M25 天の御国に関する三つの喩え(最後の喩え)
ですから、あなたがたも用心していなさい。人の子は思いがけない時に来るのです。(マタ24:44)
主がエルサレムに入城され、既存の宗教勢力の偽善を叱責され、今後の預言をされます。荒らす忌まわしいものが聖なる所に立つのを、目を覚まして見張るように警告されます。
マタイ25章では、地上における最後のたとえによって、天の御国の喩えを締めくくられます。
天の御国に関する三つの喩えです。賢明な乙女と愚かな乙女の喩え、タラントの喩え、そして人の子が栄光の位に就いたときに分離される羊と山羊の喩えです。
乙女の教えは、灯(ともしび)とそれをともす油について話されています。
御言葉の油は、愛の善を意味します。そして灯(ともしび)は真理を意味しています。
真理は愛という燃料がなければ灯すことができません。愛によって真理は灯されます。
また、愛を他人に分けると、他人の歓びを奪ってしまいます。霊界では許されないことです。そのため天国と地獄が分断されています。地獄の歓びが天に伝わり、天の歓びが地獄に伝わると、それぞれが大変な苦しみを受けるからです。
「十人の乙女」とは、教会にいるすべての人を指します。花婿と花嫁に喩えられているのは、善と真理が結びつく天界の結婚が意味されているからです。天界の結婚は、善と真理が結びつく時です。
油を持っておらず、あわてて油を求めたり、買いに出て行ったりした乙女は、真理を持っていながら、愛と仁愛の善が無かった者のことを言っています。婚礼の祝宴の時に戸は閉められ、主に「知らない」とまで言われてしまいます。真理を用意したのに、全く愛を用意しなかった者は、まさに愚かと評価されてしまいます。(AC4638)
学ぶことだけに注力して、一生をかけて真理の知識を蓄積し、理解したとしても、愛と仁愛を養わなければ、まったく「愚か」そのものと評価されてしまいます。油である愛と仁愛を集めるための真理であるからです。この世でなければ、愛を養うことができません。この世はそれぞれの愛を育てる場です。
油の準備、愛の準備ができていないなら、戸が閉まる前、審判される前に愛を蓄えます。
なぜなら、心や隣人や、主に対する愛と思いやりは、一朝一夕にしては用意できるものではないからです。油の原料となるオリーブを考えて見ましょう。オリーブの木を種から、木を育て、実を実らせ、実を集めて絞ります。人が不幸な目に遭った時の憐れむ心、人を赦す心、困った人や不幸な人を見て助けたいという心、主と共に働きたいという心、これらを一つ一つ、一粒一粒積み重ね、絞って集めたものが灯を点す油となります。日々これらを実践した結果が油となります。そしてこれは主からいただくものです。売ったり買ったりすることはできません。
主はマタイ24章でされた警告をもう一度なさいます。
だから、目をさましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないからです。(25:13)
十人の乙女が、賢明な乙女と愚かな乙女に分けられる喩えは、愛についての喩えで、この世の人生で最も大切な愛・仁愛を備えておきなさいとの警告です。
次はタラントの喩えです。
主人は「おのおのその能力に応じて」(25:15)しもべ達に財産であるタラントを渡します。渡されたしもべ達は、それぞれの能力を発揮して、財産を殖やしますが、一タラントしか渡されなかったしもべは、殖やさずに、一タラントのまま返します。一タラントを殖やさなかったしもべは、主人は「蒔かない所から刈り取り、散らさない所から集めるひどい方だ」(25:24)と自分の怠慢の言い訳をし、主人の非難さえします。
このタラントとは、主に貨幣について使われる重量を量る単位で、かなり大きな額を取引するときに用いられていました。「ここでのタラントは、御言葉からの真理と善の知識を意味し」、「商売をする、儲ける、銀行に預ける、とは霊的生命や知性によって獲得する」ことを意味し、「地中に隠す」とは「自然的人間の知識のみに」しまいこんでおくことを意味します(AE193-10)。
五タラントと二タラントを預かった僕は、「能力に応じて」その知識を活用して成果をあげました。御言葉から学んだことを人生の場でさっそく行います。
