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【最新説教】

Philistines ペリシテ人 
「アブラハムは長い間、ペリシテ人の地に寄留した。」(創21:34)

聖書時代にペリシテ人が住み、永年イスラエル人を悩ましていた地域があります。今はパレスチナと呼ばれています。
1948年に、イスラエルが建国して以来、その地に住んでいたパレスチナ人は約560万人ともいわれる難民となって、度重なる武力衝突の中、苦しい生活を送っています。
一方では聖地として、日本人を含めた西側諸国が、エルサレムを中心とした地に観光や巡礼に訪れていますが、高い壁や、突然起こるテロや砲撃に、根深い問題が今も続いていることを思い起こされます。

パレスチナという語はペリシテがなまった言葉と考えられていますが、紀元前に栄えていたはずのペリシテ文明の担い手が、今どうなっているかは、全くわかりません。
ペリシテという言葉を英英辞書でひけば、古代の民族であるという説明に続いて、物質主義に浸り、知的、芸術的価値を認めない、という意味があります。(webster)

聖書にたびたび出現するペリシテ人について、主は天界を通してどう教えておられるでしょうか?
聖書にペリシテの名が出てくるのは、セム・ハム・ヤペテの歴史のハムの子孫として描かれています(創10:14)。
その後アブラハムがカランから主の命令に従ってカナンの地に向かう時、アビメレクとその将軍ピコルと、ベエル・シェバで契約し、「アブラハムは長い間、ペリシテ人の地に寄留し」(創21:34)ました。

アブラハムは主を表象します。そして「ペリシテ人の地に長く寄留した」とは、人間の記憶から信仰の教義に接合された、ことを意味します。主は人間の記憶知から合理的なことを教えられ(AC2726)ました。ベエル・シェバとは信仰の教義に再び接合する、人の合理性です。再び接合することで、人の理解に適用される(AC2723:2)ます。

この時は、まだイサクという神的合理性が生まれる前で、イシュマエルという野ロバの合理性が誕生した後です。主は神的合理性を得ていない合理性の段階で、信仰の教義に触れられたことが推測できます。その様子は、ルカ書2:46等で一部にうかがい知ることができます。

次にペリシテ人が出てくるのは、イサクの誕生後です。
「さて、アブラハムの時代にあった先の飢饉とは別に、この国にまた飢饉が起こった。それでイサクは、ゲラルのペリシテ人の王アビメレクのもとへ行った。エホバはイサクに現れて言われた。「エジプトへは下ってはならない。わたしがあなたに告げる地に住みなさい。あなたはこの地に寄留しなさい。」(26:1-3)
飢饉と呼ばれる信仰の知識の枯渇の時、主は再び信仰の教義であるアビメレク王を訪れ、そこで学ばれますが、今回はエジプトという記憶知には下ってはならないと命じられています(AC3368)。これは真理らしき外観に留まってはならず、直接神的流入がある、合理性のある部分で信仰の教義を解釈せよ、と解釈できます。

教義を読み進めることは大切ですが、教義を頭脳の中で再構築し、神の目的と愛から考えることがさらに大切です。天界の教えを学びながら、謙虚になって自分の中で反芻し、消化しようと進めます。自分の中には必ずそれを拒む要因があるので、それが何かを探りながら、御言葉を肯定的に解釈し、生活への適用を考えます。時間をかけて取り組むうちに、主からの照らしがあり、自分の中の自己愛と世間愛という妨害物が取り除かれ、一挙に物事が「観える」ことがあります。それは私たちの知恵と理解が鋭いわけではありません。主の哀れみと慈しみの業です。(AC3394-2参照) そして、最初にそれを認識して信じた後、そこから退くと、「冒瀆」となり、悲惨な運命が待つことになります (AC3398) 。そこで、ペリシテ人の王は、神の善は開いてはならないことを布告します(26:11)。ここから、「ペリシテ」は、御言葉を知って行なわず、知識として持っておき、仁愛の生活を送らない人を象徴します。

さて、ファラオがこの民を去らせたとき、神は彼らを、近道であっても、ペリシテ人の地への道には導かれなかった。(出13:17)
主は善から湧き起こらない信仰の真理には、霊的教会の人間を導かれないことを述べています。(AC8093)

ヨシュアは、霊的教会の民を天界であるカナンに導き、その地を征服します。「ペリシテ人の五人の領主が支配する、ガザ人、アシュドデ人、アシュケロン人、ガテ人、エクロン人の地と、南のアビム人の地。」を除いて。(ヨシュア13:3)ペリシテ人の支配する地は、天界ではないことが明かです。
その後は征服して、乳と蜜のあふれる地であったはずのカナンも、イスラエル民族の神への背信によって、ペリシテ人等、他民族との長い戦いが始まります。

【主】が彼らのためにさばきつかさを起こしたとき、【主】はさばきつかさとともにおられ、そのさばきつかさが生きている間、彼らを敵の手から救われた。これは、圧迫し、虐げる者を前にして彼らがうめいたので、【主】があわれまれたからである。
しかし、さばきつかさが死ぬと、彼らは元に戻って先祖たちよりもいっそう堕落し、ほかの神々に従い、それらに仕え、それらを拝んだ。彼らはその行いや、頑なな生き方から離れなかった。(士師2:18,19)

主は愛と知恵そのものです。愛と知恵でないものを神とし、それを人生の第一優先事項として、行いを改めず、頑なな生き方をすると、天界の敵である地獄の勢力は、すぐに戦いを挑んできます。
裁き司と呼ばれる士師が指導者になると、天界の地は守られます。地獄の攻撃と天界の秩序の維持の繰り返しが続きますが、私たちも同じ状況にいるのかもしれません。士師記の内での最期の士師とされるサムソンの代にも戦いと敗北がありました。敗北とはサムソン自身の敗北です。

「イスラエルの子らは、【主】の目に悪であることを重ねて行った。そこで【主】は四十年間、彼らをペリシテ人の手に渡された。」(士 13:1)
ところがサムソンは、敵であるペリシテ人を何度も打ち、無敵の強さを示します。ところが、ペリシテ人の妻を娶り、強さの秘密が髪の毛にあることを知られ、髪の毛を剃られると、ペリシテに捕らえられ劇的な死でその生涯を閉じます。髪の毛とは自然的真理を意味します(AC3301)。

そして最期の士師と言われるサムエルの時代に入ります。今までの士師は、軍事的リーダー+αでしたが、サムエルは軍事的指導者というより、預言者のような存在で、神の言葉を聞いて、王を任命します。
サムエルは、十戒を納められた神の箱がある、シロの神殿の祭司エリに仕えていました。しかし残念なことに、祭司エリの二人の息子は、神への捧げ物を取り上げ、私腹を肥やしています。

ここでペリシテ人を迎え撃つため、イスラエルは戦いを始めます。
「ペリシテ人はイスラエルを迎え撃つ陣備えをした。戦いが広がると、イスラエルはペリシテ人に打ち負かされ、約四千人が野の戦場で打ち殺された。」(4:2)
イスラエルの民は、シロから契約の箱を持ち出して、対抗しようとします。
ペリシテ人も契約の箱がエジプトに凄まじい災害をもたらしたという知識を持っていたので、怖れますが、
「さあ、ペリシテ人よ。奮い立て。男らしくふるまえ。そうでないと、ヘブル人がおまえたちに仕えたように、おまえたちがヘブル人に仕えるようになる。男らしくふるまって戦え。」とイスラエルを打ち破り、神の箱を奪い、祭司エリの二人の息子は、死んでしまいます。戦況の報告を受けた、祭司エリも席から落ちて死んでしまいます。

数々の奇跡を生み出し、イスラエル民族の「栄光」のもととなってきた契約の箱が奪われたのです。
祭司エリの孫を身ごもっていた嫁は深く絶望して、なんとか生まれてきた孫を、栄光がないという意味の「イ・カボデ」と名付けました。夫とその父、そしてイスラエル人の誇りの源が、すべて奪われた絶望がいかに深かったことでしょう。日本が敗戦し、その戦いで息子と夫をすべて失った女性の話を聞いたことがありますが、深い絶望は何年も続きます。

神の箱は、都合7ヶ月、ペリシテ人の野にあったといいます。しかし、神の箱を奪ったものの、彼らの神像ダゴンが頭と両腕が切り離されて倒れ、ペリシテ人の都市の民は腫物と鼠で悩ませられます。その神の箱の力におびえ、次々と他の都市に送りつけます。手に余ったペリシテ人は、相談し、神の箱をイスラエルへ送り返しますが、「何もつけないで送り返してはなりません。神に対して償いをしなければなりません。そうすれば、あなたがたは癒やされるでしょう。」と五人のペリシテ領主の数に合わせて、「五つの金の腫物と、五つの金のねずみ」をつけて送り返します。

この腫瘍と鼠は、ペリシテ人たちが真理を汚したことを意味しています。真理を与えられたにもかかわらず、真理が目的とする、愛の善、仁愛の善、生活の善を行わないでいると、与えられた真理である血液は膿んで、穢れてしまいます。そして鼠が作物や穀物、地下にある野菜を根絶やしにしてしまうように、教会のすべてを破壊し尽くしてしまいます。

私たちにとっても、「悪を行うな」という仁愛の真理を行わずにいると、真理は汚されてしまいます。読んで、実行しないのであれば、真理は穢れ、教会のすべてを荒し、何もない空洞としてしまいます。
自分が悪を行っているかどうかは、日々の反省と悔い改めによって自分で点検するしかありません。神的真理の流入による点検で、自分の持つ悪は明らかになります。
点検によって、自分の悪を確認することが、「五つの金の腫物と、五つの金のねずみ」をつけて償うことで表されます。自分の個々の悪をまず認めなければ、始まりません。そしてこれを取り除くよう、神に祈り、そして新しい生活を送らなければ、ペリシテ人のように、最期にはダビデによって滅ぼされてしまいます。自分の悪を認めることは、善の始まりです。そのため「金」の償いといわれます。

私たちの教会にあっても、自己を点検し、時間をかけて悪を探し出さなければ、教会のすべてはペリシテ的考え方、腫れ物の膿によって真理が汚され、鼠によって食い荒らされて善は失われてしまいます。

ただしペリシテとの最初の接触は異なります。
主の最初のペリシテ人との接触、ベエル・シェバでのアブラハムと、アビメレクとその将軍ピコルとの契約、そのためのペリシテ人の地への滞在は、善と真理の知識の維持と伝達のため必要不可欠でした。私たちもまず、真理と善の知識を学んで合理性を育ててゆきます。

二度目のペリシテ人との接触と滞在には、まず「エジプトへは下るな」と警告があります。真理と善の知識だけにはこだわらず、同じベエル・シェバで、イサクは、アビメレク・アフィザデと将軍ピコルとの契約を結び、合理的な思考をさらに進めてゆきます。信仰の教義は見せかけだけではなく、主からくる本物の合理性と深く結ばれてゆきます。表面的言葉尻にこだわらず、主の目的である、本物の合理性を目指して進みます。

そしてカナンの地、主への愛、隣人への仁愛が目指す所だとわかった後、日々の生活の中に埋もれてしまえば、ペリシテ的信仰と言われる、仁愛や生活とは全く関係のない信仰に陥る危険性が出てきます。知識と教義に酔ってしまい、行わない教義・みせかけだけの教義になってしまう危険性です。それまではペリシテ人の長所を学ぶ点が、段階に応じてありましたが、今やペリシテ的思考に取り込まれる危険性はさらに高くなってきます。人間は易きに流れて、現状を変えないという性格を持っているからです。
自分の遺伝悪を十字架につけて殺し、再生に向かって進むことは、覚悟がなければできません。

そのため、霊的教会は、信仰のみ・教義のみ、と闘い、実生活の中で活かさなければなりません。
闘わなければ、真理はすべて膿んで腐り、善はなくなってしまいます。

私たちは再臨の後の新教会の人間です。主イエス・キリストが眼に見える神人であることを知っています。そして、神をみとめることと、神に反する悪を行わないこと、これは宗教を宗教にする二大原則です。(神の摂理326-4)
心から卑下して、ひれ伏し、神を礼拝する、すなわち悪を避ける仁愛の生活を謙虚な心で日々行うなら、
「天にある神の神殿が開かれ、神の契約の箱が神殿の中に見え」ます。アーメン。

サムエルⅠ
4:1 サムエルのことばが全イスラエルに行き渡ったころ、イスラエルはペリシテ人に対する戦いのために出て行き、エベン・エゼルのあたりに陣を敷いた。一方、ペリシテ人はアフェクに陣を敷いた。
4:2 ペリシテ人はイスラエルを迎え撃つ陣備えをした。戦いが広がると、イスラエルはペリシテ人に打ち負かされ、約四千人が野の戦場で打ち殺された。
4:3 兵が陣営に戻って来たとき、イスラエルの長老たちは言った。「どうして【主】は、今日、ペリシテ人の前でわれわれを打たれたのだろう。シロから【主】の契約の箱をわれわれのところに持って来よう。そうすれば、その箱がわれわれの間に来て、われわれを敵の手から救うだろう。」
4:4 兵たちはシロに人を送り、そこから、ケルビムに座しておられる万軍の【主】の契約の箱を担いで来させた。そこに、神の契約の箱とともに、エリの二人の息子、ホフニとピネハスがいた。
4:5 【主】の契約の箱が陣営に来たとき、全イスラエルは大歓声をあげた。それで地はどよめいた。
4:6 ペリシテ人はその歓声を聞いて、「ヘブル人の陣営の、あの大歓声は何だろう」と言った。そして【主】の箱が陣営に来たと知ったとき、
4:7 ペリシテ人は恐れて、「神が陣営に来た」と言った。そして言った。「ああ、困ったことだ。今までに、こんなことはなかった。
4:8 ああ、困ったことだ。だれがこの力ある神々の手から、われわれを救い出してくれるだろうか。これは、荒野で、ありとあらゆる災害をもってエジプトを打った神々だ。
4:9 さあ、ペリシテ人よ。奮い立て。男らしくふるまえ。そうでないと、ヘブル人がおまえたちに仕えたように、おまえたちがヘブル人に仕えるようになる。男らしくふるまって戦え。」
4:10 こうしてペリシテ人は戦った。イスラエルは打ち負かされ、それぞれ自分たちの天幕に逃げ、非常に大きな打撃となった。イスラエルの歩兵三万人が倒れた。
4:11 神の箱は奪われ、エリの二人の息子、ホフニとピネハスは死んだ

