主への塗油

「ある女の人が、非常に高価な香油の入った小さな壺を持って、みもとにやって来た。そして、食卓に着いておられたイエスの頭に香油を注いだ。」マタイ26:7

マタイの前章で、主は、人々の前で、最後の喩えを説かれます。賢い花嫁と愚かな花嫁の喩え、タラントの喩え、六つの仁愛の喩えです。賢い乙女の喩えは愛を、忠実なタラントの教えは真理を、そして仁愛の業を象徴し、これらは主の教えのほとんどを網羅しています。しかし、一つ大事なものが抜けているように思います。

これらの教えを説かれた後、主はベタニアに行かれます。ベタニアはエルサレムから約3キロ、オリーブ山の麓にある町で、らい病人のシモンがいました。

すると一人の女性がやってきて、食卓におられた主の頭に、香油を注ぎます。
その瞬間、油のふくよかな香りが周り一帯に広がり、素晴らしい香りがあたりを包みます。
聖書で、油を注ぐとは、ヤコブが石に油を注ぎ(創28:18)、祭司や幕屋にある用具に油が注がれ、サムエルがサウルとダビデに油を注いで王としたように、聖別し、聖なる物、人であることを認める行為です。また「キリスト」の原語は、油を注がれた者を意味します。

油や脂肪分は、一時、健康に悪いというイメージがありましたが、オリーブ油や人の身体で合成できないリノ-ル油が、動脈硬化や血栓を防ぐため、現代では良い油は積極的に取るよう推奨されています。しかし、例えばオリーブオイルを取るには、元の実を痛めないよう手で収穫します。それは、収穫した時から酸化と発酵が始まるため、酸化を防ぐためです。これらは手間がかかる作業で、良い油はコストもかかります。ゲッセマネの園のゲッセマネとは、油絞りを意味しますエキストラ・バージンオイルはさらに手間がかかります。この女性が持ってきた油も、大変高価な油でした。

その香油は石膏のつぼに入った、たいへん高価な香油であったため、この女性の行為は、大きな議論を呼び起こします。
「何のために、こんな無駄なことをするのか。この香油なら高く売れて、貧しい人たちに施しができたのに。」(26:9,10)

主は、悪い行いを遠ざけ、善い行いをせよと教えられています。直前にも「あなたがたは、わたしが空腹であったとき、わたしに食べる物を与え、わたしが渇いていたとき、わたしに飲ませ、」(25:35)と教えられました。貧しい人達に食べさせ、飲ませ、着るものを与える、そのためにはお金が必要です。ただではできません。主に高価な油を注ぐことは、無駄で余計なことではないか?と言われれば、たしかに迷うかもしれません。

礼拝についても、同じような議論が可能です。毎週礼拝をする時間があれば、御言葉を読み、教義を学び、あるいは貧しい人々への炊き出しや、小さな親切運動など、奉仕に努めた方がいいのでは?礼拝に出て、説教を聞くのは、無駄な時間ではないか?また、教義をすべて学んでから、行ったほうが間違いない、あるいは、自分はすべて教義を読みつくしたので、礼拝など必要ないとする方もいらっしゃいます。

しかし油を注がれた主は、おっしゃいます。
「なぜこの人を困らせるのですか。わたしに良いことをしてくれました。貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいます。しかし、わたしはいつも一緒にいるわけではありません。」(26:10.11)

貧しい人とは、霊的には何が真で、何が善であるかを知らない人のことです(AE238他)。必ずしも、物理的に貧しい人のことだけではありません。
さらに「私はいつも一緒にいるわけではありません。」とおっしゃいましたが、マタイの最後の教えは、「見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」(マタイ28:20)です。主は栄化の後は、主は常に私たちと一緒におられます。

主は栄化され、いつもおられるはずですが、何故わたしたちはその存在を感じないのでしょうか?主からの流入を感じたいと願う方もいますが、それは、主からの流入をあまり実感してないからかもしれません。また、自分から主に助けを求めても助けてくれないという経験があるので、主はおられないと口にしてしまうかもしれません。

「わたしがいつも一緒にいるわけではない」とは、私たちの感覚が衰え、鈍くなり、そこに自分だけの都合だけを考えるようになったので、私たちが主の存在を感じなくなったことを語っておられます。事実、感覚のするどい、太古の教会の人々は、主から直接に認識を得ていたそうです。さらに、真実は、主が一瞬でも居られず、生命を与え、守っていただかなければ、私たちはたちまち自分のことだけしか考えないようになり、本当の生命が何かわからなくなります。

