神はヤコブに仰せられた。「立って、ベテルに上り、そこに住みなさい。そしてそこに、あなたが兄エサウから逃れたとき、あなたに現れた神のために祭壇を築きなさい。」35:1
ヤコブは、仲違いした双子の兄エサウと二十年ぶりに再会し、感動的な再会をしました。
ただし、ヤコブは、一方的に低姿勢に出ました。兄エサウに近づくまで七回、地に伏しておじぎします。すると兄エサウはヤコブを迎えに走り、抱いて、さらに首に抱きつき、口づけをし、二人は泣きました。
二人の兄弟は、愛によって仲直りを終えます。愛によって結びつきます。
「あなたは、しもべよりずっと先に進んで行ってください。私は、私の前に行く家畜や子どもたちの歩みに合わせて、ゆっくり旅を続け、あなたのところ、セイルへまいります。」(33:14)
お互いの旅に、気遣いが見せ合いながら、別れがやってきます。
天界の教えによると、真理の善であるヤコブは、神的善の象徴であるエサウから、善でないものが混ざり込んでないかのチェックを受け、純粋である部分に、善の流入を受けます。すると真理と善の結婚が始まります。すなわち、主からの善の流入によって試練の後、真理と善の結婚によって再生が始まります。しかし、真理が善に追いつけない部分は、猶予を受けます。これがエサウとヤコブの仲直りの意味することでした。
次の34章の、ヤコブの娘ディナと土地の族長シェケムの関係、さらにディナの兄シメオンとレビの残忍な復讐劇は、ユダヤ民族の個別の事情が主題です。しかし、主イエスが克服された遺伝悪に関係します。
35章はベテルへの旅と、リベカの乳母デボラの死、ヤコブの最後の息子のベニヤミンの誕生と、出産した母ラケルの死、そしてイサクの死で終わります。冒頭にある、ベテルへの旅は、約束の地、天界を象徴するカナンへの旅が進むことで、より内面に向けて進むことが意味されます。
主イエスの内面の旅は、私たちの再生の道筋を示します。聖書のアブラハムから始まり、イサク、ヤコブと続く主人公、すなわち主イエスを表す象徴の変遷は、すべて主がこの地上で、ご自身の人間を栄化させ、神的なもとする過程を描いています。しかし、それと同時に、これは主が、私たちを再生させてゆくための道筋を描く旅でもあります。天界の教えは、再生の最初の段階、そしてさらに深い段階へ進む者は、ごくごくわずかであると述べます。そして私たちの再生は、主の生涯に比べれば、進歩は早くありません。日々、当面出くわす問題に囚われ続けます。
しかし、主のお導きによって、いつか通る道筋を知ってその備えを行い、希望を抱き続けることは主の御心に適います。日本にはまだ、この道筋を大まかに描いたものはなく、天界の秘義の書籍を学ぶに当たって、自分がどこにいるか、何を学んでいるか迷い始める方がでないためでもあります。
ベテルへの旅の継続によって、娘ディナの問題が一段落し、さらに内面への旅への継続が再開されます。ディナの扱いと、シメオンとレビの復讐は、主イエスのご自分の肉体上の母の遺伝悪を、克服しなければならない問題として、当時の主ご自身に現れたはずです。
私たちも、それぞれの民族として遺伝悪の問題に気づき、克服するよう、注意喚起されておられます。
ヤコブはベテルに向かう前に、持っている異国の神と、耳輪を、シェケムの近くにある樫の木の下に生めて隠すよう一族に語ります。ここで、以前、ラケルが持ち出したテラフィムと、追いかけてきたラバンの問題が思い起こされますが、そのテラフィムもこの異国の神として、樫の木の下に埋められます。
内的真理への情愛が表すラケルが、ひっそりと持ち出したテラフィムも、イスラエル民族の奥底に潜む真理は、エサウの示す善に合致しないものとして、樫の木の下に埋められ、視野から忘れ去られてしまいます。
私たちが持ち続けている、真理と考えているもの、そして現代の私たち自身にも、民族や、自然的な偽りが過去から積み重なり、溜まり続けています。テレビを見ると、占いがシラッと流れ、今日の調子はどうかな?と心を引かれます。もし、より大きな人生の問題に悩むなら、悪と偽りによってさらに深く心を引かれ、神の摂理から心をそらしてしまうかもしれません。カレンダーの休日も、神道に由来するものがほとんどです。天皇の誕生日は休日となっているため、皇室の今後はどうなるか、男子が皇統を継ぐのが正しいかと、霊的成長や宗教的問題から外れたものにとらわれてしまいます。また、戦争の危機や、気象変動、さらにウイルス・疫病の蔓延の情報が、毎日流れます。すると、世界は破滅に向かっていると誤解して、中には破滅的な行動に加わる人も現れます。
