異邦人教会の設立:サマリアの女

それでイエスは、ヤコブがその子ヨセフに与えた地所に近い、スカルというサマリアの町に来られた。ヨハネ4:5

主イエスは、サマリアの地で不思議な出会いをなさいます。
サマリアは、「異邦人の道に行ってはいけません。また、サマリア人の町に入ってはいけません。」(マタイ10:5)と、警告された地です。北王国イスラエルの首都でありながら、預言者エリヤと敵対したアハブ以来、偶像礼拝の中心として考えられた地であったからです。またサマリア人も、エルサレムを目指していたイエスを受け入れなかったと、ルカ書(9:53-54)に書かれています
そのためか、サマリアの女の話は、ヨハネ福音書だけに記され、他の福音書には記されていません。

しかし逆に、異邦人である私たち日本人には、大切な話となります。日本人は聖書の存在を知りながら、受け入れ方、内的真理の受け入れが十分ではなく、実行する方が少ないので、ユダヤ人にとって異邦人のような存在であるからです。
サマリアには、スカルという町にヤコブの井戸があります。以前ここはシュケムといいました。シュケムはアブラハム(創12:6)とヤコブ(33:17-20)が、シリアからカナンから来た時、最初に立ち寄った地でした。彼らははじめて真理にふれたため、内的真理を表します (AC4430)。

しかし、残虐なことに、ヤコブの子らがその町の男子を皆殺しにして(創34)しまいました。今も昔も、獣よりも残虐な人の性格は変わりありません。
男子の深い意味は真理をあらわすため、それをあてはめれば、内的真理はもはや絶滅していたことになります。しかし、その後、ヨセフの遺体はエジプトから運ばれ、ここに埋葬されており、シュケムは大切な何かを表し続けています(ヨシュア24:32)。それは失われた内的真理です。主がサマリアに立ち寄ったのは、これら内的真理を、聞こうとしないエルサレムではなく、異邦人の間に復活させるためでした。

主がサマリアの地にある時、ヤコブの泉に座り、サマリアの女におっしゃいます、この水を飲むものは再び渇きます:しかし私が与える水を飲む者は永遠に渇くことがなく;私が与える水は、彼の中で永遠の生命を湧き出す水の泉となります(AE483[12])。

主が与える水とは、神的真理です(同上)。それは文字上のみ言葉に内意として含まれています。
主は神的真理を異邦人に甦らせ、その教会をおつくりになります。サマリアとは異邦人を意味し、サマリアの女で意味される異邦人の教会は、善を求める情愛にあふれています。女性はみ言葉では善への情愛を表します。善への情愛がないところには、教会は設立できません。もし善を求める情愛がないのであれば、悪を求めているため教会とはいえないません。善への情愛があり、次に善に見合った真理が求められます。真理とは善を形にして知的に理解できるものとします。相手に善かれと思う気持ちが善の情愛です。
善と真理は常に一体とならなければ何も生じることがありません。気持ちと、その気持ちを理解して表現するものがなければ、何も実現しません。教会が存在するためには、真理と善の両方が必要です。

そこで主は、女に「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい。」(4:16) と確認されます。夫は真理を表しています。しかし、このサマリアの「女」には過去には夫はいましたが、現在は夫がいません。冒頭に述べたように、ヤコブの子孫によって男である真理は根絶やしにされ、わずかになっています。今の夫で表されるのは、偶像崇拝の信仰で、これは真理ではありません。

そこで主は、新しい真理をお与えになります。
「しかし、まことの礼拝者たちが、御霊と真理によって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はそのような人たちを、ご自分を礼拝する者として求めておられるのです。
神は霊ですから、神を礼拝する人は、御霊と真理によって礼拝しなければなりません。」(4:23,24)
ここで御霊とは真理を意味します(AC9828:10, AE183:7, Lord49:1)。真理は、知恵と知性によって認識されます。善とその情愛があっても、それに形をもたらす真理がなければ何事も存在できません。それでは真理とは何でしょうか?

