J5 良くなりたいか?

イエスは・・・彼に言われた。「良くなりたいか。」(5:6)

エルサレムのベテスダの池での出来事です。
そこには、大ぜいの病人、盲人、足のなえた者、やせ衰えた者たちが伏せっていた。5:3
彼らは、池が波立つのを待っていました。池が波立つと天使が下りてきて、最初にその池に入ったものの病が癒される (5:4KJV)、という言い伝えを信じていたからです。

自分の不治の病を癒したいという思いで、祈る思いで何日も、何日も、波立つのを待っていました。ただ待つだけの日々です。そして、その日そこにいたある人も、三十八年も病で苦しんで、同じように波が立つのを待っていました。
そこに現れた、主イエスが彼におっしゃったのは、「良くなりたいか」(5:6)という問いでした。誰も助けてくれない、と彼が不満を言うと、主は病人に命じられます。「起きて床を取り上げ、歩きなさい」(5:8)。

これは主の力によって病が癒される、奇跡の力の物語でしょうか?
病で苦しみ、主の出現と奇跡を待つしか手がないなら、池でこの奇跡を待つのと同じです。待てば、そのうち奇跡が起こる。主が現れるか、波が立って天使が現れるのかを、待つしかありません。もし、難病で苦しんでいれば、自分にもその奇跡が起こることを願い、主イエスが目の前に出現されるのを待ちます。聖書で癒された病人のように、池が波立つ奇跡を何日も待ち続けます。

しかし主が直されようとされているのは、身体の病ではありません。私たちの霊的病です。
もし私たちが真理にいて、そこから偽りに転ずると、霊的な病となります。善から悪に移れば、私たちの心と霊は、霊的な健康を失い、霊的病を得ます。霊的な病にかかると、霊的生命を失い、心と精神は弱くなり、蝕まれ、最後には死に至ります(AC9031)。

池で奇跡を待っていた他の者は、「盲人や足なえ、やせ衰えた者」と表現されています。しかしこれを霊的な病に置き換えれば、景色は変わります。
盲人や足なえ、やせ衰えた者、それぞれの意味は、真理を知らず偽りに陥いった者(AC2383)、そして善にはいるが純粋な善にはいない者(AC4302-4)、真理が弱まり滅びて消え去ってしまった者(AE627)のことを言っています。これら霊的病を得た者の集まりが、健康を回復しようとして、天使か主の出現をただ待っていました。

私たちの内にも、これら霊的病に苦しむ人は少なくありません。天界の教えを学んでも、真理を実行せず、自分のものとしなければ、同じ症状が現れます。真理を行わず、記憶にだけ残しておく、という深い病です。
しかし、主が「起きて床を取り上げ、歩きなさい」(5:8)と命じると、奇跡が起こります。

病人たちが、池の波立を待っていたのは、旧約聖書で命じられた奉納物の揺祭(ようさい)と同じ意味をもちます。認めて信じることで、生命を与えられます。真理を本当に知って、心が揺り動かされると、その信仰の真理を自分のものとしたい、という意欲がわきあがります。水が意味する信仰の真理をくぐれば、人は清められます (AC 10083:4) 。

床とは、教義を意味します。「起きて床を取り上げて歩け」とは、これら罪を犯した者に「教義に従って生きよ」と、ただ待つのではなく、真理を知って奮起しなさい。心を高めなさい。心と霊を鼓舞して、教えを実行しなさいと命令されたのです(AE163:7)。

命じられた人は、心を高め、教えを実行することで癒されました。しかし、周りにいたユダヤ人や、私たちは、そう簡単には癒されません。ユダヤ人たちは、「安息日を犯した」という頭の固い反応をします。私たちも、教義に従って生きれば、本当に霊的な病は癒されるのか?と従来の固定観念に縛られて実行への一歩が進めません。悪を絶て、悪をするな、という戒めも、「明日から、次回から」にしようと先延ばしにしてしまいます。

癒された当人は、宮の中で主に会います。「見なさい。あなたは良くなった。もう罪を犯してはなりません。そうでないと、もっと悪いことがあなたに起こるかもしれない。」(5:14)。
宮は主の神的人間を意味します。良くなって、何が罪かを知った上で、さらに罪を犯すなら、それは冒涜です。主の神的人間の言葉を、善と真理であると知った上で、反対のことを行うと冒涜となり、取返しのつかないことが起こります。私たちに与えられる善と真理が、全く役に立たなくなります。そうすると永遠に再生できず、永遠の死に至ってしまいます。もはや人間とはいえない存在になります。

「その人は行って、ユダヤ人たちに、自分を治してくれたのはイエスだと伝えた。そのためユダヤ人たちは、イエスを迫害し始めた。」
言わないと念をおされ、いいつけに背いた点に問題は残りますが、その人は主イエスを認めました。ユダヤ人たちは、神的真理そのものであると聞き、逆に主に暴力を浴びせかけます。まさに冒涜の極みです。主イエスは、ご自分が父で同じであると明かされると、興奮したユダヤ人たちは殺そうとさえします。

