創世記43章: ベニヤミン  エジプトへ (結びつきの始まり)

創世記43章: ベニヤミン  エジプトへ (結びつきの始まり)
「安心しなさい。恐れることはありません。」(43:23)

エジプトの支配者であったヨセフは、弟ベニヤミンを連れてくることを条件に、シメオンを人質にして、ヤコブの残りの息子たちをカナンに返します。
ベニヤミンを手放したくないヤコブは、「この子は、おまえたちと一緒には行かせない。」(42:38)とヨセフの要求を拒みます。

この時、ヨセフが一族の一員のヨセフであると誰も考えてはいませんでした。ヨセフは兄弟たちや父母が、自分に頭を下げるという夢を見て、それを兄弟たちに語ったため、嫉妬されました。そのため、あやうく殺されるところを、通りかかった商人に売り払われるという悲惨な経緯があったからです。もはや兄弟たちからは居なくなったものと考えられていました。

しかし、カナンはさらに激しい飢饉を迎えます。先にエジプトから持ち帰った穀物も、すべて食べつくしてしまいます。一族が生きてゆくためには、さらに穀物をエジプトに求めなければなりません。末弟のベニヤミンを手放したくないという父ヤコブの気持ちも、一族が生き残るためには、もはや選択肢はありません。ベニヤミンをエジプトに連れてゆき、エジプトの支配者であるヨセフの要求に従わざるを得ません。

前回のエジプトへの穀物調達の旅では、支払ったはずの銀が、ヨセフによって袋の中に入れられていました。銀で調達したはずの穀物が、無償で与えられた形になっています。さらに穀物をただで手に入れることは難しいはずです。今回の穀物調達の旅では、ベニヤミンとともに、今回の穀物の代価に前回支払うはずであった銀を加えます。さらにエジプトの支配者の歓心を買おうと、様々な贈り物を携えて出発します。

そこで、一行は贈り物を携え、二倍の銀を持ち、ベニヤミンを伴って出発した。そして、エジプトへ下り、ヨセフの前に立った。(43:15)

ここで、ヨセフは弟ベニヤミンが来たことを認めます。
ヨセフとベニヤミンは、母をラケルとする二人の兄弟です。他の十人の兄弟たちとは、異母兄弟となります。他の兄弟たちは、レアと女奴隷たちの子です。レアは、外的真理への情愛を意味し、ラケルは内的真理への情愛を意味します。ヨセフとベニヤミンは、他の兄弟たちとは異なり、内的真理への情愛から生まれています。

しかし他の十人の息子たちで表される真理は、外的なものから生まれているため、内的な存在である神的なものと結ばれていません。いまだ外的で自然的な存在としてしか考えられていません。しかし、それぞれに、役割と役立ちがあるはずですが、神的なものと結ばれていないので、人間の再生にはまだ不十分です。

ヨセフは「天的なものの霊的なもの」を、ベニヤミンは「霊的なものの天的なもの」を意味します。特にベニヤミンは、天的なものとの間に入るので、天的であるヨセフと他の息子たちを仲介する機能を持ちます。
ヨセフはエジプトで出世して、エジプトを支配する者となりましたが、ベニヤミンという仲介者なしには、他の十人の息子たちとつながることができません。他の息子たちは、シメオンのように意志に植え付けられた信仰をはじめとして、試練、善行や結婚愛、相互愛など、私たちの再生に必要な真理がそろっていますが、まだ霊的ではなく、自然的です。「神は霊」であるため、自然的なものはそのままでは、神に結びつくことができません。相互愛というキリスト教の大切な概念も、ただ仲のいいことを薦めているだけのようにしか見えません。自然的な仲良しにとどまっています。

「霊的」という語は、教会には不可欠な語ですが、今やキリスト教会で「霊的」という語の意味を知る人はごくまれです。現代日本でも、オカルト的な意味合いに使われているのがせいぜいです。しかし本質的には違っています。霊的なものは、善で真であるものに、情愛を持つ者に存在します。「善と真理」は人のものではなく、すべて神に属するものです。善と真理に対して、心を惹かれて、他の何よりも大切にしたいと思わねばなりません。善と真理という抽象的な概念を、自分なりに消化して考え、それを他のすべてに勝って大切にすることがキリスト教徒には求められています。

