序:なぜ健全な人間関係が必要か?

 

人間関係霊性

 

霊性 spirituality とはなんでしょうか?

 世を捨て、閑居・山に移り住み、内面の平安と瞑想による悟りを求めることでしょうか?

 イエスの血の代償を信じることでしょうか?

 聖書や霊的書物を探求することでしょうか?

世界のあらゆる悟り・信仰・知識は、人との愛情あふれる関係がなければ無意味です。

たとい私が山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、愛がないなら、何の値うちもありません。」 (コリント1 13:2).

イエスは、聖書のすべては、主を愛することと、隣人を愛する、この2点であることを教えます。(マタイ22: 32-40)

主は、この二つの愛が永遠の命を与えることを教え、道ばたに傷ついて倒れた人を助けたよきサマリア人の話を例えにひかれます。イエスは、サマリア人のようによき隣人であれと説かれます (ルカ 10:25-37)

 

主は愛にあふれた生活を送るよう、私達それぞれに求めておられます。

主は、例え難しくはあっても、まわりにいる人々に仕えるよう教えられます。

このプログラムは、主の教えの通り、同僚・血縁・両親・子ども・夫婦の間のすべてにおいて、健全で、意義ある関係が構築するよう支えます。

霊的な旅の旅立ちにあたり、霊的な成長とは、孤立の中にはなく、互いに関係し仕え合う集まりの内にあることを忘れないでください。

 

山上の垂訓

 

イエスが山上の垂訓を説いたのは、30歳くらいでした。その前は名もなき存在で、近隣には普通の大工として知られ、公に教えることも奇跡を為すこともされませんでした。力があり、深い教えを説かれ始めたとき、まわりは驚いたことでしょう。表には現れておらずとも、主はなにもせずに待っておられたのではありません。

推し量れば、おそらく後で私達にそうしてして欲しいこと、内面の変化、を自ら実行されていたはずです。地上の主のご生涯の最後にイエスが明らかにされた力と知恵は、政治的なものでも、物理的なものでもなく、霊的そして神的なものでした。主はたびたび肉体的に病んだ人を癒されましたが、本来の目的は霊的そして人間関係を根本から癒すことでした。主は愛の力を顕現されます。人を深く愛し、わきあがる悪意に徹底的に抗うことで、人々が主を愛し、そして互いに愛し合うよう、人々をつき動かしました。30年間の愛と知恵の成長は、後に弟子達と旅をした最後の3年間の教えと癒し、そして勝ち取った愛を分かち、聞こうとする人すべてに知恵を分かつための準備でした。

山上の垂訓は、イエスの生涯そして公生涯の最後の三年間の、ほぼ最初に行われています。イエスの生涯には4通りの描き方(マタイ・マルコ・ルカ・ヨハネの各福音書)があり、ルカにもその一部がありますが、マタイがこの垂訓をほぼ完全な形で記録しています。この日々の教えはマタイ福音書の5, 6, 7章をもとに進めてゆきます。さらに深く掘り下げたいのであれば、マタイの山上の垂訓(付録 C)の前後ならびに、新教会著作関係のリスト(付録E)を読むようお勧めします。

旅の初めに

山上の垂訓は長い文章ではありません。15分もしないうちに読み通すことができますが、これを7週間かけて学んでゆきます。ただ読むだけとはまったく異なっているのが、霊的な成長です。7週間は霊的な生き方と新しい習慣を身につけるチャンスです。数日あるいは7週間の旅で霊的な成長を遂げるのは稀です。このコースは単なる滑走路、離陸し自分で飛び立つための加速を助けるもの、と考えてください。7週間が終わったとしても、旅はまだ始まったばかりです。もしもうすでに霊的な旅に何年もの間出ていて、すでに空を飛んでおられるなら、このコースは一時着陸し、燃料を補給し、エンジンを整備して、再び離陸するための場所と考えてください。このプログラムの目的は、単に、あなたが主とそのみことばとに結ばれることによって、人間関係を向上させるためお手伝いする道具となることにあります。またあなたが学び経験したことを他の人々と分かち合うための場と考えてください。課題や活動、話や考察は、この過程を助けるためにあります。この日々のテキストは、霊的成長のプログラムとして設計され、教会活動や小集団で使用されるのが最善のものです。山上の垂訓には無限の神的真理が含まれています。そしてこのプログラムがこれを実践するただ一つの道でもありません。主があなたを導き、あなたが実践するための契機にしかすぎないことを念頭においてください。

