「わたしの時はまだ来ていません。しかし、あなたがたの時はいつでも用意ができています。」(ヨハネ7:6)
前章でガリラヤ湖の周辺で、主は飢えた大勢の人にパンを与え、湖の上を歩いて弟子たちをお救いになるという奇跡を行われました。主の助けに手を伸ばして受け入れ、天からの食物のパンが、主ご自身の善を私たちが行うことによって救われることであると教えられました。しかし、主のみ言葉を受け入れない人は、大勢、主から去ってゆきます。
さて、エルサレムでは、仮庵の祭りが行われています。ユダヤ教で、スコットと呼ばれる仮庵の祭りは、「あなたがたの後の世代が、わたしがエジプトの地からイスラエルの子らを導き出したとき、彼らを仮庵に住まわせたことを知るためである」(レビ記23:43)とエジプトからの脱出を記念してレビ記他で定められたものです。時期的には、秋に収穫があったあと、それを感謝する祭で、日本の秋祭りにあたります。
しかし、この祭りには、さらに深い意味があります。天界の秘義によれば、「再生後に善が真理に植え付けられたことに感謝する礼拝を意味する祭り」(天界の秘義9296)が本当の意味です。
弟子をはじめとした人々に、主から真理が与えられ、それを善として「世に現」す時が来ています。
善に真理を植え付けることができた人は、そこから次々に大いに善と真理という収穫が産まれ、歓びの感謝をします。しかし善の源である主を憎む人々は、悪にいるため、悪の状態を意味する、「時」の審判が用意され、ることになります。
「世はあなたがたを憎むことができないが、わたしのことは憎んでいます。わたしが世について、その行いが悪いことを証ししているからです。」(7:7)
主ご自身はどうかといえば、主の目的である、ご自身と父との結合の時、すなわち栄化の時は、まだ来ていません。この時点においては、聖書に書かれた預言をすべて成就してないからです。そのため「わたしの時はまだ来ていません。」とおっしゃいます。エルサレムに入るのも、「表立ってではなく、いわば内密に上って行かれ」(7:10)ることになります。春になれば、パームサンデーの入城が待っています。そして十字架上の最後の試練が、備えられた「わたしの時」となります。
主がエルサレムに入ってからも、ユダヤ人たちは、「あの人はどこにいるのか」と言って、イエスを捜します(7:11)。
この仮庵の祭りでは、主の居場所を探す部分が度々出てきます。そして、居場所に加えて、主の出自、生まれや、教えの源が問われます。
エルサレムのある人たちは、「しかし、私たちはこの人がどこから来たのか知っている。キリストが来られるときには、どこから来るのかだれも知らないはずだ。」(7:27)と、主イエスをガリラヤ出身の者としか認めません。そしてニコデモに対しても、「ガリラヤから預言者は起こらないことが分かるだろう。」(7:52)とガリラヤの出身にこだわります。地上と世から得た情報の枠から出ることができません。
しかし、主はダビデの町、ベツレヘムでお生まれになったとあります。聖書でのお生まれは、ガリラヤ地方ではなく、ベツレヘムです。
また、「天から下って来たパン」(6:51)であることを信じることも、想像することすらできません。主の出身は、ガリラヤではなく、ダビデと同じベツレヘムです。そして主の出自は、地上ではなく、「天」そのものです。そのため、彼らが主を探しても見つけることはできません。本当の出身地である天を探さず、地上しか探さないからです。
「あなたがたはわたしを捜しますが、見つけることはありません。わたしがいるところに来ることはできません。」(7:34)と言われます。
主を「人」の中に探しても、決して見つけることはできません。「人」として探しても、主の源と出自は、地上の「人」ではないからです。
現代でも、主は地上の人だと考え、民族的な遺伝子から、顔形を予想したりします。西欧の人たちは、まるで西欧人のように描き、アフリカ大陸出身者は自分の民族のように描きます。しかし肉体的な特徴から主をとらえようとしても、「時」が来なければ、誰も主をみつけることができません。
本当に主を探して、感謝を捧げるなら、私たちは主の行った本当の業を知る必要があります。
仮庵の祭りは、主が私たちに植え、育てていただく善と真理に気づき、感謝する祭りです。
仮庵の祭りの日は七日間開かれ、八日目は大いなる日とされています。
