創世記42章: エジプトへの食糧調達の旅

「おまえたちは回し者だ。この国の隙をうかがいに来たのだろう。」(42:9)

監獄に入れられていたヨセフは、エジプト王ファラオの見た夢を解き明かしたことで、エジプト全土を支配します。ヨセフの預言の通り、エジプト全土に飢饉がやってきます。飢饉はやがて全世界に広がり、カナンの地に住むヤコブとその家族にも及びます。

エジプトに穀物があることを知って、ヤコブは息子たちに穀物を買いにゆかせます。ヤコブは、ヨセフの弟ベニヤミンにわざわいが降りかかることを恐れ、ベニヤミンを手元におき、残りの十人の息子がエジプトに下り、今やエジプトの権力者となったヨセフにまみえます。ヨセフには相手が兄弟たちであったことがわかりましたが、十人の兄弟たちにはヨセフのことがわかりません。

ヨセフは「霊的なものの天的なもの」を意味します。ヨセフには自分の光から、兄弟たちの存在を見ます。すなわち教会の全般的な真理を見て、それら真理を知ります。しかし外的な情愛であるレアから生まれた兄弟たちには、内的な情愛のラケルから生まれたヨセフのことがわかりません。
教会の全般的真理である兄弟たちは、自然的な光の中にいて、天界の光にはいません。そのため「霊的なものの天的なもの、あるいは神的なものからの真理」が、認識できません(AC5428)。内的なものは外的なものは、わかりますが、外的なものは、内的なものはそのままではわかりません。何らかの助けが必要です。

その助けとは、ベニヤミンで意味される媒介、あるいは相応の知識です。この助けがないため、兄弟たちは、ヨセフのことがわかりません。
「天界の栄光」について考えてみます。天界の栄光は、主イエスがこの世に誕生された時のまぶしく明るいものといった自然的イメージはできますが、それ以上は想像できません。ヨハネ福音書に相応が示されていますが、それがいかに素晴らしく輝きに満ちたものであるかは、この啓示によって推測できます。しかし、その栄光の源はすべて主おひとりであることを理解しなければ、より深く理解できません。

一人の天使は、何百万の地獄の勢力を押し返します。この力をある一人の天使の力と考えると間違った方向に考えてしまいます。万能の主からすべての力が来ており、天使はその力を借りていると考ええれば、天使の力の源を見誤りません。

さらに、「自由」とは、自分自身から考え意志することだと考えます。他から何も制約されずに考え、意志することこそ「自由」だと信じます。しかし、天界的自由にいる者は、自分からではなく、主から、天界から考えることこそが自由であると考えます。これは自然的に自由を考える者からは想像できません。

このように、自然的な光と天界的な光では大きな差異があります。この差は天界の光の内にいるものには一目瞭然です。しかし自然的光にいる者は。気づくことさえありません。両者が共通の理解ができません。ヨセフと、兄弟たちの間には、支配者と奴隷のような差があります。

エジプトを支配するヨセフは、権力者として上から言い切ります。
「おまえたちは回し者だ。この国の隙をうかがいに来たのだろう。」
この文句の中には兄弟の情など感じることができません。ヨセフと残りの兄弟たちの間には、過去、両者の間に確執がありました。ヨセフは兄弟たちに嫉妬され、殺されかけ、最後には売られてしまいます。殺されかけた時に、止めてくれたのは、ルベンだけでした(37:21,22)。その確執のせいか、ヨセフは十人の兄弟たちを「回し者・間者」、「スパイ」と呼びます。

一般に、「スパイ」は敵国の利益のために、国の情報を探る者のことです。
スパイだと疑われると、国を売る者として、死刑など重い刑罰が科されてしまいます。

兄弟たちは自分たちの思った通りに、正直に、愚直なほど過去のいきさつを述べます。しかしヨセフには通じません。三日間兄弟たちを監禁したうえで、解決案を出します。
兄弟シメオンを縛って人質とした上で、穀物を持たせてカナンの地へ返し、末の弟のベニヤミンをエジプトに連れてこいと要求します。シメオンは人質としてとられたままで、ベニヤミンを連れてくるまではスパイとしての疑いは晴らされません。