「そして貧しい人々はいつも私たちと一緒にいる」とは、私たちには本物の善と真理の知識がないということです。実は私たちには善と真理の知識の最重要部分を忘れています。それは善と真理はすべて主お一人から来ることです。冒頭の三つの教えで、何か大切なものが欠けていると感じたのは、主ご自身の存在でした。

知識としては知ってはいるかもしれませんが、心の底からそう信じていません。自分は、十戒を知っている、聖書の出エジプト記に書いてあるではないか?と言いますが、何故十戒が与えられたのか、それは法律とどう違うのか?どこまで深く守っているのか?何故、神殿の最も聖なる所に聖なるアークが置かれ、その中に十戒が納められたか?これらを心から納得して知らなければ、本物の善と真理の知識が身についたとはいえません。
自分のどこかが納得してないからです。十戒が主ご自身であるということを実感するまで、守り切れていないからです。そして、教えの根本に、主が居られなければ、私たちが善と知識を知らない「貧しい」人自身に他なりません。

油を注いでくれた女性は、行いによって、主が天地の神であり、救い主であることを示してくれました。頭に油を注ぐことによって示しました。油を頭に注ぐとは、栄化の意味を持っています(AE 659:19)。主はもはや私たちのような人間ではなく、主の存在自体のすべてを、聖別しなければならないことを述べています。

「この女が、この香油をわたしのからだに注いだのは、わたしの埋葬の用意をしてくれたのです。」(26:12)なくなった方に油を塗るという習慣は古代からあり、匂いを消すためのものであったかもしれません。しかしヤコブが石柱に油を塗ったように、真理からはじめ、それを神的なものまで高めることも意味します。主は元から神的存在でした。そして神的存在に栄化されます。但し今度は、私たち人間が、同じ道を通れば、再生を通して天的なものにされる、ということを象徴します(AC4882)。女性が主に油を注ぐのは、主の埋葬の準備ではなく、主が私たちをより成長させ、天界的なものまで高めることを意味しています。
そのため主は続いて、おっしゃいます。
「世界中どこでも、この福音が宣べ伝えられるところでは、この人がしたことも、この人の記念として語られます。」(26:13)

この女性の行いは、この女性のための記念ではありません。主が私たちを復活させ、天使とさえすることを記念しています。主の福音が、私たちを再生されるという記念です。洗礼は水で行われ、私たちに知識を与えそれを私たちが行って真理とします。私たちは教会に入る時にその徴として洗礼を受けます。再生されることを忘れてはならないと記念することが洗礼です。

しかし、主はご自身が復活するとともに、私たちが再生して天使となるまで高めようとされています。私たちが再生するなら、私たちも、この主の業は、まさに真実であったと述べ伝え、告白します。主ご自身はまさに紛れもない神で、私たちに新しい生命を与えてくれた、と心から歓んで大きな声で宣言します。洗礼の水の真理ではなく、再生の善の油です。私たちは真理ではなく、愛の善によって再生します。主からの愛の善が私たちの心に根付き、実行し開ければ私たちは再生できません。主からの愛によって善い事を歓んで行わないうちは、再生できません。

こうして、主は三つの天界の喩えに加えて、ご自身の塗油による聖別と栄化で、教えを締めくくられます。

しかし、残念なことに、主の弟子の一人のユダは、主と弟子達の会計を預かり、金銭に心を奪われていました。そしてまた、物事の目先の筋道に囚われ、この女性の行いは、主の貧しい人に施せという、今までの教えと矛盾していると考え、自分の考えを押し通そうとします。主の否定です。
祭司長のところに行って、主を裏切り引き渡すという約束をしてしまいます。
「人の子を裏切るその人はわざわいです。」(26:24)と、神的真理そのものである主を否定して、裏切り、敵である祭司長に銀貨三十枚で売り渡してしまいます。

銀貨三十枚とは、出エジプト記に出てくる、奴隷を傷つけた時に支払われる金額です(出エ21:32)。ユダにとって矛盾していると考えた神的真理は、もはや奴隷と同じ価値しかなくなっていました。ユダは主を、「主」ではなく、このときから先生、(ラビ)としか呼んでいません(26:25,49)。教えの中心である、主ご自身を、ただの人間として考えると、もはや再生はできなくなります。そのため、「そういう人は生まれなかったほうがよかったのです。」(26:24)と言われます。主を人間と考えている間は、私たちは新しい生命を与えられ、再生できません。新しい生命自体を否定しているからです。愛の善の源である主を否定すると、愛の善を主から受け入れることができません。自分の愛、自己愛に向かってゆきます。

