「ですから、どうか今、このしもべを、あの子の代わりに、あなた様の奴隷としてとどめ、あの子を兄弟たちと一緒に帰らせてください。」(44:33)
ラケルを母とする二人兄弟の兄ヨセフは、他のヤコブの十人の息子たちの嫉妬を買い、穴に放り込まれ、エジプトに売られます。
出世したヨセフは、食料調達に来た兄弟たちと再会しますが、弟のベニヤミンを連れてくるよう要求します。二度目の穀物調達のため、カナンからエジプトに旅してきたヤコブの息子たちは、飢餓の危険から、ヨセフの要求通りベニヤミンも連れてきます。久しぶりに弟ベニヤミンを見たヨセフは、懐かしさのあまり奥の部屋で一人泣きます。気を取り直したヨセフは、兄弟たちと酒宴をしますが、「ベニヤミンの分け前はほかのだれの分け前よりも五倍も多かった」とそっと実の弟だけに、破格の扱いをします。
兄弟たちとの宴会の後も、ヨセフのたくらみは続きます。
「あの者たちの袋を、彼らが運べるかぎりの食糧で満たし、 一人ひとりの銀を彼らの袋の口に入れておけ。それから、私の杯、あの銀の杯は、一番年下の者の袋の口に、穀物の代金と一緒に入れておけ。」(44:1,2)
と、家の管理者に命じ、そして、ひそかにベニヤミンへの破格の扱いを続けます。しかし、兄弟たちが町を出たところで、家の管理者は、ヨセフの命令で兄弟たちを盗みの嫌疑をかけて引き留めます。兄弟たちは、もし盗みがあれば、盗んだ者は殺し、兄弟たちは奴隷となると、言質を与えてしまいます。そして、ヨセフがたくらんだ通り、兄弟たちを盗みの証拠を抑えます。ベニヤミンの袋からは、ヨセフが命じた通り、銀の杯が出てきます。兄弟たちは見事にヨセフの計略にはまります。兄弟の一人、ユダが兄弟たちを代表して、ベニヤミンを大切にしている父ヤコブ(イスラエル)の事情を切々と訴え、自分だけをとらえるようヨセフに懇願します。
過去に自分を殺そうとして売り渡したといういきさつがあったとはいえ、ヨセフの計略は露骨です。陰で泣きながらも、それを表に出さず、冷酷に扱うふるまいは普通ではありません。これに対して、ユダは非常に正直な対応をします。父が悲しまないよう、自分だけを犠牲にしてくれという誠意は、人の心を打ちます。
しかし、このやりとりが聖なる書とされるのは、何か深い意味があるはずです。単なる自己犠牲の申し出なら、よくある美談の一つにしかすぎません。
ここで登場人物が意味する事柄を天界の教えから、吟味します。神のみ言葉である聖書には、人の個性ではなく、表象される事柄がそのテーマとされます。実際にあったこととはいえ、啓示がなければ誰もその表象はわかりません。
この章の主要な登場人物は、エジプトの支配者のヨセフと、同じ母から生まれた末弟ベニヤミン、そしてカナンに残っている父親のイスラエル(ヤコブ)と、異母兄弟の一人のユダです。ただし表象する事柄も、扱う内容に応じて変化します。
ここでヨセフは天的な「内なる人」、すなわち天的善(AC4592)を意味し、主イエスとその栄化を表象します。弟のベニヤミンは「新しい真理」(AC5812)、そして父親のイスラエルは霊的善(AC5803)を、ユダは自然的善(AC5775)を意味します。
善がなければ教会は成立しません。真理を理解から意志にまでおろし、実行することで、教会が誕生します(AC5826)。善と真理が結ばれることで、教会が生まれます。しかし真理だけでは教会は成立しません。なんらかの善がない限り、教会は存在できません。そして真理と善が結びつかない限り、何も存在できません。
真理の教会という名称の教会があります。しかし教会は建物や組織、そして真理によっては成立しません。ましてや「翻訳」によっても成立しません。
翻訳した書籍などの出版が教会の中心事項とするなら、一方通行のネット配信だけで教会は成立することになります。そう考えている人は、教会は教義などの真理によって成立すると考えているのかもしれません。
しかし、教会は善によって成立します。霊的善と結ばれた真理によって教会が成立します(AC5813)。真理を頭で納得して、覚悟を決めて意志に入れ、行ったときに善となり、教会が誕生します。教義や真理だけでは教会は成立しません。年から年中、真理について議論し、言い争う教会は、想像しただけでもうんざりです。そこには、私たちが求めている善、温かみや愛・仁愛などが全くないからです。しかし、善は真理という形にならなければ、誰も考えることすらできません。単なる暖かいムードのようなものだけで終わってしまいます。
では、霊的善や天的善と結ばれるべき真理は、どこにあるのでしょうか?
