イスラエル

その人は言った。「あなたの名は、もうヤコブとは呼ばれない。イスラエルだ。あなたが神と、また人と戦って、勝ったからだ。」創32:28

叔父のラバンと協定を結び、ラバンから完全に離れたヤコブは、ついにヨルダン川の前に到着し、カナンの地を前にしています。そこで思い出したのが、長子権と祝福を計略で奪い、復讐を誓った双子の兄エサウのことです。エサウの怒りを避けるため、ヤコブは20年間もカナンを離れていたことになります。

そこで、カナンの地に着く前に、セイルの地、エドムの野にいるエサウに使者を送ります。今まで自分はラバンの下にいて、家畜や奴隷を多く持っていて、エサウに好意を得たいと、メッセージを伝えます。するとエサウは使いを返し、四百人を引き連れて迎えたいと伝えます。

これを聞いたヤコブは「非常に恐れ、不安になりました」(32:7)。20年の月日はたったものの、兄が昔の恨みを覚えて、復讐しようと思っているかもしれないからです。この後、ヤコブは全員が一挙に襲われないよう、自分の陣営を分けて、進みます。自分以外はヤボクの渡しを渡り、順にカナンの地に入ります。しかし、自身は最後尾に位置し、残ってます。するとそこに「ある人」が現れ、ヤコブと格闘します。格闘は朝まで続きます。朝になったので、「ある人」は去ろうとしますが、ヤコブは「ある人」に祝福をせがみ、「イスラエル」という名を得ます。

天界の教えは、この話は、自然性の中での状態が逆転し、第二位であった「善」が第一位となり、一位であった「真理」が第二位なったことを意味すると教えます。状態の逆転です。そして同時にそれは試練の中での闘いであったと教えます (AC4232)。

この章は次の句で始まります。
「神の使いたちが彼に現れた。ヤコブは彼らを見たとき、「ここは神の陣営だ」と言って、その場所の名をマハナイムと呼んだ。」
神の使いとは、神的流入のことが意味されます。「神の陣営」と言われたものとは、天界のことで、マハナイムとは原語で二つの陣営を意味し、主の御国の天的なものと霊的なものの二つの天界が意味されています (AC4237) 。これは主が天界を通して照らしを与えられたことを意味します。人に神からの流入を邪魔する悪と偽りがなくなり、主が善しとされれば、そこに神的流入が生まれます。この神的流入は自然性の内に状態の変化をもたらします。この場合は、善と真理の順位の逆転をもたらし、本来あるべき順位を産み出します。この本質的な状態の変化を生み出せるのは、神である主のみです。またこの神的流入による天界からの照らしによって、人の再生の状態が明らかになり、知ることができます。人間では見えないものを、霊的天界と天的天界の光を通して明らかにし、同時に状態を整える、神的な啓示と力です。神的流入が、出発点です。

ヤコブは兄のエサウに使者を使わしますが、兄はセイルという地のエドムの野にいることになっています。しかし、以前の御言葉では一箇所(創14:6、25:3)を除き、以前にはセイルやエドムという地名は出てきません。エサウがセイルの地に住んでいることも、初めての言及です。そのため地名や人名によって、エサウの性格を定義するためのものと考えられます。
セイルの地は「天的な自然的な善」を意味し (AC4249)、教会の外にあります。地図でみればカナンの外、南のほうにその名が記されています。エドムの野にいるとは、「善の面からみた主の神的自然性」を意味します。いずれも善を意味します。すなわち、エサウは善を表象します。

ヤコブが善を意味する兄のエサウに使いを出すことは、善が真理を意味するヤコブより高い存在であることを認めることを意味します(AC4242)。使者への伝言の内容は、ヤコブを僕として、エサウを主人とすることで、真理が善に対して卑下しています。謙虚になっていることがわかります。この卑下と謙虚が、神的流入を受ける側の準備です。

神の使いである神的流入があることで、従来考えていた順位の逆転が生まれます。それまで人は真理が最高だと思い、善を真理の下に置いていますが、その状態は再生のかなり前の段階です。
真理・真理と喧伝し、実質的な役立ちのことや、人に与える柔らかさ、永遠の生の歓びや、優しさを与える「善」を二の次にしている状態は、よくて再生のきわめて初期の段階、あるいは、まだ教会を意味するヨルダン川を渡っていない段階ともいえます。いちじくの葉も、善という実がならなければ、葉は枯れてしまうように、善という実を結ばなければ、樹木の葉や木は無駄になります。ヤコブがエサウと再会する本章は、真理を上位にして善を下位に定める段階を「逆転」し、真理を下にして、善を上位として迎え入れるための備えの段階です。