黙示録
11:15 第七の御使いがラッパを吹いた。すると大きな声が天に起こって、こう言った。「この世の王国は、私たちの主と、そのキリストのものとなった。主は世々限りなく支配される。」
11:16 すると、神の御前で自分たちの座に着いていた二十四人の長老たちが、ひれ伏し、神を礼拝して言った。
11:17 「私たちはあなたに感謝します。今おられ、昔おられた全能者、神である主よ。あなたは偉大な力を働かせて、王となられました。
11:18 諸国の民は怒りました。しかし、あなたの御怒りが来ました。死者がさばかれる時、あなたのしもべである預言者たちと聖徒たち、御名を恐れる者たち、小さい者にも大きい者にも報いが与えられる時、地を滅ぼす者たちが滅ぼされる時です。」
11:19 それから、天にある神の神殿が開かれ、神の契約の箱が神殿の中に見えた。すると稲妻がひらめき、雷鳴がとどろき、地震が起こり、大粒の雹が降った。

黙示録解説700
[21] ペリシテ人が表し、意味するのは、愛の善、仁愛そして生活に全く価値を置かない者です。なぜ契約の箱のため彼らが腫瘍で打たれ、次々と死んでゆき、鼠が土地を荒らしたのか、知らなければなりません。腫瘍は善の不足のため、悪の生活によって冒瀆された真理を意味します。血は真理を意味し、腫瘍からの腐った血は、冒瀆された真理を意味します。腫瘍によって妨げられた部分は、霊的でなく、世への愛にいる自然的愛、を意味します。そして鼠は感覚的人間の偽りを意味し、鼠が畑や穀物、地下にある野の茎をも食い荒らすように、彼らは教会の総てを荒らします。このようなものが疫病です。なぜなら、善がない者は真理を汚し、そしてこのように、教会のすべてを荒らしてもしまうからです。
これが起こったのは契約の箱のためでした、なぜなら聖櫃は主から発する神的真理を意味し、愛の善がなく、生活の善がない者達の元では、純粋な真理であることができないからです。そして善にいない者に神的真理が流入すると、その者達の教義の偽りと、生活の悪に相応した効果を生み出します。それは霊界で、神的真理が流入すると、真理の汚染と善の欠乏が腫瘍と鼠のように明らかになるためです。

ミナの喩え ParableMinas

「彼はしもべを十人呼んで、彼らに十ミナを与え、『私が帰って来るまで、これで商売をしなさい』と言った。」ルカ19:13

ミナは、シェケルと同じように度量衡、通貨の単位で、金銀などを測るために用いられました。
旧約聖書で「シェケル」は聖なる物の値段(レビ27:25)とされ、内的意味では人の中にある善と真理を図る単位とされています。そして、「ミナ」は「二十シェケルと二十五シェケルと十五シェケルとで一ミナとせよ。」(エゼキエル45:12)とされています。20+25+15=60シェケル=1ミナ、となるのが、こう表現されています。20には総てのもの、善の残りもの、そして聖なるという内意があるからです。(AC10222)

同じような「旅人と留守を預かる僕」のたとえが、マタイ(25:14~28)による福音書にもありますが、そこでの単位は「タラント」です。
1タラント=60ミナ=約3,000シュケルといわれていますが、貨幣の交換基準がある現代と異なり、おおよそ分量と考えても、大きな額です。マタイ18章では王に一万タラントの借金を許された家来が、自分への百デナリの借金を許せませんでしたが、1デナリは労働者の一日の賃金相当と(マタイ20:2等)いわれ、1万タラントはかなり大きな額です。

御言葉では、お金や富、財産、その数量などを使用した喩えがたくさん出てきます。そのいずれも内意を学ぶと、私たち現代人の感覚にもあう場合もあり、単位よりも、数字の内意のほうに目がいってしまします。

主が、たとえで語られる理由がルカ書に出ています。
「あなたがたには神の国の奥義を知ることが許されていますが、ほかの人たちには、たとえで話します。『彼らが見ていても見ることがなく、聞いていても悟ることがないように』するためです。」(ルカ8:10)
主がおっしゃったように、神の国の奥義を知ることが許されるのは、主の弟子だけで、他の人達には見て聞いても悟らないようにするためです。

主の弟子とは、「善から真理にいる者」(AE122)のことです。まず善にいなければなりません。そして真理は行わなければ善となりません。私たちは、神の国の奥義である真理を知った以上、善を「行う」責任が生まれます。弟子ではない「他の人達」には、聞いても悟ることがないように主はお望みです。その人達は聞いても単なる参考情報として、生活で真理を行わないからです。
そのため、御言葉の内意という、天界からの教えを与えられた新教会は、教義の学習だけではなく、真理を与えられ、その真理を行って、善とする者の集まりです。

本日は、ルカ書にあるミナのたとえから、その奥義を学びます。
王位を得るため、遠い国に行った身分の高い人が、十人の僕に十ミナずつ与え商売をしなさい、と命じます。
身分の高い人とは主のことです。「遠い国に行った」とは、主がこの世から起たれて、居ないように見えることです。「十人の僕」とは、「この世にいる総ての人であり、個別的には、教会に属する人々」のことです。与えられた「十ミナ」とは、御言葉の真理と善の知識のすべてであり、そしてそれを知る能力です。
「商売をしなさい」とは、これらによって知性と知恵を得ることです。(AE 675:7 [7])

ミナのたとえの僕は、弟子である私たちすべてに適用されます。
「いつ自分がそんな金、十ミナの金をもらったか?」と訝しむ方がいらっしゃるでしょう。
しかし私たちすべては、
「主によって埋め隠された善と真理の残果があり、それが〈いのち〉を吹き返します。幼児期から自己改革のときまでに取得した善と真理は、人によって、多かったり、少なかったりします。残果は人の内部に保存されており、外部がその相応状態に復帰するまでは、芽をだしません。」(AC2967:2:アルカナ訳)
十は残果、残りのもの、を表します。

残果、残りのものは、私たちが知らないうちに主によって与えられます。それは、母親の愛情や、幼い友人の友情かもしれません。テレビや映画で感動した、アニメかもしれません。本の一文かもしれません。
それは与えた家族や友人、教師やマスコミ等の本人、そして与えられた本人さえも知りません。それは主のものであるからです。
それは主が不思議な英知によって私たち個々人に与えられるものです。おそらくこれは私たちが再生している過程で、感じる感覚やおぼろげな記憶として蘇ってきます。

そして、これは簡単には蘇って手に入りません。
「とくに試練・誘惑や種々の荒廃を経過して、始めてそれが実現します。
これは自己愛や世間愛のように、残果に矛盾するような物体的なものが活動停止するまで、善や真理の情愛に属する天的・霊的なものが流入をおぼすことはありません。
人は各自、その状態や能力に応じて自己改革が行われる理由はそこにあります。」(同上)

私たちが、自己愛や世間愛が何であるかを知り、それを悪と偽りとして、意図して取り除かない限り、私たちには現れてきません。
ミナのたとえで「その国の人々は彼を憎んでいたので、彼の後に使者を送り、『この人が私たちの王になるのを、私たちは望んでいません』と伝え」ます。
ここで喩えられている人達は、自己愛と世間愛に住み生きてゆくのを望む人達です。
彼らは主の善と真理を望まず、主が王となって帰ってくるのを拒みます。

しかし、主を知り、その善と真理を望む人達は異なります。主のお帰りを待ち望みます。主のお帰りとは、私たちそれぞれの審判の時でもあります。
そして主がお帰りなると、私たちはその成果を主に報告するときがやってきます。
「彼は王位を授かって帰って来ると、金を与えておいたしもべたちを呼び出すように命じた。彼らがどんな商売をしたかを知ろうと思ったのである。」

私たちは否応なく主に呼び出されて、報告します。主の天使の前で善と真理が測られます。
「ご主人様、あなた様の一ミナで十ミナをもうけました。」と報告できる人は、素晴らしい人達です。
仁愛の教義を学び、主から与えられた残果を、隣人への仁愛として実らせた方です。この世で働き、隣人のために尽くした方です。
それは自分の職業や役割であったかもしれません。患者のために身を粉にして働いた医療従事者かもしれません。
その人が、心から主のため、そして患者のために尽くし、患者からも歓ばれ、感謝され、さらにそれを善として、その行為自体を歓びます。さらにその行為は、実は主が行われたことだと心から納得して、言えたなら、「私は十ミナ儲けました」と主に報告できます。

すると主は『よくやった。良いしもべだ。おまえはほんの小さなことにも忠実だったから、十の町を支配する者になりなさい。』とおっしゃって褒めてくれます。

一ミナによって、十ミナを儲けた者は、多くこれを得、五ミナを儲けた者は、幾分か得たことを意味します。褒美として与えられた「町」とは教義の真理を意味し、「支配する」とはその教義の真理によって、知性と知恵を得て、生命と幸福を得ることです。(AE 675:7 [7])

十ミナ儲けたと報告した人は、自分が行ったが、実はそれは、主が行ったことを心から感じ、功績を自分に帰さなかった人です。なぜなら善は自分で行えないことを教義から知っているからです。その人は十の町を支配できる人です。なぜならその人は、善は主が行うという教義を知り、その真理によって知恵を得て、主の善の生命である、自分と隣人の幸福を得ることができたるからです。そのためその十ミナを儲けた僕は、主に「進み出て言」うことになります。

五ミナ儲けた僕も、不完全ではありながら、主に『ご主人様、あなた様の一ミナで五ミナをもうけました。』と報告できました。
この二人の僕の満足そうに、報告する姿が目に浮かぶようです。それぞれが一生をかけた仕事の報告の時でもあるからです。

しかし、満足に報告できる人だけではありません。主から頂いたミナを、布に包んで隠した人です。
布に包んだとは、信仰の真理を得たものの、仁愛の善に結びつけず、何ら成果がなかったことを意味します。(AC 5291:5)

この「布」は、先週のイースターにも出てきました。亡くなった主の頭を包んだ布と同じ意味です。布に包むとは記憶にだけ留めた人で、生活に全く役立てなかった人です。
残念ながら、これは私たち、頭だけ、読むだけの新教会員に少なくありません。

真理を記憶にだけ留めて、生活にもたらさなかった者は、真理を取り上げられます。
その一方で、生活で真理を活用した者は、「その一ミナをこの者から取り上げて、十ミナ持っている者に与え」られ、知性が永遠に至るまで富むようになることを述べています。(AE 675:7 [7])

主は「それなら、どうして私の金を銀行に預けておかなかったのか。そうしておけば、私が帰って来たとき、それを利息と一緒に受け取れたのに。」とおっしゃいます。
「商売」「儲け」「銀行に預ける」あるいは「銀行に入れる」とは自分のために霊的生命や知性を得ることを意味します。(AE193[10])
自分にために、霊的生命や知性を得る方も、新教会には少なくありません。あるいはほとんどかもしれません。自分で読んで、賢くなるだけで満足して、それを隣人に役立てない人です。

しかし、ミナのたとえでは『その一ミナをこの者から取り上げて、十ミナ持っている者に与えなさい。』という結論が描かれています。「布に包んで、しまっておいた」僕と同じ結論です。
隣人に役立てなかった真理は、すべて取り上げられてしまいます。本人の持つ愛の本質に合わないからです。
主にとって、それは本人の愛を全うさせるための慈悲の業に他なりません。

しかしさらに悲惨な運命を待っているのは、自己愛と世間愛のままに生きた人達です。
その人達は、主が王になるのを望まず、憎みました。
「私が王になるのを望まなかったあの敵どもは、ここに連れて来て、私の目の前で打ち殺せ。」
これは霊的生命がなくなることを意味します。

主がいつ戻ってくるかは私たちにはわかりません。それは私たちの審判の時であるからです。
私たちは、今日の夜、あるいは明日やってくるかもしれない審判の時に備え、断悪修善、悪を避け、主から善を行います。そして主がいらっしゃったなら、報告します。
私たちの業が忠実なものであれば、主はおっしゃいます。
『よくやった。良いしもべだ。おまえはほんの小さなことにも忠実だったから、十の町を支配する者になりなさい。』アーメン。


マラキ書
7:8 それから、ゼカリヤに次のような【主】のことばがあった。
7:9 万軍の【主】はこう言われる。「真実のさばきを行い、誠意とあわれみを互いに示せ。
7:10 やもめ、みなしご、寄留者、貧しい者を虐げるな。互いに対して、心の中で悪を企むな。」
7:11 ところが、彼らは拒んでこれを聞こうともせず、肩を怒らせ、その耳を鈍くして聞き入れなかった。
7:12 彼らは心を金剛石のようにし、万軍の【主】がその御霊によって先の預言者たちを通して送られた、みおしえとみことばを聞き入れなかった。そのため、万軍の【主】から大きな御怒りが下った。
7:13 「彼らは呼ばれても聞かなかった。そのように、彼らが呼んでも、わたしは聞かない──万軍の【主】は言われる──。
7:14 わたしは、彼らを知らないすべての国々に彼らを吹き散らした。この地は、彼らが去った後荒れすたれ、行き来する者もいなくなった。こうして彼らはこの慕わしい国を荒れすたらせた。」

ルカによる福音書
19:12 イエスはこう言われた。「ある身分の高い人が遠い国に行った。王位を授かって戻って来るためであった。
19:13 彼はしもべを十人呼んで、彼らに十ミナを与え、『私が帰って来るまで、これで商売をしなさい』と言った。
19:14 一方、その国の人々は彼を憎んでいたので、彼の後に使者を送り、『この人が私たちの王になるのを、私たちは望んでいません』と伝えた。
19:15 さて、彼は王位を授かって帰って来ると、金を与えておいたしもべたちを呼び出すように命じた。彼らがどんな商売をしたかを知ろうと思ったのである。
19:16 最初のしもべが進み出て言った。『ご主人様、あなた様の一ミナで十ミナをもうけました。』
19:17 主人は彼に言った。『よくやった。良いしもべだ。おまえはほんの小さなことにも忠実だったから、十の町を支配する者になりなさい。』
19:18 二番目のしもべが来て言った。『ご主人様、あなた様の一ミナで五ミナをもうけました。』
19:19 主人は彼にも言った。『おまえも五つの町を治めなさい。』
19:20 また別のしもべが来て言った。『ご主人様、ご覧ください。あなた様の一ミナがございます。私は布に包んで、しまっておきました。
19:21 あなた様は預けなかったものを取り立て、蒔かなかったものを刈り取られる厳しい方ですから、怖かったのです。』
19:22 主人はそのしもべに言った。『悪いしもべだ。私はおまえのことばによって、おまえをさばこう。おまえは、私が厳しい人間で、預けなかったものを取り立て、蒔かなかったものを刈り取ると、分かっていたというのか。
19:23 それなら、どうして私の金を銀行に預けておかなかったのか。そうしておけば、私が帰って来たとき、それを利息と一緒に受け取れたのに。』
19:24 そして、そばに立っていた者たちに言った。『その一ミナをこの者から取り上げて、十ミナ持っている者に与えなさい。』
19:25 すると彼らは、『ご主人様、あの人はすでに十ミナ持っています』と言った。
19:26 彼は言った。『おまえたちに言うが、だれでも持っている者はさらに与えられ、持っていない者からは、持っている物までも取り上げられるのだ。
19:27 またさらに、私が王になるのを望まなかったあの敵どもは、ここに連れて来て、私の目の前で打ち殺せ。』」

