春
そのぶどうの木には三本のつるがあった。それは、芽を出すと、すぐ花が咲き、房が熟してぶどうの実になった。(40:10)
世は桜が満開で咲き誇り、コロナで閉ざされた人の心を開き始めています。マスコミが桜の開花前線や、開花情報を告げる度に、人は今年も桜の時期がやってきたと、安堵し、雨風によって桜が散らされないか心配します。そして桜の開花とともに、万物が活動を始め、長く暗い冬の終わりと、明るく暖かい春の初めを告げてくれます。
「今年もまた桜が咲いてくれた」、とこの時期になると毎年歓び、ともに学校や会社の新年度の始まりを迎え、自然の恵みに感謝します。これが典型的な日本人の春の迎え方です。
しかし、天界の教えは、それは違うといいます。これは自然の力にすべてを帰す者の考え方だとします。ここで、それは神の御業であると、口を挟めば、お説教が始まった、気が利かない奴と評価されます。しかし、同時に、死んだ後、自分はどうなるのだろうか、天国と地獄があるなら、自分はどちらに行くのだろうかと矛盾に満ちた悩みを口にします。矛盾に満ちているのが人間だと、悟った言い方をする人もいますが、問題はそこにはありません。すべての事象を神に帰するか、あるいは自然の力に帰し、あるいは周りの人に同調してしまうかです。神を大切にしているか、世あるいは自然を大切にしているかの問題に帰着します。
神様の立場から考えれば、あらゆる人間に、見る、聞く、嗅ぐ、味わう、触るという五感を与え、全宇宙に五感の対象も無限に与え、そしてその全てが、神が居て、私達を愛していると教えているのに、何故わかろうとしないのだろうか?さらに、神ご自身がこの宇宙のはるか片隅の地球に人間として生まれ、人それぞれに、今、現在も豊かな流入を与え続けているのに、なぜそれに気づかず、拒んでしまうのだろうか?とおっしゃっているかもしれません。
そして、人は、自分は神を信じて真面目にやっているはずなのに、自分には何も与えられず不幸なんだろうかと嘆き続けます。
神様がいくら種を蒔いても、花を咲かせず、実を結ばず、荊棘(けいきょく)しか育たないなら、なんと虚しいことでしょうか。しかし、それでも主は諦めることなく、無限の慈しみを与え続けておられます。私達は、その慈しみに気づき、本来の人間の成長に戻らねばなりません。
神様が絶えず流入を与え続けていること、そしてそれを拒んでいるのは私達自身であることに気づきます。これが現状認識のための第一歩です。これを知らなければ、私達は不満を言い続けるしかありません。そしてこの現状認識を進めるための道具が、「相応」と「度」という概念です。聖書の神の御言葉は、すべてこの相応という道具によって書かれているため、この相応を知らなければ、聖書が全く理解できません。神の御言葉は、天使にも、そして同時に私達にも書かれています。
人間と天使は、「度」が違います。そして天使の間にも三つの「度」の違いがあります。「度」とは私達の尺度では、高さの次元のイメージです。神様はすべて平等に与えられますが、私達が受け取るのは、私達の理解の程度に応じます。
高い度と低い度があります。神様は高い度・次元にいらっしゃいます。神様と私達の「度」の差は、無限大です。天使の理解でさえ、はるかに超える、高い度におられます。一番低い度・次元にいる天使でさえ、私達とは、かなりの差があります。なぜなら、天使の世界には、時間と空間がないから、時間と空間の束縛を離れているからです。
私達はこの時間と空間から、多くの概念を得ていますが、天使達はこの時間と空間の概念がない世界で自由に生きているため、なかなか話が通じません。しかしこの次元の高さの差を超えて、結びつけている仕組みが、「相応」です。私達の言葉から、時間と空間を除くと、一番低い天使達の言葉に近くなります。ただし、相応は主からの啓示によらず、私達が勝手に解釈すると、魔法と言われる、偽りと悪の源になってしまいます。
本日の創世記第40章の話に帰ります。ヨセフはエジプト王の侍従長に仕えますが、侍従長の妻に濡れ衣を着せられてしまい、侍従長の監獄に入れられます。するとエジプト王の二人の臣がエジプト王に罪を犯したとして、同じ牢獄につながれます。二人の臣下とは、王に酒をつぐ献酌官長と、王の料理を作る料理官長です。これらの話は実際に起こったことですが、同時に全く違う意味を持っています。その深い意味は、さきほど離した相応の啓示によって解釈してゆきます。なぜこんな面倒なことをするのか?と思う方もいらっしゃるでしょうが、遥かに遠い次元におられる神様と、天界の天使達すべてに語るための表現は、相応しかないのです。