テキストの使用法

 この日々のテキストは、個人あるいはグループの学習のために作られています。個人的な思索そしてグループ活動の機会が備えられています。それぞれの章には、週を通して与えられる週の課題が与えられています。週の課題を覚えとしてほしいなら、付録A の課題カードを切り取って、もっておくこともできます。自分自身の人生と人間関係、そして各所にある教えの含意を、時間をかけて深く思索することをお勧めします。本の終わりには、線が入ったノートがあり、必要に応じて思索したことをメモしたりしてください。スウェーデンボリ著作には、みことばのすべての話には深く内的な意味があり、それは主、そして他の人々との関係について述べられていることが示されています。どのテキストの中あにある概念は、この教えに基づいています。各章には著作から付随して参考としてほしい部分を引用してあります。さらに深く課題を学びたいなら、付録D を参照してください。これらの思考を味わって自分の生活に活用できるよう望んでいます。


祝福の発見

第一週の課題:

様々な関係に、祝福を積極的に見出します。

この祝福に気づき、感謝を示すことによって、人との関係のうちに歓びとうれしさへの道が開かれます。

テキスト ボックス: 幸福とは外からやってくるものではなく、私達の内側からわき出るものです。





祈り

主よ、この旅の初めに当たり、あなたの臨在を祈ります。あなたが与えられた祝福の豊かさに私達の目が開くようお助け下さい。あなたが与えてくださった道、導きと愛に感謝いたします。私達の旅への祝福に感謝いたします。アーメン

主の山上の垂訓には、幸福になるための洞察が含まれており、幸福の源は人の内側にあると語っています。  

幸せであるためには、霊的に貧しく、謙虚で、義に飢え、憐れみ深く、心は清く、平和で、忍耐強く、粘り強くあらねばならないと主は語られます。

これらの内的資質が人生での真の幸福の源です。

主は決して「富める者、名高い者、権力者、健康名者は幸いである。」とは語られません。実際、たくさんの人がこれら外的なものをもっていますが、それでもなお、みじめな生活を送っています。

「霊的に貧しいものは幸いである」(マタイ5:3)

主は、ここで私達が忌むべきものと考えていることが実は祝福であると、挑まれています。

たしかに落ち込むことは幸福ではありません。しかしながら、一見不幸に思える感覚が祝福となる方法が二つあります。

最初に、不幸と思える感覚は、主によって良い目的に向けて変えられます。悲しみを経験することで、より幸福を正しく評価することができ、不幸だと思える感覚によって、自分と他人がより幸福になるよう変化させたいという意欲が沸いてきます。

次に、自らは値しない者であるという感情や悲しみは、それ自体のうちに善い願望と愛を含んでいます。霊的な貧しさは自分達が愛と知恵の源でないことを気づかせます。私達には主に比肩するものは何もありません;愛と知恵の全ては主から来ます。霊的に貧しい者は、世界全てが主に属していることを知ります。

「悲しむ者は幸いです。その人は慰められるからです。」(マタイ 5:4)

悲しむ者は慰められます、なぜなら悲しみは、愛を起源とした感情であるからです。

愛する者が傷ついたり、奪われたりするときの悲しみは愛からおこり、その愛自体が祝福に他なりません。また落胆と絶望は地獄から来ますが、謙虚な気持ちとそのとき得る素直さは、天界の感情であり、主からさらなる祝福を受ける道を開きます。

柔和な者は幸いです。その人は地を相続するからです。」(マタイ 5:5)

飢えは祝福ではありませんが、求める気持ちこそが祝福です。善で正しいことを強く求めること自体が祝福です。

義に飢え渇いている者は幸いです。その人は満ち足りるからです。」(マタイ 5:6). 義を強く渇望するとき、すでに義を体験していても、さらなる義を求めて、より懸命に働きまた義に感謝します。

幸福とは外からやってくるものではなく、私達の内側からわき出てくるというのが、真の実体です。主から私達に流れこみ、そこから思考と感情のすべてに影響し、私達の言葉と行動によって他の人たちに前向きな良い影響を与えます。人のために何かしてあげたい(他人が私のために、ではなく)という心が、主から私達の生命に幸福を流入させます。今週、私達は、人との関係のうちに幸福を探します。特に幸福とは主から来る、そして内側から来るものであり、外的に影響する物質的なものではありえないことに観点を絞ります。