真のキリスト教 527:2 アルカナ訳
(2) なおまた、罪が何かをよく知り、〈みことば〉からたくさんのことを学んで、それを教えても、自己反省がなく、罪の自覚もない人は、ちょうどオカネをためて、それを金庫に入れたまま、何の役にも立てないで、数えては眺め見ている感じです。また金や銀でできている高価なものを集めて、宝箱の中にしまっていても、ただそれが値打ちものだというだけで、部屋の中に閉じこめておくのと同じです。
「自分に託されたタラントを地中に埋めたり、与えられたミナを布にくるんでおくのに似ている」 (マタイ25・25、ルカ19・20)。
「タネが、道端や石地に落ちたのにも似ている」(マタイ13・4、5)。
「葉はしげっても、実をならせないでいるイチジクの木のたとえ」(マルコ11・13)。
「やわらかい肉の心ではなく、鉄石のようにかたい心しかない」(ゼカリヤ7・12)。
「シャコ鳥が自分の生まない卵をいだくように、かれらは富を得ても正しい用い方をせず、生涯 のなかばで富から見捨てられ、その晩年には愚か者になる」(エレミヤ17・11)。
「明かりをもっていても、油を忘れた五人のおとめに似ている」(マタイ15・1~12)。




「イエスはこれを最初のしるしとしてガリラヤのカナで行い、ご自分の栄光を現された。それで、弟子たちはイエスを信じた。」(ヨハネ2:11)

ヨハネ福音書にある「カナの婚礼」は主イエスが、この世で公に最初に行った奇跡とされています。
ガリラヤはパレスチナの地名であり、ガリラヤ湖を含み、イスラエル北部とヨルダンの一部を含む部分です。マリアはガリラヤのナザレで、天使ガブリエルから受胎告知を受けました。

主の最初の奇跡は、婚礼の席でイエスの母が、イエスにぶどう酒の不足を告げて始まります。その後、主イエスが給仕の者に、六つの水瓶を水でいっぱいにして、それを宴会世話役に持って行くよう命じます。すると宴会世話役は、それらが良いぶどう酒であったため、驚いて花婿を褒めたと伝えられています。

これは実際にあった奇跡ですが、よく吟味すると、この最初の奇跡には、様々な疑問を抱くことができます。
最初に出て来る「三日目め」とはいつからのことか?
宣教の初めにいきなり婚礼に招かれていますが、なぜ婚礼の場で最初の奇跡が行われたか?母は何故ぶどう酒の心配をしなければならなかったのか?イエスの「時」とは何を意味するのか?イエスの給仕の者御達への不思議な命令、一見無意味に見える重労働は何を意味するのか?ぶどう酒の良否を判断せよと言われた宴会の世話役とは?

カナの婚礼は、マタイ・マルコ・ルカ福音書には取り扱われてはいません。ヨハネ福音書だけに納められています。その後のエルサレムでの出来事、「宮清め」と呼ばれる出来事は、パームサンデーのエルサレム入場の後の出来事として他の三福音書には記されています。しかしヨハネ福音書には、カナの婚礼での奇跡の後の出来事とされています。これは何か意味があるのでしょうか?

確かにそれぞれの福音書は、福音記録者の個性が溢れていて、その詳細の多少のずれがあってもおかしくはないように思えます。特にヨハネ書は、作者とされるヨハネの思慮深い性格が反映されています。しかし、そのそれぞれの内容は、一点一角に至るまで、神的なものが満ちています。

天界の教えに従って、カナの婚礼以下に含まれている教えをたどります。

「三日目」とは、なんらかの状態の完了と、清浄化・聖化の開始が意味されます。(AC2788)
前の章の特定の日を意味しているのではありません。そして地名のガリラヤは、異邦人を意味しており、そして結婚とは教会を意味します (AE376:29) 。

結婚愛の起源とは、善と真理の結婚です(CL60)。その結婚の中で善と真理は、互いが互いを必要としています(CL61)。その中でどちらかが強いということはありません。しかし、善がない真理は無力です。真理のない善は、形がなく虚ろです。主と教会の結婚は、善と真理の結婚の相応です。そのため主はヨハネ2章以外にも婚姻の喩えを用いられます(マタイ22:1-14, ルカ14:8-24)。婚礼が神聖であるのは、主の内の善と真理の結びつきが、主と私たち、そして私たち自身の中で信仰の真理と仁愛の善が結びつくことを表象されているためです。私たちが真理を学び、それを目的として進めば、隣人への善、相互愛が育ってゆき、大きな効果、天界が育ちます。この天界、地上の天界である教会が育たなければ、善のない真理という無力な存在に留まります。目的は重要で、手段である教義にとらわれて目的を忘れてはなりません。

カナの婚礼によって、異邦人の中での教会の設立が描かれています。従来のユダヤ教会は、偽りや堅苦しい先祖からの決めごとが巾をきかし、先祖に都合のいいように伝えられ、もはや主なる神の教えが誰にも届かなくなっていました。この状況を見た、神である主は、自らこの世界に一人の人として生まれて、それを神とすることで道を作り、その過程を人に示すことで、人類を救おうとされました。
三日目とは、今までの期間、ユダヤ教会の期間が満了し、新しい教会の始まりを告げる「三日目」です。

主はどのようにして宣教を開始されたのでしょうか?カナの婚礼には最初から「母」がいました。
そして、ぶどう酒がなくなった時に、母はイエスに「ぶどう酒がありません」と告げます。
この「母」も教会を意味します(AE710他)。そして最初から婚礼の場にいたということで、以前のユダヤ教会を意味します。そしてぶどう酒がなくなったとは、真理が尽きたことを知らせています。
ぶどう酒とは、真理を意味します、それは霊的善、隣人への仁愛の善と信仰の善となる真理です。(AE376)
もはや旧い教会には、人を隣人への仁愛を行わせるような真理がなくなってしまったと、自ら主に告げました。

これに対して主は
「女の方、あなたはわたしと何の関係がありますか。わたしの時はまだ来ていません。」と応えます。自分の母親に対して、なんと冷たい言葉でしょうか?まるで反抗期の少年が母親に対して口にする言葉です。しかし、主は「女の方」と呼ばれました。「女」は真理への情愛を意味します。(AE555-2)
真理への情愛を意味する「女性」が、情愛を抱かせる真理がないと告げるなら、愛と知恵自体である主とはもはや何の関係が築けません。もはや「何の関係」もないことになります。真理を求める気持が全く無くなってしまい、永遠の生命にも何の興味も抱かなくなってしまったなら、真理自体であり、生命自体である主とは、全く関係がなくなります。

そしてこの関係が完全に再構築できる「わたしの時」とは、主の栄化の時であり、主が完全に神的になり私たちを導いてくれる時ですが、それはまだ来ていません。

母は、すがるような気持で言ったに違いありません。「あの方が言われることは、何でもしてください。」
すなわち、教会の真理に興味が抱けるようなことであれば、どんなことでもして欲しい。この窮地には何にでも縋りたいと言う思いです。

すると主は、手伝いの人達に六つの水甕を、水で満たすよう命じられます。
この水甕に水を満たすというのは、水道の蛇口をひねるだけの私たちとは異なり、結構な重労働です。断水の時に給水車の所に行って容器をいっぱいにして持ち帰るのは楽な作業ではありません。一見、無駄な作業が命じられます。これは旧い真理のことが述べられています。
ユダヤ教、あるいはモーセが命じられた律法をすべて守ることも簡単ではありません。牛や羊や鳩を全焼の犠牲として守るのは、大きな負担です。六つの水甕を満たすことは、ユダヤ人たちが命じられた罪からの清めを意味します。罪を清めるためには自然的な善や霊的な善、そして信仰から善と真理を行わなければ、罪は清められません。字義上ではなく、実質的な実行も簡単ではありません。その意味が証されずに行うのは、まさに大きな労苦です。毎日水を汲んで、高層階まで階段で上がるようなもので、停電や断水がいつ終わって、この労苦から解放されるのかわかりません。

総てを満たすことによってユダヤ人の清めを表象した六つの水甕は、主の奇跡の御働きによって、まずはキリスト教会の真理として開かれます。ユダヤ教会で外的な真理として法として定められた人々の罪の清めは、犠牲や貢ぎ物でした。しかし愛を失い、そして真理を失って単なる水のようになってしまった外的真理を開き、内的真理として、隣人への悪を断ち、相互の愛を育むことで清められることを教えられます。この主の慈しみは、続き、新しい真理を次々と開かれます。

これは天界の教えにあるように、二千年前の出来事ではなく、今のことも示しています。
キリスト教会の真理も三人の神への信仰や、信仰のみが大切という異端が広がり、「みな、初めに良いぶどう酒を出して、酔いが回ったころに悪いのを出す」と宴会の世話役が言った通り、酔いは回り、悪いぶどう酒が出されます。しかし主はさらに天界の教えを地上にもたらし、良いぶどう酒を備えられました。

それは、私たち個々の教会でも同じです。天界の教義の全巻を丹念に読んで完全に理解しないと駄目だと考え、日々の断悪修善を全く行わないなら、「酔いが回ったころに悪いのを出す」ことになってしまいます。これは真理の知識にいる者達である「宴会の世話役」が、悪い酒に酔いが回って「最初は善から真理にいるが、善でない真理に堕落」するようなものです。

主は、世においでになり、良いぶどう酒に変化させることで、外的真理を開き、内的真理とされたはずでした。しかし、日常生活にそれがすぐ反映されたかどうかは別でした。真理が新しくされても、人の愛はその変化について行けません。
カナの婚礼の後、主イエスは母・兄弟・弟子達とガリラヤ湖の北端にあるカペナウムに短い滞在をされ、その後主は過越の祭に合わせてエルサレムに上られます。カペナウムは「おまえが天に上げられることがあるだろうか。よみにまで落とされるのだ。・・さばきの日には、ソドムの地のほうが、おまえよりもさばきに耐えやすいのだ。」 (マタイ11:23,24)と主に嘆かれた地です。そして教会の善と真理を主から教わったにもかかわらずそれを拒んで否定するならそれはソドムと言われる自己愛にいる者よりも悪くなるからです(AE653:9)。
カペナウムは様々な奇跡を行われた場所でもあり、百人隊長のような深い信仰を(マタイ8:5)を示した者もましたが、新しい真理を拒み、否定した者もいました。奇跡では人の愛を変えることは簡単ではありません。せっかくの新しい真理も、拒み・否定されれば、意味がありません。行わない真理も、同じ結末を迎えます。

そして信仰の中心であるエルサレムに上られます。
その「宮の中で、牛や羊や鳩を売っている者たちと、座って両替をしている者たちを見て、
細縄でむちを作って、羊も牛もみな宮から追い出し、両替人の金を散らして、その台を倒し、
鳩を売っている者たちに言われた。『それをここから持って行け。わたしの父の家を商売の家にしてはならない。』」
律法を守るために羊や牛、鳩を犠牲として儀式を行うため様々な地から宮を訪れた者達の利便性のために、動物を売り、両替をしている者が大勢いました。それを追い出されたのです。主がお生まれになったときも、主の肉体の両親は同じようにエルサレムにやってきて鳩を捧げました。シメオンとアンナの預言を受けた時です。その時ここで鳩を贖ったかもしれません。

主は今までの旧い真理を開き、新しい真理を伝えるためにカナの婚礼の奇跡の一環として「宮清め」を行われました。他の福音書では棕櫚の日のエルサレム入場での出来事とされていますが、カナの奇跡に続く宮清めは、新しい真理を開くため、旧い真理、悪い習慣も追い出す必要があります。
ここで、天界の教えにある説明を引用すれば、
「売り買いする者」とは聖なるものから利益を得る者を意味し、両替人の机は、これを神聖な真理から行う者を意味し、鳩を売る者の椅子とは神聖なる善からこれを行う者で、そのため後に宮を「盗人の巣」にしたと言われ、盗人は教会の真理と善を奪い、自分の利得とする者を意味します。(AE840;4)

ぶどう酒に酔っている者を戒められたように、主の奇跡は二千年前の出来事ではなく、今も起きている事への警告が含まれています。私たちは、主の聖なるものを、利益を得るために使っていないでしょうか?回りに口にするのが、自分の名誉や卓越を知らせるためであったり、そして何らかの利得を得るためのものであったりして、本来の再生の目的以外のものに使っていないでしょうか?もし教会の善と真理を不当に奪い、自分の利するよう使うなら、それは罪を冒す事になります。

ヨハネ2章はカナの婚礼から始まり、宮清め、そして主の神殿の構築と進みます。
一見無関係のような話は、主の生涯を預言しています。旧教会の真理を開き、新しくすることで異邦人の中に新しい教会を創立し、そしてガリラヤという日常に戻り、エルサレムに上ります。そこで旧い教会の慣習を否定し、その熱い熱情は弟子達に「あなたの家を思う熱心が私を食い尽くす」と不安を生みます。そしてご自分の身体という神殿が人々に破壊され、再び復活し、栄化されて神人となるという、主の一生です。

しかし同時にその各所においてすべての人の幸せを願う強い愛「熱情」で、人々の変化に備えられています。それは、
「人についてだれの証言も必要とされなかったからである。イエスは、人のうちに何があるかを知っておられたのである。」(ヨハネ2:25)アーメン


【祈り】
天地のただ独りの神、主であるイエス・キリスト。
あなたは、旧い御言葉を開き、真の隣人への本当の愛をお示しになりました。
また、天界の教えを通して、旧約・新約聖書には内意があり、主が十字架の最後の試練を通して栄化されること、その道に従ってゆくことで永遠の生命を得ることもお示しになりました。
私たちが、その教えに酔い、あるいは悪い道に走り、あなたの常に新しい教えを無駄にすることがないよう、地上の教会を通して、私たちに教え、弱い私たちを絶えずお導きください。あなたがご存じのように、あなたの導きなしには私たちは何もできません。弱い私たちを哀れみ下さい、アーメン

新改訳2017
イザヤ
9:1 しかし、苦しみのあったところに闇がなくなる。先にはゼブルンの地とナフタリの地は辱めを受けたが、後には海沿いの道、ヨルダンの川向こう、異邦の民のガリラヤは栄誉を受ける。
9:2 闇の中を歩んでいた民は大きな光を見る。死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が輝く。
9:3 あなたはその国民を増やし、その喜びを増し加えられる。彼らは、刈り入れ時に喜ぶように、分捕り物を分けるときに楽しむように、あなたの御前で喜ぶ。
9:4 あなたが、彼が負うくびきと肩の杖、彼を追い立てる者のむちを、ミディアンの日になされたように打ち砕かれるからだ。