一般に、真理は何の媒介なしには、善に植え付けられません。目の前にぶら下がった餌のようなものが必要です。美味しい、あるいは自分の利得になるといった餌が必要です。これが、ラバンが意味する仲介的な善でした。この善には、自分の快楽や利得といった、不要なもの、純粋ではないものが混ざっています。しかし人が情愛を込めて真理を学び、情愛の籠もった真理に従って生きようとするなら、その真理は善と等価となり、善に従って生きることになります (AC4243)。純粋な真理は、不純なものを取り除き、善と真理を同じ価値にします。その準備として、真理は、善の前にへりくだり、自らを卑下しなければなりません(AC4245)。へりくだらなければ、善でない、雑多で余分なものが見えてきません。

エサウの回答は「あなたを迎えに四百人を引き連れてやって来られます。」(32:6)
これは善が真理に継続して流入し、善専用に役立たせることです(AC4247)。この凄まじい善の流入は、純粋な真理でなければ耐えれません。中に不純物があれば、耐えられません。
「先ず、最初に、信仰の諸真理があって、聴覚や視覚を通して浸透し、記憶に蓄積されます。
そこから徐々に思考に向かって上昇し、やがて意志に浸透し、意志の中に入ると、そこから思考力を通して、行動に進みます。
行動にいたらないとき、行動への推進力 conatus をもった状態を保ちます。
推進力自体は、内部的な行動です。なぜなら能力があるときは、その度に外部的行動にもなるからです。」(AC4247)
実現するまで、善が相手の善を同化しようとする強烈な力が働き、邪魔する不純物は取り除かれます。(同)

人の思考は、実は本人のものではなく、天使と悪魔の持つ思考の混合体です。そこに絶えず主が善を流入し続けると、対立する偽りや悪は追い出されざるをえません。
そこでヤコブは「非常に恐れ、不安になりました」(32:7)この怖れと不安は、試練の始めです(AC4249)。
四百人の四は試練も表しています。

自分にある真理と善を整え、配備して、善の流入に備えます。ヤコブが自分の陣営を二つに分けることによって示されます(AC4250)。
真理が第一になれば、真理自らの力では純粋な真理であるかどうかわかりません。それが本当に役に立つものかどうか、善の立場から判断できないからです。必ず何らかの偽りが混入してしまいます(AC4256)。

善の立場から見れば、この偽りに気づくようになり、偽りを取り除こうとしますが、善と偽りが固く結びつき、離れられなくなっています。これが、試練が厳しくなる理由です。人が正しいと思っていたことが、実は偽りと結びつき分離できない状態になっているからです。無理にそれを切り離そうとすれば、その人の生命自体が切り刻まれてしまいます。
何か善いことだとして確信して、実行し、これからも実行しようとしていた中に、自分勝手な欲が混ざっていると知ると、自分が考えていた善い事すべてが、悪と偽りに見え出します。すると人は、絶望に至ります。しかし試練・誘惑の価値は、試練の終了の後にわかります。
「恐れと悩みのあと、試練・誘惑に入っていきます。 試練・誘惑こそ、 それを取り除くための神的手段です。」(AC4256)

試練なしには、人の霊的成長はありえません。試練がないのは、基礎となる良心がまだできあがっていないからです。良心がないうち、すなわち善と悪、真と偽の知識がなく、そしてそれを自分のものとしてゆかない限り、試練には入れません。しかし自分の中に悪と偽りが混ざっています。これを整理して分類し、切り離さなければ天界には入れません。

ヤコブは自分の持ち物を、グループに分け、距離を置き、順にヤボクの渡しを渡らせます。教会であり、天界でもあるカナンの地に入ってゆきます。秩序付けと導入の開始です。この秩序付けと導入がなければ、カナンの地には入れません(AC4266)。次々と群れを秩序づけ、そして善に服従させます(AC4268)。秩序づけられ、善に服従したら、天界に入ることができます。

先に行く家畜と財産のグループが純粋な真理と結びつけば、次は家族で表されるより本人に近いものの順番です。ヤコブが結ばれた妻と奴隷女性、内なる情愛と外なる情愛、それに附属するものが、善に服従し、天界に入ります。そして十一人の息子、すなわち十一の真理が善に結ばれていて、余計なものがないことが確認され、天界に入ります。

二人の妻と女奴隷、そして十一人の子がカナンに入った後、「ヤコブはひとりだけ、あとに残」(32:24)ります。最後に残ったヤコブとは、彼が「獲得した真理の善」です。最初の試練は真理についてでしたが、情愛を込めて獲得した真理は、「善」と等価となっています。すなわち、愛に近いものです。最後に残った愛が試されます。そこに不純なものがあれば、徹底的に暴かれ、地獄に攻撃されます。

