剣を取る者はみな剣で滅びます。

剣を取る者はみな剣で滅びます。

「わたしが来たのは地に平和をもたらすためだと思ってはなりません。わたしは、平和をもたらすために来たのではなく、剣をもたらすために来たのです。」(マタイ10:34)

世界には戦乱と疫病がまん延し、物価上昇で経済も不安的になりつつあります。
私たちが謳歌していたはずの日本の平和は、今や姿を消してしまいつつあるようにさえ思えます。
戦乱の国から、小さい国にも匹敵する人口が、逃げ出しています。良い関係と信じていた国々、人々の間にも、ちょっとした行き違いから、あっという間に敵意が生まれます。

ここで、戦争についての基本的な教えを、天界の教えの書から確認します。(DP251参照)
戦争は、殺人・略奪・暴力・残虐などあらゆる恐ろしい悪と切り離すことができず、キリスト教の愛と正反対です。しかし、私たちは人を支配しようとする愛と、世界の富を全て獲得する愛に生まれついており、これは表面に出てこない限り、認めて抵抗することが出来ません。これを認め、闘うため、主の長期的見地の許しの法によって、戦争という悪が許されています。その戦争は、人類の絶滅の怖れが出るまで抑えられません。この世の戦争は、同時になんらかの霊界での出来事を反映しています。そして、勝敗や運不運など出来事すべてに神的摂理が働いています。

戦争にも侵略戦争と防衛戦争があります。侵略は悪としても、守るための戦争はどうでしょうか?
善人は守りしか気に掛けず、情熱を持ちません。攻撃は稀にしか行いません。天界と地獄と同じで、地獄の霊は攻撃し、天界の天使は守ります。自分の国と市民を侵略から守るのは、適切とされています。(DP252)

私たちが、まず確認しなければならないのは、戦争は間違いなく十戒に反する悪であることです。そこには善の欠片もありません、ただ隠れてなかなか表面に出てこないいる自分の二大悪、支配欲と所有欲を知るため大小の戦争が起こります。
大小の戦争、国と国の闘い、会社間の争い、隣室や家の住人、家族との争いが起こるとき、誠に不本意ながら、それは神が下さったチャンスと考える考え方もあります。
自分が相手を支配しようとしていないか、あるいは物欲を満足せるために行っていないか、自分の奥深く問いながら、その源泉を探ります。もし、戦争や争いを行うのに、そういう悪が隠れているのを発見したら、その悪と偽りが無くなるまで闘います。悪と偽りは地獄からきています。この闘いが神の御心です。この自己点検のために、主は不承不承ながら戦争を許されています。

ただし、国・市民の防衛は適切な闘いです。闘って家族や自分の財産を守るのは、十戒の悪には反しません。
それでも、闘いの過程で、相手を殺すことや傷つけること、奪うことに歓ぶ自分を見つけたら、その歓びは地獄からきていることに気づかなければなりません。闘いは隠れている自分の悪と偽りとの闘いです。

私たちの救いという主の大きな目的のため、やむなく戦争は起こり、人類絶滅の危機に至らない限り主はお止めになりません。そして戦争の本当の原因は、霊界にあります。霊界や教会でなんらかの闘いが起こっていることが、この世の戦争の原因とされています。自分の意見と通そうとするための支配欲が戦争の原因となっている可能性があります。

悪と真理、善と偽りの戦いがあります。これは霊的試練です。霊的試練は、人の内にある偽りと悪の破壊と除去(AC 4843:4)のために存在します。
冒頭の主の御言葉、「平和のため来たのではなく、剣をもたらすために来た」は、本来、試練のことをおっしゃっています(AC 8159:4)。戦争のイメージではありません。
この剣とは、闘うための真理(AC2799:4)です。人は試練の時、偽りの中にいて、主が開く内的真理によってのみ、偽りを追放できます(AE 131:2)。

真理は、何が悪で、偽りであるか、そしてその源が地獄から来ていて、人を破滅させてゆくことを教えます。私たちは、真理がなければ、闘う相手がわからず、対象がなくては、闘うことはできません。そして偽りが何か?これを知なければ、追放できません。試練の中にいる段階では、偽りは真理らしいものの中に混じっていて、離れません。これを離そうとしないのは、実は私たち自身です。闘いの中で、悪は偽り続けます。自分が正しいものであるかのように偽ります。そしてこの偽りは巧妙で、私たちにはわかりません。なぜなら自分自身が、自分の中にある悪を隠しておきたいからです。