しかし他方で、主は天界の教えを通して神の摂理を説かれます。目先の変化する情報に囚われず、隣人や神へ悪を行わず、隣人の幸いを求め、主の導きに従うことが大切と、私たちの本来あるべき視野を元の方向に向け、天界にむかっているという希望と安心を与えられます。
私たちの考え方や、思考の片隅に、こびりついて天界への道を妨げているものすべては、ヤコブが命じたように、使われない記憶の下に移してゆかねばなりません。目指す「ベテル」は、内面が広がる自然的分野、自然的なもの内にある、「神的なもの」です(4547,4539)。私たちはこの神的なものに向けて「立っ」て進むことが必要です。日々の生活の中にあっても、神的なものに心を向ける必要があります。そのためには、地上の問題に縛られず、天界との交流が継続しなければなりません。御言葉によって天使達と同じ意味を捉えることで、真理だけではなく、善への情愛も同じ方向に向けます。真理を求め行うことで善を生み出すことで、天界との交流が生まれます。この交流は教会によってもたらされます(AC4545参照)。逆に言えば、御言葉を通じて天界との交流を生まなければ、それは教会とはいえません。地上の天界が教会であるからです。
私たちは「立ち上がり」、心をベテルに向けて進みます。そのため、偽りが何か、純粋な真理、そして善とは何か、隣人愛とは何か、常に心を向けます。それが私たちの向かう神、主イエスの示す方向であるからです。余計なもの。偽りは曲がりくねった根の「樫の木」の下に捨ててゆきます。そして、「身を清め、着物を着替え」、天界の真理を生きてゆきます。知ることではなく、真理を生き抜きます。
再生しない者は、自分の気に食わないこと、愛さないことを捨てます、再生中の者は、信仰の善と仁愛に合わないことを捨ててゆきます(AC4551:2)。これが仁愛を行う事で、善と真理を結んでゆくことです。
仁愛の道を進む内に不思議なことが起こります。
「彼らが旅立つと、神からの恐怖が回りの町々に下ったので、彼らはヤコブの子らのあとを追わなかった。」(35:5)
その一つ目は、身を清め、着物を着替えたため、周りに充満していた偽りの中に、恐怖が起こります。神が守っておられるからです(AC4555)。以前心配していた偽りは、私たちに近づかなくなり、例え来たとしても、影響がなくなります。神である主イエスに近づき、その神的真理の力を頂くことがだんだんと増えてきます。そうしてさらに進むなら、「リベカのうばデボラは死に、ベテルの下手にある樫の木の下に葬られ」(35:8)ます。
主ご自身の遺伝悪は、主のご自身のお力で永遠に消し去られます。それは前34章で予見されたように、民族に深く根付く、根拠のない優越感と身勝手な残酷性に気づいておられたからです。
しかし、私たちの遺伝悪は、簡単にはなくなりません。遺伝悪と、気づかないからです。社会の中で生きていると、あるいは悪を気づき会おうとする人達の集まりに入ると、突然、自分の悪が見え始めることがあります。社会の多様性の中で鍛えられ、教会の様々なプログラムに参加することなどで、まず自分の遺伝悪を知ります。
他人の遺伝悪は簡単に目につきますが、自分自身の遺伝悪は、自分で気づかなければなりません。そして悔い改めの教えに従い、これを主に祈って遠ざけなければ、取り去って永遠に取り去り、「アロン・バクテ」すなわち「樫の嘆き」の下に追いやり捨て去ることはできません。教会が用意するこの種類のプログラムに参加すること、御言葉の内意に学ぶことは、その気づきの始めとなります。社会の中では、悪や偽りがあっても、それがその社会では正しいとされる可能性があります。自然性の外的側面は、肉体的感覚と世の価値に従った感覚でしかない、感覚的規準に基づくからです(AC4570)。
私たちは、主が与える判断基準に従い、御言葉に学び、実行してゆきます。その規準に基づいて気づかない悪は、避けることも、除くこともできません。
主を意味するヤコブは、遺伝悪と闘い、勝利したことで、神シャッダイから祝福されます。シャッダイは試練の後に来る慰めを意味する神です(AC4572)。
「わたしは全能の神シャッダイである。生めよ。ふえよ。一つの国民、諸国の民のつどいが、あなたから出て、王たちがあなたの腰から出る。」(35:11)
