パームサンデー

パームサンデー

なつめ椰子の枝を持って迎えに出て行き、こう叫んだ。「ホサナ。祝福あれ、主の御名によって来られる方に。イスラエルの王に。」(ヨハネ 12:13)

本日はパームサンデー、主のエルサレム入城の日です。これは主の復活の日、イースターのちょうど一週間前の日に設定されています。この週は過越の祭りの期間でもあり、当時は多くの人がエルサレムを訪れていました。
主がロバに乗って、エルサレムの門をくぐられ、多くの人が棕櫚の葉の枝を持って、大声で「ホサナ」と叫びます。まさに王の入城の光景です。

ホサナという語は、元はヘブル語で、「お救いください」を意味します。詩編118:25 で「ああ【主】よどうか救ってください」とあります。
当時の群衆は、救世主の出現を待ちに待っていました。その救世主が登場し、エルサレムで多くの民に迎えられるシーンは悦ばしく、主の地上の生涯のうちでも晴れがましい光景です。

人々は、主をどんな気持ちで迎えたのでしょうか?
ここにいる人達の多くは、ラザロの死からの蘇りを聞いて集まってきた人達と言われています。(12:17,18)

ラザロは、主に香油を塗り、髪の毛でその足をぬぐったマリアと、その姉妹のマルタの兄弟です(11:2)。
主はラザロを愛され(11:1-3, 5, 36)、主の友人であり(11:11)、主と同じ食卓についていました(12:2)。
しかし、金持ちの門前に「全身おできの貧しい人が寝ていて、金持ちの食卓から落ちる物で腹を満たしたいと思っていた。犬もやって来ては、彼のおできをなめていた。」(ルカ16:20-21)とも表現されています。
実在の人というより、何かが表象されています。ルカ書の表現を、天界の教えから読み解けば、「真理が豊富な教会からわずかな真理を学んではいるものの、信仰の純粋な真理にはおらず、教会の外にいて、善にいる者」(AC 9231:3)のことを言っています。

主を歓迎する人たちを、ラザロの表象から推測すれば、わずかな真理で善い生活を送っており、自らも蘇りたい、再生したいと望んでいる人たちのことが意味されています。彼らは霊的情愛の起源から真理を求めています。(AE 137:2)

しかし、そこには同じようにパリサイ人もいます(12:19)。彼らは、内心では主を否定し、足を引っ張りたいと願っている偽善的な人達です。彼らが主を迎えたとしても、内心は害を与えたいため機会をうかがっているに他なりません。

そして別の集団がいます。ギリシア人達です。「祭りのとき礼拝のために上って来た人々の中に、ギリシア人が幾人かいた。」(12:20)とあります。
彼らは、ユダヤ人ではなく、いわゆる異邦人と呼ばれています。ギリシア人は、ガリラヤ出身のピリポと、そこからアンデレを頼って、主に会いたいと願い出ます。
アンデレは天界の教えによれば、「信仰の従順」を意味します(AE821-3 )。そしてギリシア人たち異邦人は知的に優れています。アンデレが仲介したことから、知的な真理には、従順に従おうとする人達です。
本来はこのエルサレムにはおらず、他の地で生活していた人々、異邦人です。

アンデレがギリシア人達を主の前に連れてくると、驚くべきことが起こりました。
主イエスは彼らに答えて言われ「人の子が栄光を受けるその時が来た。」(12:23)と、切り出されたのです。ギリシア人たちは、ラザロの蘇りについて聞きたいと思っていたのでしょう。彼らにとっては寝耳に水のような話です。

しかし、主はこれからご自身が凄惨な試練に会うことを知って、その預言が始まります。たしかに、エルサレムで、主はパリサイ人やユダヤ教会の指導者の憎悪を受けています。隠れた憎しみと殺人の想いが、彼らから噴き出て、それを浴びせかけられています。直接、浴びせかけられた者にはよくわかる殺意と憎悪です。

この殺意と憎悪の渦巻く中、主は敢えてこの試練を進んで受けられようとされています。
天界の教えにも、「この種を入れないパンの祭り、あるいは過越が定められたのは、まさにこの試練を記念していたためで、この祭りにあって主は再び蘇られます」(AC 10655:3)と教えています。この祭り自体が、主の最後の試練のために定められていたのです。

ご自身も『父よ。この時からわたしをお救いください』と言おうか。いや。このためにこそ、わたしはこの時に至った (12:27) と、これから起こる試練のまさに最中であることを主は明らかにご存じでした。