み言葉の中では、「杯」ここでは「銀の杯」で表されています。杯で表されるのは「内的真理」であり、それは神的な天的な人、主を表象するヨセフから与えられます(AC5788)。私たちの聖餐式でも、パンの後に、杯からワインをいただきます。主を表象する牧師から、杯を示され、私たちが手を伸ばして杯を受け取り、中にあるワインを飲んで自分のものとします。杯がなければワインを運べません。
内的真理とは善から発する真理です。仁愛の善が、意志、情愛から発したものです。そして、服従や宗教的信仰から発していないものです。後者は、目に見える外的教会の善にしかすぎません。(AC5843) しかし内的真理は、なかなか形として把握できません。この世のものではなく、天から与えられるものであるからです。たとえとして、仁愛の善という言葉を聞いても、どういうものかすぐにイメージできる人はわずかです。困っている人に助けを与える、と漠然としか考えることができませんし、み言葉も、やもめや身障者を助けなさいとしか記されていません。やもめや身障者の本質は何かを考え、啓示されなければ理解できません。霊的なやもめや、身障者の意味を教えられ、知らなければ、助けることはできません。その人たちを助けるという霊的善、内的な善は行えません。
父であるイスラエルは霊的善を意味しますが、善から発した真理がなく、この真理と結ばれないなら「あの子がいないのを見たら、父は死んでしまうでしょう。」(44:31)と、教会は滅びてしまうことを警告しています。これが、父イスラエルが、末子のベニヤミンを決して手放そうとしなかった理由です。
イスラエルは真理の善を意味し、真理が意志に入って実行することを意味します(AC5826)。実行しない真理は、結果が出ないのでイメージすらできません。何を行えばいいのか想像もできない教会は、存在できません。存在できなければ、イスラエルと呼ばれる教会は崩壊してしまいます。教会は、死においやられます。真理だけの教会や、形だけの教会、教義だけの教会にとどまるなら、教会とはいえません。教会の役立ちがどこにもないからです。教義はこうだから、それに従え、という強制だけになります。宗教的な権威など偉いと言われる人が言っているから、とりあえず従おうか、と考えますが、実は心から従ってはいません。見かけだけ、形を整えるだけです。
そのようなやり方は「教会」を滅ぼします。いままで立ち上がった日本の新教会が、次々と滅びてゆくのは、真理の善とならず、生命がなかったからです。真理を行って善として、示さなかったからです。
しかし意志と行動の中に真理を受け入れるなら、「神の子」となります。ヨハネ福音書の初めにもあります。
「神の子どもとなる特権をお与えになった。この人々は、血によってではなく、肉の望むところでも人の意志によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。」(ヨハネ1:12,13)
血によって生まれるとは、仁愛に暴力を加えることです。そして肉の望むところとは自己愛と世間愛の悪に引きずられること。人の意志とは、偽りによって説き伏せられることです(AC6826)。
人の意志とは、世の中の風潮や「多様性」という名に説き伏せられて、神の法を無視し、神の法を捨ててしまうことです。しかし、ただ真の生命とは何かを求めて、真理を実行するなら、その真理は「新しい真理」となり、善を無限に生み出す「真理」となります。これがベニヤミンの意味する真理です。ベニヤミンはヤコブの兄弟の末に生まれたように、人が再生する段階で初めて生まれる真理です。この真理が生まれて、天的善と結ばれるなら、無数の真理が生まれます。
ベニヤミンの袋の口に、銀の杯を置いたのは、主を表す天的善であるヨセフでした。ベニヤミンは主から内的真理を得ていることを気づかせるため、ヨセフは家の管理者に手の込んだ芝居を行わせたのです。