ヨハネ福音書
2:1 それから三日目に、ガリラヤのカナで婚礼があり、そこにイエスの母がいた。
2:2 イエスも弟子たちも、その婚礼に招かれていた。
2:3 ぶどう酒がなくなると、母はイエスに向かって「ぶどう酒がありません」と言った。
2:4 すると、イエスは母に言われた。「女の方、あなたはわたしと何の関係がありますか。わたしの時はまだ来ていません。」
2:5 母は給仕の者たちに言った。「あの方が言われることは、何でもしてください。」
2:6 そこには、ユダヤ人のきよめのしきたりによって、石の水がめが六つ置いてあった。それぞれ、二あるいは三メトレテス入りのものであった。
2:7 イエスは給仕の者たちに言われた。「水がめを水でいっぱいにしなさい。」彼らは水がめを縁までいっぱいにした。
2:8 イエスは彼らに言われた。「さあ、それを汲んで、宴会の世話役のところに持って行きなさい。」彼らは持って行った。
2:9 宴会の世話役は、すでにぶどう酒になっていたその水を味見した。汲んだ給仕の者たちはそれがどこから来たのかを知っていたが、世話役は知らなかった。それで、花婿を呼んで、
2:10 こう言った。「みな、初めに良いぶどう酒を出して、酔いが回ったころに悪いのを出すものだが、あなたは良いぶどう酒を今まで取っておきました。」
2:11 イエスはこれを最初のしるしとしてガリラヤのカナで行い、ご自分の栄光を現された。それで、弟子たちはイエスを信じた。

AE376:29 
(ヨハネの2:1-10で)主が行われた奇跡のすべては、旧約聖書で語られる主による奇跡と同じように、内には天界と教会に関する事柄が含まれており、そのため主の奇跡は神的です。(AC 7337, 8364, 9051)
そのためここでの奇跡は御言葉の他のところと同じように、「結婚」は教会を意味し、「ガリラヤのカナ」は異邦人の中で、を意味し、「水」は外的教会の真理、それは御言葉の文字の意義からのユダヤ教会の真理のようなもので、「ぶどう酒」は内的教会の真理、それは例えばキリスト教会の真理のようなものです。
そのため、主が「水をぶどう酒にする」とは、外的教会の真理を、内に隠されている内的な事柄を開くことによって内的教会の真理とすることを意味します。「ユダヤ人のきよめのしきたりによって置かれた六つの石の水甕」とは御言葉のすべての真理、そしてユダヤ教会とその礼拝を意味します。

これらは、主から主の内にある神的なものの表象であり寓意で、永遠の事柄を含んでいます。

この理由から、「ユダヤの清めのための六個の石の水甕」があったことは「六」がすべてを意味し、それは真理について言われています。
「石」は真理を意味し、「ユダヤ人の清め」は罪からの清めを意味し、そのためユダヤ教会のすべてが意味されます。なぜなら、教会はすべての罪からの清めに関係するので、人が罪から清められるにつれて、人は教会となってゆくからです。

「宴会の世話役」とは真理の知識にいる者達のことを意味し、彼が花婿に対して言った「みな、初めに良いぶどう酒を出して、酔いが回ったころに悪いのを出すものだが、あなたは良いぶどう酒を今まで取っておきました。」とは、教会はすべて、最初は善から真理にいるが、善でない真理に堕落し、しかし今、教会の最後にあっては、善からの真理あるいは純粋な真理が、主によって与えられる、ことを意味します。




テラフィム Teraphim

ところが、ラケルはすでにテラフィムを取って、それらをらくだの鞍の中に入れ、その上に座っていたので、ラバンが天幕を隅々まで調べても見つからなかった。(創31:34)

テラフィムとは、家の守り神のようなものといわれています。
士師記にはミカという人物が私的に神棚のようなものを持ち、エポデとテラフィムを持っていた(士17:5)また、ダビデの妻のミカルが、テラフィムを、ダビデの身代わりとした(Ⅰサム19:13)
という記述があります。

しかし像自体を神として崇拝するのは偶像崇拝として十戒で厳しく禁じられています。また日本は多神教の風土と言われ、仏像や社、鏡、依り代、神木などが各地に数多くあります。ある極端な新教会員が、説教の通訳の中で、「日本の多神教を罰するため、原爆投下が許された」という偽りをはさんだため、何人かの新教会員が教えを捨てるという過去もありました。

「神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。・・」 (ヨハネ3:17)

主の御言葉をよく学び、主のことをよく存じ上げていたなら、偽りに惑わされず、主に信頼し続けられたはずです。主が誰で、どういうお方であるかは、私たちの死後の居場所を決めてしまうほど重要なことです。そのため、私たちの救いに関する偽り、信じなければ罰されるなどと偽り、救いを遠ざけてしまうことは十戒の中で厳しく禁じられています。

一方で多様性を大切にするという、世の風潮があります。その中では、一神教や様々な真理も、頑なな考えとして拒否されがちです。
しかし多様性にも二種類あって、同一種の中の、変化があるものの、主によって一つに保たれているものが、天界の中にある「相違性」が一方にあります。
また別の多様性は、分派をもたらす地獄にある「多様性」です。(結婚愛324)

そして、一人の神に対する考え方が様々であることは、神からの啓示があるかどうか、それを受け入れるかどうか、によって大きく変化します(TCR11)。その啓示があるか、民族として受け入れやすいかについて、主は裁かれません。主は世を救うためにこの世にお越しになったからです。そしてその受け入れ度合いは、上位の概念、すなわち神の概念を、いかに情愛の中に受け入れるかによって決まります。理屈ではなく、情愛です。歓びです。(cf. AC3843)

テラフィムが偶像として、禁じられていることには変わりありません。創世記の中に出てくる
天界の教えによれば、ヤコブの叔父ラバンの持つテラフィムは、偶像を意味するのではなく、「真理」の一つを意味します。(cf. AC4111)
「ラケルは、父が所有しているテラフィムを盗み出した。」(創31:19)とは、大切で聖なるものとしていた真理を奪い、状態が変化することを意味します。

ヤコブの物語は主の自然性を、真理から善にいたるまで神的にする方法を描き、それは同時に私たちの再生の方法をも描いています。(AC3656)
テラフィムが出てくる場面は、父ラバンと甥ヤコブとの分離をテーマとしています。

ヤコブは兄のエサウから長子権を得て恨みを買ったため、カナンにいることができなくなり、母のレベカ、そして父イサクから母方の故郷に行って妻を娶るよう勧められ、片道800キロとも言われる長い旅が始まります。
カナンの地からパダン・アラムの地にやってきたヤコブは、叔父のラバンの元で、二人の娘、レアとラケルを得るために、それぞれ7年間ずつ働きました。そしてさらに家畜を殖やすための6年間を加え計20年間働いたことになります。
20年と言えば、日本の刑法で(加重されない場合の)懲役刑の上限に当たります。尋常な長さではありません。
しかし、「ヤコブは下の娘のラケルを愛していたので、ラケルのために働く7年間は「ほんの数日のように思われた。」(創29:20)

二人の娘は、真理への情愛を表し、さらなる6年間の働きは、「戦いと労苦」を意味します(AC4177,8)。
その間、ラバンはヤコブをうまく働かせようとして、十回報酬を変更したといいます。十回は実際の回数ではなく、頻繁に変更されたということです。

ラバンの内的意味、表象するものは、直系ではなく「傍系の善」を表します。アブラハムからイサクを経て、ヤコブに至る系が直系を表すとすれば、ヤコブの母のリベカの兄弟が、ラバンであり、母方(傍系)の叔父です。しかし、アブラハムの父のテラを同じ先祖に持っています。これらの家系によって、主は天界のことを描かれ、表象されたので、聖書の人物が表すものは聖なるものとされました。それは聖職者の役目は聖で、その秩序に従わなければなりませんが、本人の人物自体は聖ではないことと同じ事です。

アブラハムの父のテラも偶像崇拝者で聖ではありません。しかし、アブラハムは主の天的なものを表象していたため、聖とされました。その直系の息子のイサクは神的合理性を表象し、その妻のリベカは神的合理性の神的真理を表象します。リベカの兄弟であったラバンは、善ですが、傍系の善です。そしてこの傍系の善とは、外的な善、物質的善の情愛が意味されます。ラバンが自分の財産にこだわり続けたのもそのためです。傍系であっても、霊的善を獲得するためには役立ちます。しかし傍系であるため、善と真理と言われても、外部的・物的なものしか頭に浮かびません(AC3612)。

霊的善は、隣人への純粋な思い遣りであり、これを意志と行為で、善とすることです(AC5826-2,5)。そしてそれは、親の性格から受け継がれる遺伝的・自然的善ではあってはならず、御言葉を源にしていなければなりません。御言葉を元にすることで自然的光ではなく、天界の光を内に受けて、真理を得、それを意志し行為とします (cf.AC5965) 。主を源とするため、霊的といわれます。

ラバンで表象される物的な善とは、深い源を伴わないもので、外観だけ隣人に思い遣りがあるように見えますがうわべだけです。御言葉を源としてないので、内は不純です。天界の光に照らされていません。
ラバンの傍系善は、異教徒の善とも言われ、御言葉を持っていないので、主を源とすることができず、生来的な善を行いまが、その善は善行とは呼ばれません。直系善は、御言葉を持っており、天界と直接的交流が可能です。天界を通して主と交流でき、主との交流を通しての善は「善行」と呼ばれます。(AC4189)

行いさえ善ければ、あるいは隣人のためになれば、それで十分ではないかと思われるかもしれません。しかし、自然的善は、どのような善であろうとも、天界、そして主と結びつきを生みません。日本人が善良な性格から生来的善を行っても、御言葉を元にしていないなら、自然的善に留まり、主からの流入を受けることができません。主からの流入がなければ、天界の光を受けることができず、救いには結びつきません。自然的に法律の遵守や、自分の生活や名誉を守るためです。主が源となっていません。

ただし、なんらかの宗教的原理をもち、その原理から善を行うなら、霊界に入ってから教えられ、救われます。多神教であるから、それだけで罰されるわけでは決してありません。
偶像を礼拝しながら、自分たちの宗教に従って仁愛のうちに生活するなら、主の神的感覚性の面で主と結ばれ生き返ります。銅製の蛇を見上げて生き返る(民数記21:9)のは、この結びつきを示しています(AC4211)。WHO他医療機関等のシンボルにもなっている、銅製の蛇の由来はここから来ていますが、全く異なる話です。

ラバンの持っていたテラフィム・真理は、主を源としていた、本物の聖なる真理であったか、それとも主を源とせず親から受け継いだ自然的な「真理」であったか、これがヤコブとラバンの分離にあって、問われます。

ヤコブは主の命令によってラバンから離れ、カナンにある自分の家族の元に向かいます。しかし、ヤコブは嫁のラケルが、真理であるテラフィムを家から盗み出したことを知りません。自分の大切なもの、テラフィムと自分の家族を盗まれたと感じているラバンは、ヤコブ一家を追いかけて、ユーフラテス川を渡りカナンの手前のギルアデの山地まで追ってきます。ヤコブが出てきた時の経路とは異なりますが、パダン・アラムからの距離は同じくらいあります。娘を含む家族と財産、自分が盗まれたと思っているテラフィムという「真理」がよほど惜しかったのでしょう。娘達も財産も20年働いて、ヤコブが手にしたことなど忘れたかのように執拗です。

天界の教義は、霊界における霊との分離が簡単ではないことを、この執拗さに喩えて説明します。
善霊との分離は気づかないうちに行われますが、悪霊との分離は彼らが自由と考えるうちに、私たちが拒み、撃退することで行います。しかし善霊と悪霊との中間の霊は、最終的には自由な状態で行われるものの、分離に至るまでは慎重に行われます。「羊の毛を刈」(創31:19)ることで役立ちを感じさせ、さらに、共にいると不愉快さを感じるようになる、という様々な過程があります(AC4110)。

そしてテントでのテラフィムの捜索で喩えられる、真理が自分のものであったかどうかを徹底的に探し、確認させます。ラバンは長く時間をかけ、ヤコブのテントから始まり、レア、二人のはしため達のテントの家捜しに至ります。しかし盗んだのは内的真理への情愛を意味するラケルであり、彼女は「らくだの鞍の下に入れ、その上に座ることで」(創31:33,34)隠し続けます。こうすることで、もはやテラフィムで表される真理は、ラバンのものではないことを納得させます。しかもそれは、初めから彼のものではなかったということを納得した上で分離し、別れることになります。最後にテラフィムがどうなったかについては、全く触れられません。

天界の教えは、自分で得たと思われる真理、そして善は、自分のものではないことを知らせるために、このテラフィムの盗難の喩えによって教えます。新教会の教義にも、善は自分から自分のものであるかのように行わなければならないが、それは主から来て、主のものであると考えなければならない、と洗礼時に確認します。自分が悪霊に影響されているのか、善霊・主に影響されているのかを知るのはなかなかわかりません。そこで、「外から人に入って来るどんなものも、人を汚すことはできません」(マルコ7:1)とあるように、「はいってくるものではなく、出て行くものが人に感化を与える」(AC4151)と教えます。

私たちは新教会の天界の教えを学び、悪は悪魔のもの、善は主のものであることを知ってはいますが、なかなかこれを実感できないでいます。しかしこれを知れば、悪は悪魔のものであるから拒み、善は主のものであるから行うと、よりわかりやすく選択することができます。主が与えられる強力な武器です。ただし、知った上で悪を行えば、その人は悪魔のものとなります。

ヤコブとラバンは分離の最後に石の柱を立てて契約をします。これは「真理を通して善を確認し、善の力で真理を確認すること」(AC4197)を意味し、ラバンは別れても主の自然性の面で神と結びついていることが、この石の柱の誓いによって証明されます。御言葉を持たなくても、善を行う異教徒は救われることが天界の教えの中で明らかにされています。

そしてラバンは言った。「この石塚は、今日、私とあなたの間の証拠である。」それゆえ、その名はガルエデと呼ばれた。(創31:48)アーメン。

【祈り】
天地ただお一人の神、創造主にして贖い主、神人たる主イエス・キリスト。
あなたの慈しみは、私たちだけではなく、人類すべてに及びます。そして、あなたはキリスト教徒以外をも善く生きる人はお救いになることを教えられました。
あなたは誰も罰されません。裁くのは私たち自身の言葉です。
私たちは口では理解したつもりでも、心の底の理解は浅く、あなたのお力と支配をわずかしか知りません。あなたの慈しみによって、私たちがあなたの善を行えるよう、絶えずお導き下さい。アーメン。