しかし、聖書に出てくる女性が主に油を注いだ行いは違います。主を救世主として認め、ただの人間ではないことを表す行為でした。この行為は、ペテロや他の弟子達の信仰とは異なります。ペテロは、信仰をしつこいほど口にし続けますが、主が捕らえられてしまった後は、遠くから主を見て、鶏が三度鳴くまで、主を否定し続けます。ペテロは、鶏が鳴いて、朝がくるまでは、揺らぎつづける信仰を意味します。主が捕らえられた後、四散してちりぢりになって隠れてしまった弟子達もそうです。私たちの信仰も揺らぎ続けているかもしれません。主に油を注いだ行い、主を神として認めた行為は、その後も大切なものとして記念しなければなりません。

なぜなら、本当に善い行いは、主お一人から発しているからです。主を天地の神、救世主、あがない主として心から認めなければ、信仰と仁愛、善行は、すべて無駄になってしまいます。その源を否定するからです。主がすべての教えの中心であり、すべての源であることを私たちはいつも、心に抱かねばなりません。主に油を注ぎ続けなければなりません。主が愛の源であり、私たちは主の愛から善を行うことを知らねばなりません。
私たちは、礼拝に参加して、主の前に身を低くして、賛美することで、主は生命と愛の源であることを確認しつづけます。

「世界中どこでも、この福音が宣べ伝えられるところでは、この人がしたことも、この人の記念として語られます。」(26:13)アーメン。

創世記(新改訳)
28:16 ヤコブは眠りから覚めて、言った。「まことに【主】はこの場所におられる。それなのに、私はそれを知らなかった。」
28:17 彼は恐れて言った。「この場所は、なんと恐れ多いところだろう。ここは神の家にほかならない。ここは天の門だ。」
28:18 翌朝早く、ヤコブは自分が枕にした石を取り、それを立てて石の柱とし、柱の頭に油を注いだ。
28:19 そしてその場所の名をベテルと呼んだ。その町の名は、もともとはルズであった。
28:20 ヤコブは誓願を立てた。「神が私とともにおられて、私が行くこの旅路を守り、食べるパンと着る衣を下さり、
28:21 無事に父の家に帰らせてくださるなら、【主】は私の神となり、
28:22 石の柱として立てたこの石は神の家となります。私は、すべてあなたが私に下さる物の十分の一を必ずあなたに献げます。」

マタイ福音書 新改訳
26:6 さて、イエスがベタニアで、ツァラアトに冒された人シモンの家におられると、
26:7 ある女の人が、非常に高価な香油の入った小さな壺を持って、みもとにやって来た。そして、食卓に着いておられたイエスの頭に香油を注いだ。
26:8 弟子たちはこれを見て、憤慨して言った。「何のために、こんな無駄なことをするのか。
26:9 この香油なら高く売れて、貧しい人たちに施しができたのに。」
26:10 イエスはこれを知って彼らに言われた。「なぜこの人を困らせるのですか。わたしに良いことをしてくれました。
26:11 貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいます。しかし、わたしはいつも一緒にいるわけではありません。
26:12 この人はこの香油をわたしのからだに注いで、わたしを埋葬する備えをしてくれたのです。
26:13 まことに、あなたがたに言います。世界中どこでも、この福音が宣べ伝えられるところでは、この人がしたことも、この人の記念として語られます。」
26:14 そのとき、十二人の一人で、イスカリオテのユダという者が、祭司長たちのところへ行って、
26:15 こう言った。「私に何をくれますか。この私が、彼をあなたがたに引き渡しましょう。」すると、彼らは銀貨三十枚を彼に支払った。
26:16 そのときから、ユダはイエスを引き渡す機会を狙っていた。

天界の秘義4582. アルカナ訳

「その上に油を注いだ」とは、愛に属する〈神の善〉を意味します。「油」が愛に属する神の善を指すためです(882,3728節)。「石柱を建て、その上で灌祭をささげ、その上に油を注いだ」とは、その内的意味では、末端部における真理から出発したプロセスを浮き彫りにします。つまりより内部になる真理と善に向かい、ついには愛の善にいたる過程です。
「石柱」とは、末端的秩序における真理を意味します(4580節)。「灌祭」とは、より内部にある真理と善です(4581節)。「油」は愛に属する善です。このようにして、主の人間性は、神化への進展のプロセスを踏まれました。このようにして、人の場合も、主が再生を通して、天的にしてくださいます。

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