イースターの意味

イースターの朝と夕

さて、週の初めの日、朝早くまだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓にやって来て、墓から石が取りのけられているのを見た。ヨハネ20:1

主の蘇りの朝、それは驚きと、新しい希望に満ちた時です。
その朝、マグダラのマリアは、主を葬った墓の石が取り除かれているのを発見して弟子に知らせます。報告を受けた、ヨハネとペテロは走って墓に行きます。しかし、墓の中には主の身体を巻いていた亜麻布が残っているだけでした。

主にお会いできなくて悲しんでいたマグダラのマリアは、墓の中をのぞき込んだとき白い衣を着た二人の御使いを見ます。御使い二人と話しますが、主の居場所はわかりません。うしろを振り向くとイエスが立たれています。しかしマリアにはそれが主であるとわかりません。園の管理人と考えています。
「マリア」と主が呼ばれると、振り向いてそれが主であるとわかり、「ラボニ・先生」と呼びかけ、初めて主を認識します。

マリアは主の足に香油を塗り、髪の毛で足をぬぐった(12:3)女性です。優しさと愛に溢れながら、主の足下に座って、謙虚にひたすら御言葉を聞き(ルカ10:39)、十字架での最期まで主を慕い続けます。マリアによって、善への情愛が表されています。

イースターの朝、マリアは、復活した主イエスに会います。いや、会ったはずですが、なかなか主に会えたという実感がありません。マリアと会った主はいろいろと形を変えられます。それはマリアの受容の程度に応じます。最初は、二人の天使でしたが、次は園の管理人と考えます。そして、三番目は「ラボニ・先生」です。最後に「先生」であるイエスと会えたはずですが、「触ってはいけない」と言われてしまいます。

マリアの受容の変化に注意してみましょう。
最初の二人の天使です。主の身体のあった頭と、足のところにいた天使は、主から発する神的真理の最初から最後までを意味しています(AE687:18)。天使によって神的真理が意味され、その最初から最後のすべてが表わされてるのは、すなわち主ご自身全体です。しかし神的真理の全体はマリアにはわかりません。マリアは「どこに置いたのか、私にはわからないのです。」(20:13)と応えます。マリアがわからないのは、主のご遺体の行方ではなく、神的真理の全体像でした。しかし、次に出てくるのが「園の管理人」(20:15)と思った人です。

園の管理人は、種を集め、土地を耕し、種をまき、育ててゆきます。しかし、実際に種を根付かせ、発芽させ、花をつけ、実をならせるのは、主の御業です (AE1154[2] ) 。主のみわざはマリアにも、もちろん私達にもわかっていません。
毎日、劇場のように全世界に主の御業を見ておきながら、主の摂理を知らずに、自然の力、あるいは人間の力としか考えないからです。生命とは肉体の生命だけであると考え、そしてその生命の源がどこから来ているか、知らずに生活しています。さらに、その生命を、本来あるべき方向ではなく、自分の好きな方向に濫用しています。そのため、主に出会いながらも、ただの「園の管理人」としか考えません。憐れに想われた主は、声をかけられ御姿を明かします。

イエスは彼女に言われた。「マリア。」彼女は振り向いて、ヘブル語で「ラボニ」、すなわち「先生」とイエスに言った。(20:16)

弟子達は「先生」とは呼びません。マリアが応えた「先生」という返事は、主を神的善ではなく、神的真理として考えている結果といわれています。
「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。」(1:14)とあるように、主はみことば、神的真理としてお生まれになりました。そして最期の試練によって栄化され神的善とむすばれたはずです。しかし、マリアの意識の中では、まだ栄化されていません。全能の神となっていません。そこで、主はマリアだけではなく、弟子や、信仰の真理にいる者のところに行って伝えなさいと命じられます。
天界の教えによれば、「主」という呼びかけは善について、そして「先生」は真理について呼ばれます(AC2921:6)。