天界の教えでは、スパイは「ただ利得を求める者」を意味します(AC5432)。ヨセフは兄弟たちがスパイであるという疑いをかけ、スパイでない証明をしつこく迫ります。それは、ヨセフは仲介となるベニヤミンなしでは、兄弟である自分の正体を明かせなかったからです。今のエジプトの権力者の姿は、過去の自分からでは全く想像もできません。過去の経緯を説明できる、同じ母からの兄弟でなければ、自分の正体はわかりません。
前に述べたように、「栄光」、「力」そして「自由」のたとえのように、神の力を源として考えなければ、神性は理解できません。ヨセフが行った夢の解き明かしは、すべて神の力に帰して行いました。これを、自分の力とするなら、神的なものは理解できません。

しかし、もし利得を求めるスパイであるなら、神の力に帰することなく、ただ自分の利益から考えます。
若いころ、真理を学びますが、大人や老齢に達しても、教会の真理を自分で見て理解しようとはしません。もし、それを真理と考えないなら、口先だけになってしまいます。決して実行することはありません。真理であると考えるなら、本当にそうか、自分の力で考えてみよう、真理を見ようとして、み言葉にあたります。それが神から来ていると確認できれば、実行して、自分の生命とします。

しかし自分で考えようとしないなら、他人の思考のままです。神ではなく、他人の考えであるので、実行しません。自分で神から由来する真理と考え、実行して、はじめて真理そして善となってゆきます。
真理を外からのぞき、他人のものと考えるなら、自分の名誉と利得だけしか考えません。自分の生命のものと考えないからです。外側だけから考えるなら、善を基礎とする真理にへばりついて、他人の考えのように考え、その真理のあらさがしをして、粗を見つけてれば、責めようとします。自分の生命のものとしないので、何らかの利得がこぼれてくれば、こぼれてきた利得を得ようとして、そばにいますが、何か粗を見つけると、喜んで批判に走ります。

教会を渡り歩く人は、粗を見つけ出すのが上手です。粗を見つけると別の教会に移ります。真理と善を求めているのではなく、それ以外のもの、自分の優越や名誉、あるいは自分の都合がよい利得を求めるからです。

もし、私たちの求めているのが、再生に至る教会の真理、純粋な神的真理ではなく、何らかの利得にすぎないなら、残念ながら再生の道は遠ざかります。本人が純粋な真理と善を求めるまでやり直すことになります。霊界では、自分の求めるものは、他の霊にも明らかに見えるので、この世のように隠せません。スパイとして扱われます。

スパイではないかというヨセフの追求は、兄弟たちにしつこく繰り返されます。兄弟たちは懸命になって、スパイではないと愚直に言い続けます。私たちの意図の中も、利得を求める心が混じりこんでないか、この世でも、来世でも、とことん検査されることになります。この世にいる間は自己点検と悔い改めによって確認して改め、軌道修正を図ることができます。しかし来世では、自分の愛を隠すことはできず、自分の愛を変えることは極めて難しくなります。法や外からの拘束など、何も制約するものがないからです。

ヨセフはスパイでないことを証明するために、源であるヤコブのいるカナンに帰り、自分の媒介となるベニヤミンを連れてこいと要求します。道中で死なないように、それぞれの袋に穀物を満たしてくれます。ここで袋に満たされた穀物とは、教会の真理を意味し、ベニヤミンを連れてくるまでの支えの真理となります。しかしヨセフから渡されたものは穀物だけではありませんでした。支払ったはずの銀が袋に入れられています。穀物を買ったはずですが、途中で確認すると代価である銀が袋の口に戻されているので、ただでもらったことになり、その不気味なふるまいに、兄弟たちは恐れます。

カナンに帰って、袋を開けて空にして確認すると、それぞれの袋に中に「銀の包み」が入っています。父のヤコブも兄弟たちも、恐れます。(42:35)
先ほど袋の口に銀が入っていたのをみたのは、途中のことでしたが、カナンに着いて、袋を空にすると、銀の包がまるまる入っています。

ここで「包み」とは、束ねることが意味されます。束ねは、秩序付けを表しています。
私たちも、様々な情報が、一晩寝て朝になるといつのまにか整理されていることがあります。それに似たようなことでしょうか、自分の持つ真理が整理されています。自分の愛の種類に従って分類されています。

その愛の種類とは、主への愛、隣人への愛、そして奈落への道である世間への愛と自己愛です。
一晩寝た後のように、自分の持つ真理が、分類されています。これも自分の行ったことではありません。人間業ではありません。気味が悪く、恐れざるを得ません。