「特に、あなたがたがその土地の収穫をし終える第七の月の十五日には、七日間にわたる【主】の祭りを祝わなければならない。最初の日は全き休みの日であり、八日目も全き休みの日である。」(レビ23:39)
「祭りもすでに半ばになったころ、イエスは宮に上って教え始められた。」(7:14)
仮庵の祭りの日の最中、主は教えを説かれます。ユダヤ人たちは、その豊富な学問の知識に感嘆し、
「どうして学問があるのか。」と学問の出自、源を問います。
「わたしの教えは、わたしのものではなく、わたしを遣わされた方のものです。」(7:16)
ご自分のものではないこと、遣わされた方のものであることを教えられます。そしてこのみ教えの証拠となるものも教えられます。
「自分から語る人は自分の栄誉を求めます。しかし、自分を遣わされた方の栄誉を求める人は真実で、その人には不正がありません。」(7:18)
天使は決して自分から語りません。天使たちは、
『はい』は『はい』、『いいえ』は『いいえ』と(マタ 5:37)だけ答えます。
彼らは、「それ以上のことは悪い者から出ている」ことを知っています。
聖書の記述を組み合わせて、自分たちの創り出した教えを語るのは、自分たちの知力を誇り、自分の栄誉を求めています。しかし、そうであってはなりません。自分の言動の中に自分への栄誉が含まれてないか点検します。自分から出るものを徹頭徹尾、否定して、その御心だけを求めます。その探求の中に自分への愛や世間への愛が含まれてないか、点検します。
この点検は、モーセが与えた律法(7:19)によって点検することが可能です。
例えば、モーセ五書の申命記によれば、割礼は「心の包皮」にしなければなりません。「うなじを固く」しないよう、「心の包皮」という汚れたものを切り捨てます(申 10:16)。悪や偽りから考えないよう心に割礼を施します。この戒めを守れば、「心に割礼を施し、あなたが心を尽くし、いのちを尽くして、あなたの神、【主】を愛し、そうしてあなたが生きるようにされ」(申 30:6)ます。悪と偽りを徹底して拒めば、主から本物の愛、隣人への愛が流入して、平安と幸福が与えられます。
モーセが与えたのが肉体の割礼ではなく、心の割礼であり、私たちの中の悪と偽りから清めることです。これを確認することで、主のみ言葉は、純粋に私たちへの愛から出ていることがわかります。
「だれでも神のみこころを行おうとするなら、その人には、この教えが神から出たものなのか、わたしが自分から語っているのかが分かります。」(7:17)
私たちが神のみこころを行おうとせず、誰かの利益や、思い込みのために行おうとすれば、それは神のみこころでないことはすぐにわかります。この地上のある人数だけが救われるとこじつける宗教は、それが主の御心でないことは一目瞭然です。主はこの地球の、そしてある時代の人間を愛しておられるのではなく、全宇宙で、主を認め、愛し、隣人愛に生きる人間を絶えず創造し、主の天界のメンバーとされたいと望まれているからです。
私たちが知っている宇宙は、時を経てゆくごとに、そのごく一部しか知らないことがわかってきます。最新の望遠鏡を宇宙に向けると、惑星一個どころではなく、銀河が次々と発見され、その誕生も確認されています。そして、宇宙の果てはまだ観測されていません。これを知っている人もいません。その中で、救う人間と救わない人間を、恣意的にわけ、何人かに絞ってしまうような存在は、「神」という名にふさわしくありません。そして、その方が支配される世界であるなら、そんな世界には生きていたくありません。存在したくもありません。
私たちは、意欲だけでも、神のみこころを行おうとしなければなりません。神様は、救われない人を作り出す解釈をしたり、簡単に切り捨てたりされません。
もしそうでなければ、神様と一体となり、天界に行くことなど不可能です。主がおっしゃったように、私たちは少なくとも「神のみこころを行う」ことを、目的としなければなりません。そして自分を含め、「うわべで人をさばかないで、正しいさばきを (7:24)しなければなりません。
仮庵の祭りの日は七日間開かれ、八日目は大いなる日とされています。この日が描かれています。
さて、祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立ち上がり、大きな声で言われた。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおり、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになります。」(7:37,38)