 

 

今週は、祝福に注意を払います。日々主が異なる祝福を与えてくれていることに注目します。(食物や衣服、家や家族などの)外面的な祝福に感謝することはいいことですが、(謙虚さ、知恵、あわれみや忍耐などの)内面の祝福に視点を移してゆきます。これらの内面の祝福は、外面的にはどのようであれ、長期にわたって幸福をもたらします。この作業を行いながら、祝福に着目した理由を忘れないでください。

  1. 主が私達を祝福されていることがより明確にわかれば、主は私達をいかに愛し、幸せにしたいかを理解することができます。
  2. 祝福を見つけることができれば、霊的な作業に対して、強い動機付け、支え、道具となり、ひらめきが生まれます。
  3. 私達が負の感情を克服できるのは、主が与えられる前向きな力と希望だけです。
  4. 主が与えられる祝福に気づく習慣を身につければ、それに応じて人に強い影響を与えることができます。負の状態に留まれば、鬱や暗さ、落胆が広がりますが、祝福に気づくことで、人に勇気と希望と幸福を与えます。

思索

あなたの人生における祝福を振り返ります。

人々

経験

物質面

小さなこと

その他

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


第二日:祝福の発見

貧しさの裏側

この群衆を見て、イエスは山に登り、おすわりになると、弟子たちがみもとに来た。そこで、イエスは口を開き、彼らに教えて、言われた。「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。悲しむ者は幸いです。その人は慰められるからです。柔和な者は幸いです。その人は地を相続するからです。義に飢え渇いている者は幸いです。その人は満ち足りるからです。マタイ 5:1-6 新改訳

 人は見えない問題には近づくことができません。燃料メーターが故障すれば、燃料が少なくなりついにはガス欠となり道に立ち往生するまでそれに気づきません。病気だと気づかねば、治療も受けられません。同じように、人との関係に問題があってもそれを気づかねば、改善することができません。幸福を探す最初のステップの一つは、自分が変わらなければならないことに気づくことです。自分の弱さと過ちを悟れることが祝福です。

 

私達がしばしば犯す過ちの一つは、人生のどんな問題でも助けを求めることなく解決することができると考えることです。歯医者に行くのを好まない人がいます。病人であっても医者にかかるのをいやがるときもあります。治療施設に行くのを拒む薬物依存者もいます。不和になった夫婦が、夫婦教室に行くのをとまどいます。時として人は、本当に悪くなってどうしようもなくなるまで助けを求めません-歯は根から腐り、足は切断せざるをえず、肝臓は損傷し、離婚届けが眼の前につきつけられます。私達が充分謙虚であれば、早期に助けを求め、余計なもめ事や苦痛を避けることができます。

 

逆説にみえますが、霊的生活では偉大さと幸福は、謙虚さと必要性によって始まります。自分の限界を認めることで、主の助けを仰ぐよう心を開くことができます。人生で何かにぶつかったとき、主に向かうことができるという幸福が、そこにあります。聖書の中の話の多くは、謙虚さが主の祝福を開くことを示しています。例の一つに、天使ガブリエルがマリアに現れ、彼女がメシア、イエス・キリストの母になることを告げます。天使の言葉はこう言って始まります。「おめでとう、恵まれた方。主があなたとともにおられます。」(ルカ1:28)マリアは自分が特別の存在だとは少しも思いませんでした。彼女は自分が「卑しいはしため」であると考えていました。(ルカ 1:38, 48) しかしその後のマリアには困難が待ち受けています。イエスの誕生の後のエジプトへの逃避行、イエスの磔の目撃と。彼女の旅の全ては、天使による自分が祝福され主がともにおられるという告知から始まったのです。

 

モーセも疑いました。主がモーセを招命し、イスラエルの子孫をエジプトの奴隷から連れ出して、約束の地に向かわせよと命じたとき、モーセは尻込みします。「行かなければならない私とは、何なのでしょうか?」 「誰が私を遣わしたかと問われたら、私は、何と答えたらよいのでしょうか。」「彼らが私を信じなければ、どうすればいいでしょうか?」「私はうまくしゃべれません」「誰か他の者を送って下さい」ここにモーセの心の中の葛藤を見ることができます:モーセはイスラエルの最も偉大な指導者で、主は、人が自分の友と語るように、顔と顔とを合わせてモーセに語られました (出エ 33:11)が、自分はそれに値しない者と考え、自信もありませんでした。事実、彼は「地上のだれにもまさって非常に謙遜でした。」( 12:3) 