「わたしはまだ父のもとに上っていないのです。わたしの兄弟たちのところに行って、『わたしは、わたしの父であり、あなたがたの父である方、わたしの神であり、あなたがたの神である方のもとに上る』と伝えなさい。」(20:17)

このとき、マリアは、主に「わたしにすがりついていてはいけません」と諭されます。マリアの意識の中で栄化されていないため、兄弟たち、すなわち弟子たちのところに行って、栄化されたことを伝え、全能の神となることを彼らによって教えられることをお求めになります。

「『あなたがたの神である方のもとに上る』と伝えなさい。」とは、神的真理が、神的善と一体となって栄化されることです。神的真理と神的善が結びついて一体となることは、善への情愛だけでは理解は難しく、理解できません。信仰の真理を少しずつ教えられ学んでいる弟子達によって、初めて理解が可能となります。

善と真理がどう違うのか?神的真理と神的善が結びつくとは、どういうことなのか、抽象的な概念はなかなか理解できません。
しかし例えば、隣人への善は、教えられ、行いながら考えると、誰が隣人で、何が善なのか、はじめて理解することができます。学ぶだけでは誤解や偽りが残り、主の教えを理解することは簡単ではありません。行い、善にしてゆく過程で、真理に含まれている偽りが取り除かれてゆきます。そして、すべて隣にいる人が隣人ではなく、それぞれの人が持っている善自体が隣人であることに気づきます。

私達も、主の蘇りは、肉体の蘇りなのか、霊の蘇りなのか、そして私達自身にも蘇りがあるのかどうか、はっきりとはわかりません。人に教えるよう遣わされたとしても、確信をもって人に言えません。確信をもって人に伝えるためには、しっかりした教えにそって理解し、行って確かめなければ、曖昧なままです。

マリアが来て「私は主を見ました」と報告し、そして上られて神と一体となると告げられたことを弟子達に伝えます。イースター、主の蘇りの日の夕方、弟子達の真ん中に主が現れ、大きな進展があります。

弟子達は、旧い宗教勢力への怖れから、「戸に鍵がかけられてい」ます。真理を知り、伝えることができません。私達も、旧い宗教に囲まれ、主の再臨を堂々と告げることができません。真理を説けば、社会的評価を失う怖れがあるので、戸を閉めて小さいグループで話し合います。

すると、イエスが来て彼らの真ん中に立ち、こう言われます。「平安があなたがたにあるように。」(20:19)

平安とは神性と神的人間の結合で、主が語られた「神のもとに上る」ことが意味されます。平安の内的意味は、主ご自身のことです。主は天界であり永遠の生命です。そして主との結びつきによって起こる天界の歓びです。(AE365:11)
蘇った主と会い、「平安」を祈られた時、弟子達にとってどんなに素晴らしい歓びの瞬間であったことでしょうか!弟子達の中に立って「手と脇腹を彼らに示された」ことは、主は単なる霊ではないことを物語ります。また、焼いた魚と蜂蜜(KJV)を召し上がった(ルカ24:42)ことも単なる霊ではない証しです。

しかし、鍵のかけられた戸を通り抜けて、弟子達の前にあらわれことは、私たちのような肉体でもありません。天界の教えは、神の右の座に着いて、神的全能を得られたと教えます。「主の人間的実体と本質は、神的実体あるいは本質のようであった」(主の教義 35:10,11) と記します。
主イエスは、人間的実体とともに神的実体をお持ちになった特別な存在となられました。墓には何も残してゆかれません。すべて天に上げられます。
私達は、肉体を地上に残し、霊として霊界で生きてゆきます。そして知性は受容の程度に応じます。しかし、主の身体はその両方を今もお持ちです。自然的感覚もあるため、私達と交流することができます。

神的全能をお持ちになった主から、再び、「平安があるように」そして「父がわたしを遣わされたように、わたしもあなたがたを遣わします。」と告げられます。
息を吹きかけ、「聖霊を受けなさい。あなたがたがだれかの罪を赦すなら、その人の罪は赦されます。赦さずに残すなら、そのまま残ります。」(20:22,23)