「諸国の民の集い」と呼ばれる祝福は、ヤコブが初めて与えられるものです。父親のイサクは子孫(26:24)、祖父のアブラハムは多くの国民の父(17:5,6)と祝福の中にも細かな差があります。アブラハムが祝福された「国民」とは善のことを意味しますが(AC1259)、ヤコブは「国民」に「諸国民の集い」が加えられています。この後者の諸国民の集いとは、「善からの真理」を意味します(AC4574)。
人は知性と意志が一つの心を形成するように作られています。例えば、礼儀正しさと誠実さは同時に働いてはじめて一個の心になります。礼儀作法は素晴らしいが、心は不誠実な人。心は誠実だが、礼儀作法は未熟な人。これらの一方だけが働くのは、この世では可能かもしれませんが、霊界では許されません。霊界での秩序を目指すなら、私たちは誠実で、かつ礼儀正しくあらねばなりません。
一見、道徳的・社会的な面に見えますが、礼儀正しくという真理から、誠実という善に進みます。さらに、隣人に誠実にありたいと思う心から、より詳しく礼儀正しさが生まれます。霊的にも善と真理の一致が求められますが、善と真理の結婚は、自然界にいる私たちには見えません。しかし、この自然界で生きている間に、道徳的な善と真理の一致に努めることで、同時に生きている霊の世界で私たちは成長します。見かけだけの誠実は、霊界に移ってから、外面が取り払われ、その人は不誠実そのものとなってしまいます。見かけだけではなく、誠実さから礼儀正しくあるよう努めます。その場限りの不誠実は、日々の行いで悪として拒みます。また他方で、礼儀正しさも求めます。誠実さの表現が礼儀正しさであるからです。これは霊界での生活の基本であり、私たちも地上にいるうちから、この一致に努めれば、目には見えませんが、霊界で成長してゆきます。
現れた主に、ヤコブが今後はイスラエルと名乗れと、頂いた祝福は、主からの頂く善のすべてであり、個別には善と真理の結合を意味 (AC4567)します。自然的ではなく、霊的に生きてゆけという進歩の証しです。目には見えませんが、進歩した本人と、天使たちにはわかります。
そして、これを地上に現したものが、ベテルでヤコブが行ったことです。後に、主ご自身がこの世で定められた聖餐です。
ヤコブは、神が彼に語られたその場所に柱、すなわち、石の柱を立て、その上に注ぎのぶどう酒を注ぎ、またその上に油をそそいだ。(35:14)
当時は、灌祭(かんさい)と呼ばれるぶどう酒の注ぎであり、これは真理の善を意味します。そして素祭と言われる、油の注ぎとともに、現在はワインとパンの聖餐式となっています。聖餐式も真理と善の結婚を意味します(AC4581)。善と真理の結婚を意味する聖餐式にあっては、偽りは赦されません。偽りを抱えたまま霊界に進めば、偽りと善との結婚となり、再生不可能という厳しい結果が待っているからです。
ベテルへ行く道で、持っていた自然的偽りを清め、リベカの乳母である遺伝悪を葬ると、自然的局面であるベテルで、主が再び現れ祝福され、善と真理の結合が進んでゆきます。そして自然的なものを意味するベテルから、さらに内面を意味する部分、ベツレヘムで生まれるのが、ヤコブの最後の子であるベニヤミンです。母のラケルのお産の苦しみと死に表されるような厳しい試練を乗り越えれば、全く新しい状態が誕生します。ベニヤミンあるいは主が後にお生まれになるベツレヘムは、「天的なものの霊的なもの」を意味します(AC4584)。
先に産まれたヨセフと同じように、ベニヤミンも、天的なものと霊的なもの中間的なものを意味し、教会に属する霊的真理を意味します。後にベニヤミンの息子達は、エルサレムを受け継ぐこととなります。エルサレムは霊的教会を表し、その教義を意味します。
教会の霊的真理が誕生したことで、教会の真理のすべて、十二人の息子が揃いました。母のラケルはこの子をわたしの苦痛と嘆きの子と呼んで、試練の激しさを物語りますが、父はベニヤミン、すなわち「右手の息子」と呼んで、全能の力の誕生を表現します。
パダン・アラムでの11人の息子の誕生から始まり、ベツレヘムで全能の力を意味するベニヤミンの誕生で、教会の真理のすべてを表す12人の息子がすべて誕生しました。その全能の力で私たちを天界に導く手段のすべてが備えられたことになります。ベツレヘムの次に向かう先は、イサクの表す合理性です。主の魂の成長はさらに進み、私たちを新しい状態へと導く手段も揃います。
「彼女が死に臨み、そのたましいが離れ去ろうとするとき、彼女はその子の名をベン・オニと呼んだ。しかし、その子の父はベニヤミンと名づけた。(35:18)アーメン