ヨセフは天的善で、主イエス・キリストの表象です。主は常に流入してはいますが、その力を明らかにはしません。家の管理者に手の込んだ芝居を行わせ、自分の存在を隠し、消していますが、それは、すべて善は自分たちのものではなく、主から発していることを教えるためです。主から発しているものを、それ以外のもの、例えば自分や、教義、などから発していることとするなら、それは「霊的な盗み」となります。
翻訳した教義をコピーすることが盗みではなく、翻訳者が自分の真理・善としてしまうことが盗みです。自分の業績として、人に喧伝することが霊的窃盗です。説教者が自分の真理として伝えるのも、霊的な盗みです。絶えず真理の出どころを明示しなければ、霊的窃盗となります。現代日本でも、出所や典拠を記さなければ、著作権法違反として非難されます。
霊的盗みとされないためには、常に卑下と謙遜が必要です。自分から発するものはすべて悪であり、主から発するものが善であると心から認めます(AC5758)。もしこれができなければ、天界には入れません。天界の外側に居続けます。これは霊界の法則です。霊界の法則は、主ご自身です。霊界の法則を破る限り、法の源である主、主の作られた天界には入れません。
別の霊界の法則があります。「流入は流出に従う」という法則です。
流入とは、上の段階から下の段階に流れ込むことです。霊的な力や主の力が、私たちに流れてくることです。これが逆になることはありません。逆に自然的なものが、霊的なものに影響することはありません。霊的なものと自然的なものは原因と結果の関係です。結果が原因に影響するという考え方は、定義を誤っていて、成立しません。この法則は、原因がなければ結果は起こらないということを述べています。
流出がなければ、流入もなくなります。私たちが善と真理を実行すれば、実行するだけ主から善と真理が流入してきます。まったく真理を意志し行わなければ、善と真理は主から流入しません。仁愛から善を行わないのであれば、仁愛の善は全く流入してこないことになります (AC5828) 。
もし、私たちが善を行えば、その源は私たちではありません。しかしその善の源が霊界であり、さらに主であることを理解し、これは自分のものではなく、主の御業を行っているのだと、常に意識していれば、流入は継続します。流出が継続すれば流入も継続します。この意識がある限り、私たちは霊的な窃盗を行わず、正しい流れがあり、生命が生まれ、存在し続けることになります。
創世記44章の最後にユダが懇願したこと、自然的善であるユダが奴隷としてとどまるとは、自由を失い、自由でない状態から善を行おうとすることです。新しい真理を意味するベニヤミンが、父であるイスラエル、霊的善のもとに帰らない限り、私たちは奴隷となります。しかし、ベニヤミンが善のもとに帰らない限り、教会は滅びてしまいます。ユダの懇願した、ベニヤミンの帰還、新しい真理が生まれ続けるかどうかは、教会の存続をかけた切実な願いでした。
「ですから、どうか今、このしもべを、あの子の代わりに、あなた様の奴隷としてとどめ、あの子を兄弟たちと一緒に帰らせてください。」(44:33) アーメン。
創世記(新改訳)
44:1 ヨセフは家を管理する者に命じた。「あの者たちの袋を、彼らが運べるかぎりの食糧で満たし、 一人ひとりの銀を彼らの袋の口に入れておけ。
44:2 それから、私の杯、あの銀の杯は、一番年下の者の袋の口に、穀物の代金と一緒に入れておけ。」彼はヨセフのことばどおりにした。
44:3 明け方、一行はろばとともに送り出された。
44:4 彼らが町を出て、まだ遠くへ行かないうちに、ヨセフは家を管理する者に言った。「さあ、あの者たちの後を追え。追いついたら、『なぜ、おまえたちは悪をもって善に報いるのか。
44:5 これは、私の主君が、飲んだり占いをしたりするときに、いつも使っておられるものではないか。おまえたちのしたことは悪辣だ』と彼らに言うのだ。」
44:6 彼は追いついて、このことばを彼らに告げた。
44:7 彼らは言った。「あなた様は、なぜ、そのようなことをおっしゃるのですか。しもべどもがそんなことをするなど、あり得ないことです。