すると主は、「子」であるご自分と、ご自分の内の魂である「父」との関係を、たとえによって説明なさいます。
ここで父とは神的善、神的愛そのものの存在です。子とは、神的善とともになって栄化される前の神的真理である、この世におられた時の主イエス・キリストです。

「まことに、まことに、あなたがたに言います。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わされた方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきにあうことがなく、死からいのちに移っています。
まことに、まことに、あなたがたに言います。死人が神の子の声を聞く時が来ます。今がその時です。それを聞く者は生きます。」(5:24,25)

みことばという、神的真理がおっしゃることを聞き、それが魂である神的善から出ていることを信じるなら、聞いて信じ、行った者は、霊的生命を持ちます。もし霊的生命という存在を知らなかったとしても、主のおっしゃることを聞いて、信じ、行うなら、霊的生命が与えられます。

ベテスダの池で、「起きて床を取り上げ、歩きなさい。」とおっしゃった内意と全く同じです。主の教えを聞き、信じ、行うことで、今まで死んでいた人間は、霊的生命を与えられ、「それを聞く者は生きます」。

もし、私たちが、誰か著名な人のいうこと、本に書いてあることを、聞き、読んで、「なるほど」、と思ってそれを実行しようとします。
「必ず出世する方法」「金持ちになる方法」「異性にもてる方法」という本が書棚に並んでいます。そして「心を穏やかにする方法」「長生きする方法」「健康でいるための方法」を書いた本も、あふれています。このような題名の本を見ると、もし興味があれば、手に取ってパラパラとめくってみるはずです?
しかし「永遠の生命を得る方法」については書棚にあるでしょうか?

ヨハネは燃えて輝くともしびであり、あなたがたはしばらくの間、その光の中で大いに喜ぼうとしました。(5:35)ヨハネは荒野で「悔い改めよ」と叫び、洗礼を授けた預言者です。
たしかに、同じように「永遠の生命」について、神から言葉がきている預言者と信じたなら、その声に従うかもしれません。当時にも預言者と信じられた人物は数多くいました。その筆頭が「モーセ」でした。「モーセ」のいうことを聞かず、荒野で死んだ人々がいましたが、彼の法を聞き生きた人の話もあります。モーセもヨハネも、「永遠の生命を得る方法」を延べ伝え、多くの人がモーセとヨハネを信じたと言います。そしてその「方法」について聖書を調べた人 (5:39)も多くいます。当時のユダヤ教徒、中世のキリスト教徒も聖書を学んだはずです。私たちが聖書を読むのと同じことを感じていたはずです。

しかし、永遠の生命、霊的生命であることを知らずに、見過ごした人も数多くいました。いや、どれくらいの人が肉体の生命のことではなく、霊的生命であることを知り、霊的生命を自分のものとしたでしょう?単にその人たちは、「人」を信じただけではなかったでしょうか?モーセを信じ、ヨハネを信じたとしても、その人を「信じる」だけでは足りません。いつか疑問にとらわれると、そこでその信頼は終わってしまうからです。

この時のユダヤ人のように、私たちの信頼を終わらせようとして、絶えず働きかける勢力があることを忘れてはなりません。それは地獄の勢力です。たとえ新教会で学ぼうとも、その地獄の勢力は、絶えず、信頼を終了させようと働きかけ続けます。行っても無駄、明日からでいい、とささやき続けます。
そして主ご自身も、両方の中から、私たちが自由に選べるよう、天界と地獄の力の均衡を保ち続けられます。

この世で、信頼しつづけるには、対話を絶やさず、繰り返し、「間違いない、これ以外に方法はない」と確認し続けなければなりません。天界の天使は、天界の光の中にいて、霊的生命は、主以外から来ないということを常に確認し、その光の中で明らかに認識しています。この認識を与える光が、天界の光です。私たちは地上にいる間、この光は確実には与えられません。

主はこの問題を指摘されます。
「いのちを得るためにわたしのもとに来ようとはしません。」(5:40)
なぜなら「あなたがたのうちに神への愛がないこと」(5:42)からです。
「互いの間では栄誉を受けても、唯一の神からの栄誉を求めないあなたがたが、どうして信じることができるでしょうか。」(5:44)

新教会の中でも、自分自身の栄誉を求め、認めてくれる人には近づきます。しかし、そうでなければ近寄らず、敬遠します。自分の名誉を常に優先しなければ、聴こうとしません。信じて行おうとしません。ギブ&テイクとしか考えていません。自分が優遇されるなら、礼拝に出ようか、と考え、知識として、せいぜい参考にとどめておくだけです。