 

これらの例は、霊的な旅の間、主が私達すべてをいかに祝福してくださるかを示します。主は私たちを、富や健康や、権力や名声では祝福しません、しかし、私達が身を低くして、主の必要性を認めるのであれば、それはそれ自体が祝福です-事実、それは最もすばらしい祝福です。「心の貧しい人は幸いです、飢え渇いた人は幸いです、心の柔和な(いくじのない)人は幸いです」今日の課題は、貧しいことでもたらされる祝福に気づくことです。

自分の人生のどの場面でも足りないと感じるものを見つけて下さい。貧しさ、飢え、渇き、いくじのなさ-そして主に向かい祈ります「私があなたを求めることが祝福であるとわかるよう助けて下さい。私の力のなさによってあなたに近づきますように。私の貧しさが、あなたから新しい心を受ける祝福の機会となりますように。」


 

思索

思索を始める上で、今、あるいは過去に自分が味わった貧しさにチェックしてください。すべてチェックしても結構です。

□失意

□動揺

□注意力散漫

□気後れ

□弱さ

□未熟さ

□気だるさ

□繰り返す過ち

□貧乏

□かわいげのなさ

□無能

□___

□無学

□訥(とつ)弁

□疲労

□___

 


第三日目: 祝福の発見

人を祝福する

あわれみ深さ 平和への努力

あわれみ深い者は幸いです。その人はあわれみを受けるからです。心のきよい者は幸いです。その人は神を見るからです。

平和をつくる者は幸いです。その人は神の子どもと呼ばれるからです。  マタイ 5:7-9

 

私達は皆、受けるよりも与えるほうがより祝福が多いと知っています。誰かの人生にプラス方向の影響を与えることができることがわかれば充実感があります。マタイの中で、イエスはこれを強められています。

 

自然的には、誰かが自分のことを気に掛けてくれたり、大事にしてくれたりすれば、幸福だと考えがちです。しかし本日のメッセージは、自分が人を大切にすることが自分に幸福をもたらす、ということです。

 

本日のテキストで注目してほしいのは、他人を大切にして得る幸福は、主と私達の関係に関わりを持ってくるということです。あわれみ深い者は、(神から)あわれみを受ける。心の清い者は神を見る。平和をつくる者は神の子となる。これは、人が他人に愛を示すことによって、主から魂に向けて流れ込む愛の回路が開き、主と結びつくことを示しています。

テキスト ボックス: 日々の思索:誰かにあわれみを示すその瞬間、主はあなたから怒りや憤りをすでに取り去ってしまわれます。これがあなたが受けるあわれみです。

人にしたことは、何事であれすべて自分の内に残ります。人をひどく扱えば、それは自分に悪い形で留まります。人を優しさと愛情で扱えば、いい形で自分に留まります。自分への幸福の見返りを期待してそうしなさいというわけではありません。他人を祝福できることが、あなたにとっての幸福であることに気づいてもらいたいのです。

 

例えば、「あわれみ深い者は幸いです。その人はあわれみを受けるから」とは、近い将来に帰ってくる見返りのことを言っているのではありません。むしろ主はそのあわれみの行いを実行しているその時に、間髪を入れずに与えられます。誰かにあわれみを示すその瞬間に、主はあなたから怒りや憤りをすでに取り去ってしまわれるからです。これがあなたが受けるあわれみです。

 

思索

いつでも誰かを助ける機会があるという祝福に気づきます。これを行いながら、人がどれだけあなたを祝福しているか気づきましょう。

先週人が行ったことで自分を感動させ、祝福したことをあげてください:

1. ______________________________________________________________________________

2. _____________________________________________________________________________

3.______________________________________________________________________________

今日あなたが人を祝福するためにできることを三つあげてください:

1. ______________________________________________________________________________

2. _____________________________________________________________________________

  3. _____________________________________________________________________________


 

第4日: 祝福の発見

艱難に遭って

義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。わたしのために、ののしられたり、迫害されたり、また、ありもしないことで悪口雑言を言われたりするとき、あなたがたは幸いです。喜びなさい。喜びおどりなさい。天においてあなたがたの報いは大きいのだから。あなたがたより前に来た預言者たちも、そのように迫害されました。マタイ 5:10-12