教義を意味するエルサレムで、ギリシア人で表される異邦人が、内的真理である主を求めてきたことが、この試練の始まりです。主が世に来られた目的は、異邦人達の中に新しい教会を設立し、すべての人を救うことでした。異邦人の中への新しい教会の設立は、異邦人へのご自身の試練と、栄化の「宣言」から始まったことになります。

とすれば、エルサレム入城は、王の歓迎の行事だけではなく、主の試練の始まりであると同時に、私達も試練を経て、同じように再生しなければならないことを告げる教えの始まりです。

しかし異邦人は、奇蹟を起こした主に会いたいという、知的興味に未だ留まっています。彼らには内的真理を説き、知的興味だけではなく、自分から行動することが重要だと明らかにされます。

「自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世でそのいのちを憎む者はそれを保って永遠のいのちに至るのです。わたしに仕えるというのなら、その人はわたしについて来なさい。わたしがいる所に、わたしに仕える者もいるべきです。」(12:25,26)

これはギリシア人達や当時の人達や弟子たちだけではなく、自分の内に教会を持っていない、あるいは、真理を実行しようとせず教会を持っていない異邦人である、私達への言葉です。私達が新しい生命を得るために何をすべきかを教えられています。その言葉の内意は、実に強烈です。天界の教えから学びます。

主は「人が祝福され、幸福になるために、完全服従を望まれ」(AC 6138:2)ます。
完全服従です。完全服従と言われると、「ちょっと私には会わない、無理かな?」と多くの人の腰が退けてしまいます。何十年か前、米のネット論議に参加したことがあり、この「完全服従」という言葉が出てきて、多くのキリスト教徒、それも新教会の方々が拒否反応をしている様子を数多く見ました。当時は、そういう段階の人が多いのだと驚いたものです。

自分のものを捨て、主に従わなければならないと聞くと、現代の全体主義国家や、金と権力だけが目当ての偽宗教を連想します。そのため拒否反応を示したのかもしれません。しかし主は、パリサイ人達のように嘘をつかれない、真実な方です。私達もそれが真実の教えであることを、何年も学び知っています。信仰とは、心の中でそれは真理だと確信し行うことです。心で確信したのに、行わなければ、信仰とはいえません。単なる知識です。主は、異邦人である私達に、信じて行え、覚悟して着いてこい、と強くお奨めになっています。

主はご自身が、天地の神である存在のはずですが、当時の宗教的権威から心身とも徹底的に否定されるという十字架の試練に入ります。天界の教えの表現によれば、天使を含めて、誰一人として主を助けようとする者はいませんでした。逆に反対側にまわります。そして一人で凄惨な試練を闘われます。

主が試練を通られたのと同じように、私達も自己愛である、自分の生命を捨てよと、行動を促されます。
「主の後を追い、主に従う」とは、自分自身を否定することです。自分を否定するとは、自分ではなく主によって導かれることです。そして悪を断ち、それは罪であるから顔を背けることが、自分を否定し、主によって導かれることです。(AE 864:5)

私達も日々の生活の中で、自分は正しく、もっと尊重されるべきだ、と考えることがよくあります。もっと自分が活躍する場があっていいはずだ、自分の栄光は正当な報酬だという思いが心をよぎります。
しかしこれは地獄からの声に他なりません。自分自身には優しい声です。ここで主を見上げ、それは悪と気づき、その悪を罪として顔を背けるなら、地獄の声ではない別の声が聞こえてきます。

「わたしは栄光をすでに現したし、またもう一度栄光を現そう。」(12:28)
主が「父よ。御名の栄光を現してください。」と祈った時に聞こえる天から声です。
私達がここで自分の悪を避けるなら、私達にも天の声が聞こえます。

主はおっしゃいます。
「この声が聞こえたのは、わたしのためではなく、あなたがたのためです。
今、この世に対するさばきが行われ、今、この世を支配する者が追い出されます。わたしが地上から上げられるとき、わたしはすべての人を自分のもとに引き寄せます。」(12:30-32)

私達が、地獄からの声、悪魔のささやきを拒むことができたなら、それがこの世に対する裁きとなります。この世を支配している者は、私達の内から追い出されます。私達には天界の教え、新教会の教えがあるはずです。そしてそれは、内的真理の教えです。これが私達の内にあって堅く根付いている限り、私達にも内的な天の声、良心の声が聞こえてきます。