主はご自身が生命そのものであることを、祭りの終わりの大いなる日に再び宣言されます。
それはヨハネの前章で「わたしがいのちのパンです。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。」(6:35)とおっしゃったのと同じです。
これは肉体の生命ではありません。霊的生命です。霊的生命は、主イエス以外からは発しません。
天界の教えには、この霊的生命が、信仰と仁愛であると言われています。
「人は、生命そのものである主に近づくとき、この生命を得ます。そしてそれは信仰と仁愛の生命です。」(真のキリスト教358)
自分以外の人に優しくすることこそ、真の生命です。これに気づかせ、力を与えて、仁愛の業にされるのは主イエス・キリストだけです。私たちが自分からただ単に、人に優しくしても、それは「小さな親切」でしかなく、そしてそれは人によっては「大きなお世話」にしかなりません。しかし主がこの親切を願っておられることを知って、主から行えば、本物の生命になります。自分の業ではなく、主の業であると信じて行えば、主から生命の流入があり、私たちも主も幸せになります。
この霊的生命の流入こそが、仮庵の祭りの効果です。主の宣言によって、私たちはこれを味わい、感じます。この流入を、常に感じ、味わうことができれば、主と私たちの状態は一致します。これはこの世では簡単ではありません。父と子、父である神的善と、子である神的真理の合致は、主の栄化そのものであり、私たちはその神的善と神的真理の合致の効果の一端だけをこの世で垣間見ることができます。私たちの再生が進み、愛から真理を行うようになれば、私たちはこの仮庵の祭りを味わい、喜び楽しむことができます。
「最初の日に、あなたがたは自分たちのために、美しい木の実、なつめ椰子の葉と茂った木の大枝、また川辺の柳を取り、七日間、あなたがたの神、【主】の前で喜び楽しむ。」(レビ記23:40)アーメン。
レビ記
23:34 「イスラエルの子らに告げよ。この第七の月の十五日には、七日間にわたる【主】の仮庵の祭りが始まる。
23:35 最初の日には、聖なる会合を開く。あなたがたは、いかなる労働もしてはならない。
23:36 七日間、あなたがたは食物のささげ物を【主】に献げなければならない。八日目も、あなたがたは聖なる会合を開かなければならない。あなたがたは食物のささげ物を【主】に献げる。これはきよめの集会であり、いかなる労働もしてはならない。
23:37 以上が【主】の例祭である。あなたがたは聖なる会合を召集して、全焼のささげ物、穀物のささげ物、交わりのいけにえ、注ぎのささげ物を、食物のささげ物として、それぞれ定められた日に【主】に献げなければならない。
23:38 このほかに【主】の安息日、また、あなたがたが【主】に献げる献上物、あらゆる誓願のささげ物、あらゆる進んで献げるものがある。
23:39 特に、あなたがたがその土地の収穫をし終える第七の月の十五日には、七日間にわたる【主】の祭りを祝わなければならない。最初の日は全き休みの日であり、八日目も全き休みの日である。
23:40 最初の日に、あなたがたは自分たちのために、美しい木の実、なつめ椰子の葉と茂った木の大枝、また川辺の柳を取り、七日間、あなたがたの神、【主】の前で喜び楽しむ。
23:41 年に七日間、【主】の祭りとしてこれを祝う。これはあなたがたが代々守るべき永遠の掟であり、第七の月に祝わなければならない。
23:42 あなたがたは七日間、仮庵に住まなければならない。イスラエルで生まれた者はみな仮庵に住まなければならない。
23:43 これは、あなたがたの後の世代が、わたしがエジプトの地からイスラエルの子らを導き出したとき、彼らを仮庵に住まわせたことを知るためである。わたしはあなたがたの神、【主】である。」
23:44 こうしてモーセはイスラエルの子らに【主】の例祭のことを告げた。
ヨハネ福音書
7:1 その後、イエスはガリラヤを巡り続けられた。ユダヤ人たちがイエスを殺そうとしていたので、ユダヤを巡ろうとはされなかったからである。
7:2 時に、仮庵の祭りというユダヤ人の祭りが近づいていた。
