LGBTQ

LGBTQ

創造者ははじめの時から『男と女に彼らを創造され』ました。 (マタイ19:4)

LGBTQとは次の言葉の頭文字をとって組み合わせた言葉で、性的少数者 (セクシャルマイノリティ) を
表す言葉の一つとして使われています。
性的指向とは、どのような性別の人を好きになるか、ということです。
これは自分の意志で選び取るというより、多くの場合思春期の頃に「気付く」ものです。
性的志向から、女性の同性愛者(レズビアン)、男性の同性愛者(ゲイ)、両性愛者(バイセクシャル)に分かれます。
性自認 (性の自己認識)とは、自分の性をどのように認識しているのか、ということです。
「心の性」と言われることもあります。多くの人は「身体の性」と「心の性」が一致していますが、
「身体の性」と「心の性」が一致せず、自身の身体に違和感を持つ人たちもいます。
身体と心の性が不一致の人(トランスジェンダー)です。
性的少数者(セクシュアルマイノリティ)には、LGBT以外にも、男女どちらにも恋愛感情を抱かない人や、自分自身の性を決められない・分からない人など、さまざまな人々がいます。これを特定の枠に属さない人(クイア他)でしています。
https://www.moj.go.jp/JINKEN/LGBT/index.html

これらの方々は社会的・宗教的に認められず、自信を失い、自分の異常に悩み苦しむ人が多かったといいます。新教会でも、別の宗派に属する牧師が集会にやってきて、悩みに苦しむ人を無視していいのか?と指摘してくれたことがあります。あるいは、ネット経由で、聖職者なのに、苦しむ人を無視していいのか?と同じような問題の提起をしてくれる方もいました。
ほかにも、日本で、両性具有で生まれた人をテーマにした漫画を何種類か拝見したこともあり、そういう問題があるとは認知していました。

一方で、LGBTQに関する話は、霊の存在を認めるかどうかの話にも似て、なかなか収まりどころがない方向に拡散してしまう恐れも感じていました。

ところが、今回の聖職者会議では、LGBTQが課題となり三日半の日程のほとんどが、その神学的課題の検討に費やされました。教会の幹部は最低限の合意までたどり着きたいと願っていたように思いますが、全員合意には至らなかったようです。(個人的に帰国に必要なコロナ陰性証明書の入手に追われていたこともあって結論を聞き逃した可能性もあります)。
ジェネラルチャーチには、説教や組織はこうあらねばならないという決まりは全くなく、聖書と著作を「神のことば」として扱うことだけが唯一の合意事項です。そして、合意形成にも全員合意を目指し、時間をかけるというのが、もう一つの決まりだと思います。一般に日本の教会の一部には、ジェネラルチャーチは保守的だと批判する傾向があるようですが、これらの根本的な方向性を述べているのかもしれません。今回の問題もその根本方針に従って進められました。

さて、聖職者会議の全日程を終え、帰国の要件である陰性証明も無事取得し、フィラデルフィアからニューヨークで一泊して帰国の途に移りました。6月26日のことです。ニューヨークの玄関口、ペン・ステーションに着くや否や、LGBTQらしい華やかな服装の人々に囲まれました。男性トイレの個室部分には、堂々と女性が入ってきます。何事かとスマホで調べれば、その日は、コロナで数年静かであった、プライド・パレードが復活し、まさにそのピークの日だったようです。虹色に染めた旗と衣装を着た人々が、すさまじい熱気で集い、歌い、叫んでいました。路上は警官によって厳しく交通規制され、行く先と経路を指示されます。

プライド・パレードは、LGBTQ、性的少数者の人権解放のパレードとされています。かつての「オズの魔法使い」の女優が性的少数者で、彼女が「虹のかなた」にという主題歌を歌っていたこともあって、虹色がシンボルとされていると聞きました。

この解放運動には過去にも賛否両論があり、ニューヨークのグリニッジ・ヴィレッジ地区のある町で、警察との激しい闘争があったと言います(1969年6月28日「ストーンウォール・イン」事件)。その後、先進国では性的少数者は社会におおむね受け入れられ始めていますが、全世界でみれば、そうではないようです。東京では虹色のパレードが始まっているかもしれませんが、さらに山間・海辺の町ではまだ浸透していないように思えます。重要である、様々人の好みを、差別する心なしに受けいれる社会にはなっているかは、疑問です。旧い日本にも仏教寺院や僧院や権力者には、そのような風習があったと聞いています。教会の友人には、日本の一般事情として歴史のことを説明しました。

ロシアのウクライナ侵攻(自称軍事作戦?)も、プライド・パレードへのロシアの正教会総主教の反感が原因の一つであったとCNNは伝えていたことを思い出します。様々な人の指向を認めようという流れは都会や一部の大企業の中ではあるものの、世界中・日本中すべてが同じスピードで進んでいるというわけではないようです。
(https://www.cnn.co.jp/world/35184795.html)