【創世記】
31:30 それはそうと、あなたは、あなたの父の家がどうしても恋しくなって出て行ったのだろうが、なぜ私の神々を盗んだのか。」
31:31 ヤコブはラバンに答えた。「あなたがご自分の娘たちを私から奪い取りはしないかと思って、恐れたのです。
31:32 あなたがご自分の神々をだれかのところで見つけたら、私はその者を生かしておきません。私のところに何があるか、私たちの一族の前で、ご自分で調べてください。そして持って行ってください。」ヤコブは、ラケルが盗んだことを知らなかったのである。
31:33 そこで、ラバンはヤコブの天幕とレアの天幕、また二人の女奴隷の天幕に入って行ったが、見つからなかった。彼はレアの天幕を出て、ラケルの天幕に入った。
31:34 ところが、ラケルはすでにテラフィムを取って、それらをらくだの鞍の中に入れ、その上に座っていたので、ラバンが天幕を隅々まで調べても見つからなかった。
31:35 ラケルは父に言った。「父上、どうか怒らないでください。私はあなたの前で立ち上がることができません。女の常のことがあるからです。」彼は捜したが、テラフィムは見つからなかった。
【マルコ】
7:14 イエスは再び群衆を呼び寄せて言われた。「みな、わたしの言うことを聞いて、悟りなさい。
7:15 外から入って、人を汚すことのできるものは何もありません。人の中から出て来るものが、人を汚すのです。」
7:16 【本節欠如】
7:17 イエスが群衆を離れて家に入られると、弟子たちは、このたとえについて尋ねた。
7:18 イエスは彼らに言われた。「あなたがたまで、そんなにも物分かりが悪いのですか。分からないのですか。外から人に入って来るどんなものも、人を汚すことはできません。
7:19 それは人の心には入らず、腹に入り排泄されます。」こうしてイエスは、すべての食物をきよいとされた。
7:20 イエスはまた言われた。「人から出て来るもの、それが人を汚すのです。
7:21 内側から、すなわち人の心の中から、悪い考えが出て来ます。淫らな行い、盗み、殺人、
7:22 姦淫、貪欲、悪行、欺き、好色、ねたみ、ののしり、高慢、愚かさで、
7:23 これらの悪は、みな内側から出て来て、人を汚すのです。」
【天界の秘義】4162. (アルカナ訳)
「かれは捜したが、テラピムを見つけなかった」とは、かれのものがなかったことを指します。すなわち諸真理はラバンのものではありません。これは「捜しても見つからない」という意味から分かります。外的・歴史的意味では、たしかにラバンのものでしたが、隠されていたということは、内的意味では、ラバンのものではなかったことを指します。
「テラピム」とは、神由来の諸真理であることは、4111節を参照してください。諸真理が「ラバン」の意味する善に属するものではなく、準内部の真理への情愛に属するものであることは、4151節で述べたことから明らかです。以上から今分かることは、テラピムについて記してある事柄には、ある種の秘義が隠されていることです。

エフタの娘 Jephthah's daughter
私がアンモン人のところから無事に帰って来たとき、私の家の戸口から私を迎えに出て来る者を【主】のものといたします。

モーセの死後、後継者として、ヨシュアが立てられ、イスラエル民族はモーセが果たせなかった約束の地、カナンを征服します。輝かしい勝利でした。約束の地を取り戻すことができたのです。
イスラエル民族は、主と約束を結んでいました。
「この地の住民と契約を結んではならない。彼らの祭壇を打ち壊さなければならない。」(士師記2:1)
これは出エジプト記(23:32,34:12,13, 申命記7:2-5,1:3)他にあり、未だカナンの地にはびこる悪しき信仰に巻き込まれてはならないと厳しく戒められます。

日本でいえば、神社仏閣や仏像・社を打ち壊せ、となるでしょうか。日本で今そんなことをしたら厳しい処罰と社会的非難が待っているでしょう。一昔前にイスラム教の一派タリバンが、貴重な仏教遺跡などを打ち壊して、全世界の非難を浴びたのが記憶にあります。しかし、士師記の当時は厳しく行われました。神からの命令であったからです。

御言葉は霊的意義だけを大切にしていれば、その文字的意味はどうなってもいいのでしょうか?
いえ、御言葉は文字上の意味にいたるまで神聖です。
天界の教えは、完全に守り、行わなければならないものを含む法、望むならば(教会)が行ってもよいことを含む法、教会によって行う事を今日は廃された法の三種にわけています。しかし、いずれも神聖であると説きます。AC天界の秘義9349(4)

旧い世代は文字の意義も熱心に守りました。しかしモーセの次の指導者であったヨシュアが亡くなると、変化してゆきます。
「その世代の者たちもみな、その先祖たちのもとに集められた。そして彼らの後に、【主】を知らず、主がイスラエルのために行われたわざも知らない、別の世代が起こった。
イスラエルの子らは【主】の目に悪であることを行い、もろもろのバアルに仕えた。」(2:10,11)
新しい世代にとっては、親や祖父母の信仰は、煩わしいものかもしれません。親が子どもの世代に信仰を押しつけるのは、次第に新鮮な記憶が薄れて、尊ばれなくなります。親自体も教会に行かず、信仰を続けないようであれば、なおさらそうです。イスラエルの子らは神の命令を忘れ、先住民族と共存・妥協の道を選びます。

「そのとき、【主】はさばきつかさを起こして、略奪する者の手から彼らを救われた。」(士2:16)
そういう状況の中で、保護し、管理監督する者が主に選ばれます。これを士師、「さばきつかさ」と言います。
さばきつかさ(士師)は12名上げられています。有名なさばきつかさには、サムソンがいます。十二人の一人です。そしてその中のまた別の一人が、エフタです。サムソンは最後の方のさばきつかさでしたがエフタは中程に主が選びました。

エフタは「勇士であったが、彼は遊女の子であった」(11:1)と言われ、「イスラエルを六年間さばき、・・ギルアデの町に葬られた。」(12:7)
遊女の子であったためか、本妻に家を追い出されますが、イスラエルに戦争を仕掛けてきたアンモン人を、長老達の求めに応じて打ち破るという目覚ましい働きをします。

当時カナンにいた先住民族は、私たちの内にある遺伝悪を意味しています(AC1573)。そのため主はこれら遺伝悪を聖絶せよ、すなわちすべて断て、と命じられました。私たちも理想の教会にきて、自分の持つ遺伝悪が邪魔をしているなら、天界へ進めません。そこですべて遺伝悪を断つことを主が命じられたわけです。カナンの先住民族は様々であったように、遺伝悪も一つではありません。

モアブやアンモンの子らとは「神聖に見える外的礼拝にいながら、内的な礼拝にはいないため、外的礼拝に属する善と真理を歓んで学びますが、内的礼拝は拒否して軽蔑する悪です。
このような礼拝と宗教は、自然的善にはいるが、自分に比べて他人を軽蔑することになります。」(AC2468)
御言葉の中でのそんな人達の性質は、最初はまだあまり汚れてはいませんが、次第に汚れてゆき、最後には完全に汚されて内的な事柄と教義を拒絶します。私たちの内にも、点検すれば、そのような悪が見つかるはずです。

アンモン人との戦いの初めに、エフタが主にした誓いが冒頭の句です。
「もしあなたが確かにアンモン人を私の手に与えてくださるなら、私がアンモン人のところから無事に帰って来たとき、私の家の戸口から私を迎えに出て来る者を【主】のものといたします。」(士11:30,31)しかも、「私はその人を全焼のささげ物として献げます。」というおぞましい誓いです。人をいけにえにするという耳をふさぐたくなるような誓いを、神に対してします。

著作の中に「御言葉の解説」という書があり、その中にはこう書かれています。
「遊女の息子であるエフタは、おぞましい誓いをたてます。最初に出会った人物を犠牲として捧げる、というものでした。そのため、自分の一人娘と出会うという結果がもたらされます。士師の間でさえ、このような狂信的な信仰が支配していたのです。・・・正常な人物とは思えません。」(6071. 士師記 IX)

エフタはアンモン人と戦い、二十の町を激しく打ち、屈服させるという戦果を上げます。
その戦いから帰ってきたエフタを迎えるため、待っていたのは、彼のたった一人の娘でした。
「エフタがミツパの自分の家に帰ると、なんと、自分の娘がタンバリンを鳴らし、踊りながら迎えに出て来ているではないか。」
何という残酷な結果が待っていたでしょう!しかしたとえ自分の子ではなくても、エフタの誓いは、最初に出会った人物を全焼の捧げ物とするという、おぞましい誓いでした。

エフタも自分が神に誓った言葉を換えることはできません。また聖書の中には名前さえ記されていない、エフタの娘は、「お父様、あなたは【主】に対して口を開かれたのです。口に出されたとおりのことを私にしてください。【主】があなたのために、あなたの敵アンモン人に復讐なさったのですから。」(11:36)と自分の運命を受け入れます。

御言葉の「娘」は、情愛を意味します。家の戸口から迎えに来る情愛は、タンバリンと踊りで、勝利を祝ったはずですが、父親のエフタが行った不用意な誓いのため、この情愛は失われます。
「戸」は真理から善への入り口です。(AC8989)戸口が開くと善に入りますが、閉められると入れません。善に入れるかどうかは、情愛の有無によって決まります。

「人間の記憶に入り、そこで残るためには、何らかの情愛と、惹きつける愛が必要です」(AC3336[2])。
最初はアンモン人の意味する外的礼拝の実施と内的礼拝への拒否に勝利して歓んだはずでした。
しかし、その情愛は次第に薄れてゆきます。うわべは歓びますが、深い本心での歓び、情愛は消えてゆきます。
娘が、ニケ月間、山をさまよう猶予を父に乞い、許されます。
「二か月が終わって、娘は父のところに帰って来たので、父は誓った誓願どおりに彼女に行った」(11:39)。そのため、内的礼拝への情愛は時間の経過とともに消えてゆき、最後には無くなります。うわべだけの情愛で、心から出た情愛ではなかったのです。

律法での主への誓いは、こうです。
「あなたがたは、わたしの名によって偽って誓ってはならない。そのようにして、あなたの神の名を汚してはならない。わたしは【主】である。」(レビ19:12)
「男が【主】に誓願をするか、あるいは、物断ちをしようと誓う場合には、自分のことばを破ってはならない。すべて自分の口から出たとおりのことを実行しなければならない。」(民30:2)
律法に従ってエフタは誓いを果たさなければなりません。それはエフタの娘にとってもそうでした。
エフタの娘にとっては、命をかけて行わなければならない父親の誓いでした。

しかし、
「誓いは、内的あるいは霊的な人に属さないため、主がこの世にお越しになったとき、内的あるいは霊的なことを教えられ、教会の外的なことを廃され、内部をお開きになりました。」黙示録解説AE608[9]
そのため、「しかし、わたしはあなたがたに言います。決して誓ってはいけません。」(マタイ5:34)
内的なものがないなら、誓ってはならないと戒められたのです。

「主への誓いを破ってはならないという」旧約聖書の戒めは、今でも聖なるものです。どこかの国の政治家が聖書を手にした誓いを平然と破ってしまうのは、信じられない思いです。誓いを守ることは、当然だと思います。
しかしこれは人間の意志が弱いことを主が見越されただけはなく、誓いには別の意味があります。

「誓いとは、主から発するため、聖なるものです。一見すると、全く異なるように思えます。・・しかし、神的なものや主に関することになれば、それは全く誓いを意味せず、意志し、備えること、すなわち行動を意味します。」(AC4091)
そのため「主が誓ってはならない」と、主がおっしゃったように、主に関する事柄や、神的なことを誓ってはなりません。それは主にあっては、行動のレベルです。
いいかげんな政治家の公約のように、できなくても謝ればよい、あるいは何か別のことをすればいいといったいい加減なレベルのものではありません。

主の誓い、私たちを救うための約束は、新約聖書や旧約聖書と、誓約を書面として残されています。それは決して破られない、不動の実行レベルのものです。十戒は一方では主の誓いであり、神殿の中の至聖所に置かれた最も聖なるものです。すべての人間に必要な誓いです。私たちにとって、これ以上聖なるものはありません。主が私たちすべてに誓われたものです。十戒を守るならば、必ず永遠の幸福を約束すると約束です。これ以上神聖な誓いは宇宙のどこにもありません。

この神聖そのものである誓いを、人間が口にしていいものでしょうか?エフタの誓いは、行ってはならないものでした。しかし、エフタの娘の行ったことは否定できません。

主は私たちの正しい誓いについて、改めておっしゃいます。

「あなたがたの言うことばは、『はい』は『はい』、『いいえ』は『いいえ』としなさい。それ以上のことは悪い者から出ているのです。」(マタイ5:37)
アーメン


祈り
天地唯一の神、肉体をとられて、神人となられた主イエス・キリストよ
あなたの誓いは、何よりも神聖で、私たちの救いはあなたの誓いにかかっています。
私たちは、聖なるものに誓わず、ただ『はい』は『はい』、『いいえ』は『いいえ』と証しします。
あなたの慈しみが、豊に私たちに注ぎ、私たちがドアを開き、あなたの神的善を受け取ることができますように。








【新改訳2017】
士師記
11:30 エフタは【主】に誓願を立てて言った。「もしあなたが確かにアンモン人を私の手に与えてくださるなら、
11:31 私がアンモン人のところから無事に帰って来たとき、私の家の戸口から私を迎えに出て来る者を【主】のものといたします。私はその人を全焼のささげ物として献げます。」
11:32 こうして、エフタはアンモン人のところに進んで行き、彼らと戦った。【主】は彼らをエフタの手に渡された。
11:33 彼はアロエルからミニテに至るまでの二十の町、またアベル・ケラミムに至るまでを非常に激しく討ったので、アンモン人はイスラエル人に屈服した。
11:34 エフタがミツパの自分の家に帰ると、なんと、自分の娘がタンバリンを鳴らし、踊りながら迎えに出て来ているではないか。彼女はひとり子で、エフタには彼女のほかに、息子も娘もなかった。
11:35 エフタは彼女を見るや、自分の衣を引き裂いて言った。「ああ、私の娘よ、おまえは本当に私を打ちのめしてしまった。おまえは私を苦しめる者となった。私は【主】に向かって口を開いたのだから、もう取り消すことはできないのだ。」
11:36 すると、娘は父に言った。「お父様、あなたは【主】に対して口を開かれたのです。口に出されたとおりのことを私にしてください。【主】があなたのために、あなたの敵アンモン人に復讐なさったのですから。」
11:37 娘は父に言った。「このように私にさせてください。私に二か月の猶予を下さい。私は山々をさまよい歩き、自分が処女であることを友だちと泣き悲しみたいのです。」
11:38 エフタは、「行きなさい」と言って、娘を二か月の間、出してやったので、彼女は友だちと一緒に行き、山々の上で自分が処女であることを泣き悲しんだ。
11:39 二か月が終わって、娘は父のところに帰って来たので、父は誓った誓願どおりに彼女に行った。彼女はついに男を知らなかった。イスラエルではしきたりができて、
11:40 年ごとに四日間、イスラエルの娘たちは出て行って、ギルアデ人エフタの娘のために嘆きの歌を歌うのであった。

【新改訳2017】
マタイ
5:33 また、昔の人々に対して、『偽って誓ってはならない。あなたが誓ったことを主に果たせ』と言われていたのを、あなたがたは聞いています。
5:34 しかし、わたしはあなたがたに言います。決して誓ってはいけません。天にかけて誓ってはいけません。そこは神の御座だからです。
5:35 地にかけて誓ってもいけません。そこは神の足台だからです。エルサレムにかけて誓ってもいけません。そこは偉大な王の都だからです。
5:36 自分の頭にかけて誓ってもいけません。あなたは髪の毛一本さえ白くも黒くもできないのですから。
5:37 あなたがたの言うことばは、『はい』は『はい』、『いいえ』は『いいえ』としなさい。それ以上のことは悪い者から出ているのです。

黙示録解説 608[9]
誓いは、内的あるいは霊的な人に属さないため、主がこの世にお越しになったとき、内的あるいは霊的なことを教えられ、教会の外的なことを廃され、内部をお開きになりました。そのため、主は神と天界と教会の神聖な事柄によって誓う事を禁じられました。これはマタイ(5:33-37)の御言葉にあります。

ここに誓ってはならない聖なるものが上げられています。「天」「地」「エルサレム」そして「頭」です。
「天」とは天使的天界で、そこは「神の玉座」と呼ばれます。「地」は教会であり、「神の足の足台」とされ、「エルサレム」は教会の教義で、「偉大な王の都」と呼ばれ、頭はそこからの知性が意味されます。そのため「あなたは髪の毛一本さえ白くも黒くもできない」とおっしゃり、これは人は自分からでは何も理解できないことを意味しています。

天界の秘義9349(4)
完全に守り、行わなければならないものを含む法
20:3-5, 7-8, 12-17, 23; 21:12, 14-15, 20; 22:18-20, 28; 23:1-3, 6-8, 24-25, 32.