 

どうやったら善く生きられるかを知っているはずなのに、多くの人は体の健康を求め保とうとすることにさえ、苦しんでいます。現実の厳しく、座っているだけでは、健康にはなりません。肉体的な強さを求めるなら、体を動かし、それも毎日継続しなければなりません。体と同じく、霊的な健康も、ひらめきの一瞬では成し遂げられません。人生に向かって挑もうという気力と勇気が必要です。

闘いの経験を積んでこそ、人は強くなります。人は試練を通してのみ、霊的な成長がはかれます。旧約聖書(創世記39章)で、ヨセフはあらゆる罪から潔白であったにもかかわらず、いかにして牢獄へつながれたかをみることができます。全く不公平な話で、ヨセフは牢獄になど入るべきではありません。同じように、自分自身の人生を振り返ると、まったく不公平な想いをしたことが幾度もあります。ガンを病み、交通事故で亡くなる方もいます。ひたむきに愛した連れあいに、浮気によって裏切られ、離婚もします。幼い子は両親にさえ虐待されます。戦争であらゆる国において大量殺戮が行われています。これらの人々を見て、なぜこんなに苦しみが多いのか、悩みます。

ここで私達が見逃していることは、主は決して誰をも罰せられないということです。主は決して人の過去をほじくって、人の行いや、ふさわしくないことをじっと見つめられません。その代わりに、主は人の未来を見据え、どうすれば人が成長しより強くなるかをお考えになります。人がよくない選択をして、悪いことが起こったとしても、主はその選択を許し、人が学び育ちそして将来、よりよい選択をすべく備えられます。そのため、人が出会うあらゆる闘いは未来のチャンスに満ちています。

例えば、ヨセフが奴隷となり牢獄に入らなければ、ファラオによって投獄された召使いたちとも会わず、そしてファラオとも出会わなかったでしょう。すると家族と幾百万の人々を飢餓から救うこともできなかったでしょう。ヨセフはその当時そうなるとは思ってもいませんでした。ヨセフはただ振り返ったときに、そうと知るだけです。

その最中にあっては困難に満ちていても、霊的な旅路にあっては、闘いや迫害はその内に主のみ働きを見出せば、祝福となることを肝に銘じなければなりません。

本日の課題は、人生にあって苦しい体験を振り返り、そこから何か祝福を見出すことができるかです。

より深く

山上の垂訓で教わる原理は、旧約聖書のヨセフの物語の流れの中で深く思いめぐらすことができます。ヨセフの物語をより深く掘り下げれば、それは主と、人と主の関係を例えとなったものとなっています。ヨセフに起こったあらゆる出来事は、イエスが耐えられたことの例えです。  

ヨセフの物語の深い意義については、天界の秘義4665-6626を参照ください。

思索:主は絶えず人の苦しい経験を祝福にしようと働かれている。自分の人生に起こったことを振り返ってみてください。

苦しい経験

経験から生まれた予期せぬ祝福

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


第五日: 祝福の発見

過去の経験に

あなたがたは、地の塩です。もし塩が塩けをなくしたら、何によって塩けをつけるのでしょう。もう何の役にも立たず、外に捨てられて、人々に踏みつけられるだけです。マタイ 5:13

あなたがたは、地の塩です。雨は地球にしみ込み、土壌の中にある様々なミネラルの微細な粒子を融かして、川や流れに洗い出し、最後には湖や海に至ります。雨は幾度も幾度も降り、水は蒸発するというサイクルを繰り返し、鉱物、主に塩は湖に残ってゆきます。気候変動や人為によって水が全く干上がれば、塩が後に残ります。塩は地の味気そのもので、蒸留され、煮詰まり、一さじの内に嵐と洪水の中の千年分の土地が含まれています。

 

最初の人間であるアダムは、創世記によれば土塊から創られました。科学は、最初の生命が育ったのは土地から染み出した塩水の中であったといいます。この塩水の中での懐胎は、今日、血液や汗、涙の中にある塩分の存在を説明します。文字通り、私達は地の塩です。

 

地を人の心になぞらえれば、記憶は海で、無数の経験の痕が巨大な容器の内に集まっています。沢山の記憶、ごく幼いころの記憶などは全く忘れ去っています。海が干上がって塩が残るように、心の奥底にある忘れ去った純真さも痕を残します。塩のごとく、子ども時代の純真さのあの瞬間は、主からくる新しい英知と生活への渇きを創り出します。それらの深い記憶は、成長と真理によって変わりたいという切なる望みを創り出します。