主から息を吹きかけられると、神的真理を認識し、信仰の生命を受けるようになります(AC 9818:15)。聖霊とは霊的意味では真理のことで、人の生命はそこからきます。それは知性のことです。(AE 183:6)
聖霊を与えられると、知性から真理を認識できます。聖霊、すなわち神的霊感を受けなければ、信仰は知識のままで本当に理解できません。生きたものとなりません。信仰の生命を受けることができません。主の聖霊を受け、主の知恵から罪を考えて生きたものとします。人間の恣意的な知性ではありません。

弟子の一人のトマスは「私は、その手に釘の跡を見て、釘の跡に指を入れ、その脇腹に手を入れてみなければ、決して信じません」(20:25)と、否定します。トマスのように感覚的真理に留まると、主のお姿を見て、主を信じることができません。
主は憐れみ、トマスの前に現れ、見て触って信じなさいと促されます。
「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしの脇腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」(20:27)
主が人間であると同時に、神的な存在であることを感覚的にも確認します。

「私の主、私の神よ。」(20:28)
トマスは信じます。先にマグダラのマリアが「先生」と言ったのとは異なります。神的真理と神的善が結びつき、栄化されたことを認めました(AC2921:6)。
「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ないで信じる人たちは幸いです。」(20:29)

見て信じるのは、奇蹟を見て主の力を信じるのと同じです。奇蹟など感覚的に訴える信仰は、理性を麻痺させ、強制するからです。強制された信仰は、さらに刺激の強いものに出会えば、忘れてしまいます。しかし自由の内におかれて、人が理性的に考えた上で、自分で選択するなら、その選択は自分のものとなります。理性を使って考えた信仰は、その人のものです。(AC 7290:2)

質問と回答だけを記した問答は、たしかに信仰のきっかけにはなります。しかしそのとき、何故?どうして?と深く考えれば、理性的思考として残ります。その思考は、一生残り、様々な経験で役に立ちます。
「見ないで信じる人たちは幸いです。」とは、人間のそんな傾向についておしゃっています。

イースターの祝いは、主の復活の祝いです。しかし二千年前に主が復活されたと祝うだけなら、新たな刺激が出るとすぐ忘れ去って、信じない者となってしまいます。主の復活を深く考えることは、私達自身の復活を考えることです。どうすれば、何を信じて行えば、復活し、永遠の生命を得られるのか?永遠の生命とは何か?深く考え、新しい生命を知性で自分のものとすることがイースターの真の意味です。

マリアは、最初に主の蘇りに出会う光栄にあずかります。しかしマリアの理解は、主はまだ栄化された存在となってないので、「触ってはいけない。すがりついていてはいけない」と警告されます。マリアが聞くだけでなければ、ただ触るだけ、すがりつくだけでなく、主の傷も含めた真のお姿を見ることができたかもしれません。栄化された主のみ心に触れることができたかもしれません。

復活し、栄化された主は、万能の力をお持ちで、神の右の座につかれています。真理は善と結ばれなくてはなりません。私達の学ぶ真理も、行って善としなければなりません。知識ではなく、隣人に役立たねせなければなりません。隠れている弟子たちの元に行って、神的善となった主と会い、そこから聖霊をいただかなければ、主の本質である愛が見えません。信仰の真理を理解する力を、主ご自身に求め、理解して実行します。私達自身が復活の道、再生の道を進んでゆきます。

主イエスが、天地唯一の神となられたことを信じて、その主が与えられる真理を、主によって理解して実行するなら、私達はイエスの名によって再生し、永遠の生命を得ることになります。

これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるためであり、また信じて、イエスの名によっていのちを得るためである。(20:31) アーメン