望むならば(教会)が行ってもよいことを含む法
20:10; 21:18-19, 22-25, 33-36; 22:1-14, 17, 21-23, 25-27, 31; 23:4-5, 9, 12-16, 33.

教会によって行う事を今日は廃された法
20:24-26; 21:2-11, 16, 21, 26-29, 31-32; 22:15, 29-30; 23:10-11, 17-19.

しかし、以上に述べたように、これらすべては同じく神聖で、等しく神の御言葉です。

Jepthah's Daughter, James Jacques Joseph Tissot. Source: The Jewish Museum.

聖なるもの
「愚かで目の見えない者たち。黄金と、その黄金を聖なるものにする神殿と、どちらが重要なのか。」マタイ23:17

神社や寺院などに行くと、神聖で厳粛な雰囲気を感じることがあります。主の祈りでも「御名を聖とされますように」と祈り、讃美歌でも「聖なる」「ホーリー」という語がよく出てきます。また「これらをあなたの兄弟アロン、および彼とともにいるその子らに着せ、彼らに油注ぎをし、彼らを祭司職に任命し、彼らを聖別し、祭司としてわたしに仕えさせよ。」(出 28:41)など犠牲や捧げ物を「聖別せよ」という律法は数多くあります。

これら「聖なるもの」の本質とは何でしょうか? 「黄金を聖なるものにする神殿」とは何でしょうか?

ある国語辞書をひもとけば、神聖とは「尊くておかしがたいこと。清浄でけがれがないこと。特に、宗教・信仰の対象などとして、日常の事柄や事物とは区別して扱われるべき特別の尊い価値をもっていること。」とされています。聖別という言葉があり、「区別して扱われるべき」「こと」や「もの」があり聖なるものと、そうでないものを区別します。先の出エジプト記の引用で、「アロン他を聖別して主に仕えさせよ」、は、一般人と聖職者を区別して、聖なるものに仕えさせるという意味です。
また模範となるべき人という意味で、一般人とは異なる聖人という「人」のことをいう場合があります。

日本においての聖とは、各地を回遊した仏教僧のことを聖(ひじり)と呼びます。世界各国の宗教でも、高僧や聖人という称号を持つ人がいらっしゃいます。
「聖人」の位を組織として認めるカトリック教会では、「生存中にキリストの模範に忠実に従い、その教えを完全に実行した人たちのことであり、神と人々のために、またその信仰を守るためにその命をささげるという殉教もその証明とな」るとカトリック中央協議会は定義しています。

スウェーデンボリの霊界での経験によれば、ある熱心な信者や聖職者が、霊界に入って、彼らの考えている「聖人」を探そうとしても、まず見つけることができず、彼らは天界か地下の世界にいると教えられます。
そして天界では、聖人の崇拝は、おぞましいものとされ、天使は聞いただけで寒気を覚えます。
なぜなら聖人礼拝は、主の否定につながるからです。聖人礼拝を認めれば、主は唯一の礼拝の対象ではなくなり、するとそう思っている天使たちとの分離が起こり、天界との交流が絶たれて、そこから流れる幸福も絶たれるからです(参考:真のキリスト教824)。そのため自分を拝まれた天使は、「神を礼拝しなさい」(黙22:9等)と、自分への礼拝を拒みます。
これは謙遜などでではありません。天使の生命と幸福が失われるという危機を迎えるからです。主の功績と義を自分のものにしてはならないというのが「盗んではならない」の天的意義で(真のキリスト教319)、別の神という観念が浮かんだ瞬間、唯一の神、主が支配する天界にいられなくなります。

そのため、天界には主以外に「聖人」とされる存在はいません。聖なる書の著者であっても崇拝の対象とはされません。私たちは、モーセが書いた律法、各預言者の書、マタイ・マルコ・ルカ・ヨハネの福音書を聖なる書として、また天界の教義を聖なるものとしますが、その書いた人自身を、礼拝の対象とはしません。スウェーデンボリを礼拝することもありません。天界にも霊界にも「聖人」として崇められる存在が見つからないとなれば、「聖人」が崇められるところは、残りの地獄ということになります。ただしこれは聖人崇拝についての話です。
天使でさえ自分に功績などないと崇められることを嫌います。私たちも謙虚であるよう努めます。

黙示録のフィラデルフィアにある教会に書き送った『聖なる方、真実な方、』とは、主イエスのことで、その方とは、「仁愛と信仰の源である主、を意味します。主は「聖」と呼ばれます、なぜなら仁愛は彼から来るからです。そして「真実な方」と言われます、なぜなら信仰は主から来るからです。」(黙示録解説204)

私たちは、「神はお一人であり、それは主イエスキリストであり、主に信仰を持てそして、悪を断ち、善を修めよ、そしてその断悪修善(だんな(あ)くしゅぜん)は自分からこれを行わなければならないがそれは主が私たちの内で働かれていると知らねばならない」(真のキリスト教3-2)という信仰箇条を与えられています。
悪を行わず、善を行え、は断悪修善という四文字の仏教用語でコンパクトに記されています。「修善」は伊豆にある地名となったお寺と同じ字で、善を修めなさい、行いなさいと言う意味、断悪は悪を断ちなさいということです。仏教をはじめ宗教は、断悪修善を説きます。

信じること、信仰は、私たちに与えられた信仰箇条ですが、天界の教義は、本当の信仰は私たちが教わって「信じる」という行為は、私たちの一方的行為だけではなく、同時に主からやってくると教えます。

唯一の神である主への信仰と、断悪修善に加え、新教会はさらに必要となるものがあります。
信仰や断悪修善の行いは、実は主から来ていることを知らなければならない、ということです。

これは極めて難しいことです、なぜなら見かけは自分の行為のように見えるからです。しかし、主から行為が来ていることを、信じることで、私たちには主と相互の関係が結ばれます。

主が栄化される前に、ご自身を無あるいは空の状態にされたように(真のキリスト教81)、私たちは主の生命を受けるためには、謙虚にならなければなりません。これは道徳的な薦めではなく、霊界での法です。守らなければ、天界の社会から追い出されるという、大変な目に遭います。

私たちは聖なる人として礼拝されてはならないのですが、聖なる者とならなければならない、とも命じられています。
「あなたがたは、 わたしにとって聖なる者でなければならない。
野で獣にかみ裂かれたものの肉を食べてはならない。それは犬に投げ与えなければならない。」(出 22:31)

「わたしにとって聖なる者」とは、主に導かれ、生命が善によって構成されるようになった人のことを言います。
「聖そのものである主から発する神性は、神聖そのものであるからです。」(天界の秘義9229)
主イエスキリストから発する「神的なもの」が神聖と呼ばれます。これが神聖の定義です。神聖に他の源となるもの、神聖なものは存在しません。主ご自身から神性そのものが放射されて、それを受けるに応じて、その分だけ神聖さが宿ります。それは愛と知恵です。仁愛と信仰です。天界では、主の神的人間以外の神性は認められません(天界の秘義10067:2)。

人が神聖を宿すには、無垢の状態でなければなりません。「子どものような状態は神聖です。なぜならその状態は無垢であるからです」(天界の秘義1557))。
幼ない子の表情や仕草に神聖な状態をかいまみることがあります。それは、彼らは無知であるからです。その無知とは、「自分の知識は、主の無限の知識と知性と英知にくらべれば、無知に等しい」という「無知」です。
主が栄化されたとき、この「空」ともいうべき無知・無垢の状態から栄化の状態へと(真のキリスト教81)進まれました。

自分の信仰と愛に、主の神聖さの放射を受け入れた人が、主にとっての「聖なる者」と呼ばれます。自分の行いから聖なる者、聖人であることはできません。なぜなら「その人自身のもの、プロプリウムと呼ばれるものは悪であるからです」(天界の秘義9229)。
いかに善を行おうとも、それを自分が行ったと考える瞬間、それは悪となってしまいます。善は行わなければなりませんが、それは主から来ていると信じ、思わなければなりません。もしそう考えることができれば、主と相互に結びつくことができます。そして行った善は自分のものではなく、主のものであると思えた人は「聖なる者」となることができます。その人が聖なのではありません。その人の中にある主のものが聖なのです。自分のこだわりや、思い込みは悪でしかありません。
幼い子どもも、子ども達が主のものを受け入れるだけ、聖なるものが輝き出すことになります。

マタイ福音書でも冒頭の聖句と同じ事を主は重ねて問われます。
「目の見えない者たち。ささげ物と、そのささげ物を聖なるものにする祭壇と、どちらが重要なのか。」(マタイ23:19)
神殿と祭壇は主ご自身です。金とは善で、主からの善です。捧げ物とは主からくる真理と仁愛です。(天界の秘義9229-8)
主こそ聖なる方です。そして主から来ているので、善も真理も、信仰も仁愛も聖なるものです。そしてそれを知らない、意識しない者は、眼の見えない者、愚か者と非難されます。主と私たちとの大切な相互関係が結べないため、眼が見えず愚か者と、注意されておられます。

モーセの律法において「あなたがたは、 わたしにとって聖なる者でなければならない」と求められますが、その後に警告されています。
「野で獣にかみ裂かれたものの肉を食べてはならない。」
「野で獣にかみ裂かれたもの」の「野の獣」とは、教会の善であり、これを「かみ裂く」とは偽りによって破壊することをいいます。
偽りとなってしまった信仰の善とは結ばれてはならない(天界の秘義9230)、食べて自分のものにしてはならない、と命じられています。
偽りとなってしまった「信仰の善」とは、冒とくであり、知識だけ・信仰だけに留めて、生命のものとしないことです(黙示録解説798参照)。信仰や仁愛は、本来生命のもの、実際に使い、自分のものとしなければ意味がないものです。それを知識として大切に本棚にしまっておくだけでは意味がありません。せっかく主が与えようとしている生命を台無しにしてしまいます。「ある、悪をするな」ということを自分でも納得したなら、早速その悪を止めてしまわなければならないはずです。そしてそれを習慣として、悪を考えただけでも嫌な気分になり、自分の行動から消し去るくらいになれば、それは情愛となり、はじめて自分のものとなります。十戒で禁じられたあらゆる悪を断ち、同時にそれは主が自分のうちで悪と戦っておられると知り、意識することで、聖なる者となってゆきます。

「それは犬に投げ与えなければならない。」
行わず、知識だけで、主からくる信仰と仁愛を自分のものとしないなら、信仰の善は、善でなくなり、偽りとなってしまいます。みことばの「犬」は、不潔なものを食べ、人に吠えつき、かみつこうとします。そんな情愛のことを述べています(天界の秘義9231)。知識だけに留まってしまい、偽りとなってしまった信仰の善は、信仰と仁愛に生きようとしない教会外の人、不潔な犬に与えるしかありません。

そして善と真理を自分のものにしたいと望む教会内の人には、主は、ご自分から発する聖性、愛と知恵を受け入れ、聖なる者となることを求められておられています。主は私たちと相互の関係を築き上げ、私たちが善によって造り上げられ、聖なる者となることを望んでおられます。
「あなたがたは、 わたしにとって聖なる者でなければならない」アーメン。


新改訳2017
出 22:31 あなたがたは、 わたしにとって聖なる者でなければならない。野で獣にかみ裂かれたものの肉を食べてはならない。それは犬に投げ与えなければならない。

マタイ
23:17 愚かで目の見えない者たち。黄金と、その黄金を聖なるものにする神殿と、どちらが重要なのか。
23:18 また、おまえたちは言っている。『だれでも祭壇にかけて誓うのであれば、何の義務もない。しかし、祭壇の上のささげ物にかけて誓うのであれば、果たす義務がある。』
23:19 目の見えない者たち。ささげ物と、そのささげ物を聖なるものにする祭壇と、どちらが重要なのか。」

天界の秘義9229.
「あなたは私にとって聖なる者でなければならない」は善からなっている生命の状態を意味します。これは「聖なる者」が主に導かれる者の意味から明らかです、なぜなら主から発する神性は神聖そのものであるからです。6788, 7499, 8127 (end), 8302, 8806 従ってその発散を信仰とそして愛に受ける者は聖なる者と言われます。これ以外の源から人を聖としたり、主からくるものや受け入れたもの以外のものから離れて、人にあるものを神聖としたりするのは、非常に誤っています。なぜならその人自身のものあるいは我(プロプリウム)と呼ばれるものは悪であるからです。(210, 215, 694, 874-876, 987, 1047, 4328, 5660, 5786, 8480, 8944)
人は自分の我から離れるに応じて、主はその人におられ、その分だけ聖性が宿ります(1023, 1044, 1581, 2256, 2388, 2406, 2411, 8206, 8393, 8988 (end), 9014.)


教会の冠

また私は見た。すると見よ。白い雲が起こり、その雲の上に人の子のような方が座っておられた。その頭には金の冠、手には鋭い鎌があった。(黙 14:14)

日本・アジアの新教会は、会員の老齢化・意欲の減退などの要因で、一時のような熱心な会員は少なくなっています。加えて感染症の影響によって、旧教会も含め、教会に集まることは難しくなっています。
新しい年を迎え、教会自体が再生を目指すべき時です。

著作には、新教会は「現在まで地上に存在したあらゆる教会の冠」(真のキリスト教787)とされています。地上に存在したすべての教会、それらよりも優れているはずの教会が、発展することができません。
教義が広がらないためでしょうか?