サマリアの女は、キリストと呼ばれるメシアのことを聞きますが、それに答えて主はおっしゃいます。
「あなたと話しているこのわたしがそれです。」(4:26)
主はご自身が、神的真理そのものであり、神的真理が人類全体を救うことを明らかにされます。神的真理を、おおまかにいえば、神と隣人に対する愛です。神と隣人に対して愛をもって生きてゆかなければ、私たちはこの果てしない宇宙の中で意味を持たず、なくなってしまうからです。
「神を礼拝する人は、御霊と真理によって礼拝」するとは、神への愛と隣人に対する仁愛を意味し、私たちはここから永遠の生命を得ます。主が全能の神であることを認めて、礼拝すれば、私たちは永遠の生命を得ます。

この生命はどうすれば、私たちのものとすることができるのでしようか?
ここで弟子たちが現れ、ヒントを与えてくれます。
弟子たちは「先生、食事をしてください」と勧め、主は「わたしには、あなたがたが知らない食べ物があります。」とお応えになります。食べ物は私たちに生命を与えます。水は真理を与えてくれますが、水だけでは生きてはいけません。イスラエルの民が荒野で飢えたときも、マナという謎の食べ物を与えられました。主は、その謎の食べ物のことを明かされます。

「わたしの食べ物とは、わたしを遣わされた方のみこころを行い、そのわざを成し遂げることです。」
(4:34) 天界の天使たちは、主に使え、そのみこころを行い、御業を成し遂げます。天界の天使たちの食物とは、まさに神である主の御心を行うことです。肉体が食べる行為ではありません。「行い、歓ぶこと」。身体が歓ぶように、心が歓ばねばなりません。これが私たちを生かす食べ物です。永遠の生命を与える食べ物です。現在では聖餐式のパンで表されます。

主は『一人が種を蒔き、ほかの者が刈り入れる』(4:37)というたとえで、これを証されます。
「すでに、刈る者は報酬を受け、永遠のいのちに至る実を集めています。それは蒔く者と刈る者がともに喜ぶためです。」(4:36) 「わたしはあなたがたを、自分たちが労苦したのでないものを刈り入れるために遣わしました。ほかの者たちが労苦し、あなたがたがその労苦の実にあずかっているのです。」(4:38)
天使たちは、主の御心を行いますが、それは主がまかれた種と、育てられた実を刈り集めることによって行います。
主は、すべての人類にみ言葉という種を与え、それを信じて行うようにさせ、実らせます。実るまでには大変な時間がかかります。主は私たち一人ひとりに種を蒔きます。
そしてそれを回収するのが、天使たちです。あるいは天使的な心を持った人です。人の善い行いという実は、主おひとりに種がまかれ、育てられます。集めるのは天使たちで、実がなることを天使たちはこの上なく歓びます(AE911:16参照)。刈り取って、天使たちは歓び、その歓びを本人に伝えます。まだこの歓びを知らなければ、み言葉を実行して、天使たちの歓びを味わってください。真理と善が結婚して、生まれる歓びを味わってください。天使たちは深い平安に浸り、その平安を伝えてくれます。

サマリアの女による善の情愛に、弟子たちの問いによって真理への情愛がもたらされ、異邦人の内に教会が設立されます。この歓びが生まれれば、善と真理がむすびつき、教会が誕生します。
サマリアの女は町に行って人々に主イエスのことを報告し、女の言葉によって主がメシアであると信じます。この時はまだ人から聞いた、伝聞的な信仰ですが、二日間の滞在によって「自分で聞いて、この方が本当に世の救い主だと分かったのです」(4:40) 。伝聞的な信仰から、主がメシアであることを自分で聞いて理解します。霊的善と教義が結びついて、異邦人の地に教会が誕生します。

しかし異邦人の地に誕生した教会は、自然的な部分が悪影響しています。同じ異邦人の地であるガリラヤに戻りますが、エルサレムの祭りで主の行いを見聞きし、カナの婚礼での奇跡を知っているはずですが、遺伝悪に影響され、元の悪に戻ってしまいます。そのため、ある役人の息子が死にかかっているという助けを求めます。息子は真理を表します。主が救世主であるという真理が消えそうであることを表しています。しかし主は、「息子は直った」という言葉を与えます。このみ言葉だけで息子は癒されます。神的真理が与える言葉は、与えた時刻と同じ時刻に息子を癒し、異邦人の教会は立ち直り、支えられます。

