創37 ヨセフの夢

創37 ヨセフの夢
ヨセフは彼らに言った。「私が見たこの夢について聞いてください。」(創37:6)

ヨセフはヤコブの十二人の息子の内の一人で、妻のラケルによって生まれた十一番目の息子です。
ヨセフは父が年寄りの時の子であったため、息子の内で誰よりも愛されて、「彩りのある服」(KJV,天界の秘義)を着せられていました。父に愛されているのを、兄弟達は「彼を憎み、彼と穏やかに話すことができ」(37:4)ませんでした。

兄弟達に憎まれている状態の中で、あるときヨセフは夢を見て、それを兄達に告げます。
「私の束が立ち上がり、しかもまっすぐに立っているのです。見ると、あなたがたの束が回りに来て、私の束におじぎをしました。」(37:7) 
兄たちは気分を害し、彼を「ますます憎むようにな」ります。

ヨセフはさらに他の夢を見ます。「太陽と月と十一の星が私を伏し拝んでいる」夢です。この話を聞き、兄達はますます気分を害し、妬みます。そして父は叱りますが、心に留めて置きました。

ヨセフの先祖、アブラハムと祖父イサクには「夢を見た」という表現はありません。まわりの人物が夢を見ますが、これら本人たちには、神が天使として直接現れます。彼らは主のきわめて内的な部分、天的な部分と合理性という部分を表しているので、より直接的なやりとりが、できました。しかしヨセフの父ヤコブは、主の自然的なものを表していて、神からの距離が遠くなるため夢という表現が出てきます。

父のヤコブは、天使が天に届く梯子を上り下りする夢を見ます(創28:12)。これは天界の教えによれば、未来の予知、予見とされています(AC3698)。主が、これから何が起きるかをあらかじめ知ったことが夢として語られています。ヤコブの夢は、主が、天界に至る道と、天界から地上界に下りてくる、道と方法を予見されたことを意味します。

ヤコブは主の自然性、その外的な部分を意味します。そして試練によってより内的なものとされたのが、イスラエルです。ヤコブとイスラエルは同じ人物ですが、聖書の表現は、表す事柄によって使い分けられています。おおまかにいえば、主の自然性の、外的なものがヤコブで、内的なものがイスラエルです。

主は、ご自身の自然性を栄化されると同時に、自然的な存在である私たちが再生してゆく道を備えられました。そのために必要な真理が、ヤコブの十二人の息子によって示されています。御言葉では息子は真理を表します。十二は、全てという意味で、十二人の息子の誕生が、私たちが、再び生まれ変わるため必要な真理すべてを表しています。

十二人の息子、すなわち真理の内、六人がレアの息子、そして側女ビルハと、ジルパがそれぞれ二人ずつ息子を産みました。レアは外的真理への情愛を意味します。
もう一人の妻のラケルは内的真理への情愛を表し、その内的真理への情愛から生まれた息子がヨセフとベニヤミンです。

物語風に記された創世記は、アブラハム・イサク・ヤコブあるいはイスラエルと主人公が変わります。
この主人公は、主イエス・キリストの霊的進化を表しています。主の魂に近い天的な段階と、地上の人間と交流するために生まれた合理的な段階、そして自然的な段階です。自然的な段階は、外的な道を通って、私たちをまず知的部分から再生させる、ヤコブの物語が主流となっています。

ヤコブの双子のエサウも、主の自然的な善を意味します。エサウは、内的な道を通って、合理的善に直接来る善を象徴 (AC4641) します。創世記36章は、エサウの家系と歴史を書いたように見えますが、この家系に出てくる名称は、私たちだけではなく、天使の理解も及ばない深いものが隠されていると、天界の教義は示唆します。主のみが善の中に生まれ、その父である魂から神的善を受けられたためです。私たちは何が善か知らず、そして真理を通してしか、善を学べません。私たちは肉体的な善の感覚や、自分に都合の良い善しか知ることができません。
しかし、主の善は、人類全てを救う善です。私たちは主の善によって救われることを念頭に置いて、聖書のヨセフの物語に進みます。

ヨセフは、内的情愛を意味するラケルを母として生まれたヤコブの十一番目の息子です。主の霊的な神的人間を意味します(AC4666)。アブラハム・イサク・ヤコブに続いて、ヨセフは、主イエス・キリストを表象します。

ヨハネが見た、二つの夢は、主ご自身についての宣教、宣言です(AC4682)。主が、ご自身について、何であるか、どういう状態かを教えられます。アブラハムからヨセフに至る人物は、実在の人物で、学者から約紀元前2千年の頃に生きていたと推定されています。そして主イエスの誕生が今から約2千年前ですので、計4千年前から、主イエス・キリストのことが描かれていたことになります。私たちは、4千年前に書かれた聖書と、約2千年前にこの世に来られた主イエスの生涯の内容を、約250年前にスウェデンボリィの書いた天界の教えとして学びます。ヨセフとして表象された主が、私たちに教えたかったこととは、何でしょうか?