日本は、アジアの他国に比べれば、おおよその著作は翻訳され、新しい訳も次々と誕生しています。様々な関係書籍の出版が続くことを考えれば、教義を知る人も増え、それらの人々から教義を分かち合いたいという気持も、衰えてはいないように思えます。日本語と言う制約を離れれば、英語を始め、ラテン語原典をはじめ、各国語に翻訳された数え切れないほどの著作、説教はじめ研究・教育書類に、無料で自由に接触できます。真剣に読めば、読み尽くすのに、数年どころか、一生のうちに読み尽くせるかどうかさえわからないほどです。知識の上では、私たちは、恵まれた環境となりました。

しかし、教義の知識については恵まれてはいるものの、礼拝への参列者は、わずかです。若い教会員もほとんど加わらず、昔の教会員が、懐かしさを覚えて時折出席されるくらいです。教会員の老齢化は進み、教義に出会った時の新鮮さは次第に色あせてゆきます。そしてそれぞれの教義の「読者」は、独学で学んでいます。自分自身で思索を通じて、主に向き合って祈り、自ら回答を得ます。

今までの日本の新教会は、教義の翻訳があり、それを理解さえすれば、自動的に、あるいは主が力をお貸しになって新教会は普及してゆく、という思い込みがあるように思えます。しかし、これだけが「教会」でしょうか?地上に存在したどの教会よりも優れた「教会」でしょうか?何か足りない気がします。自室や図書館で静かに翻訳書を読み進め、そして同好の志が時折集まり、話し合い、情報を交換して理解を進める「教会」が、地上にかつて存在した、最古代教会や古代教会などよりも優れているといえるでしょうか?

日本の新教会といえば、月に数回、集合して、礼拝をして牧師の話を聞き、主を賛美する、そしてその後は懇親をかねて食事をしながら、様々な情報を交換する。海外から牧師が来て、時々その国の教会から善い影響、刺激を受ける。しかし、霊的な成長を促進する講座に出席して、卒業に至る方はごくわずかです。

このように、共同体としての教会も、毎週の礼拝がない、あるいは、近くに建物がないなど、様々な理由であるせいか、なかなか成長しません。しかしさほど遠くない距離にあり、時間に余裕があっても欠席するのは、さらに別の理由があるはずです。それは、教会の役割、教会における会員それぞれの役割の重要性を知らず、そして教会に魅力を感じないためだと思われます。翻訳された教義と研究などの知識は豊富にあっても、本当の意味で日本の新教会はまだ成立さえしていないのかもしれません。

教会とは、礼拝を行い、牧師の説教を聞き、讃美歌を行うだけでしょうか?あるいは自分でこつこつと教義を学び、時に集合参加する集まりでしょうか?

天界の教えの中では、これらは外的な教会・礼拝と言われています。核となる内的なものがないからです。外的なものだけの教会は、いずれ滅びます。(参照 天界の秘義1083-3)
その内的なものとは、信仰や儀式ではなく、愛と仁愛、すべて生命の源である主を大切にし、人、隣人を大切にする優しい感情を抱くことです。これが失われるなら、どんな教会であっても滅びます。最も大切なものが、欠けているからです。

天界の教義は、その教義自体が神への愛と隣人への仁愛を大切にしなさいと教えます(マタイ22:37-40)。知識ではありません。これら二つの愛より大切なものはない、と主ご自身がおっしゃっています。神への愛と隣人愛を置いて、教義自体に戻るのは、ロトの妻がふり返って塩の柱になるのと同じです。いつまでも教義自体を見つめるなら、善は滅びてしまいます(創19:26、天界の秘義2417,2453)。これはカインから始まり、主が、みことばを通じて何度も警告されていることです。人が学びだけにこだわると、自分の知性に満足するという傾向を持っているためともいえます。私たち新教会員は、著作を通じてその「黒」歴史を知っている「はず」です。そして私たちは知識の一部だけで、教義自体の正しい理解にさえ到達していないのかもしれません。

みことばは、自分より、そして世間で大切とされているもの、地位・名誉・財産より大切なものを愛しなさいと教えます。その対象は主と隣人です。そして新教会は、隣人は悪人や怠け者も含めてすべての人が隣人ではなく、それぞれ区別があり段階があることを教えます(天界の秘義2417-6)。
最大の隣人は主お一人ですが、それ以外で最も愛されなければならないのは、教会です。

愛すべき教会とは、「ジェネラルチャーチ」とか「コンベンション」とか、日本新教会とか個別の教会を指すのではありません。また個別の牧師や特定の信者を意味するのでもありません。
隣人を愛するのは、その人自身を愛するのではなく、その人にある善のためです。
区別して段階的に大切にするのは、隣人とは、善であり、役立ちであるからです。そして最も大きい善と役立ちが教会であり、そのため教会は最大の隣人とされています。教会は、来世の生命、それも永遠に続く生命を得るという、隣人の中で大切な働きをしています。しかし、役立ちのない教会は教会とはいえません。

教会は「教義上の真理をとおして導き、生活上の善をとおして、導く」働きをします。(真のキリスト教415)
ここで、注意していただきたいのは、「教義を教える」のではなく、「教義上の真理を通して」天界に導き、「生活上の善を通して」天界に導くこと、の二つが教会の役割であるということです。
教義は真理ではないか?と疑問に思われる方がいらっしゃると思います。しかし救いとなる信仰は、真理の承認であり、仁愛に反する生活を送る者には存在しません。押しつけられた真理は自己愛や世間的な価値に動かされるだけです(天界の秘義2261)。心から納得して、これは真理だと承認しなければ、天界に導くことはできません。そのため教義を理解し、「真理」として承認させ、さらに天界へと導きます。

さらに、生活上の善を通さなければ、天界に導くことはできません。概念だけで、その本質を理解できないものは生活の善とはなりません。生活の中で実行できる善を推奨する必要があります。「十戒を守りなさい」と漠然と教えるだけでは、生活の善とはならず、何が悪か、そして何が善かを具体的に教えるのでなければ天界へ導くことはできません。概念だけであれば、独力で学ぶこともできます。教会で教えるのが概念だけに留まるなら、あまり意味がありません。そして日々のそれぞれの生活の中で出会う事象に変換して、天界へ教え導くことが教会の役割です。

天界の天使の役割を学べば、さらに教会の役割がわかります。
「ある社会から人間のもとに遣わされる天使は、 かれらを保護し、 悪い情愛や思いから引き離し、 人が自由に受けいれる限りよい情愛を鼓舞し、できるかぎり悪念を取り除いて、人のわざと行いを導くよう努めます。 天使が人間につきそっているときは、人間の情愛の中に宿っているようなものです」 (天界と地獄391アルカナ訳)。

情愛の中に宿り、悪いものと善いものを自分のものとし、軽蔑などの悪い情愛をまず遠ざけるよう、互いに導き合うのが教会です。

例えば、コロナウイルスに罹患した方がいます。その方達を、遠ざけ、拒み「かかったのは自分のせいだ」と非難することもできます。しかし、主は歓ばれません。彼らの中には霊的な悪と意志がないからです。民族間の互いの憎悪もそうです。私たちは、主の王国の一員のはずです。特段の悪が無い限り、まずは善い方に解釈し、憎悪自体が悪だと知り、避けるよう導き合います。そして共に同じ方向、主のみこころの実現に向かって、心を開き、共になにをすべきか考え合って実行することが大切です。

天界とは主の王国です。主が支配されています。主のみこころが第一とならねばなりません。そして教会は地上の主の王国です。(天界の秘義2162-3, 2853-3, 2996, 2998, 3624-3629, 3636-3643, 3741-3745, 4625)私たちは地上の主の王国となるべく、天界のように、メンバーのそれぞれが同じ方向に向かって働く共同体となることが教会の目的です。人と主との間に、何らかの関係がなければ、永遠に「関係」は結べません。『わたしはおまえたちを全く知らない。不法を行う者たち、わたしから離れて行け。』(マタイ7:23)と、追い払われます。

「相互に」協力し合う関係が求められています(真のキリスト教371)。主が望まれることを、私たちが行うという関係です。おそらく主はこうすればお歓びになることを私たちが進んで行います。身体の内臓や四肢にそれぞれ役割があるように、自分達の役割を果たしてゆきます。一人だけでは大きな役割を果たすことができません。主が求めて居られるのは、一人や二人だけの救済だけではありません。人類全体の救済です。人類全体の救済という大きな役割を果たすためには、私たちもそれぞれ一人だけでは、何もできません。天使の社会のような霊的共同体とはいえません。これが新教会に与えられた役割です。

教会外の人、どう生きればわからない人、何故わたしたちは生きているのか、何のために生きているのかを知らない人には、私たちは隣人のため、他人のために生きていて、そのために私たちは生まれていることを示唆します。ただし説きつけるのではありません。
主を知る教会内の人には、イエス・キリストが今、現在も、私たちの王国の王であり、主が生きて私たちすべてを見られておられることを知らせます。そしてすべての生命は主から来ていることも伝えます。

新教会が過去すべての教会に冠とされるのは、私たちが、主を人として観て、強く結びついているからです。それは頭の中ではなく、愛から出る情愛の中で、主と結びついているからです。私たちは主イエス・キリストと、いわば、眼と眼を合わせて、その御心を知ります。主の眼は、「隣人に優しくしなさい、困っていれば、何ができるか考えてあげなさい、少なくとも彼らの善を妨げず、害したりせずに」と優しく語りかけておられまし。そして手を広げ、私たちすべてを腕の中に迎え入れようとされています。(真のキリスト教787)

もちろん主から眼をそらし、言い訳しながら、自分のほうを見ることができます。おそらく言い訳はいくらでも湧き出てくるはずです。全面的に地獄が応援するからです。
しかし、主に近づき、その御心を行うこともできます。新教会員として、主の王国の一員として、主の身体の一部として、働くことができます。これを行うことは、新教会員としての特権です。主の王国のために働くという特権です。天界の天使はこれを特権として歓びます。彼らの歓びが役立ちにあるからです。また、新教会と名乗るなら、それは義務ともなります。人である主の御心を知ったからです。

主の王国の一員として、主の教会の一員として、互いに何をすべきか、何を選択すべきか、考えましょう。
主の頭には金の冠があります。それは誰をも拒まない愛です。神的愛です。
しかし神的真理の面での主は、「手には鋭い鎌」を持たれておられます(黙 14:14)。これは分離のための鎌です。善は善に、悪は悪に集まるのがその人にとっては幸せであるからです。善から悪を分離するための慈悲の鎌です。

神的愛である、主は決して私たちを裁かれません(黙示録解説907)。裁くのは、私たち自身の選択です。主の話されたことばに応じて私たちは選択し、その選択によって私たちは善か悪にまとめられます。
新年を迎え、私たちのそれぞれが、善と真理を選択して、善き新教会の働きと役立ちができるよう祈ります。
「わたしを拒み、わたしのことばを受け入れない者には、その人をさばくものがあります。わたしが話したことば、それが、終わりの日にその人をさばきます。」(ヨハネ12:48)
新教会の裁きとは、教会としてのまとまりと役立ちの選択です。
アーメン。


ダニエル書(新改訳2017)
7:1 バビロンの王ベルシャツァルの元年に、ダニエルは寝床で、ある夢と、頭に浮かぶ幻を見た。それからその夢を書き記し、事の次第を述べた。
・・
7:9 私が見ていると、やがていくつかの御座が備えられ、『年を経た方』が座に着かれた。その衣は雪のように白く、頭髪は混じりけのない羊の毛のよう。御座は火の炎、その車輪は燃える火で、
7:10 火の流れがこの方の前から出ていた。幾千もの者がこの方に仕え、幾万もの者がその前に立っていた。さばきが始まり、いくつかの文書が開かれた。
・・
7:13 私がまた、夜の幻を見ていると、見よ、人の子のような方が天の雲とともに来られた。その方は『年を経た方』のもとに進み、その前に導かれた。
7:14 この方に、主権と栄誉と国が与えられ、諸民族、諸国民、諸言語の者たちはみな、この方に仕えることになった。その主権は永遠の主権で、過ぎ去ることがなく、その国は滅びることがない。

ヨハネ福音書
12:47 だれか、わたしのことばを聞いてそれを守らない者がいても、わたしはその人をさばきません。わたしが来たのは世をさばくためではなく、世を救うためだからです。
12:48 わたしを拒み、わたしのことばを受け入れない者には、その人をさばくものがあります。わたしが話したことば、それが、終わりの日にその人をさばきます。

真のキリスト教(アルカナ訳)
787
この新しい教会(新教会)こそ、現在まで地上に存在したあらゆる教会の冠です。そのわけは、霊魂が肉体の中に存在しているように、見えない神が見える神のうちにましまし、その見える唯一の神を礼拝するためです。こうして初めて神と人間との結びつきが可能になります。
そのわけは、人は自然的であって、自然的に物事を考えます。結びつきが生じるのは、思考の中ですが、それも人間の思考のもつ愛、愛から出る情愛の中です。それが可能になるのは、人が神を「人間 Homo 」として考えるときです。一方、見えない神の場合、その結びつきは、視界がはてしない宇宙にさまよい、その限界が見えないのに似ています。あるいは大洋のただ中で、視界が空や海にさまよい、やがてとらえ所を失います。
それにたいし、見える神との結びつきの場合、空や海に人間が見え、その人が手をひろげ、自分の腕に迎え入れようとしているのに似ています。神が人と結びつくのは、万事、神と人とのあいだの相補的なものであるはずで、このような相補的結びつきは、見える神と人間とのあいだでなくては、あり得ません。

疫病
「外には剣、内には疫病と飢饉。野にいる者は剣で死に、町にいる者を飢饉と疫病が滅ぼし尽くす。」(エゼキエル 7:15)

細菌やウイルスなどの病原体が、人体に侵入し、増殖をはじめることを感染といいます。
そして、この増殖の過程で病原体が出す毒性が、様々な病的な症状を引き起こし、感染症と呼ばれます。
伝染性を持つ感染症が流行すれば、疫病といわれます。

現在は、明確な治療方法がない疫病が全世界に広がり、パンデミックと言われています。世界の歴史では、過去何度も疫病の大規模な流行がありました。14世紀に起こったペスト、黒死病によって正確さは欠きますが、当時のヨーロッパ人口の半分から三分の二に当たる人が亡くなったと言います。

現状のパンデミックは当時に比べれば致死率は小さいのですが、不安と恐れと不正確な情報による混乱、いわれのない差別、日常生活の混乱は、程度の差はあれ中世のペスト流行と同じかもしれません。過去のペストの大流行は三度あったといわれ、東ローマ帝国で6世紀から8世紀末に起こり人口が半減し、上述のヨーロッパで14世紀から17世紀末、そして中国からインドで起こった19世紀から近現代です。

疫病はペストだけではありません。古くはハンセン病、コレラ、結核、チフス、梅毒と、病原体を変え人類を襲います。病原体を特定し、それに対する対策を立てても、今回の疫病のように、いわば手を変え品を変え、人類とその社会や生活に計り知れない影響を与えます。中世のペストでどれだけ聖職者や信仰深い方々が亡くなったかを考えれば、利己的な願いではなく、深い主の摂理への信頼がなければ、この苦難は容易に乗り切れません。
「主に信頼する者は主から絶えず善を受ける。何が起ころうとも、それが有益に見えようが、そうでないように見えても、それは善である、なぜなら永遠の幸福に資する手段となるから。」(天界の秘義 8480)

今起こっている疫病パンデミックに対しても、過大視せず、そして過小にも考えず、冷静に対応しなければなりません。主に信頼しつつ、合理的見地から、周りの噂や、誤情報にも左右されず、自分の抵抗力を高め、長期戦に臨むしかありません。自分だけ、自分の家族だけは助かりたいという祈りをしても、利己的な願いにしかすぎません。利己的な愛は神の愛とは根本的に矛盾します。矛盾しないためには、隣人を助けつつ、主の摂理に信頼して、対策をたてることが求められます。

人類を苦しめる、病や疫病は、どこから来るのでしょうか?その人の遺伝のせいでしょうか?神様の罰でしょうか?