しかし、一タラントを預かり、地中にしまい込んで隠した僕は、御言葉からの真理と善の知識を、生活に適用せず、記憶の中にしまっていました。彼は「悪い怠け者」、「役に立たない僕」と評価され、「外の暗やみに追い出しなさい。そこで泣いて歯ぎしり」します。これは地獄に追いやられることです。財産を隠しただけなのに、そこまでする必要はない?とも思われるかもしれませんが、彼は主人を非難さえしているので、イザヤ書に出てくる「遊女の報酬」と同じく、主に「ささげられ、それはたくわえられず、積み立てられない」(23:18)と、せっかく主が与えられた善と真理の知識を、全く再生の役に立たず、無駄にしてしまうことを意味します。天界には入れません。
タラントの喩えは、真理の知識の活用についての喩えです。
最後に羊と山羊の喩えです。これは「人の子が、その栄光を帯びて、すべての御使いたちを伴って来るとき、人の子はその栄光の位に着」(25:31)いて、すべての国民を選別し、「羊を自分の右に、山羊を左に置きます」(25:33) 。人の子、神的真理の導きに従順で、主の戒め、十戒に従って生きる者は右にされます。正しく生きるのではなく、ただ知識があれば救われると信じる者は左により分けられます。
右にいる者に 「世の初めから、あなたがたのために備えられた御国を継」(25:34)がせ、その左にいる者たちに「悪魔とその使いたちのために用意された永遠の火に入れ」(25:41)と裁きます。
左右の選別は、主の右側にいる者は、右手すなわち主の力によって生きようとする者、左にいる者は自分で生きようと考える者です。神的秩序を正として生きる者と、そうで無い者ですTCR510)。自分の力と考えだけで生きようとする者のことです。
その規準は、具体的には六つの仁愛があるかないかです。
「仁愛とは、内なる情愛で、隣人に善をしたいと心から湧き上がる望みにいるか、自分の生の歓びにいるかが規準で、その望みには、報われるという考えは含まれません(AC8033)。
何らかの報いを念頭に置いて、その欲を燃やして行ってきた者は、左側の山羊に分類され、地獄の自己愛の火の中に入ります。彼らには、自分の欲望を燃やすために行動してきたからです。
しかし、心から隣人に善いことをしたいという気持ちを育み、主から善いことを行った者は右の羊に分類され、天界に入ります。天界と地獄とは、それぞれ、そういう所だからです。
賢い乙女達のように心に愛を蓄え、忠実な僕のように真理を実行に移し、この愛と真理が行為に結びつき、役立ちとなります。天界的結婚の成立です。これが仁愛と仁愛の業です。実行するかどうかで、心の中の愛または欲望は絶えず実現を待っています。せっかくの仁愛も実現しなければ役立ちません。
具体的な仁愛の行いが記されています。
飢えた者に食べ物を与え、渇いた者に飲ませ、旅人に宿を貸し、裸の者を着せ、病気の者を見舞い、牢にいる者を訪ねます。(25:35,36)
この行為を自然的に実行するだけではなく、霊的に行なえば仁愛の行いとなります。
霊的とは、行為の源を主におくことで、自然的とは源を自分の都合や欲望、そして世のならわしと決まりに置くことです。
霊的に飢えた者とは、純粋な想いに導かれて善いことをしたいと願う者です(AC4956)。給料が安くても、心から人のために働くよう納得させたり、一見雑事に見える仕事でも、人に役立ちたいという情愛を伴うようになったりすれば、仁愛の業となります。街角で貧しい人に無償で温かい食事を与えたとしても、内心で名声や善い評価など、なんらかの報いを願ったり、相手をさげすんだりするなら、それは山羊の業です。
真理の情愛に導かれたいと望む者が霊的に渇いた者です(AC4956)。彼らに、真理が書いてあるから読め、と本を渡すだけでは導くことになりません。人にもよりますが、原書に近いような分厚い本を渡され、真理の情愛に満ちて真理に導かれるようになるでしょうか?本屋さんと図書館とネットは、存在するだけで、霊的渇きを潤せる仁愛の業でしょうか?受ける人に応じて役立ちは変わります。
霊的渇きがなくらなければ、役立ちとはいえません。単なる自己満足に終わる、山羊の業です。
