創世記33章 エサウとの再会
ヤコブは自ら彼らの先に立って進んだ。彼は兄に近づくまで、七回地にひれ伏した。
エサウは迎えに走って来て、彼を抱きしめ、首に抱きついて口づけし、二人は泣いた。創33:3,4
ヤコブはカナンに戻り、仲違いをした双子の兄エサウと会うため使者を送ります。すると、兄の返事は400人を引き連れてやってくるということでした。ヤコブは非常に怖れて、自分の家族や家畜を、整えて、分割して準備します。ヨルダン川の支流ヤボクの渡しの前で、一晩中ある人と、格闘して祝福を求め、イスラエルという名をもらいます。
本章は、その後のヤコブとエサウの再会と和解を取り扱っています。文字の意味だけを捕らえると、仲違いした兄弟の再会の感動と和解の素晴らしさがにじみ出ています。しかし、聖書の文字面だけではなく、より深い意味を捉えた天界の教義は、全ての人間が歩むより深い霊的成長の過程について説いています。すなわち、善と真理の結合、再生の始まりです。
ヤコブはパダン・アラムに行き、あしかけ20年かけて真理の知識を集めます。それはレアとラケル、二人の女奴隷の子が生んだ11人の男子として、カナンに連れて帰ります。男子は御言葉では真理を表すからです。そこでは11種類の真理が産まれる、すなわち真理を認識しました。それは信仰・仁愛・相互愛などの外からでもわかる情愛から認識した真理と、一見ではわからない深い心、内的情愛から発した真理、さらに直接・間接の情愛ではなく、それらの真理に役立つ、肯定的態度・永遠の幸福といったやや補助的な真理群です。
しかしこれら真理は、図書館の本棚・書庫にある本のように、並べているだけでは、役に立ちません。借りて読んでくれるのを待っています。例えば、「仁愛」という真理を考えて見ます。「仁愛」について書いた本は、おそらくこの図書館のどこか、探せばあると思われます。しかし「仁愛」と題した本もあり、「チャリティ」という題の本も「仁慈」「カリタス」という名もあります。また「真理と善」と題する本のどこか一章に、より詳しく書かれているかもしれません。本を探し、手に取る前から、題名から、隣人に善くすることだと漠然とわかります。
しかし「仁愛」が何を意味するのか、どんな行為なのか、対象は困った人であれば誰でもいいのか、個別の詳細はわかりません。ただ、この図書館の中のどこかに詳しく書かれている本、あるいは項目だけがあることが推測できます。これが記憶にあるだけ、本棚のどこかにあることだけわかっている状態です。まだ実際に使用していないので、記憶「知」や事実「知」、科学「知」などといわれる知識でしかありません。
仁愛は、人に優しい心を抱くことだと漠然と考え、さらに学んでみようとして、本を一冊手に取ります読んでみます。すると怠惰な人に財産を与えても、消費して快楽にふけるだけで本当の仁愛ではないとわかります。さらに学ぶと、困っている人、誰にでもよくすることが必ずしも正しくないこともわかります。貸出を受けながら家に持ち帰ってゆっくり読んでいると、隣人は人だけではないのではという思いもわき上がってきます。真理を実行するレベルになると、やっと本来の用語、真理に近くなってきます。これが真理の善と呼ばれるもので、この章でのヤコブを表しています(AC4337)。
真理の善であるヤコブは、神的善であるヤコブと結ばれようとしています。本を一読したが、まだ疑いを抱いている段階です。しかし真理の善は、その善が本物かとうか、神的善と結ばれる価値があるかどうか、前章から厳しい試練を受けています。ヤボクの渡しで格闘したエピソードは、この試練を意味します。試練に勝利し、神的な天的・霊的な状態であると宣言されます。「イスラエル」という名はこの状態を意味します。