他の自分勝手な理由ではなく、純粋に「善と真理への愛」です。本人に歓びや幸福感、そして人を思いやる気持ちや信仰があり、それを自分からではなく、それは天界や霊界から来ていると(AC5639) 考え、神聖なものとして扱わなければなりません。

一般的には、人によって霊感があったり、なかったり、宗教的施設や墓、災害・犯罪現場など特別な霊的スポットがあったりするといわれます。しかし天界の教えの定義によれば、そういう人や場所には、なんら霊的なものがないということになります。本来、霊界には、時間と空間という概念さえないので、三次元の人や場所に霊的なものを見出すのは、思い込みとしかいえません。人は、この「思い込み」に左右されやすい存在です。

「思い込み」といえば、ヤコブとその十人の息子たちにも思い込がありました。ヨセフは昔の兄弟ではなく、エジプトの支配者であるとしか考えていません。そして、穀物は対価なしには購入できない、無料で与えられるはずかない、自分で苦労して手に入れるものだというこの世的な考え方です。当時のヤコブの十人の息子たちはまだ自然的であったため、この思いこみは当然でした。

穀物を購入しにエジプトまで来ますが、支払ったはずの銀は、知らないうちに返されてしまいます。エジプトの支配者からは、父親が大事にしている末の弟を連れてこなければ、兄の一人のシメオンを人質にする、という理不尽な要求をされます。しかし、カナンの家族を、飢餓から救うには、他の手段は残されていません。霊的な存在であるベニヤミンがなぜ必要なのか、他の兄弟ではだめなのか?理不尽と思しか考えられません。しかしこれらは、後から振り返れば自然的な考えからの「思い込み」にすぎません。ただ、すぐには理解できないため、これらの思い込みは時間をかけて、解いてゆく必要があります。

エジプトの支配者の前に出たベニヤミンとヤコブの残りの息子たちは、ヨセフの家に連れてゆかれることになります。そのため、彼らはエジプトの支配者に何をされるのか、その原因は何なのか、わかりません。しかし心に思い当たることを、正直に話し、家の管理者に相談します。これが自然的な素直さ・正直さです。心に悪と偽りがあるなら、穀物を盗んで逃げてしまったでしょう。
前回購入した穀物の代金が、知らないうちに返されていた、のは彼らの本意ではなく、そのため前回の代金も持ってきたことを伝えます。

「一同はヨセフの家に連れて行かれたので、怖くなって言った。」(43:18)
この時、彼らが抱いた「怖れ」の本質が天界の教えに説明されています。
私たちは、様々な理由で「怖れ」を抱きます。生命を失う危険な状況、いままで得たもの、利得や地位や評価を失い、自由を失ってその歓びも失うと考えます。これが自然的・外的なものであるヤコブの子らが、霊的なものに仕えなければならない、といわれた時に感じる「怖れ」がこれです(AC5647)。ヨセフの家に連れていかれた時、彼らは「怖れ」の経緯を事細かに、ヨセフの家の管理者に説明します。自分たちは無償で穀物を受け取ってそのままにしておいたのではなく、その代価も支払おうとしていることを伝えます。

しかし、管理者は答えます。

「安心しなさい。恐れることはありません。
あなたがたの神、あなたがたの父の神が、あなたがたのために袋の中に宝を入れてくださったのです。あなたがたの銀は、私が受け取りました。」(43:23)
そして、人質として捕えられていたシメオンも連れてきます。

彼らは自分の力で真理を得ようと考え、その真理で善を得ようと考えいました。しかし、真理は主によって与えられます。真理は人のものではないからです。
しかし自分で手に入れなければ、自分自身も、そしてその自由、そしてその歓びもすべて失ってしまうと考えていました。(AC5662)