その相応を与えられた啓示によって解釈すれば、王に罪を犯すとは、王の作った秩序に違反したことを意味します(AC5076)。エジプト王とは、自然的な世界を支配する秩序です。
献酌官と料理官は、自然的なものに仕える感覚的部分が意味されます。二人とも王の臣下で、飲み物と食べ物に関係しているからです。人間の能力は、知的なものと、意志的なものの二つにわかれます。人間の感覚にも、知的なものと、意志的なものがあり、知的なものが献酌官として表され、意志的なものが料理官長として表されています。
献酌官は、ぶどう酒を王に注ぐ官職であり、ぶどう酒は王に仕える感覚的部分の内、飲み物に関係し、飲み物は栄養を血液として身体中に行き渡らせので、知的なものとされています。料理官は王の食事を作り、栄養を直接与えるので、意志的なものとされます(AC5094)。
献酌官と料理官の働きは、食事と飲み物の養分を自然的なものに伝える重要なもので、彼らがその職を果たさなければ、自然的な感覚は正常に働きません。自然的な感覚が正常であれば、その上の合理的なもの、さらに上の霊的なもの、そして天的なものと、より高いものに仕えることが出来ます。
献酌官と料理官が罪を犯したとは、感覚的なもののせいで、迷いや偽りが混じり込んだため。より高いものに仕えることができなくなったことが意味されます。そして獄につながれるとは、偽りにとらわれることです。どんな迷いと偽りが混じり込むのでしょうか?
天界の教えという啓示には、感覚的な偽りの例が上げられています。
太陽と星が地球を回っているように見える前時代の天動説のたとえ。次には、物質は単一な原子から出来ているというやや近代的な錯覚です。現代の科学は、原子は陽子と中性子から構成され、さらにより複雑な素粒子からできていると発見され、単一な原子などではないことがわかっています。
さらに大きな錯覚と偽りが次々と啓示されています。
肉体だけが生きていて、霊の存在を認めない考え方や、人間と動物は同じような存在であるという考え方。生命はそれぞれが持っているもので、肉体の生命が終われば、全ては終わる。結婚は単なる地上の便宜的な制度にしかすぎないという考え方。善はその人の功績である。人は信仰だけで救われる等(AC5084)、数限りなくあります。そしてその錯覚や偽りは私達の生活に、大きな問題をもたらしています。これら偽りに囚われている限り、私達は大きな牢獄にいます。
この偽りに囚われているのは、私達を偽りのうちにと留めて置きたいという地獄の勢力の影響と、私達があえてそれを知ろうとしない、という理由があります。すべてを自然の力にして、神の力と考えさせない、私達の姿勢と、それを利用しようとする勢力がいます。
私達に絶えずある主からの光である知性と知恵の流入が、これらの勢力によって阻まれるため起こります(AC5092)。これだけ豊かな証拠があるのに、私達は目を背けています。
現代でも解決できていない大きな偽りに囚われず、私達が再生できる可能性があるのかどうかが、ヨセフの夢の解釈によって、主が予見されています。ヨセフの夢の解釈という予見によれば、献酌官は、元の職に戻されることはできるが、料理官は木につるされるという結果です。この結果だけを、勘弁な書にして提供しようとする方もいらっしゃいますが、それはごく一時的な効果しか生まず。私達の囚われ自体はさらに続きます。私達は、合理的な人間とならなければなりません。相応の喩えでいえば、ヨセフを牢獄から解放しなければなりません。
主は、ヨセフの見た夢の解釈を通して、私達が再生される条件を提示されています。
まず、献酌官である私達の感覚的なもののうち知性的なものが、再生されるには、知性によって自分の感覚的な偽りを従わさなければなりません。無理やり偽りを信じ込んでしまうこと、さらに欺瞞と冒瀆は、合理性との交流を妨げます(AC5128)。自分で自分の心を欺き、自分を無理に正当化するのが自己欺瞞です。そして偽りと真理と、悪を善と混同するのが冒瀆です。素直な心を持っていたとしても、この欺瞞と冒瀆によって、自分の心と理解をねじ曲げてしまいます。合理性と交流できなくなると、感覚的にとどまり、この感覚的なものの支配があるうちは、知性によって自分を従わすことができません。
