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ジェネラルチャーチ General Church of the New Jerusalem

歴史、教義と習慣、そのあらまし  ピーター・バス司教 2003年



 これは、あくまで一般的な記述であり、すべてを網羅しているものではありません。他の方が書けば、また別のものができるでしょう。まず本質的なものをあげ、そしてジェネラルチャーチと、その夢と希望、ならびに習慣をいくつか描ければ、と思っています。

Ⅰ 小史

 ニューチャーチは英国と米国で、ほぼ同時期にスタートしました。英国ではジェネラルコンファランス・オブ・ニューチャーチ、米国ではジェネラル・コンヴェンションです。ある時期には、英国のマンチェスターに、七つの教会がありました。この二つの組織には一時期、約七千人がいましたが、両方ともやや縮小して、今日では約二千人となっています。

 ジェネラルチャーチは、ある教職者たちが、著作(Swedenborgの神学著作)は主のみことばにちがいない、と確信した時からスタートしました。主が新約・旧約の聖書を啓示されたように、主は著作も啓示された、と信じたのです。それゆえ、著作はスウェーデンボリの作ではなく、主の御業です。そこから米国における「アカデミー運動」の進展し、1876年にペンシルヴァニア、ブリン・アシンにおいてニューチャーチ・アカデミーが創立されました。そののち、1891年にジェネラル・コンヴェンションと分離した教会が形成されます。

 不幸なことに、最初の司教である、ウイリアム・ヘンリー・ベナードは、おそらくは高齢のためか、独裁的な司教になってしまいました。1897年には、全教会は彼を去り、W.F. ペンデルトン司教を最初の司教として、「ジェネラルチャーチ・オブ・ニューエルサレム」を創ります。そののち会員数はゆるやかですが、確実に伸びてゆきました。会員になるには、20歳となり、洗礼によってニューチャーチに導き入れられなければなりません。今日では4,760名の成人会員がおり、子供と支持者を合わせると14,905名となります。会員数は、ある4年を除き、その歴史のすべてを通じて毎年のびてきました。

 ジェネラルチャーチは世界30ケ国に会員がいます。最も会員が多いのは米国で、会員の70%以上と多数を占めています。次に、南アフリカとカナダが続きます。(両者ともに約10%) そのため他の地域の会員は、多くはありませんが、この15年でガーナでの伸長は特筆に値します。(1986年において、ガーナには会員が一人でしたが、今では284名で、これに子供たちが加わります。ガーナには学校が二つあり、それぞれ200名の生徒がいます。)ブリン・アシンは最大の集会であり、毎日曜には800名から900名の方が礼拝に参加しています。

 ジェネラルチャーチはそのはじめから、子弟の教育に力を注いできました。米とカナダには小学校が8校、南アに1校、ガーナに2校があります。ブリン・アシンのニューチャーチ・アカデミーには、生徒数は265名のセコンダリー・スクール(中学・高校をあわせたもの)、生徒数140名の大学、生徒数8~10名の神学校があります。
 さらに、教育局を設け、学校を支援するだけではなく、集会や日曜学校、各家庭への教材等の提供をも行っています。子供向けの本や課題は、他国語にも翻訳されており、スウェーデン語やオランダ語、ズール語、ポルトガル語といった具合です。

 この数十年の間、ジェネラルチャーチは、著作の学習に興味をいだく人々を見出そうとして、さらに手を伸ばしています。この仕事を行うため、伝道局(Office of Evangelization)を設置しています。その企ては多岐にわたっています。教会に関する本やパンフレットを、チェコ語やロシア語等へ翻訳する支援をしています。著作や行っている事業を人々に紹介するために、ウェブサイトを開設しています。(www.Newchurch.org)そこから新教会に関する情報を提供し、礼拝場所の紹介や、教義に関する一般的質問への回答も載せています。

 この十年から二十年の伝道活動では、数々の集会の育成に力を注ぎました。アリゾナ州のトゥーソンやコロラド州のボールダーは、20名そこそこが出席する小さいグループでしたが、いまや100名を超える集会となりました。そのほかの集会の周辺にも働きかける努力をしています。さらに、ガーナやケニアなどにある教会の成長を支える活動をも行っています。