主は「人からの栄誉は受けません。」(5:41)と述べられました。
私たちも唯一の神からの名誉を求め、その戒めを聞き、心から信じて行わなければ、霊的生命は私たちのものとはなりません。

「良くなりたい」と思うなら、「起きて床を取り上げ、自ら歩」かねば、なりません。主の戒めに霊的生命があることを信じて、その教えを実行しなければなりません。その主の教え自体が、霊的生命を持っていることに気づかねばなりません。
「起きて床を取り上げ、歩きなさい。」アーメン。

出エジプト記
29:23 また、【主】の前にある種なしパンのかごから、円形パン一つと、油を混ぜた輪形パン一つと、薄焼きパン一つを取る。
29:24 そして、そのすべてをアロンの手のひらとその子らの手のひらに載せ、奉献物として【主】の前で揺り動かす。
29:25 それらを彼らの手から取り、全焼のささげ物とともに、【主】の前の芳ばしい香りとして祭壇の上で焼いて煙にする。これは【主】への食物のささげ物である。
29:26 アロンの任職のための雄羊の胸肉を取り、これを奉献物として【主】に向かって揺り動かす。これは、あなたの受ける分となる。
29:27 アロンとその子らの任職のための雄羊の、奉献物として揺り動かされた胸肉と、奉納物として献げられたもも肉とを聖別する。
29:28 それは、 アロンとその子らがイスラエルの子らから受け取る永遠の割り当てとなる。それは奉納物である。それはイスラエルの子らからの交わりのいけにえの奉納物、【主】への奉納物であるから。

ヨハネ福音書
5:1 その後、ユダヤ人の祭りがあって、イエスはエルサレムに上られた。
5:2 エルサレムには、羊の門の近くに、ヘブル語でベテスダと呼ばれる池があり、五つの回廊がついていた。
5:3 その中には、病人、目の見えない人、足の不自由な人、からだに麻痺のある人たちが大勢、横になっていた。
5:4 【本節欠如】For an angel went down at a certain season into the pool, and troubled the water;whosoever then first after the troubling of the water stepped in was made whole of whatsoever disease he had.(KJV)
5:5 そこに、三十八年も病気にかかっている人がいた。
5:6 イエスは彼が横になっているのを見て、すでに長い間そうしていることを知ると、彼に言われた。「良くなりたいか。」
5:7 病人は答えた。「主よ。水がかき回されたとき、池の中に入れてくれる人がいません。行きかけると、ほかの人が先に下りて行きます。」
5:8 イエスは彼に言われた。「起きて床を取り上げ、歩きなさい。」
5:9 すると、すぐにその人は治って、床を取り上げて歩き出した。ところが、その日は安息日であった。
5:10 そこでユダヤ人たちは、その癒やされた人に、「今日は安息日だ。床を取り上げることは許されていない」と言った。
5:11 しかし、その人は彼らに答えた。「私を治してくださった方が、『床を取り上げて歩け』と私に言われたのです。」
5:12 彼らは尋ねた。「『取り上げて歩け』とあなたに言った人はだれなのか。」
5:13 しかし、癒やされた人は、それがだれであるかを知らなかった。群衆がそこにいる間に、イエスは立ち去られたからである。
5:14 後になって、イエスは宮の中で彼を見つけて言われた。「見なさい。あなたは良くなった。もう罪を犯してはなりません。そうでないと、もっと悪いことがあなたに起こるかもしれない。」
5:15 その人は行って、ユダヤ人たちに、自分を治してくれたのはイエスだと伝えた。

黙示録解説163:7
[7]
ヨハネ福音書の中に、イエスはベテスダの池で病人におっしゃりました。「起きて床を取り上げ、歩きなさい。」すると、すぐにその人は治って、床を取り上げて歩き出した。・・・(ヨハネ 5:8-12, 14) 、(マルコ 2:4, 9, 11-12).

主が病人におっしゃった「起きて床を取り上げ、歩きなさい。」は教義と、それに従った生活です。「床」とは教義を、「歩く」は生活を意味します(97参照)。「病人」は罪を犯した者を意味します:したがって主はベテスダの池の病人におっしゃいます、「見なさい。あなたは良くなった。もう罪を犯してはなりません。そうでないと、もっと悪いことがあなたに起こるかもしれない。」また、屋根をはがし、穴を開けて、中風の人が寝ている寝床をつり降ろした人に、『あなたの罪は赦された』と言うのと、『起きて、寝床をたたんで歩け』と言うのと、どちらが易しいか?と問われました。み言葉の内意について何も知らない人は主が語られた言葉には文字の上の意味以上に明らかなものは含まれないと信じますが、主の話されたそれぞれには霊的意味があります、なぜなら主は神的なものから話され、天界と世の両方に話されているからです。(天界の秘義 n. 2533, 4637, 4807, 9048, 9063, 9086, 10126, 10276).

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