しかし、合理性と交流することで、自分の感覚を従わせることができるなら、私達は感覚的な人間ではなく、合理的に正しい考え方ができるようになります。上の偽りの例でいえば、肉体だけが自分ではなく、霊として永遠に生きる自分がいる、そして結婚は神聖であり、肉欲や自分勝手な考えでそれを汚してはならない、善は自分のものではく、主の御業を私達が行う事であり、善は行っても、そこ功績はすべて主のものである。そして人は信仰だけではなく、正しい行いによって救われる。感覚的な偽りによって囚われなければ、私達は主に結びつくことができます。私達は安易な回答だけをカンニングしてのぞき見するのではなく、地道に合理的能力を養わなければなりません。主の門である、合理的能力の育成を行わず、門を通り越してやってくる盗人(ヨハネ10:1-2,8-10)になってはなりません。
主はぶどうの木、わたしたちは枝です。人が主にとどまり、主がその人にとどまっているなら、その人は多くの実を結びます。主を離れては、私達は何もすることができません。(ヨハネ15:5改)
主との結びつきを絶やさないことが、合理性獲得のための大きな要件です。
一方、料理官は、感覚的なもののうち意志的なものを意味しています。料理官の見た夢は、頭の上に三つの籠があり、鳥がやってきて籠の穴から食べ物をすべて食べてしまいます。三つの籠は、私達の心の中にあるより高い度の意志部分を意味します。食べ物は、主から流入してくる善です。三つの度のどこかで主から流入する善を受け止め、自分のものとすることができれば、主の善を私達のものとすることができます。鳥は悪からくる偽りです。悪から偽りが、主からやってくる善を、すべて食べて無くしてしまえば、私達に残される善は一つもありません。主からの善がなくなれば、再生されるのは不可能です。悪からくる偽りとは、憎しみや復讐、報復や嫉妬、さらには自己愛や世間愛の楽しさであり、主から流入してくる善を消耗させ、消滅させてしまいます。
主は私達の再生に向かう姿を予見され、意志的なものが、感覚的なものに生きていると、再生は不可能と予見されました。
しかし、もし、私達が感覚的なものを知的に克服して、合理性のもとに従わせることができるならば、
私達の内にある「度」は、正しく上の次元の「度」に相応することが可能になります。
正しい相応があれば、主からの流入を無垢の心で、受け入れることができます。
そうすれば、私達はファラオの誕生日の祝宴に呼び戻され、献酌の職務を全うすることができることになります。ファラオの誕生日の祝宴とは、私達の再生のことです。
そうして献酌官長をその献酌の役に戻したので、彼はその杯をファラオの手に献げた。(40:21)
アーメン
創世記
40:1 これらのことの後、エジプト王の献酌官と料理官が、その主君、エジプト王に対して過ちを犯した。
40:2 ファラオは、この献酌官長と料理官長の二人の廷臣に対して怒り、
40:3 彼らを侍従長の家に拘留した。それは、ヨセフが監禁されているのと同じ監獄であった。
40:4 侍従長がヨセフを彼らの付き人にしたので、ヨセフは彼らの世話をした。彼らは、しばらく拘留されていた。
40:5 さて、監獄に監禁されていた、エジプト王の献酌官と料理官は、二人とも同じ夜にそれぞれ夢を見た。その夢にはそれぞれ意味があった。
40:6 朝、ヨセフが彼らのところに来て、見ると、彼らは顔色がすぐれなかった。
40:7 それで彼は、自分の主人の家に一緒に拘留されている、このファラオの廷臣たちに「なぜ、今日、お二人は顔色がさえないのですか」と尋ねた。
40:8 二人は答えた。「私たちは夢を見たが、それを解き明かす人がいない。」ヨセフは言った。「解き明かしは、神のなさることではありませんか。さあ、私に話してください。」
40:9 献酌官長はヨセフに自分の夢を話した。「夢の中で、私の前に一本のぶどうの木があった。
40:10 そのぶどうの木には三本のつるがあった。それは、芽を出すと、すぐ花が咲き、房が熟してぶどうの実になった。
40:11 私の手にはファラオの杯があったので、私はそのぶどうを摘んで、ファラオの杯の中に搾って入れ、その杯をファラオの手に献げた。」
・・・・
40:16 料理官長は、解き明かしが良かったのを見て、ヨセフに言った。「私の夢の中では、頭の上に枝編みのかごが三つあった。
40:17 一番上のかごには、ファラオのために、ある料理官が作ったあらゆる食べ物が入っていたが、鳥が私の頭の上のかごの中から、それを食べてしまった。」