主が、サマリアとガリラヤの異邦人の地で行われた奇跡を振り返ります。主はご自身を栄化して、私たち人類の救いの道を作り、同時に異邦人の地に教会を建て、エルサレムで表される旧い、歪曲されてしまった教会の裁きをするためにこの世にお越しになりました。

新しい教会は、異邦人である私たちの教会でもあります。私たちの教会は、「御霊と真理によって礼拝しなければなりません」。その真理とは、「あなたと話しているこのわたしがそれです。」と明かされた神的真理である主イエスご自身です。新旧両聖書に記された主の外的・内的人生すべてです。旧約聖書に記された主イエスの内的人生は、創世記の中のアブラハムとイサク、ヤコブそして、ヨセフで表象される内意です。

主は旧約聖書の本当の意味をよみがえらせるために、サマリアのスカル、いにしえのシュケムのヤコブの井戸に現れ、異邦人であるサマリアの女を導かれます。異邦人である私たちに、旧約聖書にも深い隠された意味があることを教えられるためです。旧約聖書の深い意味の復活こそ、主の目指された目的でした。サマリアの女との水と泉・井戸に関する対話は、これを意味しています。

神的真理は、霊的善の礼拝の実行を求めます。その霊的善とは、神への愛と隣人愛に他なりません。愛と知恵が主イエスの本質です。愛と知恵が、主の魂に内在する神の本質です。私たちは、主の愛と知恵を、行い、歓ぶことで、心を込めて自分のものとしなければなりません。神の似姿あるいは像とならなければなりません。私たちが目的としなければならないはずの霊的善、失われて歪曲されてしまった霊的善の復活も、主がこの世に来られた目的の一つです。霊的善が私たちの内に宿り、私たちの形となるまでに同化しなければ、善と真理は私たちのものではありません。善と真理以外のものは、すべて私たち自身のものです。私たち自身のものは、永遠のものではなく、永遠の生命とはなりえません。私たちは自身のものを嫌い遠ざけることで、永遠の生命である主の善と真理を自分のものとします。

主は、「遣わされた方のみこころを行い、そのわざを成し遂げること」が私たちの食物となるべきだと、模範を示されました。これが主の善と真理を私たちのものとすることです。私たちは地上の食べ物を求めるより、天界の食べ物を求めます。地上の食べ物である自分のもの、自分のこだわりを捨て、主が歓びになる真理を行い、歓びます。

「刈る者は報酬を受け、永遠のいのちに至る実を集めています。」主が種をまき育てた善と真理を集めて、自分のものとしなければ、天界に入ることができません。これこそ永遠の生命となる私たちの報酬です。

しかし、一方で私たちの遺伝悪は、永遠の生命に反する悪と偽りに引きずりこもうと邪魔してきます。せっかく生まれたはずの息子である真理は、この遺伝悪によって死にかけます。
このとき、私たちは主にみ言葉を求めます。神的真理によって、真理を破壊しようとする悪と偽りは、善と真理ではなく、私たちの内にある悪と偽りであることを確認します。それが、み言葉によって悪と偽りであることを確認できれば、私たちの持っている新しい生命は、たちまち癒されます。

イエスはユダヤを去ってガリラヤに来てから、これを第二のしるしとして行われた。(4:54)
アーメン

創世記
33:17 一方、ヤコブはスコテへ移動し、そこで自分のために家を建て、家畜のためには小屋を作った。それゆえ、その場所の名はスコテと呼ばれた。
33:18 こうしてヤコブは、パダン・アラムからの帰途、カナンの地にあるシェケムの町に無事に着き、その町の手前で宿営した。
33:19 そして、天幕を張った野の一画を、シェケムの父ハモルの息子たちの手から百ケシタで買い取った。
33:20 彼はそこに祭壇を築き、それをエル・エロヘ・イスラエルと呼んだ。