 この活動の結果は、ジェネラルチャーチの成人会員の大幅な増加として、目にすることができます。


Ⅱ ジェネラルチャーチの教義

1.組織

 まず最初に、ジェネラルチャーチ・オヴ・ニューエルサレムは、いわゆる「ニューチャーチ」自体ではないことを申し上げておきます。「ニューチャーチ」とは、霊的な集まりであり、それは主の新教会の教えを受け入れ、その教えに従って生きる者すべてによって成ります。誰がそこにいるかは、主のみがご存知です。ジェネラルチャ-チは人の組織です。主を礼拝し、その〈みことば〉を教え、人が教えに従って生きることを支えることで、「ニューチャーチ」に仕えようとするのが、ジェネラルチャーチです。心と〈いのち〉の底から主に従い、地上の真のニューチャーチの部分となれるよう、私たちのそれぞれが望んでいます。

2.主は目に見える神です

 主イエス・キリストを天地の唯一の神として崇めます。父・子・聖霊の三一性が主イエス・キリストの内にあります。「父」とは主の愛であり、「子」とは主の真理であり、「聖霊」とは人を救い、天にあげようとして主から発している愛と真理です。主は地上におこしになりましたが、そのとき何を行われ、主はどなたであり、私たちに何を望まれているかが著作の中で語られています。そのため私たちは、心の眼で主を見たもうことができます。
私たちはこの方を「主」とお呼びします。

3.主のみことば

 著作と新旧約の聖書は、神のみことばであると信じています。そのそれぞれは、その著者である人間を通して与えられました。主がその人間を導き、書き記させました。旧約聖書の著者たちは、天使たちが天から語ったことを、そのまま書き記しました。新約聖書の著者たちは、ある程度自身の判断を入れはしましたが、なお主の導きのままでした。スウェーデンボリは、ある高い精神レベルに至るよう導かれました。彼は自分の著作のため、計画を練り、懸命に自分で取り組みました。しかし彼が「主からきているものが書き記されています。天使からきているものは、記されてされていません」(『黙示録解説』1183)と言っているように、著作には主の導きがありました。

 私たちは著作から好き勝手に取捨選択をしているわけではありません。それを主の御業を信じ、ある時には理解できないものであっても、それはなお真であるとしています。

4.仁愛の生活

 単に教会に属することや、教会の教えることを信じることでは、天界にたどり着けません。誰しも同じ道を通ります。それは仁愛の生活です。地上では主の母であったマリア、弟子たち、モーセ、スウェーデンボリ、皆同じ道を歩みました。

仁愛の生活の第一は、悪を主への罪として避けることです。なぜなら、そうしなければ、私たちは利己的に行動してしまうからです。人は、すべてを自分のために利用します。しかし悪を罪として避ければ、主は善行へと導かれ、その善行に真の愛を吹き込まれます。

5.自由

 新教会では、自由に関して、とても特殊な教えをしています。著作は、自由にも様々な種類があることを述べています。好きなところに住む自由、特定の政党に投票する自由、言論の自由等です。しかしこれら全てに勝る自由があります。主がすべての人の内で、この自由を守られています。それは、自分の信じようとするものを信じ、愛そうとするものを愛する自由です。すなわち霊的な事に関する選択の自由です。これなしでは、人は決して幸福にはなれません。

 主は、人に真理を理解する力をお与えになりました。そして、善いものを愛する力をお与えになりました。しかし主は、これらの力を、あたかも自分のもののように感じることをお許しになっています。そのため、人は主の愛を選択することも、拒むことも自由にできます。それを選択すれば、選択することで喜びをみいだします。すなわちそれが天界の喜びなのです。

 そのため、信仰もまた自由であらねばなりません。私たちは、人々が自ら真理を理解する必要があることを大事にします。信仰を受け入れるよう無理強いしてはなりません。そのため、ジェネラルチャーチでは20歳になるまで会員となることはできません。20歳になったものは自分で選択を行い、両親や他からよけいな働きかけを感じないようにと、望んでいます。

