:23 父に贈ったものは、エジプトの最良のものを積んだろば十頭と、穀物とパンと父の道中の食糧を積んだ雌ろば十頭であった。
45:24 こうしてヨセフは兄弟たちを送り出し、彼らが出発するとき、彼らに言った。「道中、言い争いをしないでください。」

ヨハネ福音書
1:14 ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。


天界の秘義5893.
「この二年の間、この地の中央でききんがあった」は、自然的心に善の不足がある状態を表します。・・・
[2] この含意はこうなっています。
善がその働きをするためには、自然的な心の内に真理がなければなりません。そしてそれらの真理は純粋な愛に属する情愛を通してもたらさらねばなりません。例外なしに人の記憶はすべて、何等かの愛を通してもたらされ、その愛と結びつくことで、記憶の中に残ります。これはまた信仰の真理に適用できます。愛を通して真理がもたらされるなら、これらの真理はそこに愛とともに残ります。そこで結びつくなら、次のようになります:情愛が再び呼び起こされれば、同時にそれに結びついた真理が再現します。そして真理が呼び起こされれば、同時にそれらに結びついた情愛が再現します。それは成人の、人が再生されるときに起こりますが、それ以前は、彼は主によって送られた天使によって支配されます。それはその時には信仰の真理について自分から考えることができないからです。彼らは彼を、真理だと考え始めた真理によって維持して治め、それらの真理を通して維持することで、情愛を結び付けてゆきます。その情愛―真理への情愛―は善に源を得ており、善に向かって段階的に導かれてゆきます。

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