ヨセフの誘惑
主人はヨセフの手に全財産を任せ、自分が食べる食物のこと以外は、何も気を使わなかった。しかもヨセフは体格も良く、顔だちも美しかった。(創39:6)
兄弟達に自分が君臨する夢を見たことを語ったため、嫉妬した兄弟達は、ヨセフを穴の中に落とし殺そうとします。しかし、一部の兄弟が反対したため命は助かります。その後、ミデヤン人の商人に救われ、イシュマエル人に売られて、エジプトに連れて行かれます。エジプトでは、ファラオの廷臣のポティファルに買い取られ、ポティファルの家の管理を任されるまでに出世します。ところが、ポティファルの妻からの誘惑を断ったため、ぬれ絹を着せられ、ヨセフは王の監獄にいれられてしまいます。波瀾万丈の生涯が続きます。
しかし、神が述べられた御言葉の深い意味は、この文字上とは全く異なる深い内容で、私たちにも関係してきます。文字の上では、一民族の族長達の栄枯盛衰の物語ですが、その内意は、主イエス・キリストのご自身の栄化の過程と、同時に私たちの再生の道のりが描かれています。そのため、人類すべて、その永遠の生、すべてに影響します。
主人公のヨセフは、主の神的人間を表現しています。正確に言えば、合理的なものから生まれた霊的なものの天的な存在 (AC4286)(caeleste spiritualis exrationali, the celestial of the spiritual from the rational)で、自然的なものである私たちを、天界の霊的・天的存在、そして創造主である神に、仲介するものです。
ごくごく簡単に言えば、神的なものと自然的な人間を仲介することによって、人間と神の交流を促進し、人間の再生を図ります。そのため、主が人間としてお生まれになり、ご自身を神的なものに栄化なされました。これがなければ、人類は一人として神と結ばれること無く、滅んでいました。
聖書の創世記39章で、ヨセフは、エジプト王の臣下の家と畑の管理をすべてまかされます。そして「体格も良く、顔だちも美し」(創39:6)く、ヨセフの人生は兄弟たちから受けた不遇から、エジプトでの栄達へと順風満帆のように見えます。
私たちも、遺伝悪や悪い社会習慣から離れて、畑で表される教会の真理に従って、人間の生命の全てを、役立ちという目的に向けて生活すれば、家で表される人間の生命のすべては善い方向に向かって進みはじめます。
逆に、盲目的・本能的に善いと思う方向に向かうなら、バランスを崩してしまい、全体の舵取りはうまく出来なくなります。しかし、理性を働かせ、役立ちの目的・内容をよく考えます。そうすることで、公平と正義、そして霊的真理と善の原理に従えうようになれば、ヨセフが家を管理したように、人生はうまく管理できます(AC4988)。
ヨセフは、この管理を段階的に進めて(AC4977,4979,4992,4999,5003)、自然の中での内面の支配を強めてゆきます。内面の善が外面まで影響するようになれば、美しい天使の姿のように、霊界では、善の美しさが輝き始め、来世の姿形も美しくなります(AC4985)。
このヨセフの容姿の美しさに惹かれたのか、ポティファルの妻は何度も「結合」を迫ります。ポティファルの妻は「霊的でない自然的真理」を意味します (AC4989) 。例えば、霊的でない自然的真理の言うことを聞けば、どんな友人であっても友人である限り、仲良くしなければならない、とされてしまいます。もし、その友人が邪悪であっても、親切にしないと許されません。この自然的な定義を一律にあてはめられるなら、合理的なものから生まれた存在であるヨセフは、不合理な規準に「納得できない!」と嫌悪感を抱きます。加えてこの人妻には、自然的善という夫がすでにいて、ヨセフはその配下にいます。
「あなたがご主人の奥さまだからです。どうして、そのような大きな悪事をして、私は神に罪を犯すことができましょうか。」(39:9)夫のいる妻とは結合ではなく、分離を目指さなければなりません。そうでなければ、不合理な規準の中で、合理的なものから生まれた存在は、生きて行けません。
このヨセフのセリフの中に「悪」と「罪」という単語が出てくることに注目します。これは霊的な善は、霊的でない自然的真理とは、両立できないので、結ばれてはならないことを意味します。そしてそこに存在する悪は、善から分離しなければなりません。
一般に「善」は主への愛と隣人への愛であり、結合する力と傾向があります。そして「悪」は自己愛と世間愛であり、悪同士は常に分離する傾向を持ちます(AC4997等)。悪と悪は結ばれているように見えますが、それはある短期的・利己的な目的が一致する限りにおいてです。自己愛と自己愛どうしは、嫌悪と憎悪が働き、自分以外とは結ばれることはありません。