6.みことばが私たちを律する法です

 ジェネラルチャーチは成文の律法をもちません。みことば自体、なかでも著作が私たちの律法であり、それは合理的な心に語りかけてくれます。多くの教会では、信条を書き出し、それを受け入れるようにさせます。ジェネラルチャーチでは成文の律法をもたず、教義の正式なステートメントもありません。人々がみことば自体に接し、みことばから何が真であるかを決めてほしいと望んでいます。

 「ジェネラルチャーチの規律と組織」というステートメントがあります。しかしその最初に、これは今の時点における習慣の表明にしかすぎない、と述べています。

 私たちは未来を縛るような規則は作りません。それぞれの世代の教会が、その時のみことばの理解に応じて、主に導かれるようにしています。

7.「教会の教義」

 私たちは教義をかかげて人を縛りません。しかし、ジェネラルチャーチも、現在においての見方や、そして主張として、ある一般的な原則をもつ必要があります。次に示すのは、その原則を短くあらわした項目です。

(1) 著作と新・旧約聖書は、主のみことばです。
(2) 可能であるならば、自分の子弟を新教会の学校で育てるべきです。
(3) 政府の監督に服します。
(4) 聖職者は教会を統治します。
(5) 聖職者は男性によって構成されます。
(6) 離婚は姦淫と、姦淫に準じた他の二つの場合にのみ許されます。
(7) 他の宗教に敬意を払い、新教会の信条を押しつけようとしてはなりません。

 その他にもあります。これらの一般原則は私たちの組織体制の部分を構成しています。何年かのうちに、これと違った解釈をするようになるかもしれませんが、今現在では著作に明らかに教えられているとみています。私たちは、個人的にこれらの教えに納得がいかなくても、議論や論争を引き起こして教会を混乱させてはならないと戒めています。

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Ⅲ 私たちの習慣について

 習慣をすべて述べるのは簡単ではありません。地域によって異なる習慣の教会もあります。仮の試みとして述べてみます。

1.あらゆる面から主を尊ぶべきです

 主の御名には特別敬意を払い、敬虔な事以外には決して用いてはなりません。みことばが開かれると、私たちは起立します。みことばを開くということは、私たちの、ただ中に主がおられることをあらわします。祈るときには、たいてい跪きます。

2.礼拝は敬虔でなければなりません

 敬虔さをもって主を礼拝し、主を礼拝しているときは、いつも主が臨在されていることを忘れません。敬虔が何を意味するかは、集会によって異なりますが、その原則は重要です。

 礼拝において、私たちはみことばを礼拝の中心にします。なぜなら、主はみことばを通して私たちに語りかけられるからです。

3.祈り

 私たちは、霊的な事柄に関して祈り、世の富や成功のために祈りません。人は不幸であるときには、えてして自然的な事柄を主に祈ります。友の癒しを求めたり、経済的な苦境にいる者の仕事を救うよう求めて祈ります。しかし主は、私たちが必要なものをご存じであると信じており、あえて私たちが思い起こさせることではありません。そのため私たちは霊的な事柄を祈ります。それは困難に立ち向かうための強さや、主のみこころがなされることを認める強さ、これらを求めて祈ります。主は、私たちができることよりも遙かに、その人のことを気にかけていらっしゃいます。人のために祈ることもできますが、そのときには、主のみがその人たちにとって、何が本当に善いのかをご存じであることを心すべきです。

4.結婚は神聖です

著作は結婚は神聖であると教えており、結婚についての多くの習慣を持っています。

A. 結婚について冗談を言ったり、姦淫について軽く考えたりしてもいいとは認めません。
B. 若い男女が、異性を尊重し、異なりはするが平等である、との理解を育成すべきです。
C. 結婚の前に、「婚約式」、あるいは霊的な儀式があり、二人は霊の結婚を求めて誓います。それは二人が結婚を約束して、時をおかず行われます。
D. 結婚は永遠の結びつきであると語られます。私たちは、「死に至るまで」とは契りません。
E. 結婚式は当人たちと主との関係を強調する習慣となっています。