さて、新教会教義にLGBTQの、特に同性愛に関する教えがあるかといえば、著作で正面切ってこれを取り上げた項目はほぼない、という意見が大勢です。ただし、同性愛でいえば、二つ関係するものがあります。

その一つは、レビ記18:22の「あなたは女と寝るように、男と寝てはならない。」という戒めです。レビ記18章6節から24節の部分は、文字上、背徳の結婚と情欲についての戒めとされています。
しかし霊的意義は少し異なっています。
「み言葉では、『姦淫』の霊的意義は善の不善化で、『密通』は真理の歪曲を意味し( 2466, 3399)ますが、不潔な結びつきは禁止の段階に応じて (レビ記 18:6-24)、様々な種類の冒涜があることを意味します。」(AC 6348:2)
この部分はヤコブの長男ルベンの行為の内意が描かれ、22節の行為の内意自体は個別には触れられていません。この章の内容をざっと眺めると、外的行為の禁止だけではなく、その内的な意味の禁止がメインであるように見えます。その詳細はすべて啓示されてはいません。霊的姦淫は、実に多岐にわたるためかもしれません。

もう一つは、創世記のソドムの町の裁きの部分です。
「すべての人が、町の隅々から来て、その家を取り囲んだ。そしてロトに向かって叫んで言った。「今夜おまえのところにやって来た男たちはどこにいるのか。ここに連れ出せ。彼らをよく知りたいのだ。」(創世記19:4,5) 
ここで「彼ら」と言われているのは「二人のみ使い」です。「知りたい」とは聖書ではよう使われる用語で、主に性的関係を指すといわれています。同性間ほか一般的に正常でない性的関係を、ソドミーと呼ぶ人がいます。

しかし、天界の教えは、「ソドムは自己愛から生じるあらゆる悪」が意味され、「ソドムは姦淫の最悪の形から成る悪を意味しますが、それでもなおその悪は自己愛から生じるあらゆる悪が意味されます」(AC2220)。性的関係には限られていません。
そして「二人のみ使い」とは主の神的人間と、そこから発するものです(AC2320)。ソドムの町の人は、主ご自身に対して、暴行を働こうとしました。新約聖書にたびたび出てくる暴行です。もちろん主を認めないという霊的暴行が実際にあったことです。

どのような行為が、ソドムと言われる具体的な行為かの記述はありませんが、しかし自己愛から起因するすべての悪が意味されているといいます。それなら、その悪にはまさに無数の変化があります。私たちは自己愛そのもの、そして世間愛そのものと言ってもよいほどの存在なので、これらを挙げると、外面的には私たちの行為のすべてとなってしまうからかもしれません。

そして内面の判断は、霊界に入った後、主ご自身がそれぞれの人間に対してなさるかものと、この世で私たち自身が自己点検で真剣にあぶりだしてゆくものがあります。悪は気づかなければ、決して避けることができません。それは自分自身の無意識な、また意識的な行動のすべてであるからです。そして自己愛は地獄そのものであり、その説きつけは実に巧妙で、地獄からの説得行動であることは一見わかりません。

外面上、そして頭の中だけで新教会に属していると自分が考えても、すべては私たちの魂の実質、愛で決められます。新教会である新しいエルサレムに対する警告として、黙示録には次の句があります。
「犬ども、魔術を行う者、淫らなことを行う者、人を殺す者、偶像を拝む者、すべて偽りを好み、また行う者は、外にとどめられる。」(黙示22:15)
犬は、あらゆる情欲に囚われ、飲食の楽しみを含めた肉体的情欲にふける人が意味されます(AR952)。もちろん性欲もその中に入ります。私たちは地道に悪を避け、善を行う断悪修善の道を進まねばならないことにはまったく変化はありません。

しかしLGBTQに関する限り、私たちが気づきにくいことがあります。黙示録の中で言われている「人を殺す者」という語、そして十戒の中で「殺すなかれ」に反する行為です。驚くべきことに、新教会でも、平然と人を裁き、地獄に落ちると口にする人々がいます。それらの人々の行為です。それらの人々はいわば、意識して、あるいは無意識に、霊的な殺人を行っています。

主はヨハネ福音書で、姦淫した女の裁きについて教えられています。
律法学者とパリサイ人が、姦淫の場で捕らえられた女を連れて来て、真ん中に立たせ、イエスに言った。
「先生、この女は姦淫の現場で捕らえられました。モーセは律法の中で、こういう女を石打ちにするよう私たちに命じています。あなたは何と言われますか。」(8:3,4,5)