 

人はそれぞれ、その歴史、その家族、そしてその悩みを持っています。主は過去から人それぞれの意欲と強さを引き出されます。本日の課題は過去に祝福を見出すことです。

 

過去は再生への備え

人は備えなければ、すなわち真理と善を内に備えなければ、再生することができず、試練にあいつづけます。なぜなら人にいる悪霊はその時、偽りと悪を刺激して、もし真理と善が存在しないなら、主によってその偽りと悪を屈服させ、追い散らすことができず、人は敗れてしまいます。これら真理と善は、主によってその役割のために蓄えられた小さいころの残果です。天界の秘義711

より深い考察

「地の塩」によって、善を求める真理が意味されます。「味気をなくした塩」によって、善を求めない真理が意味されます。しかしそのような真理は何ものにも値しないことが、「何の役にも立たず、外に捨てられて、人々に踏みつけられるだけです。」によって描かれています。善を求めることは、善いことを行いたいと望み、そうすることで、善と結ばれます。–天界の秘義 9207

思索

あなたの人生で感謝すべきところは何ですか?

あなたが自分を人として価値を深めた経験は何でしょうか?

これからの人生でどんな変化を求めますか?

 

 

数年前、ペンシルバニアからカリフォルニアに向かって六人の子供達と車で旅をしていました。昼食をするため停車したのですが、何か変な音がエンジンの下から聞こえてきます。平素であれば機会音痴の私のこと、無視するのですが、その時は息をひそめてじっと見つめました。するとどこかに据えられていたとおぼしき金属部品がころがっているではないですか。ギアには問題なさそうですが、通りの向こう側にある給油所に向かいました。これで問題は解決と思いました。私達は待合いでじっとしていました。よちよち歩きの子は体の至る所に発疹が出ていたのを付け加えておきます。修理工はいぶかしげに「とこに行くのか?」と尋ねます。「木曜までにカリフォルニアよ。」数時間の間彼の背中をじっと見るはめになりましたが、やっと終わったと彼はいいます。言い訳がましく彼は説明します「ギアのブロックはたった一つのボルトでとまっていて、残りは全部外れていた。最後のボルトが外れていたら・・どんでもないことになっていたよ。」

 料金を支払って車に乗り込み、西へと向かいます。私は危険性について館が増した。一番小さな子はあばたがひどくなってきているし、よく熱病の病歴がある。新しい保険証はまちがいなく家のふくれあがった郵便受けの中に届いたままだろう。クーラーもない8月の夏の盛り、これから先には何マイルもの砂漠が横たわっている。もちろんギアボックスがだめになれば、病院ではなく、死体安置所行き。

 六歳の息子が前の席に座っていますが、彼の信頼しきった眼と自分の眼の落ち着きのなさが著しいのに気づきました。彼は安心しきって景色を楽しんでいます。私は最悪のケースを想定して悩み、思い煩うばかり。そのとき、ザカリーが叫びました、「ママ見て、雲!」確かに、このユタ州のなにもない地平に、雲が一片あります。面白いことに、この雲は垂直に立っていて、まるでどこかで読んだことのある雲の柱のようでした。その雲の柱に突っこんでゆくと、雨が激しく降り出しました。「僕、砂漠の中で雨に出会うとは思わなかったよ」と叫び、興奮しています。「そうね、こんなことあるもんじゃないわ。」と応えます。すると、驚くべきものを目撃します。フットボール場のほどの大きさの場所に、腕が届くほどの虹が現れているではありませんか。「虹だ」彼は叫びます。「これは僕らがうまくいくという印だよ!」私も大きなほほえみとともにうなずき、「私もそう思う」と応えました。ついにカリフォルニアに着いて、修理屋に車を持ってゆきました。すると修理工は眼を開き、「どれだけ走ったらこうなるんだ??」と叫びます。彼は、修理はできない、新しい車を買ってくれと言います。

 真実は主はいつでも私達を見守っておられるということです。しかしある限界までやってきて、危険の羽音が耳をよぎって冷や汗をかくくらいになると、何かが起こります。秘密のベールが上がってその守りを垣間見ることができたとき、主はあらゆる瞬間、私を見守ってくださっていることを感じます。それは楽しくもありますが、深い愛をも感じます。