7:3 そこで、イエスの兄弟たちがイエスに言った。「ここを去ってユダヤに行きなさい。そうすれば、弟子たちもあなたがしている働きを見ることができます。
7:4 自分で公の場に出ることを願いながら、隠れて事を行う人はいません。このようなことを行うのなら、自分を世に示しなさい。」
7:5 兄弟たちもイエスを信じていなかったのである。
7:6 そこで、イエスは彼らに言われた。「わたしの時はまだ来ていません。しかし、あなたがたの時はいつでも用意ができています。
7:7 世はあなたがたを憎むことができないが、わたしのことは憎んでいます。わたしが世について、その行いが悪いことを証ししているからです。
7:8 あなたがたは祭りに上って行きなさい。わたしはこの祭りに上って行きません。わたしの時はまだ満ちていないのです。」
7:9 こう言って、イエスはガリラヤにとどまられた。
7:10 しかし、兄弟たちが祭りに上って行った後で、イエスご自身も、表立ってではなく、いわば内密に上って行かれた。
7:11 ユダヤ人たちは祭りの場で、「あの人はどこにいるのか」と言って、イエスを捜していた。
7:12 群衆はイエスについて、小声でいろいろと話をしていた。ある人たちは「良い人だ」と言い、別の人たちは「違う。群衆を惑わしているのだ」と言っていた。
7:13 しかし、ユダヤ人たちを恐れたため、イエスについて公然と語る者はだれもいなかった。
7:14 祭りもすでに半ばになったころ、イエスは宮に上って教え始められた。
7:15 ユダヤ人たちは驚いて言った。「この人は学んだこともないのに、どうして学問があるのか。」
7:16 そこで、イエスは彼らに答えられた。「わたしの教えは、わたしのものではなく、わたしを遣わされた方のものです。
7:17 だれでも神のみこころを行おうとするなら、その人には、この教えが神から出たものなのか、わたしが自分から語っているのかが分かります。
7:18 自分から語る人は自分の栄誉を求めます。しかし、自分を遣わされた方の栄誉を求める人は真実で、その人には不正がありません。
7:19 モーセはあなたがたに律法を与えたではありませんか。それなのに、あなたがたはだれも律法を守っていません。あなたがたは、なぜわたしを殺そうとするのですか。」
7:20 群衆は答えた。「あなたは悪霊につかれている。だれがあなたを殺そうとしているのか。」
7:21 イエスは彼らに答えられた。「わたしが一つのわざを行い、それで、あなたがたはみな驚いています。
7:22 モーセはあなたがたに割礼を与えました。それはモーセからではなく、父祖たちから始まったことです。そして、あなたがたは安息日にも人に割礼を施しています。
7:23 モーセの律法を破らないようにと、人は安息日にも割礼を受けるのに、わたしが安息日に人の全身を健やかにしたということで、あなたがたはわたしに腹を立てるのですか。
7:24 うわべで人をさばかないで、正しいさばきを行いなさい。」
7:25 さて、エルサレムのある人たちは、こう言い始めた。「この人は、彼らが殺そうとしている人ではないか。
7:26 見なさい。この人は公然と語っているのに、彼らはこの人に何も言わない。もしかしたら議員たちは、この人がキリストであると、本当に認めたのではないか。
7:27 しかし、私たちはこの人がどこから来たのか知っている。キリストが来られるときには、どこから来るのかだれも知らないはずだ。」
7:28 イエスは宮で教えていたとき、大きな声で言われた。「あなたがたはわたしを知っており、わたしがどこから来たかも知っています。しかし、わたしは自分で来たのではありません。わたしを遣わされた方は真実です。その方を、あなたがたは知りません。
7:29 わたしはその方を知っています。なぜなら、わたしはその方から出たのであり、その方がわたしを遣わされたからです。」
7:30 そこで人々はイエスを捕らえようとしたが、だれもイエスに手をかける者はいなかった。イエスの時がまだ来ていなかったからである。
7:31 群衆のうちにはイエスを信じる人が多くいて、「キリストが来られるとき、この方がなさったよりも多くのしるしを行うだろうか」と言い合った。
7:32 パリサイ人たちは、群衆がイエスについて、このようなことを小声で話しているのを耳にした。それで祭司長たちとパリサイ人たちは、イエスを捕らえようとして下役たちを遣わした。