44:8 袋の口で見つけた銀でさえ、カナンの地からあなた様のもとへ返しに来たではありませんか。どうして、あなた様のご主人の家から銀や金を盗んだりするでしょう。
44:9 しもべどものうちで、それが見つかった者は殺してください。そして、私たちもまた、ご主人の奴隷になります。」
44:10 彼は言った。「今度も、おまえたちの言うことはもっともだが、それが見つかった者は私の奴隷とし、ほかの者は無罪としよう。」
44:11 彼らは急いでそれぞれ自分の袋を地面に降ろし、それぞれその袋を開けた。
44:12 彼は年長の者から調べ始めて、年下の者で終えた。すると、その杯はベニヤミンの袋から見つかった。
44:13 彼らは自分の衣を引き裂いた。そして、それぞれろばに荷を負わせ、町に引き返した。
44:14 ユダと兄弟たちがヨセフの家にやって来たとき、ヨセフはまだ、そこにいた。彼らはヨセフの前で顔を地に伏せた。
・・・
44:30 私が今、あなた様のしもべである私の父のもとへ帰ったとき、あの子が私たちと一緒にいなかったら、父のいのちはあの子のいのちに結ばれていますから、
44:31 あの子がいないのを見たら、父は死んでしまうでしょう。しもべどもは、あなた様のしもべである白髪頭の父を、悲しみながらよみに下らせることになります。
44:32 というのは、このしもべは父に、『もしも、あの子をお父さんのもとに連れ帰らなかったなら、私は一生あなたの前に罪ある者となります』と言って、あの子の保証人となっているからです。
44:33 ですから、どうか今、このしもべを、あの子の代わりに、あなた様の奴隷としてとどめ、あの子を兄弟たちと一緒に帰らせてください。
44:34 あの子が一緒でなくて、どうして私は父のところへ帰れるでしょう。父に起こるわざわいを見たくありません。」
ヨハネ福音書
1:12 しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとなる特権をお与えになった。
1:13 この人々は、血によってではなく、肉の望むところでも人の意志によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。
天界の秘義5827
「一人は私のところから出て行ったきり」とは内的善の見かけ上の失踪です。「出て行ったきり」が失踪を意味することから明らかで、ヨセフが内的善を意味することはすでに取り扱っています。この失踪が単なる見かけ上なのは自明です、なぜならヨセフはまだ生きているからです。この意味は以下のようです。:ヨセフに関して最初から最後に至る記録は、主の人間性の栄化の順を表しています。主の栄化は人間の再生のイメージでありモデルであるため、低い意味では人間の再生をも描いています(3178, 3212, 3296, 3490, 4402, 5688)。
[2] 人の再生に関しては、最初の段階では、真理によって善にもたらされるため、真理は明らかに見ることができます。なぜならそれはこの世の光の内に存在し、肉体的感覚から成る考えにそう遠く離れてないからです。しかし善についてはそうではありません、善は天界の光の中に存在するため、肉体的感覚から成る考えから離れていて、人の霊の内側に存在するからです。したがって信仰の真理は明らかに見えても、善はそうではありません。たとえ善は絶えず存在し、真理の中に流入し、生命を与えているとしても。もしそうでなかったら人は再生することができません。しかしひとたび状態が完了すれば、善は自らを表し、隣人への愛からそうして、真理への情愛を通して生命に導きます。これらの事柄も、ヨセフが取り去られ、父から見えなくなりますが、後に父に自身を明かすことによって表されます。これが、内的善が見かけ上失踪して、「出て行ったきり」となることで意味されることが理解されます。
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