40:18 ヨセフは答えた。「その解き明かしはこうです。三つのかごとは三日のことです。
40:19 三日のうちに、ファラオはあなたを呼び出し、あなたを木につるし、鳥があなたの肉をついばむでしょう。」
40:20 三日目はファラオの誕生日であった。それで彼は、すべての家臣たちのために祝宴を催し、献酌官長と料理官長を家臣たちの中に呼び戻した。
40:21 そうして献酌官長をその献酌の役に戻したので、彼はその杯をファラオの手に献げた。
40:22 しかし、料理官長のほうは木につるした。ヨセフが彼らに解き明かしたとおりであった。
40:23 ところが、献酌官長はヨセフのことを思い出さないで、忘れてしまった。
ヨハネ福音書
15:1 わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫です。
15:2 わたしの枝で実を結ばないものはすべて、父がそれを取り除き、実を結ぶものはすべて、もっと多く実を結ぶように、刈り込みをなさいます。
15:3 あなたがたは、わたしがあなたがたに話したことばによって、すでにきよいのです。
15:4 わたしにとどまりなさい。わたしもあなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木にとどまっていなければ、自分では実を結ぶことができないのと同じように、あなたがたもわたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。
15:5 わたしはぶどうの木、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人にとどまっているなら、その人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないのです。
10:1 「まことに、まことに、あなたがたに言います。羊たちの囲いに、門から入らず、ほかのところを乗り越えて来る者は、盗人であり強盗です。
10:2 しかし、門から入るのは羊たちの牧者です。
10:8 わたしの前に来た者たちはみな、盗人であり強盗です。羊たちは彼らの言うことを聞きませんでした。
10:9 わたしは門です。だれでも、わたしを通って入るなら救われます。また出たり入ったりして、牧草を見つけます。
10:10 盗人が来るのは、盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするためにほかなりません。わたしが来たのは、羊たちがいのちを得るため、それも豊かに得るためです。
天界の秘義5116. アルカナ訳
「花が咲き」とは、再生に近い状態を指します。「花」は、実りを前にして樹木から咲き出るもので、再生前の状態を意味します。樹木が生長し実を結ぶようになることは、5115節ですでに触れたように、人の再生を表象的にあらわします。第一には、葉が茂る状態であり、第二には、花が咲く状態、すなわち再生間近の状態であり、第三には、再生の状態自身である実を結ぶ状態です。
したがって、「葉」は、理知にかんすること、すなわち信仰の諸真理を指します(885節)。これは生まれ変わり、すなわち再生の当初です。「花」は、英知にかんすること、すなわち信仰の善を意味します。これは生まれ変わり、すなわち再生直前の状態です。「実り」は、〈いのち〉にかんすること、すなわち仁愛の行いを指し、それに続いて再生した状態そのものを構成します。
② 以上は霊界からの流入で、植物界に実在します。ところが万事を神のおかげにしないで、自然のおかげにする人は、これを信じるなど全く不可能です。それにたいし、万事を神のおかげとし、自然のおかげにはしない人は、個々のものが神に由来することを見通すことができます。神由来を認めるだけでなく、個々のものが相応し、相応しているからこそ、表象的にあらわしていることを見通すことができます。
さらにはやがて、全自然宇宙が神のみ国の表象的舞台(ステージ)であることを知ります。その結果、個々の中に神が存在すること、しかも永遠と無限を表象していること、永劫(えいごう)にまで繁殖する点では永遠であり、タネが無限に増殖する点では無限であることを表象します。このような推進力 conatus は、神性のたえざる流入がなかったら、植物界の個々のものに内在するはずはありません。流入が起源になって推進力があり、推進力が起源で活力があり、活力が起源で結果が生まれます。