「人類の病気にはすべて、霊界との相応があります。霊界に相応を持たないものは、自然界では何一つないからです。」(天界の秘義5711)
霊界とは、恐ろしげな世界ではありません。霊界と自然界とは、いわば原因と結果の関係にある世界です。原因がなく生まれる結果がないように、すべて自然界の事物は、霊界に原因を持ちます。
この原因と結果の関係を「相応」と呼びます。
「霊界とは天界と地獄です。・・そして病気は、天界とは相応がなく、地獄と相応を持っています」(天界の秘義5712)。

霊界はすべて自然界に生まれ、霊界に移行した人から出来ています。純粋に霊界に生まれた霊は存在せず、自然界は霊界の苗床のような存在です。しかし自然界の要素である時間と空間が、霊界にはありません。そのため自然界の過去に生きた人は、物質的なものを脱ぎ去り、すべて霊界にいます。

「病気が地獄にいる者たちと相応するのは、病気は、邪悪な願望と、低級な心の欲念との間に相応関係をもっているからです。そしてこれらの願望と欲念が病気の源です。その源とは、不摂生、自己満足、とことん肉体的な快楽、そして嫉妬心、嫌悪、復讐心、わいせつな心などで、これらは人の内部を破壊します。」(天界の秘義5712)
これらの地獄の霊のもつ低級な欲念と願望が、病の源となっています。この世で不潔極まりない欲念や願望を発していた人たちは、あの世にいってからも、同じような欲念を出して、この世に注ぎ込んでいます。

ただし、地獄がこの世に影響を与えるのは、限られた範囲です。地上の私たちの肉体や内部組織、四肢に直接影響するのは禁じられています。私たちを守るため、主が部分的に相応を絶たれたわけです。地獄が影響できるのは、自然界の人間の悪念や、偽りの思考部分だけです。いわゆる霊的関係だけであり、物理的影響はありません。
ただし、自然界の人間が病にかかった時、悪念や偽りの思考を超えて影響することができます。同種の相応する部分に影響します。
これが病の源です。(天界の秘義5713参照) 両者が結びつきを強く求めるため、相応が復活したのかもしれません。

通常は病が発しても、人の持つ免疫機能が働きます。しかし免疫機能の源は、人間が本来持つもののように言われますが、実は天界です。そして同じように、これを阻害するものも、地獄の働きです。
「天界は、すべてあらゆる対象につながりを与え、害悪から守ろうとしますが、地獄は破壊し、互いに分断しようとします。」(同上)
健康な人体に、病原体が入ってきたらこれを認識して、病原体が入ってきたという情報を関係する器官に与え、これを除外する細胞を派遣して人体を守ろうとします。私たちが持つ免疫機能で、自然に備わっているものと言われています。しかし、分断が起こると、病原体を害悪と判断せず、この害悪であるという情報はどこにも伝わりません。そのため害悪を除去する機能が全く機能しません。

これを人体から離れて、世界の政治の現状になぞらえるなら、連想できることが多数あります。
自国のみの優先を説く為政者や、それを支える人たち。一方的に別の世代を攻撃するだけの運動。多様性、すなわち自己を受け入れるよう主張する運動。個別の運動の良否の判断はしませんが、少なくとも世界に対立と分断が起こっています。協調とつながりがあり、それぞれに大切な役割があることを忘れて、分断と破壊に向かって、世界の趨勢は、進み始めています。分断が進めば、つながりは失われてしまい、それぞれの役立ちが失われて、全体の破壊が進みます。

天界からの教えのうちにも、「分断して統治せよ」を行動原理とする霊たちが描かれています。彼らの望みは、すべてを支配することです。彼らの前では他の霊は生気を奪われ、麻痺状態が起こり、数多くの病を引き起こして鈍感となってしまいます(参考天界の秘義5718)。これも脳の病気を引き起こす源の一つです。

人体であれ、政治であれ、この世で自然に単独で存在できるものはありません。よく使われる「自然」という言葉は、人の深く考えようとする思考さえ奪い、自然的なものに留めてしまう場合があります。自然の働き、自然の流れに逆らう、などです。本来、その原因、深い原因を考えるため、人には合理性という能力が与えられています。これは、主が人間すべてに与えられた能力です。ところが現代では、場当たり的な対処療法だけが優先される傾向が強くなっています。その風潮が強まれば、より悪いことが起こります。自分だけを優先するのが自己愛であれば、自分の立場を守るため、とりあえずとりつくうのは、世間愛と言えます。そして自己愛と世間愛は、地獄の愛、地獄そのものです。隣人愛と主への愛を本質とする天界と全く対立する世界です。

聖書、神のみことばは、相応で書かれています。エゼキエル書7章は、最後の審判のことが書かれています。(預言者と詩編130)
最後の審判とは、教会が教会として機能しなくなったと判断されることであり、これは組織や教義だけではなく個々人の中にある教会についても同じです。地獄と天界があること、人が死んで霊界で永遠に生きるなど、基本的なことを教えるはずの教会が、その知識を失い、全く機能しなくなっています。

本来、教会とは、地上の主の王国です。主の支配、戒めに従い、天界の天使となるため人は悔い改めから改良・再生への道を歩みます。主人公であるはずの主を忘れ、嫌い、別の対象を偶像として祀り、隣人を愛するはずの教義を変え、自分とその仲間だけを愛するようになれば人は地獄に向かいます。そして、その愛が永遠に固まってしまう時、主によって最後の審判が下されます。

エゼキエル7章の表現は、
「今、間もなく、わたしは憤りをあなたに注ぎ、わたしの怒りをあなたに出し尽くす。あなたの生き方のとおりにあなたをさばき、あなたのすべての忌み嫌うべきわざに報いる。わたしはあわれみをかけない。惜しまない。」(7:8,9)
熾烈を極める表現です。それは自己愛と世間愛に固まってしまった者に、隣人愛と主への愛を基調とする天界に入ることは、彼らにとっての「地獄」でしかないため、強い表現で教会の終焉が預言されています。自己愛と世間愛を好み、他の何も望まない者にとっては地獄が、最高の場所であり、隔離されなければ、周りに害毒を与えるだけの存在であるからです。

「外には剣、内には疫病と飢饉。野にいる者は剣で死に、町にいる者を飢饉と疫病が滅ぼし尽くす。」7:15
「剣とは、真理の荒廃と虚偽の断罪です。飢饉と疫病は、善の荒廃と悪の断罪です。剣は外と言われ、飢餓と疫病が内とされたのは、真理の荒廃は外にありますが、善の荒廃は内に起こるためです。しかし、人が虚偽を使って守られている悪に従って生きるときは、破滅は「町にいる者を飢饉と疫病が滅ぼし尽くす。」で意味されます。(天界の秘義7102-4)

エゼキエル書のこの部分は、剣による戦争と、疫病と飢饉が起こることを預言しているのではなく、善と真理が荒廃して、悪と虚偽によって台無しにされ、教会が役に立たなくなることが預言されています。すなわち地上の天界である教会の破滅の預言です。

そしてルカ福音書の次の句も、教会の荒廃と最後の審判が言われています。
「民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり、大きな地震があり、方々に飢饉や疫病が起こります。」(21:10,11)
文字の上では、世の中に現れる自然現象や争いを言っているようですが、そうではありません。

ここでいう「疫病」は、偽りによって真理が奪われ、悪によって善が奪われ、これらの剥奪によって霊的生命が奪われることをいいます(黙示録解説386-7参照)。
霊的生命とは、例えば道徳的な生き方をしながらも、その元となる愛や仁愛が無い生命、生き方です。外面だけ道徳的な生き方ですが、心から相手のためを思って行うのでなければ、形だけの生き方となります。相手のためのことなど、どうでもいい、とりあえず自分の行動が後ろ指をさされなければいいという外面だけの行動は霊的生命を欠きます。相手のためを考えるという思いが無くなると、言葉の定義や範囲にこだわるようになり、こうだ、ああだと言い争い、本来の趣旨が失われる場合が出てきます。例外や抜け道はいくらでも現れて、道徳はその「霊的生命」を失い、空っぽな文字となってしまいます。

教会が荒廃して、最後の時を迎えるとは、信仰の中に、相手への思いやりや愛がなくなるときです。
教条や道徳が並べたてられても、その中に、相手への思いやりが失われれば、生命はありません。
「最後の時に滅び行く信仰とは、他でもない仁愛が意味されています。相手への思いやりに基づく信仰以外には、どんな信仰もありえません。」(天界の秘義1843-3)

教会を構成する善と真理の知識が失われ、堕落と腐敗が進めば、あらゆる厄災が起こり始め最後には教会は滅んでしまいます。これを阻止するため、「いつも目を覚まして祈っていなさい。」(21:36)と警告されます。目を覚ますとは、霊的生命を受けなさい、本来の目的に目覚めなさい、という意味です。
信仰や道徳のもとなる、相手や社会への思いやり、愛に気づきなさい。もっと深く考えて、眠ってないで、真の意味に気づきなさい、と警告されています。
「いつも祈っていなさい」とは、自分を整えその心構えをしなさい、ということです(黙示録解説 187:5)。

疫病の大流行の中で、目先のことに心を奪われ、恐怖の中に生きるよりも、本来の生き方とは何か、本物の生命とは何かを考え、それを実際に生きようとすることで、本物の生命、霊的生命を受けます。
すなわち、相手への思いやりと愛が大切であることに、気づき、その心構えを常に持ち、隣人のために働きます。
さらにその源である主の愛に気づけば、主の摂理に深く信頼することが可能となります。そうすれば、地上の天界である教会にも相応が回復し、天界の影響力が強くなり、免疫力も働くはずです。
「いつも目を覚まして祈っていなさい。」(21:36) アーメン 

新改訳2017エゼキエル
7:1 次のような【主】のことばが私にあった。
7:2 「人の子よ、あなたは言え。『イスラエルの地に対して【神】である主はこう言われる。終わりだ。終わりが来た。この国の四隅にまで。
7:3 今、あなたに終わりが臨む。わたしは怒りをあなたのうちに送り、あなたの生き方にしたがってあなたをさばき、あなたのすべての忌み嫌うべきわざに報いる。
7:4 わたしはあなたにあわれみをかけない。わたしはあなたを惜しまない。忌み嫌うべきことが、あなたの中にあるうちに、わたしはあなたの行いをあなたの上に返す。そのときあなたがたは、わたしが【主】であることを知る。
・・・
7:14 ラッパが吹き鳴らされ、すべての準備ができても、戦いに行く者はいない。わたしの燃える怒りが群衆すべてに臨むからだ。
7:15 外には剣、内には疫病と飢饉。野にいる者は剣で死に、町にいる者を飢饉と疫病が滅ぼし尽くす。

【新改訳2017】
ルカによる福音書
21:8 イエスは言われた。「惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名乗る者が大勢現れて、『私こそ、その者だ』とか『時は近づいた』とか言います。そんな人たちの後について行ってはいけません。
21:9 戦争や暴動のことを聞いても、恐れてはいけません。まず、それらのことが必ず起こりますが、終わりはすぐには来ないからです。」
21:10 それから、イエスは彼らに言われた。「民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり、
21:11 大きな地震があり、方々に飢饉や疫病が起こり、恐ろしい光景や天からの大きなしるしが現れます。
21:12 しかし、これらのことすべてが起こる前に、人々はあなたがたに手をかけて迫害し、会堂や牢に引き渡し、わたしの名のために、あなたがたを王たちや総督たちの前に引き出します。
21:13 それは、あなたがたにとって証しをする機会となります。・・・・
21:36 しかし、あなたがたは、必ず起こるこれらすべてのことから逃れて、人の子の前に立つことができるように、いつも目を覚まして祈っていなさい。」

黙示録解説734[24]
「わたしの名を名乗る者が大勢現れて、『私こそ、その者だ』とか『時は近づいた』とか言います。そんな人たちの後について行ってはいけません。戦争や暴動のことを聞いても、恐れてはいけません。・・民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり、大きな地震があり、方々に飢饉や疫病が起こります。」(マタイ24:5-7; マルコ13:6-8; ルカ21:8-11).
これは主が世の終焉について弟子達に語ったことであり、教会の最後の状態を意味することが、この章に描かれています。
みことばの真理と善の継続的な曲解と虚偽化が行われ、最後には偽りと悪以外に何も残らなくなります。
「主の名によってきて、自分をキリストと呼び、多くの人を迷わす」とは、これが神的真理であるといいながらやってきますが、しかしそれは真理を虚偽化したものであり、それはもはや虚偽としかいえません。「キリスト」とは神的真理に関しての主のことですが、ここでは反対の意味で、虚偽化された神的真理です。「戦争と戦争の噂の話を聞き」は、真理に対して論争と争いがあり、その結果虚偽とされます。「民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり」は、悪は別の悪と戦い、虚偽は別の虚偽と戦います、なぜなら悪は悪同士の中で、虚偽は虚偽同士の中で決して意見がまとまらないからです。これは教会がなぜ分割され、幾多の異端が何故起こるかを物語ます。民族は悪にいる者を意味し、国は虚偽にいる者をいい、教会を構成しています。
「飢饉や疫病と地震が起こる」とは、もはや真理と善の知識は全く残らず、その教会の状態は、腐敗した虚偽のため変化します。飢饉とは真理と善の知識の欠如が、疫病は虚偽による腐敗が、地震によって教会の変化が意味されます。