真理の善の実行は、本当に仁愛だけの純粋な想いからなのか、実は人に良く思われるため、あるいは仁愛の行為を行って、利得を得るという欲が隠れているかもしれません。エサウという神的善は真理の善と結びつこうとして400人の善の象徴と共に、怒濤のように、圧倒的な流入が押し寄せてきます。しかし、これら不純の思いがあると結合できません。とりあえず仁愛なるものを、行ってみますが、本人が真剣かどうかわかりません。まだ覚悟ができていません。
自分のうちに不純なものがないか、整理して並べます。エサウという神的善の前にヤコブは真理を並べて整理します。そしてエサウがやってきてチェックして、使えるかどうかを選択します。不純な動機が混ざった「真理」や偽真理があれば、厳しく指摘されることになります、あなたはこれが仁愛といったが、「本当にそうか?」「永遠の生に役に立つの?」「不純だ!」などと、拒否されます。先の喩えでいえば、様々な仁愛をトライしはじめます。しかし頭の中でやらなければ、いけないと努力を繰り返します。
もしエサウに、大切だ、役に立つという証明ができなければ、ヤコブの誓いや、やってきたことは無駄になります。厳しい検閲と検査を受ける時は、自分の選択が正しいかどうか不安が募ります。試練の時です。そしてこの検査が終わると、ヤコブはエサウと結ばれることになります。
いよいよエサウの登場です。
ヤコブは七回礼拝し (33:3) 、エサウは彼を迎えに走って来て、彼を抱き、首に抱きついてキスし、ふたりは泣いた。(33:4)
ここに再生の秘密が隠されています。ヤコブの礼拝とエサウの走り寄り、抱擁・キスがないと、私たちに再生はありません。常日頃から歓んで仁愛を楽しんで行えません。
まず、ヤコブを表す真理が七回礼拝するとは、全面的服従を意味します。
「ヤコブ自身は、彼らの先に立って進んだ。彼は、兄に近づくまで、七回も地に伏しておじぎをした。」(33:3)これは善に対する真理の全面的服従です。そして、なぜ礼拝が必要か、がここにあります。
礼拝は、神様が栄光を求めているためではありません。学校の先生に身を低くすることは、指導を受け入れるため必要なことです。神様と教師に、栄光や権威を与えるためではありません。しかし、教師や牧師は、自分に栄光と権威があると思うなら、教える側の傲慢・高慢という別の問題を生みます。
礼拝は、卑下と服従です。自分を低くして、善に服従します。真理ではなく、再生という役立ちの善を優先します。これに反して、真理の研究・学習を優先するなら、人間の再生という神様の愛、目的を無駄にすることになります。真理の研究や学習は、再生という本来の目的を離れ、偽りが付着しやすく、傲慢や異端という方向に向いてゆきます。人間の高ぶりが生まれるないよう、聖書の至るところで警告されています。指導を受け入れる側が、傲慢であれば、霊的成長はありません。受け入れようとするものが、高ぶると、受け入れができません。指導する側が高ぶると、その教えは滅びます。
それは、卑下の状態にあるとき、人は、自分にある悪と偽りに背を向けるようになるからです。傲慢という悪と自分の高慢という偽りを取り除くことによって、神は、善と真理を流入させることができます。(AC4347) まず自分の内にある悪を徹底して避けなければなりません。日頃の、定期的な自己点検が不可欠です。
卑下によって善の流入が可能になると、エサウはヤコブを「抱き」、そして「首をかかえ」、そして「キス」します(33:4)。
「抱く」ことで第一段階の愛の結びつきが起こります(AC4351)。そして「首をかかえ」てのキスは第二段階の愛の結びつきです(AC4352)。
首は内部と外部をつないでいるため、愛は外部から内部に流入し、第二段階の結びつきとなります。
冒頭の喩えで言うと、仁愛の実行なしには食物がないように感じて、痩せ飢えるほどになります。図書館の本はもはや内容をマスターしてしまったので、図書館に返却します。