内的真理が私達の内にあり、その声が聞こえている内に、主の純粋な真理を行わなければなりません。
「あなたがたは光があるうちに歩きなさい。闇の中を歩く者は、自分がどこに行くのか分かりません。自分に光があるうちに、光の子どもとなれるように、光を信じなさい。」(12:35,36)
光があるうちに歩けとは、真理に従って生きてゆけということです。真理を行えということです。学んだ真理を行わなければ、光の子にはなれません。

しかし、光の子になれなければ、主は姿を隠されてしまいます。
「これらのことを話すと、立ち去って彼らから身を隠された。イエスがこれほど多くのしるしを彼らの目の前で行われたのに、彼らはイエスを信じなかった。」(12:37)

私達から神的真理は消えてしまいます。私達がこれほど多くの神的真理を学んでいても、行わなければ、主は立ち去り、身を隠されてしまいます。
それは私達が、「神からの栄誉よりも、人からの栄誉を愛する」(12:43)ためです。

実に的確なご指摘です。心静かに自分を反省して点検すると、「神からの栄誉」を気に掛けず、いつも「人からの栄誉」を愛して生きていることに気づきます。

しかし主は、私達への慈しみから、再び姿を現され、叫ばれます。
イエスは大きな声でこう言われた。「わたしを信じる者は、わたしではなく、わたしを遣わされた方を信じるのです。」(12:44)

主は「世をさばくためではなく、世を救うため」(12:47)に世にお越しになりました。
しかし、主が天地の神ご自身であることを学びながら、その主の命令を聞かなければ、主の御言葉自体が私達を裁きます。主の命令を神の命令と知りながら拒んだことを裁きます。(12:48)

私達は、この輝かしい日、パームサンデー、が私達自身の裁きの日の始めとならないようにしなければなりません。主は天地の神であり、すべての生命は主からきており、主のみがすべてを支配されています。私達はこれを心に確信し、その御言葉を行います。悪を主に対する罪として拒みます。これが真の主のエルサレム入城です。私達のエルサレムの中で、主は真の王となられます。

「ホサナ(お救いください)。祝福あれ、主の御名によって来られる方に。イスラエルの王に。」(ヨハネ 12:13)アーメン。

【新改訳2017】
出エジプト記
34:18 あなたは種なしパンの祭りを守らなければならない。アビブの月の定められた時に七日間、わたしが命じた種なしパンを食べる。あなたはアビブの月にエジプトを出たからである。
詩編
118:14 【主】は私の力またほめ歌。主は私の救いとなられた。
118:15 喜びと救いの声は正しい者の幕屋の内にある。【主】の右の手は力ある働きをする。
118:16 【主】の右の手は高く上げられ【主】の右の手は力ある働きをする。
118:17 私は死ぬことなくかえって生きて【主】のみわざを語り告げよう。
118:18 【主】は私を厳しく懲らしめられた。しかし私を死に渡されはしなかった。
118:19 義の門よ私のために開け。私はそこから入り【主】に感謝しよう。
118:20 これこそ【主】の門。正しい者たちはここから入る。
118:21 私はあなたに感謝します。あなたが私に答え私の救いとなられたからです。
118:22 家を建てる者たちが捨てた石それが要の石となった。
118:23 これは【主】がなさったこと。私たちの目には不思議なことだ。
118:24 これは【主】が設けられた日。この日を楽しみ喜ぼう。
118:25 ああ【主】よどうか救ってください。ああ【主】よどうか栄えさせてください。
118:26 祝福あれ【主】の御名によって来られる方に。私たちは【主】の家からあなたがたを祝福する。
118:27 【主】こそ神。主は私たちに光を与えられた。枝をもって祭りの行列を組め。祭壇の角のところまで。
118:28 あなたは私の神。私はあなたに感謝します。あなたは私の神。私はあなたをあがめます。
118:29 【主】に感謝せよ。主はまことにいつくしみ深い。その恵みはとこしえまで。