ヨセフの見た第一の夢は、ヨセフが畑で束ねた束が、立ち上がり、しかもまっすぐ立ち上がり、兄達が束ねた束が、お辞儀をする(37:7)という、不思議な夢です。天界の教えによれば、畑は教会を意味し,束とは教義からの教えを意味します(AC4686)。
畑から作物が育つと、実のついた穂を刈り取って、まとめて束にします。穀物はせっかく育っても、そのままにしておけば、実が落ちてしまいます。その育った穀物は、実が落ちる前に茎や穂を除き、実を加工しなければなりません。同じ教義であっても、仁愛のない信仰を説く教義は、茎と穂だけの実のない教義です。私たちの口に入れ、身体に役に立てるためには、仁愛という実のある穂を選別しなければなりません。

ヨセフが束ねた、束、すなわちヨハネの教義とは、主ご自身、そして主ご自身の人間が神的であるという教義です(AC4687)。
現代のキリスト教会の大半は、主イエスは、どういう方かは、曖昧にされています。
イエス・キリストではなく、教会が決めた「聖人」を礼拝せよ、あるいはイエス・キリストではなく、父なる神エホバを礼拝せよと、仁愛は関係なく信仰だけによって救われると、もはやキリスト教とはいえないような宗教も蔓延っています。

ヨセフが見た、もう一つの夢は、太陽と月と十一の星が、ヨセフを拝んでいる夢です。太陽と月は、霊界において見える主を表象します。主は、天的天界では太陽として、霊的天界では月として現れます。十一の星は、ヤコブの他の息子達の表す真理のことです。
しかしこの場合、太陽はヤコブを表し、自然的善を意味します、そして月は(ラケルではなく、)母のレアを表し、自然的真理を意味します。星は善と真理の認識です (AC4696)。
すべての教会と、すべての教義は、ヨセフという教義、主は神的人間であるという教義を大原則として解釈せよということを意味します。

ユダヤ教会はモーセに渡された十戒と法であり、キリスト教会はその教会の信条、すなわち信じるべき教義事項が真理とされています(AC4690)。
しかし、その前提として、主を神的人間と認めなければなりません。十戒でも、一枚目の石板に書かれた教え、第一戒の他の神を拝むなかれ、第二戒の主の御名を虚しくするな、第三戒の安息日を聖とせよ、第四の父母を敬えという戒めを忘れては、第二の石板は生きてきません。
新教会の信条でも、先に普遍的な信条が置かれています。そして個別信条の五条の、第一と第二にも主の位置づけが、記されています。

ヨセフが表す信条の第一とは、「主の人間は神的である」ということ、そして第二は「主への愛と隣人への仁愛が教会を作る」ということです(AC4723)。これがすべてを解釈する原則です。
この大原則を忘れるなら、あらゆる努力が無駄になってしまいます。万が一、主がただの普通の人間と同じ存在という意識が残るなら、困ったことになります。何かあれば、別の神を拝み始めてしまうからです。生活や仕事に追われると、主への信頼を忘れ、目先の金銭や自分の地位の安定や昇進を第一に置くようになるかもしれません。戦争が起こり、疫病が蔓延すれば、主の摂理を信じずに、世界の終わりが来そうだから何でも好きなことをやってしまおうと、結局、自分の欲望や恐怖や不安に囚われるようになるかもしれません。

ヨセフの表す信条の第一と第二なしには、他の真理は役に立たなくなります。本当の主を知らなければ、主の神的人間から発する神的真理を受けることができなくなります。主が栄化されての後、主の神的人間から、聖霊という照らしが出て、人はこの照らしを受けて、御言葉の深い理解をしています。
この聖霊の照らしがなくなると、深い真理は理解できません。天界の教えの書を読み進んでも、理解できません。主への愛がないからです。主への愛がなければ、本当の隣人愛が理解できなくなり、隣人愛を行ったとしても、隣人への役立ちではなく、自己満足に終わる可能性が高くなってきます。

口先で告白するだけでは足りません。全地全能の神として主を見上げ、主の愛を私たちが自分の選択として、隣人への役立ちとして行うという姿勢を貫きます。この姿勢さえしっかりしていれば、主は私たちを、不安や怖れからお守りになります。
自分の生命や財産だけを守ってくださいという利己的な思いから離れなくてはなりません。利己的な思いが混ざった祈りは天界に届きません。霊的・天的な姿勢が含まれている祈り、霊的・天的な、隣人愛と主への愛の願いが中心となっていれば、祈りは必ず天に届き、その願いは聞かれます。

完全に利己的要素をなくすことができなくても、素直な心から「跪き、謙遜な心で主を救い主なる神として礼拝します。その際、主の神的本性と人間的本性との間の教義上の区別について何も考えません。聖餐式に同じ思いで参列します。 そうすれば心には、主の神人性が保たれて」ます。主を神的人間と、心から思い、考えれば、神的力から、自分の中にある自己愛と闘うことが可能となります。