この偽りを分離して追放しない限り、試練は終わりません。終わったように見えても、それは失敗です。試練の機会が再びやってくるまで試練は続きます。この試練が終わらなければ、決して天界に入ることはできません。私たちの信仰の力の強弱の問題ではありません。
私たちが天界に入るのが相応しいかどうかの判断です。この判断は、偽りが混じっている私たちには、できません。偽りを入れる、私たち自身を暴かなくてはなりません。偽りを隠している私たち自身である悪が死ななくてはなりません。試練が誰にも厳しいのはこのためです。
主は私たちが天界に入り、ご自身とともになるチャンスを根気強く、お待ちになっています。

御言葉の剣は、他の御言葉の語と同じように、善と悪、真理と偽りの両方の意味を持っています。
「剣が、カルデヤ人にも、──【主】の御告げ──バビロンの住民、その首長たち、知恵ある者たちにも下る。」(エレ50:35)
剣は偽りと闘う真理、そして、真理を荒廃させる偽り・真理と闘う偽りの、真理と偽りの二通りを意味します。
カルデヤは真理を冒瀆する者、バビロンは善を冒瀆する者(AC 5044:9)を意味します。真理と善を冒瀆するなら、救いは永遠に無くなります。
「剣が自慢する者たちにも下り、彼らは愚かになる。」(50:36)
真理を荒廃させる偽りは取り上げられ、偽りによって冒瀆できなくなります。

十二弟子のひとりであるユダがやって来た。剣や板(棒)を手にした大ぜいの群衆もいっしょであった。(26:47)ここでの剣は真理を破壊する偽りが、そして板は善を破壊する偽りを意味します。主の受難のすべては、ユダヤ人達による全ての善と真理の破壊であったことを象徴していました(AE 1145:9)。

群衆は主イエスに手を掛けて捕らえようとしますが、弟子の一人が剣を抜き、大祭司の僕の耳を切り落とします(26:51)。ヨハネ福音書と天界の教義ではペテロとされていますので、マタイ書には明示されていませんが、ペテロが剣を抜いたと進めます。ペテロは信仰の真理を意味します。そして僕の「耳」は信頼や信仰の意志を表します(AC3869)。ユダヤ人達がもはや真理を聞き、信頼するつもりが全くないことを表しています。

そのとき、イエスは彼に言われた。「剣をもとに納めなさい。剣を取る者はみな剣で滅びます。」(26:52) 
この有名な言葉は、聖書を離れて、無抵抗主義や、力に対して力で対抗するな、という様々な解釈がされています。しかし聖書の文脈と内意は異なります。文脈からいけば、「剣をもとに納める」のは、聖書の預言が実現するためでした(TCR262,マタイ26:52, 54, 56)。主の受難として、主の最後の試練の始めとして聖書の御言葉が成就して、当時のユダヤ人の信仰が全く無かったため、彼らの教会は終わったことを、私たちに伝えなければなりません。主は天地の神でいらっしゃるため、「十二軍団よりも多くの御使いを、今わたしの配下に置いて」(26:53)、やってきた祭司長、民の長老の配下を排除するのは簡単であったはずです。しかし、主が最期の試練を受け、栄化されなければ、私たちは誰一人救われません。

そして「剣を取る者はみな剣で滅びる」の内意は、「信仰の偽りを受けた者は、それにより滅びる」(AE812:2)です。
当時のユダヤ人の信仰の偽りを受けるならば、救いはなく滅びてしまう、ということを最期に警告されました。彼らは、もはや正しい信仰を受けることができない、という宣告とも言えます。弟子がユダヤ教会と同じ信仰の偽りを受けるなら、滅びてしまう。そうであってはならないと諭されました。

私たちが、剣で襲われた時に、剣をとらなければ、大切な家族や社会は守れません。無抵抗は、必ずしも、最善の策ではなく、またそれは神の絶対的な命令でもありません。
不完全なこの世の自然界では、それぞれが知恵を絞って、悪意に対抗しなければ悪意がはびこり地獄の意のままになります。
十戒の禁をもとに、与えられた現実の姿を考え抜いてベストを尽くすことが主の御心です。
何が悪で、偽りかを吟味して、分離しなければなりません。深く考えて、悪と偽りを避けなければなりません。主への愛と隣人への愛、これより他の事柄を、より大切なものと考え始めたとき、真理は偽りに変わってしまいます。この偽りにこだわり始めるなら、この世でも、戦争を起こせという、本来の主の教えとは違った結果を生み出します。偽善は暴かなければなりません。