結びつける力が愛です。善の中にある愛です。そのためエサウが抱き、キスします。この愛の力は、人のものではありません。人の愛を讃える風潮がありますが、これはせいぜい外面的な愛だけです。本当の愛の力、結合させる力は主のみがお持ちです。主以外に愛の源はありません(AC4352)。
真理と善は、結婚前の男女のように、別の存在です。異なる存在を結合するためには、強力な力が必要です。
原子の中の、陽子と中性子は、特に陽子同士は同じプラスとプラスで、近づくと排斥しあいます。排斥しあう陽子と陽子が、結合を続けるためには、大きな力が必要です。排斥しあう磁石をくっつけておくのに、ずっとかなりの力を出し続けてなければなりません。陽子や中性子を結合させるために核力が働いています。
現代では私たち人間は核分裂を原子力として利用しています。しかし、太陽自体が核分裂よりはる合によって凄まじい熱と光を発しているように、本来その力の源は、人間にはありません。人間以外のものです。結合する力は強く、同じく愛の力も強力です。
この愛の力がないと、あらゆる結合はなくなります。愛のない信仰の真理は、生命のない虚しい言葉にしか過ぎません。人間が頭の中の思考で産み出す「真理」は、使わないでいると、生命がないまま役に立たず善を生み出しません。善を生み出す信仰が欠ければ、空虚な概念の集まりで、そこには偽りが寄ってきます。信仰とは、真理を実行に移す力です。思い込みを無理に信じようとすることではありません。
愛の善がないと信仰はありえません。そこには信頼と、委任がないからです。「今日はいい話を聞いた。夫婦で仲良くやって行こう」と満足しているだけでは、再生という善の役には立ちません。神への信頼と委任があってはじめて行動に結びつき、真理の善となってゆきます。そして、真理の善に、神的善の流入が必要です。神的善の流入によって生命が生まれ、再生が始まります。
霊的信頼がなければ、不安と苦悩に支配されてしまいます。偽りの説き伏せによって自己愛と世間愛が生まれ、再生とは逆の方向、天界とは逆の方向に進むことになります。これが神に向こうとしない人間の結末です(AC4352)。この信頼ができあがらないと、夫婦は諍いを繰り返すことになります。
そして「キス」によって、愛によるさらに内部の結合が生まれます。結合が、人を再生させます。自分にある様々な真理が、善と結びつくことによって、役立ち、再生に進みます(AC4353)。
受験勉強をするときのような詰め込み勉強を考えてみます。合格のために無理やり詰め込んだ知識は、すぐに忘れてしまいます。試験問題を解く時にその知識が出てくるかどうかわかりません。しかし、学問に興味を持ちはじめ、学問自体を愛するなら、より深く学ぶことができます。そして遠回りは一番の近道となります。学問に愛を持ち遠回りをするようですが、それが合格の近道です。そうするともはや参考書や教科書は不要で、研究は進み、大学で研究し始め、論文を書き、教え始めることができます。
そして二人は泣きます。これは喜びの結果です。歓びが自分のものになると、周りとわかち始め合わずにはいれません。
ヤコブとエサウは和解し、一番遅い者のペースに合わせて、さらにゆっくりと結合してゆきます、すなわち再生に向けて進みます。「子どもたちは弱く、乳を飲ませている羊や牛は私が世話をしています。一日でも、ひどく追い立てると、この群れは全部、死んでしまいま」わないためです。歓びと愛を大切にして歩むことができます。
エサウは、ヤコブへの善の注入という役割が終わり、エサウの役目は終了します。
「エサウは、その日、セイルへ帰って行った。」(33:16) アーメン。
創世記 (新改訳)
33:3 ヤコブは自ら彼らの先に立って進んだ。彼は兄に近づくまで、七回地にひれ伏した。
33:4 エサウは迎えに走って来て、彼を抱きしめ、首に抱きついて口づけし、二人は泣いた。
33:5 エサウは目を上げ、女たちや子どもたちを見て、「この人たちは、あなたの何なのか」と尋ねた。ヤコブは、「神があなた様のしもべに恵んでくださった子どもたちです」と答えた。