5.みことばは神聖です

 みことばの神聖さを信じていますので、「本」自体を、敬意をもってあつかいます。みことばにある話を使って、冗談を言ったりしません。

6.葬儀と永遠のいのち

 いのちは永遠であると信じ、葬儀もこれを念頭において執り行われます。まず、私たちは葬儀を「復活式」と呼びます。人が霊界で目覚めることに注目するからです。愛する人の死を悲しみますが、次の世界でのいのちのことや、式に至るまで、いかにして天界の幸福へと導かれてきたかを多く語ります。

7.自由

 著作は自由の重要さを教えており、習慣においても、この教えに敬意を払おうとしています。例えば、自由に判断できるように、成人になるまで教会への加入を勧めません。教会への献金額を公にしません。主に対する感謝の贈り物として、自由に献金してもらうためです。

8.摂理

 不慮の災難が起これば、主ご自身はその災難を望まれなかったはずだし、計画もされていないと考えるよう努めます。災難によって主がもたらされる善いものがあるはずだ、と努めて考えます。それは決して災難を悲しまないということではありません。そうするべきです。主もその方々を哀れみ、たちまちお救いになることを示そうとします。

9.救いは全ての方に可能です

 新教会では、高い存在がいますことを信じ、その方が望んでいることを行おうと努めるなら、人はすべて救われることが出来ると教えます。そのため、人に私たちの教会に加わるよう押しつけません。自ら抱く信仰によって、天界に行くことができる、と私たちは知っています。しかし私たちはその方たちに、新教会は主が真理を完全な状態でお示しになっていると申し上げます。新教会はこの世で最後のそして最高の宗教であり、天界と地上をつなぐものであると信じています。

 すべての方が救われることができる、との教えによって、私たちと異なった考えを持つ方の善いところに敬意を払えるようになれると思っています。

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A Vision for the New Church(新教会のビジョン)

Rt. Rev. Thomas L. Kline (トーマス・クライン司教)

昨年、私は世界中を旅する機会にめぐまれ、ジェネラルチャーチの様々な部分を多く訪問し、観察することができました。私たちのような小さな組織がいろいろな形での新教会の役立ちを知ることができた素晴らしい旅でした。

この旅を通じて、私は「我々はどこに向かい、どうしたらより良く仕えることができるだろうか?」という課題をいつも考え続けていました。確かに、私たちの主要な課題はいつも、礼拝し、教え、教育し、啓蒙することにあります。しかし、この理想型をどうすれば、教会組織の活動に移すことができるでしょうか?私たちの教会の役立ちに向けて計画を練りつつ、五つの領域に焦点を絞りました。この五つは、深い考察と、聖職者会議の討議を経て選んだもので、皆さんに参考としていただきたく、さらにご意見をいただきたく、ここにご紹介いたします。

No.1 「個人のための段階的吸収プログラム。(教えを一つ一つ理解し、自分のものとしてゆくためのプログラム) 地理的に離れている人、小さなグループ、既存の集会、求める人、問い合わせてくる人、探求する人、既に教会につながり、教会から認められている人たちも含みます。」

段階を別の言葉で言えば、プロセスともいいます。プロセスは、著作の中心的な概念の一つです。

例) 再生、霊的な新生についてのプロセス。人の再生は、日々進み、いのちを持ち始めます。

例) プロセスの別の例に、主の栄化があります。福音書は、主がいかに神性を得られ、ご自身の人間性に結びつけてゆくかをあらわした話であり、それは主の生涯を通して起こっています。

例)人が死をむかえ、天界にいたる間に通る三つの段階があります。外部の状態、教育、そして天界の家の発見。

私は、以下に述べるものが私たちの教会組織にとって、主要な課題であると思っています。:はっきりと定義づけ、迎え入れ、段階的に道を備え、継続して、教育・参加・奉仕に導きます。これは、大きなソサェティには難しく、地理的に離れていることも、大きな弱点となると考えています。 

例) 地理的に離れている人が、著作を見つけ、受け入れます。我々が彼に提供できる明確な次のステップは何でしょうか?歩むべき道の過程の内に、明確に位置づけられた第一歩でしょうか?

例) 教会に来て、教えを受け、教会の教義を学んだ人に、何を提供することができるのでしょうか?教会の会員として全きものとなるのに必要な次のステップは何でしょうか?私たちが彼に仕える方法はあるのでしょうか?