創世記(新改訳)
35:1 神はヤコブに仰せられた。「立って、ベテルに上り、そこに住みなさい。そしてそこに、あなたが兄エサウから逃れたとき、あなたに現れた神のために祭壇を築きなさい。」
35:2 それで、ヤコブは自分の家族と、自分と一緒にいるすべての者に言った。「あなたがたの中にある異国の神々を取り除き、身をきよめ、衣を着替えなさい。
35:3 私たちは立って、ベテルに上って行こう。私はそこに、苦難の日に私に答え、私が歩んだ道でともにいてくださった神に、祭壇を築こう。」
35:4 彼らは、手にしていたすべての異国の神々と、耳につけていた耳輪をヤコブに渡した。ヤコブはそれらを、シェケムの近くにある樫の木の下に埋めた。
35:5 彼らが旅立つと、神からの恐怖が周りの町々に下ったので、だれもヤコブの息子たちの後を追わなかった。
35:6 ヤコブは、カナンの地にあるルズ、すなわちベテルに来た。彼とともにいた人たちもみな一緒であった。
35:7 彼はそこに祭壇を築き、その場所をエル・ベテルと呼んだ。それは、彼が兄から逃れたとき、神がそこで彼に現れたからである。
35:8 リベカの乳母デボラが死に、ベテルの下手にある樫の木の下に葬られた。それで、その木の名はアロン・バクテと呼ばれた。
35:9 ヤコブがパダン・アラムから帰って来たとき、神は再び彼に現れ、彼を祝福された。
35:10 神は彼に仰せられた。「あなたの名はヤコブである。しかし、あなたの名は、もうヤコブとは呼ばれない。イスラエルが、あなたの名となるからだ。」こうして神は彼の名をイスラエルと呼ばれた。
35:11 神はまた、彼に仰せられた。「わたしは全能の神である。生めよ。増えよ。一つの国民が、国民の群れが、あなたから出る。王たちがあなたの腰から生まれ出る。
35:12 わたしは、アブラハムとイサクに与えた地を、あなたに与える。あなたの後の子孫にも、その地を与えよう。」
35:13 神は彼に語ったその場所で、彼を離れて上って行かれた。
35:14 ヤコブは、神が自分に語られた場所に、柱を、石の柱を立て、その上に注ぎのぶどう酒を注ぎ、さらにその上に油を注いだ。
35:15 ヤコブは、神が自分と語られたその場所をベテルと名づけた。
35:16 彼らはベテルから旅立った。エフラテに着くまでまだかなりの道のりがあるところで、ラケルは出産したが、難産であった。
35:17 彼女が大変な難産で苦しんでいたとき、助産婦は彼女に、「恐れることはありません。今度も男のお子さんです」と告げた。
35:18 彼女が死に臨み、たましいが離れ去ろうとしたとき、その子の名をベン・オニと呼んだ。しかし、その子の父はベニヤミンと名づけた。
35:19 こうしてラケルは死んだ。彼女はエフラテ、すなわちベツレヘムへの道で葬られた。
ヨハネ福音書
17:9 わたしは彼らのためにお願いします。世のためにではなく、あなたがわたしに下さった人たちのためにお願いします。彼らはあなたのものですから。
17:10 わたしのものはすべてあなたのもの、あなたのものはわたしのものです。わたしは彼らによって栄光を受けました。
17:21 父よ。あなたがわたしのうちにおられ、わたしがあなたのうちにいるように、すべての人を一つにしてください。彼らもわたしたちのうちにいるようにしてください。あなたがわたしを遣わされたことを、世が信じるようになるためです。
17:22 またわたしは、あなたが下さった栄光を彼らに与えました。わたしたちが一つであるように、彼らも一つになるためです。
17:23 わたしは彼らのうちにいて、あなたはわたしのうちにおられます。彼らが完全に一つになるためです。また、あなたがわたしを遣わされたことと、わたしを愛されたように彼らも愛されたことを、世が知るためです。
- 「一民族、諸民族の集団があなたから出」‘Gens et coetus gentium erit a te’とは、善を意味し、善の神的〈かたち〉を意味します。その根拠は次の通りです。
「民族」とは、教会の善を意味します(1259,1260,1362,1416,1849節)。また「諸民族の集団」とは、善由来の諸真理、換言すれば、善の〈かたち〉を意味します。主をテーマとした最高の意味では、神の善に由来する神的諸真理を意味します。すなわち、神の善の〈かたち〉です。