再生するためには、自分の我を捨てなければなりません。福音書でも、「自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世で自分のいのちを憎む者は、それを保って永遠のいのちに至」る。(ヨハネ12:25)とあります。

これを聞くと、自我を失う怖れにとらわれます。そこまでしなければならないのか?と疑問を持ち、自分は再生しなくてもいい、このままでいたい、と後ずさりしてしまいます。完全な服従ということを聞いて、自我を失うことを恐れ、また自分の「こだわり」を失うことは、自分のすべてを失うことだと考え、躊躇してしまいます。自分の「こだわり」を捨てると、自分らしさがなくなってしまうと怖れます。しかし、自分のこだわりを通し続けると、神からくる本物の生命を失い、再生して天界で生きてゆくことができなくなります。

自分のこだわりを捨てると素晴らしいものが与えられます。それが「天界的自我」と言われるものです。自分のこだわりの中にいると、自分の声が四六時中聞こえてきます。「それは自分のやり方とは違う。これまで自分のやり方にこだわってきたのは、それなりの理由があり、これらのこだわりは自分自身で、このこだわりを捨てることは自分の生命を失うに等しい」と考えます。

このこだわりに捕らわれ、再生の道から後退すれば、カナンという教会には食料が絶え、私たちには霊的死がまっています。自我の死という「怖れ」を乗り越えて、何が待っているかわからないヨセフの家に入るしかありません。そこに入れば、「天界的自我」という新しい意志を得ることができます。この「天界的自我」を得るためにはヨセフの家に入り、食事して結びつかなければなりません。

驚いたことに、この怖れを乗り越えて家で待っていたのは、ごちそうと酒でした。彼らは贈り物を用意して、待ちます。家の主人であるヨセフが現れると、贈り物を渡して、地に伏して拝みます。
贈り物を渡すのは好意を得たいという気持ちの表れで、それは現在の風習にも根付いています。地に伏して拝むのは、卑下です。

私たちは一般的に、礼拝に出て、献金し、跪きますが、賛美と感謝、そして卑下は礼拝の重要な一部です。参加することに意義がある、自分の大切な時間を使うことが、礼拝の意義だとという考えは、大きく誤っています。ましてや参加しなければ、何も始まりません。卑下と賛美と感謝を定期的に行い、主と対話を継続します。

ヨセフも現れて、ヤコブの息子達と、彼らの父の安否を問います。ヨセフの出現は、主の出現を表し、主が出現されると、秩序が整います。ヤコブの子たちも、「ヨセフの前で、年長者は年長の席に、年下の者は年下の席に座らされたので、」(43:33)驚くことになります。

賛美と感謝と卑下、そして対話が終わると、食事と宴会が始まります。この食事と宴会は、結びつきの始まりを意味します。ヨセフの正体がまだ明かされていないので、この宴会によって、まだ一般的な流入しか意味されません。しかし、ここでヨセフとともに食事することは、神的なものとの結びつきの最初の段階です。