「そのような手段で主から来た天使は人を導き守ります。それはあらゆる瞬間、瞬間のさらなる瞬間にまで至ります。なぜなら天使が、そのわずかな刹那だけでもその世話を中断するなら、二度と助け出すことのできない悪にまさかさまに落ちてしまうからです。」天界の秘義 5992

ローリ・オドナー

                                 


第六日:祝福の発見

希望・夢・理想

あなたがたは、世界の光です。山の上にある町は隠れる事ができません。

また、あかりをつけて、それを枡の下に置く者はありません。燭台の上に置きます。そうすれば、家にいる人々全部を照らします。

このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせ、人々があなたがたの良い行ないを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい。マタイ5:14-16

私達のそれぞれの霊的生命は内面-希望、夢、計画で始まります。外面の自分が変わる前に、内側の自分が生まれ変わらなければなりません。外側の生活を現実化する前には、善い人になるという内面的な展望を持ちます。

自分自身を見つめれば、たいていの人は自分の欠点に気づかざるをえません。自分の理想にとても手が届かないとわかれば、自分を責めてしまいます。家族や同僚への憤りやイライラに気づき、自分が思ったことや行ったことに悔いたり恥じたりします。本日は、主があなたに理想を与えられた祝福について思いめぐらせてみましょう。例えば、自分が何か不健康あるいは悪いことをしていると気づくのは、良心や理想、価値観をもっていて、自分がもっとよりよく生きたいと自分の内側で思っているためです。

理想は、たとえそれが手に届かないほど難しいものだとわかっていても、生きる希望と方向性を与える遠い星のようなものです。最終的には、その理想を達成の有無ではなく、自分の人格を形成と永遠の幸福に向けて努力しようとするか、しないかに意義があります。今日の課題は、理想を考え、自分の人生がより善くなるような展望をもつことを主に感謝することです。

 

最も深い恐怖とは、自分が無力であるということではありません。もっとも深い恐怖とは、自分だけがけたはずれな力を持つことです。

もっとも自分を恐れさせるものは、自分の闇ではなく、自分の光です。卓越し、きらびやかで、才能にあふれ、素晴らしい自分とは、何者であろうと自分に問いかけます。しかし、そうではない自分とは何ものでしょうか?あなたは神の子です。あなたの小さな祈りは世界の役には立ちません。まわりの人が危険だと感じないためにあなたが縮こまって伝えるものなどありません。私達は皆子どもたちのように輝きます。だれかがではなく、すべての人が皆そうです。自分で輝きながら、人にも同じことするよう無意識に許します。自分を恐怖から解放することで、その自分の存在が人をも恐怖から解放します。–マリアンナ・ウイリアムソン 

希望の力

人は未来の出来事を知ることは許されていません。それは人が理性に基づいて自由に行動するためです。なぜなら、人は自分の愛するものが実現することを望み、その目標に向かって自分を理性によって導くからです。

さらに、理性の中で人が企てるものはすべてその人の愛から発し、思考を通して実現されます。それ故、神の予言によってあらかじめ結果を知るなら、人の理性は動かなくなり、愛も働かなくなります。なぜなら理性を伴う愛が結果をもたらし、そこから物事が改まるからです。

理性は達成された結果自体ではなく、結果が出る以前に、すなわち、現在すでにあるものではなく、未来にあるものを、愛から結果を考えることが歓びです。このように人は希望と呼ばれるものを持っており、それは物事を見、予見するとき理性のうちでふくらんだりしぼんだりします。この歓びは物事が終わると同時に完結しますが、物事に対して抱く思考は徐々に消えてゆきます。予め知っている物事の場合も同じことです。

神の摂理 178

思索

理想と夢と計画を書いてください。

家族: _____________________________________________________________________________________

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仕事:______________________________________________________________________________________

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霊的な生活: ________________________________________________________________________________

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第七日: 祝福に気づく


神との関係

わがたましいよ。主をほめたたえよ。主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな。詩編103:2

このように貧しく弱い私達が、あらゆる愛と幸福の源である方をどのようにすれば祝福できるのでしょうか?主がいかに祝福してくれたかを思い起こし、その祝福を他の人とわかちあうことが、「主を祝福する」ことです。

 