7:33 そこで、イエスは言われた。「もう少しの間、わたしはあなたがたとともにいて、それから、わたしを遣わされた方のもとに行きます。
7:34 あなたがたはわたしを捜しますが、見つけることはありません。わたしがいるところに来ることはできません。」
7:35 すると、ユダヤ人たちは互いに言った。「私たちには見つからないとは、あの人はどこへ行くつもりなのか。まさか、ギリシア人の中に離散している人々のところに行って、ギリシア人を教えるつもりではあるまい。
7:36 『あなたがたはわたしを捜しますが、見つけることはありません。わたしがいるところに来ることはできません』とあの人が言ったこのことばは、どういう意味だろうか。」
7:37 さて、祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立ち上がり、大きな声で言われた。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。
7:38 わたしを信じる者は、聖書が言っているとおり、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになります。」
7:39 イエスは、ご自分を信じる者が受けることになる御霊について、こう言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊はまだ下っていなかったのである。
7:40 このことばを聞いて、群衆の中には、「この方は、確かにあの預言者だ」と言う人たちがいた。
7:41 別の人たちは「この方はキリストだ」と言った。しかし、このように言う人たちもいた。「キリストはガリラヤから出るだろうか。
7:42 キリストはダビデの子孫から、ダビデがいた村、ベツレヘムから出ると、聖書は言っているではないか。」
7:43 こうして、イエスのことで群衆の間に分裂が生じた。
7:44 彼らの中にはイエスを捕らえたいと思う人たちもいたが、だれもイエスに手をかける者はいなかった。
7:45 さて、祭司長たちとパリサイ人たちは、下役たちが自分たちのところに戻って来たとき、彼らに言った。「なぜあの人を連れて来なかったのか。」
7:46 下役たちは答えた。「これまで、あの人のように話した人はいませんでした。」
7:47 そこで、パリサイ人たちは答えた。「おまえたちまで惑わされているのか。
7:48 議員やパリサイ人の中で、だれかイエスを信じた者がいたか。
7:49 それにしても、律法を知らないこの群衆はのろわれている。」
7:50 彼らのうちの一人で、イエスのもとに来たことのあるニコデモが彼らに言った。
7:51 「私たちの律法は、まず本人から話を聞き、その人が何をしているのかを知ったうえでなければ、さばくことをしないのではないか。」
7:52 彼らはニコデモに答えて言った。「あなたもガリラヤの出なのか。よく調べなさい。ガリラヤから預言者は起こらないことが分かるだろう。」
7:53 〔人々はそれぞれ家に帰って行った。
天界の秘義9296.
「年の終わりに、あなたの勤労の実を畑から取り入れるときの収穫祭を行わなければならない」(出エ23:16)とは、善の植え付けと、その後の再生と、破滅からの完全な救済への、感謝の心からの礼拝を意味します。
これは、祭りの意味が(9286, 9287, 9294で扱われたように)主への礼拝と感謝、感謝の心からの礼拝であることから明らかです。刈入れの意味が、善への真理の植え付けに関するなら、善自体の植えつけです。「年の終わり」の意味は、労働の終わりを、「あなたの勤労の実を畑から取り入れるとき」の意味は、善の中に植え付けられたものすべての楽しみと役立ちです。
「労働」によって意味される畑からの勤労の実だけではなく、地の果実を意味するぶどう畑とオリーブ畑が意味されます、これはモーセにあるこの祭りの記述から明らかです。
あなたの打ち場とあなたの踏み場から取り入れが済んだとき、七日間、仮庵の祭りをしなければならない。あなたの神、【主】のために、【主】が選ばれる場所で七日間、祭りをしなければならない。あなたの神、【主】があなたのすべての収穫、あなたの手のすべてのわざを祝福されるからである。あなたは大いに喜びなさい。(申命16:13,15)
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