彼らはヨセフとともに酒を飲み、酔い心地になった。(43:34 )
アーメン。 
創世記(新改訳)
43:1 さて、その地の飢饉は激しかった。
43:2 彼らがエジプトから持って来た穀物を食べ尽くしたとき、父は彼らに言った。「また行って、われわれのために食糧を少し買って来てくれ。」
・・
43:15 そこで、一行は贈り物を携え、二倍の銀を持ち、ベニヤミンを伴って出発した。そして、エジプトへ下り、ヨセフの前に立った。
43:16 ヨセフは、ベニヤミンが彼らと一緒にいるのを見るや、彼の家を管理する者に言った。「この人たちを家に連れて行き、家畜を屠って料理しなさい。この人たちは私と昼食をともにするから。」
43:17 その人は、ヨセフが言ったとおりに、一同をヨセフの家に連れて行った。
43:18 一同はヨセフの家に連れて行かれたので、怖くなって言った。「われわれが連れて来られたのは、この前のとき、われわれの袋に戻されていた、あの銀のせいだ。われわれを陥れて襲い、奴隷としてろばとともに捕らえるためだ。」
43:19 彼らはヨセフの家を管理するその人に近づいて、家の入り口のところで話しかけた。
43:20 「ご主人様、最初のとき、私たちは食糧を買いに下って参りました。
43:21 ところが、宿泊所に着いて、袋を開けると、なんと、私たちの一人ひとりの銀がそのまま自分の袋の口にあったのです。それで、私たちはそれを返しに持って参りました。
43:22 また、食糧を買うために、別の銀も持って参りました。だれが私たちの銀を袋の中に入れたのかは、私たちには分かりません。」
43:23 彼は答えた。「安心しなさい。恐れることはありません。あなたがたの神、あなたがたの父の神が、あなたがたのために袋の中に宝を入れてくださったのです。あなたがたの銀は、私が受け取りました。」それから、彼はシメオンを彼らのところに連れて来た。
43:24 その人は一同をヨセフの家に連れて行き、水を与え、彼らは足を洗った。また彼は、彼らのろばに餌を与えた。
43:25 兄弟たちは、ヨセフが昼に帰って来るまでに、贈り物を用意しておいた。自分たちがそこで食事をすることになっていると聞いたからである。
43:26 ヨセフが家に帰って来たとき、彼らはその家まで携えて来た贈り物を彼に差し出し、地に伏して彼を拝した。
43:27 ヨセフは彼らの安否を尋ねた。「以前に話していた、おまえたちの年老いた父親は元気か。まだ生きているのか。」
43:28 彼らは答えた。「あなた様のしもべ、私たちの父は元気で、まだ生きております。」そして、彼らはひざまずいて彼を拝した。
43:29 ヨセフは目を上げ、同じ母の子である弟のベニヤミンを見て言った。「これが、おまえたちが私に話した末の弟か。」そして言った。「わが子よ、神がおまえを恵まれるように。」
43:30 ヨセフは弟なつかしさに、胸が熱くなって泣きたくなり、急いで奥の部屋に入って、そこで泣いた。
43:31 やがて、彼は顔を洗って出て来た。そして自分を制して、「食事を出せ」と命じた。
43:32 それで、ヨセフにはヨセフ用に、彼らには彼ら用に、ヨセフとともに食事をするエジプト人にはその人たち用に、それぞれ別々に食事が出された。エジプト人は、ヘブル人とはともに食事ができなかったからである。それは、エジプト人が忌み嫌うことであった。
43:33 彼らはヨセフの前で、年長者は年長の席に、年下の者は年下の席に座らされたので、一同は互いに驚き合った。
43:34 また、ヨセフの食卓から彼らの分が与えられたが、ベニヤミンの分は、ほかの者より五倍も多かった。彼らはヨセフとともに酒を飲み、酔い心地になった。

ヨハネ福音書
12:25 自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世で自分のいのちを憎む者は、それを保って永遠のいのちに至ります。
12:26 わたしに仕えるというのなら、その人はわたしについて来なさい。わたしがいるところに、わたしに仕える者もいることになります。わたしに仕えるなら、父はその人を重んじてくださいます。」

天界の秘義5647
[2]ともに結ばれることについての性格について簡単に述べます。すなわち、外的なものあるいは自然的なものが、内的なものあるいは霊的なものについて結ばれるときです。人が改良され、自然的、外的な人が、霊的、内的になるときもそうで、最初、自然的なものが反乱を起こします。なぜなら自然的人間は霊的なものに仕えなければならない、という旨の教えを受けるからです。すなわち、彼の強烈な悪の欲望とそれを支える考えを根絶しなければなりません。したがって、自分に戻ると、自然的人はそのような場合完全に破壊されると考えます。なぜなら、自分のすべてがそこにあると考え、霊的なものの中に筆舌を尽くせないほど物事があることを全く知らないからです。自然的な人がこのように考えると、霊的なものに仕えると望みはなくなる、と後ずさりします。この時の意味されるものが「怖れ」です。

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