教会でも同じ事が起こります。教会の内外で結合する愛がなくなれば、分離と消滅が生まれます(AC5002)。日本と世界の新教会、そして世界のキリスト教会の動向を見れば、これは一目瞭然です。主の平和を説くはずの教会が、ある国の教会のように、主への愛と隣人愛を超える別の価値を上にもって、戦乱が生まれます。もし、教会の内や、教会同士の間に、分離の傾向があれば、必ずそこには何らかの悪があり、罪があるはずです。
それは教会の自己点検の時です。
ヨセフを誘惑しようとした自然的真理の、霊的でない部分は、
「私が声をあげて叫んだので、私のそばに上着を残して外へ逃げました。」(39:18)
不倫という悪を行おうとしたポティファルの妻は、拒まれたため、ヨセフに反感を抱き、最も外側の真理を切り離し証拠とします(AC5028)。これが残された上着です。そうなると、霊的真理に反感を抱き、拒絶し、仁愛の善から撤退します(AC5034)。相手に仁愛の善がなければ、それは別離の時です。
天界の教義では、隣人に対する善、貧しい人、やもめ、孤児を例として取り上げます。貧しい人であれば、親切にしなければならないという最も外側の真理を一律に適用しようとします。その実質が悪であっても関係ありません。そして内的真理を説き、実質を考えようとする霊的人間を笑いものにします(AC5028)。
偽りと反感によって、ヨセフの主人であるポティファルは、ヨセフを監獄に入れます(39:20)。創世記にもイサクの献納から、ヤコブのヤボクの渡しでの試練、エサウとの再会、そしてヨセフの人生等、数々の試練が描かれています。これは、主イエスが、この世でお受けになった無数の試練を物語るだけではありません。私たちも霊的成長の度に、必ず試練を受けることを描いています。
試練は「人が実際に再生の過程に入っている間、進展してゆきます、なぜなら誰も試練を受けない限り再生することが出来ないからです。」(AC5036) 霊的に成長する限り、試練は避けられません。
主の祈りのなかに、「私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください。」(マタイ6:13)という句があります。しかし私たちは試練に遭わなければ、霊的成長がありません。主は試練をもたらさず、常にお守りになっています。私たちを試練に遭わせるのは、私たちの周りにいる悪霊、奈落の霊です。悪霊たちが、私たちの中にある偽りの思考、過去の悪業を刺激して思い起こさせることで起こります。私たちが祈るは、試練の中で主のみ力による守りを求めるためです。
最も外側の真理が退き、自分を守るものがなくなった時に試練が訪れます。試練の例をあげます。「人が霊的になると、裕福な教会等に献金を捧げることが聖なる業ではないと考え始めます。しかし霊的になる前はそれが聖なる業と考えて、そうしていました。すると悪霊達は新しい考えは偽りであり、以前は、聖と考え、行っていたはずだと責めてきます」(AC5036-5)。
これは、昔一般的であった考え方と、新しい考え方の矛盾をついた情愛に関する問題ですが、現在ではより深く人の情愛の矛盾を突いてきます。
例えば、人が死後三日目に生き返るなら、三日に至る前に、心臓や脳を移植したり、遺体を焼却したりすると、それは殺人ではないか?
遺伝子操作による治療や人間のクローン作成は、神の領域を荒らす業ではないか?現代の科学でも解決できない問題を、人間が勝手気ままに行って善いのか?まだ解決できていない新たな問題が累積しています。人間の良心の葛藤は次々と生まれてゆきます。
悪霊達は、情愛を責めます。過去の悪と偽りを責め、矛盾を責め、良心の呵責を産み出します。
そのため、真理を学んで情愛を育てたことが全く無く、良心を持たない人には、試練は起こりません。悪霊たちが責める面がないからです。
「しかし、【主】はヨセフとともにおられ、彼に恵みを施し、監獄の長の心にかなうようにされた。」(39:21)
神の慈しみは、罠にはまった者へ向けられる神的愛に他なりません、試練にある者への愛です (A
C5041) 。試練にいる者が、疑問の状態と絶望にあるとき、そこから目をあげると、主から真理が流入し、思考を治めます。その真理とは、御言葉から学び本人が確認したものです。その真理自体を流入させるのではなく、真理の情愛を高めます(AC5044)。「監獄の長」とは、支配する真理です。
私たちが試練にあると、主がその試練から直接お救いになるわけではありません。財産や家族を失ったとしても、主が奇蹟の力によって財産や家族をお戻しになるわけではありません。戦争にあっても、戦争を主が直接止め、主が直接現れ、平和を与えるのでもありません。もしあるとした、それは摂理の法則という別の法に従います。決して試練の中ではありません。試練では、その試練の内容に合った御言葉に神の力を吹き入れ、御言葉の真理を心に根づかせます。