33:6 すると、女奴隷とその子どもたちが進み出て、ひれ伏した。
33:7 次に、レアも、その子どもたちと進み出て、ひれ伏した。最後に、ヨセフとラケルが進み出て、ひれ伏した。
33:8 するとエサウは、「私が出会ったあの一群すべては、いったい何のためのものか」と尋ねた。ヤコブは「あなた様のご好意を得るためのものです」と答えた。
33:9 エサウは、「私には十分ある。弟よ、あなたのものは、あなたのものにしておきなさい」と言った。
33:10 ヤコブは答えた。「いいえ。もしお気に召すなら、どうか私の手から贈り物をお受け取りください。私は兄上のお顔を見て、神の御顔を見ているようです。兄上は私を喜んでくださいましたから。
33:11 どうか、兄上のために持参した、この祝いの品をお受け取りください。神が私を恵んでくださったので、私はすべてのものを持っていますから。」ヤコブがしきりに勧めたので、エサウは受け取った。
33:12 エサウが、「さあ、旅を続けて行こう。私があなたのすぐ前を行くから」と言うと、
33:13 ヤコブは彼に言った。「あなた様もご存じのように、子どもたちは弱く、乳を飲ませている羊や牛は私が世話をしています。一日でも、ひどく追い立てると、この群れはすべて死んでしまいます。
33:14 あなた様は、しもべより先にお進みください。私は、前を行く家畜や子どもたちの歩みに合わせて、ゆっくり旅を続け、あなた様のもと、セイルへ参ります。」
33:15 それで、エサウは言った。「では、私と一緒にいる者の何人かを、あなたのもとに残しておくことにしよう。」ヤコブは言った。「とんでもないことです。私はご主人様のご好意を十分に受けております。」
33:16 エサウは、その日、セイルへ帰って行った。
マタイ福音書
25:35 あなたがたは、わたしが空腹であったとき、わたしに食べる物を与え、わたしが渇いていたとき、わたしに飲ませ、わたしが旅人であったとき、わたしに宿を貸し、
25:36 わたしが裸のとき、わたしに着る物を与え、わたしが病気をしたとき、わたしを見舞い、わたしが牢にいたとき、わたしをたずねてくれたからです。』
25:40 ・・・『まことに、あなたがたに言います。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、それも最も小さい者たちの一人にしたことは、わたしにしたのです。』
天界の秘義4353(アルカナ訳)
② 以上の説明で、明らかになったことは、次のとおりです。再生は、善が諸真理と結ばれることで成立しますが、その結合は、内部に向かって次第に進展していきます。つまり諸真理は、内部にむかって、継続的に、善と結ばれていきます。再生の目的は、内部人間が外部人間と結ばれること、合理性が自然性と結ばれることです。人はこれによって霊的になっていきます。
両者の結合がなければ、再生はありません。つまり善が、自然性の中にある諸真理と結ばれるまでは、結合は成立しません。自然性は、一つの場になります。そして自然性の中にあるものは、相応関係にあります。自然性の再生にあたって、善が諸真理と結ばれる過程が、内的でしかも段階的になるのは、そのためです。しかも霊的なものが最初に結ばれるのは、自然性の中の内奥部にあるものです。そして、その内奥部にあるものをとおして、より外部にあるものと結ばれていきます。
真理が〈真理の善 veri bonum〉にならない限り、つまり意志と行為を伴う真理にならない限り、人の内部は、本人の外部と結ばれるようにはなりません(4337節)。そうなって、初めて結ばれるようになります。なぜなら、主が内的人間をとおして、人に流入を注がれる場合、内部人間にある善を通して、行われるからです。内部人間にある善は、外部人間にある善と結ばれるわけで、善が直接、真理と結ばれるわけではありません。