詩編 <ダビデによる。賛歌。>
110:1 【主】は私の主に言われた。「あなたはわたしの右の座に着いていなさい。わたしがあなたの敵をあなたの足台とするまで。」
110:2 【主】はあなたの力の杖をシオンから伸ばされる。「あなたの敵のただ中で治めよ」と。
110:3 あなたの民はあなたの戦いの日に喜んで仕える。聖なる威光をまとって夜明け前から。あなたの若さは朝露のようだ。
110:4 【主】は誓われた。思い直されることはない。「あなたはメルキゼデクの例に倣いとこしえに祭司である。」
110:5 あなたの右におられる主は御怒りの日に王たちを打ち砕かれる。
110:6 国々をさばき屍で満たし広い地を治める首領を打ち砕かれる。
110:7 主は道の傍らで流れから水を飲まれる。こうしてその頭を高く上げられる。

ヨハネ福音書
20:1 さて、週の初めの日、朝早くまだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓にやって来て、墓から石が取りのけられているのを見た。
・・・
20:19 その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちがいたところでは、ユダヤ人を恐れて戸に鍵がかけられていた。すると、イエスが来て彼らの真ん中に立ち、こう言われた。「平安があなたがたにあるように。」
20:20 こう言って、イエスは手と脇腹を彼らに示された。弟子たちは主を見て喜んだ。
20:21 イエスは再び彼らに言われた。「平安があなたがたにあるように。父がわたしを遣わされたように、わたしもあなたがたを遣わします。」
20:22 こう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。
20:23 あなたがたがだれかの罪を赦すなら、その人の罪は赦されます。赦さずに残すなら、そのまま残ります。」
20:24 十二弟子の一人で、デドモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。
20:25 そこで、ほかの弟子たちは彼に「私たちは主を見た」と言った。しかし、トマスは彼らに「私は、その手に釘の跡を見て、釘の跡に指を入れ、その脇腹に手を入れてみなければ、決して信じません」と言った。
20:26 八日後、弟子たちは再び家の中におり、トマスも彼らと一緒にいた。戸には鍵がかけられていたが、イエスがやって来て、彼らの真ん中に立ち、「平安があなたがたにあるように」と言われた。
20:27 それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしの脇腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」
20:28 トマスはイエスに答えた。「私の主、私の神よ。」
20:29 イエスは彼に言われた。「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ないで信じる人たちは幸いです。」
20:30 イエスは弟子たちの前で、ほかにも多くのしるしを行われたが、それらはこの書には書かれていない。
20:31 これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるためであり、また信じて、イエスの名によっていのちを得るためである。

黙示録解説(AE) 419
[5]
ヨハネ福音書に
イエスは弟子達におっしゃった。「平安があなたがたにあるように。父がわたしを遣わされたように、わたしもあなたがたを遣わします。」こう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。」 (20:21, 22)
主が「息を吹きかけ、彼らに聖霊を受けなさい」とおっしゃったことは、エホバが「アダムの鼻にいのちの息を吹き込まれた」のと同じで、すなわち霊的生命を与えられたことです。なぜなら、聖霊は主から発する神的真理を意味し、ここから霊的生命が来ます。彼らが主から神的真理を教えなければならないことは、「父がわたしを遣わされたように、わたしもあなたがたを遣わします。」によって意味されます。なぜなら主がこの世にいらっしゃったときは、神的真理それ自体で、受胎のときから主の内にあった神的善から教えられました。この神性は主がここでそして他の箇所で「父」と呼ばれるものです、なぜなら、この世から出られたとき主は神的真理を内にある神的善と一つになるよう結ばれ、その時以来、神的真理は主から発していたので、「父がわたしを遣わされたように、わたしもあなたがたを遣わします。」とおしゃいます。呼吸の息が霊的生命を意味するのは相応から来ているためです(天界の秘義3883-3896参照)。霊界のすべての性質が、その単なる呼吸から来ていることは知られています。天界の呼吸の生命の内にいる者は、天使の間にいます。しかしその呼吸の内にいない者は、もし天界に来るなら、そこで息をすることが出来ず、窒息したように苦痛にあえぎます(天界の秘義1119, 3887, 3889, 3892, 3893参照)。この語の相応から、「インスピレーション・霊感」という語は来ており、預言者は「霊感を与えられる」そして御言葉は、「神的霊感を与えられたもの」と言われます。

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