例えば、御言葉によって、この世の財産よりもより価値のある財産があることに気づきます。家族の肉体の死は、肉体だけの死で、魂は蘇り、生きています。戦争は間違いなく悪であり、悪は避けなければなりません。しかし、家族や国を守るための戦いは悪ではありませんが、闘いの中で残忍や冷酷が起これば、悪として避けなければならない。これらの真理を学んだ時の御言葉が思い起こされ、自分のうちに真理が深く根付くことになります。
神的なものは、情愛だけに流入します。真理が人の心に深く根付くためには、私たちの力だけでは足りません。強い思い込みをしても役に立ちません。厳しい現実に出会うと、主の力をすぐに疑い始めます。そして神的なものによって根付いた真理には、主の御力が働き、主の善から光が輝き出します。そこに私たちの力は全くありません。
私たちの内で、試練に遭う人はわずかか、ほとんどいないことが天界の教義の中で示されてます。しかし、私たちが霊的に成長するためには、試練は欠かせません。私たちの内にある学んだ真理が、自分の力によって記憶しているだけの、あやふやな内容として留まるからです。情愛の中で真理が力を持つためには、神的な力が必要です。もしも試練が起こり、その中で勝利するなら、主の力が御言葉から学んだ真理に流入し情愛が強まったおかげです。私たちの力ではないことが嫌というほどわかります。
ヨセフが監獄の中で、力を持てたように、試練の中で、主の神的人間が私たちの内で力を持つことができますように。「私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください。」(マタイ6:13)
アーメン。
(新旧約聖書は新改訳)
創世記
39:1 一方、ヨセフはエジプトへ連れて行かれた。ファラオの廷臣で侍従長のポティファルという一人のエジプト人が、ヨセフを連れ下ったイシュマエル人の手からヨセフを買い取った。
39:2 【主】がヨセフとともにおられたので、彼は成功する者となり、そのエジプト人の主人の家に住んだ。
39:3 彼の主人は、【主】が彼とともにおられ、【主】が彼のすることすべてを彼に成功させてくださるのを見た。
39:4 それでヨセフは主人の好意を得て、彼のそば近くで仕えることになった。主人は彼にその家を管理させ、自分の全財産を彼に委ねた。
39:5 主人が彼にその家と全財産を管理させたときから、【主】はヨセフのゆえに、このエジプト人の家を祝福された。それで、【主】の祝福が、家や野にある全財産の上にあった。
39:6 主人はヨセフの手に全財産を任せ、自分が食べる食物のこと以外は、何も気を使わなかった。しかもヨセフは体格も良く、顔だちも美しかった。
39:7 これらのことの後、主人の妻はヨセフに目をつけて、「一緒に寝ましょう」と言った。
39:8 しかし彼は拒んで、主人の妻に言った。「ご覧ください。ご主人は、家の中のことは何でも私に任せ、心配せずに全財産を私に委ねられました。
39:9 ご主人は、この家の中で私より大きな権威をふるおうとはせず、私がするどんなことも妨げておられません。ただし、あなたのことは別です。あなたがご主人の奥様だからです。どうして、そのような大きな悪事をして、神に対して罪を犯すことができるでしょうか。」
・・・
39:20 ヨセフの主人は彼を捕らえ、王の囚人が監禁されている監獄に彼を入れた。こうして彼は監獄に置かれた。
39:21 しかし、【主】はヨセフとともにおられ、彼に恵みを施し、監獄の長の心にかなうようにされた。
39:22 監獄の長は、その監獄にいるすべての囚人をヨセフの手に委ねた。ヨセフは、そこで行われるすべてのことを管理するようになった。
39:23 監獄の長は、ヨセフの手に委ねたことには何も干渉しなかった。それは、【主】が彼とともにおられ、彼が何をしても、【主】がそれを成功させてくださったからである。
ヨハネ福音書
10:17 わたしが再びいのちを得るために自分のいのちを捨てるからこそ、父はわたしを愛してくださいます。
10:18 だれも、わたしからいのちを取りません。わたしが自分からいのちを捨てるのです。わたしには、それを捨てる権威があり、再び得る権威があります。わたしはこの命令を、わたしの父から受けたのです。」
天界の秘義5036
[2] 試練自体に関しては、人が実際に再生の過程に入っている間、進展してゆきます、なぜなら誰も試練を受けない限り再生することが出来ないからです。そして彼の周りに居る悪霊が、試練を起こす手段となります。試練の中では、自分が持っている悪の状態の中に入れられます、すなわち、その人を支配する本質的自我です。ひとたびこの悪の状態に入ると、悪霊、奈落の霊が彼を取り囲み、彼が内的に天使達によって守られていると気付けば、悪霊たちは、彼が抱いていた偽りの思考や、犯した悪い業を思い起こさせます。しかし天使達は内側から守ります。この闘いが、人が試練として経験するものです、しかしこの経験はあまりにも漠然としているので、不安感としてしか感じません。