私達が持っている善いものすべては主から来ています。私達の目覚めているとき、あるいは人生のほとんどすべてにおいて、主は気づかないうちに祝福を浴びせられています。私達が気づき如何にかかわらず、主は祝福し続けられます。しかし私達がそれを気づき、主がその源であると認めれば、祝福は強まります。主の愛のご性質は、私達を愛そうと望まれるだけではなく、同時に私達によって愛されたいと望まれています。主は私達と結ばれ、結びつきを持ちたいと望まれています。愛は一方通行では成立しません。もしあなたが、全くあなたの存在を認めようとしない人と結びつきを持ちたいと望むなら、受け入れられない愛を捧げることは、胸が苦しく虚しいものです。そんなケースは、愛し世話をするが、そうと知ってはくれないアルツハイマー病の患者との関係にも見られます。また、時として家を離れて親と話そうともせず、住所さえ知らせない子どももそうです。決して愛を認められないことを知って、人を愛することは難しいことです。主は愛し、そして愛されたいのです。

預言者イザヤは主がこう語られるのを聞いた。「子らはわたしが大きくし、育てた。しかし彼らはわたしに逆らった。牛はその飼い主を、ろばは持ち主の飼葉おけを知っている。それなのに、イスラエルは知らない。わたしの民は悟らない。」 (イザヤ1: 2-3).

 

私達と主との関係に気づかなければ、主を悲しませることになります。

 

次のようなみことばで表される結びつきがあることを知れば、状況は全く異なりいかに幸いなこととなるでしょうか。「わたしは良い牧者です。わたしはわたしのものを知っています。また、わたしのものは、わたしを知っています。」 (ヨハネ 10:14).これが主の望まれる結びつきであり、私達が主に導かれたいと心を開けば、それが可能となります。主との結びつきによってどんなに祝福されることか思いめぐらし、詩編第23章を読んで、そこにある祝福が自分の人生に備わっているかどうか自問してください。

 

祝福のすべて、すなわち善のすべては主からきています。天界の秘義 1096

 

主が、私達に絶えず注いでくる祝福に気づき、いつでも主に語りかけてください。主は私達が必要とするならいつでも悪に抗う力を与えてくださり、私達をいつも気に掛け、道のあらゆるところで導いてくださることを知ってください。

「主を祝福する」とは、いわゆる主に歌うこと、救いを求めること、主の知恵と力を述べ伝えること、そして心から主を認め、告白することをいいます。そう行う人は最も主に祝福された人で、すなわち、祝福を構成するものを与えられています。それは天的な善、霊的な善、自然的な善、そして肉体的な善で、これらの善の形がこの順序に連続して流入するなら、人のうちには幸福が存在します。天界の秘義 1422

祈り: 詩編23章

主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。

主は私を緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われます。

主は私のたましいを生き返らせ、御名のために、私を義の道に導かれます。

たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰めです。

私の敵の前で、あなたは私のために食事をととのえ、私の頭に油をそそいでくださいます。私の杯は、あふれています。

まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みとが、私を追って来るでしょう。私は、いつまでも、主の家に住まいましょう。アーメン

 

思索

今週経験した神との関係で得た祝福を丸で囲んでください。あなたが希望し、あなたの人生にあってほしいと祈りたいものを三つ選んで、☆印をつけてください。

慈しみ

ねばり強さ

歓び

 

寛大

 

優しさ

 

希望

 

平安

 

忍耐

 

同情心

 

率直さ

 

勇気

 

赦し

 

信頼

 

強さ

 

現在を見据える

 

 

「主を祝福する」ため、あなたはどうしますか?

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様々な関係:過去・現在・未来

 

このプログラムを実行している間、人生の中の様々な関係を思いめぐらす機会に恵まれます。過去の関係はどこにあったか?今はどこにいるか?そしてどこに向かって進みたいか?リーダーに与えられたイメージ(あるいはここにあるイメージか、自分で描く絵)を用いて、しばし思いめぐらしてみましょう。なぜならこの活動は、人の様々な個々の人間関係や人間関係一般に焦点をあてることになるからです。

 

 

 

グループでのルール

1.      求められないのにアドバイスしないこと。

2.      妨げないこと。

3.      自分のことだけを語ること。

4.      わかつだけで、教えないこと

5.       パスしても可。

6.      わかちあうときに実名をつかわない。

7.      秘密を守ること。

8.      全ての人が機会を持つため、時間を守ること。


 どんな人間関係でしたか?今は?どのようにしたいですか?   イメージを貼るか絵を描いてください

過去

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

現在

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

未来