より大切な主の御心は、私たちが、試練を乗り越え、天界の一員になることです。主への愛と、隣人への愛を、私たちそれぞれが実現することです。
闘う真理、剣は人に向けるのではなく、自分の中にある悪と偽りに向けます。
偽りで闘うなら、自分も偽りで滅びます。

そのとき、イエスは彼に言われた。「剣をもとに収めなさい。剣を取る者はみな剣で滅びます。」(26:52)
アーメン。

【新旧約聖書は新改訳】
エレミヤ書
50:35 剣が、カルデヤ人にも、──【主】の御告げ──バビロンの住民、その首長たち、知恵ある者たちにも下る。
50:36 剣が自慢する者たちにも下り、彼らは愚かになる。剣がその勇士たちにも下り、彼らはおののく。
50:37 剣がその馬と車と、そこに住む混血の民にも下り、彼らは女のようになる。剣がその財宝にも下り、それらはかすめ取られる。
50:38 その水の上には、ひでりが下り、それはかれる。ここは刻んだ像の国で、彼らは偶像の神に狂っているからだ。

マタイ福音書
26:45 それから、イエスは弟子たちのところに来て言われた。「まだ眠って休んでいるのですか。見なさい。時が来ました。人の子は罪人たちの手に渡されます。
26:46 立ちなさい。さあ、行こう。見なさい。わたしを裏切る者が近くに来ています。」
26:47 イエスがまだ話しておられるうちに、見よ、十二人の一人のユダがやって来た。祭司長たちや民の長老たちから差し向けられ、剣や棒を手にした大勢の群衆も一緒であった。
26:48 イエスを裏切ろうとしていた者は彼らと合図を決め、「私が口づけをするのが、その人だ。その人を捕まえるのだ」と言っておいた。
26:49 それで彼はすぐにイエスに近づき、「先生、こんばんは」と言って口づけした。
26:50 イエスは彼に「友よ、あなたがしようとしていることをしなさい」と言われた。そのとき人々は近寄り、イエスに手をかけて捕らえた。
26:51 すると、イエスと一緒にいた者たちの一人が、見よ、手を伸ばして剣を抜き、大祭司のしもべに切りかかり、その耳を切り落とした。
26:52 そのとき、イエスは彼に言われた。「剣をもとに収めなさい。剣を取る者はみな剣で滅びます。
26:53 それとも、わたしが父にお願いして、十二軍団よりも多くの御使いを、今すぐわたしの配下に置いていただくことが、できないと思うのですか。
26:54 しかし、それでは、こうならなければならないと書いてある聖書が、どのようにして成就するのでしょう。」
26:55 また、そのとき群衆に言われた。「まるで強盗にでも向かうように、剣や棒を持ってわたしを捕らえに来たのですか。わたしは毎日、宮で座って教えていたのに、あなたがたはわたしを捕らえませんでした。
26:56 しかし、このすべてのことが起こったのは、預言者たちの書が成就するためです。」そのとき、弟子たちはみなイエスを見捨てて逃げてしまった。

黙示録解説(AE)812
「剣で殺す者は、自分も剣で殺されなければならない。」(黙13:10)とは、偽りを他人に植え付けた者は、地獄から偽りを植え付けられることを意味します。・・・・・
[2] 主がペテロにおっしゃったことに意味が似ています。
「剣を取る者はみな剣で滅びます。」(マタイ26:52).

これはペテロに言われたことです。なぜなら彼は信仰の真理を表し、そしてまた信仰の偽りをも表したからです;そのため「剣を取る者はみな剣で滅びる。」とは「信仰の偽りを受けた者は、それにより滅びる」ことを意味します。「獣」によって意味される者は、推論によって生命から信仰を分離してしまった者で「剣で殺す者は、自分も剣で殺されなければならない。」すなわち、偽りを他人に植え付けた者は、地獄から偽りを植え付けられます、なぜなら「信仰のみ」のドグマは、全ての真理を閉ざしすべての善を拒むからです。「信仰のみ」は真理の全てを閉じます、なぜならそれは「主は十字架で私たちの罪のため苦しみ、法の責めを除き、このように私たちを贖われた」ので私たちはこれだけで贖われると主張するからです。彼らはこれだけを取り上げ、信仰そのものと呼び、救い、真理を学ぶ努力をしません。ところが真理は、どのように生きなればならないかを教え、これらの真理は多様です。「信仰のみ」はそのドグマ自体に続く善を拒み、信仰は善の行いなしに義とされます;かくして本質的な善である、神への愛の善と隣人への仁愛の善は無視されます。

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