教わりたいと望む者が旅人です(同上)。私達が互いに相手の望みを知らなければ、私達はそれぞれ旅人で、赤の他人にしかすぎません。また単に相手の欲しい物を販売する店やサイトを教えることも、自分勝手な欲望の充足の手伝いにしか過ぎないかもしれません。主の望まれていることを教えることが主の望まれている霊的な仁愛の業です。霊界の規則の内容を教え、そこがどんなところか、正しく、詳しく知るようになり、生活を改めれるようになれば、それは羊の業です。
霊的に自分の内には、善と真理が全くないと認める者が裸の者です(同上)。
私達は怒り、不満を溜め、心はいつも揺れ動いています。自分の内には、怒りや、不満、不安で、自分は否定的なものの塊と考える人には、適切な衣、真理を着せます。
着せる真理とは、赦しや、満足や、安定、自己肯定感です。主がいかに私達を赦されているかを教え、同じように自分も他人も赦すよう薦め、物質的にはもうすでに満ち足りていることを教え、心を安定させ、自己肯定感という着物を着せます。教えるには根気が必要です。
霊的に病んだ人とは、自分には悪しかないと認める人です(同上)。単なる精神病だけではありません。他人への軽蔑、憎悪、常に世間や自分に怒り続け、自己を中心に考え、赦しを拒み、主に導かれることを拒みます。
そんな人は、自分の内側は悪で満ちていると認め、助けを求めています。しかし、十戒のそれぞれを学び守る努力をすることが、癒しのはじめです。そこから時間をかけて、悪を一つ一つ拒めば、主が愛を注ぎこみ、霊的な病から癒やされます。霊的な病の治療法は、悪を断つ、断悪を行うことです。
霊的な囚人とは、自分の中には偽りしかないと認める人のことです(同上)。
イスラエルの民がエジプトに囚われたように、私達は偽りの世界に閉じ込められ抜け出せなくなります。そこは真っ暗な監獄で、希望の光はまったくありません。
様々な監獄があります。自分の理想が高すぎて、その理想がまったく適わないと監獄の囚人になってしまいます。プライドが高すぎても同じです。絶望とプライドは死のコンビです。身近な人にもこんな牢獄の囚人になっている人はいます。
そして鬱病などの精神病も、霊的な囚れとなる可能性があります。しかし、精神科に見て貰え、と冷たく言うだけでは、たとえそれが正しくても、相手は軽蔑されているとしか考えない場合があります。相手の状態を見極め、必ず主の力を借りて温かく助言することが、羊か山羊の見極めになります。
以上が羊と山羊を区別する、六種類の仁愛の業の概要です。
天の御国の喩えとは、天界的結婚の実現です。
主の変容(17章)を見た、ペテロとヤコブとヨハネが象徴した、信仰と仁愛と仁愛の業が揃って、天界的結婚である善と真理の結婚で可能となります。
賢い乙女の喩えは愛を(ヤコブ)、忠実なタラントの教えは真理を(ペテロ)、そして羊の教えは仁愛の業(ヨハネ)を象徴します。主が変貌してお見せになった天界を、改めてここでお説きになられます。私達が主の教えに従って、天界的結婚を実行することができれば、私達は三人の弟子達が目撃した、主の栄光を実際に目にすることができます。
「人の子は、その栄光を帯びてすべての御使いたちを伴って来るとき、その栄光の座に着きます。」(25:31)アーメン。
イザヤ (新改訳)
23:18. その儲け、遊女の報酬は、【主】にささげられ、それはたくわえられず、積み立てられない。その儲けは、【主】の前に住む者たちが、飽きるほど食べ、上等の着物を着るためのものとなるからだ。
「古代のものを覆う」ものとなる。(AC6917:3, AE61:11)
マタイ (新改訳)
25:1 そこで、天の御国は、それぞれともしびを持って花婿を迎えに出る、十人の娘にたとえることができます。
25:2 そのうちの五人は愚かで、五人は賢かった。
25:3 愚かな娘たちは、ともしびは持っていたが、油を持って来ていなかった。
25:4 賢い娘たちは自分のともしびと一緒に、入れ物に油を入れて持っていた。
25:5 花婿が来るのが遅くなったので、娘たちはみな眠くなり寝入ってしまった。
・・・