カナンを出てエジプトに下り、出会った不思議な出来事と、エジプトでの支配者の理解できない要求、仲介者であるベニヤミンを連れてこいという要求に、父のヤコブは激しく拒絶します。兄弟の一人のシメオンは、ヨセフに縛られて人質になっています。シメオンは「意志による信仰」を意味します。意志による信仰が切り離されると、外的な人間であれば、内的そのものである神との結びつきはほとんど感じなくなります(AC5461)。

ヤコブという自然的な教会にとって、シメオンを縛られて離され、内的情愛から生まれた二人の息子ヨセフとベニヤミンを失えば、壊滅的な打撃となってしまいます。意志による信仰と、霊的なものの天的なもの、そしてその仲介というすべてを失ってしまいます。これらすべてがなくなると教会は内的なものをすべて失い、意志による神への結びつきも失い、空虚となってしまいます。空虚な教会では、人の再生はできなくなります。

エジプトへの食糧購入の旅は、このままでは教会の破滅という不幸な結果を迎えます。教会が破滅すれば、人類再生の道は途絶えてしまいます。再びエジプトに下り、仲介であるベニヤミンは、ヨセフと会って内部とのつながりを回復して、内的教会を再建しなければなりません。束縛されているシメオンを解放します。

ヤコブは言った。「この子は、おまえたちと一緒には行かせない。この子の兄は死んで、この子だけが残っているのだから。道中で、もし彼にわざわいが降りかかれば、おまえたちは、この白髪頭の私を、悲しみながらよみに下らせることになるのだ。」(42:38)
しかし、次のエジプトへの旅、私たち人類の救済への旅が待っています。アーメン。

創世記
42:1 ヤコブはエジプトに穀物があることを知って、息子たちに言った。「おまえたちは、なぜ互いに顔を見合わせているのか。」
42:2 さらに言った。「今、私はエジプトに穀物があると聞いた。おまえたちは下って行って、そこから私たちのために穀物を買って来なさい。そうすれば、私たちは生き延び、死なずにすむだろう。」
42:3 そこで、ヨセフの十人の兄弟は、穀物を買うためにエジプトに下って行った。
42:4 しかし、ヤコブはヨセフの弟ベニヤミンを兄弟たちと一緒に送らなかった。わざわいが彼に降りかかるといけないと思ったからである。
42:5 こうしてイスラエルの息子たちは、人々に混じって、穀物を買いにやって来た。カナンの地に飢饉が起こったからである。
42:6 ときに、ヨセフはこの地の権力者であり、この地のすべての人に穀物を売る者であった。ヨセフの兄弟たちはやって来て、顔を地に付けて彼を伏し拝んだ。
42:7 ヨセフは兄弟たちを見て、それと分かったが、彼らに対して見知らぬ者のようにふるまい、荒々しいことばで彼らに言った。「おまえたちはどこから来たのか。」すると彼らは答えた。「カナンの地から食糧を買いに参りました。」
42:8 ヨセフには兄弟たちだと分かったが、彼らにはヨセフだとは分からなかった。
42:9 かつて彼らについて見た夢を思い出して、ヨセフは言った。「おまえたちは回し者だ。この国の隙をうかがいに来たのだろう。」

マタイ福音書
6:24 だれも二人の主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛することになるか、一方を重んじて他方を軽んじることになります。あなたがたは神と富とに仕えることはできません。

AC5432. 「おまえたちはスパイだ」は、彼らはただ利得のために存在する、を意味します。これはここでの「スパイ」の意味が、物質的利得に偏ることであることから明らかです。確かに、一連の思考から、「スパイ」の内的意味はほかの何でもありません。ここで扱われる内的真理は教会でよく知られており、
自然性自体のために作り変える真理のことを扱っています。しかし、このような作り変えは、天的なものの霊的なものを媒介としなければ不可能です。それらの真理は教会では「ヤコブの息子たち」で知られ、それは「ヨセフの兄弟たち」であり、天的なものの霊的なものである「ヨセフ」であり、媒介は「ベニヤミン」です。これらすべての含意は5402で述べています。
教会には知られている信仰の真理が示され、その教えと呼ばれるものが学ばれるのは人生の早期です。それらは事実として、他の事実知と同じように、記憶の中に取り入れられ、処分されてしまいます。
それらは、人が自分の能力を使ってその真理を見て、自分からそれが本当に真理であるかを知るまで、そこで事実知として残ります。そしてそれがそのようなものとわかり、それらに従って行います。
そのような真理を見て、それらに従って喜んで行動する能力はもはやそれを事実知としません。
今やそれは人生で従うべき戒めであり、ついには彼の人生となります。なぜなら送る生命に渡し、自分自身のものとするからです。

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