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No2: 組織の霊的・自然的成長のため、展望を与える。

   次の質問で始めたいと思います;我々の教会組織にとって、「成長」は目的であると高らかに述べてもよいのでしょうか?

私たちの綱領は「ジェネラル・チャーチの使命は、まず、新・旧約両聖書とエマヌエル・スウェーデンボリィの著作は神のみことばであると認め、次に、そのみことばに従う愛をつちかうことで、主に協力して、すべての人々のこころと知性、そしていのちの内に新教会を建設する。」としています。

それなら、数の拡大はどうでしょう?主は、新教会を奉じる人の数に、ご関心があるのでしょうか?

著作を読んでみましょう。

「天界は、その数が増えてゆくほど、完全になってゆきます。これは天界の形から明らかです。その形は、そこにあるつながりの配置と、相互のつながりによって決定され、そこには最高度の完全性があります。そこにいる人々の配置が完全になるほど、一つの目的に導かれる人が増え、つながりは固く、一致は強くなってゆきます。数が増えれば、一致と、連携の合成力は増大してゆきます。なぜなら人は二個あるいは、それ以上のものの間を結合する媒介として挿入され、その挿入により、結合は強化されてゆくからです」。(「最後の審判12」)

この章をジェネラルチャーチの役立ちに適用するには、どうすればよいでしょうか?新教会を奉じる人が増えれば、私たちの役立ちは完全なものとなるのでしょうか?逆に数が減れば、役立ちが損なわれるのでしょうか?新教会を知り、愛する人の数が増えたとき、どうすれば主とともに働くことができるでしょうか?

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No3: 力の同調・結集

ジェネラルチャーチの各部門・組織は、どのようにすればその力を同調させ、働くことができるのでしょうか?世界にあるジェネラルチャーチのどのセンターを訪問しても、アカデミー・カレッヂに関するすばらしい情報を得ることができたり、自分が住んでいる地域での活動(異なる地域から来た場合)や、場所を問わずに役立つ教会のプログラム、家族や子供の学習の機会や、礼拝・奉仕の機会を知ることができれば、どうでしょうか。主とその教会に仕えながら、共に働く方法を学びましょう。

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No4: 期待と基準

ジェネラルチャーチの会員、地方のソサェティ、グループ、新教会スクールに通う子供の両親・・等へ要望すべきことは何でしょうか?

幼児の洗礼式で、司祭は次のように読み上げます。「それゆえ、この業において、あなたがたの役割を行えるような光と知識を求めて下さい。子供を導き、主イエス・キリストをその神、そして父と認めることができるように導いてください。子に主の祈りを教え、子が主を礼拝するようにしてください。子に十戒を教え、罪を悪として避けることを学ばせてください。聖典と新しいエルサレムの天界の教義を教え、子を再生に備えさせてください。そうすることで、あなたは、子供のこの世での幸福と、来世での永遠の幸福を手伝ってください。そして主が、あなたと共にあり、平安に導かれますように」。

教会にいる子供のすべての親に、同じ言葉を述べることができるでしょうか?教会で子供たちを育てることができるよう、両親を助けることができるでしょうか?

各集会に対する要望についてはどうでしょうか?ジェネラルチャーチのソサェティは、外部伝道のためのプログラムや、新入会員用プログラム、良いきざしの判別(a good sign)、五カ年計画、運営可能な財政モデル等々を備えるべきでしょうか?

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No5: 難局にあるソサェティに対し、仕え、助力を提案する。

本部はどうソサェティに仕えるべきでしょうか?難問を抱えるソサェティをどのように助ければいいでしょうか?