地獄は人の愛を攻撃するため、人に仁愛がなければ、試練はありません(AC4274)。試練が訪れるなら、その人には仁愛があるという証拠となります。その人が霊的に成長し、真理ではなく、善が主導するようになって初めてその愛を試すため、熾烈な試練がやってきます。地獄の攻撃を受けます。霊的試練があるなら、その人は霊的に成長していることになります。試練がないのは、まだまだ霊的成長が必要であるということです。

主ご自身の場合、地獄だけではなく、全天界によって主の愛が試されました(AC4295-2)。主の最後の愛は、全人類を救いたい、全人類に永遠の生命を与え、ご自分と同じ幸福を与えたい、という主の愛自体が、全天界を敵に回して試されるという事態になりました。

いかに苛烈な試練であったか、想像さえできません。私達人間を遥かに上回る知恵を持つ天使が、無数になって、本気で主お一人に挑んだのです。十字架上で肉体を極限まで痛めつけられている主に、際限もなく全宇宙に至る大きな事から、細かいことからまでつついて、苛烈な攻撃を浴びせました。しかし、その全てに勝利され、全てを秩序づけることで、主は天界と地獄、そして私たち人類の永遠の生命を贖い、お救いになられました。すべての攻撃を、赦して受け流し、役立ちによって撓めます。

ヤコブは夜が明けるまで「ある人」と格闘します。この「ある人」とは、よく絵画で描かれているような天使ではありません。逆に試練に遭わせる者とは地獄の悪魔しかいません。試練にあって、天使は人を守り、地獄は攻撃します。
主の最後の試練は、全天使が悪魔の側について攻撃しました。

夜が明けるとは、試練に勝利することを意味します。
試練に勝利することで、ヤコブが表す人はもはや自然的ではなく、神的な天的・霊的な状態であると宣言されます。(AC4286) この神的な天的・霊的な状態が「イスラエル」とよばれます。イスラエルが勝った神と人とは、真理と善が意味されます。主が真理と善の面で絶えず勝利されたことが意味されます(AC4287)。

「あなたの名は、もうヤコブとは呼ばれない。イスラエルだ。あなたが神と、また人と戦って、勝ったからだ。」創32:28
アーメン

創世記 (新改訳)
32:24 ヤコブが一人だけ後に残ると、ある人が夜明けまで彼と格闘した。
32:25 その人はヤコブに勝てないのを見てとって、彼のももの関節を打った。ヤコブのももの関節は、その人と格闘しているうちに外れた。
32:26 すると、その人は言った。「わたしを去らせよ。夜が明けるから。」ヤコブは言った。「私はあなたを去らせません。私を祝福してくださらなければ。」
32:27 その人は言った。「あなたの名は何というのか。」彼は言った。「ヤコブです。」
32:28 その人は言った。「あなたの名は、もうヤコブとは呼ばれない。イスラエルだ。あなたが神と、また人と戦って、勝ったからだ。」
32:29 ヤコブは願って言った。「どうか、あなたの名を教えてください。」すると、その人は「いったい、なぜ、わたしの名を尋ねるのか」と言って、その場で彼を祝福した。
32:30 そこでヤコブは、その場所の名をペヌエルと呼んだ。「私は顔と顔を合わせて神を見たのに、私のいのちは救われた」という意味である。
32:31 彼がペヌエルを通り過ぎたころ、太陽は彼の上に昇ったが、彼はそのもものために足を引きずっていた。
32:32 こういうわけで、イスラエルの人々は今日まで、ももの関節の上の、腰の筋を食べない。ヤコブが、ももの関節、腰の筋を打たれたからである。

マタイ
21:18 翌朝、イエスは都に帰る途中、空腹を覚えられた。
21:19 道ばたにいちじくの木が見えたので、近づいて行かれたが、葉のほかは何もないのに気づかれた。それで、イエスはその木に「おまえの実は、もういつまでも、ならないように」と言われた。すると、たちまちいちじくの木は枯れた。

天界の秘義4256(アルカナ訳)
② その理由は次の通りです。真理が第一の座を占めていたとは、真理がみずからの視野を支配していたことで、そのため偽りが混入します。真理はみずからの力では、真理かどうかを見通すことができないからです。真理を見通すことができるには、善に根ざさねばなりません。したがって善が接近してくると、恐れをいだきます。
また善のうちにいる人は、善からの光で偽りが浮き彫りにされると、みな恐れを抱き始めます。偽りを恐れ、それを根絶したいと思いますが、密着しているためできません。ただ主による神的手段によるしかありません。そのため再生するはずの人は、恐れと悩みのあと、試練・誘惑に入っていきます。試練・誘惑こそ、それを取り除くための神的手段です。
人が再生にあたって、霊的試練・誘惑を経過する事実には、最高の秘義的根拠があります。その根拠は、人には決して見えてきません。なぜなら、人の感知できるスフィアを越えているからです。万事は、あたかも良心をゆり動かし、切り裂き、拷問にかけるかのようです。

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