ヨハネ福音書
12:12 その翌日、祭りに来ていた大勢の群衆は、イエスがエルサレムに来られると聞いて、
12:13 なつめ椰子の枝を持って迎えに出て行き、こう叫んだ。「ホサナ。祝福あれ、主の御名によって来られる方に。イスラエルの王に。」
12:14 イエスはろばの子を見つけて、それに乗られた。次のように書かれているとおりである。
12:15 「恐れるな、娘シオン。見よ、あなたの王が来られる。ろばの子に乗って。」
12:16 これらのことは、初め弟子たちには分からなかった。しかし、イエスが栄光を受けられた後、これがイエスについて書かれていたことで、それを人々がイエスに行ったのだと、彼らは思い起こした。
12:17 さて、イエスがラザロを墓から呼び出して、死人の中からよみがえらせたときにイエスと一緒にいた群衆は、そのことを証しし続けていた。
12:18 群衆がイエスを出迎えたのは、イエスがこのしるしを行われたことを聞いたからであった。
12:19 それで、パリサイ人たちは互いに言った。「見てみなさい。何一つうまくいっていない。見なさい。世はこぞってあの人の後について行ってしまった。」
12:20 さて、祭りで礼拝のために上って来た人々の中に、ギリシア人が何人かいた。
12:21 この人たちは、ガリラヤのベツサイダ出身のピリポのところに来て、「お願いします。イエスにお目にかかりたいのです」と頼んだ。
12:22 ピリポは行ってアンデレに話し、アンデレとピリポは行って、イエスに話した。
12:23 すると、イエスは彼らに答えられた。「人の子が栄光を受ける時が来ました。
12:24 まことに、まことに、あなたがたに言います。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままです。しかし、死ぬなら、豊かな実を結びます。
12:25 自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世で自分のいのちを憎む者は、それを保って永遠のいのちに至ります。
12:26 わたしに仕えるというのなら、その人はわたしについて来なさい。わたしがいるところに、わたしに仕える者もいることになります。わたしに仕えるなら、父はその人を重んじてくださいます。」
12:27 「今わたしの心は騒いでいる。何と言おうか。『父よ、この時からわたしをお救いください』と言おうか。いや、このためにこそ、わたしはこの時に至ったのだ。
12:28 父よ、御名の栄光を現してください。」すると、天から声が聞こえた。「わたしはすでに栄光を現した。わたしは再び栄光を現そう。」
・・・
12:43 彼らは、神からの栄誉よりも、人からの栄誉を愛したのである。
12:44 イエスは大きな声でこう言われた。「わたしを信じる者は、わたしではなく、わたしを遣わされた方を信じるのです。
12:45 また、わたしを見る者は、わたしを遣わされた方を見るのです。
12:46 わたしは光として世に来ました。わたしを信じる者が、だれも闇の中にとどまることのないようにするためです。
12:47 だれか、わたしのことばを聞いてそれを守らない者がいても、わたしはその人をさばきません。わたしが来たのは世をさばくためではなく、世を救うためだからです。
12:48 わたしを拒み、わたしのことばを受け入れない者には、その人をさばくものがあります。わたしが話したことば、それが、終わりの日にその人をさばきます。
12:49 わたしは自分から話したのではなく、わたしを遣わされた父ご自身が、言うべきこと、話すべきことを、わたしにお命じになったのだからです。
12:50 わたしは、父の命令が永遠のいのちであることを知っています。ですから、わたしが話していることは、父がわたしに言われたとおりを、そのまま話しているのです。」

黙示録解説864
[5]福音書に、
「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、そしてわたしについて来なさい。」
(マタイ 16:24; マルコ8:34; ルカ 9:23)とあります。

「主の後をついてゆき、主に従う」とは結局、自分自身を否定することです;そして自分自身を否定するとは、自分ではなく主によって導かれることです;そして自分を否定するとは、悪を断ち、悪を罪として顔を背けることで、悪から顔を背けたとき、主から導かれることになります。なぜならそのとき彼は主の命令を、自分からではなく、主から行うからです。「主に従う」とは他でも同じ意味を持ちます。
(マタイ19:21, 28; マルコ 2:14, 15; 3:7, 8; 10:21, 28, 29; ルカ 18:22, 28; ヨハネ 12:26; 13:36, 37; 21:19-22).

黙示録解説137
[2]「アンテパス、私の忠実な証人」は主の神的人間を認めた嫌われた人達のことが意味され、当時アンテパスはそういう理由で虐殺されたためです。そのため「アンテパス」は、そういう理由で嫌われることが意味されます。
「ラザロ」は金持ちの門にいて、その食卓からのパンくずで養われたいと願ったように、彼らが霊的情愛から真理を求めたために主が愛された者達のことを意味します。主が「ラザロ」という名の者を愛されたのは、主が彼を死から蘇らせた(ヨハネ11:3, 5, 36)、主と食卓に共に着いたこと(〃12章)そして金持ちの食卓から落ちるパンくずによって養われたいと願う者、これによって霊的情愛から真理を求める者が、主によって「ラザロ」と呼ばれました。
ラザロがそういう理由で名付けられたため、「アンテパス」も主の神的人間を認めたため、主の御名の殉教者とされます。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です