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終わりにあたり、地上の主の教会に仕えることで、主の再臨のうちに、主お一人を見上げましょう。そして新教会が天から降りて、地上に確固として立ち、世界中に真の平安と天界の歓びが広がるように祈りましょう。


新教会の新しい側面 What is New about the New Church

新教会は、新しいキリスト教です。新教会著作の啓示を通して、主はご自身、天界、死後の生活、結婚、世界の未来、生きた信仰、聖書の生きた姿をお見せ下さいました。

新教会の著作は、聖書を神のみことばではないとするのではなく、聖書にたちもどり、聖典を生きた姿として見るために与えられました。これが「聖書の内意」と呼ばれるものです。

これはどういうことでしょう?聖書の中の話は、それぞれ、人の日常生活や信仰の成長、主への信頼に資する、より深い意味をもっています。事実、これは聖書の物語のすべて、言葉の一語一語についてあてはまります。内意は、聖書を読むとき、あたかも天界からさす光のようなものです。この光なしには、聖書は、昔の教会の歴史を書いた、なんの変哲もない書物でしかありません。しかし内意の中でみれば、聖書は無限の真理、主お一人からくる真理をもった書物となります。

例えば、聖書は創造の七日間の話から始まります。物質的な宇宙を主がどのように創造したかを知るのは大切なことでしょう。しかしこの話は、ただそれだけはありません。もっと多くの真理が含まれています。著作の観点からこれをみれば、創造の七日間が、人のこころと知性を創造する話としてみることができます。主が信仰をどのように創造されるかの話です!そしてこの内なる話が、本当の創造の奇跡です。

第一日:「光よ。あれ。」:これは、真理の光をみたとき、イエス・キリストを贖い主、救い主として受け入れたときの、霊的に誕生を迎える段階です。

しかし、話はこれで終わりません。主は上にある水を、下にある水から分かたれました。これらの水とは、主への信仰と信頼の生きた真理のことです。高くにある水は、人の良心であり、低い水は人が知り、見ている真理です。

第三日:生きたものが創造されます。信仰は生きはじめます。もはやそれはただの信条の固まりではなく、人が行い生きてゆくためのいのちの信条であり、奉仕の生活であり、隣人への愛です。

第四日:太陽と月が創造されます。人が太陽の熱で象徴される愛に心をむけはじめる大切な日です。主の愛が人のいのちに流れ落ち、すべてをいのちに変えます。

第六日:主は人類を主の像に創造されます。人は神の像に、より近づきます。人はより親切に、そして優しく、思いやりをもち、仕え、愛するようになります。

第七日は平安の日です。主がどのようにして人に平安を与えられるかを美しく描かれています。

以上のように、創造の物語は、単なる物質的な創造だけではありません。それは神のみことばであるため、無限の真理を含んでいます。また、人と主の関係の話であり、主が人をどのようにして段階的にご自身の像とされるか、という話です。

聖書を内意からみたときあらわれる新教会の見事な教えをいくつか並べてみます。

1. 主は人々がすべて天界に来られるよう望んでおられます。実際、主は決して誰も地獄におとされません!主はあなたを天界に向かうために創造されました。そう、地獄と呼ばれる場所はあります。しかし、それは、天界の歓びよりも地獄を選び、地獄に向かった人のことです。地獄は責め苦の地でしょうか?そうです、そこは怒りと、嫌悪と、復讐に満ちています。時として人は、天界の歓びよりも、怒りや嫌悪、復讐などを選びます。

2. 天界とは現実の場所です。霊的な場所です。そして霊的なものは、物質的ものよりも現実性を持っています。 私たちは天界で永遠に生きます。そして地上の生活は、天界の真の生活の備えにしかすぎません。天界(そして地上)での最大の歓びは、他人に仕える歓びです。これ、すなわち仕えることが、天使たちの永遠の行いです。そして主は、私たちすべてに天界の天使になってほしいと望まれています。

3. 人が死ねば、たちまち霊界で目覚め、自分が永遠に暮らしたい場所を探す旅が始まります。

4. 主は地球を滅ぼそうとは計画されません。この地上に主の教会を育み、平安をもたらすことで、地を栄えさせることが、主のみこころです。そう、たしかに、今日世界で様々な問題が起こっています。聖書では、これを巨大な竜の話で語ります。しかし善いことも起こり、主とその天使たちの力について書かれています。そして主は、善が勝利することを予見されています。

5. どんな信仰・信条を持ち、どんな教会にいても、人はすべて天界にゆきます。自分のもつ真理に従って、人が善い生活を送るなら、どんな宗教を持っていようとも、天界にゆくことができます。たとえこの世で主イエス・キリストのことを学ばなかったとしても、来世でこれを教わります。

6. 質問があれば、どんな質問でもお聞き下さい。