25:10 そこで娘たちが買いに行くと、その間に花婿が来た。用意ができていた娘たちは彼と一緒に婚礼の祝宴に入り、戸が閉じられた。
25:11 その後で残りの娘たちも来て、『ご主人様、ご主人様、開けてください』と言った。
25:12 しかし、主人は答えた。『まことに、あなたがたに言います。私はあなたがたを知りません。』
25:13 ですから、目を覚ましていなさい。その日、その時をあなたがたは知らないのですから。
25:14 天の御国は、旅に出るにあたり、自分のしもべたちを呼んで財産を預ける人のようです。
25:15 彼はそれぞれその能力に応じて、一人には五タラント、一人には二タラント、もう一人には一タラントを渡して旅に出かけた。するとすぐに、
25:16 五タラント預かった者は出て行って、それで商売をし、ほかに五タラントをもうけた。
25:17 同じように、二タラント預かった者もほかに二タラントをもうけた。
25:18 一方、一タラント預かった者は出て行って地面に穴を掘り、主人の金を隠した。
・・・・
25:28 だから、そのタラントを彼から取り上げて、十タラント持っている者に与えよ。
25:29 だれでも持っている者は与えられてもっと豊かになり、持っていない者は持っている物までも取り上げられるのだ。
25:30 この役に立たないしもべは外の暗闇に追い出せ。そこで泣いて歯ぎしりするのだ。』
25:31 人の子は、その栄光を帯びてすべての御使いたちを伴って来るとき、その栄光の座に着きます。
25:32 そして、すべての国の人々が御前に集められます。人の子は、羊飼いが羊をやぎからより分けるように彼らをより分け、
25:33 羊を自分の右に、やぎを左に置きます。
25:34 それから王は右にいる者たちに言います。『さあ、わたしの父に祝福された人たち。世界の基が据えられたときから、あなたがたのために備えられていた御国を受け継ぎなさい。
25:35 あなたがたはわたしが空腹であったときに食べ物を与え、渇いていたときに飲ませ、旅人であったときに宿を貸し、
25:36 わたしが裸のときに服を着せ、病気をしたときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからです。』
・・・
25:45 すると、王は彼らに答えます。『まことに、おまえたちに言う。おまえたちがこの最も小さい者たちの一人にしなかったのは、わたしにしなかったのだ。』
25:46 こうして、この者たちは永遠の刑罰に入り、正しい人たちは永遠のいのちに入るのです。」
天界の秘義(アルカナ訳)
- 「天界のみ国は、十人の乙女たちに似ている」とは、古い教会の終末であり、新しい教会の始まりを意味します。教会とは、地上における主のみ国です。「十人の乙女」とは、善と真理のうちにいる人、および悪と偽りの中にいる人を含め、教会にいるすべての人を指します。「十」とは、内的意味では残果 reliquiae です。また十全であり、全体です。「乙女」とは、教会の中にいる人々です。それは〈みことば〉の他の箇所にもある通りです。
② 「自分の灯火を手にして」とは、天的なものを含む霊的なもの、諸善を含む諸真理、換言すれば、隣人への仁愛を含む信仰であり、主への愛を含む仁愛です。「油」は愛の善を指し、それについては、後述します。「油のない灯火」とは、善を含んでいない諸真理のことです。
③ 「花婿を迎えに行く」とは、それらを受け入れることです。「その中の五人は賢く、五人は愚かであった」とは、一部は、善を含む諸真理のうちにいる人々であり、一部は、善を含まない諸真理のうちにいる人々を指します。前者は「賢い者たち」であり、後者は「愚かな者たち」です。「五」の内的意味は、何人かという意味で、ここでは、かれらの一部という意味です。
「愚かな者たちは、灯火を持っていたが、油を持っていかなかった」とは、自分の諸真理の中に仁愛の善をもっていなかったという意味です。「油」とは、その内的意味では、仁愛と愛の善を指します。「賢い者たちは、自分の灯火といっしょに、容器の中に油を持っていった」とは、自分の諸真理の中に、仁愛と愛の善をもっていたことを指します。「容器」とは、信仰の教義事項を指します。