しかし、ヨセフの兄達は、嫉妬のあまり、ヨセフの彩りの美しい衣服を剥ぎ取り、穴の中に投げ込みます(37:23.24)。これらの行動の内意は、主は神的人間であるという、真理の外観を剥ぎ取り、ヨセフの表している真理の最も大切な部分を無にしてしまうことです。一部の教会が、このような残虐を行ったことを表しています。しかし私たち新教会は、そうあってはなりません。

新教会の第一の真理は、「主の人間は神的である」です。この第一の真理の基に、断悪修善を行うことで、「主への愛と隣人への仁愛によって教会を作る」ことが二番目の真理です。第二の真理は、第一の真理の原則のもとに生きます。これが前提でなければ、第二の真理は弱くなります。ただの人となってしまった主の命令は聞けなくなり、ただの人を愛することは難しくなります。ただの人から愛をもらい、隣人に役立てることは簡単ではありません。

「主の人間は神的である」ということを心に焼き付け、自分の潜在意識に植え込むには、日々の生活、意識を常に繰り返すことが役に立ちます。機会があるたびに、「跪き、謙遜な心で、主を救い主なる神として礼拝する」習慣を身につけます。

するとヨセフの夢の通り、「太陽と月と十一の星が私(、ヨセフ)を伏し拝」(37:9)みます。
アーメン。


創世記
37:1 さて、ヤコブは父の寄留の地、カナンの地に住んでいた。
37:2 これはヤコブの歴史である。ヨセフは十七歳のとき、兄たちとともに羊の群れを飼っていた。彼はまだ手伝いで、父の妻ビルハの子らやジルパの子らとともにいた。ヨセフは彼らの悪いうわさを彼らの父に告げた。
37:3 イスラエルは、息子たちのだれよりもヨセフを愛していた。ヨセフが年寄り子だったからである。それで彼はヨセフに、あや織りの長服を作ってやっていた。
37:4 ヨセフの兄たちは、父が兄弟たちのだれよりも彼を愛しているのを見て、彼を憎み、穏やかに話すことができなかった。
37:5 さて、ヨセフは夢を見て、それを兄たちに告げた。すると彼らは、ますます彼を憎むようになった。
37:6 ヨセフは彼らに言った。「私が見たこの夢について聞いてください。
37:7 見ると、私たちは畑で束を作っていました。すると突然、私の束が起き上がり、まっすぐに立ちました。そしてなんと、兄さんたちの束が周りに来て、私の束を伏し拝んだのです。」
37:8 兄たちは彼に言った。「おまえが私たちを治める王になるというのか。私たちを支配するというのか。」彼らは、夢や彼のことばのことで、ますます彼を憎むようになった。
37:9 再びヨセフは別の夢を見て、それを兄たちに話した。彼は、「また夢を見ました。見ると、太陽と月と十一の星が私を伏し拝んでいました」と言った。
37:10 ヨセフが父や兄たちに話すと、父は彼を叱って言った。「いったい何なのだ、おまえの見た夢は。私や、おまえの母さん、兄さんたちが、おまえのところに進み出て、地に伏しておまえを拝むというのか。」
37:11 兄たちは彼をねたんだが、父はこのことを心にとどめていた。

マタイ
16:15 イエスは彼らに言われた。「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」
16:16 シモン・ペテロが答えた。「あなたは生ける神の子キリストです。」
16:17 すると、イエスは彼に答えられた。「バルヨナ・シモン、あなたは幸いです。このことをあなたに明らかにしたのは血肉ではなく、天におられるわたしの父です。
16:18 そこで、わたしもあなたに言います。あなたはペテロです。わたしはこの岩の上に、わたしの教会を建てます。よみの門もそれに打ち勝つことはできません。
16:19 わたしはあなたに天の御国の鍵を与えます。あなたが地上でつなぐことは天においてもつながれ、あなたが地上で解くことは天においても解かれます。」

天界の秘義4723
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教会を構成する本質的なものは二つあり、これは教義上の二大要点でもあります。それは主の人間性が神化されていること、もう一つは、主への愛と隣人への仁愛が教会を構成するということです。愛や仁愛から切り離された信仰が教会を構成するのではありません。以上は〈神の真理〉の中心でもあり、「ヨセフ」がまた、それを表象します。・・・
④ 〈神の真理〉は、神性そのものから直接発出するのでなく、主の神人性のみ力で発出するものであることが、以上の簡単な説明だけでも明らかです。信仰のみの教義のために論戦し、信仰の〈いのち〉を生きようとしない人は、自分のもとで、主の神人性を消し去ります。かれらは主の人間性が純粋に人間であって、 他の人間と変わらないと信じ、そのため口先でどのように主を告白しようとも、主の神性を否定する者が多くいます。しかし信仰の〈いのち〉に生きる人は違います。かれらは跪き、謙遜な心で主を救い主なる神として礼拝します。かれらはその際、主の神的本性と人間的本性との間の教義上の区別について何も考えません。聖餐式に同じ思いで参列します。かれらの心には、主の神人性が保たれていることが分かります。

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