② 善の〈かたち〉とは何か、これについてまず述べ、それに引き続き、「諸民族の集団」が、意味上、善の〈かたち〉であることに触れます。
善に由来する諸真理を、善の〈かたち〉と言います。なぜなら善に由来する諸真理は、形成された善以外の何ものでもないからです。諸真理について、それ以外の考え方をしたり、まして善から真理を切り離したりする人は、真理とは何か理解していません。
諸真理は、一見、善から切り離されているように見え、そのものとして per se 〈かたち〉でしかないようです。しかしそれは、善の中にいない人々にとって、そう見えるだけです。つまり考えたり、話したりすることが、欲したり、実行したりすることとは、別ものであると思う人々です。
人は、理性 intellectus と意志 voluntas が一つの精神を構成するように造られています。しかも理性が意志と行動をともにするときこそ、一つの精神を構成します。すなわち意志をもって、それに動かされ、実行するのが目的で、考えたり、話したりするときです。そのとき、本人の理性は、本人の意志の〈かたち〉になっています。
真理が語られるとき、理知的なもの intellectualia になります。なぜなら真理とは、理性固有のものだからです。それにたいし、善と呼ばれるものは、意志に属するものです。なぜなら善は、意志固有のものだからです。したがって、理知的なもの intellectuale は、そのものとして見た場合、形成された意志的なもの voluntarium formatum になります。
③ しかし、〈かたち〉という言葉は、人文学としての哲学 philosophia humana からの匂いがあります。そのため、例をあげて説明することにすれば、諸真理が善の〈かたち〉であることが明らかになります。
社会的・道徳的生活の中では、誠実 honestum と、礼儀作法 decorum が存在します。誠実とは、社会生活にかんして、人にたいして心から幸福を願う思いです。それにたいし礼儀作法とは、言語や態度によって、その誠実さを証明することです。したがって、礼儀作法は、それ自身として見た場合、誠実さの〈かたち〉以外の何ものでもありません。誠実こそ礼儀作法の源です。
したがって誠実さが、礼儀作法を通して、または礼儀作法によって、すなわち言語や態度を通して働くとき、礼儀にかなう個々の事柄の中で、誠実さが現れます。何でも言語を通して発話され、態度を通して示されれば、そこに誠実さが現れてくるものです。それが〈かたち〉でありイメージで、その〈かたち〉やイメージを通して、誠実さが輝きを放ちます。それは本質とその〈かたち〉、いわば本質的なもの essentiale と、その外面的形 formale が一体となって働く結果です。
しかしだれかが、誠実と礼儀作法とを分離するとどうでしょう。すなわち仲間にたいして悪意をもちながら、上手に話す場合です。あるいは、相手を攻撃するため、上手に身を処するときです。そのようなとき、誠実さにあるような〈かたち〉を礼儀作法を通して、どれほど示そうと努めても、言語や態度には、何らの誠実さもありません。むしろそこには不誠実さがあります。鋭敏な人は、それを不誠実と命名します。そこには物まねや、欺瞞や、下心があります。
④ 以上から、諸真理と諸善との関係が分かってきます。霊的生活上での真理は、社会生活上での礼儀作法のようであり、霊的生活上での善は、社会生活上での正直さのようです。それで真理が、善の〈かたち〉であるときと、真理が善から切り離されるときの違いが明らかです。つまり真理が善由来ではない場合、ある種の悪に由来することになります。悪の〈かたち〉でありながらも、善の〈かたち〉であるかのように、人をあざむきます。
「諸民族の集団」とは、善の〈かたち〉です。これは前述したように、「民族」には善という意味があり、民族の集団、すなわち会衆 congregatio は、民族の集まりであって、前述のように、〈かたち〉であり、真理です。
また諸真理が浮き彫りにされ、しかも民族は善を指しますから、「一民族がヤコブから出る」と言われるだけでなく、「諸民族の集団」が出ると言われています。そうでなければ、どちらか一方で十分だったはずです。
さらに、〈みことば〉で、「集団」、「会衆」、「大勢の人」と言えば、諸真理を話題にします。「大勢 multitudo」、あるいは「増える multiplicari」については、43,55,913,983,2846,2847節を参照してください。