私たち自身が律法学者たちに同じことを問われたと考え、回答を考えてみます。そして姦淫の場で捕らえられた女とは、LGBTQの人が持つ性的な情愛です。
模範的な回答をすれば、一人の男と一人の女性の結婚愛を培わない者は、天界には迎え入れられません。結婚愛は霊的成長を促進するきわめて有力な手段で、結婚愛のことを知らない異邦人は、霊的に成長して天界に入ることができません。そのため新教会では結婚愛を大切にします。

霊的に姦淫を犯した者は、石で意味される固い真理で、自分の性根を叩き直すしかありません。モーセの律法は、霊的なことを語っています。私たちの中で、なんらかの善を攻撃する部分があれば、それは霊的な姦淫です(AC6348[2])。人の行う善を、自分の思惑で辱めることが、その内容です。霊的姦淫は、それが霊的姦淫であることを知らなければ、避けようがありません。

イエスは身を起こして言われた。「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの人に石を投げなさい。」(8:7)
自分が気づかないうちに人の善い行為を、偽りや悪として攻撃することも霊的姦淫であれば、誰も自分には罪がないと言い切れません。無意識のあるいは意識的断罪は、善の不善化として霊的姦淫になります。すべてをご存じの主以外に、石を投げることができる人間は存在しません。責めようと集まって石を手にしていた人も、それに気づき、一人一人去ってゆきます。

LGBTQの行為も、その内心まで見なければ、決して悪と断罪することはできません。
しかし、私たち新教会には、LGBTQの行為自体は、結婚愛をだいなしにし、天界への道を阻むことを、知っています。これは一人の男と一人の女の「結婚愛」を説く新教会でしか教えることができません。「結婚愛」に反する行為は、天界へ行く道を阻む行為です。自分にそれを発見した時は、石という真理で、自分を矯正します。

ヨハネ福音書で、主ご自身は決して裁かないとおっしゃいます。裁くのは私たち自身でなければなりません。そして主が私たちに求められることは、行って、二度と罪を犯さないことです。悪は悪、偽りは偽りと認めたら、そこから離れます。私たちが悪と偽りを自分の内に認め、そこから離れるにつれ、天界は少しずつ近づいてきます。

イエスは身を起こして、彼女に言われた。「女の人よ、彼らはどこにいますか。だれもあなたにさばきを下さなかったのですか。」 彼女は言った。「はい、主よ。だれも。」イエスは言われた。「わたしもあなたにさばきを下さない。行きなさい。これからは、決して罪を犯してはなりません。」(8:9-11)

アーメン。

創世記
19:4 彼らが床につかないうちに、町の者たち、ソドムの人々が、若い者から年寄りまで、すべての人が、町の隅々から来て、その家を取り囲んだ。
19:5 そしてロトに向かって叫んで言った。「今夜おまえのところにやって来た男たちはどこにいるのか。ここに連れ出せ。彼らをよく知りたいのだ。」

レビ記
18:22 あなたは女と寝るように、男と寝てはならない。これは忌みきらうべきことである。
18:23 動物と寝て、動物によって身を汚してはならない。女も動物の前に立って、これと臥してはならない。これは道ならぬことである。

ヨハネ福音書
8:3 すると、律法学者とパリサイ人が、姦淫の場で捕らえられた女を連れて来て、真ん中に立たせ、
8:4 イエスに言った。「先生、この女は姦淫の現場で捕らえられました。
8:5 モーセは律法の中で、こういう女を石打ちにするよう私たちに命じています。あなたは何と言われますか。」
8:6 彼らはイエスを告発する理由を得ようと、イエスを試みてこう言ったのであった。だが、イエスは身をかがめて、指で地面に何か書いておられた。
8:7 しかし、彼らが問い続けるので、イエスは身を起こして言われた。「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの人に石を投げなさい。」
8:8 そしてイエスは、再び身をかがめて、地面に何かを書き続けられた。
8:9 彼らはそれを聞くと、年長者たちから始まり、一人、また一人と去って行き、真ん中にいた女とともに、イエスだけが残された。
8:10 イエスは身を起こして、彼女に言われた。「女の人よ、彼らはどこにいますか。だれもあなたにさばきを下さなかったのですか。」
8:11 彼女は言った。「はい、主よ。だれも。」イエスは言われた。「わたしもあなたにさばきを下さない。行きなさい。これからは、決して罪を犯してはなりません。」〕

天界の秘義6348-2
み言葉では、『姦淫』の霊的意義は善の不善化で、『密通』は真理の歪曲を意味し( 2466, 3399)ますが、不潔な結びつきは禁止された段階に従って(呼ばれ) (レビ記 18:6-24)、様々な種類の冒涜を意味します。冒涜はここで使われている言葉「おまえは父の床に上り、そのとき、それを汚した。──彼は私の寝床に上ったのだ」で明白に意味されています。これらの言葉の意味は、信仰を分離して、善を冒涜することです(4661)。ルベンによって行われた、言葉にするのもはばかられる行為について述べられています。

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