ヨハネ福音書
4:1 パリサイ人たちは、イエスがヨハネよりも多くの弟子を作ってバプテスマを授けている、と伝え聞いた。それを知るとイエスは、
4:2 ──バプテスマを授けていたのはイエスご自身ではなく、弟子たちであったのだが──
4:3 ユダヤを去って、再びガリラヤへ向かわれた。
4:4 しかし、サマリアを通って行かなければならなかった。
4:5 それでイエスは、ヤコブがその子ヨセフに与えた地所に近い、スカルというサマリアの町に来られた。
4:6 そこにはヤコブの井戸があった。イエスは旅の疲れから、その井戸の傍らに、ただ座っておられた。時はおよそ第六の時であった。
4:7 一人のサマリアの女が、水を汲みに来た。イエスは彼女に、「わたしに水を飲ませてください」と言われた。
4:8 弟子たちは食物を買いに、町へ出かけていた。
4:9 そのサマリアの女は言った。「あなたはユダヤ人なのに、どうしてサマリアの女の私に、飲み水をお求めになるのですか。」ユダヤ人はサマリア人と付き合いをしなかったのである。
4:10 イエスは答えられた。「もしあなたが神の賜物を知り、また、水を飲ませてくださいとあなたに言っているのがだれなのかを知っていたら、あなたのほうからその人に求めていたでしょう。そして、その人はあなたに生ける水を与えたことでしょう。」
4:11 その女は言った。「主よ。あなたは汲む物を持っておられませんし、この井戸は深いのです。その生ける水を、どこから手に入れられるのでしょうか。
4:12 あなたは、私たちの父ヤコブより偉いのでしょうか。ヤコブは私たちにこの井戸を下さって、彼自身も、その子たちも家畜も、この井戸から飲みました。」
4:13 イエスは答えられた。「この水を飲む人はみな、また渇きます。
4:14 しかし、わたしが与える水を飲む人は、いつまでも決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人の内で泉となり、永遠のいのちへの水が湧き出ます。」
4:15 彼女はイエスに言った。「主よ。私が渇くことのないように、ここに汲みに来なくてもよいように、その水を私に下さい。」
4:16 イエスは彼女に言われた。「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい。」
4:17 彼女は答えた。「私には夫がいません。」イエスは言われた。「自分には夫がいない、と言ったのは、そのとおりです。
4:18 あなたには夫が五人いましたが、今一緒にいるのは夫ではないのですから。あなたは本当のことを言いました。」
4:19 彼女は言った。「主よ。あなたは預言者だとお見受けします。
4:20 私たちの先祖はこの山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムにあると言っています。」
4:21 イエスは彼女に言われた。「女の人よ、わたしを信じなさい。この山でもなく、エルサレムでもないところで、あなたがたが父を礼拝する時が来ます。
4:22 救いはユダヤ人から出るのですから、わたしたちは知って礼拝していますが、あなたがたは知らないで礼拝しています。
4:23 しかし、まことの礼拝者たちが、御霊と真理によって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はそのような人たちを、ご自分を礼拝する者として求めておられるのです。
4:24 神は霊ですから、神を礼拝する人は、御霊と真理によって礼拝しなければなりません。」
4:25 女はイエスに言った。「私は、キリストと呼ばれるメシアが来られることを知っています。その方が来られるとき、一切のことを私たちに知らせてくださるでしょう。」
4:26 イエスは言われた。「あなたと話しているこのわたしがそれです。」

AE483[12]
主からの神的真理が「泉」によって意味されるのは、ヨハネで主ご自身が明らかな言葉で教えられています:主がサマリアの地にある時、ヤコブの泉に座り、サマリアの女におっしゃいました、この水を飲むものは再び渇きます:しかし私が与える水を飲む者は永遠に渇くことがなく;私が与える水は、彼の中で永遠の生命を湧き出す水の泉となります。 (4:5-20).

主が与える「水」は水のことではなく、神的真理であることは明らかです:なぜならサマリアの女が汲んでくる水は、再び渇きますが、主の与える水はそうではありません。「わたしが与える水は、その人の内で泉となり、永遠のいのちへの水が湧き出ます。」とは、その真理の内に生命があることを意味します。主がそれらを与えるとき、真理の中には生命があることは上記の記事に見ることができます。主はヤコブの泉に座って、これらのことをサマリアの女に告げました、なぜならサマリアの女によって、主が異邦人に神的真理を与えることが意味され、「サマリアの女」によって、そのような教会の設立、「ヤコブの泉」によって主ご自身からの神的真理、すなわち、み言葉が意味されるからです。

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